Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ぼくせんのず 墨戦之図浮世絵事典
 ☆ 天保十四年(1843)<八月>    ◯「墨戦之図」三枚続・一勇斎国芳戯画・板元未詳(天保十四年八月刊)   △「流行錦絵の聞書」(『開版指針』所収・国立国家図書館蔵)   〝(天保十四年)八月中、禁裏墨塗、一名墨合戦の戯れ絵、国芳画ニて出板致候ニ付、是又如何の絵ニも    有之哉と評議有之候処、右はいまだ内裏、大和の奈良ニ遷都の比、勅命有之、公卿墨を塗合に戯れ、是    を墨合戦と唱へ、其頃画師土佐何某ニ写させ給ふ古絵巻物の写し候由ニて、如何の絵ニハ無之由〟    〈絵草紙掛りの名主たちは国芳の絵だから何か仕掛けでもあるのではないかと、疑ったようである。しかし結局は、奈     良時代の公卿たちが戯れに墨合戦している様子を画いた土佐何某の古絵巻なるものがあって、本図はそれを写しただ     けで怪しい点はないと結論づけた。にもかかわらず。次のような尾ひれがついて評判になった〉     △『浮世の有様』著者不詳(『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」)    ◇「泰平年表など」p881   〝一勇斎国芳頼光土蜘蛛の絵を画ける後に至て、又墨戦の図を画き(中略)其絵の様を見るに、先束帯せ    し両持左右に分れ、各烏帽子狩衣着し者共を従へ、何れも尾籠の有様にて、筆墨持ちなげうちなどせる    中に、坊主有婦人有、一方の大将の側には、彼青海浪の先生有り、婦人は定て御愛妾なるべし、坊主ら    は感応寺本門寺の類にはあらん、誠にこれを判じ見るに、武家大に衰へて、公卿の如く婦人坊主等大に    用ひられ、侫人権勢を振ひて大欲心を放(恣)にし、御忌明を待て直に事を斗り、君明を暗まして、我意    を放にし、慾の算盤より事を起し、諸人を困めて上を恨み奉るやるなる業のみをなし、己れ其功によつ    て利を得んと工む、武摂の上げ地いんばの川堀近江の一揆せしも、みな豪慾なる筆算よりして出しもの    也、其余至て意味有ることに思はる〟    〈この記事および次出の「水野の悪評」の記事は天保十五年に入ってからのもの。(中略)のところに「其絵手に得る     事遅かりしゆへ、此処へ書入置ぬ」とある。本来なら十四年の十月頃書き留めた国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」     (下出参照)の後に続けるべきところだが、入手が遅れてたため、年が明けたここに書き留めたというのだ。     さて「青海浪の先生」とは水野忠邦。「御愛妾」の「婦人」とは徳川十一代将軍家斉の側室お美代の方。このお美代     の方が家斉に懇願して再興なったのが、鼠山の感応寺(この再興再建は同じ日蓮宗の池上本門寺の念願でもあったよ     うだ)その坊主とは、ともに密通女犯の罪で処罰された下総中山法華寺の僧侶日啓・日尚などをさすのだろう(この     日啓は日尚とお美代の方の実父と噂された)家斉の忌み明け直後、水野は感応寺を跡かたもなく破却し、またお美代     方以下の人々をも電光石火で追放した。また「武摂の上げ地・いんばの川堀・近江の一揆」とはそれぞれ、武蔵と摂     津の上知令・印旛沼開削事業・検地をめぐる近江の農民一揆を言う。いずれも水野が改革で推進した施策であった。     このような判じ方は次項の「源頼光公館土蜘作妖怪図」に倣ったもので全く同じ。この大坂の評者は「青海浪」を手     掛かりに水野忠邦を想起しつつ、彼の改革によって生じた被害者・犠牲者を図様の中に求めてゆく。そして最後には     天保改革の総括にまで事は及ぶ。水野が推進する諸改革は、私利私欲から出たことであって、結局は将軍の明を奪う     ことになり、ついには武家の衰微にまで至ると〉      ◇「水野の悪評」p896   〝頭書 江戸土産なりとて、此方へ贈りくれし一勇斎が又画ぬる三枚つゝきのにしき絵有、共図を見るに、    冠装束烏帽子狩衣等を着せし者左右に分れ、其中に坊主婆々等ありて、大取合の有様也。何れも其持て    る物は筆墨にして、上に大成硯を画き、墨戦立図と書記しぬ。これも土蜘蛛同様にして、判事物なるゆ    へ、直に絶板被仰付しと云事なり。試に此図の趣を考るに、何れも衣冠せし姿なるは、武道大に衰へ武    家も公家の如くに柔弱になりて、婦人坊主等大に用ひられて勢を振ひぬるやうになり行、何れも傲に長    する処より勝乎向不如意となり、無法成算盤大に登用せられ、筆の先を以て厘毛をの争をなし、諸人の    利益を奪はんと種々様々の御為御益なとゝ、そろはんと筆先にて世智賢こきやうの事のみをなし、諸人    の恨み憤れるに及ひぬる有様を画きたるものならん。定て算盤を画たきことなるへけれとも、それにて    は余りにしら/\敷事故、これを書記さゞるところは、此判事物の趣向なるへし。図を見て知へし。何    にもせよ古今にこれなき奇怪なることゝ云へし。藤色の素抱に青海浪のもやうにて侍烏帽子にて大将の    かたはらに有る人も、完て子細あることなるへしと思はる、定てかの先生なるへし〟    〈大坂ではこの「墨戦之図」「判事物なるゆへ直に絶板被仰付し」と、町奉行より処罰されたと受け止められていた。     このレッテル張り、高値で売り抜けるために絵草紙屋が意図的に流したのかもしれない〉      〈上掲「流行錦絵の聞書」に「画師土佐何某ニ写させ給ふ古絵巻物」というくだりがある。実はこの「古絵巻物」に     は後日談があった。後年の万延元年(1860)のこと、国芳は「土佐画巻物之写」という画題の大判三枚続を出版し     た。それがこの「墨戦之図」とよく似ており、しかも同様に判じ物。今度は大老井伊直弼の「安政の大獄」を踏ま     えたとされる。改印(アラタメイン=検印)は十月のものだから、芳年の没する文久元年(1861)三月からすると、僅か     五ヶ月前の作品である。最晩年にして国芳はなお判じ物への意欲を失っていないというべきなのであろう。参考ま     でに引いておく〉
    「墨戦之図」一勇斎国芳戯画(「錦絵の諷刺画」データベース・ウィーン大学東アジア研究所)
    「土佐画巻物之写」一勇斎国芳(「錦絵の諷刺画」データベース・ウィーン大学東アジア研究所)