Top         浮世絵文献資料館         『浮世絵師歌川列伝』凡例
                   「歌川国芳伝」                  歌川の門流中、筆力秀勁にして意匠巧妙なるは、蓋し国芳におよぶものなかるべし。国芳は井草氏、俗称    孫三郎(絵双紙目録集に太郎右衛門)。幼名芳三郎、一勇斎と号し、又朝桜楼と号す。寛政九年十一月、    江戸銀座一丁目に生る。後に本銀町二丁目、および米沢町、長谷川町、新和泉町字玄冶店等に移る。又向    島に住せしこともありたりと。一説に甲州の産なりといい、又甲州は本国なりと云疑うべし。父は柳屋吉    右衛門、母は柏谷氏、後に出でて井草氏を継ぐ。       按ずるに、柳屋吉右衛門は、何を業とせし人なるや詳ならず。一説に紺屋を業とせしという。これ国芳     が実父なり。しかして国芳が出でて井草氏を継ぎし年月、今詳ならざれども、蓋しかの梅の屋鶴寿と交     わりて後ならん。猶考うべし。         芳三郎生れて聡敏、六七歳にして北尾重政が絵本武者鞋、および同政美が諸職画鑑等を見て、人物を画く。    漸長じて京紺屋某の徒弟となり、専ら工業に従事せり。       按ずるに北尾重政は、北畠氏、幼名太郎吉、後に久五郎、又佐吉と改む。花藍と号し、又紅翠斎と号し、     酔放逸人をも号せり。初め横山町二丁目に住し、大伝馬町三丁目に移り、後に根岸金杉の大塚に住す。     文政三年二月二十四日歿す。年八十三。浅岡氏が古画備考に、彫工江川八右衛門が一話をあげて、重政     が事を詳かにせり。いわく重政の父は、横山町二丁目書肆須はらや三郎兵衛とて、紀州の人、通町須原     屋二男の家なり。本姓は北畠氏なるを、貴姓と等しきをはばかりて、今の氏に改む。若年より書画を好     み、別に師とせしものもなく、板本にて書画とも学べり。隣町に鱗形や三右衛門といえる書林あり。こ     れ往年おおく草双紙を板行せし、鱗形屋孫兵衛の本店なり。暦問屋の株をもちて、三右衛門自らよく暦     をかきたり。重政十八歳の頃鱗形屋と親しみ、試に暦をかきしが固より三右衛門の年功に及ばざりし。     其後打続きて画きしかば、後々は上手になりて、これに次ぐ者なく、いずれの暦も皆かくことになりた     り。既に八十三歳の時の暦も其前年にかきしなり。重政画をかき始めしは、暦より後のことにて、頃の     草双紙の画あまりに拙しとて、上方の何某が画きたる絵、当地に下るごとに賞美して、其の画風を慕う。     (中略)性商売を好まず其志すところは居を閑地に卜して終日書画に耽るにあり。両親存生の中なりし     が、家業を弟にゆずりて、大伝馬町三丁目井筒屋といえる扇屋の家へ居をかりて退きける。私其所へ尋     ね候処、至て手狭き長屋にて、畳は一畳ばかりあるのみにて、其余は筵をしき、書籍とりちらし、一畳     の所に机によりて物かき居候。竈は一つ竈にて、塗も全く調わざるに、上より縄をさげて土瓶をつり、     食事は母が本宅より自ら運ぶといえり。板下の書画次第に行われ、後には書林より手代下男など遣し、     平常の雑用をなさしめ、争いて請い需(モト)むるに至れり。遂に賑かなる所に転居し、家屋も美麗にして、     日夜酒肴をつらね、かの閑居書画に耽るの志しを忘れたるがごとし。(中略)私当所金杉へ引込候とて、     深く羨み其後鵬斎の隣家へ引越候。是年来の志なり。妻と二人にて候いし。近来妻歿して後は、独居な     りしが病中にも、弟子同様の人介抱に参り候。なが患いも不致果られ候云々。     北尾政美は、鍬形氏、俗称三次郎、杉皐と号し、蕙斎と号す。後に落髪して紹真という。北尾重政の門     人なり。後に中村芳中の画法を慕い、遂に一格を出だして略画式数巻をあらわす。其の画固(モト)より尋     常浮世絵師の及ぶ所にあらず。松平越中侯、嘗て政美をして職人尽三巻を画かしむ。其の図超凡高雅、     今我が博物館の蔵品となる。或る人評して鳥羽僧正以来の名手なりといえり。これ固より過誉に失する     に似たれども、其の筆力の非凡なるは、実に他人の企て及ぶ所にあらず。後に松平三河侯に仕う。文政     七年三月二十一日歿す(因に中村芳中は大阪の人、光琳の風を慕い、一格を起す。略筆をもてよく物の     形をうつす。蕙斎が略画式は全く芳中を学びたるものならん)。        文化五年、芳三郎十三歳の時、偶(タマタマ)鍾馗剣を提ぐるの図を画く。人皆嘆賞せざるなし。一世豊国紺屋    の主人を友とし善し。一日来りて此の図を見て、非凡の才筆なり、惜むべしといい、終(ツイ)に引きて我が    門に入れ、弟子となし、画道を学ばしむ。一説に国芳初年は、勝川春亭の門人なりといえり。されば其の    画風大に春亭に似たるところあるがごとし。         按ずるに、勝川春亭は山口氏、俗称長十郎、一に中川氏、勝川春英の門人なり。松高斎、又勝汲壺と号     す。類考に和泉町に住す。武者画草双紙おおく画けり。後に歌川風の役者画を画きしなり。壮年にして     病の為めに筆を廃して、其居を知らず。惜しむべしといえり。式亭三馬が雑記に、阿竹大日、およびお     さかべ姫の艸紙の事より、三馬、春亭の交不破となるを山本長兵衛が仲裁人となりて、和睦せし由載せ     てあり。