Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きたなめいい 【きたいな名医】難病療治浮世絵事典
(寿明姫〈すめひめ〉参照)
 ☆ 嘉永三年(1850)<八月>      筆禍「【きたいなめい医】難病療治」三枚続・一勇斎国芳画・遠州屋彦兵衛板(嘉永三年六月刊)       内容 版元遠州屋彦兵衛、売買禁止、絶版を命じられる          (「坪井信良書翰」による。『藤岡屋日記』は言及せず)          国芳は尋問されたがお咎めはなし(『藤岡屋日記』)       理由 役人批判等、浮説が流れたため(「坪井信良書翰」による)      筆禍 重板(無断複製)「【きたいなめい医】難病療治」       内容 版元 三鉄(三河屋鉄五郎)・丹半・越前屋平助             板木屋太吉・大西伊三郎・和泉屋宇助・釜屋藤吉           板木没収、摺本裁断(釜屋・越前屋)    ◯『藤岡屋日記』第四巻(藤岡屋由蔵・嘉永三年八月記)      ◇国芳画「【きたいなめい医】難病療治」④134   〝六月十一日之配りニて     通三丁目遠州屋彦兵衛板元ニて、一勇斎国芳筆をふるい書候はんじもの、百鬼夜行の類ひならんか。    きたいな名医     難病療治、女医師【廿四五才位、至て美し、風団之上ニ居】、弟子四人惣髪ニて、何れも年頃也、美     しき女のびつこ・御殿女中の大しり・一寸ぼし・人面瘡・疳癪・やせ病、何れも四人之弟子、種々に     療治致居候処、其外溜りニ難病人大勢扣へ居候図也。       右女医師の名、凩 コガラシ    一 右之絵、七月初ニハ少々はんじ候者も有之、御殿女中の大尻ハ御守殿のしり迄つめるとはんじ候よ      し、段々評判ニ相成、絵ハ残らず売切、摺方間ニ合不申候。         難病の療治姉御は広くなり 跡より直ニ詰るせわしさ        藪井竹斎の娘、名医こがらし。    一 近眼ハ阿部の由、鼻の先計見へ、遠くが見へぬと云事なるよし。    一 一寸ぼしハ牧野ニて、万事心が小サキとの事なるよし。    一 びつこは寿明印ニて、御下向前ニ御召衣裳も残らず出来致し居り候処ニ、御せい余り小く衣服長過      て間ニ合兼候ニ付、下着計ニて足を継足し候よし。    一 鼻なし、西尾ニや、蔦の紋付也、是ハ嫡子左京亮、帝鑑間筆頭を勤、男ハ(一字不明)し、行列ハ      五ッ箱、虎皮鞍覆自分紋付二疋を率、万事不足無之自慢ニ致し、鼻を高く致し居り候処ニ、六月五      日ニ忰左京亮卒去、国替同様なりと云しと也。    一 あばた、銅の面を当て、釜ニ湯をわかしてむし直候処、精欠(ママ)にや、故ハ右器量ニて、加賀をは      ぶかれ、金と威光ニて有馬へ取替遣し候なり。    一 ろくろ首、むしば、かんしやく女。    一 せんき、菊の紋、人面瘡、米代金十五両八分余。    一 やせ男、りん病。     右はんじもの画、国芳を尋られ候処ニ、是は今度私の新工夫ニも無之、文化二年式亭三馬作にて、嬲     訓歌字尽しと申草紙ニ、右轆轤首娘有之、是を書候由。        いろ/\な大難風が発りても すら/\渡る遠州の灘    一 右難病療治大評判に相成、ます/\売れ候故、諸方に重板出来致すなり。       最初  三鉄 越前屋  両人のり       二番目 丹半 板木屋太吉 是ハ初〆ハ 両人のりニて      壱板ニて相談之上、三枚之内、太吉ハ職人故壱枚持、丹半ニて二枚持、合ニて摺出し候処ニ、後に      丹半一枚彫足し三枚ニ致し、勝手次第ニ沢山ニ摺出し候ニ付、太吉も二枚彫足し、三枚ニ致し摺出      し候に付、板木二通ニ相成候。       三番目 大面(西カ)伊三郎一枚持候。       四番目 芝口三丁目 和泉屋宇助一枚       五番目 釜屋藤吉一枚彫刻致候。       〆 六板也、本板共に七枚也。      