Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ うきよまたへいめいがのきとく 浮世又平名画奇特浮世絵事典
 ☆ 嘉永六年(1853)<七月>      筆禍「浮世又平名画奇特」二枚続・一勇斎国芳画       処分内容 ◎版元 越村屋平助 過料 発禁       〈下出の『泰平年表』によれば「売捌御差留 筆者板元等過料銭被申付」とあるから、版元は発禁、筆者・板元は         過料(罰金)〉            ◎画工 記載なし(国芳は不問)       処分理由 浮説流布
    「浮世又平名画奇特」 一勇斎国芳画(国立国会図書館デジタルコレクション)    ◯『藤岡屋日記』第五巻 p352(藤岡屋由蔵・嘉永六年)   〝嘉永六癸丑年七月    浮世又平大津絵のはんじもの、一勇斎国芳筆をふるひ、大評判に預りましたる次第を御ろうじろ。    右は此節、異国船浦賀渡来之騒動、其上ニ御他界の混雑被持込、世上物騒、右一件を書候ニは有之間敷    候得共、当時世上人気悪敷、上を敬ふ事を不知、そしり侮り、下をして、かミの愁ひを喜ぶごときやか    ら多き所ニ、恐多き御方ニ引当、種々様々ニ評を附、判段(断)致申候ニ付、如斯大評判ニ相成候。      浮世又平名画寄(ママ)特 二枚続      国芳画、板元 浅草新寺町、越村屋平助    右絵売出し、七月十八日配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六    百枚宛摺出し、益々大売なれば、      一軒で当り芝居ハゑちむらや からき浮世の時に逢ふ津絵    〈アメリカの海軍司令官ペリー提督が軍船四隻を率いて浦賀に来航したのは嘉永六年六月三日。また十二代将軍・家慶     の死亡は同年六月二十二日。「浮世又平名画奇特」には嘉永六年六月の改印が押されているから「異国船浦賀渡来之     騒動」や将軍の「御他界」を踏まえて画くことはありえない。にもかかわらず巷間ではこれに結びつけて判じた。確     かに売れ始めた八月の時点ではこれらは知れ渡っていただろうから、これはとばかり飛びついたのであろう。画工は     「源頼光公館土蜘作妖怪図」(天保十四年・1843年刊)や「【きたいなめい医】難病療治」(嘉永三年・1850年刊)     を画いた国芳である。これも同様の「判じ物」と見て詮索に興じたのである。八月に入ると毎日千六百枚ずつ摺った     とある。板元越村屋にとってはおそらく思惑を越えた大儲け、これですっかり時流にのった。しかしこれ本来は役者     絵似顔絵なのだろう。当時、役者名を画中に入れることは禁じられていたから、板元としては、大津絵に役者の似顔     を配して、役者名を判じてもらおうという趣向だったように思われる。下出するが、これは画中に役者名や紋を入れ     ない「踊形容」と呼ばれる役者似顔絵なのである。それが案に相違して役者名とどまらず、巷間の見立は将軍・御三     家・幕閣にまで及んだ。下出『藤岡屋日記』の記事は、その代表的な判じなのであろう。ところで三田村鳶魚に「国     芳の大津絵」という一文があり、その中に安政元年刊墨摺複製の一枚絵が紹介されている。所収の図版には「嘉永六     年あとさきなり 浮世又平名画奇特」とあるほかに大津絵に対する判じも書き込まれている。以下、その書き込みと、     その一枚絵に添付されていたという紙片の記事と、鳶魚自らの下した判じとを、併せて引用したい。なお、これらの     中で紙片の判じが他のものと変わっている。例えば藤娘には「東都名所 カメイド」とあり、これは藤の名所亀戸の     意味で、明らかに江戸の名所を擬えたものと解釈している。要するに当時の人々は色々な角度から判じていたことを     示すものであろう。(『三田村鳶魚全集』廿一巻所収。引用するときは、添付された紙片を「紙片」、鳶魚のものを     「鳶魚」、一枚絵の書き込みを「一枚絵」と略記)。