春亭は京伝三馬等の双紙を画くおおし。又風俗美人画、武者画等も多く画きたり。筆力生動尋     常の腕にあらざるなり。世人もって国芳の師という亦宜ならずや。豊原氏(国周)いわく、国芳ははじ     め春亭の門人なりしことは疑うべからずと。      〈三馬作・春亭画の合巻「おさかべ姫」(「日本古典籍総合目録」『【長壁姫】明石物語』)は文化六年(1809)刊。また     『於竹大日忠孝鏡』は文化七年(1810)の刊行。三馬作・春亭画の作品は文化七年まで、それ以降はない〉         芳三郎、豊国の門に入るといえども、固より学資に乏しければ、如何とすること能わず。終に同門国直が    家の食客となり、専ら画法を研究せり。       按ずるに、類考に(上略)国直が家の塾生の如く居て、板刻画を学びたるゆえに、国芳の画風はすべて、     取合の器財草木なども、国直が筆意にのみよりて画きしが、後には紅毛絵の趣を基として画くとみゆ。     北斎の画風を慕うは、国直が画風によりて学びし故也といえり。         数年にして終に師名の国字を称(トナ)うることを許され、改めて国芳といい、一勇斎と号す。芳は幼名の一    字をとりたるなり。類考に文化のころ、紫ぞうしといえる本三冊を画くといえども、甚だ不出来にして、    評あしかりし故、錦画の板下をたのむ人もなく、世に知られざりし云々。この双紙は蓋し国芳が草双紙の    初筆なるべし。       按ずるに、紫ぞうしは何人の著作か、又いかなる草紙か今詳ならず。絵双紙目録集にも其名みえざれば     探り知るに由なし。       〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、馬琴作の読本『柳巷話説』が一勇斎国芳画で文化五年(1808)刊     となっている。しかしその後、文化十一年(1814)刊の合巻『御無事忠臣蔵』(竹塚東子作)まで板本の挿画はない。高     木元氏の『江戸読本の研究』「第一章 江戸読本の形成」「第三節 江戸読本書目年表稿」によると、文化五年の項目     に『椀久松山柳巷話説括頭巾縮緬帋衣』曲亭馬琴作・歌川豊廣画とある。さらに、文政十四年(ママ・天保二年(1831)か)     の再版本として『碗久松山柳巷話説』をあげ、一勇齋国芳画としている〉      文政二三年のころ、国芳三枚続きの錦画を画き、世人の喝采を得て、其の名始めて世にあらわる。其の画    は平知盛の亡霊、および大山良弁が滝等なり。此におきて地本問屋川口長蔵(日本橋)同正蔵(銀座)等、    相謀りて俳優の似貌画を画かんことを請う。国芳諾してこれを画き、出板せしが、一世豊国および国貞の    似貌画、盛んに行われしころなれば、人皆排斥して顧みるものなかりし。国芳憤然これよりいよいよ画法    を研究し、日夜筆を握りて怠らず。後年国芳自(ミズカラ)此の頃の貧苦、最も甚だしかりし由を、或る人に    語り、且曰く、一日板下絵を懐にし、馬喰町辺の地本問屋某の所に至りしが、意のごとく画料を得ること    能わずして、少しく憤りを含み、両国辺を徘徊し柳橋の上を過るに、橋下より先生先生と呼ぶものあり、    見下せばかねて知己なる芸妓某々にして、客は誰ならんと、更に伺いよるに、同門の国貞なりければ、忽    然感ずる所あり、一語を出ださずして走りて家に帰り、嘆息して曰く、彼の盛なる実に羨むべし。これ我    が腕力未だ彼に及ばざるをもて、世に行われずして、貧窮今日の甚だしきに至れるなり。もし我が腕力彼    の上に出でなば、名をなし富を致すこと難きにあらざるべし。これより愈(イヨイヨ)奮って画法を研究せりと。         按ずるに、国芳が画道を研究するや、己は豊国の門にありといえども、自ら以て足れりとせざるなり。     よりてひそかに、葛飾および勝川の諸流をしたい。其の長所をとりて己れが有となさんとす。其の熱心     なる実に賞すべし。露木孔彰氏いわく、国芳嘗て独楽廻し竹沢藤治の画看板を画きしとき、葛飾北斎門     人大塚道菴といえる人を雇い、この看板画を補筆せしめたり。国芳この道菴によりて、北斎に面会せん     ことを請う。北斎曰く、余は国芳に面会すべし。されど一面の後しばしば往来するは彼のためによろし     からず。如何となれば彼は歌川家屈指の妙手なり。然るに今屡(シバシバ)我が家にきたらば、人或は画法     を変じ、葛飾風とならんを疑うべし。且人の子弟を引きて、我が門に入らしむるは我が欲せざる所なり     と。国芳終に北斎に面会し画法を談ずるの図を画きたり(此の図今某の家にあり)。類考に国芳の画風     は、北斎の風ありというは、国直が画風によれる故なりといえるは非なり。国芳が画風、国直に似たる     所あるは、論を俟(マ)たざれども、北斎の風もまたこれあるなり。これ深く北斎をしたいしをもてなり。     国芳嘗て北斎を塚原卜伝に比し、宮本武蔵に己を比して、二枚続きの錦画を発行せんとせしが、北斎こ     れを拒みたるをもて、終に止めたることあり。これ等即(スナワチ)国芳が北斎を慕いし一証とすべし。事は     拙著葛飾北斎伝に詳なり。         