Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ くによし うたがわ 歌川 国芳浮世絵師名一覧
〔寛政9年(1797)11月15日 ~ 文久元年(1961)3月5日・65歳〕
                         〈忌日、三月四日の説あり〉         ☆ 文化十年(1813)     ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
    「文化十年刊作者画工番付断片」      〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉     ☆ 文化十一年(1814)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文化十一年刊)※角書は省略    歌川国芳画『御無事忠臣蔵』歌川国芳画 竹塚東子作 岩戸屋喜三郎板〔目録DB〕     ☆ 文化十二年(1815)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文化十二年刊)※角書は省略    歌川国芳画『お竹大日如来稚絵解』歌川国芳画 十返舎一九作〔目録DB〕     ◯「読本年表」(〔江戸読本〕は「江戸読本書目年表稿(文化期)」)   ◇読本(文化十二年刊)※角書は省略    歌川国芳画『菖蒲草檐五月雨』歌川國芳画 昇亭岐山作〔江戸読本〕     ◯「咄本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇咄本(文化十二年刊)     歌川国芳画『春の寿』歌川国芳画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    〈寛政十一年刊の咄本『戯聞塩梅余史』(子興画・曲亭馬琴作)の改題本。刊年未詳の咄本『再咲一霄譚』は本書の改     題本〉     ☆ 文化十三年(1816)    ◯『蝶鵆曽我俤』下編(合巻・山東京伝作・歌川国直画・歌川国芳画・河内屋源七板)   〝右五張 歌川国芳画〟    〈下編最終頁にあり。前十丁分は国直画。上編は国貞画。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」所収本より〉     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(文化十三年刊)※角書は省略    歌川国芳画『蝶鵆曽我俤』(画)歌川国貞・柳烟楼歌川国直・歌川国芳画(著)山東京伝 河内屋源七板〔東大〕     ☆ 文化十四年(1817)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文化十四年刊)※角書は省略    歌川国芳画『娘歌嘉留多』歌川国芳画 橋本徳瓶作〔目録DB〕     ☆ 文化年間(1804~1818)     ◯『歌舞伎年表』④98(伊原敏郎著・昭和三十四年刊)   (「明和三年(1766)」の項)   〝今年、照降丁角へ「翁せんべい」の見世を出せしは、羽左衞門家橘の名目也。翁の式三番叟を鳥居清信    が画き、かべに張付ありしに、文化三年類焼して、其の後国芳が画き、先規の通り張付ありしが、此見    世慶応年間家絶たり〟    〈国芳が翁の式三番叟を画いたのは、文化三年(1806)の類焼後間もなくのことであろうか。慶応年間、見世が絶えたと     あるからそれまで張ってあったとすると、かれこれ六十年にも及ぶことになる〉      ☆ 文政九年(1826)      ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政九年刊)    歌川国芳画『山王祭之図』一軸 歌川国芳画〔目録DB〕     ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政九年刊)    歌川国芳画『絵本おつもり盃』三冊 国芳画〔目録DB〕     ☆ 文政十一年(1828)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政十一年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『ぬしや誰問白藤』(画)歌川国芳・歌川国貞(著)市川三升・五柳亭徳升序 佐野屋喜兵衛板〔東大〕                (備考、巻末の画工表示は「一勇斎国芳画」)    『継子立波の濡衣』 国芳画 恋川春町(二世)〔目録DB〕     ◯『増補浮世絵類考』文政十一年八月(斎藤月岑編・天保十五年序)   (「初代歌川豊国」の項)   「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる
    「豊国筆塚碑」     〝国芳社中 芳春 芳信 芳房 芳清 芳影 芳勝 芳忠 芳富〟    〈初代豊国門人〉      ☆ 文政十二年(1829)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文政十二年刊)    歌川国芳画『神事行燈』二編 一冊 江戸国芳画 花岡外史序 紅梅園板〔漆山年表〕      ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文政十二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『雪明常盤松』四編(画)歌川国芳 表紙五雲亭貞秀 山口屋藤兵衛板〔東大〕    『稗史水滸伝』初-六編 歌川国芳画 山東京山作 〔早大〕    『滑稽しつこなし』前編 歌川国丸画 後編 歌川国芳画 十返舎一九作〔目録DB〕    『敵討幻雙紙』  歌川国芳画 式亭三馬作〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(文政十二年刊)    歌川国芳画    『◎妓(スイコ)伝』三冊 一妙開程由(国芳)画 大珎房狩鷹(国芳)作〔目録DB〕              (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『両個振袖』  三冊 一妙開程由画 大珎房小節狩鷹作〔目録DB〕              (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』)   ◇狂歌(文政年間刊)    歌川国芳画『狂歌一代男』一冊 国芳画 梅屋鶴子撰 本町連〔狂歌書目〕     ☆ 天保元年(文政十三年・1830)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保元年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『国字水滸伝』七・八編 歌川国芳画 柳亭種彦作〔書目年表〕    『怪談波良鼓』歌川国芳画 五柳亭徳升作    〔目録DB〕     ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(天保元年刊)※角書は省略    歌川国芳画『十杉伝』初編 国安・国芳・国丸画 為永春水作〔目録DB〕     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保元年刊)    歌川国芳画『昔語土手編笠』歌川国芳画 浮世山人作〔目録DB〕   ◇滑稽本(天保元年刊)    歌川国芳画『御影参宮三宝荒神』三冊 歌川国芳画 滝野登鯉作〔目録DB〕     ☆ 天保初年(1830~)     ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟     <天保初年 見世物 子供足曲持 西両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「(三童子)七歳上乗浪花亀吉・九歳曲持浪花松之助・十二歳足芸浪花馬吉」錦絵    署名「>一勇斎国芳画」板元未詳    ☆ 天保二年(1831)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保二年刊)    歌川国芳画『魚鑑』二冊 翠渓・一勇斎国芳筆等画 櫟涯武井周作 須原屋茂兵衛板〔漆山年表〕     ◯「合巻年表」(〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『月廼夜神楽』二編 国貞?国芳?英泉? 市川三升作・五柳亭徳升代作〔目録DB〕    『矢猛心兵交』後編 歌川国芳画 五柳亭徳升作 鶴屋喜右衛門板〔早大〕              (『武勇水陸伝』の続編)    『国字水滸伝』九編 歌川国芳画 柳亭種彦訳〔書目年表〕     ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(天保二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『柳巷説話』一勇斎国芳画 曲亭馬琴作   〔目録DB〕〈文化四年刊の再版〉    『十杉伝』 二編 国芳・英泉画 為永春水作〔目録DB〕      ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔白倉〕は『絵入春画艶本目録』)   ◇艶本(天保二年刊)    歌川国直画    『春の若草』色摺 半紙本「東武 嬌亭淫水著編」一冊〔国文研・艶本〕    歌川国芳画    『春色六玉川』三冊 一妙開程よし(国芳)画 嬌訓亭(為永春水)作 天保二序〔目録DB〕      『当世臥竜梅』二帖 一妙開程よし画 天保二頃刊〔目録DB〕      (注記「改題本に「春色梅っくらべ」あり、日本艶本目録(未定稿)による」)    『筑紫松藤柵』五冊 一妙開程よし画 天保二頃刊〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『【当世】吾妻婦理』色摺 半紙本 三冊「一妙開程よし」好色山人作 天保二年 本文題「戯場眺望」〔白倉〕     (白倉注「上巻見返しに「【当世】吾妻婦理 三冊 一名芝居見物 好色山人著、程よし画図」とある。)      好色山人は花笠文京。この続編が『恋のかけはし』(柳川重信画)である)     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇読本(天保二年刊)    歌川国芳画『柳巷話説』一勇斎国芳画 曲亭馬琴作    〈「日本古典籍総合目録」は成立年を文化五年刊とするが、高木元氏の『江戸読本の研究』「第一章 江戸読本の形成」     「第三節 江戸読本書目年表稿」によると、文化五年の項目に『椀久松山柳巷話説/括頭巾縮緬帋衣』曲亭馬琴作・歌川     豊廣画とある。さらに、文政十四年(ママ・天保二年(1831)か)の再版本として『碗久松山柳巷話説』をあげ、一勇齋国芳     画としている〉   ◇滑稽本(天保二年刊)    歌川国芳画『質屋雑談』三冊 歌川国芳画 滝亭鯉丈作〔目録DB〕   ◇人情本(天保二年刊)    歌川国芳画『花街桜』歌川国芳画 鼻山人作     ◯「天保二年辛卯日記」②335 四月 九日(『馬琴日記』第二巻)    〝清右衛門来ル。過日申付候八犬伝にしき絵三枚ヅヽ弐通り、つるやにてかひ取、持参〟    〈この八犬伝の錦絵、三枚づつ二通、鶴屋にて買い取るのだが、誰の八犬伝であろうか。四月十四日付、殿村篠斎宛書     翰によると、歌川国芳画『本朝水滸伝豪傑八百人一個』所収の「芳流閣」(竪二枚続き)と「対牛楼の場」のようで     ある。四月二十五日の記事を見ると、この錦絵のうち三枚一通は伊勢松坂の殿村篠斎に送っている。画像は上記書翰     参照〉     ◯『馬琴書翰集成』②18 天保二年(1831)四月十四日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-3)   〝「八犬伝のにしき絵」、此節三枚出来いたし候。信乃・見八くみ打の二枚つゞきと、毛乃仇討の処也。    画は国よしに御座候。八人追々に揃行候よし。右三枚、御めにかけ可申と存、先以かひ入置申候。これ    も『水滸後伝』返上の節、一処に上ゲ可申候。よみ本をにしき絵にいたし候事、古今未曾有に候得ば、    みな/\きもをつぶし申候〟    〈この歌川国芳画「八犬伝のにしき絵」とは両国加賀屋の板。(八月二十八日、殿村宛書翰参照)とすると、『本朝水     滸伝豪傑八百人一個』の中に収められたものであろう。犬塚信乃と犬飼見八の竪二枚続き「芳流閣」の場面と、犬阪     毛野、父の仇馬加常武を討つ「対牛楼の場」である。馬琴は、題材を読本から取った古今未曾有の錦絵だと得意化で     ある〉     ◯『馬琴書翰集成』②22 天保二年(1831)四月二十六日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-4)   〝「八犬伝のにしき絵」之事、先便申上候。此間、二通りかひ取置候間、一通りづゝ三枚進上仕候。錦画    ハその節のミにて、後年ニ至り候てハ、無之品ニ御座候。あとも追々出板可致候。よミ本の人物を錦画    ニ出し候事、古今未曾有と申迄之話柄ニ御座候〟    〈錦画は「その節のミ」当座のものという意識は馬琴に限らず一般のものであったに違いない〉     ◯「天保二年辛卯日記」②379 六月廿七日(『馬琴日記』第二巻)   〝西村や与八、為暑中見舞、来ル(中略)八犬伝人物大錦画ニ彫刻のよしにて、右筆工書入稿案、被頼之。    国芳画にて、尚下画のまゝ也。先づ預り置申候〟    〈この八犬伝人物大錦画とは「曲亭翁精著八犬士随一」八枚組。ただ、作品を見ると、画題の署名は馬琴ではなく、櫟     亭琴魚(殿村精吉・殿村篠斎の妻の弟)となっている。天保七年(1836)六月二十一日、小津桂窓宛書簡によると〝己     が著を、みづから賛いたし候もいかゞニ付、琴魚子の代作にいたし置候〟とある。なお、この出版は天保七年である。     同上書簡に〝西村や、近来身上向むつかしく、しバらく店の戸をさしやり(略)右錦画も、板下のまゝにてうち捨置     候〟と板元西村屋与八が手元不如意のため出板できなかったのである〉     ◯『馬琴書翰集成』②51 天保二年(1831)八月二十六日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-8)   〝「八犬伝の錦画」、いぬる比致進上候ハ、板元両国のかゞ屋に御座候。然処、西村与八が又『八犬伝』    八枚つゞきのにしき絵ほり立候よしニて、七月中、右下画を持参いたし、是へ八士の略伝を書くれ候様、    たのまれ候。ヶ様之もの、外より出候てハ、なか/\におかしからず。何分外人へたのミ候様申候て、    辞し候へども、承引致し不申候。依之、琴魚様御名を借用いたし、文ハ老拙綴り候て、作名は琴魚様ニ    いたし可申候間、それニて納得いたし候様、申示し候へバ、やう/\致承引候。尤、来春のうり物ニい    たし候間、九月中迄ニ出来候へバよろしきよし、又四五日前、板元与八参りテ申候。左候へバ、尚余日    も有之、琴魚様、御なぐさミに作文被成候てハいかゞ可有之哉。それも、御病中御面倒ニ思召候ハヾ、    老拙代作可致候。    画ハ、      房八親兵衛を背負ひ、使者二人を、一人ハ腕をねぢあげ、一人をバふみたふし居候図 一枚      毛乃女の衣裳、ふり袖にて雑兵ト血戦の図 一枚      【道節 壮介】やみ仕合、二枚つヾき      小文吾前髪、相撲とりの出立ニて、小ずまうの片頬をはりまぐる図      【信乃 源八】芳流閣の大刀打、二枚つゞき    右八枚ニ御座候。長キ事ハかゝれず、八犬士の略をかなまじりに、だれニもわかるやうニ、約ニ書キ候    へバよろしく御座候。此義、琴魚様へ御伝声可被成下候。扨此画へ、古人嵓軒翁の八犬士の御歌を加入    いたし候てハ、いかゞ可有之哉。御追薦のひとつニも思召候ハヾ、書加へ可申候。然ながら、錦画の事    なれば、あらずもがなと思召候ハヾ、書加へ申まじく候。此両条ハ、御近便ニ一筆、いづれとも御しら    せ可被下候。右の貴答ニよりて、いか様ニも取斗可申候。これハ当暮、八枚一度ニうり出し候よしニ御    座候〟    〈加賀屋板「八犬伝の錦画」とは国芳画『本朝水滸伝豪傑八百人一個』三図。(四月十四日付書翰参照)西村与八の     『八犬伝』八枚続きとは同じく国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』のこと。櫟亭琴魚とは殿村精吉。狂名、鈴留森近。     篠斎の妻の弟。文化五年正月十八日以来の親交。十一月二十一日、京都にて逝去するが、この時点では存命。嵓軒翁     は殿村万蔵。号を常久、巌軒、蟹麿。篠斎の異母兄弟。文政十三年(1830)七月没。篠斎は琴魚の代作と嵓軒翁の歌を     載せることを結局依頼した。「これハ当暮、八枚一度ニうり出し候よし」とあるが、西村屋の経営が難しくなり、実     際に出版されるのは、ずっと後年の天保七年に四枚、翌八年に四枚という難産であった。『曲亭翁精著八犬士随一』     の画像は日記の六月廿七日にある〉     ◯「天保二年辛卯日記」②478 十一月八日(『馬琴日記』第二巻)   〝山口や藤兵衛来ル(中略)殺生石五編、当年は並合巻ニいたし度旨、申に付、ふくろの画稿二枚、則、    表紙に用い、国芳ニ画せ候様、示談。英泉にては間に不合故也。五編下帙は画未出来、とても当暮うり    出しの間ニ不合候間、去(ママ)年に延し候様、是又示談。尤、来年は二年子(ママ)有之ニ付、山口やぇは    新著休之趣、申聞おく〟    〈英泉の遅筆の余波が国芳に及んだかたちだ。十一月十二日には国芳画の表紙外題が出来、馬琴の許に届いている。結     局、英泉画は五編の上までで、天保四年刊、五編の下は国安、表紙は国貞の担当に変わった。国芳はどのような事情     があったものか、採用されなかった。日記上からみると、歌川国貞、国安への督促は殆どないが、英泉と北渓の遅筆     は常態化している。また、八犬伝の柳川重信もそうで、八月十八日には、版元丁字屋同道の上、今後滞り無なく画く     ことを馬琴に誓約していた〉      〝西村や与八たのミ、八犬士にしき画略伝八枚之内、七枚め迄、稿之。一枚遺ル〟    〈『曲亭翁精著八犬士随一』の原稿は七枚目まで出来上がったようだが、実際に国芳が描き始めたのはいつのことであ     ろうか〉      ◯「天保二年辛卯日記」②481 十一月十二日(『馬琴日記』巻二)   〝山口や藤兵衛より使札。殺生石後日五編壱・弐両巻、表紙外題、国芳画出来のよしにて、見せらる〟    〈壱の表紙には「殺生石【馬琴作 英泉画】」「後日怪談第五編」「外題 国芳画」「天保壬辰」「壱    【錦畊堂 山口版】」とある。天保壬辰は同三年〉     ◯『馬琴書翰集成』②86 天保二年(1831)十一月二十五日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-20)   〝「八犬伝にしき画賛」、本月上旬稿し畢り、板元へ遣し候。当年おそなはり候故、まづ四枚出板のつも    りのよし。板元申候。一枚に候へば、道節・額蔵の二枚つゞき、並に犬江親兵衛・犬村大角、此四人を    先へ出し候様、申談じ度候。然ル処、今以直出来不申、幕の間に合候哉、これも斗難候。琴魚様御代作    にいたし、故人蟹丸ぬしの御歌、加入いたし度也〟    〈「八犬伝にしき画」とは国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』〉       ◯『馬琴書翰集成』②98 天保二年(1831)十二月十四日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-25)   〝(馬琴、門人櫟亭琴魚の訃報に接して)『美少年録』三輯ヘハ、琴魚様御評加入いたし置候処、御生前    ニ被成御覧候よし。是尤本望の至に奉存候。「八犬伝にしき画」の御代作ヲ見せ申さぬのミ、遺憾ニ御    座候。其後、右にしき画、いかゞいたし候哉、いまだ画も不出来候哉、筆工校合ニも差越し不申候。左    候へバ、いまだほり立不申事と被存候。春ニも至り、出板次第、早々可入御覧候〟    〈この国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』が出版されるのは後年の天保七年(1836)である〉     ☆ 天保二・三年頃(1831~32)     ◯『洒落本大成』第二十八巻   ◇洒落本(天保二、三年間頃刊)    一勇斎国芳画『くになまり』二世福内鬼外作    〈『洒落本大成』補巻所収の「洒落本刊本写本年表」によると、天明七年刊『田舎芝居』の改刻板。天保二、三年頃の     刊かとする〉     ☆ 天保三年(1832)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(天保三年刊)    歌川国芳画    『古今畸人伝画像集』後編 国芳画 井峯閣草業選 千種庵序〔漆山年表〕     『追善瀬川ぼうし』 二巻 香蝶楼国貞・一勇斎国芳画 琴通舎英賀著 鶴屋喜右衛門板〔目録DB〕    ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保三年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『殺生石後日怪談』五編一~二(画)英泉 表紙国芳(著)馬琴 山口屋藤兵衛板〔東大〕    『つれつれ草玉盃』(画)歌川国芳 表紙 国貞(著)山東京山 山口屋藤兵衛板〔東大〕〔早大〕    『春霞ゆるしの廓』(画)一勇斎国芳(著)五柳亭徳升 山本平吉板〔東大〕    『三ツ瀬川法花勝美』一勇斎国芳画 緑間山人作 鶴屋喜右衛門・川口正蔵板〔目録DB〕    『五節供稚童講釈』歌川国芳 歌川国安画 山東京山作 鶴屋喜右衛門板  〔目録DB〕    『近江国源五郎鮒』歌川国芳画 五柳亭徳升作〔目録DB〕    『熊谷武功軍扇』 歌川国芳画 烏有山人作 〔目録DB〕    『国字水滸伝』十編 歌川国芳画 笠亭仙果訳〔書目年表〕    『義仲朝日鎧』  歌川国安画 歌川国芳画 烏有散人作〔目録DB〕    『怪談徒然噺』  歌川国芳画 五柳亭徳升作〔目録DB〕    『関東白狸伝』  歌川国芳画 五柳亭徳升作〔目録DB〕    『花雪吹縁柵』  歌川国芳画 相州磯部作 〔目録DB〕     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保三年刊)    歌川国芳画     『須磨の月』歌川国芳画 風亭馬流作    『沈魚伝』 初編 歌川国芳画 松亭金水作    『和哥紫』 三編 一勇斎国芳画 喜久平山人作   ◇滑稽本(天保三年刊)    歌川国芳画『滑稽枯木の花』一冊 一勇斎国芳画 三笑亭可楽作〔目録DB〕     ◯「咄本年表」(〔噺本〕は『噺本体系』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇咄本(天保三年刊)      一勇斎国芳画    『十二趣向当似寄話絵』歌川国芳画 磯間真路作 三楽堂板〔目録DB〕    『十二支紫』表紙「一勇斎国芳画」三笑亭可楽作 山口屋板(挿絵は香蝶楼国貞と文雍)〔噺本⑯〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(天保三年刊)    歌川国芳画    『瀬川ぼうし』二冊 香蝶楼国貞・一勇斎国芳画・北渓画 琴通舎英賀著 鶴屋喜右衛門板     (角書【瀬川五代家譜】瀬川家五代の追善集、画像133/134コマに以下の追善句あり〔目録DB画像〕     〝姿絵をものする折からに 噂して袖も干かたし春の雨 香蝶楼国貞      筆とるたびに 梅ちるや我持わさの色も香も    一勇斎国芳〟    (45/134コマ、 通環亭真袖の追善歌に国貞画く五代目の団扇似顔絵。署名「国貞画」)    (73/134コマ、 玉鉾道広の追善歌に北渓の玩具春駒の図。署名「北渓」)    (88/134コマ、 宝珠亭舟唄の追善歌に似顔絵。署名「一勇斎国芳画」)    (109/134コマ、梅屋の追善歌に国芳の五代目の扇面似顔絵。署名「一勇斎国芳画」)    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔白倉〕は『絵入春画艶本目録』)   ◇艶本(天保三年刊)    歌川国芳画    『秋の七草』後篇 署名「一妙開程よし」〔白倉 国貞画『秋の七種』の項より〕     序〝七くさをそるうた、娘・後家・やしき・けいせい・かこいもの・芸者・女房、これで七種〟     『極楽遊』三冊 国芳画 女好庵主人作〔目録DB〕     ◯「天保三年壬辰日記」③12 正月九日(『馬琴日記』第三巻)   〝俳優板東三津五郎【六十余才】・瀬川菊之丞【三十余才】、旧冬十二月中死ス。今日三津五郎送葬、芝    増上寺地中某院のよし、見物群集ス。菊之丞ハ、明十日深川の菩提所へ送葬のよし、風聞あり。三津五    郎ハ借材(ママ)七八千両ありなどいふ。虚実ハしらねど、さもあるべし〟
    「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」一勇斎国芳画     (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)       〈両者をお半・長右衛門に見立てた一勇斎国芳の「死絵」をみると、〝天保二年極月廿七日 芝増上寺寺内 常照院      行年五十七才 板東三津五郎 同三年壬辰正月七日 本所押上大雲寺 行年三十二才 瀬川菊之丞 勇誉方阿哲芸信     士〟とある。二人の死絵は他に国貞・国安・貞景画などが画いている。大変な売れゆきだったようで、馬琴も関心を     示したが、入手困難であった。三月二日、六日記事参照〉     ◯『馬琴書翰集成』 天保三年(1832)正月廿日頃のこと    ◇篠斎宛、七月朔付書翰(二巻・書翰番号-38)②165    〝俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。この肖面の追善にしき画、旧冬大晦日    より早春、以外流行いたし、処々ニて追々出板、正月夷講前迄ニ八十番余出板いたし、毎日二三万づゝ    うれ捌ケ、凡惣板ニて三十六万枚うれ候。みな武家のおく向よりとりニ参り、如此ニ流行のよし、山口    屋藤兵衛のはなしニ御座候。前未聞の事ニ御座候。このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六    等、一向うれず候よし。ヶ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候板元ハ、末に至り、    二万三万づゝうれ遣り候ニ付、多く(門+坐)ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大    問屋にてハ、ヶ様之にしき絵ハほり不申、うけうりいたし候共、末ニ至り、いづれも二三百づゝ残り候    を、反故同様に田舎得意へうり候よしニ御座候。かゝる錦絵をめでたがる婦人ニ御座候。これニて、合    巻類ハほねを折るは無益といふ処を、御賢察可被下候。正月二日より白小袖ニて、腰に葬草(シキミのルビ)    をさし候亡者のにしき画、いまハしきものゝかくまでにうれ申とハ、実に意外之事ニて、呆れ候事ニ御    座候。ヶ様之事を聞候ニ付ても、弥合巻ハかく気がなくなり候也〟      〝右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日比までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし〟      ◇桂窓宛、七月朔付書翰(第二巻・書翰番号-40)②172    〝当早春、「俳優三津五郎・菊之丞追善のにしき画」、大流行いたし、八十余番出板いたし、凡三十五六    万枚うれ候ニ付、並合巻・道中双六などハ、それにおされ候て、例より捌ケあしく、小まへの板元ハ本    残り、困り候よし。死人の錦絵、正月二日比より同廿日比迄、三四十枚もうれ候とは、意外之事ニ御座    候。多くハ右役者白むくニて、えりに数珠をかけ、腰にしきミ抔さし候、いまハしき図之処、早春かく    のごとくうれ候事、世上の婦女子の浮気なる事、是にて御さつし可被成候〟    〈記事は同年七月朔日のもの。正月二日頃から正月二十日頃にかけて、坂東三津五郎と瀬川菊之丞の死絵が婦女子、特     に武家の奥向きを中心に三十六万枚も売れたというのであるが、その余波が、購買層を同じくする合巻や道中双六に     及んだという、馬琴の見立てである。坂東三津五郎は天保二年十二月二十七日没、享年五十七才。瀬川菊之丞は天保     三年一月六日没、享年三十一才。二人の死絵は国貞・国安・国芳等が画いている。馬琴が見たものは、白無垢、襟に     数珠、腰に樒を差した図柄というが、誰の死絵であろうか。ここでは一勇斎国芳と国安の死絵をあげておく〉