右絵、最初遠州屋彦兵衛願済ニて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候ニ付直下      ゲ二〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下ゲ候、然ル処ニ重板出来致して、売出しハ百枚に      付卸直一〆文、又は二朱也。    一 七月廿五日 三鉄配り候処、其日に北奉行所へ遠彦より願出し、板上ル也、釜藤は八朔より重板配      候処、同十日馬込ぇ板上ル也。       難病療治の絵、落着之事。            八月廿五日                     通三丁目寿ぇ掛り名主寄合                               釜屋左治郎                               越前屋平助     板木・摺本取上ゲ、板ハ打割り、摺本包丁を以、名主切さき捨候、凡摺本六百枚計きり捨ル也。       凌ぎよくなりて難病快気なり〟    ◯「坪井信良書翰」(家兄宛・八月八日付)   (『幕末維新風雲通信-蘭医坪井信良家兄宛書翰集』東京大学明治維新研究会、宮地正人編・1978年刊)   〝街市ニハ諸役人之批判紛紜、即極々珍画出来申候。右売出シ候テ三日目ニ直ニ御禁止絶板ニ相成申候。    併シ右之如キ板ヲ製シ申者ハ、従来御止メニ相成申候事ハ承知之上故、売出ス前ニ数万摺置申候事之由。    又御留止ニ相成申候ト、世上ニ評判高キ様ニ相成、自然求手モ多ク相成、例之風習ニテ一同朝市共争求    ル様ニ成申故、始ハ三枚ニテ例ノ通リ六十文ヨリ八十文ニナリ、弐百三百五百文弐朱トナリ、昨今ニテ    ハ壱歩壱歩弐朱ト云様ニ相成、愈々益買物多ク出来申候。小子ハ絵草紙屋ニ知人有之申候故、矢張安価    ニテ入手仕候。即一通拝呈仕候。御熟見可被下候。但し廟堂之様子諸邸之動静ヲ知ル者ニ非レバ不通解    事ナレバ御慰ニも不相成哉トハ存ジ申候得共、先年之分よりハ上々出来故拝呈仕候。大略申上候。右画    ノ内、     竹斎娘ト有之ハ 綾小路(アヤコウジ)ト申老女也      当時之大キケ物ニテ役人之進退等多分ハ此人之指揮ニアリ     大痘痕(オオアバタ)ハ 当将軍様之事也       故ニ態と女形ニ作ル。葢シ女人之間ニノミ有之故男ニシテ女ナルノ形     鼻無ハ 御老中松平泉守様ナリ      生来鼻梁甚タ低シ     近眼ハ 御老中執頭 阿部伊セ守様ナリ      従来近眼ナリ     跛足(チンバ) 此人は過日御逝去之右大将御簾中様ナリ      昨年京都より御下之節、道中輿中ニテ火傷ニテ足ヲ傷リ。実ハ其創大発ニテ先頃死セリ。是ニハ奇      談アリ、略之     弟子      桔梗之紋ニテ磁石ヲ持ハ酒井若狹守様ナリ       八九年京都所司代ニテ大ニ重キ役ヲ持ノ者ナリ       先月二十八日漸々御役御免テ成タ所ガ、通例御老中ニ可成筈ナレトモ、元来アベ伊セ守様不睦故、       唯々溜リ之間格テナリシノミ。位貴て無権。永々之大役ムダニナリシ     一寸ぼうし 執政牧野備前守様也     疝気ハ 右大将様之御側 夏目左近様      当時大ニ勢アリ。上ニ坐スルハ此故也     人面瘡ハ 御勘定奉行久須美佐渡守様      御勝手御用ヲ兼候故ニ米之番付ヲ持ツ     痩男 町奉行井戸対馬守様ナリ      長崎奉行より急ニ江戸之町奉行トナル故痩者之急ニ肥笨ニナルニ譬フ     淋病 御老中戸田山城守様ナリ    先々大略如此。尚デツシリ出尻ト云事。癇癪ロク/\ビ等ハ皆女中ナリ    才子も夫々役処アレトモ不分明、葢シ皆々許多之批評ヲ含メリ       以上ハ慢ニ御他言無之様願上候〟〈文中「而已」は「ノミ」にした〉