同十年の頃、国芳水滸伝百八人の中に就き、智多星呉用、九紋龍史進、行者武松、黒施風李逵、花和尚魯    智深の五人を画き、発行せしに、大に世人の喝采を得たり。これ国芳が名をなすの始なり。板元は両国米    沢町の加賀屋吉右衛門にして、其の後追次出板して、終に百八人を画き了(オ)わりたり。一説に国芳の水    滸伝を画くや、画き来りて二十余人におよび、熟視すれば其の面貌、骨相、稍同一なるものあるが如し。    此におきて国芳考一考して、日に行厨を腰にし、本所五ッ目の五百羅漢寺に至り、羅漢の像を写し来り、    しかして下図を画き出だせりとぞ。         按ずるに、水滸伝は支那小説の傑作にして、著者は或施耐庵なりといい、或は羅貫中なりという。詳な     らず。其の大意は宋の嘉祐三年、大尉洪信といえるもの、消魔碑をあばきて、百八人の豪傑世にあらわ     れ、盗賊を事とし、劫殺を専らとせる、顛末を述べたるものにして、暗に宋朝の政治大に乱れたるを誹     謗せるなり。文化文政間、この小説大に行われ、あるいはこれを翻訳し、或はこれを本として著作せる     もの頗る多し。     又按ずるに、或人曰く国芳が水滸伝の一枚画は一図ごとに百八人の一としるせり。画き終わりて見れば     百九人となりたり。全く誤りたるものなるべし。          (五百羅漢像の記事あり。略)         同十二年、山東京山作稗史水滸伝の、初篇、二篇、三篇、四篇、五篇、六篇を画く。板元は鶴屋喜右衛門    也。これより年々出版し、嘉永四年、二十篇を画きて終わる。         按ずるに、国芳が一枚絵の水滸伝、大に世に行われしをもて、板元鶴喜は此の稗史を国芳に画かせたる     ものにして、これ又大に世に行われたり。されば国芳も自ら奮って初篇より二十篇に至るまで、一筆に     画き出だせるなり。葛飾北斎翁、嘗て曲亭馬琴、高井蘭山編訳の、水滸伝を画きしが其の画巧妙ならざ     るにあらざれども、国芳が水滸伝のごとく行われざりし。又按ずるに、稗史水滸伝は、文政十二年に初     篇より六篇を画き、同十三年に著者代りて柳亭種彦となり、七篇八篇を画き、天保二年九篇を画き、同     三年著者代りて笠亭仙果となり十篇を画き、同四年十一十二篇、同六年著者また代りて柳亭種彦十三篇、     同七年著者また代りて笠亭仙果十四篇、同九年十五篇、同十年十六篇、同十三年十七篇、弘化四年、著     者代りて松亭金水十八篇、同五年十九篇、嘉永四年二十篇を画きて終わる。笠亭仙果は、尾張熱田の人、     柳亭種彦門人なり。高橋氏、名は敬義、字は広道、一に民則、俗称弥太郎、一に弥左衛門、轍斎、狗々     山人、招緑翁、浅草庵の数号あり。後に二世種彦となる。慶応四年歿す。年六十三。仙果がこの稗史水     滸伝を著作するに当り、柳亭種彦一書をよせて教示せしことあり。前篇水滸伝の事、所詮唐本を見たる     人が絵草紙を読まず、よし読みたりとも千人に一人なり。唐本はこんなものかとだましておけばそれで     よし。おとしばなしでも、画双紙でも、九人にほめられて一人に笑われるは、実は下手 なれども利は     得るなり。九人に笑われ一人にほめられるは、実は上手なれども銭にならず云々。種彦のいう所頗る理     あるに似たり。呵々。松亭金水は、中村氏、名は保定、一に経年、俗称源八、積翠道人と号す。文久二     年歿す。年六十六。      〈馬琴作・北斎画『新編水滸画伝』初編は、前帙が文化二年(1805)刊、後帙が文化四年(1807)刊。二編以降は、高井蘭山     訳・北斎画で、文政十一年(1828)から天保年間にかけて出版された〉       天保の初年、国芳、勝川春英が狂画の風をしたい、古法を放れ、新奇を出し、一格の狂画を画きて、大に    行わる。武江年表天保年間の條に、此の年間浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦画行わるとあ    る、即これなり。又この頃浪花の耳鳥斎が狂画の筆意に倣い、俳優の似貌を画く、題して荷宝蔵壁のむだ    がきという。        「荷宝蔵壁のむだ書」 (早稲田大学 演劇博物館 浮世絵閲覧システム)      〈「演劇博物館浮世絵閲覧システム」「詳細情報」によると、「荷宝蔵壁のむだ書」は三枚組(黄腰壁)・二枚組(黒腰     壁)とも、上演年月日を嘉永元年(1848)とする〉          按ずるに、勝川春英は九徳斎と号す。磯田氏、俗称久次郎、勝川春章の門人なり。武者絵に長じ、又一     家の筆意をもて、狂画を画く。これを九徳風という。山東京伝曰く、板刻の絵は当時春英の右に出ずる     ものなしと。文政二年七月歿す。年五十八。耳鳥斎は安永年間の人なり。蒹葭堂雑録に、狂画師耳鳥斎     は浪花の産にて、京町堀三丁目に住し、俗称松屋平三郎という。其始酒造家なりしが、後骨董舗を業と     す。狂画を得て世に名高し、就中俳優角力の姿を画くに、あらぬさまを写せども、其情態をよく摸して、     頗雅致あり。又滑稽の才ありて、戯作をもなせり。義太夫の道外浄るりに達し、松平と称せらる。浪華     一畸の人物というべしとあり。         同九年五月の風聞書に、(上略)国芳の役者画は一向売れ不申候。