ところでこの「浮世又平名画奇特」の売り出しについて、『藤     岡屋日記』には「七月十八日配り」とあるが、下出の隠密報告によると、六月六日に改を受け、六月中旬から出板し     たとある(『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」第二六七件)〉       右画組ハ、三芝居役者ニ見立     一 浮世又平             市川小団次     一 鬼の念仏             嵐  音八     一 福禄寿              板東佐十郎     一 藤娘               中村 愛蔵     一 鷹匠若衆             中村翫太郎     一 赤坂奴              中村 鶴蔵     一 猿ニ鯰              中山文五郎     一 大黒               嵐 冠五郎     一 かミなり             浅尾 奥山     一 弁慶               中山 市蔵     一 座頭               市川広五郎         鬼のやふになりて集し奉加帳せふきのいでて跡はおだぶつ              右大津絵之評、荒増左之通     浮世又平         水戸の御隠居  市川小団次        めっぱふな当りはづれのあぶな芸 又も浮世に出てさわがせる     一 評、水戸前黄門斉昭卿、御幼名敬三郎殿とて、部屋住之節は瘂の如く聾ニ成居、家督之後、急に       発明ニなり、余り利口過て我儘ニなり、増長致し、国中の堂宮を潰し、釣鐘を大筒ニ鋳直し、軍       を催し騒ぎ(ママ)故ニ押込隠居となり、其後、御免ニて、又々今度引出され、浮世ニ又出て、世を       平らげるから浮世又平だ。      〈水戸の御隠居とは水戸斉昭。弘化元年(1844)幕府から隠居謹慎を命じられた。(巷間では、斉昭が寺の釣り鐘       を大筒に鋳直したこと、それが原因で咎められたと見ていたようだ)その後、謹慎を解かれ、嘉永二年(1849)       には藩政に関与することも許された。そして折からの異国船騒動と世継ぎの問題、今度は幕政への出番が廻って       きた。これに対して世評は「世を平らげる」と期待を寄せる向きと「又も浮世に出てさわがせる」と覚めた見方       と相半ばしていたようだ。「紙片」「鳶魚」「一枚絵」はなし〉       鬼の念仏         十二代の親玉  嵐 音八        一生の皆行条(状カ)は敵役 能くいわれずにおわり念仏     一 評、鬼と言物ハ、世界ニ無之ものゝ由、寛政五年癸丑の御生れ、鬼門ハ丑寅之間ニて、牛の角ニ、       虎皮の脚半致し、いかれる赤き顔ハ、是亦鬼也、奉加帳ハ西丸御普請上納金、折角帳面ニ記せし       を、残らず割返せしハ、隠居の差差(衍)略なりとて、撞木振上ヶて□□□(ママ)で居る、又傘壱本       背負しハ、天が下をしろしめしたる尊き御身も、死出の旅路ハ道連もなく、たゞ傘壱本ニ付雨露       を凌ぎ、泪をこぼし、急に気がつひて後生心が出たから、是が鬼の念仏だ。      〈十二代の親玉とは将軍家慶をいう。嘉永六年七月二十二日没。せっかく奉加帳に記してある西丸の普請上納金を       返却したのは隠居の水戸斉昭の策略だと、顔を真っ赤にして撞木を振り上げている鬼が将軍家慶だという。背負       う傘は死出の旅路の雨露を凌ぐもの、道連れもなく涙をこぼしつつ歩いてゆくと後生心が生まれてきたというの       が、これこそがらにもない殊勝な振る舞い(鬼の念仏)というものだ。「紙片」は「東都名所 ソトカンダ」し       かしなぜ「鬼の念仏」が外神田なのか不明。「鳶魚」は言及せず。「一枚絵」には「下つ◎るゑんまハ町かがな       むあみだ」の書き込みがあるが意味不明〉       福禄寿            十三代目  板東佐十郎        疳症だ抔とわらひし見物も いよ坂三津が再来の芸     一 評、文政七申年の御生れ、生得利口成ど、御病気故ニ首を振てきやつ/\と欠歩行、故ニ軍配団       扇之印ニ九棒にハ少しなひ、中が赤ひといふ、今迄ハ馬鹿の様ニ思われ、急ニ利口ニなり、万事       行届き過るから、大黒が今からそんなに利口振てハならぬと、頭を押へて居る、御末子成共、只       一人り残り給ひ、御家督をふまへ、天下を知らし召、故に福禄寿だ。      