    「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」一勇斎国芳画 「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」歌川国安画     (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)      (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)     ◯『馬琴書翰集成』②117 天保三年(1832)二月十九日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-31)   〝「八犬伝錦絵」の事、いかゞ致候哉、其後ほり立候様子不聞候。右板元、年始に参候節、先客有之、口    状申置罷帰り、其後未逢候故、様子しれかね候。『八犬伝』板元より故障を申にても可有之哉、難斗候。    就夫、今般『八犬伝』八輯壱の巻口絵の末半丁へ、蟹丸ぬし犬士の八歌書あらはし、且漢文にて略伝を    添候故、半丁十六行の中細字に成申候。右稿本、小津氏に見せまゐらせ候故、御聞可被下候。錦絵にて    は一時のもの故、後に迄伝らず候。『八犬伝』中に加入いたし置候へば、長く遺り申候。常久ぬし、懇    意には無之候へ共、貴兄の御族弟の御事なれば、まんざらにも不覚、江戸御店に支配して被居候節、存    候御仁故、少しも御名を弘め度存候迄の老婆心切に御座候。常久ぬし没日、文政十三年七月十四日、享    歳五十二ト覚居候故、その通りに記し候処、小津氏被申には十四にあらず、十六日也と覚たりといはれ    候故、又疑心おこり申候。十四日ならば被仰下候に不及、十六日に候はゞ、其段御幸便に御しらせ可被    仰下候。四ヲ六に入木直し致させ可申候〟    〈「八犬伝錦画」(国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』)の出版が遅れている。読本「八犬伝」の板元文渓堂、丁子屋平     兵衛から横槍でも入ったのかと、馬琴は推測している。「八犬伝錦画」の板元は西村屋与八。当初この「八犬伝錦画」     用にと考えていた蟹麿の歌を、永く後世にも伝えんと『南総里見八犬伝』の八輯に加えることにした。理由は「錦絵     にては一時のもの故、後に迄伝らず候」というものであった。この馬琴の錦絵評はあるいは江戸人一般のものでもあ     ろう。蟹麿はしかし後世に名を遺すことになった自詠の刻印を目にすることなく逝ってしまったのである〉     ◯「天保三年壬辰日記」③51 三月六日(『馬琴日記』第三巻)   〝(清右衛門)俳優三津五郎・菊之丞追善にしき絵、もはや西村や・森やニも無之、山口やニてハ蔵板の    もの残り居候よしニ付、不残、乞求候よしニて持参、請取畢〟    〈山口屋蔵板の死絵だとすると、正月九日で示した国芳のものであろうか。画像は同日にあり〉     ◯『馬琴書翰集成』②128 天保三年(1832)四月二十八日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-33)   〝「八犬伝にしき画」出板延引に付、かにまろぬし御歌、八輯巻端余紙へ加入、且御略伝もしるしつけ候    趣、桂窓子へ右の稿本見せ候に付、委細御承知にて、貴君にも御満足に思召候よし、并に御同人忌、琴    魚様より七月十四日ト御記し被遣候故、其趣にしるし候処、桂窓子云々被申候に付、御問合せ申上候へ    ば、桂窓子被申候ごとく十六日のよし〟    〈「八犬伝にしき画」は国芳画『曲亭翁精著八犬士随一』。この出板が遅れているため、『南総里見八犬伝』での披露     の方が先になった。九月十六日付、桂窓書翰(番号46)によると、遅れの原因は国芳の遅筆にあったようだが、と     もあれ「一時のもの」でしかない錦絵ではなく「後世に迄伝わる」読本に、蟹麻呂の名を残すことになったのである。     第八輯の刊本には〝いはやのかにまろおぢが、八犬伝をめでよろこびて、よみたる八うた〟に続いて、蟹麻呂の略伝     があり〝文政十三年。庚寅秋七月十六日病没す。享歳五十二〟と当初原稿の日付十四日を十六日に直している〉      ◯『馬琴書翰集成』②196 天保三年(1832)九月十六日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-46)   〝「八犬伝にしき絵」も画工国よし方ニて長引、八枚の内、やう/\此節二枚出来のよし。板元にし村    や、いぬる日参候節申候。二枚ハ、当暮迄ニ出板可致候。此にしきゑにも、かにまろ哥加入いたし候間、    弥世に弘り可申候〟    〈「八犬伝にしき画」は『曲亭翁精著八犬士随一』。この企画は『馬琴日記』によると、天保二年の六月廿七日に板元     西村屋与八が持ち込んだもの。実際の出版は天保七年のことになるが、遅延の原因は板元西村屋の「手元不如意」     (天保七年六月二十一日、小津桂窓宛書翰)と国芳の遅筆にもあったようだ。もっとも、板元の台所の苦しさが国芳     の遅れを誘発しているのかもしれない〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保四年刊)    歌川国芳画    『あづまあそび』一冊 北渓・一勇斎国芳画 三笑亭可楽序 鶴屋喜右衛門板〔漆山年表〕            (三代目瀬川冨三郎追善集也)    『狂歌草野集』 七冊 一勇国芳他画 桧園梅明撰 千種庵諸持序〔漆山年表〕     ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保四年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『五節供稚童講釈』後編 一二冊 歌川国芳 三四冊 歌川国安 表紙国貞 見返し 京水画〔東大〕            (著)山東庵京山 鶴屋喜右衛門板    『天竺徳兵衛韓噺』一勇斎国芳画 夷福亭主人作 丸屋甚八板〔早大〕    『本朝武王軍談』 (画)一勇斎国芳(著)二代目十返舎一九 森屋治兵衛板 〔東大〕    『両顔忍夜桜』二編(画)歌川国芳 表紙国貞(著)立川焉馬 和泉屋市兵衛板〔東大〕     〈二巻の「追補」に全四冊の内、前半二冊を初編、後半二冊を二編とするとある。後半二編の見返しの画工表示は     「歌川国安画」とあるが、本文の画工は国芳になっている。三年の国安死亡の影響である〉    『国字水滸伝』十一・十二編 歌川国芳画 笠亭仙果訳  〔書目年表〕    『化皮太皷伝』歌川国芳画 十返舎一九作 山口屋藤兵衛板〔目録DB〕     〈注記「化物太平記の改題本」〉    『改色団七島』歌川国芳画 吉見種繁作〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(天保四年刊)    歌川国芳画『狂歌草野集』七冊 一勇斎国芳・平安青洋画 桧園梅明撰 桧垣連〔目録DB〕      ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保四年刊)    歌川国芳画『比登通満都』二帖 歌川国芳画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保四年刊)    歌川国芳画『恋若竹』初編 国芳・英笑画 寛江舎蔦丸作・十字亭三九作     ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「歌川豊国」の項(初代豊国門人)③305
    「一陽斎豊国系譜」      〝国芳 俗称別記ニユヅル〟      ◇「歌川国直」の項 ③310   〝其頃(筆者注、文化年中)は、国芳なども国直が家に塾生の如く居て、板刻を学びたりし、近頃、国芳    が画風は、総て取合せの器材、草木なども、国直が筆意にのみよりて画しが、当時は紅毛絵の趣を基と    して画くと見ゆ、北斎の画風を慕ふは、国直が画風によりて学びしゆへなり〟     ◇「歌川国芳」の項 ③310   〝歌川国芳【文政ヨリ天保ノ今ニ至ル】〟    俗称孫三郎、居始白銀町二丁目、後ニ両国米沢町ニ住ス、号一勇斎、江戸ノ産也    豊国の門人なり、文化の頃錦画一二種出しが、暫く止む、文政の末より水滸伝百八人の錦画を出し、    【板元両国加賀屋吉右衛門】大に行れ、錦絵、草双紙、年々発市す、能九徳斎が画風を学び、一派の筆    法あり、門人多し、     按るに、北斎の画風をも慕ひし故に、近世蘭画の銅板画の趣意を基とすと見ゆ〟     ◯『歌舞伎年表』⑥272(伊原敏郎著・昭和三十六年刊)   (「天保四年(1833)」の項)   〝九月十六日より、中村座、芝翫名残狂言「手向山紅葉御幣(ミテグラ)」。    此狂言大当り、くりから太郎にて腕にくりから龍の入ほくろせり。此は当時国芳の水滸伝が流行し、江    戸の侠客彫物せしより思ひつきて当りを取りし也〟      ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保五年刊)    歌川国芳画『狂歌覓玉集』東武一勇斎国芳画 玉兎園主人序 齢亭主人跋 扇屋利助板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」)   ◇合巻(天保五年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『復讐曲輪達引』前編(画)国芳 表紙 国貞(著)山東京伝 和泉屋市兵衛〔東大〕〔早大〕      (備考、文化五年刊『伉俠双蛺蜨』歌川豊国画の全丁改刻改題本)    『大和染対振袖』後編(画)歌川国芳(著)立川焉馬 森屋治兵衛板〔東大〕    『石橋山義兵白旗』歌川国芳画 烏有山人作〔早大〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(天保五年刊)※角書は省略    歌川国芳画『新田柱石伝』歌川国直・国芳画 教訓亭主人・松亭金水作〔目録DB〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』・〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(天保五年刊)    歌川国芳画『狂歌覓玉集』三冊 歌川国芳画 聴風軒草浪等編〔目録DB〕    ◯「日本経済新聞」「夕刊文化」2011/2/1日、夕刊記事    天保五年八月十六日 両国柳橋・河内屋にて、花笠文京主催、浮世絵師の「画幅千枚かき」書画会    参加絵師、香蝶楼国貞・一勇斎国芳・渓斎英泉・歌川豊国・前北斎為一    (被災した花笠文京を支援するための書画会)
    画幅千枚がき (引札)    ☆ 天保六年(1837)     ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保六年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『つれつれ草日くらし硯』(画)国芳 表紙 国貞(著)京山 山口屋藤兵衛板〔東大〕〔早大〕    『三国太郎再来伝』一勇斎国芳・万宝・歌川国直画 十返舎一九二世作〔早大〕    『菅原伝授手習鑑』歌川国芳画 墨川亭雪麿作〔目録DB〕    『復讐曲輪達引』「一勇斎国芳画」表紙 国貞(著)山東京山 和泉屋市兵衛板〔東大〕〔早大〕      (備考、文化五年刊『伉俠双蛺蝶』(山東京伝作・歌川豊国画)の改題改刻本)    『国字水滸伝』十三編 歌川国芳画 笠亭仙果訳〔書目年表〕    『当穐八幡祭』  歌川国芳画 鶴屋南北作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『戯言句合』   歌川国芳画 柳亭種彦作 鶴屋喜右衛門板〔目録DB〕〔早大〕     ◯「艶本年表」   (〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔白倉〕は『絵入春画艶本目録』)   ◇艶本(天保六年刊)    歌川国芳画    『当開道夜通夜快談』三冊 一妙開程由画 八文舎家寿成作〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『花古与見』    三冊 一妙開程芳画 嬌勲亭主人作 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     『吾妻源氏絵合』色摺 半紙本 三冊 東屋の主人序 天保六年〔白倉〕     (白倉注「国芳画といわれているが、かなり疑わしい。芳信あたりか。「椿年画」とあるが、これは画中画の落款らしい」)  ☆ 天保七年(1836)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(天保七年刊)    歌川国芳画    『とふの菅薦』一冊 香蝶楼国貞・後素園国直・朝桜楼国芳・柳川重信・葵岡北渓・              法橋雪旦・雲峯・行年六十翁可庵武清筆 梅多楼藏板〔漆山年表〕        ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保七年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『東海道五十三駅』初編(画)歌川国芳(著)鶴屋南北 山本屋平吉板〔東大〕    『東国奇談月夜桜』一勇斎国芳画 表紙 広重画 五柳亭徳升作 佐野屋喜兵衛板〔早大〕     『稲葉山操松枝』 歌川国芳画  宝田千町作 〔目録DB〕    『国字水滸伝』十四編 歌川国芳画 笠亭仙果訳〔書目年表〕    『復讐梅の接』  歌川国芳画  宝田千町作 川口正蔵板〔目録DB〕    『復讐千穀取』  一勇斎国芳画 藤寿亭松竹作〔目録DB〕     〈文化七年刊『千穀通稚智恵鏡』(千歳亭松武(藤寿亭松竹)作・喜多川月麿が)の改題本〉     ◯「艶本年表」(〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保七年刊)    歌川国芳画『花以嘉多』三冊 一妙開程芳画 好色外史 仇野山人作〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)〈好色外史は花笠文京〉     ◯『馬琴書翰集成』④164 天保七年(1836)三月二十八日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-43)   〝先年、故弟琴魚子代作之賛いたし候、「八犬伝のにしきゑ」板元にし村屋、身上不如意ニて、久しく彫    刻不出来、去年ハ既に戸を建候様子の処、やう/\借財ヲ年賦いたし、商売とりつゞき居候ニ付、此節、    右「八犬伝にしきゑ」、八枚之内四枚彫刻出来、三月節句比、校合ニ差越し候間、早速校合いたし遣し    候処、いかゞいたし候哉、あと四枚幕つかへ歟、今に沙汰無之候。不残出板いたし候ハヾ、二通、松坂    御本宅迄可差出候。久しく成候事故、御案内の為ニ得貴意候也〟    〈この「八犬伝にしきゑ」とは歌川国芳画の「曲亭翁精著八犬士随一」。板元西村屋与八がこの企画を馬琴の許に持ち     こんだのは天保二年のこと。(同年六月廿七日記参照(②379))。 以来、西村屋与八の台所事情が悪化したた     め遅延していたのである。今回出来上がったのは「犬飼現八信道」と「犬塚信乃戌孝」の「芳流閣屋根上の場」「犬     江親兵衛仁」「犬田小文吾悌順」の四枚。四月下旬の出版であった。(六月二十二日付、小津桂窓宛書簡参照、第四     巻・書翰番号-49)以後、天保八年六月「犬川荘助義任」と「犬山道節忠与」、天保九年三月「犬阪毛野胤智」と     「犬村大角礼儀」が刊行される。天保八年(1837)八月十一日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-94)および天保九     年(1838)七月朔日、小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-8)を参照)〉
    「犬飼現八信道」 「犬塚信乃戌孝」「芳流閣屋根上の場」
    「犬江親兵衛仁」 「犬田小文吾悌順」     (館山市立博物館・里見八犬伝デジタル美術館)     ◯ 天保七年(1836)六月二十一日 小津桂窓宛(第四巻・書翰番号-46)④175   〝今般致進上候「八犬伝上にしきゑ」ハ、六七年許已前、西村屋与八頼ニて下画出来、略伝綴り遣し候。    但し、己が著を、みづから賛いたし候もいかゞニ付、琴魚子、其比ハ在世故、則琴魚子の代作にいたし    置候へども、西村や、近来身上むつかしく、シバらく店の戸をさしやり、借財済方年賦ニいたし、商売    取つゞき候仕合故、右錦画も、板下のまゝにてうち捨置候処、当春より又思ひ起し、八番の内四番彫刻    出来、近比売出し候也。それ故、犬江親兵衛の略伝抔、不都合の事御座候。但し、並之錦画より彫刻・    すりとも、ことの外入念候故、直段も並の大錦より倍高料に御座候〟    〈歌川国芳画の「曲亭翁精著八犬士随一」。八枚のうち四枚が発売になった。三月二十八日付、殿村篠斎宛書翰(番号     43)参照〉     ◯『馬琴書翰集成』④184 天保七年(1836)六月二十二日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-49)   〝先便も得御意候「八犬伝錦画」、八番の内四番、四月下旬出板いたし候。是ハ五六年前、西村屋与八頼    ニて、画工并ニ略伝をつゞり遣し候節、自分の著編に擬し候錦画へ、みづから書ちらし候もいかゞニ付、    琴魚様代題ニいたし候趣ハ、その比御両君へ得御意候ひき。当時ハ琴魚子在世の折候処、星霜やゝ過去    り候て、只今出板、代作ながら、御令弟御かたみのひとつニも候へば、御秘蔵なさるべく哉と奉存候ニ    付、則石大錦画四枚、進上仕候。かねてハ、琴魚様分とも二通り、差出し候様被仰示候得ども、彼人帰    泉の上ニ候へバ、一ト通り遣し候也。尤、並の錦画とちがひ、彫刻・すりとも、極細密に手をつくし、    何がしと申すり師に申付、すらせ候よしニ付、代料ハ並のにしきゑより一倍に高料ニて、小うりニてハ、    よほど高直ニうり候よしニ候へども、当今の人気ハ価の貴キを不厭候て、花美を好ミ候上、流行の最中    故、多くうれ候よしニ御座候。あと四番出候ハヾ、又々進上可仕候。とくト御覧可被下候。但し五六年    前につゞり遣し候物故、犬江親兵衛の略伝抔、五六編迄之処ニて、只今は不都合ニ成候得ども、今さら    不及是非候〟     ◯『馬琴書翰集成』④192 天保七年(1836)八月四日 小津桂窓宛(第四巻・書翰番号-51)   〝「八犬伝錦画」、致進上候御厚礼之御書面、致痛却候。うり出し、当分すりの間合不申くらゐの事のよ    し、板元西与申候。当今の人気、高料ハ不厭候て、とかく花美の品を好候事と被察候。泰平久しき故ニ、    良賤奢侈ニ走り候。和漢同一致の人気、ほむべき事との不覚候。大坂ニて「水滸伝の極細密錦画」出板    いたし、目を驚し候よし、黙老より被申越候。いかゞ、いまだ不被成御覧候哉。画工ハ北英とか申もの    ゝよしニ御座候。彫工・板ずりの名迄あらハし有之と申事ニ候へバ、よほど入念候品と察せられ候也〟    〈この「八犬伝錦画」とは六月二十二日送付した『曲亭翁精著八犬士随一』(一勇斎国芳画)である。また、大坂出版     ・北英画「水滸伝の極細密錦画」とは、春梅斎北英画「戯場水滸伝百八人之内」であろう。江戸の役者絵を見慣れた     高松藩家老木村黙老の目をも驚かしたというから、極細密の水準にはかなり高いものがあると、馬琴も推測したのだ     ろう。以下、この書翰は八月十四日の馬琴の古稀を祝う書画会の記事へと続くが、書画会記事は八月六日付殿村篠斎     宛書簡(第四巻・書翰番号-52)に従い、ここでは省略した〉    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年(1836)八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ      長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】      一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟      南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ      歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟     ◯『馬琴書翰集成』④231 天保七年(1836)十月二十六日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)   〝「八犬伝にしき画」の事、云々御頼被仰越候処、外より御もらひ被成候ニ付、求上ゲ候ニ不及旨、承知    仕候。あと四番出板いたし候ハヾ、早々二通り差出し候様被仰示、承知仕候。乍然、板元西与、身上甚    むつかしき様子ニ候間、引つゞきて彫刻出来かね候。依之、いつ比出板とも料りがたく候。多くハ、あ    れ切りにて可有之哉と存候事ニ御座候〟    〈「八犬伝にしき画」とは『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画)。家運の衰えた板元西村屋与八には、残り四番を     一挙に出版する資力がなかった。実際残りは天保八年に二枚、同九年に二枚づつの出版となった〉     ☆ 天保八年(1837)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」)   ◇合巻(天保八年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『東海道五十三駅』二編(画)一勇斎国芳 表紙 国貞(著)鶴屋南北 山本屋平吉板〔東大〕〔早大〕    『一筋道雪眺望』「一勇斎国芳画」(著)笠亭仙果 鶴屋喜右衛門板〔東大〕〔早大〕    『視薬霞報条』  歌川国芳画 曲亭馬琴作 鶴屋喜右衛門板〔早大〕     ◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」(武藤禎夫編・昭和五二年・一二版)   ◇咄本(天保八年刊)      歌川国芳画『宇加礼奇人集』中青林堂錦八編(板元名なし)     ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保八年刊)    歌川国芳画    『春色入船帳』三冊 一妙開程よし画 九尻亭佐寝彦(柳亭種彦)編〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『花結色陰吉』三冊 一妙開程芳画  女好庵主人 (松亭金水)作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「【東都高名】五虎将軍」(番付・天保八年春刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝秀業 ウキヨ絵 葛飾前北斎・コキウ 鼓弓庵小輔・三味セン 播广太夫蟻鳳       雛師  原舟月 ・飾物 葛飾整珉〟          〝浮世画師 歌川国貞・歌川国直・葵岡北渓・歌川国芳・蹄斎北馬    〈浮世絵師として国貞・国直・北渓・国芳・北馬の名が見える。しかし、北斎は別格と見え、斯界の第一人者である     三味線の鶴沢蟻鳳や雛人形師の原舟月などと共に「秀業」の部の方に名を連ねている。やはり浮世絵師の中では飛     び抜けた存在なのである。それにしても、一立斎広重と渓斎英泉の名が見えないのは不思議な気がする〉     ◯『馬琴書翰集成』④340 天保八年(1837)八月十一日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-94)   〝「八犬伝人物上摺大錦画」、六月中額蔵、荘介二枚つゞき弐枚、出板いたし候。かねて後約束ニ付、是    亦かひとり置候間、今便同封中ニ加入、差出そ候。いろざし十九遍かゝり候故、すりニひま入り、一日    に五六十枚ならでハ不摺候処、多くうれ候間、すり間ニ不合候て困り候よし、板元申候キ。価ハ新板の    方、百枚ニ付三匁、古板ハ弐匁五分のよしニ御座候。古板の方も、一ト通り御入用のよし、先年被仰越    候様ニ覚候間、則新板三通り〆六枚、古板壱通り四枚、右拾枚差上候〟      〝但シ、「八犬伝人物上にしき画」新板の方、忠与の与を知にあやまり有之候。一字御はりけし、御直し    被成置可被下候〟    〈「八犬伝人物上にしき画」とは西村与八板『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画)。「額蔵、荘介二枚つゞき弐枚」     そして「忠与」とあるから、これは「犬川荘助義任」(額蔵)と「犬山道節忠与」の「円塚山の対決」を画いた「二     枚続き」であろう。これで八枚のうち六枚が発売になった。残りはあと二枚。ただ「百枚ニ付三匁」がよく分からな     い。誤記か。三匁は三十分で三百文。百枚では一枚三文になり、「壱枚卸値三分づゝ」(三十文)という卸値と合わ     ないからだ。(天保九年(1838)七月朔日付小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-8)参照)次いでに云うと、同書翰では     この「八犬伝」の小売値は四十八文である。また、この時代の「役者絵」は三十二文の由である〉
    「犬川荘助義任」 「犬山道節忠与」「円塚山の対決」     (館山市立博物館・里見八犬伝デジタル美術館)     ◯『馬琴書翰集成』④348 天保八年(1837)八月十一日 小津桂窓宛(第四巻・書翰番号-96)   〝「八犬伝上にしき絵」、先年上候四枚の外、当夏又弐枚出板いたし候間、求め置候。御約束ニ付、弐枚    此便りニ上候。色ざし、ことの外多く、十九遍かゝり候と申候。それ故、並大錦の一倍高料候へども、    たけのしれたる事ニて、大かたハ先板の趣ニ御座候。但シ、忠与の与の字、知ニあやまり候。御直し置    可被下候。此板元西村や、弥零落いたし、盆前ニハ戸ヲサスとかいふ風聞有之、いかゞいたし候哉、そ    の後の事ハ不聞候。さあらバ、あと二枚出板心許なく、をしき事ニ御座候。うり出しの節、すり間ニ合    不申、多く出候よしニ御座候〟     ☆ 天保九年(1838)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保九年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『つれつれ艸不見世友』一勇斎国芳画 山東庵京山作〔目録DB〕    『国字水滸伝』十五編 歌川国芳画  笠亭仙果訳 〔書目年表〕    『昔旧在多土佐』   歌川国芳画  宝田千町作 〔目録DB〕     ◯「艶本年表」(「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」〔白倉〕は『絵入春画艶本目録』)   ◇艶本(天保九年刊)    歌川国芳画『吾妻文庫』色摺 大本 三冊 天保九年頃〔国文研・艶本〕〔白倉〕          序 「さかりのつきし戌のはつ春 阿足亭物成誌」          序文「初春の笑冊子なれば、諸君子突出しの封切りをおもとめありて、妙手を画きし情な             いの程よしと誉給ふをねがふになん」     ◯『馬琴書翰集成』 天保九年(1838)七月朔日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-8)   ◇ ⑤36   〝「八犬士錦画」、西村やニて、先年より追々ニ出板の残り弐枚【毛野大角】当三月出板いたし候間、早    速買取置候。是ニて、八枚不残揃ひ候也。(中略)錦画の紙イヨマコ、甚高料のよしニて、価前々とハ    一倍に成り、西与のハ壱枚おろし直三分づゝ、小うり店ニてハ四十八文づゝニうり候よし。役者画ハ、    おろし直壱枚廿四文づゝ、小うり店ニては三十二文づゝにうり候へども、よくうれ候よし〟    〈西村屋与八板『曲亭翁精著八犬士随一』(歌川国芳画)の最後の二枚は「犬阪毛野胤智」「犬村大角礼儀」を整理す     ると、以下のようになる。    天保七年三月刊 四枚 「犬飼現八信道」と「犬塚信乃戌孝」の「芳流閣屋根上の場」               「犬江親兵衛仁」「犬田小文吾悌順」    天保八年六月刊 二枚 「犬川荘助義任」と「犬山道節忠与」の「円塚山の対決」    天保九年三月刊 二枚 「犬阪毛野胤智」「犬村大角礼儀」〉