    「【きたいなめい医】難病療治」 一勇斎国芳戯画     (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)        画中人物の判じ 出典 A『藤岡屋日記』B「坪井信良書翰」   〈「療治法」は画中の仮名文を現代仮名遣いに直し適宜漢字に変換した。また判じにあたっては、岩下哲典著『幕末日本の    情報活動』「開国前夜における庶民の『情報活動』」(雄山閣・平成12年刊)を参考にした〉     ◯「やぶくすし竹斎娘、名医こがらし」     A(明確に記さず)     〈「御殿女中の大尻ハ御守殿のしり迄つめる」の意味がよく分からないが、「御殿女中」「御守殿」とあるから、将軍      の娘にかしずく大奥の上臈御年寄を指しているのであろう。すると、市中の人々は、必然的に、将軍家斉の娘の縁組      みを独断で差配していたとされる上臈の姉小路を思い浮かべた筈である〉    B 綾小路     〈岩下氏によると、姉小路と同人という。この人は幕府の役人人事にも強い影響力を持っていたと市中では見ていたよ      うだ〉      ◯「あばた(痘痕)」     療治法「わたくしのような大あばたでも、この銅(カネ)で拵(コシラ)えた面型(メンガタ)をはめて、湯の煮え     立つところへ蒸していると、顔がふやけてあばたが埋まっていゝ器量になりますとサ」    A 清姫     〈「清欠(ママ)にや」と一字欠けているが、「有馬へ取り替え遣し候」とあることから、上出の岩下氏は、久留米藩の有      馬家に嫁いだ将軍家慶の養女清姫(有栖川韶仁親王の娘)とする〉    B 当将軍様(家慶)     〈わざわざ女形に画いたのは大奥の女中に囲まれて生活しているからだろうと解釈している〉       ◯「はななし(鼻無し)」     療治法「我らはまた瘡(カサ)で鼻が落ちやした。こちら願ったところが、紙で鼻を拵えて付けてくださ     れたが、至極妙でござるて」    A 西尾(老中松平和泉守乗全)     〈三河西尾藩。家紋は蔦。左京亮は嫡男の松平乗懿で嘉永三年六月三日歿。確かに羽織の紋が蔦に見える〉    B 老中松平和泉守様〈「生来鼻梁甚タ低シ」〉     ◯(「百まなこ」をした男)     療治法「イヤサ拙者などは少し近眼でござる、近眼と申て蜜柑の小さいのではござりませんが、近目     で困りますところへ、こちらで百まなこへ遠眼鏡をはめてかけろとのお指図、なか/\凡夫わざでは     ござりません」    A 阿部(老中阿部伊勢守正弘)     〈画中の羽織の紋は「鷹羽」、阿部家の家紋と同じである。一条家の寿明姫を将軍家定の正室として縁組みしたのは、      阿部伊勢守だと巷間では見ていた。しかもそればかりではない、これは「遠くが見へぬ」近眼の見立てであったと、      皮肉っているのだ〉    B 老中執頭阿部伊セ守様〈「従来近眼ナリ」〉         ◯「ろくろくび(轆轤首)」     療治法「ときにろくろ首娘は髪油の中へ、鉄の粉(コ)を入れ髪を結(イ)わせ、尻の方へ磁石をあてがい、     頭の鉄を吸い寄せる希代の名術、これではろくろ首も治るだろう」         〈A・Bともに判じを記さず。『藤岡屋日記』には、国芳がこの判じ物について尋ねられたとき、この図様は自分の創意     ではなく、式亭三馬の黄表紙「嬲訓歌字尽」(一柳斎豊広画・文化二年刊)から借りたものだ、と答えたという挿話が     載っている。誰が国芳に質問したのか、また実際に国芳自らそう語ったものか、知る由もないが、国芳がこれを画くに     当たって、この三馬作を念頭においていたことは確かである。そもそも磁石を使う治療は仮名草子『竹斎物語』に由来     するらしいのだが、三馬の竹斎は、空中飛行するろくろっ首の口に鉄粉入りの袋をかませ、お尻に磁石をあてて首を引     き寄せるという奇想天外な治療法を考案している。国芳はそれを髪油に鉄粉と小道具は入れ替えたが、趣向は同じであ     る。さらに興味深いのは、三馬作では、日向の国にまで伸びていた娘の首が、磁石をあてると、身体のある伊勢の国に     戻ってくるという点だ。三馬作の筋書きを知る人々は「伊勢」に思い至って思わずニヤリとしたのではないか、ここで     も阿部伊勢守を臭わせていると。同時に、何としてでも何かを伝えようとする国芳の意志の強さを感じ取ったのではあ     るまいか。参考までに、豊広のその画像を引いておく〉