但し武者画は至って巧者にて云々。こ    の頃の国芳は専ら武者画を画き、大に世に賞せられ、役者画は国貞、武者画は国芳に限れりと世評高かり    し。         按ずるに、此の頃よりして、国芳の画大に世に行われ、終に国貞を圧倒するの勢いありし。当時の落詞     に葭がはびこり、渡し場の邪魔になり。葭は国芳をさし、渡し場は国貞をさしていえるなり。けだしそ     の大意は、近ごろ国芳の画漸次に世人の喝采を以て、かの盛に行われし国貞も、これが為めにおされて     世評は前の如くならざりしをいえる也。         同十三年、山東京山作朧月猫の双紙の初篇二篇八冊を画く。これ国芳が自らすすみて得意に画きたる草紙    なりとぞ。国芳嘗て猫を愛し、京山も亦猫を愛す。よりて此の作あり。よりて此の画ありたるなり。     按ずるに、国芳が猫を愛せしことは、よく人の知る所なり。関根只誠氏曰く、国芳は愛猫の癖ありて、     常に五六頭の猫を飼いおきたり。採筆の時といえども、猶懐中に一二頭の小猫を入れおき、時として懐     中の小猫に物語りして、きかせしことなどあり。一日最愛の大猫、家を出でて行く所しらずなりし。国     芳大に驚き人を四方に馳せて、百方探索せしが、終に知れず愁傷甚だ深かりしと。        此年かの錦画改革の厳令出でて、浮世絵師はみな嘆息して、為す所を知らざりしが、国芳は広重と同じく、    他の画師のごとく困却せざりし。如何となれば国芳は武者画を専らとし、俳優似貌、風俗美人画は其の所    長にあらざれば也。    同十四年、国芳源頼光の病床にありて、百鬼に悩まさるるの図を画きて出板せり。其の図奇異なるをもて、    幕吏国芳を捕えて詰問せしが、寓意ありて画きしにあらずといえるをもて、免るることを得たり。其実は    時世を諷せし判じ画にして、即古のさとり画なり。(頼光は将軍家慶公、四天王は閣老、百鬼は人民を指    したる也)。当時この錦画行われしをもて、堀江町の久太郎といえるもの、絵草紙屋桜井安兵衛と謀り、    此の図を本となし、画かかせて発行の許可を得て、後更に玉蘭斎貞秀をして補筆せしめ、出板せしが、改    を請けずして、出板せしゆえをもて、貞秀および板元等皆罪せられたり。       按ずるに、泰平年表天保四(ママ)年癸卯十二月二十六日の條に、戯画に携候者共御咎一件、堀江町一丁目     弥吉店久太郎、重蔵、貞秀事兼次郎、神田御台所町五人組、室町三丁目長吉、右過料五貫文宛、絵双紙     屋桜井安兵衛、売徳代銭取上げ、過料三貫文、右者国芳画頼光四天王の上に、化物有之絵に、種々浮沈     を書含め彫刻、画商人ども売方宜敷候に付、又候右之絵に、似寄候錦画仕立候わば、可宜旨久太郎存付、     最初は四天王、土蜘ばかりの下絵もて、改を請、相済候後、貞秀に申付、四天王の上に土蜘を除き、種     々妄説を付、化物仕替、改を不請摺立売捌候段、不埒之次第に付、右之通過料申付とあり。     又按ずるに、さとり絵は甚だ古し。かの鳥羽僧正が、米俵の風に吹きちるのさまを画きて、監主の奸曲     を諷し、又織田信長が狩野永徳に命じ、男子の棒をつきて、篦(ヘラ)を傍にすておき、箕(ミ)を片手に持     ちて、側に蚊帳をつりたる図をかかしめ、気をすぐにへらをすててかせげば、みをもつ、という意を示     されし類これなり。則後世の判じ物画也。         国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」・貞秀画「土蜘蛛妖怪図」     (ウィリアム・ピンカード著「浮世絵と囲碁」)        嘉永六年六月廿八日、両国柳橋の割烹店河内屋にて、狂歌師梅の屋鶴寿が書画会を催せしとき、国芳は大    画をかきて、人目を驚かせり。其の図は水滸伝中の一人、九紋龍史進の像なりし。この日国芳は門人等と    共に、大絞りの揃いの浴衣を着て、嘗て貼りおきし畳三十畳敷ほどなる大紙を座敷にしきひろげ、又酒樽    に貯えたる墨汁を傍におきて、大筆をふるい画き出だせしが、忽ちにして史進を画き終わりたり。其の刺    青の九龍を画きしとき、黒雲のところは手拭を出だし、其の両端に藍および薄墨をつけて、くまどりをな    し、夫より己が着たる浴衣を脱ぎて、樽中の墨汁に浸し、史進が踏みかけたる巌石を画きしが、筆力勇剛、    意匠奇絶、見るもの感嘆せざるはなし。       按ずるに、狂歌師梅の屋鶴寿は、諸田亦兵衛、始吉田佐吉、松枝鶴寿と号す。狂歌堂真顔の門人にして、     神田佐久間町に住す。その家秣(マグサ)を売るを業とす。よりて別号を秣翁という。国芳の気性を愛し、     常に衣服を与え、庖厨をも助けたり。元治元年正月十二日歿す。年六十三。或人曰く国芳が名をなせし     は、全く鶴寿が力なりと。         此の年、国芳はきたいなめい医難病療法、および大津絵等を画きて発行せり。其の図は皆時世に関するこ    とを含みて、画きたるものなり。よりて発売を禁ぜられ、国芳および板元は、各過料を取られたり。続々    泰平年表にいわく、嘉永六年七月国芳筆の大津絵流布す。この絵は当御時世柄、不容易の事ども差含み相    認め候判物のよし、依之売捌被差留、筆者板元過料銭被申渡とあり。        