    「犬阪毛野胤智」  「犬村大角礼儀」     (館山市立博物館・里見八犬伝デジタル美術館)      ◇ ⑤37   〝只芝居のミならず、髪結床の長のれん抔、八犬士を画キ候もの、此節十三軒有之。其内七軒ハ、馬喰丁    辺ニ有之。又その内、あづま橋辺の床のハ、大のれんハ細画ニて、目をおどろかし候よし。ある人の話    也。多くハ芳流閣の処、此外もあり。十ニ八九ハ国芳画のよし、見たるものゝ話ニ御座候。此余、煙管    の毛ぼりニも、八犬士を彫刻いたし、らを一本の価五六匁のものあり、真図浴衣地にも染出し、表紙の    もやうのごとく、丸の内ニ雛狗を多く染出し候もの流行のよし、丁子やの話ニ御座候〟     ☆ 天保十年(1839)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『無筆節用似字尽』歌川国芳画   曲亭馬琴作〔目録DB〕    『国字水滸伝』十六編 歌川国芳画 笠亭仙果訳〔書目年表〕    『清盛一代記』  歌川国芳画   烏有散人作 鶴屋喜右衛門板〔目録DB〕    『清正一代記』  歌川国芳画   烏有散人作〔目録DB〕    『百面相』    一勇斎国芳画  花笠文京作〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保十年刊)    歌川国芳画    『枕辺深閨梅』三冊 一妙開程芳画 好色外史(花笠文京)編〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ☆ 天保十一年(1840)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十一年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『名所競睦珠歌話』歌川国芳画 美図垣笑顔作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『写生百面叢』  一勇斎国芳画 花笠文京作 〔目録DB〕    『花櫓詠義経』  一勇斎国芳画 美図垣笑顔作〔目録DB〕      ◯ 天保十一年(1840)六月六日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-54)⑤191   〝「八犬伝芳流閣之大錦絵」三枚続、此節芝泉市ニて新板売出し、高料ニハ候へども能うれ候由、去乍色    板数返ニて、摺多出来兼候由聞伝候間、板元ハ遠方ニ付、近処伝馬丁絵草紙屋ニてかい取候。(中略)    代銭ハ壱枚三十八文宛、三枚ニて百十八(ママ)文ニ御座候。(中略)此度のは国芳作乍、至極評判宜敷由    ニ候へども、何分衰眼ニて見へわかず候〟
    一勇斎国芳画「八犬伝之内芳流閣」     (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     ☆ 天保十二年(1841)     ◯「合巻年表」   (〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『和田酒宴智勇兼備志』歌川国芳画 美図垣笑顔作〔目録DB〕    『東海道五十三次』(画)一勇斎国芳(著)鶴屋南北 山本平吉板〔東大〕    『浪華潟美棹差櫛』(画)一勇斎国芳 表紙国貞(著)宝亭文雪 山本平吉板  〔東大〕    『金縹題名将手鑑』 歌川国芳画 美図垣笑顔作 藤岡屋彦太郎板〔早大〕    『絵本楠一代記』 (画)歌川国芳 表紙国貞 (著)烏有山人 佐野屋喜兵衛板〔東大〕            〈〔書目年表〕は烏有山人を国芳の匿名かとする〉    『児雷也豪傑譚』二編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板〔東大〕                 袋 国貞 英泉 国芳    『鳩八幡霞陣幕』歌川国芳画 美図垣笑顔作 和泉屋市兵衛〔目録DB〕      『祝言千箱玉』(画)一声斎芳鶴 表紙 国芳(著)美図垣笑顔 蔦屋吉蔵板〔東大〕〔早大〕    『国字水滸伝』十七編 歌川国芳画 笠亭仙果訳〔書目年表〕     ◯ 三月朔日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-79)⑤278   〝旧板『括頭巾縮緬紙衣』ハ、文化四年、四ッ谷伝馬町住吉屋政五郎といふ貸本書賈の為に綴遣し候、全    三冊之読本也。其後、政五郎没て家零落致、右之板も類焼にてなくなりしを、文政中、大坂屋茂吉と云    ゑせ本屋、小子へ沙汰なしに、恣に再板して、国芳ニさし絵ヲかゝせ、書名を『椀久松山話』と改、五    冊ニ致売候由、程歴て聞知候間、夫等の不埒を、『八犬伝』何集やらに粗印候を成御覧候得ば、御覚も    可有之奉存候。先頃、丁子屋より取寄候新本摺本之内に、右之『松山物語』も有之、大坂屋茂吉没て後    ハ、其板を大坂河内屋茂兵衛買取、年々に摺出し、江戸ぇも多く下し、よくうれ候由ニ御座候〟    〈『括頭巾縮緬紙衣』は豊広画で文化四年(1807)刊。国芳画「椀久松山話」は「碗久松山」の角書きをもつ大坂屋板     『柳巷話説』。奥付には「文政十四辛卯年正月再板」とある。ただ、文政十三年(1830)十二月に改元されているので、     文政十四年は実際には天保二年(1831)にあたる。一方〝予が名號ありといへども、補刻に予が校訂を経ずして、他人     の手に成れるものなれば、これらは予が全作とすべからず〟として、この「不埒」な出版を咎めたのは「八犬伝」第     七輯・巻之四の巻末。こちらは文政十三年正月の刊行であるから、一年先だっての告発であった。おそらく、馬琴は     板元仲間の内部情報によって、大坂屋の出版予定を知り、警告を発したのであろう。これをさらに、大坂の板元河内     屋茂兵衛が買い取って、今に至るまで出版を続けているというのである〉     <三月 見世物 曲鞠(菊川国丸)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「(菊川国丸曲毬)」錦絵 署名「一勇斎国芳画」川口屋宇兵衛板   「流行猫の曲手まり」錦絵 署名「一勇斎国芳画」川口屋宇兵衛板    ☆ 天保十三年(1842)    ◯「合巻年表」   (〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔早稲田〕は『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十三年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『小女郎蜘蛛怨苧環』見返し「一勇斎国芳画」摺付表紙「国貞画」曲亭馬琴作・泉市板〔早稲田〕      〈初版は文化六年、挿絵は勝川春亭画〉    『和漢一雙張交屏風』歌川国芳画 美図垣笑顔作〔早大〕    『百面相仕方はなし』歌川国芳画 土橋亭竜馬・同扇好作 藤岡屋彦太郎板〔目録DB〕    『朧月猫草紙』初・二編 歌川国芳画 山東京山作 山本平吉板 〔目録DB〕    『軍要武者硯』   歌川国芳画 美図垣笑顔作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕        ◯『噺本大系』巻十九「所収書目解題」(武藤禎夫編・昭和五四刊)   ◇咄本(天保十三年刊)    歌川国芳画『百面相仕方ばなし』巻末「一勇斎国芳画」土橋亭りう馬・土橋亭扇好作 藤岡屋板     ◯『花紅葉錦伊達傘』(合巻 天保十三年刊 早稲田大学「古典籍総合データベース」画像より)   (一栄斎芳艶画 美図垣笑顔作 笑顔の序に)   〝今世の中の流行ハ国丸が鞠、国芳が猫に見立し百面相男の助の大当(り)〟    〈前年の三月、国芳は菊川国丸の曲毬を題材とした錦絵「流行猫の曲手まり」を画いている〉     <三月 見世物 軽業(浪花亀吉 菊川伝吉・蘭杭渡り)深川八幡>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「蘭杭わたり 浪花亀佶」錦絵 署名「一勇斎国芳画」上州屋重蔵板   「蘭杭の上はしごの曲持 浪花亀吉」錦絵 署名「一勇斎国芳画」上州屋重蔵板      <五月>「飛騨内匠棟上ゲ之図」一件
   「飛騨内匠棟上ゲ之図」一勇斎国芳画 伊賀屋勘右衛門板      ◯『【江戸現在】広益諸家人名録』二編「イ部」〔人名録〕②66(天保十三年夏刊)   〝画 朝桜【名国芳、一号一勇斎】田所町 井草孫三郎〟     ◯「天保十三年壬寅日記」④348 六月十五日(『馬琴日記』第四巻)   〝丁子屋中本一件、去る十二日落着致、板元七人・画工国芳・板木師三人は、過料五貫文づゝ、作者春水    は、咎手鎖五十日、板木はけづり取り、或はうちわり、製本は破却の上、焼捨になり候由也・丁子屋へ    見舞口状申入候様、申付遣す〟     ◯『馬琴日記』第四巻 ④318(曲亭馬琴・天保十三年六月十五日記)    〝丁子屋中本一件、去る十二日落着致、板元七人・画工国芳・板木師三人は、過料五貫文づゝ、作者春水    は、咎手鎖五十日、板木はけづり取り、或はうちわり、製本は破却の上、焼捨になり候由也・丁子屋へ    見舞口状申入候様、申付遣す〟    〈昨年十二月暮、町奉行による人情本・春本の摘発押収に始まる一連の中本一件、六月十一日に落着。丁子屋をふくむ     板元七名と国芳および板木師は罰金五貫文。為永春水手鎖五十日、板木は破砕、本は焼却。詳細は文化十二年の項参     照のこと〉     ◯『馬琴書翰集成』⑥30 天保十三年(1842)六月十九日 殿村篠斎・小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-6)   〝中本一件落着之事、六月十五日、清右衛門罷越、実説初て聞知り候。九日より三日うちつゞき御呼出し、    御取しらべニて、十一日ニ落着致候。板元七人并ニ画工国芳、板木師三人ハ過料各五〆文、作者春水ハ    尚又咎手鎖五十日、板木ハ不残手斧にてけづり取、或ハうち砕き、製本ハ破却之上、焼捨被仰付候。是    にて一件相済候。右は北奉行所遠山殿御かゝり御裁許に候。春画本も右同断の由ニ候。寛政のしやれ本    一件より、板元ハ軽相済候。春画中本之画工ハ、多く国貞と重信ニ候得ども、重信ハ御家人、国貞ハ遠    方ニ居候間、国芳壱人引受、過料差出し候。春画之板元ニ成候板木師、并ニ中本之板木師ハ、こしらへ    者ニ候間、過料ハ丁平差出し候半と存候。右一件ハ相済候へ共、又丁子屋とかり金屋を南町奉行へ被召    出、当春板元無名ニて売出し候、ドヽイツぶしの中本之御吟味有之由聞え候。是ハ去年中、深川遊処ニ    て男芸者之うたひ候、ドヽイツといふさハぎ歌流行ニ付、春水夫ヲ集メ、深川芸者之名ヲ記、画を英泉    ニ画せ、中本ニ致、板元無名ニて売出し候所、よく売候由聞え候間、此御吟味ニて、丁子屋・雁がね屋    被召出候由聞え候へ共、是ハ風聞のミにて、虚実ハ未ダ不詳候。前文之役者似㒵、遊女・芸者之画、不    相成候ニ付、地本屋・団扇屋等致当惑、内々日々寄合致、生娘を板し候事、御免ヲ願候半歟抔申候由聞    え候。左様之義願出候ハヾ、又御咎ヲ蒙り候半と、苦々敷存候。『田舎源氏』重板致候者有之由聞え候    得ども、是も売候事成間敷候。『八犬伝』ヲ合巻ニ致、春水ニ綴らせ、森屋・丁子屋合板にて、近日出    来之由聞え候得ども、長篇之続キ物御禁制ニ候へバ、是も売候事成間敷候〟    〈中本(人情本)一件の決着は、遠山北町奉行の裁許で、作者為永春水は手鎖五十日。画工歌川国芳は過料五貫文。春     画と中本の画は歌川国貞と柳川重信の手になるものが多いが、「重信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受     過料差出候」とあり、なぜか重信と国貞はお咎めなしのようである。春水編・英泉画の「ドヾイツぶしの中本」とは     「日本古典籍総合目録」に『度々一図会』とあるものであろうか。この板元らしい丁子屋・雁金屋が召喚されたよう     だが、これも風聞のみで真偽不明。『八犬伝』を合巻化したという春水の作品は未詳〉     ☆ 天保十四年(1843)     ◯「合巻年表」(〔早大〕は「古典籍総合データベース」)   ◇合巻(天保十四年刊)※角書は省略     歌川国芳画『舞扇出世景清』歌川国芳画 美図垣笑顔作〔早大〕      <三月>  ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」第一七件 五八 p105   「卯三月廿九日、佐兵衛月番之節画師共相呼、近頃絵柄風俗不宜候ニ付厳敷申渡、証文取置候事」    〈佐兵衛は村田佐兵衛、新両替町名主、絵草紙掛り。以下、絵師連名の請書〉   〝私共儀錦絵・艸双紙絵類重立相認候ニ付、今般左之通被仰渡候    一 禁忌・好色本之類    一 歌舞妓役者ニ似寄候類    一 遊女・女芸者ニ似寄候類    一 狂言趣向紛敷類    一 女子供踊大人ニ紛敷類    一 賢女烈婦伝・女忠節之類    右の廉々、其筋渡世之者又ハ素人より頼請候共、賢女烈婦伝之類、絵柄不相当今様姿ニ一切書申間敷候、    其外都て男女入交り風俗ニ拘り候絵は勿論、聊ニても役者・女芸者ニ紛敷躰無之様、厚心附可申旨被仰    渡奉畏、為後日仍如件     天保十四年卯三月廿九日               坂本町壱丁目 太右衛門店 英泉事 画師 善次郎(印) 家主 太右衛門(印)               田所町久兵衛店      国芳事 画師 孫三郎(印) 家主 久兵衛 (印)               亀戸町友三郎店      国貞事 画師 庄 蔵(印) 家主 友三郎 (印)               同町金蔵店        貞秀事 画師 兼次郎(印) 家主 金 蔵 (印)               大鋸町長七店       広重事 画師 徳兵衛(印) 家主 長 七 (印)               柳町鉄右衛門店 亀次郎伜 芳虎事 画師 辰二郎(印) 家主 鐵右衛門(印)     〈以下は「下ヶ札」〉   〝錦絵類并団扇絵共近頃不宜風俗画候間、当三月、私月番節画師共相呼、本文之通證文取置申候、然ル処、    当四月月番品川町名主(竹口)庄右衛門・同五月月番高砂町名主(渡辺)庄右衛門改済之絵柄不宜候間、    掛り名主共一同申合売買差留、右掛り館市右衛門方え差出置申候   名主 佐兵衛〟     〈好色本や役者や遊女・芸者の似顔絵など風俗に拘わるものはもちろん、賢女烈婦伝や女忠節の類も当世風に画かないこ    とを誓約させられた。英泉・国芳・国貞・貞秀・広重・芳虎、六人連名の証文である。しかし「下ヶ札」をみると、四    月、五月の改(アラタメ)(検閲)済みのものにも依然として絵柄の宜しからざるものがあり、それらを売買禁止にしたとあ    る。『大日本近世史料』の頭注に「前ニ請書ヲ取ルモナホ宜カラザル品」とあり、絵師を咎めるような文面である〉      <七月>「駒くらべ盤上太平棊」一件
   「駒くらべ盤上太平棊」一勇斎国芳画 具足屋嘉兵衛板      <八月>「墨戦之図」一件
   「墨戦之図」一勇斎国芳画 板元未詳      <八月>「源頼光公館土蜘作妖怪図」一件
   「源頼光公館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画 伊場屋仙三郎板     ☆ 天保年間(1830~1844)    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(天保年間刊)    歌川国芳画『新日暮里物語』三冊 一妙開致形程由(国芳)画 大珍房小節狩鷹(国芳)〔目録DB〕      (注記「両個振袖の補筆改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)     ◯『増訂武江年表』2p102(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天保年間記事」)   〝浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦絵行はる。     筠庭云ふ、この頃国芳、頼光病床四天王の力士直宿を書きたる図に、常にある図なれど、化物に異変     なる書き様したり。其の内に入道の首は、已然小産堀と呼ぶ処本所にあり、爰に挑灯屋にて凧を売り     しが画をかき得ず、猪の熊入道とて、彩色は藍ばかりにて書きたる首則ちこれにて、悪画をうつした     るなり。この評判にて人々彼是あやしみたるもおかし。板元の幸にて売れかた多かりき。近時も療治     をする所のつまらぬ錦絵を色々評判うけて売りたり。皆不用意にして幸ありしなり〟     ☆ 弘化元年(天保十五年(1844))    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(弘化元年刊)    歌川国芳画『滑稽絵姿合』一冊 画工一勇斎国芳 柳下亭種員序 蔦屋重三郎板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(天保十五年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『勧善懲悪乗合噺』初編 歌川国芳画 柳下亭種員作 太田屋佐吉板〔目録DB〕    『名響誉曲独楽』 歌川国芳画  柳下亭種員作〔目録DB〕    『忠孝早染草』  一勇斎国芳画 山東京山作 川口屋宇兵衛板〔目録DB〕    『孝悪両面鏡』  歌川国芳画  万亭応賀作 太田屋佐吉板 〔目録DB〕    『遠霞平安城』  歌川国芳画  夷福庵楽亭主人訳〔目録DB〕     ◯「咄本年表」(〔噺本〕は『噺本体系』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇咄本(天保十五年刊)    歌川国芳画    『面白艸紙噺図会』奥付「作者 柳下亭種員 画工 朝桜楼国芳」錦彩堂板〔噺本⑯〕    『はなし大全』  歌川国芳画  柳下亭種員作〔目録DB〕    『落し咄本』   朝桜楼国芳画 柳下亭種員作〔目録DB〕     <二月 見世物 曲独楽(竹沢藤次)両国西広小路>  ◯『観物画譜』43-4・46-7・50(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    歌川国芳画    「(殺生石・九尾狐)」錦絵 署名「一勇斎国芳画」版元不明    「一流曲独楽 竹沢藤次(殺生石・九尾狐)」錦絵 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板    「一流曲独楽 竹沢藤次(道成寺)」    錦絵 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板    「一流曲独楽 竹沢藤次(邯鄲夢枕)」   錦絵 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板    「一流曲独楽 竹沢藤次(竜宮)」     錦絵 署名「朝桜楼国芳画」大黒屋平吉板  ◯「武江観場画譜」三-九・十一(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    歌川国芳画     「一流曲独楽 竹沢藤次(殺生石・九尾狐等)」錦絵 署名「一勇斎国芳画」藤岡屋慶次郎板    「一流曲独楽 竹沢藤次(お岩稲荷)」    錦絵 署名「一勇斎国芳画」藤岡屋慶次郎板    「曲独楽   竹沢藤次(お岩稲荷)」    錦絵 署名「一勇斎国芳画」丸屋清次郎板    「一流曲独楽 竹沢藤次(殺生石・九尾狐)」上掲44と同じ    「(表題等なし)(九尾狐)」        錦絵 署名「一勇斎国芳画」丸屋清次郎板    「一流曲独楽 竹沢藤次(長煙管・狂歌入)」 錦絵 署名「一勇斎国芳画」若狭屋与一板    「一流曲独楽 三国渡 竹沢藤次(狂歌入)」 錦絵 署名「一勇斎国芳画」若狭屋与一板    「江戸の花 竹沢藤次 忰竹沢万次」     錦絵 署名「一勇斎国芳画」佐野市板  ◯「見世物興行年表」⑮-⑳(ブログ)    歌川国芳画    「江戸の花 曲独楽 竹沢藤次 弟子竹沢兼次」錦絵 署名「朝桜楼国芳画」佐野市板     「(曲独楽 竹沢藤次 お岩稲荷)」     錦絵 署名「一勇斎国芳画」具足屋嘉兵衛板    「江戸の花 一流曲独楽 竹沢藤次 於岩稲荷怪談也」 錦絵 署名「一勇斎国芳画」伊場仙三郎板    「江戸の花 一流曲独楽 竹沢藤次 金毛九尾 三国渡」錦絵 署名「一勇斎国芳画」伊場仙三郎板    「古今無類一流 竹沢藤次(工風魚のこま・竜宮)」錦絵 署名「朝桜楼国芳画」村市板    「江戸の花 一流曲独楽 竹沢藤次(邯鄲夢枕)」 錦絵 署名「一勇斎国芳画」伊場仙三郎板     <三月 見世物 曲独楽(奧山伝司)・からくり細工(竹田縫殿之助)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」②-⑨(ブログ)    歌川国芳画    「五節供の内孟春 曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助」錦絵 署名「朝桜楼国芳画」山口屋藤兵衛板    「五節供の内弥生 曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助」錦絵 署名「朝桜楼国芳画」山口屋藤兵衛板    「五節供の内皐月 曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助」錦絵 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板    「(菊車・同長月) 曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助」錦絵 署名「朝桜楼国芳画」山口屋藤兵衛板    「(菊車・同長月) 曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助」錦絵 署名「一勇斎国芳画」湊屋小兵衛板    「(皐月)曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助・同岩次郎」錦絵 署名「一勇斎国芳画」湊屋小兵衛板    「五節句(弥生) 曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助」錦絵 署名「一勇斎国芳画」村市板    「(弥生)曲独楽奧山伝司 細工人竹田縫殿之助・同岩次郎」錦絵 署名「一勇斎国芳画」湊屋小兵衛板      ◯『浮世の有様』(著者不詳・天保十五年(1844)六月記)   〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻〕p913   〝二一、はんじ物     はんじもの絵団扇の写    於江戸、水野越前守再勤被仰付し日、はんじ物也とて、其日直に売出せし団扇也と云、或人江戸土産に    これを得られしにぞ、其団扇を見るに、上袋に牡丹とあさがほを画けり、こは牡丹の富貴なりといはれ    ぬる花なれども、朝顔の一日をも保たさるが如く、乍ちしぼみ果ぬべしといへる事にて、貴賤上下大に    あきれはて、胆を潰さゝる者一人もなき程のことにして、十目十指これをよしと思へる者一人の外には    更になき事なれば、牡丹花の富貴なる様に今みゆれども、あさがほの如くにして、其栄保ちがたく、直    にしぼみ果ぬべしといへる事なるべし。駕籠の家根にもやあらんかと思へる異様なる物に手足なき人の    乗りたるは、手も足もなく、身を納れぬる処もなくして、かゝる有様に及べるなるべし、こは上にして    股肱の臣なきといへるたとへなるべし。傘に柄のなきは海内は天子の知ろしめす御国なれ共、天子一人    にしてこれを治め給へる事なりがたきものなるゆへ、諸司百官を定められて、夫々の任をなさしめ給ふ、    これを傘にたとふれば、将軍は轆轤柄の如し。然るに今柄のなき傘を画けるは、其職を失ひしものにし    て、将軍家の事を誹れる事なるべし。綱にて釣上し駕籠をかたげて走行けれ(ママ)る様は、繋げる馬に鞭    つが如し、姦臣権を恣にして、諸臣下を自由自在に追つかはんとするとも、これらもみな人体を得し霊    なれば、善悪の分ちは其心々にあるべき事にして、快からざる事を嬉しと思ひて、これに追ひつかはる    ゝものにはあらず、姦臣の綱にて諸臣を繋ぎ苦るしめんよりは、姦綱を切り放て其駕籠の用をなさしむ    るにしかじといへる事ならんか。あゝ世の中の有様恐るべし/\、こは昨年頼光土蜘蛛に悩されぬる図    を画きぬると同筆内意なることなり。人々心を止てこれをみる時は、其意明らかに分るべきこと也。又    駕籠かき両人共惣身の入れふくろ、瀧の水を巻上げぬるありさまにして、灯燈の印に馬と岩といへる二    文字を書記せしは、水野此度再勤仰付られし故、うまひは/\時節を得たりしと、心中に悦へる様を書    顕はせしものなるべし、され共その憎める諸人らの執着心の大綱にてこれを引留んとする事なれば、い    かほどに水野が心身を労し、汗水を流して駕かきの如し走せ働んとするをも終に詮もなくして、自業自    滅に至るべしと云事なるべし、又諸人悪める水野なれ共、一つの縄にて引上られ、うまひは/\と云事    か、又水野が此度の再勤はめで度様にて、左にあらず、程なく自滅に至るべし、うまひは/\と云事か、    何れにしても遠らずして、此判事ものゝ意味自ら分れるやうになるべき事に覚ゆ〟
   〔頭書(前略)傘ヲ将軍ニタトヘ轆轤柄ナドハ肝心ナルモノニシテ其傘ノ用ヲナシテ、天下ノ人ヲシテ     大雨ニモ濡レザラシム、ユヘニ傘ハ将軍、轆轤ハ執柄家ニタトヘシモノニシテ、御老中ニ人ナク、水     野ガ如キモノゝ再勤スルサヘモ怪シキコトナルニ、仕クジリシヲ効能ニシテ、上座ヲ命ゼラレシニテ     其人ナキコト明ニシテ、将軍ノ御威光モ此傘ノ如ニ自ラスボマリシト云ルコトノ様ニ思ハル、サレド     モ一人ノ水野ヲ御テウアイ(寵愛)甚シキ処ヨリシテ、種々様々ノ誹ヲ免レタマフコトアタワズ、恐     入ベキコトナリ〕    〈水野忠邦の老中再任は天保十五年六月二十一日、この判じ物の団扇も同日に売り出されたという。実に素早い反応で     ある。昨年閏九月十三日、水野の免職を歓喜で迎えた江戸の人々にとっては、まさに青天の霹靂であったに違いない。     上袋の図案、牡丹と朝顔の取り合わせ、これを「牡丹花の富貴なる様に今みゆれども、あさがほの如くにして、其栄     保ちがたく、直にしぼみ果ぬべしといへる事なるべし」と願望を交えて解釈している。なお上袋には「【風流】御団     扇」「猿若町壱丁目中村屋久平」とある。次に団扇の表面、手足のない土偶のような像、これは「股肱の臣」のない     状態を暗示し、また柄のない傘は、〔頭書〕によって補えば、老中に足る人材のいない将軍を意味するともいう。画     には「むら雨やもんどり返す夏乙鳥 古様庵」の賛がある。乙鳥はつばめ。「一勇斎筆」の落款と板元・駿河屋作次     郎の印がある。裏面の絵柄、大綱に引き上げられた駕籠を駕籠舁が担ぐ図と「馬」と「岩」の字を配した提灯とを取     り合わせたもの、これは「うまひは/\」と再任を歓迎する連中がいることを示す一方、「ほどなく自滅に至るべし」     ということを暗示するのだという。2009/11/20記。これについて、岩切友里子氏は「単なる手遊びの図様」として判     じ物と見る『浮世の有様』の説を否定している(国際浮世絵学会『浮世絵芸術』№143)2013/10/20追記〉     <七月-十月>「川中島合戦」一件
   「川中島合戦」一勇斎国芳画 佐野屋喜兵衛板     <十月 見世物 菊細工 巣鴨・染井>  ◯『観物画譜』3(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「菊人形」錦絵 署名「朝桜楼国芳画」伊場屋仙三郎板     <十月以降>「化物忠臣蔵」一件