〈文政七年生の十三代目は将軍家定。「疳症(カンショウ)公方(クボウ)」という渾名もついていたから、激して「きゃ       っ/\」と駆け回る光景を想像したのであろう。「故ニ軍配団扇之印ニ九棒にハ少しなひ、中が赤ひと」の意味       が分かりかねた。父家慶の男子で生き残ったのは家定のみ、それで天下の将軍になったのだから、実子に恵まれ       た長生きの象徴・福禄寿そのものだというのである。ところで「紙片」と「鳶魚」はこの評者とは異なる判じを       している。まずこれを福禄寿と呼ばず「げほう(外法)」と呼んでいる。また見立ても異なり、「紙片」は「東       都名所 カイゾクバシ」と判じ、「鳶魚」はそれを踏まえて海賊橋に屋敷を持つことから老中牧野備前守忠雅と       する。「一枚絵」はなし〉       藤娘    新下御台所 又、姉の小路共  中村 愛蔵        奥様が御局さまか知らねども 御贔屓きゆへに時に愛蔵     一 評、御縁組ハ、何れ五摂家、御紋ハ下り藤、今迄のハ弱かつたが、今度のハ達者だと、藤を振廻       して居ル、是急ニ不時の御下りだからふじ娘だ、又姉さまハ是迄用ひられ、大姉へだとかき廻し       た所が、不時ニ御目通り差扣ニ下ゲられ、難義する故ニふじ娘だ。      〈家定の御台所は嘉永元年(鷹司政煕の娘)と同三年(一条忠良の娘)と相次いで早世している。新しい御台所も       下がり藤の五摂家から迎えるのだが、今度こそは達者な娘だ。下がり藤(五摂家)の娘が不時のお輿入れをする       から藤娘だ。あるいは、この藤娘は大奥の上臈年寄・姉小路とも。理由は不時に出仕を禁じられ自宅謹慎になっ       たから藤娘だとする。藤と不時の駄洒落である。「紙片」は「東都名所 カメイド」。現在でも亀戸は藤の名所       である。鳶魚が祖母から聞いたという判じは「大奥のきり者、藤の枝といふお年寄」の由。「一枚絵」はなし〉       鷹匠の若衆        一ッ橋七郎麿  中村翫太郎        たかを手に押へてくゝり袴とハ これ先例のかんたろう也      一 着物の印が七郎丸ニて、始終の〆くゝり袴をかんで、鷹野ニ出ても一ッ橋を飛こへ欠廻る、すこ       やかな御若衆だ、又着物の前ニ四ッの筋在、前を合せるから、しじう仕合せだろう。      〈一橋七郎麻呂は後の十五代将軍慶喜の幼名。弘化四年(1847)水戸の七郎麻呂は一橋徳川家を相続し慶喜と名乗       っていた。「鳶魚」は袖に「かん」の文字があることから、上記の「疳症公方」家定を擬えたとする。もっとも       中村翫太郎の「翫(かん)」を暗示するとも考えられる。「紙片」は「東都名所 タカナハ」図様の鷹と縄から高       輪としたのである。「一枚絵」はなし〉        猿ニなまず       水戸ニアメリカ  中山文五郎        穏やかに帰してやるが大兄い いやとぬかせバ神風が吹     一 日本国をゆるがす異国の大なまずを、御国の鹿島の要石で押へて居ル、又申の御事ハ西丸様ニて、       日本をゆるがす異国人を瓢箪の大筒ニて押へ、ぬらくらしても瓢箪でなまづだ。      〈大津絵の「猿に瓢簞鯰」を水戸家とアメリカに擬えた。「太平の眠りを覚ます上喜撰(ジョウキセン)たった四杯で夜       も眠れず」浦賀に来航した四隻のアメリカ蒸気船はさながら大地震のように太平の世を揺さぶった。評者は、猿       がその震源である鯰を鹿嶋神宮の要石で鎮めようとしていると見て、鹿嶋神宮は常陸にあるからこの猿を水戸に       見立てた。「申の御事ハ西丸様」ともあるから、この猿を西丸様(家定と改名するまえの家祥)とする見立もあ       ったようだ。