「【きたいなめい医】難病療治」(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)      「浮世又平名画奇特」(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム)     〈「きたいなめい医】難病療治」は嘉永三年(1850)の出版。「国芳筆の大津絵」とは「浮世又平名画奇特」であろう。嘉永    六年(1853)六月の改印がある〉      安政二年、浅草観世音の開扉に際し、新吉原の妓楼岡本の需に応じ、国芳は一ッ家老婆の額を画きたり。    其の図は多く西洋画法より来りて、老婆の骨格眼中の物すごき、処女の戦慄せる、稚児の温順なるさまを    画き出だして、真に迫る。尋常画工のおよぶ所にあらざるなり。この額今猶観音堂にかけてあり。         按ずるに、此の額の画は、石枕の故事を画きたるものにして、かの一ッ家の老婆が稚児を殺し、物を奪     わんとせしに、過ちて己が娘を殺し、大に驚き、発心して其悪業を悔いたりしが、其の稚児は即観音薩     陀の化身なりしといえる、俗説によりたるなり。かの二世宇治紫文作の浄るり、石枕は蓋しこの俗説の     始めならんか。猶考うべし。石枕のことは、江戸名所図会に載せて詳なり。今其の要をあぐ。石枕、坊     中東中谷、明王院にあり、庭にちいさき池あり。これを姥が池と号す。伝説は文明年中、道興准后が、     回国雑記に出でたる文章を、ここにしるす。頗る伝説と異なり、旧記たるをもて、左に挙げて其のつた     え来る事の久しきをしらしむ。廻国雑記に、この里のほとりに、石枕といえるふしぎなる石あり。その     故を尋ねければ、中頃の事にやありけん、なまさむらい侍り。娘を一人持はべりき。容色おおかた世の     つねなりけり。かの父母娘を遊女にしたて、道ゆき人に出むかい、かの石のほとりにいざないて、交会     のふぜいを事としはべりけり。兼てよりあいずの事なれば、折をはからいて彼父母枕のほとりに立寄て、     ともねしたりける 男のこうべをうちくだきて、衣裳已下の物をとりて、一生を送り侍りき。さるほど     に彼娘つやつやおもいけるよう、あなあさましや幾程もなき世の中に、かかるふしぎの業をして、父母     もろともに悪趣に堕して、永劫沈淪せんことのかなしさ、先非に於ては悔ても益なし。是より後の事さ     まさまに工夫して、所詮我父母を出しぬきて見んとおもい、ある時道行人ありと告て、男のごとく出立     て、彼石に臥しけり。いつもの如く心得て頭をうち砕きけり。急ぎ物ども取んとて引かつぎける衣をあ     けてみれば、人独りなり。あやしくおもいて、よくよく見れば我娘なり。心もくれまどいて、あさまし     とも、いうばかりなし。それより彼父母すみやかに発心して、度々の悪業をも慚愧懺悔して、その娘の     菩提をも深くとぶらいはべりける、と語伝えたるよし、古老の人申ければ、「つみとがのつくる世もな     きいし枕、さこそはおもひ思ひなるらめ」当所の寺号浅草寺といえる、十一面観音にてはべり、たぐい     なき霊仏にてましましけるとなん(下略)。     又按ずるに、国芳が一ッ家老婆の額は、当時世評頗る高かりしをもて、来館者日に群集し、皆非凡の筆     なりといい、嘆賞して去る。野村氏いわく、此の額大に世人の喝采を得たるをもて、この図を生人形に     作り、見世物にせしが、大に行われたり。然るにこの小屋より失火して、人形は皆焼け失せたり。又吉     原にても、此の図を燈籠に画きて大賞せられしが、これを画きたる国芳の娘、阿鳥は幾ならずして歿し     たり。国芳は中風病にかかりたりう。これらの事よりして、世人大に恠(アヤシ)み、これかならず、観世     音の罰を蒙りたるものならんと浮説紛々たりし(【按ずるに、此の額の画は以下「小日本」にはなし】)          浅草寺絵馬「一ツ家」 (「台東区の名所旧跡」)        文久元年三月四日、国芳中風を患いて没す。歳六十五。浅草八軒町日蓮宗大仙寺に葬る。法名深修院法山    信士。〈文久元年は1861年〉         按ずるに、国芳の法名いう深修院法山国芳信士に作るは非なり。余頃日大仙寺を過ぎて、国芳の墓を弔     いしが、台石に井草と刻して、正面に先祖代々とあり。右に円性院元意、文化十一甲戌三月十日、次ぎ     に肩書に一勇斎国芳として、深修院法山信士、文久元年辛酉三月五日。次ぎに深達妙夢信女、安政三丙     辰八月廿七日、次に信性妙意、文政九年丙戌十一月廿六日。右側に深行庵妙修信女、慶応四戊辰年五月     二十四日、国芳妻と刻してあり。深修院は即国芳にして、円性は父、信性は母なるべし。深達は先妻に     して、深行は後妻なるべし。去年即明治廿六年は、国芳が三十三回忌なるをもて、法会を執行せしと見     えて、墓の後に卒塔婆五六枚建ててあり。施主の名は、山田春塘、堀田瑞松、新井芳宗、鷲沢与志など     なり。これ蓋し国芳が門人か或は友人なるべし。新井芳宗は、門人芳宗二世なるべし。鷲沢与志は、或     はかの田口其英に嫁せし、国芳の二女阿芳なるか、猶考うべし。     