   「化物忠臣蔵」一勇斎国芳戯画 上州屋金蔵板    ◯「【当世名人】芸長者華競」(番付・弘化元~二年刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝万画 北斎 卍    稀人 曲亭馬琴〟   〝浮世 香蝶楼 〈国貞〉    程吉 一勇斎〈国芳〉   〝画景 一立斎広重    画作 一筆庵英泉〟      〈この番付には「甲乙なし」とあるが、字の大きさや配置からすると、一番格上なのが北斎、次ぎに香蝶楼国貞と一     勇斎国芳、そして広重・英泉のようである。国芳の「程吉」これは当方が字を読み損なったものか、意味が通らな     い。(ただ国芳は春画に「程由」の署名を使う。あるいはそれをここに効かしたか、つまり春画の国芳と)〉     ☆ 弘化二年(1845)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(弘化二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『猫児牝忠義合奏』一勇斎国芳画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    『磁石山浮世精霊』歌川国芳画  万亭応賀作〔目録DB〕    『稲葉山鼓ヶ滝』(画)一勇斎国芳(著)宝田千町 鶴屋善十郎板〔東大〕      (備考、本書は『敵討鼓瀑布』(馬琴作・豊広画・仙鶴堂板・文化四年刊)の改題改刻本)     『狂句百味箪笥』「一勇斎国芳狂画」緑亭川柳撰 山口屋藤兵衛板〔早大〕    『朧月猫草紙』三編 歌川国芳画  山東京山作 山本平吉板  〔目録DB〕     ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(弘化二年刊)※角書は省略    歌川国芳画『十杉伝』五編 歌川国芳画 為永春水二世作〔目録DB〕     ◯『浮世の有様』(著者不詳・弘化二年(1845)二月頃記)   〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」〕p962   〝頼光土蜘蛛の画に続て、三河守知度、楠正成、真田与市、宮本無三四、力持等地獄へ至り、閻魔を始め    鬼共を征伐せる絵を画きぬ。こは楠正成は天下の人も悉尊敬せる人物にして、智仁勇備へぬる男也。三    河守は御当家に於て御由緒有所の受領也。知度は正直にして法度を守り、政道の邪ならぬと云へる事な    るべし。又宮は神の鎮座仕給へる所也。仏法は神道にて忌嫌ふ事なれば、むさしきたなしと云意を籠め    しなるべし。又真田与市を画きぬるは、此沙汰盛に繁茂せし寺地の為に、仰山なる天下の真田を費して    不毛の地となし、末代に至る迄無用の事広大成る天下の国益を失ひぬる事をしらしむるなるべし。又閻    魔の切られぬる有様を画しは、これを水野越前にたとへ、一天下の諸人かれを悪みその姦悪をにくみぬ    ると、水戸侯の寺地を破却して坊主らを還俗なさしめて、寺地を田畑になし給へる事を画きむるものな    るべし。なを此外にも趣意ありぬべき事に覚ゆ〟      〝紫野一休が奴僕説法をなして、借金乞をあざむき諸人の財を奪取せし故事あるを画きて板行とす。この    絵昔よりして云ひ伝へ書顕して諸人よく知る所なれども、今また新にこれを出せるは、悟りを主にして    常に地ごく極楽の噂することなき所の宗門なれども、偶虚言を以て人をあざむくときは、かくの如し。    門徒徳華其外の頻に人をあさき(一字虫食い)、財宝を奪取んと(一字虫喰い)芝居役者の身振声色等    をなして、愚人の魂を蕩かし、頻に金銭を奪へる事、其害甚しく憎むべきことなれば、水戸侯のこれを    廃せんとせられしことは尤の事也。ゆへに人々よく其心得有て、仏に淫し稼業を廃し、産を破らざるや    うにせよとこ戒なるべし〟
    「偽一休和尚説法之図」一勇斎国芳戯画     (ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」データーベース)      〝海底に平家の一門安徳帝を守護せる所へ蜑両人手をつかへて、何か噺ありてこれに答をなせるにやあら    んと思へる様の画を出せり。こは定めて水野越前が為に御政道乱れぬる故、平家の一類其虚に乗じて事    を計らんとする趣を画きしものなるべし。うか/\せば大乱を引出せる事あるべければ、早く彼の天下    の人望に背き、御政事を乱れる越前をして罪せられん事を祈り思へる有様を、目立ざるやうに書記るせ    しものなるべし〟      〝頼光、綱、公時、季武、貞光、義盛、武秀、為朝、行氏、重忠、助成、時宗、巴其外勇夫勇女遊女の類、    地ごくに至り、閻魔十王悪鬼等舌をぬき〆殺し挫殺しなどせる有様を六枚の紙に画けるあれは衆心の憎    み思るもの異形のものに画きなして、存分に其思ひを晴せるなるべしと思はれぬ。おかしき業と云べし〟    〈以上四項、すべて国芳画について判じたものかどうか判然としないが、とりあえず取り上げた。2009/11/20記。     記事は弘化二年のものだが、これらの判じ物の出版は弘化元年(天保十五年)のものか・2011/04/25追記〉     ◯『増訂武江年表』2p106(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)    (「弘化二年」)   〝〔筠補〕九月麻布にて唐もろこしの実変じて、鶏の頭の如き形と成り、国芳錦絵に出づ、これは気候に    よるて□して出来る。中は灰の如しと云ふ。他国には往々あり、珍しからず〟     <秋 見世物 菊細工 巣鴨・染井等>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   △「百種接分菊」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」伊豆善板     〈作画年代は推定の由〉        ☆ 弘化三年(1846)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(弘化三年刊)    歌川国芳画『一勇画譜』一冊 一勇斎国芳又江戸孫三郎画 為永春水序 須原屋新兵衛他板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(弘化三年刊)※角書は省略    歌川国芳画『百囀福等雀』歌川国芳画 立亭京楽作〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(弘化三年刊)    歌川国芳画『春色仮寝の夢』三冊 国芳画?〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    ◇俳諧(弘化三年刊)    歌川国芳画『忠臣蔵四季混題三句合』一冊 国芳画 雨中・笑風著〔目録DB〕      <二月>『一勇画譜』出版
   『一勇画譜』江戸 孫三郎画 須原屋板      <五月>「役者似顔の猫絵」一件
   「役者似顔の猫絵」一勇斎国芳画       <五月 見世物 曲持(瀧川鯉之助)西両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「浪花模様/花曲持 太夫瀧川鯉之助」摺物 署名「一勇斎国芳画」板元未詳      <五月 見世物 刃渡り(養老瀧五郎)両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「養老瀧五郎 剱の刃渡り」錦絵 署名「一勇斎国芳画」加賀屋安兵衛板      <閏五月>「墨戦之図」一件
   「里すゞめねぐらの仮宿」一勇斎国芳戯画     ☆ 弘化四年(1847)     ◯「合巻年表」(〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(弘化四年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『現世扶桑太郎』歌川国芳門人等画 桜花山人作 〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)    『稚源氏東初旅』一勇斎国芳画 笠亭仙果作 永楽丈助板〔目録DB〕    『国字水滸伝』 十八編 歌川国芳画 松亭金水訳〔書目年表〕     ◯「読本年表」(〔切附本〕は「切附本書目年表稿」)   ◇読本(弘化四年刊)※角書は省略    歌川国芳画『稚源氏東国初旅』初編 一勇齋国芳画 笠亭仙果作〔切附本〕     <三月>「朝比奈小人嶋遊」一件
   「朝比奈小人嶋遊」一勇斎国芳戯画     <三月 見世物 曲独楽(奧山伝司・博多小蝶)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「博多小蝶(立亭京楽の戯文・略)」錦絵 署名「一勇斎国芳画」若狭屋与市板     <三月 見世物 ギヤマン細工(長谷川冨五郎)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   △「ギヤマン舩」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」湊屋小兵衛板     <四月 見世物 手品(柳川豊後大掾・忰一蝶斎)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「金龍山おくやまの景」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」海老屋林之助板  ◯「武江観場画譜」十四(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「柳川豊後大掾 こはだ小平次せいろうぬけ」錦絵 署名「一勇斎国芳画」村市板     ◯『著作堂雑記』265/275(曲亭馬琴・弘化四年(1847)記)   〝京橋なる本屋蔦屋吉蔵が板にて、八犬伝を合巻に綴り改め、上方より来つる戯作者某に綴らせて、画は    後の豊国になりと云、この風聞今年【弘化四年】六月の頃聞えしかば、八犬伝の板元丁子屋平兵衛ねた    く思ひて、吾等に相談もなく、亦八犬伝を合巻にすとて、文は後の為永春水【初名金水】に課せて是を    綴らせ、画は国芳の筆にて、其板下の書画共丁秋七月に至り稍成りし時、初て予に強て曲亭校合として    出さまほしといひしを、吾肯んぜず是に答て云、吾等此年来、他作の冊子に名を著して、校合など記さ    せし事なし、思ひもかけぬこと也とて、其使をかへしたり、彼蔦屋吉蔵は利にのみはしるしれものにて、    吾旧作の合巻冊子を、恣に翻刻して新板と偽るもの、是迄二三板出したれども、いふかひなくてそが侭    に捨置たり、蔦吉は左まれ右まれ、丁平は八犬伝の板元にて、作者猶在世なるに、吾等に告げずして、    是迄合巻の作はせざりける金水の為永に課て、是を合巻に綴らせしはいかにぞや、彼金水は其師春水の    遺恨にもやよりけん、丁子屋板にて彼が著したる冊子に、吾等の事をいたく譏りたりとて、伊勢松坂な    る桂窓が告げたりしことさへあるに、こたび丁平の做す所、義に違ふに似て心得がたけれども、夫将利    の為にのみして、理義に疎き賈豎のことなれば、いふべくもあらず、蔦吉板の合巻八犬伝は、書名を犬    の冊子と云、初編二編四十丁、今年丁未九月上旬発板の聞えあり、丁平のは初編二十丁、書名をかなよ    み八犬伝と云、近日発行すべしと正次の話也、蔦吉の課たる作者の巧拙は未だ知らず、金水が手際にて    よくせんや、否可惜(アタラ)八犬伝をきれぬ庖丁にて作改めなば、さこそ不按塩なるべけれと、いまだ見    ざる前より一笑のあまり概略を記すのみ〟    〈笠亭仙果作・三世豊国画『八犬伝犬廼草紙』と二世為永春水作・国芳画『仮名読八犬伝』の挿話である。共に嘉永元年(1848)刊〉        <十二月>「七福神曽我之初夢」一件
   「七福神曽我之初夢」国芳画 三河屋鉄五郎板     △『旧聞日本橋』p363(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   (著者・長谷川時雨の父・長谷川深造(天保十三年(1842)生)、六七歳(弘化四年~嘉永元年)の少年時    代を回想して)   〝玄冶店にいた国芳が、豊国と合作で、大黒と恵比寿が角力をとっているところを書いてくれたが、六歳    (ムツツ)か七歳(ナナツ)だったので、何時(イツ)の間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重も来たのを    覚えている。二朱もってゆくと酒と飯が出たものだった。    国芳の家(ウチ)は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばか    り庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖    だった。豊国の次くらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十位の中柄の男で勢い    の好い、職人はだで、平日(シジユウ)どてらを着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫(シゴト)をして    いたものだ。武者絵の元祖といってもいい人で、よく両国の万八(マンパチ)--亀清楼(カメセイ)のあるとこ    ろ--に画会があると、連れていってくれたものだ。国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満が住んでい    た〟    〈『旧聞日本橋』に長谷川深造が画いた国芳宅の挿絵が収録されている。その長谷川深造は狩野一僊という木挽町狩野     派の絵師に習っていた。一僊は小笠原の浪人で加賀美暁之助と称し、大橋流の書を良くし、漢学も出来、撃剣も教え     る文武両道の士で、当時四十歳位であった由である。玄冶店は現在の日本橋堀留町の辺りをいう地名〉    ☆ 弘化年間(1844~1847)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    ◇絵本(弘化年間刊)    歌川国芳画『日本奇人伝』二冊 歌川国芳画 花笠文京著 弘化頃刊〔目録DB〕      (注記「『古今畸人伝画像集』(天保3年)の板木を流用したもの」)    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(嘉永元年刊)    歌川国芳画    『秀雅百人一首』一冊 画工渓斎英泉 柳川重信 一陽斎豊国 一勇斎国芳 前北斎卍老人〔漆山年表〕                緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板    『忠臣銘々画伝』初編 一勇斎国芳画 池田義信翁輯 一筆葊漁翁序 山崎屋清七板〔漆山年表〕     (頭注 又忠臣蔵銘々伝弘化五申春 元大工町三河屋鉄五郎版といふ同画同著也、同本なるべし)    『日本百将伝』一冊 一勇斎国芳画 一筆斎主人撰 花笠翁序〔漆山年表〕      ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(弘化五年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『仮名読八犬伝』初~三編 一勇斎国芳画 為永春水 丁字屋平兵衛板〔目録DB〕    『両筋恋の山道』歌川国芳画 万亭応賀作〔目録DB〕    『国字水滸伝』十九編 歌川国芳画 松亭金水訳〔書目年表〕    『黄菊花都路』 初編(画)一勇斎国芳(著)十返舎一九 三河屋鉄五郎板〔東大〕            二編(画)朝桜楼国芳(著)十返舎一九 三河屋鉄五郎板〔東大〕            〈〔目録DB〕によれば三編もこの年の刊行〉    『譚柄瑠璃蕣』 初編(画)一勇斎国芳(著)西沢一鳳  伊場屋仙三郎板〔東大〕    『朧月猫草紙』 六編 歌川国芳画 山東京山作 山本平吉板〔目録DB〕    『癖物語』      一勇斎国芳画〔目録DB〕     ◯「読本年表」(〔切附本〕は「切附本書目年表稿」)   ◇読本(嘉永元年刊)※角書は省略    歌川国芳画『稚源氏東国初旅』二・三編 一勇齋国芳画 笠亭仙果作〔切附本〕     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)   ◇英泉戯作・国芳画「誠忠義士伝」   〝当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、    団扇問屋にて、海老屋林之助板元ニて、作者一筆庵英泉、画師国芳ニて、誠忠義士伝と号、義士四十七    人之外ニ判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が蜜柑を配り候処迄、出入都合五十一枚    続、去未年七月十四日より売出し、当申ノ三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り摺込也、五十一番    ニて紙数四十万八千枚売れるなり、是近来の大当り大評判なり。           誠忠で小金のつるを堀江町              ぎし/\つめる福はうちハや〟    〈『【江戸時代】落書類聚』「誠忠で黄金のつるを堀江町義士/\つめる福は団扇屋」(中p245)2011/2/15追加〉
    「誠忠義士伝」 一筆葊誌・一勇斎国芳画     (Kuniyoshi Project)      〈五十一枚組の「誠忠義士伝」が八千セット(合計すると四十万八千枚)。上記貞秀画「富士の裾野巻狩之図」三枚組     72文で計算すると、一枚当たり24文が408000枚であるから、総計で9792000文。これを前項同様、1両6500文の相     場で換算すると1506両になる。因みに次項の国芳画「亀奇妙々」三枚続60文を参考に一枚20文とすると、8160000     文で1255両となる。いずれにせよ前年の七月からこの年の三月まで、約八ヶ月でこれだけの売り上げである〉         ◯『【江戸時代】落書類聚』中p245(鈴木棠三、岡田哲校訂・東京堂出版・昭和五九年刊)   〝板元大利    嘉永元年戊申三月芝高輪泉岳寺に於て、釈迦如来の開帳あり。此時義士の絵数種出板せしが、堀江町二    丁目佐兵衛店、団扇間屋海老屋林之助板元の「誠忠義士伝」大に行はれたり。画師ハ国芳、作者ハ一筆    庵英泉なり。四十七人の外、判官、師直等を加へ、五拾壱枚、凡八千枚通り摺込、五十一番にて四十万    八千枚なり。近年大当りの錦絵なりといふ。      誠忠で黄金のつるを堀江町義士/\つめる福は団扇屋〟      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)四月記)   〝当申四月出板、南油町野村屋徳兵衛板元にて、亀々妙々亀の遊びとて、亀子を役者の似顔に致す候処、    三枚続六十文売にて、凡千通り三千枚程摺込配り候処、百五十通り、四百五十枚計売、跡は一向売れず、    残り候故無是非佐柄木町の天徳寺屋へなげしとなり。       是ハ近年所々造菊大評判ニて、番附も能売れ候ニ付、去年は所々にて板元多くなり、番付一向売       れず、残らず天徳寺ニ致せしとの咄を聞と、右亀之子の板元も天徳寺へ葬りしならん。          工夫して徳兵衛取らふと思ひしに                亀々妙々に売れず損兵衛〟
    一勇斎国芳画「亀奇妙々」三枚続(ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)    〈三枚続60文、一枚20文。前項の「誠忠義士伝」は四十万八千枚、こちらは三千枚摺り込んだものの実際に売れたのは     四百五十枚。当たるとはずれるとでは雲泥の差である〉     <秋 見世物 曲芸(犬と猿)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「戌太夫新川白助・猿太夫早川徳松 申としに申の狂言見にこざる人ハこぞよりまさる賑ひ」錦絵二枚続     署名「一勇斎国芳画」西村屋与八板      ◯「【流行】長者盃」(番付・嘉永元~二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝画(行事)雲峯・武清・椿年〟      〝浮世画 国芳・卍老人・豊国    〈喜多武清は大岡雲峯や大西椿年と共に行事として番付の中央に位置している。町絵師の中でも別格の扱いである。     卍老人は北斎、そしてこの豊国は三代目(初代の国貞)。国芳・北斎・豊国、彼等がこの時代を代表する浮世絵師     なのである。ただ、そこに広重が入っていない点、現代の感覚とはズレがあるようだ〉       ◯『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB〕    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本は英魯文(後の仮名垣魯文)の戯号披露の摺物で、本来は嘉永元     年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延引、刊行は同二年の春の由。(明治28年2月刊『早稲田文学』81     号所収)したがって弘化四年(1847)の詠と思われる〉   〝朝桜楼国芳 面白き作の趣向の種本も今に筆柄(ふでづか)握るこの人〟      〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉    柳川重信・葵岡北渓・一筆庵英泉・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本、本来は嘉永元年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延     引、刊行は同二年の春の由。したがってこの詠は弘化四年頃と思われる(明治28年2月刊『早稲田文学』81号所収)20     17/11/13追記〉     ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之十二「女扮下」②202   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝今世 中民処女褻(ケ)の扮(今世、浮世画名工歌川国芳画く所なり。当世の風姿を能く写し得ると云ふ    べし)    褻には縞衣服を専らとし、小紋等稀なれどもまたなきにあらず。帯は緋か紫の絞り縮緬にて処女の専用    なり。また前垂(マエダレ)は幅広のめいせん織なり。れにまた今様なり〟     ☆ 嘉永二年(1849)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(嘉永二年刊)    歌川国芳画    『続英雄百人一首』一冊 画工玉蘭斎貞秀 一勇斎国芳 柳川重信 一陽斎豊国 前北斎卍老人〔漆山年表〕                緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板      ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(嘉永二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『応現於竹物語』  朝桜楼国芳画 緑亭川柳作 山口屋藤兵衛板〔目録DB〕    『神編藻塩草』初編(画)一勇斎国芳(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 〔東大〕    『本朝金剛伝』初編(画)一勇斎国芳(著)万亭応賀 丸屋清次郎板 〔東大〕    『譚柄瑠璃蕣』二編(画)一勇斎国芳(著)西沢一鳳 伊場屋仙三郎板〔東大〕    『高祖朝日衣』初編 歌川国芳画 万亭応賀作〔早大〕〔目録DB〕     ◯「読本年表」(〔切附本〕は「切附本書目年表稿」)   ◇読本(嘉永二年刊)※角書は省略    歌川国芳画『応現於竹ものかたり』朝櫻樓国芳画 笠亭仙果作〔切附本〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(嘉永二年刊)    歌川国芳画『花暦八笑人』五編上巻 一勇斎国芳画 一筆庵主人(英泉)作 文永堂板〔目録DB〕      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p157(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」   〝当春錦絵の出板、当りハ    一 伊勢太神宮御遷宮之図、  三枚ツヾき、   藤慶板。           一 木下清洲城普請之図、   三枚続、     山本平吉。    一 羽柴中国引返し尼崎図、  足利尊氏ニ書、  同人。    一 姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死、是を粟津合戦今井四郎ニ書。    当春太閤記の絵多く出候ハ、去年八月蔦吉板元にて今川・北条との富士川合戦、伊藤日向守首実検の図、    中浦猿之助と書、村田左兵衛の改ニて出たり、此絵ハ首が切て有故に不吉なりとて、余り当らず候得共、    是が太閤記の絵の最早ニて、当年ハ色々出しなり、又夜の梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、    三枚続出て大当り也、夫故に当春ハ夜の梅の墨絵三枚ツゞき凡十番計出たり、是皆々はづれなり。      太閤記の画多く出板致けれバ       小田がいに摺出しけり太閤記         羽柴しまでも売れて豊とミ       夜の梅昼は売れなひものと見へ〟   〈「太閤記」に取材した錦絵の出始めは嘉永元年(1848)の「富士川合戦」からという。宮武外骨の『筆禍史』によれば、    「太閤記」は受難が続き、古くは元禄十一年(1698)に絶版処分があり、文化元年(1804)には、岡田玉山の『絵本太閤    記』と草双紙武者絵が絶版処分に遭っていた。この時は画工にも累が及んで、喜多川歌麿・歌川豊国・勝川春亭・同春    英・喜多川月麿・十返舎一九等が吟味のうえ手鎖五十日の刑に服していた。今回の「太閤記」ものは、少しは緩んでき    たとはいえ、天保の改革の記憶が生々しい時世での出版である。リスクの高さは予想された。定石通りというか、お上    を憚って木下藤吉郎を中浦猿之助に替えて「富士川合戦」を出版してみた。しかし杞憂にすぎなかった。ただ、首が切    れているのが不吉だとして売れ行きはよくなかった。板元にとっては当てが外れた格好であったが、これはこれで一種    の観測気球にはなったようだ。この程度ならお咎めがないという目安が出来たからだ。この「富士川合戦」は未見。こ    の嘉永二年正月の「木下清洲城普請之図」「羽柴中国引返し尼崎図」「姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死」が「太閤記」も    の。このうち「木下清洲城普請之図」は一勇斎国芳画。あとの二図は未見。「伊勢太神宮御遷宮之図」はこの年の九月    に行われる二十年に一度の式年遷宮を当て込んだもの。国芳にもあるが、藤慶板とあるから玉蘭斎貞秀画である。「夜    の梅」の嘉永元年蔦吉板とは渓斎英泉画か、また嘉永二年板の方は国芳などをいうか〉
    「木下清洲城普請之図」 一勇斎国芳画     (「森宮古美術*古美術もりみや」提供)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇錦絵勧進帳     〝嘉永二己酉年三月三日より    市川団十郎、御当地御名残狂言、歌舞伎十八番の内、勧進帳興行                            河原崎座     (長唄、唄方と囃子方の名簿あり、略)  
   勧進帳 市川団十郎、友右衛門、猿三郎、竹三郎、為十郎、宗兵衛、芝雀、歌助、七右衛門、小団次相    勤候      (八代目団十郎の口上書あり、略)     (第一番目「伊達競阿国劇場」役名と役者名あり、略)  
          八代目三升の上坂を誉て、    遅道      孝行が勧進帳と遙(ハル)/\と        恰(アタカ)も関を越て逢身路    右勧進帳評判故ニ、錦絵出板致し候分、最初出候ハ一枚絵ニて、並木湊屋小兵衛、同三枚続、照降町ゑ    びすや仁兵衛ハ三枚続、馬喰二森治ハ三枚続、両国森川町林や正五郎ハ三枚続、堀江町海老や林之助。      打越て浪花へのぼる弁慶を        関のとがしも留め兼たり                       梅の屋〟
