Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ あさいな 朝比奈(見世物)浮世絵事典
   ☆ 弘化四年(1847)     〈弘化四年三月、浅草観音開帳。奧山に籠細工の見せ物、朝比奈の大人形が出現する。ところが、六郷兵庫頭からクレ    ームが出て、籠細工は撤去されてしまった。そのためこれを当て込んで制作された朝比奈の錦絵までもが販売禁止に    なったという。(下出『きゝのまに/\』記事)しかし、嘉永元年の『藤岡屋日記第三巻』の記事をみると「此絵ハ    去年(弘化四年)三月、浅草観音開帳之節、奥山へ籠細工ニて大朝比奈出来之節、板行出来候処、右籠細工の朝比奈、    故障有之候ニ付、右絵も出板致さず差置候」とあり、販売禁止ではなく、販売を控えたとも受け取れる〉     ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥158(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝(弘化四年)三月十八日より浅草観音卅三年め開帳、奥山に朝比奈人形作り物出る由、先日より一枚絵    に出たり、四月初やう/\出たれども忽差止らる、此ニ付て当開帳中諸みせ物出す、朝比奈大さハ其烟    草入より拍子方子供大勢出る、此ニて知るべし、大造の物ハ其頃も御触有しに、心なき事也〟     ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥351(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (弘化四年・1847)   〝浅草寺開帳、初日前々より看板を出し、丈余の朝比奈の人形を作り、是が腰さげの物より人出て、さま    /\の芸をなすは、彼の小人島に比したるなり、然るに其小屋高く広やかに、近世見せ物奉納の分を過    ぎたるを禁せらるが故に止められて、いたづらに其様子、錦絵にのみ残りて、是に費やせし金銀の損失    大かたならず、開帳済べき末にいたり、其半減に作りつゝ、よふ/\ゆるしをうけて人形のいさゝかは    たらきを見せけり〟    〈人形の展示は禁じられたが「其の様子、錦絵にのみ残りて」とある。錦絵方は引き続き出回っていたようであるが、     販売禁止については言及がない〉     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   ◇浅草観音開帳・奥山の見世物   〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し    (奉納物のリストあり、略)    奥山見世もの     一 力持、二ヶ処在、     一 ギヤマンノ船     一 三国志     長谷川勘兵衛作     一 伊勢音頭     一 朝比奈    浅草田歩六郷兵庫頭、是迄登城之節、馬道ぇ出、雷神門内蕎麦屋横丁ぇ雷神門より並木通り通行せし処、    今度開帳に付、奉納の金龍山と書し銭の額、蕎麦や横丁ぇ道一ぱいに建し故に、六郷氏通行之節、鎗支    へ通る事ならず、右故に少々片寄建呉候様相頼候得共、浅草寺役人申には、片寄候事決て相ならず、右    奉納之額邪魔に相成候はゞ脇道御通行可被成之由申切候に付、無是非是より幸龍寺の前へ出、登城致し    候処、此節六郷兵庫頭、常盤橋御門番故に、早速御老中廻り致し相届候義は、今度浅草寺奥山に広大な    る見世物小屋相懸候に付、出火之節御城之方一向に見へ不申候に付ては、万一御廓内出火之節、見そん    じ候て御番所詰相闕候事も計り難く候間、此段御届申候と、月番ぇ相断候に付、早速右之趣月番より寺    社奉行へ相達候に付、寺社方より奥山朝比奈大細工の小屋取払申付る也、是六郷が往来を止し犬のくそ    のかたき也。      島めぐり田歩めぐりで取払     一 こま廻し 奥山伝司    至て評判あしきに付、落首      奥山にしかと伝じも請もせず       㒵に紅葉をちらす曲ごま〟    〈大人形が撤去された原因に関する記事である。浅草寺に奉納された銭細工の額によって、通行に支障をきたしたう     えに、浅草寺の役人から迂回するよう命じられた六郷兵庫頭が、その意趣返しに、奥山の広大な見世物小屋が邪魔     で江戸城を見渡せず、万一出火した場合、番所に詰めるのも難しいと老中に訴えた。それが結局大細工・朝比奈の     撤去につながったというのである〉
    「浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図(朝比奈大人形)」 玉蘭斎貞秀画     (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)       〈参考までに、国芳画「朝比奈小人嶋遊」をあげておく〉
    「朝比奈小人嶋遊」 一勇斎国芳戯画     (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)     ◯『増訂武江年表』2p111(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (弘化四年・1847)   〝春、浅草寺の奥山へ見世物に出さんとて、朝比奈の人形を造る。頭の大きさ一丈余、煙草入の大きさ二    間なり。後につくりしは惣丈一丈余の物也〟    〈「後につくりしは惣丈一丈余の物也」とあるから、差し止め後、惣丈一丈(3m)余に造り直したようである。撤去     された元の大人形は頭だけで一丈余もある巨大さであった〉
   ◯『藤岡屋日記 第三巻』p246(嘉永元年(1848)十一月十日)   〝当十一月十日配り、大朝比奈三枚一面、最初板元橋本町一丁目板木屋庄三郎也、此度池端仲町上州や金    蔵勢利、同名弁吉、右板を引請、八百通り三枚続二千四百枚摺込て、十一月十日配り候処、七百枚計り    売、跡は一向に売れず、是も大はづれなり。      此絵ハ去年三月、浅草観音開帳之節、奥山へ籠細工ニて大朝比奈出来之節、板行出来候処、右籠細      工の朝比奈、故障有之候ニ付、右絵も出板致さず差置候処、今度弁吉引請、摺出し候処、是も大は      たきなり          島巡り程あるいてもいけぬはた             銭のもふけはさらになか町〟    〈見せ物絵のような時流と連動した作品は、やはり時機を失すると売れないようである〉