「紙片」は「東都名所 カジバシ」、しかし鯰と鍛冶橋との関係は不明。「鳶魚」はこの「カジバ       シ」から想を得たのか、屋敷が鍛冶橋にあることから若年寄鳥居丹波守忠挙と判じている。「一枚絵」はこの猿       図に対する書き込みかはっきりしない所もあるが「みとはない」とある。巷間では水戸というがそうではないと       いう意味なのであろうか〉        雷        大筒稽古ニアメリカ人  浅尾 奥山        かみなりでおこしおこし(衍字)ぶつきりアメリカの とけてながるゝ日の本のとく     一 評、大筒の音ハ雷の如く諸人を驚かし、碇ニて浅深をはかるも人にいやがられる敵役、億(臆)病       者ハいつそ奥山へ逃て行ふと言から、異国船の上へぴつしやり落て、雷火で焼ころせバ、是がほ       んのかミなりだ。      〈東京湾を測量しつつペリーの黒船が発する大音量の砲音、まるで雷のようだと、肝を潰す思いをしたのだろう。       これを契機に日本でも大筒の稽古が本格的に始まる。「紙片」は「東都名所 アサクサ」。雷門から連想しての       浅草だろう。「鳶魚」は「雷年はしろいからすで、ほうだいから、はだかでのぼる手かゞり」という書き入れを       この「雷」に対するものと見て、さらに「品川の砲台は、嘉永六年八月より起工されしものなり」のコメントを       加えている。しかし「これは誰のことかしれず」とさじを投げている。それにしても「雷年」と云い「しろいか       らす」と云い、筆者には一向に意味不明だが、書き入れの主が腑に落ちたのは何だったのであろうか〉        赤坂奴              紀州  中村 鶴蔵        鎗の所作外に二人りとなき奴 大手を振てりきミ振り込     一 評、御先祖の是ハ有徳の君ときく、千代万代も栄ふべし、外ニ又とハなき血筋、壱本鎗の御道具       を、振てふり込西の国、入れバかさなる二重橋、昇り詰たる奴だこなり、又是を福山共言、余り       一人でやりすごし、はだしに成て逃るといふ。      〈紀州は紀州藩主。当時は慶福(後の十四代将軍家茂)。赤坂に藩邸があったので赤坂奴を紀州としたのだろう。       それにしても鎗持奴を御三家の一つに見立てるとは大胆である。一方で、当時の老中阿部伊勢守正弘(福山藩主)       とする判じもあったようだ。ただ「余り一人でやりすごし、はだしに成て逃る」の意味がよく分からない。「紙       片」は「東都名所 アカサカ」で、文字通り赤坂奴の赤坂。「鳶魚」もこの赤坂からそこに藩邸のある紀州侯と       した。「一枚絵」にも「キイ」とあり、これも紀伊の意味であろう〉        大黒        御内証の御方ニ長岡  嵐 冠五郎        御表にあるは大黒柱にて 御内仏にも奥の大黒     一 評、福禄寿のあたまへ替紋の階子を懸て登り、其様ニ今から利口振てハわるひと頭を押へて居る、       自分もうへを見ぬ様にとて頭巾を冠り居る、是ぞゆるがぬ御棚の大黒、表向は跡へさがつて居ても、       内証ニて奥向を取締り、守護するから、内仏の大黒さまだ。      〈大黒様が長い福禄寿(外法)の頭に梯子を掛けて髪を剃るという図柄は大津絵の定番である。大黒に見立てた       「御内証の御方」とは、将軍から寵愛を受けてお手付きとなった大奥の御中臈をいうらしい。また長岡は老中牧       野備前守忠雅(長岡藩主)であろう。この評者は福禄寿を十三代将軍家定と判じているから、表向きの執政につ       いては老中の牧野が大黒柱になって、そして大奥内のことは正室がいないから御内証の御方が大黒となって、そ       れぞれ世話することになるのではないかというのだろう。御内仏は仏壇。大黒には住職の妻の意味もある。狂歌       はそれを踏まえたのであろう。「紙片」と「鳶魚」はなし。