    「武蔵坊弁慶・市川団十郎」 一勇斎国芳画     (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     <三月 見世物 曲独楽(竹沢藤治)両国広小路>  ◯「見世物興行年表」③~⑫(ブログ)    歌川国芳画      「諸国名所十二ケ月ノ獨楽」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」板元未詳    「三曲うかれの大独楽 御なじみ竹澤藤治改竹澤梅升 両国広小路ニて相勤申候     忰萬治改三代目竹澤藤治 相勤申候」錦絵 署名「一勇斎国芳画」藤岡屋慶次郎板    「三曲うかれの大独楽 御なじみ竹澤藤治改め竹澤梅升 忰萬治改三代目竹澤藤治     両国広小路ニおいて相勤申候」錦絵 署名「一勇斎国芳画」藤岡屋慶次郎板    「三曲うかれの大独楽 御なじみ竹澤藤治改め竹澤梅升 忰萬治改三代目竹澤藤治     早替り引ぬき 両国広小路ニて相勤申候」錦絵 署名「一勇斎国芳画」藤岡屋慶次郎板    「諸国十二ヶ月ノ内二月伏見 御なじみ竹澤藤治改梅升 両国広小路ニ於相勤申候」     錦絵 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板    「諸国十二ヶ月ノ内記洲の三月 御なじみ竹澤藤治改梅升 両国広小路ニて相勤申候」     錦絵 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板    「御なじみ竹澤藤治改梅升 御みやけ今昔新工風仕候 両国広小路ニ於相勤申候」     錦絵 国芳画 山口屋藤兵衛板    「竹澤藤治改竹澤梅升 両国広小路ニ於相勤申候」  錦絵 署名「一勇斎国芳画」林屋庄五郎板    「御なじミ竹澤藤治改竹澤梅升 両国広小路相勤申候」錦絵 署名「一勇斎国芳画」林屋庄五郎板     「竹澤梅升 藤治 三曲拳(道外の歌詞あり)」錦絵 署名「一勇斎国芳画」林屋庄五郎板      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」   〝於竹大日如来開帳    三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於て開帳〟
    「【おたけ大日如来】略えんぎ」 一勇斎国芳画     (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵 作品検索システム 浮世絵)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p506(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇仮名手本忠臣蔵    〝七月七日初日     仮名手本忠臣蔵 増補十五段続  座元 中村勘三郎    世に知られたる竹田出雲が妙作の十一段へ、御好に任せ銘々伝を綴り合せし幕無の、大道具は花野の秋    のいろはの袖印、御ひいき御恵之神の応護、大星之手配。     【浄瑠璃道行】千種花旅路の嫁入 八段目に相勤申候     (配役名あり、中略)    右狂言の錦絵、豊国画八十番、国芳画五十番、出板致す也〟
    「仮名手本忠臣蔵・大序」 一陽斎(香蝶楼)豊国画     (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)
    「仮名手本忠臣蔵・五段目」 一勇斎国芳画     (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p523(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝(七月)通三丁目、遠彦より盆後出ル、    宇治川合戦佐々木先陣     実ハ阿部豊後守、大川渡り三枚続、    ほめて計り有て、一向ニうれず〟    〈遠彦こと遠州屋彦兵衛板元の一勇斎国芳画「宇治川合戦」であろう。表向きは佐々木四郎高綱の一番乗りだが、実は     「阿部豊後守、大川渡り」を擬えたと読んでいるのである。「阿部豊後守、大川渡り」とは、三代将軍家光の治世、     大川(隅田川)が氾濫を起こした時、対岸江東の地の視察を命じられた旗本・阿部豊後守が、濁流を渡りきって報告     したというもの。現在、旧安田庭園内にある「駒止め石」は、その時、阿部豊後守が愛馬を止めた石だとされている。     それにしても、何に基づいて、この佐々木四郎を阿部豊後守に見立てたのであろうか。また「ほめて計り有て」全く     売れなかったというのだが、これは寓意不足で、江戸っ子にはものたりないという意味であろうか。ところで「七月     五日、今六ッ半時前御供揃にて、大川筋被為成」(p479)と云う藤岡屋由蔵の書留がある。この「宇治川合戦図」     は、この将軍家慶の大川お成りと関連づけようとしたのであろうか。売りだしは「盆後」とあるから、七月下旬〉
    「宇治川合戦」 一勇斎国芳画     (「森宮古美術*古美術もりみや」提供)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p544(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝爰ニ故人曲亭馬琴が老筆をふるひて、初篇より九篇迄百八冊書残し置里見八犬伝、大評判ニて流行致し    当時丁子屋平兵衛板元ニ候処、南伝馬町一丁目蔦屋吉蔵板元ニて、右の本を丸取ニ致、馬琴のちからを    盗て、為永春水作、国芳画ニて、芳談犬の双紙と題号し、弘化四年未秋ニ合巻出板致し、当酉迄十三篇    迄出、流行也、丁平ニて是を聞て立腹致し、余り残念故ニ自分も同未年暮ニ同様之合巻ヲ出板致し、仙    果作・豊国の画ニて、仮名読八犬伝と表題致し、是も当時九篇出、流行致し候得共、元々の八犬伝ハ丁    平の株ニ候を蔦吉ニて類板致し候ニ付、今迄中之宜敷処不和ニ相成候よし       芳談と其仮名読ハわかれ共          心の犬がいがみ合けり    又、侠客伝・美少年録も馬琴ニて、丁平板元ニ是も又々おつかぶせ、蔦吉板元ニて、一九作・豊国画ニ    て、御年玉美少年始と題号し出板致し、当時ハ四篇迄出ル也。    又 侠客伝仦(ヲサナ)画説と題号し、是も当時三篇迄出ル也、右故ニ弥々中悪敷なりけれバ        丁平のたいらもこぶがいでるとは           さて蔦吉もよくなひと見へ〟    〈『南総里見八犬伝』(馬琴作・柳川重信、二世重信、英泉、貞秀画)は文化十一年(1814)から天保十三年(1842)まで     二十九年に及ぶ読本のロングセラー。「日本古典籍総合目録」は『犬の草紙』を笠亭仙果作・三代豊国画とし、『仮     名読八犬伝』を為永春水二世作・国芳画とする。前者は嘉永元年の初編から途中絵師を替えながらも明治以降に及ぶ。     後者もまた嘉永元年の初編から作画者共に替えながら慶応三年(1867)まで刊行された。『南総里見八犬伝』が文字通     り『犬の草紙』と『仮名読八犬伝』という「犬(似て非なるもの)」を生んだのである〉     ◯『【江戸時代】落書集聚』中p292(鈴木棠三、岡田哲校訂・東京堂出版・昭和五九年刊)   「嘉永二年の流行物」   〝広重・国芳の見立て錦絵は往来の足を止ゞめ、続き物の草双紙は御娘様の御側さらずの御伽をいたし〟     ☆ 嘉永三年(1850)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(嘉永三年刊)    歌川国芳画『義烈百人一首』一冊 画工 玉蘭斎貞秀 一猛斎芳虎 一勇斎国芳 一陽斎豊国〔漆山年表〕                       前北斎卍老人 緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板      ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(嘉永三年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『堀川唄真実録』 初編(画)一勇斎国芳(著)笠亭仙果 山本平吉板 〔東大〕                  袋「一勇斎国芳画」     『本朝金剛伝』  二編(画)一勇斎国芳(著)万亭応賀 丸屋清次郎板〔東大〕    『浮牡丹全伝』  二編 歌川国芳画 柳下亭種員作〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)    『七組入子枕』初・二編 歌川国芳画 笠亭仙果作 上州屋金蔵板〔目録DB〕〔早大〕     ◯「読本年表」(〔切附本〕は「切附本書目年表稿」)   ◇読本(嘉永三年刊)※角書は省略    歌川国芳画『稚源氏東国初旅』四編 一勇齋国芳画 笠亭仙果作〔切附本〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)    ◇艶本(嘉永三年刊)    歌川国芳画『江戸錦吾妻文庫』三冊 国芳画〔目録DB〕     ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (最上段、西筆頭から五番目・相撲番付でいうと前頭)   〝出藍 カメ井ト 一陽斎豊国 ・真景 中ハシ 一立斎広重 ・狂筆 コク丁 一勇斎国芳    〈師の初代豊国を超えた亀戸の大御所、三代豊国(国貞)。実景を写すに優れた中橋住の広重。自在に戯画を画く国     芳は「コク丁」で日本橋石町住か。東方で同格なのは、「親玉 サルワカ 市川白猿」猿若町の八代目団十郎、「本玉      一丁目 玉楼薄雲」吉原江戸町一丁目玉屋の抱え遊女・薄雲、「力玉」剣山(相撲の大関)浮世絵師と役者・遊女・     力士の組み合わせ。遊女と役者と相撲、いずれも浮世絵にとっては稼ぎの大黒柱、これなくして生業は成り立たな     いものばかり、腑に落ちる三幅対である〉     ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1399(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)    ◇「歌川豊国系譜」p中1399   〝国芳 一勇斎、似貌〟
    「歌川豊国系譜」       ◇p中1401   〝歌川国貞    同 国芳    当時役者画候画師、此両人計に候、其内にも国貞一人と可申、其子細は国芳の画は、人物せい高くさみ    しく、国貞が画は幅ありて賑に候、且画もよき故、此画ばかりうれ候て、国芳の役者は一向売不申候、    但し武者画は至て巧者にて、画料国貞より半分下直に候へ共、捌兼候由、国貞五ッ目渡の株を持、五渡    亭と号し、五ッ目に住候、遠方より画双紙の使、不断参候由、国芳は、既に豊国に成べき事候へ共、故    ありてなり不申候由、同国安と申、国貞につゞきて、役者画よく画候者、一昨年相果申候、国芳は職人    風にて細布をしめ、仕事師の如し、国貞は人がら能、常一腰さして出候由 天保九年五月十四日聞〟     ◯『藤岡屋日記 第四巻』p115(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」      〝五月中旬、日本橋元大工町三河屋鉄五郎板元ニて、国芳之画三枚つゞき、真那板ヶ瀬与次郎灘之図、豊    臣太閤、肥前名護屋引返し之処、長門下之関ニて大難船、毛利家の船ニ助られし処の図、国芳筆をふる    ひ候得共、余り人が知らぬ故に売れず〟
    「豊前国与次兵衛灘之図」 一勇斎国芳画     (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵 作品検索システム 浮世絵)      <六月>「【きたいなめい医】難病療治」一件
   「【きたいなめい医】難病療治」一勇斎国芳戯画 遠州屋彦兵衛板     ◯『筆禍史』「浮世絵師説諭」(嘉永三年・1850)p154(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝同年八月十五日、錦絵の認め方につき、浮世絵師数名役人の糾問を受けたる事あり、『御仕置例題集』    によりて其憐愍書の一節を左に録す     一体絵類の内人物の不似合の紋所等認入れ又は異形の亡霊等紋所を付け其外時代違の武器取合せ其外     にも紛敷く兎角考為合買人に疑察為致候様専ら心掛候哉に相聞え殊に絵師共の内私共別て所業不宜段     入御聴重々奉恐入候今般の御沙汰心魂に徹し恐縮仕候    以下尚長々と認めて、此度限り特別に御憐察を乞ふ旨を記せり、其連名左の如し              新和泉町又兵衛店      国芳事  孫三郎              同人方同居         芳藤事  藤太郎              難鞘町六左衛門店      芳虎事  辰五郎              本町二丁目久次郎店清三郎弟 芳艶事  万吉              亀戸町孫兵衛店       貞秀事  兼次郎       南隠密御廻定御廻御役人衆中様           隠密といへるは現今の刑事巡査(探偵)の如きなり、浮世絵師数名はあやまり證文にて起訴さるゝ事も    なく、平穏に済みたるなり  
    〔頭注〕浮世絵師四名    いづれも歌川派の浮世絵師なり、国芳は初代一陽斎豊国の門人、芳藤芳虎芳艶は国芳の門人、貞秀は国    貞の門人なり     国芳  一勇斎 井草孫三郎     芳藤  一鵬斎 西村藤太郎     芳虎  一猛斎 永島辰五郎     芳艶  一英斎 三輪 万吉     貞秀  玉蘭斎 橋本兼次郎〟     ◯『藤岡屋日記 第四巻』p209(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇牛若丸弁慶五条大橋の立ち回り、大当たり    〝十月十日配り    日本橋遠彦板元、国芳画にて、源牛若丸京都五条橋ニて弁慶と立合之処、八天狗助太刀致し候図。    鞍馬山僧正坊、彦山の豊前坊、大峯の善鬼、飯縄三郎、愛宕の栄術太郎、大山伯耆、比羅治郎坊、雨降    山相模坊、      以上八人也、右之絵大当り也。         牛若の五条の橋が大当り         これ八天狗の働きとみえ〟     ◯『藤岡屋日記 第四巻』p217(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850))   ◇相撲・鬼若力之助    (十一月二十二日、回向院において相撲興行)   〝初日より土俵入り致し候    丈ケ四尺一寸、重サ十八貫目、鬼若力之助 少年八歳     生国上総国武射郡戸田村にて、相撲年寄浦(ママ)の浦与一右衛門門人に相成候〟
    「鬼若力之助」 一勇斎国芳画(国立国会図書館・貴重書画像データベース)     ☆ 嘉永四年(1851)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(嘉永四年刊)※角書は省略     歌川国芳画    『釜ケ淵水増石川』三編 一勇斎国芳画 花笠文京作 恵比寿屋庄七板 〔目録DB〕    『堀川唄真実録』 二編(画)一勇斎国芳(著)笠亭仙果 山本平吉板 〔東大〕    『本朝金剛伝』  三編(画)一勇斎国芳(著)万亭応賀 丸屋清次郎板〔東大〕    『国字水滸伝』 二十編 歌川国芳画 笠亭仙果訳 〔目録DB〕    『源氏雲弦月』  初編 歌川国芳画 柳下亭種員作〔目録DB〕     <四月 見世物 鯨(死骸)の見世物 浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「大漁鯨のにぎわひ」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」丸屋清次郎板     <夏 曲馬(樋口弥多丸)西両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「両ごく大曲馬の賑ひ」錦絵 署名「一勇斎国芳画」住吉屋政五郎板     <十月 見世物 虎 西両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)    「(虎と唐人)」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」板元未詳    〈『観物画譜』194と同じ。但し『観物画譜』は文久元年の興行とする〉     ◯『嗚呼矣草』〔大成Ⅰ〕⑲274~83(大坂書林、河内屋茂兵衛出版目録・年代未詳)   〈出版目録中の諸本の刊年からこの『嗚呼矣草』の刊年は嘉永四年以降のものと思われる。元本は文化三年(1806)刊〉   ◇「大阪書林 河内屋茂兵衛梓」⑲275   〝一勇斎国芳画/一勇画譜/全一冊    国芳多年の工夫を凝し新奇妙案の図をえらみ才にまかして画きたれば、普通(ありふれ)たる画譜の類と    は雲泥の差ひにして、世に珍らかなる画本なり〟    〈「国書基本DB」は弘化三年の刊とする〉      ◇「大阪書林 河内屋茂兵衛梓」⑲275   〝一勇斎国芳画/三国英勇画伝/全一冊    これは呉魏蜀三国にその名高き英雄を図にあらはし、おの/\其小伝を附して童蒙の慰めとす。但し名    におふ一勇斎が筆力を揮ひたれば、かの為一老人が水滸伝にもをさ/\劣らず、見るにめがれぬ双紙也”    〈「国書基本DB」収録なし〉     ◇「大阪書林 河内屋茂兵衛梓」⑲275    〝同(国芳)画/忠臣銘々画伝/全一冊”此書は赤穂の義士四十七個誠忠の実伝を挙て国芳大人省像画れ    たれば求て御覧たまへ〟    〈「国書基本DB」は、池田英泉編・国芳画、嘉永元刊とする〉    ☆ 嘉永五年(1852)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(嘉永五年刊)※角書は省略     歌川国芳画    『一休禅師諸国物語』 四巻 歌川国芳画 五柳亭徳升作〔目録DB〕    『稲妻形怪鼠標子』初・二編 歌川国芳画 楽亭西馬作 〔目録DB〕    『稚源氏東初旅』   五編 歌川国芳画 笠亭仙果作 〔目録DB〕    『今様八犬伝』  初編(画)一勇斎国芳(著)為永春水 山口屋藤兵衛板〔東大〕                  上冊見返し「哥川国芳画」見返し「とり女画」             二編(画)一勇斎国芳(著)為永春水 山口屋藤兵衛板〔東大〕                  見返し「国芳女とり画」             三編(画)一勇斎国芳(著)為永春水 山口屋藤兵衛板〔東大〕                  見返し「国芳女とり画」             四編(画)一勇斎国芳(著)為永春水 山口屋藤兵衛板〔東大〕                  見返し「国芳女とり画」             五編(画)歌川国芳(著)為永春水 蔦屋吉蔵・山口屋藤兵衛合板〔東大〕                  見返し「とり女画」二十ウ「一勇斎国芳画」    『譚柄瑠璃蕣』  三編(画)一勇斎国芳(著)一鳳 上州屋重蔵板〔東大〕                  袋「立斎筆」     『嵐山花讐討』  六巻 一勇斎国芳画 柳下亭種員作〔目録DB〕    『天禄大平記』  初編 一勇斎国芳画 緑亭川柳作 〔目録DB〕    『初若菜雪曙』二編八巻 歌川国芳画  立斎光彦作 〔目録DB〕    『東山桜荘子』  初編 一勇斎国芳画 石川一口作 〔目録DB〕    『新撰太平記』     歌川国芳画  柳下亭種員作〔目録DB〕(注記「挿絵節用による」)     ◯「読本年表」(〔切附本〕は「切附本書目年表稿」)   ◇読本(嘉永五年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『稚源氏東国初旅』五編 一勇齋国芳画 笠亭仙果作〔切附本〕    『天禄大平記』初・二編 一勇齋国芳画 緑亭川柳作〔切附本〕    ◯『翫雀追善はなしとり』(平野雅海編・嘉永五年(1852)二月刊「霞亭文庫」)   〝(四代目中村歌右衛門追善 似顔絵)署名「一勇斎国芳画」        はけ書や鴈帰る夜の涙雨  一勇斎国芳〟    〈初代中村翫雀は嘉永五年二月十七日没。絵師は一勇斎国芳・隣春・豊国・清満〉      ☆ 嘉永六年(1853)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(嘉永六年刊)    歌川国芳画    『贈答百人一首』一冊 葛飾為斎  一勇斎国芳 梅蝶楼国貞 緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板〔漆山年表〕               一陽斎豊国 玉蘭亭貞秀 一猛斎芳虎     『武者八景図絵』一冊 一勇斎国芳画 錦亭綾道著〔漆山年表〕    『染物早指南』 一冊 一勇斎国芳画 好染翁編述 野村新兵衛板〔漆山年表〕     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(嘉永六年刊)※角書は省略    歌川国芳(画)    『連理翅山雞奇縁』三編(画)一登斎芳綱(著)楽亭西馬〔東大〕                  表紙「国芳」             四編(画)一登斎芳綱(著)楽亭西馬〔東大〕                  表紙「国芳」    『御伽譚博多新織』初編   一勇斎国芳画 楳田舎好文作 浜田屋徳兵衛板〔目録DB〕    『与話情浮名横櫛』初二編  一勇斎国芳画 楳田舎好文作 山本平吉板  〔目録DB〕    『松浦船水棹婦言』初二編  歌川国芳画  笠亭仙果作  蔦屋吉蔵板  〔目録DB〕    『八犬伝後日譚』 初三編  一勇斎国芳画 為永春水作 〔目録DB〕    『本朝金剛伝』  四編(画)一勇斎国芳(著)万亭応賀  丸屋清次郎板〔東大〕    『再会恋辻占』  二冊(画)一松斎芳宗(著)一筆庵英寿 辻岡屋文助板〔東大〕                 表紙「国芳」    ◯「絵入狂歌本年表」(〔狂歌書目〕は『狂歌書目集成』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(嘉永六年)    歌川国芳画    『狂歌江都花日千両』三冊 歌川広重(上巻)井草国芳(中巻)一陽斎豊国(下巻) 天明老人撰〔目録DB〕              「日本橋之部 画工井草国芳先生」(嘉永六-安政元刊)     <二月>「役者 見立絵」一件
   「役者 見立絵」一勇斎国芳画 加賀屋安兵衛板     〈出版は嘉永五年刊〉     <五月 見世物 灯心細工(松寿軒)人形細工(竹田縫之助・大石眼龍斎)両国回向院>  ◯『観物画譜』73(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「京都人形師 大石眼龍斎吉弘 風流六歌仙 後嵯峨院典侍・式乾門院御匣(丑の刻参り)」錦絵     署名「一勇斎国芳画」蔦屋吉蔵板  ◯『武江観画画譜』十六(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「京都人形師 大石眼龍斎吉弘 風流六歌仙 馬内侍・少将内侍」錦絵 署名「国芳画」蔦屋吉蔵板     ◯『増訂武江年表』2p135(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   (「嘉永六年」記事)   〝六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催しける書    画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九紋龍史進憤怒の    像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし〟      <六月>「浮世又平名画奇特」一件
   「浮世又平名画奇特」一勇斎国芳画 越村屋平助板     ◯『筆禍史』「当代全盛高名附」(嘉永六年・1853)p160(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)    【吾妻】錦   浮世屋画工部    (上段)     豊国 にかほ   国芳 むしや  広重 めいしよ  清満 かんばん  春亭 花てふ     貞秀 かふくわん 国輝 むしや  芳虎    (中段)      国貞 やくしや  国盛 をんな  国綱 芳宗 芳艶 清亢 芳藤 芳玉 直政    (下段)      国麿 清重 芳員 芳雪 広近 春徳 春草 房種 芳豊      かむろ       やく者 にがを むしや めい処 けしき をんな 草そうし うちわゑ かわりゑ       すごろく かんばん     やりて        ◎◎〟    〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている。この豊国は三代目。     「武者」の国芳、「名所」の広重、ここまではよく引用されるところ。「看板」の清満は初名清峯を名乗った二代     目。春亭は「花鳥」、貞秀は「合巻」か。2018/10/22修正〉