    「嬲訓歌字尽」 一柳斎豊広画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     ◯「ちんば(跛)」     療治法「おまえは、片足短いか、片足長いのかだが、マア俗にびつこと云うのだ、先生の御療治には、     草履と下駄をはかせろおっしゃるが、全体片々ちんばだから、両方ちんばにして揃えてもいいね」    A 寿明姫    〈寿明(スメ)姫(ヒメ)は一条忠良の娘・一条秀子。前年冬、徳川家定の正室になったばかり。しかし、お輿入れの前から身長     が低いという噂が流れていた。この年六月廿八日逝去。二十八歳であった。下出、嘉永二年七月頃の「変名問答」及び     この年六月の逝去記事の参照〉      B 右大将様御簾中様(寿明姫)    〈寿明姫は、前年、京都からお輿入れになったとき、道中足に火傷を負い、これがもとで頓死したという。『武絵年表』     に「此の君少し跛(ビツコ)なり。歌川国芳筆三枚続きの錦絵女医師のもとに療治を受くる図中に、美婦の下駄と草履とを、     かた/\に履きたるを画きしは、此の君の事を諷せしものなりといふ」とある。この姫の身体上の事実はどうであれ、     当時はこの図様をみれば誰しもがこの姫を思い浮かべたのである〉     ◯「むしば(虫歯)」     療治法「歯の痛むといふものは、なか/\難儀なものでござる、これは残らず抜いてしまって、上下     とも総入歯にすれば、一生歯の痛む憂いはござらぬて」「これはなるほどよい御療治でございます」    A・Bとも判じなし。     ◯「かんしやく(癇癪)」     療治法「おまえの癇癪は造作もなく治ります、不仕付けながらお前のみぜに(ママ身銭で?)、せとも     (ママ瀬戸物?)や塗り物箱か、又は大事な物を、たんと買っておいて、じれッてえときに、無闇とぶち     壊しなせえ、そうする(ママと?)じきに治る、しかしそれも人の代物ではつまらねえヨ」    A・Bとも判じなし。       ◯「でッしり(出尻)」     療治法「出っ尻の療治は尻へ竹の箍(タガ)をかけ、賑やかな所を見物して歩くとみっともねえから、     だんだん縮こまるかたちだ、数年そうしているうちには、だんだん歳が寄るから、自然と痩せるわけ     だ、なんとい(ママい?)療治の仕方だらう」    A・Bとも判じなし        ◯「せんき(疝気)」     療治法「わたくしの疝気は金玉大きくなって困りましたが、先生が水をとつて、あとを小さな土瓶を     はめておいてくだすったが、それから大きくなりません、これもまことに理詰めな療治だ」    A 判じなし    B 右大将様之御側 夏目左近様     〈夏目は次期将軍家祥(家定)の側用人。この疝気持ちの羽織の紋は菊。上出の岩下氏によれば、これは夏目家の「藩      架菊」と符合するという。ただ疝気と夏目左近との関係は不明。あぐらの間に土瓶が画かれているが、これが何とな      くほほえましい〉        ◯「一寸ぼし(一寸法師)」     療治法「おれは一寸ぼしで困るからお頼み申(し)ましたら、高い足駄を履いて、長い着物を着て歩け     とおっしゃったが、至極妙でござります、どう見ても一寸ぼしとはみえますめへ」    A 老中牧野備前守忠雅    B 執政牧野備前守様    〈画中の「一寸ぼし」の羽織は三柏の紋、老中牧野備前守の家紋も三柏で符号する。