「一枚絵」は「からへ」か「から人」か、いずれに       せよ意味不明〉       弁慶鐘            芝ニ上野  中山 市蔵        三井寺へ行ふとハうぬ太いやつ 上への方よりなげし大かね        同役の早半鐘をやめにして 芝は大かね上野じん/\     一 評、是ニもとづき弁慶が、三井から上の方へ、大かねをひつかつぎ行んとせしが、かへろう/\       と言ゆへ、夫□(ママ一字欠)みとなげた所が三縁山、いよ/\大かね増上寺、真に徳が付ましたと、       りきミちらせしかげ弁慶。      〈芝は増上寺(浄土宗)、上野は寛永寺(天台宗)。川柳に「今鳴るは芝か上野か浅草か」漱石に「凩に早鐘つく       や増上寺」の句あり。芝も上野も鐘の音が有名。その昔、弁慶は三井寺の鐘を奪って延暦寺に引きずり揚げた。       ところが撞いてみると「イノー・イノー(帰りたい/\)」という響がする。それで怒った弁慶はその大鐘を谷       に投げたという伝説がある。それを踏まえて、今回、弁慶が上野から投げてみたら、その先が三縁山増上寺にな       ったというのである。評はこの伝説と将軍の葬儀をとりおこなう寺同士の争いとを結びつけた。この頃将軍の葬       儀は芝と上野が交代で執り行っていた。十代将軍家治は上野寛永寺だったので、十一代将軍家斉のときは当然芝       の増上寺であったにもかかわらず、上野の強引な働きかけがあって、寛永寺になってしまった。こういう因縁が       あったので、増上寺は今回の家慶の葬儀を絶対に執り行う必要があった。その宿願が通じたかして、この八月、       増上寺で家慶の葬儀が行われた。それは「かへろう/\」という鐘の思いが通じたからだという見立である。       「紙片」も「東都名所 しば」さらに「鳶魚」も「一枚絵」の一致して芝の増上寺である〉       座頭            福山ニ筒井  市川広五郎        総録となる一ッ目のちからより 肥前のはても見ぬ人明鏡        水にあわぬ御茶の出花や阿部伊勢茶これハ肥前の銘茶嬉し野     一 評、御役始メにハ、浜松の嵐ニかわるいせの神かぜ抔と誉そやし、段々の御出世ニて、格式と御       加増ニて頂上致し、夫より皆々憎ミ嫉ミ出せしハ、当世の人気ニて、能言者一人もなし、乍然御       歳若ニて諸人の上ニ立勤候事、中々及ぶ事ニあらず、人ハめくらの様に言が、急度目の明た座頭       だ。       又、筒井ハ先祖から日和見の順慶と言が、日の岡峠の出張ニも、うかつに敗軍せず、当代になり       ても長崎奉行も在勤致し、町奉行も相手の榊原主計頭ハ、評判能て大目付ぇ投られ、筒井ハ評判       なくして、町奉行の大役を永く勤め、今西丸御留守居へ押こまれても、なくてならぬ人と見へて、       聖堂へ引出され、異国夷す文字さへも読あきらめるから、是はめくらでハない、目明の座頭だ〟      〈福山は前出のように老中阿部伊勢守正弘。筒井は西丸御留守居筒井肥前守政憲。        阿部伊勢守、天保十四年二十五歳で老中就任した時は、折から水野忠邦の天保改革の最中だったが、市中から       「浜松(水野)の嵐ニかわる伊勢(阿部)の神風」と褒めそやされるほどの大活躍をして期待に応えた。それが       段々出世をすると、憎み嫉妬するものも多く、最近ではよく言う人は一人もいない。しかしあの若さ(当時三十       四歳)で諸人の上に立つことできる人材はそういるものではない。人は盲目だというがそうではないという評で       ある。阿部正弘の眼力に関しては、嘉永三年(1850)の国芳の「【きたいなめい医】難病療治」でも「近眼ハ阿       部の由、鼻の先計見へ、遠くが見へぬと云事なるよし」とあったから、阿部伊勢守は先見の明がないとか見る目       がないとか噂されていたのであろう。総録とは盲人を統轄した官名。按摩に鍼術を授ける養成機関でもあるその       屋敷が、本所一ッ目弁天(杉山流鍼術の創始者杉山和一を祀る)の隣にあった。評は座頭から按摩に縁が深い一       つ目を連想し、さらに眼力に噂のあった阿部伊勢守に注目したのだろう。       