    「当代全盛高名附」「浮世屋画工郎」〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉    ☆ 嘉永年間(1848~1853)     ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(嘉永年間刊)※角書は省略    歌川国芳画『桃太郎一代記』二巻 歌川国芳画 楽亭西馬作〔目録DB〕     <見世物 曲馬(渡辺捨治郎・太夫元花谷勝治郎)興行場所未詳・芝神明社>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   △「口上(略)大曲馬 太夫元 花谷勝治郎」摺物 署名「(一勇斎?)国芳画」板元未詳     右端「来ル 月 日より於御當地ニ興行仕候」裏手書「嘉永五年子七月二十四日」   △「口上(略)大曲馬 太夫元 花谷勝治郎」彩色摺物 署名「一鵬斎芳藤画」板元未詳     右端「来ル九月朔日より十月廿八日迄芝神明社内にて晴雨共興行仕候」     〈『観物画譜』77と同じ、『観物画譜』は安政元年九月興行とする〉    〈以上二つの摺物、口上の文言に少し違いがあるが、図様は同じ、にも関わらず画工名は国芳と芳藤で異なる。如何なる事     情によるものか不明。「見世物興行年表」の解説は「この報條は極印一つなので文化十二年から天保十三年に製作された     ものとなる。よって手書きされた「嘉永五年」は理解に苦しむ。また口上文中に両国で長い間興行していたとあるが、そ     の記録も見つからない」として、年代の確定は困難だとしている〉      ☆ 安政元年(1854)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(安政元年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『御伽譚博多新織』三編 一勇斎国芳画 楳田舎好文作 山本平吉板〔目録DB〕    『花紅葉解脱絹川』三巻 歌川国芳画  楳田舎好文作 〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)    『松浦船水棹婦言』三編 歌川国芳画  笠亭仙果作  〔目録DB〕    『仮名読八犬伝』十九二十編 歌川国芳画 鳳簫庵琴童作〔目録DB〕    『八犬伝後日譚』四編 一勇斎国芳画 為永春水作〔目録DB〕    『遖女廼鏡山』初二編 歌川国芳画 一筆庵英寿作〔目録DB〕      ◯『歌舞伎年表』⑦11(伊原敏郎著・昭和三十七年刊)   (「安政元年(1854)」の項)   〝八月四日より河原崎座「吾嬬下五十三駅」。    当狂言を合巻に仕立、「天地人脚本正本」【河竹能進作・国よし画】。外草双紙一部。亦「おどり形容」    と題し評判記上梓す〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『天地人脚色正本(テンチジンシクミノタネホン)』は河竹新七作・歌川国芳画で     安政二年の刊行とする〉    ☆ 安政二年・卯(1855)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(安政二年刊)    歌川国芳画    『芸術秘伝図会』初編 一勇斎国芳画 神武堂大森左近著 誠格堂板〔漆山年表〕    『一勇斎漫画』 一冊 一勇斎斎漫画 英文藏板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(安政二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『南柯夢優妓舞衣』三五編 一勇斎国芳画 楽亭西馬作  丸屋清次郎板 〔目録DB〕    『稲妻形怪鼠標子』 五編 歌川国芳画  楽亭西馬作  惠比寿屋庄七板〔目録DB〕    『与話情浮名横櫛』五七編 一勇斎国芳画 楳田舎好文作 山本平吉板  〔目録DB〕    『天地人脚色正本』 二編 歌川国芳画  河竹新七作  浜田屋徳兵衛板〔目録DB〕    『新編金鶏談』初編 歌川国芳画 為永春水作 丸屋清次郎板〔目録DB〕    『譚柄瑠璃蕣』五編 歌川国芳画 西沢一鳳作 〔目録DB〕     <二月 見世物 生人形(松本喜三郎)浅草奧山>  ◯『観物画譜』87(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「浅草奧山生人形(足長国・手長国等)」錦絵 二枚続 署名「一勇斎国芳画」井筒屋板  ◯「見世物興行年表」②-⑤(ブログ)   「(丸山遊女)」錦絵三枚続の一つか 署名「一勇斎国芳画」井筒屋庄吉板(改印「卯四」)     〈『観物画譜』93と同じ。『観物画譜』は安政三年正月刊とする〉   「浅草奥山人形(手長、足長、穿胸等の異国人物)」錦絵二枚続     署名「一勇斎国芳画」井筒屋庄吉板(卯四)   「浅草奥山人形(手長、足長、穿胸等の異国人物・丸山遊女)」錦絵二枚続    署名「一勇斎国芳画」釜屋喜兵衛板(卯五)   「浅草奥山生人形(手長、足長、穿胸等の異国人物・丸山遊女)」錦絵三枚続    署名「一勇斎国芳画」釜屋喜兵衛板(卯五)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇狂歌(安政二年刊)    歌川国芳画『茶器財画像集』一冊 歌川広重・歌川芳虎・歌川国芳画 清流亭西江編〔目録DB〕     ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝天保ノ末、浜松相公罷政ノ時、頼光土蛛退治図三枚ツヾキノ錦絵出板シ、頼光ハ曲彔ニ倚テ居眠リ、青    海波ノ模様ノ素袍キタル季武、水車ノ模様キタル六曜ノ星ヲ裏銭ヲ并べタル如ク模様取タル四天王ノ輩、    肱ヲ張空ヲ脱ルモアリ、碁盤ニ凭テ眠ルモアルガ、大キナル土蛛ノ頂ノ斑ハ暗ニ矢部駿河ガ紋所ニ似タ    ル黒点ヲナシ、妖魔ノ眷属坊主アリ、山伏アリ、梵天ノ旗ヲタテ、ソロ盤ノ甲ヲ着、岡場所ノ売女、十    組ノ問屋、女髪結ノ類、異類異形ノ怪物ヲ画キタリ。コレハ国貞ノ門人国芳【後ニ二代目国貞トナル】    卜云モノカケリ。殊ノ外ニハヤリテ、金ヲ以テコレヲ購ニイタル。絶板ニナリテハ、愈狩野家ノ名画ヨ    リ尊シ。コレヨリ事アル度ニ、何トモワカラヌ怪シゲナルモノヲ画タル錦絵ハヤリテ、観者サマザマニ    推度シ、牽強附会シテコレヲ玩ブ〟    〈浜松侯は老中水野忠邦。天保十四年春の出版、一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」(大判三枚続・伊場屋板)     である〉    ☆ 安政三年(1856)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(安政四年刊)    歌川国芳画    『国芳雑画集』二編 国芳画 珍分閑人 品川屋久助板歌   〔漆山年表〕    『風俗大雑書』一冊 一勇斎国芳筆 花笠文京序 野村新兵衛板〔漆山年表〕      ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(安政三年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『夢想兵衛勘略枕』初三編 一勇斎国芳画 笠亭仙果作〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(安政三年刊)※角書は省略    歌川国芳画     『大日本国開闢由来記』伊草孫三郎画 一夢道人指漏漁者作〔目録DB〕    『笠松峠鬼神敵討』  歌川国芳画 松風亭琴調作    〔目録DB〕    ◯『藤岡屋日記 第七巻』(藤岡屋由蔵・安政三年(1856)記)     ◇敵討ち p123   (二月十二日 常陸、水戸街道府中宿にて、溝口主膳正足軽・飯島量平、母親殺しの敵同足軽・飯島惣吉    を討ち取る)   〝(落首)留守の間に親を殺してしばたとは府中なやつと討取られけり〟     ◇浅草奥山生人形 p139   〝肥後国熊本、生人形細工人 松本喜三郎 同平十郎  太夫元 小島万兵衛    入口招き人形近江のおかね、夫より浅茅原一ツ家、水滸伝、為朝島巡り、水湖伝、粂の仙人、吉原仮宅    黛の部屋、忠臣蔵夜討、夫より仕廻が鏡山御殿場、仕合之処、都合人形七十二番、木戸銭三十二文、中    銭十六文づゝ、二ヶ所にて取、都合六十四文、中にて番付十六文、目鏡を見せ四文〟    (二月二十五日、水戸家の中間、奥山の生き人形を見物しようとして、客止めに遭い、腹立ち紛れに乱     暴して、人形を打ち壊すという騒動あり。翌日は休業、翌々二十七日より再興行)   〝(三月二十六、七日、人形を預かった家で、一ツ家姥の娘を責める声が、夜中もの凄く、張り番の若者    がうなされて肝を潰すという怪異あり)右に付、翌廿八日念仏堂和尚を相頼み人形ぇ読経上げ、一ツ家    姥娘の人形は焼捨、灰を大川へ流し候よし。是は見物の諸人、一ツ家の人形は能出来た/\と評判致し、    人の気の寄所、古狸付込み右之怪をなせし事なるべし。    右人形は向島水茶やの姥、一ッ家の姥に能似て居候とて人形之図に取度由、松本喜三郎義、姥に咄し候    処に、姥承知致し、我年寄て此世に何の望もなし、勝手次第に被致よと申に付、    喜三郎悦び早速写しに図を取、人形出来致し候処に、右姥は間もなく死し候由、右に付、一ツ家姥人形    には水茶や姥の魂入候とて大評判大入也。    右人形出来は正月十五日、初日にて百両取上げ、翌十六日も同断取上げ、其後にても七拾両ならしには    取上げ候由、尤小屋を懸候には千両も懸り候との評判、二三百両 も懸りしなるべし。    右喧嘩に付、水戸家来国許に差送られ候、落首      だんまりで口をふさいで済しても生人形がものを云たか〟
    「当世見立人形」「風流人形」等 一勇斎国芳画(1856年のものが安政三年の生人形)     (「KuniyoshiProject.com」「Comic and Miscellaneous Prints Modern Select Dolls」)     ◇見世物 p153   〝(三月二十日より六十日間、於深川八幡境内、成田山新勝寺、不動明王并二童子開帳。日延十日)    右開帳参詣大群集也、日延有之、六月朔日迄、此節仮宅大繁昌致し、深川の潤ひ広大之事也、開帳奉納    物も多く有之候得共、是は番付に記し有之、境内見世物当も多く有之候得共、先荒増之分、表門に有之    候者、     一 八犬伝人形、招き人形、伏姫宮参り之処、表門入、橋渡り右手     一 生人形、招き人形、猿田彦にうずめ【いざなぎ/いざなみ】左り手     一 生人形、文覚上人荒行之処     一 曲馬  一 大女  一 蒸気船  一 名鳥等也〟     <二月 見世物 生人形(松本喜三郎)浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)    歌川国芳画    「風流人形(一ッ家)」間判錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」大黒屋金之助板(改・辰二)    「(遊女黛)」中判錦絵 署名「一勇斎国芳画」大黒屋金之助    「當盛見立人形之内 かりざしき奥の図」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」本茂板(右・辰二 左・辰三)  ◯『観物画譜』98・100・106・109-111・116(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    歌川国芳画    「風流生人形(鎮西八郎為朝)」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板(辰二)    「風流人形尽(水滸伝)」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」林屋庄五郎板(辰二)     〈下掲『武江観場画譜』三十の伊勢芳板から山や川の背景図を削除したもの〉    「風流生人形(遊女黛)」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」山口藤兵衛板    「義士夜討人形之図(門前)」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」海老屋林之助板(辰二)    「義士人形(室内・小林)」 錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」海老屋林之助板(辰二)    「義士人形(室内・清水)」 錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」海老屋林之助板(辰二)    「風流人形之図(忠臣蔵・庭中)」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」三河屋利兵衛板(辰三)     「風流人形之図(鏡山)」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板(辰二)  ◯『観物画譜』96・99・104・115(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    歌川国芳画「當盛見立人形」五組物    「當盛見立人形之内 一つ家」 錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」本茂板(辰二)    「當盛見立人形之内 粂の仙人」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」本茂板(辰二)    「當盛見立人形の内 鏡山」  錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」本茂板(辰三)    「當盛見立人形内 二かい坐敷の図」錦絵二枚続 署名「国芳画」「一勇斎国芳画」本茂板(辰二)    ◯『武江観場画譜』三十(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「当世生人形(水滸伝)」錦絵三枚続 署名「一勇斎国芳画」伊勢芳板(辰二)     <三月 生人形(大江忠兵衛)深川八幡>   ◯『観物画譜』(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    歌川国芳画(127・8 132-35 138-43 145・6)    「風流人形尽 住吉大明神・祐天」錦絵 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板(改・辰三)      「当世人形つくしの内 不動明王」錦絵 署名「一勇斎国芳画」藤岡屋慶次郎板(辰三)    「安達原一ッ家之図」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」近久板(辰三)    「風流人形の内 唐天朝 三美人」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」本茂板(辰三)    「当世人形つくし(和藤内・虎)」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」藤岡屋慶次郎板(辰三)    「人形見立神仏儒 鈿女命・賓頭盧尊者」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」大黒屋板(辰三)    「風流人形ノ内 和藤内・おつぢ坊太郎」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」上州屋板(辰三)    「風流人形ノ内 さるた彦・うずめ」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」上総屋岩吉板(辰三)    「風流人形 猿田彦天鈿女・一ツ家」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板(辰三)    「風流人形つくし 日れん上人・おつぢ坊太郎」錦絵二枚続      署名「一勇斎国芳画」上総屋岩吉板(辰三)    「風流人形つくし びんづる・おふく・とうじん」錦絵二枚続      署名「一勇斎国芳画」山口屋藤兵衛板(辰三)    「風流人形の内 一ッ家・祐天聖人」 錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」上州屋板(辰四)    「風流人形ノ内 びんつる・うずめ命」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」上州屋板(辰四)    「風流人形ノ内 伊弉諾尊・伊弉冉尊」錦絵二枚続 署名「一勇斎国芳画」上州屋板(辰四)     <六月>「地震安政見聞誌出板」一件(筆禍)
       『安政見聞誌』 一筆庵英寿著・一登斎芳綱・一勇斎国芳画        〈英寿および芳綱は罰金刑に処せられる。国芳は沙汰無し〉    ☆ 安政四年(1857)    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(安政四年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『堀川唄真実録』六編 一勇斎国芳画 笠亭仙果作 山本平吉板  〔目録DB〕    『月宴更科譚』 四巻 一勇斎国芳画 松園梅彦作 山口屋藤兵衛板〔目録DB〕    ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(安政四年刊)※角書は省略    歌川国芳画『絵本豊臣勲功記』初編 一勇斎国芳画 八功舎徳水作〔目録DB〕     <正月 見世物 軽業(早竹虎吉)両国広小路>  ◯『観物画譜』155・159・164(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    歌川国芳画(改印はすべて「巳二」)     「冨士旗竿早竹虎吉」錦絵 署名「一勇斎国芳画」大黒屋(金)板    「石橋 早竹虎吉」錦絵 署名「一勇斎国芳画」大黒屋(金)板     「江戸花木舞渡 早竹虎吉」錦絵 署名「一勇斎国芳画」大黒屋(金)板    ◯「【諸芸】大都会無双(おほえどにふたつないもの)」(番付・安政四~五年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝似顔 こヽんむるいで二つない   一陽斎豊国〈古今無類、肖像画の第一人者〉   〝傭書 きやうなふでさき二つない  宮城玄魚〟 〈器用な筆先、筆耕の第一人者〉   〝武者 ぐわさいのいきぐみ二つない 一勇斎国芳〈勢いのある絵を画く能力の第一人者〉   〝古風 しばゐのかんばん二つない  鳥居清満〟 〈芝居看板の第一人者〉    ☆ 安政五年(1858)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(安政五年刊)    歌川国芳画    『義士肖像忠臣蔵』前編 一勇斎国芳画 伊東燕凌作 品川屋久助板〔漆山年表〕〈〔目録DB〕の分類は合巻〉    『浅草名所一覧』 初編 一勇斎国芳 一梅斎芳晴 芳綱画 広重 素真 笠亭仙果画                菁々其一 十一才てい女 窻鵞 風翔写 千春 遅日庵不老撰〔漆山年表〕      ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵画(安政五年刊)    歌川国芳画『安政五年コレラ流行漫画』一帖 一勇斎国芳・鳥居喜常画〔目録DB〕     ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(安政五年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『絵本豊臣勲功記』二編 一勇斎国芳画 八功舎徳水作〔目録DB〕〈徳水は柳水亭種清〉    『忠臣夜撃話』  一勇齋國芳画 伊東燕凌作    〔切附本〕    ◯『吉原細見年表』   ◇吉原細見   『新吉原細見記』安政五年春 縦中本 玉屋山三郎板       序「安政戊午春 香以山人述」       袋(図柄は上部に梅の木、中央に禿の後姿(色刷))        「午の春改正」「新吉原細見記」「一勇斎国芳画(印)」「玉楼蔵板」    〈解説によると、冊子から口絵や挿画が削除された代わりに、細見を入れる袋の方に絵を摺り込んだとある。ただその     袋は殆ど散逸したらしく、伝わるのは非常み稀だという〉    ◯「【再案】混雑三個今伊達(とりあハせみつものこんだて)」    (番付・安政五年夏刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝画工 むかし  一勇斎国芳    座元 とつた  守田是好 〈十一世守田勘弥、安政三年、森田座再興、翌四年、森田を守田に改える〉    太棹 きねづか 竹染之助〟〈義太夫三味線、竹染之助は未詳〉    〈昔取った杵柄、守田座を再興した守田勘弥は分かるが、この諺がなぜ国芳・染之助と結びつくのか、よく分からない〉      ◯「三幅対衢占語葉(さんぷくつゐつじうらことば)」(番付・安政五年夏刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝病気 かうでも  一勇斎国芳    元来 あるまいヨ 市川団蔵 〈六世〉    寄歳       桜田左交〟〈狂言作者、三世桜田治助、この年57歳〉    〈国芳・団蔵・左交、過去の実績から云えば「かうでもあるまいよ(本来こんなものではなかったよ)」という意味か。     国芳はどんな病気を患っていたのだろうか〉    ☆ 安政六年(1859)    ◯「合巻年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)   ◇合巻(安政六年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『仮名手本忠臣蔵』初二編 歌川国芳・芳房画 柳水亭種清作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『比奈乃都大内譚』初編  一勇斎国芳画 笠亭仙果作 恵比須屋庄七板〔目録DB〕    『児雷也豪傑譚』三十六編(画)一勇斎国芳 門人芳房補画 表紙 豊国(著)柳下亭種員 和泉屋市兵衛板〔東大〕      ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(安政六年刊)※角書は省略    歌川国芳画『絵本豊臣勲功記』三編 一勇斎国芳・一宝斎芳房画 八功舎徳水作〔目録DB〕〈徳水は柳水亭種清〉    ◯「【十目視所/十指々所】花王競十種咲分」(番付・安政五~六年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝筆頭十才子    狂歌        梅屋鶴子  〈梅屋鶴寿。国芳画とは狂歌の賛を寄せるなど親密な関係があった〉    画家        山形素真  〈谷文晁門人〉    画工        一勇斎国芳    戯作 花の雲    笠亭仙果  〈二世柳亭種彦〉    仏画 鐘はうへのか 神田宗貞  〈未詳〉    傭書 浅くさ歟   宮城玄魚  〈筆耕〉    向座        深川永機  〈俳人二世穂積永機か、向座との関係がよく分からない〉    狂言作       河竹其水  〈河竹黙阿弥、其水は俳号〉    土佐        花所隣春  〈土佐派の福島隣春〉    柳風        佃ノこまめ〟〈「柳風式法」を定めた五世川柳・水谷緑亭(安政5年没)の長子・醒斎ごまめ。佃島住〉    〈これも芭蕉の句、当代の「筆頭十才子」を咲き誇る江戸の桜に見立てた。国芳は豊国に次ぐ別格。玄魚は「傭書」     とあるから筆耕としての評価の方が高いのであろう〉     〈この番付には安政六年三月逝去の、寿海老人(七世市川団十郎)の名が見える。また、常磐津三味線の五世岸沢式佐    が実子に六世を襲名させ、代わりに五世古式部を名乗ったのがこの安政六年である。すると、この番付は安政六年春    の出版とみてよいのだろう。番付から一立斎広重の名が消えて、浮世絵界の大物は三代豊国(国貞)と一勇斎国芳を    残すのみ。その他の絵師では、二代目国貞が頭一つリードしているようだ。本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師番    付」参照のこと〉    ☆ 安政年間(1854~1859)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇絵本(安政年間刊)    歌川国芳画    『雨こんこん狐のよめ入』一冊 国芳画 西馬作〔目録DB〕    『安政見聞誌』三冊 一勇斎国芳 一筆斎英寿画 一鴬斎国周画 一登斎芳綱〔漆山年表〕    『器財集』  一冊 一勇斎国芳 渓斎英泉 柳川画 梅ノ屋撰〔漆山年表〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(安政年間刊)    歌川国芳画『狂歌一代男』一冊 歌川国芳画 梅屋鶴子編 本町連版〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇艶本(安政年間刊)    歌川国芳画    『春色朝夷嶋巡り』一冊 一芸者由古野(国芳)画 甚虚亭安児出拝作〔目録DB〕      (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『よしこの節』  一冊 国芳画?安政頃? 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『小紋帳』歌川国芳画 巴竜子作 安政以降刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 万延元年(安政七年・1860)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔早大〕は「古典籍総合データベース」    〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」〔書目年表〕は『【改訂】日本小説書目年表』)   ◇合巻(安政七年刊)※角書は省略    一勇斎国芳画    『仮名反古一休草紙』十二編(画)一勇斎国芳・芳房補助(著)柳煙亭種久 和泉屋市兵衛板〔東大〕〔早大〕                    見返し・袋「玄魚」              〈前年の十一編の画工は国貞二世。作者は、昨年までの柳下亭種員が安政五年八月死亡したため、柳煙亭種久が継ぐ〉    『金瓶梅曽我賜宝』初編(画)一勇斎国芳(著)瀬川如皐原稿・柳水亭種清綴 和泉屋市兵衛板〔東大〕〔早大〕             二編(画)一勇斎国芳(著)瀬川如皐原稿・柳水亭種清綴 和泉屋市兵衛板〔東大〕〔早大〕             三編(画)一勇斎国芳(著)瀬川如皐原稿・柳水亭種清綴 和泉屋市兵衛板〔東大〕〔早大〕             四編(画)一勇斎国芳・芳房補助(著)瀬川如皐原稿・柳水亭種清綴 和泉屋市兵衛板〔東大〕    『女郎花五色石台』八編 歌川国芳画 芳房補助 柳水亭種清作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕〔早大〕    『不思議塚小説桜』初編 一勇斎国芳画 柳水亭種清作 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『黄金水大尽盃』十編(画)一勇斎国芳(著)為永春水 和泉屋市兵衛板〔東大〕                  見返し「玄魚画」〈前年の九編の画工は国貞二世〉         『児雷也豪傑譚』三十七編(画)国芳・芳房補筆(著)種員遺稿・種清補著 和泉屋市兵衛板〔東大〕       『伊呂波文庫』 三四編 歌川国芳・芳房画 柳煙亭種久作〔書目年表〕            五六編 歌川国芳・芳幾画 柳煙亭種久作〔書目年表〕    『五大力恋湊』二編 一勇斎国芳画 柳水亭種清編 蔦屋吉蔵板〔目録DB〕     (表紙の画工担当〉※出典は全て〔東大〕    『風俗浅間嶽』九編 国貞画 表紙 国芳画 芳房補助 柳水亭種清作     ◯「読本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇読本(万延元年刊)※角書は省略    歌川国芳画『絵本豊臣勲功記』四・五編 一勇斎国芳・一宝斎芳房画 八功舎徳水作〔目録DB〕     <七月 豹の見世物 西両国広小路>  ◯『武江観物画譜』五十(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「(豹図)賛」錦絵 一勇斎国芳画・版元不明     ☆ 文久元年(万延二年・1861)     ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(万延二年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『仮名反古一休草紙』十三編(画)一勇斎国芳・一恵斎芳幾(著)柳煙亭種久 和泉屋市兵衛板〔東大〕                    見返し「玄魚画」    『不思議塚小説桜』二三編 一勇斎国芳画 柳水亭種清 和泉屋市兵衛板〔目録DB〕    『比奈乃都大内譚』 二編 一勇斎国芳画 笠亭仙果作 笑寿屋庄七板 〔目録DB〕    『児雷也豪傑譚』三十八編(画)一恵斎芳幾・芳富補画・国芳(著)柳下亭種員〔東大〕    『黄金水大尽盃』 十一編(画)一勇斎国芳(著)為永春水 和泉屋市兵衛板 〔東大〕                   見返し「玄魚画」袋「附斎画」    『御所桜梅松緑』初三編 歌川国芳画 鶴亭秀賀作 山田屋庄次郎〔目録DB〕    『風俗浅間嶽』 十編(画)一勇斎芳幾(著)柳水亭種清 和泉屋市兵衛板〔東大〕                 見返し「玄魚画」           十一編(画)一勇斎芳幾(著)柳水亭種清 和泉屋市兵衛板〔東大〕                 見返し「玄魚画」袋「楳素(玄魚)」     ◯「一勇斎国芳死絵」一恵斎芳幾画   〝一勇斎国芳、俗姓井草孫三郎、号朝桜楼、法号深修院法山国芳信士    文久元辛酉年三月五日没、寿六十五、浅草八軒寺町大仙寺葬     (肖像) 一惠斎芳幾謹画     楼号も手向くによし朝さくら    有人     すり合す袖にも霜の別れかな    魯文      摘ためた袖にしほるゝ土筆かな   玄魚〟