だがなぜ一寸法師なのか判然としな     い〉     ◯「人めうさう(人面瘡)」     療治法「人面瘡に飯を食われるが切なさに、願ったら米屋の書き出しを見せるとおつしやるからこう     しますが、だんだん治つてきました」    A 判じなし    B 勘定奉行久須美佐渡守様    〈人面瘡は寄生する人間に惨い苦痛を与えるが、ご飯や酒を与えるとその間は痛みが消えるとされる。その縁で米の書き     付けを画いたのであろうが、Bはそれを勘定奉行を暗示するものと捉え、久須美佐渡守と判じたようだ。なお図様の家     紋は、岩下氏によると、久須美の家紋の庵木瓜とは異なるという〉     ◯「やせしをとこ(痩せ男)」     療治法「わたくしは痩せて痩せて困りますから、先生に願いましたら、生の豆をたんと丸呑みにして、     水をおもいれ(ママ)呑め云われました、そうした所がこんなにはち切れるほど太りやした、錫の徳利の     凹みを直す工夫と同じあんばいだが、なんと妙ではこざいませんか」    A 判じなし    B 町奉行井戸対馬守様     〈長崎奉行井戸対馬守の江戸町奉行就任は昨年八月。これには異例の抜擢という評価もあったようだから、それを太っ      た痩せ男として戯画化したと判じたのだろう。ただ一方で「急ニ肥笨ニナル」の「肥笨」には太った愚か者という意      味もあるのだが〉     ◯「りんひやう(淋病)」     療治法「わしの病気、勝栗さへ喰えば治りますとさ、千金方という書物に勝栗淋病追いつかずという     ことが出ていますとさ」    〈『千金方』は中国の医方書。「勝栗淋病追いつかず」は「稼ぐに貧乏追いつかず=稼ぐに追いつく貧乏なし(真面目に     働いてさえいれば貧乏になることはない)」の駄洒落であろうか〉    A 判じなし    B 老中戸田山城守様    〈Bは判じの根拠を記さないが、淋病の男の羽織の模様は六星、宇都宮藩戸田家の家紋と一致していると見たのであろう〉       ◯「足駄を履かせる弟子」    A・Bとも判じなし       ◯「磁石をあてる弟子」    A 判じなし    B 酒井若狹守    〈Bは「桔梗」の紋から酒井若狹守と判じた。しかし上出の岩下氏によると、酒井家は「剣(ツルギ)鳩酸草(カタバミ)」紋だ     から、Bの根拠は事実と異なっている。ただ画中の家紋は「剣鳩酸草」、だから酒井若狹守で間違いないとする。酒井     若狹守忠義はこの七月、京都所司代の御役御免。通常の出世コースだとこのあと老中職就任ということなのだが、老中     阿部伊勢守と不仲のため、そうならなかったと云う。巷間ではそうした噂とこの画中の紋の主とを結びつけて判じたも     のも多かったのであろう。だがこの判じ物が出回ったのは『藤岡屋日記』によれば六月、したがって制作側に老中にな     れなかったということで、酒井若狹守を判じ物とするタイミングはなかったはずだ。Bの判じは八月、Bは制作側の意     図を超えて最新情報をもとに判じたのである〉        ◯「歯を抜く弟子」    A・Bとも判じなし     ◯「木槌で箍を打つ弟子」    A・Bとも判じなし    〈上出、岩下氏は図様の家紋を「亀甲の内花菱」の変形と見て、当時若年寄だった近江三上藩の遠藤但馬守胤緒であろう     とする〉     〈この「【きたいなめい医】難病療治」が判じ物と見なされたのは、天保十三年の「源頼光公館土蜘作妖怪図」同様、図様    に配された家紋である。中でも決定的なのは、老中阿部伊勢守の鷹羽紋。これで「百まなこ」の男と阿部伊勢守が分かち    がたく結びついた。あとは他の幕閣を念頭において図様を見るばかり。