又按ずるに、或人の説に、国芳が中風を患いしは、浅草観世音の額を画きし後にして、夫より三四年も     病みたるなりと。     〈鈴木重三著『国芳』(1992年・平凡社刊)の「総説」は、先妻の戒名・深辰妙夢信女の「夢」を「勇」の誤読とし、      また信性妙意の忌日、十一月廿六の「六」を「五」の誤読としている〉          国芳の没するや、門人一蕙斎芳幾は、師の肖像を画きて発行せり。又友人等はあるいは歌よみ、或は発句    などして、追悼の意を表したり。楼号も手向くによし朝ざくら(有人)。すり合す袖にも霜のわかれかな    (魯文)。摘ためた袖にしぼるる土筆かな(玄魚)。やき筆のけふりはきへて筆塚の、水は手向となれる    はかなさ(秋屋)。明治六年十月、国芳門人および義子其英等相謀りて、碑を向島三囲稲荷の絵馬堂西に    建り。其の文に曰く、 〈原漢文、以下、送り仮名を補って書き下し文に改めた〉         先生諱は国芳、一勇斎と号す、又朝桜楼主人と号す、井草氏、孫三郎と称す。江戸の人、寛政丁巳十一     月十五日を以て、銀座第一坊に生る。文久辛酉三月五日、新和泉街に歿す。享歳六十五。浅草八軒街大     僊寺に葬る。先考柳屋吉右衛門。妣柏谷氏。先生幼にして聡慧、僅七八歳、好んで絵本を見る、北尾重     政画く所の武者鞋二巻、同じく政美諸職画鑑二巻を愛玩す。頓に人物を画くを悟る。十二歳の時、鍾馗     剣を提ぐるの図を画く、其状貌猛壮、行筆秀勁、老成者の如し。此の時に当り、一陽斎豊国、所謂浮世     絵師の巨擘にして時に名あり、嘗て此の図を見て、窃に嘆賞以て得易からざるの才と為す。称揚持て厚     し、先生遂に之が弟子と為る。研究年有り、是より先き、豊国之門に、国政、国長、国満、国按、国丸、     国次、国直等数子有り、皆絵事に於て、歌川氏と称するを許す。受るに偏名国の字を以てす。是に於て     歌川の画技、都鄙に伝播す。豊国既に歿し、数子前後相継ぐ、凋落殆ど尽く、先生と国貞とは、美を済     し名の斉す、魯の霊光巍然長く存するが若く、其業雁行、国貞閨房美人、仕女婉淑の像に巧なり。先生     軍陣名将勇士奮勇の図に長じ、嬰孩と雖も其の声価を知らざる者無し。先生斎藤氏を娶り、二女を生む。     長名は鳥、早世。次女名は吉、田口其英に配す、以て嗣と為る。先生梅屋鶴寿と情交尤も密、恰も兄弟     の如し。鶴寿其の業に賛成し、四十年亦た一日の如し、良友と謂べし。今茲癸酉、十三年忌辰に正当す。     其門人及び其英相謀りて追薦会を為す。余と先生とは旧有るを以て、碣文を製らんことを請う、而して     墓石限り有り、嬭縷するを得ず、余の識る所を以て、其の責を塞ぐと云う。      明治六年癸酉十月、友人東條信耕撰。萩原翬書并篆額。     碑背に門人数十人の名を刻し、井草其英、同芳子建之、梅素玄魚書とあり。         国芳は性活発にして、侠気あり。小事に区々たらず。其の日に得る所の画料は、其日に消費して嘗貯うる    の意なく、これを投ずること、恰(アタカモ)土芥のごとし、所謂江戸っ子の気象なりし。言語はつとめて卑俗    なる巻舌にて、私をワッチ、前をメエという類多し。衣服は羽織袴など着せしことなく、常に縮めんの襯    衣(ドテラ)に、三尺帯をしめて、礼儀礼譲をなすを好まず。其の品行は三世豊国と反対にして、甚だ卑しか    りしよし。好みて消火夫と交わり、出火あるごとに遠近を問わず、直に走せ行きて、消火の助けをなし、    危きを顧みざるものの如し。    又嘗て日吉山王の*祭礼に際し、門人等と謀り共に手踊をなし、祭礼の列に入上覧に供せしことあり。其    の時国芳はみずから其の図を画き、三枚続きの錦画にして発売せり。また向島辺に住せし頃は、毎朝田圃    に出でて、蛙をとらえ来り、庭前に放ちおき、其の声の囂々たるを聞きて娯楽とせり。或人曰く国芳が向    島に住せし頃は、其の家極めて貧しく、絵馬額などを画きて、生計とせしが、一日梅の屋鶴寿来りて、国    芳が画く所を見て、非凡の筆力なりとて、大にこれを賞し、夫より相交る事甚深かりしと(【「小日本」    後に江戸向へ移転したる」は、これ鶴寿の周旋によれるなりと】)。     *国芳が祭礼に出たる時画きし錦絵は、三枚つづきにして題は勇国芳桐対模様(イサマシクニヨシキリノツイモヨウ)。      門人等は皆団扇を手にせり。其団扇に各々名あり、曰く芳藤、曰く芳雪、曰く芳総、曰く芳兼、曰く      芳貞なり。板元は飯田町中坂の人形や多吉也(この註「小日本」にはなし)          絵双紙問屋某曰く、国芳は其の画名四方に轟きし頃より、常に吉原に遊び、一月中其の半は同書にありし。    しかして妓楼又は茶屋にありて筆を採り画きたり、故に絵双紙屋は常に吉原に到りて依頼したりと。国芳    は性来の遊蕩家なりしか、また他に故ありて遊蕩せしものなるか詳かならず。    国芳はもとより、文学を修めざれども、狂歌師梅の屋鶴寿と交わり深くして少しく狂歌を詠みたり。狂歌    英雄集といえる書に、一二を載す。      時雨     山うばの木の葉ぼろもや染ぬらん、山またやまをめぐる時雨は      神楽     けさみれば神のみまへの榊葉に、しらかみむすぶ霜の夜神楽    又儒生東條琴台と交わること深かりし。