    一勇斎国芳死絵 一恵斎芳幾画     (山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム)     ◯『増訂武江年表』2p183(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   (「文久元年」記事)   〝三月四日、浮世絵師歌川国芳死す(六十五歳、称孫三郎、一勇斎又朝桜楼と号す。初代豊国の門人にし    て、文化の末より板本のさし画を画き、天保の頃より錦絵其の外多く画きて行はれたり)〟    ☆ 刊年未詳     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本・絵画(刊年未詳)    歌川国芳画    『誠忠義臣名々鏡』一帖 国芳画〔目録DB〕    『和漢英雄画伝』 二冊 国芳・玉蘭斎画〔目録DB〕    『道外十二支』一帖 一勇斎国芳画〔目録DB〕    『十二月稚遊』二冊 歌川国芳画 〔目録DB〕    『唐土廿四孝』一帖 一勇斎国芳画〔目録DB〕    『時世粧菊揃』一帖 国芳画〔目録DB〕     『東八景』  一冊 一勇斎国芳画〔目録DB〕   ◇人情本(刊年未詳)    歌川国芳画『契情六可選』一勇斎国芳画 四阿家可辻作    ◯「切附本書目年表」(高木元著『江戸読本の研究』所収・ぺりかん社・1995年刊)   ◇読本(刊年未詳)    歌川国芳画『義士銘々傳』一勇斎画 伊東作〔切附本〕    ◯「絵入狂歌本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇狂歌(刊年未詳)    歌川国芳画    『衣食住狂歌百人一首』一冊 一勇斎国芳画 梅の屋梅好編   〔目録DB〕    『狂歌百人一首』   一冊 一勇斎国芳画 梅の屋・万労亭編 〔目録DB〕    『鶯蛙狂歌集』    三冊 国芳・大峯・月潭画 千種亭諸持編〔目録DB〕    ◯「艶本年表」(〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」「国文研・艶本」は「艶本資料データベース」)   ◇艶本(刊年未詳)    歌川国芳画    『妖怪見立陰陽画帖』肉筆 一帖10図〔国文研・艶本〕       箱書き「一勇斎歌川国芳筆(三字不明)」「貴重なる国芳筆作品に候 金子孚水」    『仮寝の遊女物語』三冊 国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『江戸紫吉原源氏』三冊 国芳画〔目録DB〕    『春色梅くらべ』 二冊 国芳画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『艶本十一段返』 三冊 国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)     『開談百鬼夜行』 一冊 国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『栄花男今様姿』 三冊 国芳画〔目録DB〕    『口吸心久茎』  二冊 一妙開程由画 大珍房小節狩鷹作〔目録DB〕                   (注記「夜光玉の後編、改題本に「絵本忠臣蔵」あり、日本艶本目録(未定稿)による」)    『当盛水滸伝』  三冊 一妙開程芳画 鳧の安海苔作〔目録DB〕                   (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『比知婦工人』  三冊 ほどよし画 開好亭妙珍坊作〔目録DB〕                   (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『淫篇深閨梅』  三冊 国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『艶情玉櫛笥』  二冊 国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『艶勢喜雑志』  三冊 国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『かわり嶋廻』  四冊 国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『絵本逢会山』  三冊 国芳画〔目録DB〕    『絵本忠臣庫』  三冊 国芳画〔目録DB〕    『逢悦弥誠』   三冊 一妙開程登由(国芳)画 落書庵景筆作〔目録DB〕      『戯場眺望』   三冊 程よし画 好色山人作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『幾夜物語』   三冊 国芳画 元来庵介平編〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)    『道化眼』    三冊 国芳画 大珍房狩鷹作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『枕の海』    一冊 歌川国芳 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『色群記』    三冊 歌川国芳画〔目録DB〕(注記「艶本目録による」)      ☆ 没後資料     ☆ 文久三年(1863)    ◯「合巻年表」(〔東大〕は『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)   ◇合巻(文久三年刊)※角書は省略    歌川国芳画    『絵姉妹姿見草紙』四巻 歌川国芳画 仮名垣魯文作〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)    ☆ 文久年間(1861~1863)     ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序・文久年間記)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)    ◇「歌川国直」の項    〝其頃(文化年中)は国芳なども国直が家に塾生の如く居て、板刻を学びたりし、近き頃迄、国芳が画風    は総て取合せの器財草木なども、国直が筆意にのみよりて画しが、当時は紅毛絵の趣を基として画くと    見ゆ。北斎の画風を慕ふは国直が画風によりて学びし故なり〟      ◇「初代歌川豊国」の項(初代豊国門人)
    「一陽斎豊国系譜」      〝初代豊国門弟     国芳 末ニ記〟      ◇「歌川国芳」の項   〝歌川国芳 文政より〔天保〕〈文久〉の今に至る     俗称 孫三郎  居 始白銀町二丁目〈紺やの男〉後米沢町住 又長谷川町裏玄冶店    号 一勇斎 朝桜楼  江戸産なり    豊国の門人なり、文化の頃、錦画一二種出しが、暫く止む。文政の末より水滸伝豪傑百八人の錦画を出    し(板元両国加賀屋吉右衛門)大に行れ、夫より錦絵草双紙年々発市す。〈狂画〉は能九徳斎春英が画    風を学び、一家の風をなす。門人多し。    〈画く所故人の規則を放れ、新奇の工夫をなし、画るものこと/\く珍らしければ、天保より次第に行    れ、錦画草紙余多画り。弘化に至て益盛にして、浮世絵の一人と称す。文久元年辛酉三月四日卒六十五    歳深修院法山国芳信士、浅草日蓮宗大仙寺に葬す〉      やき筆のけふりときえて筆洗の        手も手向けとなれるはかなさ  梅屋    或人云、国芳が水滸伝の一枚画、図上に豪傑百八人の一個と記す。図毎にしかり半ば画し頃、拕塔天王    晁蓋を画ても又かくの如く記り、終に画終りて百九人となれりと云々。一勇斎漫画、中本〉     欄外    〈国芳女 一燕斎芳鳥    一松斎芳宗 (八丁堀)  一猛斎芳虎 (長谷川町 辰二郎 錦朝楼)     一英斎芳艶 (ホリエ町 橋場 本丁二丁メ)     一鵬斎芳藤 (春木町)     一登斎芳綱 (下槙町)  一寿斎芳員 (音羽)   一春斎芳英     一嶺斎芳雪 (御船蔵)  一集斎芳為        一〔竜〕〈鴬〉斎芳梅〉     欄外     〈一竜斎芳豊        一梅斎芳晴 (東両国)  一葉斎芳貞     一停斎芳基        一宝斎芳房 (万延元年申六月十日歿)  一好斎芳兼     一旭斎芳秀 (青山)   一魁斎芳年 (月岡氏)  一教斎芳満     一張斎芳広        一猫斎芳栄 (外神田)  一蕙斎芳幾 (山谷)        一連斎芳近        一峯斎芳鷹 (花川戸)  一光斎芳盛 (下谷広小路)     一盛斎芳直(下谷オカチ丁)一芸斎芳冨        一勢斎芳勝 (藪下 石渡庄助)    〔一梅斎芳晴 東両国〕   一桂斎芳延       〔一声斎芳靏〕      一天斎芳政       〔一春斎芳照〕       一円斎芳丸〟    ☆ 元治元年(文久四年・1864)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(文久四年刊)    歌川国芳画『水魚連狂歌双六』一冊 歌川国芳・鳥居清満画 桃の本鶴廬著〔目録DB〕      ☆ 慶応元(元治二年・1865)     ◯『俗事百工起源』〔未刊随筆〕②93(宮川政運著・元治二年記事)  (「似顔画のはじまり」の項)   〝政運が云、当時似顔に名を得しものは、歌川豊国といふ、其外にも国芳国貞等の画人あり、又今は摺の    遍もなか/\七八遍にあらず、廿三四遍ずりに及び、代料も壱枚三拾六銭の分は至て粗末なり、是等に    ても世の奢おもひやるべし〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)     ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」⑪189
    「歌川豊春系譜」      ◇「歌川国芳」の項 ⑪230   〝歌川国芳    号一勇斎。又朝桜楼、江戸の産也。本銀町二丁目に住し、京紺屋の男にして、幼年の頃より上絵をよく    し、浮世絵を好むが故に豊国の門人となり、国直が家に塾生の如く居て、板刻絵を学びたる故に、国芳    の画風は総て取合の器財草木抔も、国直が筆意にのみよりて画しが、後は紅毛画の趣を基として画と見    ゆ。北斎の画風を慕ふは、国直が画風によりて学びし故なり。文化の頃紫さらしといへる本三冊(作者    不詳)を画くといへども、甚だ不出来にして評あしかりしゆへ、錦絵の板下を頼む人もなく、世に知ら    れざりしが、文政の始馬喰町錦集堂東屋大助といへる地本問屋にて、平知盛が亡霊を画きし三枚つゞき    の錦絵出板す。同じ年相州大山良弁が滝の図三枚続の錦絵出板、皆国芳に画がゝせたりしに、皆評判よ    く、其後銀座に川口庄蔵、又日本橋に川口長蔵といへる絵草紙問屋ありて、役者似顔を国芳に画がゝせ    板刻すといへども、師豊国又は国貞あるが故に、人みな国芳を嫌ふ。文政の末水滸伝豪傑百八人の内智    多星呉用、九紋竜史進、行者武松、黒旋風李逵、花和尚魯智深の五人を錦絵に画きて出板す。〔割註     板元両国米沢町加賀屋吉右衛門〕。大いに行れ引続百八人残らず出板なしたり。〔割註 或人云、国芳    が水滸伝の一枚画図上に豪傑百八人の一個と記す。図毎にしかり。半を画し頃、托塔天王鼎蓋を画きて    も又かくの如く、終に其絵不残板刻終り百九人となれりと云〕夫より錦絵草双紙年々発市す。狂画は九    徳斎春英が画風を学び一家の風をなす。画く所故人の規則を放れ、新奇の工夫をなし、画るものこと/\    く珍らしければ、天保より次第に行れて、浮世画師の一人と称す。俗称井草孫三郎〔割註 異に太郎左    衛門〕、居始め本銀町二丁目、後米沢町又新和泉町北側新道里俗玄冶店に移り、文久元酉年三月四日卒    す。六十五歳、浅草新寺町日蓮宗大仙寺に葬す。法名 深修院法山国芳信士〟    〈「紫さらし」は未詳〉     ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧327(青葱堂冬圃記・成立年未詳)   〝一勇斎国芳ハ前の豊国が門人なり、江戸銀町に住せし京紺屋某の倅にして、幼年の頃、上絵を能す、後    画を豊国に学ぶといへど兎角上達せず、誰やらが著したる紫ぞうしといふ本三冊をゑがくといへど、甚    不出来にて評あしかりし、文政のはじめ馬喰町東屋大助と云地本問屋ありて、平知盛が亡霊三枚続にし    き絵出板す、おなじ年相州大山良弁滝の図三枚つゞき出板、みな国芳にゑがかせたり、幸ひに皆評よく、    其頃より役者似顔も書たれ共、師豊国又は国貞ある故、人国よしをば嫌ふ、銀座町ニ川口正蔵、日本橋    に川口長蔵と言問屋ありて、似顔を国芳にゑがゝせ板刻す、又両国米沢町加賀屋吉右衛門かたにて、忠    義水滸伝百八人勇士の内、智多星呉用、九紋竜史進、行者武松、黒旋風李逵、花和尚魯智深、五人を国    芳にゑがかせ板刻す、大ひに流行し、引続て百八人不残板行成、また合巻の絵艸紙にも水滸伝を翻訳し    て、国芳が画にて外題国芳水滸伝をあらはす、これより一家を成して名誉たり〟    ☆ 明治五年(1872)     <正月 足芸(竹本駒吉)大阪難波新地>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「三国一足芸 太夫 竹本駒吉 太夫本 竹市」摺物 国芳画 本清板    (「申正月吉日より難波新地溝の側にて」)    〈『観物画譜』183は「申」を万延元年とするが、「見世物興行年表」は明治五年とする。但し、画工の国芳は     文久元年(1861)歿であるから、明治五年のこの興行のために描くことは不可能である〉    ☆ 明治六年(1873)     ◯『浮世絵師歌川列伝』下巻「歌川国芳伝」飯島虚心著 明治二十七年、四~七月新聞「小日本」掲載   (明治六年十月、国芳門人および義子田口其英等、向島三囲稲荷の絵馬堂の西に「一勇斎歌川先生墓表」    を建立。撰文は東条琴台)引用文には飯島虚心の訓点あり。以下の書き下し文は本HPのもの。なお明治23年6月刊『絵    画叢誌』第39巻「歌川国芳の碑」を参照した   〝先生諱は国芳、一勇斎と号す、又朝桜楼主人と号す、井草氏、孫三郎と称す、江戸の人、寛政丁巳十一    月十五日を以て、銀座第一坊に生る、文久辛酉三月五日、新和泉街に歿す、享歳六十五、浅草八軒街大    僊寺に葬る、先考柳屋吉右衛門、妣粕谷氏、先生幼にして聡慧、僅か七八歳、好んで絵本を見る、北尾    重政画く所の武者鞋二巻、同じく政美の諸職画鑑二巻を愛玩す、頓に人物を画くを悟る、十二歳の時、    鍾馗劔を提ぐるの図を画く、其の状貌猛壮、行筆秀勁、老成者の如し、此の時に当り、一陽斎歌川豊国、    所謂浮世絵師の巨擘にして時に名あり、嘗て此の図を見て、大に竊に歎賞し、以て得易からざるの才と    為す、称揚特に厚く、先生遂に之を弟子と為す、研窮年有り、是より先、豊国の門に国政・国長・国満・    国安・国丸・国次・国直等数子有り、皆絵事に於て歌川氏と称するを許す、受るに偏名国の字を以てす、    是に於て歌川の画技、都鄙に伝播す、豊国既に歿し、数子前後相継ぐ、凋落殆ど尽く、先生国貞と美を    済し名を斉す、魯の霊光の巍然として長く存するが若く、其の業雁行、国貞、閨房美人・仕女婉淑の像    に巧なり、先生、軍陣名将勇士奮武の図に長じ、嬰孩童と雖も其の声価を知らざる者無し、先生斎藤氏    を娶り二女を生む、長名は鳥、早世、次名は吉、田口其英に配す、以て嗣と為る、先生梅屋鶴寿と情交    尤も密、恰も兄弟の如し、鶴寿其の業に賛成し、四十年亦た一日の如し、良友と謂うべし、今茲癸酉、    正に十三年忌辰に当る、其の門人及び其英相謀りて追薦会を為す、余先生と旧有るを以て、碣文を製ら    んことを請う、而して墓石限り有り、嬭縷するを得ず、余の識る所を以て。其の責を塞ぐと云う      明治六年癸酉十月 友人 東條信耕撰 萩原翬書并篆額〟    〈嬭縷の「嬭」の字、鈴木重三著『国芳』「総説」は「糸偏+爾」とする。裏面に門人一同の名あり〉   (以下『国芳』「総説」p249(鈴木重三著・1992年刊)より)     一勇斎門人    故人 芳政、芳勝、芳艶、芳鶴、芳玉、芳丸、芳綱、芳員、芳雪、芳基、芳豊、芳信、芳房、芳為、       芳重、芳形    現存 芳宗、芳藤、芳貞、芳兼、芳満、芳幾、芳春、芳広、芳年、芳彦、芳景、芳州、芳延、芳仙、       芳桐、芳邨、芳豊、芳艶、芳谷、芳中、芳盛、浪花 芳梅、横浜 芳柳、芳柳男 義松、一豊     芳幾社中 幾丸、幾英、幾勝、     芳春社中 春富、春中     芳年社中 年晴、年麿、年景、年次、年秀、年豊、年明、年延、年広、年種     芳景社中 景久、景虎     芳州社中 永州、州勢     芳延社中 文延     芳谷社中 谷郷     永州社中 永千代、永多代     芳柳社中 羽山芳翠、山本芳翠、月柳、柳祥、柳静、芳斎、柳秀、柳雪、柳義     芳梅社中 梅雪、芳峯、梅秀、浪花 芳瀧、 同社中〟    ☆ 明治十四年(1881)    ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』内務省博物局 明治十五年刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)     歌川国芳画 九紋龍 画扇 一本〟  ☆ 明治十五年(1882)   ◯ 第三回 観古美術会〔4月1日~5月31日 浅草本願寺〕   『第三回観古美術会出品目録』竜池会編 有隣堂 明治15年4月序(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第四号(明治十五年四月序)   〝国芳 双幅(出品者)三星龍運〟〈画題不明〉  ☆ 明治十七年(1884)  ◯ 第二回 内国絵画共進会〔4月11日~5月30日 上野公園〕   『(第二回)内国絵画共進会会場独案内』村上奉一編 明治十七年四月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川国芳 文久元年六十二歳ニシテ卒ス〟  ☆ 明治十八年(1885)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治十八年刊)    歌川国芳画『百八狂画図式』前編一冊 一勇斎国芳遺稿 梅の屋主人筆 吉田金兵衛板〔漆山年表〕    〈明治二十年、出雲寺万次郎再刊〉  ☆ 明治十九年(1886)     ◯『香亭雅談』下p18(中根淑著・明治十九年(1886)刊)   〝一勇斎国芳、故歌川豊国門人なり、国貞と俱に鏤版画を以て著はる。其の猛将健卒及び千軍万馬の縦横    奔馳の状を写すこと、当時称して無双と為す、嘉永中東都名娼の真を写して印行す、都人争ひて之を需    め、声華甚だ高し、一日某大族、国芳を携へ江西の川口楼に宴し、水神白髭等の諸勝を図せしむ。国芳    先づ小紙を膝上に展べ、景に対して匇匇鉤摸す、一妓有り、其の画工たるを知らず、傍らより此を調(ア    ザケ)りて曰く、子も亦絵事を知るかと、国芳顧て曰く、咄這豊面老婆、吾れ他日汝が為にその醜を掩は    ずと、妓未だ喩らず、之を婢に問ふ、婢曰く、是画人国芳君なりと、妓吃驚して、地に伏し謝を致す、    闔坐姍笑す、国芳晩節江東牛王祠前に住す、今三囲社畔ニ其ノ伝碑アリ〟    〈本文には中根の頭注があり、それによると「豊面」とはお多福の由である〉  ☆ 明治二十二年(1889)     ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝一勇斎 国芳    豊国門人中の高弟也。好んで多く武者を画き、国貞と相並んで、互に筆力を争ふ。時に水滸伝を画きて、    其名国貞の右に出づ、以来、武者を画く者、国芳の画風に倣はざるなし〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯ 日本美術協会美術展覧会〔3月25日~5月31日 日本美術協会〕   『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号 松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川国芳 角觝図 絹本 横物 一幅(出品者)帝国博物館〟     浮世画扇子 扇掛共 十本(出品者)帝国博物館      北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷  ◯「【新撰古今】書画家競」奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家     安 政  一勇斎国芳〟 浮世絵師 歴代大家番付    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p302(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝哥川国芳    通称孫三郎、一勇斎ト号ス、豊国ノ門ニ学ビ、師ト倶ニ錦画ヲ以テ著ハル、其ノ猛将健卒及ビ千軍万馬    縦横奔馳ノ状ヲ写スガ如キ、当時称シテ無双トス、嘉永中東都名娼ノ真ヲ写シテ印行ス、都人争ヒテ之    ヲ需メ、声華甚ダ高シ、一日大族某、国芳ヲ携ヘ江西川口楼ニ宴シ、水神白髭等ノ諸勝ヲ図セシム、国    芳先ヅ小紙ヲ膝上ニ展ベ、景ニ対シテ匇々鉤摸ス、一妓アリ、其ノ画工タルヲ知ラズ、傍ラヨリ之レヲ    嘲リテ曰ク、子モ亦絵事ヲ知ルカト、国芳顧テ曰ク、咄這豊面老婆、吾レ他日汝ガ為ニ其ノ醜ヲ写サン    ト、妓解セズ、之レヲ婢ニ問フ、婢曰ク、是レ画人国芳君ナリト、妓吃驚地ニシテ謝ス、闔坐姍笑ス、    国芳晩年ニ江東牛王祠前ニ住ス、今マ三囲社畔ニ其ノ碑アリ(香亭雅談)〟    〈明治十九年刊、中根淑の『香亭雅談』をそのまま引いている〉      ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   ◇「歌川国芳」の項 p12   〝歌川国芳    本名〔空欄〕   号 一勇斎   師匠の名 初代豊国  年代 凡三十五年前より六十年迄    女絵髪の結ひ方 第十三図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、墨絵、二枚つぎ、絵本、肉筆    備考   横絵の景色は高価なり〟      ◇「図柄」の項 p21   〝花鳥及び景色は凡て美人其の他の風俗画に比して凡(オヨ)そ半額くらい廉価なり。又広重、国芳、英泉、    及び国貞の如きは風景、花鳥の方却って高価なり〟     ◯『浮世絵師便覧』p223(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝国芳(クニヨシ) 歌川、◯一勇斎と号し、又朝桜楼と号す、井草氏、俗称孫三郎、一世豊国門人中屈指の名    手なり、水滸伝の画最著はる、文久元年死、六十四〟     ◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝歌川国芳 朝桜楼    俗称井草孫三郎、号一勇斎。文久元酉年三月四日歿す、歳六十五。浅草八軒幸町大仙寺に葬る。法号深    修院法山信士。(国芳は初代豊国門人。父は本銀町一丁目染物職柳屋吉右衛門。始め勝川春英が画風を    学び、文化八年豊国が門に入り、居を米沢町、後和泉町に移す。一時二世豊国を凌ぐの勢ありしかば、    某の狂句に「よしがはびこつて渡し場の邪魔になり」よしは国芳、渡し場は五渡亭なり)〟     ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊広伝」p123   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりて    は、其の本をすててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て    土佐狩野の門に出入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師    と称し、殆ど土佐狩野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて    末に走り、骨法筆意を旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の    情なく、甚だしきは尊卑老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜ    しむ。これ豈浮世絵の本色ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざる    ものは、蓋し豊広、広重、国芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門を    うかがい、英氏のあとをしたい、終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画    世に行われずして止む。もし豊広の画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰う    ること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しきに至らざるべし。噫〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉      ◇「三世豊国伝」p132   〝同九年五月の風聞書に(古画備考載する所)、当時役者画かき候画師、此両人計(バカリ)に候。其の内に    も国貞一人と可申、其子細は国芳の画は人物せい高くさみしく、国貞が画は幅ありて賑やかに候。且画    もよき故に此画ばかり売れ候て、国芳の役者画は一向売れ不申候。但し武者画は至て巧者にて、画料国    貞より半分下直(シタネ)に候えども捌けかね候。国貞五ッ目渡場の株を持ち、五渡亭と号し五ッ目に住候。    遠方より絵双紙屋不断来候由。国芳は既に豊国になるべき事候えども、故ありて不申由。同国安と申は    国貞につづきて役者絵よく画き候が、一昨年相果申候。国芳は職人風にて細帯をしめ仕事師のごとし。    国貞は人がらよく、常に一腰さして出候由とあり。     按ずるに、当時豊国の後を継ぐものは国貞ならんといい、又国芳ならんといい世評甚だ噪がしかりし     ことは、此の風聞書を見て知るべし〟      ◇「歌川国芳伝」p185
    「歌川国芳伝」     ◯『浮世絵師歌川列伝』「浮世絵師歌川雑記」p212   〝或人曰く、国芳源頼光が病床にありて、百鬼に悩まさるるの図を画きて捕われしが、別に寓意ありて画    きたるにあらざれば赦されたり。道路の人此画を評し、頼光は将軍家慶公、四天王は閣老、百鬼は下民    を指したるなり〟  ◯「浮世絵師追考(二)」如来記(『読売新聞』明治30年(1897)2月1日記事)    (玉蘭斎貞秀記事より)   〝国貞の二世豊国を改めしや、国芳は之をいやしみて、再び之と交はらず、是時より更らに歌川を名のら    ずして、単に一勇斎国芳と号して、盛に其筆を揮へり。其頃国貞豊国の世評宜しからざりしは、彼の    「歌川をうたがはしくも名のりえて 二世の豊国にせ(偽)の豊国」といふ狂句にても知らるべく、尚誰    人の口すさみにか       応(すゞろ)なく葭に竿さすわたし守    とあり。葭とは国芳、わたし守とは豊国の事をいひしなるべし。其後一立斎広重の仲裁にて両人和睦し、    其記念にとて画きしは広重・国芳・豊国三名合筆の彼の有名なる東海道五十三次の画なり。渡辺華(ママ)    山は一度国芳の門に入りて学ぶ所あり、三遊亭円朝亦幼少の時国芳に就て浮世絵を稽古せしといふ事を    耳にせり、如何〟     ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   ◇「歌川豊国系譜」p83   〝国芳(初代豊国門人)一勇斎〟
    「歌川豊国系譜」      ◇「歌川国芳」の項 p92   〝 歌川国芳(ルビうたかわくによし)    歌川国芳は、俗称井草孫三郎、一勇斎また朝桜楼と号す。寛政九年十一月十五日、江戸神田本銀一丁目    に生(ウマ)る、父は柳屋吉右衛門と称し、染物を業とせり、国芳十二歳の時、未だ師に就かずして、鍾馗    提剣図を描きしに、筆勢勇烈画才の蓋(*オオ)ふ可(*ベ)からざるものあり。初め勝川春英が画風を学び、    後に初代豊国が門に入る、同門人国直が画風を慕ひ、三氏の筆意を得て、これに洋画の長所を取り、和    洋相折衷して別に一家を為(ナ)せり。文化文政の間、一旗幟(キシキ)を本所に掲ぐ、然れども其名未だ世に、    知られざるを以て、其の画を需むるもの少なし。家計甚だ貧しきを告ぐれど、自ら清貧を楽むを以て北    斎に比し、飯器(ハンキ)を机に代用して平然たりき、梅屋鶴寿、其奇行を聞き、行きて貧を助け、無二の    友垣を結びたりき。或人の説に、国芳壮年の時、本所石原に借家す、赤貧名状すべからず、夏日葭戸を    売却して、食料に充てんと欲し、或夜竊(*ヒソカ)に葭戸を負ひ、大川の東岸を過る時、同門人国貞愛婦を    携えて、得意顔に散歩するを見、国芳己れの技倆劣りて、斯(*カ)く浅ましき様に至るを愧(*ハ)ぢ、携    え持ちし葭戸を河中に投じて、家に帰り、爾来(*ジライ)刻苦励精して、遂に国貞と並び称せらるゝに、    至りぬと云ふ。国芳或人の媒介(ナカダチ)にて井原氏を嗣ぎ、居を米沢町に、又長谷川町に移す、文政の    初め頃、平知盛が亡霊の錦絵を描き(馬喰町東屋大助板)始めて、世に名を知られたり。これより国芳、    名将勇士の画に其名高く、同時に五渡亭国貞、美人俳優に妙を得て、其名喧々(*ケンケン)たり。一は硬を    一は軟を描きて、均しく精妙の域に進み、実に恰好の一幅対たりき。水滸伝中豪傑百八人の錦絵は、国    芳が作の最も傑出したるものなり、こは文政の末頃の作にして、板元は両国加賀屋吉右衛門なり、天保    十四年の夏、源頼光蜘蛛の精に悩まさるゝ、恠異(カイイ)の図を錦絵に物し、当時の政体を誹毀(*ヒキ)す    るの、寓意ありとて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき。其寓意と云へるは、頼光を徳川十    二代将軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精を悩まさるゝの意に、    比したりと云ふにありき。    嘉永六年六月廿四日、両国柳橋南河内屋の楼上にて、鶴寿が画会の時、国芳己れが着したる、単衣を脱    (ダッ)し墨に浸し、毫に代(カエ)て七十畳敷の大広間に三十畳の渋紙を拡げ、其上に九紋龍史進奮勇の図    を作れり、画勢雲湧き龍跳るの趣ありて、一坐其奇作に、驚嘆せざるもの無かりしと云ふ。浅草観世音    開扉の時、吉原の妓楼岡本楼より、寄進せし観音利生記中、一家の悪婆の絵馬、並に深川永代寺に於て、    成田山不動明王開帳の時画きし、祐天上人記の絵馬に、共に国芳の手に成りし、傑作にて頗(スコブ)る世    人の高評を得たるものなり。総じて国芳が画きし、人物の衣服の模様装飾などの、精細周緻なるは、染    物職の家に人と成りしゆゑならん。今其性行如何(イカン)を考ふるに、或年日吉神社祭典の時、そが氏子    の商家は美を競(キソ)い華を争ふ中に、国芳は格天井(カクテンジヤウ)の縫模様ある高価の衣服を、着し出でん    とするに臨み、偶々(タマタマ)驕奢を戒むるの禁令出でければ、直様(スグサマ)格天井の墨絵を白木綿に描き、    これを着して御輿(ミコシ)に従ひしと云ふ。晩年中風症に罹りて業を廃し、文久酉(*ママ)三月五日、遂に没    す、年六十五、浅草八軒町大仙寺に葬す、法名は、深修院法山国芳信士、明治六年門人等相謀りて、碑    を墨江牛島神社境内に建つ、撰文(センモン)は東條琴台、書は萩原秋巌なり。国芳二女あり各々画をよくす、    門人に良材乏しからず