そうすると、その幕閣が自ずと現れるという仕掛    けである〉      参考 寿明姫に関する記事    〈嘉永二年(1849)十一月、一条関白実通の娘・寿明(すめ)姫が、次期将軍・徳川家定の正室として京よりお輿入れに     なったが、それ以前から、この寿明姫には次のような噂が流れていた〉     ◇「変名問答」(『藤岡屋日記』第三巻・嘉永二年七月記事・p561)   〝(七月)変名(ヘンナ)問答    纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。    右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも    ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東    御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ    ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ    ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承    知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是    非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無    之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟    〈寿明姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていたのである。国芳画「【きたいなめい医】難病療治」     はこの噂を穿ったものとされている。それにしても、幕府・朝廷間の道具にされたうえに、酷い噂を立てられ、結婚     後一年も経ずして亡くなった薄倖の身の上には心が痛む〉
    ◇寿明君逝去(『藤岡屋日記』第四巻・嘉永三年記事・④142-145)    〝嘉永三年六月廿四日、右大将家定公二度目御簾中寿明君御逝去之事    一条関白実通公息女、同大納言忠香卿之御妹君なり。     西丸御簾中寿明君御逝去、御年廿八、御法号澄心院殿、東叡山葬、御別当。     (中略)    嘉永三戌年五月廿七日より、御簾中様御発病之由、六月六日之夜御逝去之由〟       〝御簾中様御逝去ニ付 落首       三尺の身丈ケのものを壱丈(一条)と さすは姉御(姉小路)のつもりそこない〟    〈将軍家定と寿明姫との縁結びをしたのは大奥の上臈御年寄・姉小路だとの噂が市中に流れていたのであろう〉     ◇寿明君逝去余波(『藤岡屋日記』第四巻・嘉永三年記事・④146)    〝七月三日、阿部伊勢守病気ニて引込候処に、街の風説/\ニて、因州養子一件ニ懸り合ニ付、切腹いた    し候共、又ハ西丸御簾中様御逝去一件に付、右大将様御尋ニ、なぜあの様成病身者を貰ひ来り候哉と被    仰しニより、伊勢守、姉ヶ小路、両人ながら引込候よし、専ら評判致し候処ニ、同七日朝出勤致し、八    日朝上野御法事ぇ参詣有之候。      阿べこべの悪魔がいでゝきたるとも 吹払ふたる伊勢の神風〟    〈因州養子一件というのは、嘉永元年、鳥取池田家の藩主慶行が逝去したあと、藩の意向とは別に、幕府が介入して、     加賀前田家の喬心丸が養子に入り、十一代藩主池田慶栄を襲名したこと。慶栄は、嘉永三年六月、初めてのお国入り     をする途中、京都で病死したが、これには帰国を歓迎しない鳥取藩士が毒殺したという噂も流れていた。市中では、     この養子縁組にも、寿明姫の縁組にも、老中阿部伊勢守と姉小路が深く関与していたと見ていたのである〉
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