琴台の気象大に国芳に似たる所あれば、意気相投じて交わりしも    のならん。事はかの三囲の碑文中に詳なり。琴台は俗称東條文左衛門、名は信耕、字は子蔵、呑海翁と号    す。下谷三味線堀に住せり。    国芳嘗て、風俗高名略伝といえる絵本を画き、結尾に自己の肖像を画きたり。其の図頗る粗なれども、彼    が平常の挙動を察するにたるもの也。    関根氏曰く、国芳が年齢は、三世豊国より若かりしかば、豊国は常に呼びて、芳々といい、後年にいたり    ても、猶よしと呼びたり。国芳は頗る、此のよしと呼ばるるを厭いたり。これ些々の小事なれども、豊国、    国芳、の交り常に睦まじからざりし一端となりたるなりと、或は然らん。    栗田氏曰く、余嘗て国芳を玄冶店に訪いしことありしが、其の家は美麗というにあらねど、さすがに狭き    庭ながら、木石ほどよくならべてありし。さて閑談して西洋画のことに至り、頗る得意の色ありて、手筥    の中より、嘗て貯えおきたる、西洋画数百枚を出だして余に示せり。何処より得たるものにや、西洋の絵    入新聞などもありし、且いえるは西洋画は、真の画なり。余は常にこれに倣わんと欲すれども得ず、嘆息    の至りなりと。    野村氏曰く、国芳は西洋の画法を慕うこと甚だ深かりし。嘉永年間下谷に猪飼某という人あり、写真の術    を研究して、頗る熱心なりしが、国芳常に此の人と往来して、画法を談じたり。当時の写真は皆、硝子に    て今のごとく紙に写すことは知らざりしなり。    国芳は草双紙を画きたれど、三世豊国のごとく多からず、僅に二十余種に過ぎざるなり。中に就き山東京    伝、および五柳亭徳升の著作最もおおし。しかして続きものの双紙は、稗史水滸伝の一部あるのみ。         按ずるに、五柳亭徳升は、豊島屋甚蔵と称し、紙類を商い、業とせし人なるが、後に貸本屋となる。人     呼びて本徳という。初め市川三升が名をかりて著作せり。故に徳升という。嘉永六年七月歿す。(【按     ずるに五柳亭徳升は、以下「小日本」にはなし】)。         又錦絵を発行することおおし。其の最も世に行われしは、水滸伝の一枚画にて、赤穂義士の一枚画これに    *次ぐ。     *山海目出度図会江戸錦今様国尽七いろは東都不二尽(此の註「小日本」にはなし)          按ずるに国芳が晩年に画きし、誠忠義士肖像といえる一枚絵は、骨相および着色等すべて西洋の画法に     よりて画く。頗る巧妙なり、惜むべし僅かに十枚ほど出板して止む。        其の他武者絵おおし。是に次ぎては、狂歌および判じもの画等行わる。俳優似貌画、風俗美人が等は、画    きたれども行われず。肉筆の墨画頗る妙也。坊間往々これを見る。又絵手本類は、一勇画譜(一冊)、三    国英雄伝(一冊)、忠臣銘々画伝(一冊)、風俗高名略伝(二冊)等あり。         按ずるに、国芳が彫工は、三世豊国と同じく、横川堂彫竹にして、彫廉、彫房、これに次ぐ、皆当時の     名手なり。従来錦画は、画工、彫工、摺工、の三者相俟ちて始めてなるものなり。故に画工(一字欠く)     く画くといえども、彫工、摺工拙なれば、其の画従って拙なり。此をもて浮世画師は、ことに彫工、摺     工を撰びて、工業に従事せしむるなり。或画工は秘戯の図に巧なりしが、其の陰部のところは、彫工に     代りて自ら刀を下だし彫りたりし。        又刺青の下画を画くに妙を得たり。天保年間刺青大いに行われ、江戸の丁壮皆競いて、刺青をなす。其の    図は大抵武者、および龍虎の類にして、国芳の画風、最も刺青に宜しきをもて、来り請うもの常に多かり    しとぞ。    国芳の先妻は、斎藤氏、其の名詳ならず。はやく死せり(【「小日本」安政三年八月死す】)。一説に離    縁せしというは、疑うべし。後妻の名また詳かならず。野村氏曰く、国芳が家一老婆あり。これ先妻の母    にして、国芳は其老たるを憐み、深くこれをいたわりたり。         按ずるに、一説に国芳には、後妻なしという。甚疑うべし。かの墓石に深達妙夢信女とあるは先妻にし     て、深行庵妙修信女とあるは、これ後妻なること明かなり。然るに後妻なしという、何の故を知らず。     されど此の一説は、国芳に親炙せし人のいうところなれば、頓に排斥して妄説となすこと能わず。唯(タ     ダ)確証なきを如何せん。かの三囲なる東條氏の碑文に、後妻の事を載せざるは稍一証とするに足るも     ののごとくなれども、碑文はもとその人の嘉言善行を挙ぐるを専らとし、事実を主として記せしものに     あらざれば、取りて確証となしがたし。今試みに一説に従い、後妻なしとして考うれば、かの深達の法     号は、如何なる人の法号なるか、甚だ疑うべし。或人曰く深達の法号は、国芳の養母にあたる婦人の法     号なり。国芳の井草氏を継ぐや、この婦人其の家にありしと。即ち野村氏のいえる一老婆なるべし。も     し深達を養母の法号とすれば、墓石に養母と養子と法号をならべて刻せしものか。養母養子と並べ刻す     ることは、古来未嘗見聞せざるところの一例なり。道理上決して此の事あるべきにあらず。さればある     人の説たとい真なるも、余は断然その説にしたがうこと能わざるなり。