    「歌川国芳系譜」     △『絵本江戸風俗往来』p132(菊池貴一郎著・明治三十八年(1805)刊)   (「六月」)   〝軒の燈籠    この晦日より江戸市中至る所、提燈或いは切子燈籠を毎戸毎夕ともすは、亡き魂の供養の燈火とかや。    提燈は長形・丸形・上ひらきて下細りたる形の三種なり。皆大中小ありて無紋なるあり、紅画・藍画に    て山水・花鳥・人物のかた美しく、切子燈籠は絶えて品よく、細工の技倆勝れたるより、費もまた多し。    無紋の長形大提燈へ題目または名号、或いは先祖代々など書きつけるあり。何れも皆今日より八月七日    頃迄は夜毎ともすものとしける。燈籠は細工物を出し、または画を出す。画は当時の浮世画工豊国・国    芳・広重の三画工競うて技倆を表し、新案妙図を工夫せるより、見物の人士夜毎に群集す。細工物に引    き替えるや、この細工人もまた画に劣らじとて工夫をこらして、見物の目を驚かする、山水・人物の作    りよく出来たり〟    〈この豊国は三代目、すなわち国貞であろう〉    ☆ 大正年間(1812~1825)     ◯『梵雲庵雑話』(淡島寒月著)   ◇「淡島屋のかるやき袋」p123(大正五年(1916)一月『浮世絵』第八絵号)   〝何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)と    達磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、疱    瘡神を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨、木菟(ミミズク)等を英泉国芳(クニヨシ)等が画いて    いるが、袋へ署名したのはあまり見かけない。他の家では一遍摺(イッペンズリ)であったが、私の家だけは、    紅、藍(アイ)、黄、草など七、八遍摺で、紙も、柾(マサ)の佳(ヨ)いのを使用してある。図柄も為朝に金太    郎に熊がいたのや、だるまに風車(カザグルマ)、木菟等の御手遊(オモチヤ)絵式のものや、五版ばかり出来て    いる〟      ◇「幕末時代の錦絵」p121(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝(御維新当時)    新版の錦絵を刷出(スリダ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたもの    です。大道(ダイドウ)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、    歌麿だとかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前(クラマエ)の須原屋の前に夜になると店を出す坊主と    いう古本屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳(ク    ニヨシ)とか芳年などの新らしいものが歓迎されたのです〟    〈蔵前の須原屋は浅草茅町の松成堂・須原屋伊三郎か〉      ◇「私の幼かりし頃」p391(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝それから(維新戦争)後には、明治天皇奠都(テント)の錦絵やなぞが盛んに売れたが、その当時は浮世絵    師の生活状態は随分悲惨であった。芳年なぞは弟子も沢山あってよかったようだが、国芳の晩年なぞ非    常な窮境であった。そしてある絵師なぞは人形を作って浅草観音仲見世(ナカミセ)で売っていた。であるか    ら一流以下は全く仕事がない状態で苦しかったことが明かになる〟    ☆ 昭和年間(1826~1988)     ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p156   (嘉永二年(1849)記事。野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 おもしろき作の趣向のたね本もいまに筆柄にぎるこの人         朝桜楼国芳    魯曰、国芳俗称井草孫三郎一勇斎と号す、父は柳屋といふ染物業なりしが国芳は画に志し元祖豊国門に    入りて研鑽怠らず後一家の風をなす、一たび墨陀(スミダ)牛島に栖(ス)みて朝桜楼と号し又其画く所の水    滸伝いたく世に行はれしより水滸亭と仮名す、久しく玄冶店(ゲンヤダナ)に卜居せしが文久辛酉年三月四    日其家に歿す、齢六十五、法号深修院法山国芳信士、浅草八軒町大仙寺に墓碑あり。国芳翁の歿画(シニ    エ)の肖像は門人朝霞楼芳幾氏の筆にて其上欄に手向けの句あり、此の刷絵(スリエ)連中へ配りし後絵草紙    店に掲げて鬻げり。     楼号も手向(タムケ)るによし朝ざくら    (山々亭)有人     すり合す袖にも霜の別れかな       (仮名垣)魯文      摘溜めた袖にしをる土筆(ツクシ)哉     (梅素亭)玄魚〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。山々亭有人は条野採菊、鏑木清方の父。明治三十五年(1912)歿、享年七十二歳。梅素亭玄魚は上野下谷     新黒門町の地本問屋・魚栄屋。広重画「名所江戸百景」の版元として、また双六絵師としても知られる。明治十三年     (1880)歿〉     ◯『狂歌人名辞書』p68(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝歌川国芳、通称井草孫三郎、一勇斎、又、朝桜楼と号す、初代豊国門人、武者絵に長じ水滸伝の画像最    も名高し、其門より明治の芳年、芳幾を出す、文久元年三月五日歿す、年六十五〟       ◯「日本小説作家人名辞書」p709(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝烏有散人    内容が簡単なもので、挿絵画家歌川国芳の匿名であらうと云ふ。「熊谷武功軍扇」(天保三年(1832)    刊)の作者〟    〈「日本古典籍総合目録」『熊谷武功軍扇』合巻・烏有散人作・歌川国芳画・天保三年刊〉     ◯『浮世絵師伝』p60(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝国芳    【生】寛政九年(1797)十一月十五日 【歿】文久元年(1861)三月五日-六十五    【画系】初代豊国門人        【作画期】文化~万延    歌川を称す、井草氏、俗称孫三郎、一勇斎・朝桜楼と号す、神田本銀町一丁目染物業柳屋吉右衛門の子    にして、幼名を芳三郎といへり。幼時より深く絵本類を愛玩し、七八歳の頃重政の『絵本武者鞋』と政    美の『諸職画鑑』とを見て初めて人物画を描く、其後十二歳の時「鍾馗の図」を描きしに、筆力秀勁に    して恰も老成者の如き観ありしと云ふ。初代豊国曾て其の図を一見して彼の非凡なる画才を称揚し、遂    に彼を門生の一人として薫陶することゝなれり、これ実に文化八年彼が十五歳の時の事なり。    彼の作品は、凡そ文化十一年(十八歳)に発表せしものを以て最初と見るべく、それより年々錦絵及び    草双紙類を画き、歿年当時に至るまで連続して夥しき数に上れり。彼れ素より凡匠には非ざれども、師    豊国の存世中は師の盛名に圧倒せられ、且つ同派諸先輩の爲めに多少進路を妨げらるゝ所ありて、文化    以後文政七八年頃までの彼は、未だ社會的に名声を贏ち得るには至らざりしが、文政十年の頃「【通俗】    水滸伝豪傑百八人」(面貌の変化は本所五ツ目の五百羅漢の木像を写して応用せしものなりとぞ)を出    すに及んで、所期以上の好評を博し、それよりして世に「武者絵の国芳」と謳はれたり。爾後更に研鑽    を重ねて、新たに風景画の方面に擡頭し、当時其の方面に名を得たる北斎・広重等と相並んで、各技倆    を競ひし中に、彼の用ゐたる洋画風の手法は、在來の型と異りて、著しく清新の気に充ちたるものなり    き、かの天保二年頃の作と思はるる「東都名所」(十図)及び同型の風景画(五図)は、即ち其の点に    於ける代表的傑作なり。彼は其後洋画の手法を人物画にも応用し、嘉永年間には「唐土二十四孝」其他    数図を作画せり。いま彼が風景画の重なる画題を挙ぐれば左の如し。     ◯東都名所霞ケ関 ◯同 駿河台    ◯同 鉄砲洲    ◯同 大森   ◯同 両国の涼      ◯同 新吉原   ◯同 洲崎初日の出 ◯同 両国柳橋   ◯同 浅草今戸 ◯同 佃島      (以上十図、版元加賀屋吉兵衛)     ◯東都橋場之図  ◯同 御厩川岸之図  ◯同 宮戸川之図  ◯同 首尾の松之図      ◯同 三ツ股之図     (以上五図、版元山口屋藤兵衛)     ◯忠臣蔵十一段目夜討之図  ◯近江の国の勇婦於兼       ◯東都富士見三十六景 昌平坂の遠景・山王神事雪解の富士・新大はし橋下の眺望・隅田堤の夕富士・      佃沖晴天の不二      ◯相州大山道田村渡の景(口絵第六十一図参照)  ◯大山石尊大瀧之図      ◯東海道五十三駅四宿五宿名所  ◯高祖御一代略図(十枚の内)塚原雪中・角田波題目    尚ほ彼の美人画、役者絵も亦優に一家を成すに足るものなりし事は、其の作品に照らして明かなるが、    其他禽獣・魚蟲及び種々の戯画・手遊絵等に至るまで、取材頗る広汎にして、修技上に就ては、師豊国    の外、先輩北斎に私淑し、一時は同門の国直が家に塾生の如く寄寓し、或は勝川春亭にも学ぶ所ありし    ものゝ如く、後に三代堤等琳(雪山)の門に入つて雪谷と号し、また柴田是真に教へを受けて仙真と号    するなど、諸家の長所を巧みに取入れし外、当時の舶来に暗示を得て、所謂洋画風の特色ある作を試み    るに至りしなり。彼が技法の上に今一つ特筆すべきは、其が画中の人物に於ける衣裳模樣の変化と、色    彩の配合に巧みなる事にして、流石に染物業の家に成長せし彼の面目を窺ふに足れり。    嘉永六年六月二十四日、兩国柳橋南河内屋の楼上に於て、梅屋鶴寿の書画會を催せし時、彼は己が着衣    を脱ぎて墨に浸し、それを筆に代へて三十畳の渋紙に九紋龍史進の図を描きし由、其の後安政二年二月    吉原岡本楼の主人より浅草観音に寄進せむが爲め、「一つ家の悪婆の図」の大絵馬を彼に揮毫せしめし    事あり、今尚ほ該寺に保存さるゝ所にして、彼が筆力の非凡を知るに足るものなり。斯かる大作にも馴    れし彼なりしが、年来の嗜好たる酒に厄されて、安政五年頃より中風症に悩み、揮毫意の如くならざり    し爲め、或は門人等に代筆せしめし場合もありしが如し。それまでに新和泉町(俗称玄冶店(ゲンヤダナ))    に居を定め、其処を最後として病歿せり。    法名は深修院法山国芳信士といひ、浅草八軒寺町(現今高原町)日蓮宗大仙寺に葬りしが、墓石は往年    墓地整理の爲め、府下千住飛地へ移されたり。また彼が歿後十三回忌辰にあたり、遺族及門下の人々等    相謀つて、向島三囲稲荷の境内に一基の記念碑を建てたり、碑文は東條琴台の撰に係る。    彼には二女あり、長子名は鳥といひ早世し、次子名は芳といひ田口其英を迎へて家を嗣ぐ、但し画系は    伝へず。然れども門人芳虎・芳宗・芳幾・芳年等、よく師風を伝へ、且つ各々門下を養成せし中に、芳    年の如きは殊に英才を出だして、明治、大正及び現代に至るまで、次々に画壇の一勢力たらしめし事は、    国芳が指導方針の自由主義に胚胎するものと謂ふを得べし。    因みに、国芳は安政元年及二年版の団扇絵に「柳燕」といへる別号並びに「ゆたか」の印章を用ゐたり、    蓋し、柳燕は其が生家の商号を柳屋といへりしに由り、ゆたかはユ田カ即ち一勇台の「勇」を分解して、    更に平仮名読みにしたるものなりと(石井研堂氏の説)。又按ずるに、柳燕は彼が同門の先輩国直が別    号柳烟楼に因みしものか。其他、春画には一妙開程好(ホドヨシ)の戯号を用ゐたりき〟     ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝此年、一勇斎国芳十五歳にして歌川豊国の門に入る〟
  ◇「文化一一年 甲戌」(1814)p185   〝此年、歌川国芳の処女作、竹塚東子作の合巻『御無事忠臣蔵』出版。国芳此年十八歳なり。序文を見る    に文化十年の作なるべく、国芳実に十七歳の作たりといふべし〟
  ◇「文政一二年 己丑」(1827)p207   〝四月、大石真虎・歌芳(ママ)・英泉等の画ける『神事行燈』三編〟   〈『神事行燈』の画工「歌芳」は二編を担当した歌川国芳〉     ◇「天保二年 辛卯」(1831)p209   〝三月、一勇斎国芳・小松原翠渓等の挿画に成る『魚鑑』出版〟
  ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝正月、呉北渓・一勇斎国芳等の画ける『あづまあそび』出版〟
  ◇「天保五年 甲午」(1834)p213   〝八月、一勇斎国芳の画ける『狂歌覓玉集』出版〟
  ◇「天保七年 丙申」(1836)p215   〝四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版〟
  ◇「天保一一年 庚子」(1840)p219   〝一勇斎国芳の傑作『写生百面叢』出版。    此年、十二月国芳の画ける『山海愛度図会』と題せる錦絵出版〟
  ◇「天保一四年 癸卯」(1843)p222   〝此年、一勇斎国芳の画ける三枚続きの錦絵『源頼光公館土蜘蛛妖怪図』と題せるもの絶版の命を受けし    といふ。此絵は源頼光土蜘蛛の怪に悩まさるところにして四天王灯下に囲碁の遊びをなし、上方に種々    の怪物合戦の図あり。而るに此絵は当時の政体を誹謗するの寓意ありとて罪せられしとなり。これ時の    将軍徳川家慶を頼光に擬し、閣老水野越前守が非常の諸政改革を行ひしを以て土蜘蛛の精に悩まさるゝ    の意を寓せしものなりといふ。    此年、十二月二十六日、歌川貞秀も亦似寄りたる頼光の錦絵の為に罰せらる〟
  ◇「弘化元年(十二月十三日改元)甲辰」(1844)p223   〝正月、一勇斎国芳の画ける『滑稽絵姿合』出版〟
  ◇「弘化三年 丙午」(1846)   〝四月、一勇斎国芳の『一勇画譜』出版〟
  ◇「嘉永三年 甲戌」(1850)p228   〝宮武外骨氏の筆禍史に浮世絵師説諭と題して下の記事あり、同年(嘉永三年)八月十日、錦絵の認め方    につき、浮世絵師数名役人の糾問を受けたる事あり『御仕置例題集』によりて其憐愍書の一節を左に録    す。     一体絵類の内人物不似合の紋所等認入れ又は異形の亡霊等紋所を付け其外時代違の武器取合せ其外に     も紛敷く兎角考為合買人に疑察為致候様専ら心掛候哉に相聞え殊に絵師共の内私共別て所業不宜段入     御聴重々奉恐入候今般の御沙汰心魂に徹し恐縮仕候    以下尚長々と認め、此度限り特別に御憫察を乞旨を記せり、其連名左の如し                         新和泉町又兵衛店      国芳事 孫三郎                         同人方同居         芳藤事 藤太郎                         南鞘町六左衛門店      芳虎事 辰五郎                         本町二丁目久次郎店清三郎弟 芳艶事 万吉                         亀戸町孫兵衛店       貞秀事 兼次郎        南隠密御廻定御役人衆中様    隠密といへるは現今の刑事巡査(探偵)の如き者なり。浮世絵師数名はあやまり證文にて起訴さるゝ事    もなく、平穏に済みたるなり。と〟
  ◇「嘉永五年 壬子」(1852)p231   〝三月、一勇斎国芳の画ける、彩色を以て有名なる錦絵、橋本屋白糸の像出版、彫刻師は彫竹、版元は赤    阪の金吉なり。(武江年表本年の條に「猿若町二丁目市村羽左衛門が芝居にて、享保の頃青山辺なる鈴    木主水といふ武士、内藤新宿の賤妓白糸と倶に情死せしこと俗謡に残りしを狂言にしくみて興行しける    が殊の外繁昌しければ、俳優二代目板東秀佳、内藤新宿北裏通成覚寺へ、白糸が墳墓を営みたり」とあ    りて、此の国芳の画ける白糸に扮せる像は板東秀佳の似顔なり)〟
  ◇「嘉永六年 癸丑」(1853)p232   〝正月、葛飾為斎、初代国貞(此の時一陽斎豊国と号す)、二代国貞(梅蝶楼と号す)、一勇斎国芳・玉    蘭斎貞秀・一猛斎芳虎の画ける『贈答百人一首』出版    此年、六月二十四日、柳橋の西なる料理店河内屋半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催せる書画会    の席にて一勇斎国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、水滸伝中の人物九紋龍史進憤怒の像を画き、衣類    を脱ぎ絵の具にひたして彩色を施せりといふ。文化十四年葛飾北斎が名古屋にて画ける達磨の大画と共    に好一対の奇談といふべし。    此年、七月、国芳『浮世又平名画奇特』といへる錦絵を画き、板元と共に過料銭申渡さる。即ち続々泰    平年表嘉永六年の條に「癸丑七月国芳筆の大津絵流布す、此絵は当御時世柄不容易の事共差含み相認候    判詞物のよし、依之売捌被差留筆者板元過料銭被申渡」とあり。    此年、国芳『難病療治』の錦絵を画き発売禁止されしといふ〟
  ◇「安政三年 丙辰」(1856)p235   〝正月、国芳の『国芳雑画集』出版〟
  ◇「安政四年 丁巳」(1857)p236   〝正月、国芳の『国芳雑画集』二編出版〟
  ◇「安政五年 戊午」(1858)p237   〝七月、国芳、広重、芳晴、芳綱等の画ける『浅草名所一覧』出版〟
  ◇「文久元年(二月二十八日改元)辛酉」(1861)p240   〝三月五日、一勇斎国芳歿す。行年六十五歳。(国芳は初代豊国の門人なり。江戸神田に生れ、姓は井草、    俗称孫三郎、一勇斎又朝桜楼とも号し、歌川派中玉蘭斎貞秀と共に武者絵に堪能なり)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「足立区」大仙寺墓地(千住八千代町一四三)(寺は浅草寿町)日蓮宗   〝歌川国芳(画家)本名井草孫三郎、一勇斎、朝桜楼の号あり。初代豊国の門に入り、武者画を得意とな    す。文久元年三月四日歿。年六十五。深修院法山国芳信士〟    〈『原色 浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は没年月日を文久元年三月五日(一説に四日)とする〉     ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)   〝豊国(一世)門人 国芳〟
    「歌川系図」    △『増訂浮世絵』(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   ◇大坂在住弟子 p209
       「一勇斎国芳-大坂弟子」
  ◇歌川流の異彩国芳 p271   〝歌川流は初代豊国の死後、三代豊国の勢力の下に左右せられた。国芳は潑溂たる才を抱いて居たが、同    門の三代豊国には及ばない。そこで如何にかして、豊国の上に立たうとして、努力し、大に写実を励ん    だ。豊国は美人画に評判を得たのであるから、国芳は武者絵に新機軸を出さんとした。    国芳が写実に立脚したといふことが、国芳の絵に力あり、新らしい生命をもつことを得た所以である。    三代豊国は、世間的には、評判は大きかつたけれども、実は既に萎微沈滞に行き詰つて居たので、この    流は、そのまゝ細く消える外に道はなかつた。明治維新の騒と共に、豊国の末流は、いつの間にやら減    却したのである。この時に当つて、国芳の系統のものが、独りこの変革の時に命脈を保ち得たのである。    即ち当時国芳門下の芳年が、最も盛んに健筆を揮つたのである。芳年の門には、年方があり、年方の門    には清方、輝方、静方などがあつて、明治大正にその画系を引いたのである。これ実に国芳が真面目に    写実的に研究して、新らしい試をしたからである。    武者絵をかいたのは、国芳ばかりではない。歌川も末輩のものが、数多く作つて居る。当時、世間は物    情恟々として、上下の心穏かでなく、自然かやうな荒々しい趣味が盛んであつた為であらう。然しこの    頃は、彫摺の技術に於てこそ発達の頂点に達し、非常に立派なものを出してはゐたか、真に芸術的のも    のではなく、甚だしい衰頽に傾いて居た。これは素より栄枯隆替の自然の理に因るのではあらうが、一    方では、錦絵界盛況の結果、濫作甚しく、画家の芸術的良心に欠陥を生じた為めである。    かやうな時代に多く作られて、芸術的に優れたものがない為めに、武者絵は、錦絵愛好者の間にも、又    研究家の間にも、一般に軽視されてゐるが、浮世絵版画の作品中重なる一部を占むるものである。    国芳は、寛政九年に、江戸神田本銀町に生れた。京染紺屋柳屋吉右衛門の子である。名を孫三郎と云ひ、    後に井草家を継いだ。幼時から家業の上絵描きに従事してゐたが、浮世絵に興味をもつて、当時有名な    る初代豊国の門に入つて修行した。或る事情で、一時同門の国直の家に寄寓して熟生のやうになり、版    下絵を作つて居た。文化の末から文政の初め子頃に至つて、技倆はだん/\世に認められ、画筆を以て    世に立ち得るに至つたのである。葛飾北斎やら同門の々国貞、一方には初代広重等が風景の新しい試み    で、大に歓迎されてゐる時代に、その中に伍して、優秀なる地歩を占めることは、非常の努力を要した    であらう。    国芳は生粋の江戸つ児で、奇行逸話に富んでゐる。作品の上にも歯切れのいゝ快さを見せてゐる。女を    画いても、すつきりとした気象をよく表はして居る。    国芳の風景画は、一種の異なつた行き方で、描写の上にも色彩にも、西洋画の分子を非常に多く含んで    ゐる。どれも明るい、霽れ亘つた夏の日のやうな感じのする色をもつてゐるのも、その性格から由来す    ることであらう。広重や北斎などとは、全く別の目で、自然を見てゐる処に妙味がある。東都名所十余    種、富士見三十六景、相州大山道田村渡など可なりに作例がある。高祖御一代略図十枚は歴史画ではあ    るが、その中で、佐渡の塚原雪中の日蓮を画いた一図は、風景画としても、彼の作風を見るべき好材料    である。挿図に就いて見ても、雪景描写の版画に優れた特色のあることがうかゞはれる。歴史画の作例    中に、賢女八景とて短冊形八枚揃の面白いものがある。    東都御厩川岸之図は、国芳の風景画中の傑作の一つである。西洋画法を巧に版画にとり入れたもので、    驟雨の有様はよく写されて居る。    国芳は文久元年三月五日、享年六十五歳で没した。浅草八軒町の日蓮宗大僊寺に葬り、法号を深修院、    法山国芳信士と称した。尚ほ国芳は別号を一勇斎、又は朝桜楼といふ〝
    明治六年(1873)国芳十三回忌追善碑 碑陰門人名簿    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔一勇斎国芳画版本〕    作品数:258点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:井草・伊草・孫三郎・一芸者由古野・一妙開程芳・一勇斎・一珍房狩鷹・朝桜楼・国芳・        井草国芳・一勇斎国芳・朝桜楼国芳・伊草孫三郎国芳・国よし・一妙開程登由・程よし・        一妙開程よし・一妙開致形程由・大珎房小節狩鷹・一妙開程由・大珎房狩鷹・ほどよし・        歌川国芳    分 類:合巻131・艶本41・絵画(画譜・漫画等)18・絵本8・読本8・滑稽本8・咄本7・        狂歌7・人情本6・伝記5・遊戯(双六・判じ物)5・祭祀(祭番付等)2・俳諧1・        川柳1・実録1・浮世絵1・演劇1・洒落本・砲術1・染織1・地誌1・雑史1・年代記1    成立年:文化5~6・11~14年(9点)        文政9・11~13年  (17点)        天保1~14年     (82点)        弘化1~4年      (24点)(弘化年間合計25点)        嘉永1~6年      (40点)(嘉永年間合計41)         安政1~6年      (31点)(安政年間合計35点)        万延1年        (7点)        文久1~3年      (5点)    (一勇斎国芳名の作品)    作品数:53    画号他:一勇斎国芳    分 類:合巻27・絵画7・滑稽本3・伝記3・絵本3・読本2・狂歌2・洒落本1・演劇1・        染織1・咄本1・遊戯1・雑史1    成立年:文化5年     (1点)        文政11年    (1点)        天保3~4・6~12・15(11点)        弘化1~3・5年 (5点)        嘉永1~7年   (12点)        安政1~7年   (8点)(安政年間合計9点)        万延1~2年   (2点)     〈文化五年の『柳巷話説』は国芳画ではなく歌川豊広画。高木元氏の『江戸読本の研究』「第一章 江戸読本の形成」     「第三節 江戸読本書目年表稿」によると、文化五年の項目に『椀久松山柳巷話説括頭巾縮緬帋衣』曲亭馬琴作・     歌川豊廣画とある。国芳が『柳巷話説』の画工を担当したのは文政十四年板の再刊本〉    (朝桜楼国芳名の作品)    作品数:1点    画号他:朝桜楼国芳    分 類:咄本1    成立年:天保15年    (井草国芳名の作品)    作品数:2点    画号他:井草国芳    分 類:狂歌1・合巻?1    成立年:嘉永8年(1点)   (伊草孫三郎国芳名の作品)    作品数:1点    画号他:伊草孫三郎国芳    分 類:読本1    成立年:安政3年    (国よし名の作品)    作品数:1点    画号他:国よし    分 類:絵本    成立年:安政頃         『雨こんこん狐のよめ入』絵本・西馬作・国よし画・安政比    (一芸者由古野名の作品)    作品数:1点    画号他:一芸者由古野    分 類:艶本1    成立年:安政年間        『春色朝夷嶋巡り』艶本・甚虚亭安児出拝作・一芸者由古野画・安政年間刊   (「ほどよし」名の作品)    作品数:17点    画号他:一妙開程由5・一妙開程よし4・一妙開程芳3・一妙開致形程由2・ほどよし1・程よし1        一妙開程登由    分 類:艶本    成立年:文政10・12(3点)        天保2・6~8(9点)(天保年間合計10点)    (狩鷹名の作品)    作品数:5点    画号他:大珍房小節狩鷹3・大珍房狩鷹1・大珎房狩鷹1    分 類:艶本    成立年:文政12年(2点)        天保年間 (1点)        〈五点すべて戯作名である。艶本では、作画の「ほどよし」名と戯作の「狩鷹」名を使い分けていたのであろう〉  
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