故に深達、深行を、先妻、後妻     となして、此にしるせるなり。猶考うべし。         男子なし。二女あり。みな先妻の生みしところ也。長女は名は阿鳥。画をよくす。新場の魚商某に嫁せし    が、幾ならずして没せり。一説に嫁せずして没せしというは非なり。二女は名は阿芳、また画をよくす。    田口其英に嫁す。国芳の没するや、其英井草氏を継ぎ、国芳の後をうけ、大阪町辺に住みて、提灯屋を業    とせし由なるが、今何(イズ)くにあるを知らず。一説にお芳は、二三年前かの絵画叢誌の発行所、東陽堂    に雇われ、絵画に従事せしことあり。其の頃は浅草辺に住せしよしなるが、今は本所辺に住せりとぞ。    門人おおし。芳宗、芳房(万延元年没す)、芳清、芳影、芳勝(俗称石渡庄助)、芳見、芳富、芳員(俗    称一川次郎吉)、芳満、芳兼(一に田螺と号す。専ら絵びらを画く。彫刻家竹内久一郎氏の父なりとぞ)、    芳秀、芳広、芳鳥、芳虎(俗称辰之助、長谷川町に住す)、芳丸、芳藤、芳綱、芳英、芳貞、芳雪、芳為、    芳梅、芳基、芳栄、芳豊、芳盛(池之端に住す)、芳近、芳鷹、芳直、芳鶴、芳直、芳鶴、芳里、芳政、    芳照、芳延(松本氏)、等にして、其の最も世に著われたるは、芳幾、芳年の二人なり。芳幾は落合氏、    俗称幾次郎、一蕙斎と号し、又朝霞楼と号す。よく人物を画く、滑稽の才ありて、意匠頗る妙なり。今京    橋滝山町に住し、盛に行わる。芳年は月岡氏、俗称半次郎、一魁斎と号し、また大蘇と号す。本所藤代町    に住す。夙に国芳の骨法を伝え得て、最も武者画に長ぜり。後に一格を画き出して大に行わる。晩年の月    百姿の錦絵の如き、古人の未だ画かざる所を画く甚妙也。明治廿五年六月九日、脳病に罹りて没す。年五    十有余、詳細は当時の諸新聞紙に詳也。其門人年方、年宗、の徒又よく画き、今盛に行わる。        無名氏曰く、画は真を写すを要とすといえども、筆意を添えざれば、唯これ真を写すのみにて画に非ざる    也。画は筆意を要すといえ共、真を写さざれば、唯これ筆意を示すのみにして、画に非ざる也。写真と筆    意と二つながら、其宜敷を得て始めて、画と称すべし。一立斎広重、嘗て絵事手引草を著し、其序文に謂    て曰く、画は物の形を本とす。故に写真をなして、筆意を加うる時は即画也。と至れる哉言や。古の名手    は皆よく是を知りて画く、故に其画巧妙にして生気有、後の学ぶ者多くは是を知らずして、各其一偏に傾    き、写真を主とする者は、初に線條方円を画き刻出し、寸法に汲々として、筆法の如何を顧ざるが如し。    筆意を専らとする者は、初めに草木虫魚等を画き、筆尖の運動に汲々として、写真の如何を顧ざるが如し。    然して二者反目して、互に相誹る何ぞ其惑えるの甚しきや。歌川家の画法における、元祖豊春以来西洋の    画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其弊終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物の骨    相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧の域に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏しき    所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡(シバシバ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如し。    筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画くを見るに、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油画を    画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常に筆意を顧ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色ならんや。    三世豊国中年に至り頗る悟る所ありて、曰く、余が画をかくはこれかくにあらず、細工するなり。自其筆    意の非なるを知り、腰を屈めて英一珪の門に入り、画法を学びたり。されど終に其筆意を錦画に顕わす事    能わずして止む。唯豊広、広重、国芳、三人は超然、歌川の門牆をこえて、普く諸流を伺い、専ら筆尖の    運動に、注目せるものの如し。中に就き国芳最もよく、諸流に亘り、土佐、狩野、雪舟、を宗とし、元明    の画風を慕い、西洋の画に依り、又春英、北斎の風を学び、其の所長をとりて、皆己が有となし、猶自足    れりとせざるが如し。しかして其画く所は、真を写して筆意を添え、気韻生動、頗巧妙の域に入る。他人    の及ばざる所也。歌川の門流其人多しといえ共、筆力の秀勁なるは、蓋し国芳に及ぶものなかるべし。唯    惜むべきは其画品、卑しき所あるを免かれざる事これなり。是国芳が平常の品行、自ら其筆端にあらわる    るものにして、蓋し止むを得ざる也(【「小日本」掲載は此所迄にて、歌川雑記はなし】)。