筒井の先祖順慶は、明智側か羽柴側かを天秤にかけて、洞ヶ峠をきめこんだために日和見だなどと云われるが、       すくなくとも敗軍の将にならなかった。(日の岡峠は洞ヶ峠の間違いか)さて当代の筒井肥前守はどうか。同時       期、南北の町奉行として職を共にしたこともある榊原主計頭のほうは退任後大目付に昇進したが、筒井のほうは       評判がいまひとつであったかして、むしろ左遷気味の西丸留守居役を押しつけられた。しかしその後の経歴を見       ると、間もなく学問所御儒役に就任しているから、学問もあり幕府には無くてはならぬ人材なのである。その上       異国語にも通じているから、とても文盲どころではない。立派な目明きだとする。(同年十月、筒井は長崎にお       いて行われるロシアのプチャーチンとの交渉役を仰せつかり大目付格となっている)       「紙片」は「東都名所 フタツメ」で本所二つ目とする。「鳶魚」も上記同様、福山藩主阿部伊勢守正弘で、そ       の根拠としては、画中の座頭の黒餅紋が「福山侯の押さえの法被の印◯(ママ)」と同じであることをあげる。また       鳶魚は「フタツメ」を福山藩の下屋敷があるという本所二つ目と解して、この判じを補強している。「一枚絵」       は「あんま」「あんまりでめが出ない」の書き入れがある。また顔の目の下のところに「め」とあり、これは       「二つ目」の意味か。いずれにせよ、この座頭を阿部正弘の擬えととらえる点では一致している〉        〈以上、一通り見てきたが、前述したように、これらの浮説は制作側、板元の越村屋や画工の国芳の思惑を越えた判      じなのである。天保改革のとき、幕府は役者絵・遊女絵の制作を禁じた。その結果、生業の大黒柱を失った浮世絵      界は、苦肉の作として、よく分からない絵柄だが人々に考えさせるような判じ物に活路を見いだした。しかもそれ      らは将軍家や時の老中など幕府の中枢にいる権力者を揶揄するような浮説を引き起こすことになった。その意味で      云えば、幕府は自らの命令によって、自らを批判するような判じ物を生み出してしまったともいえようか。このよ      うな判じ物の出現に幕府も真剣に向かい合う必要があると判断したようで、町奉行内には次のような動きがあった〉  ◎参考「浮世又平名画奇特」関係   △『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p464    (嘉永六年八月、北町奉行・井戸対馬守が南町奉行・池田播磨守宛に出した相談文書)   〝絵草紙改方之儀ニ付ては、度々申渡置候趣も有之候処、近頃取締向相弛候哉ニ相聞、既此程浮世又平名    画奇特と題号いたし候二枚継錦絵仕、如何之浮説を唱流布致し候由、伊勢守殿より御沙汰有之候ニ付、    組廻之者共え申付、風聞為相礼候処、掛名主とも改済之品ニて、板元並画工等も相分り候え共、素深意    有之儀とも不相聞侯間、兼て及御相談候通、吟昧ニは不取掛、名主共限先ツ売捌差留、板木摺溜之分共    取集置候様組廻之者より為及沙汰候、一体絵類之内、時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人    を為競侯様之類、間々有之、右は掛名主共心附候えは、不取締之儀は無之訳ニ付、下絵改方等弥入念弁    別、紛敷方ハ館市右衛門え可申聞旨、去ル午年同人より為申渡置候処、如今般不分明之絵柄ニ有之を名    主共改印いたし、殊ニ彼是浮説を生し候ても差留候心付も無之段、掛申付置候詮無之、甚等閑ニ付、此    上改方之規則申渡侯のみニては、取締相定問敷候間、一同掛引替候方ニも可有之哉、以後取締方等之儀    をも勘弁いたし可申聞も旨、別紙之通、館市右衛門え可申渡候哉と存候、依之錦絵其外風聞等相添、此    段及御相談候     丑八月〟    〈時の老中阿部伊勢守から、国芳画「浮世又平名画奇特」について、怪しげな噂が流布している由の指摘があったので、     町奉行・井戸対馬守は隠密同心等の廻り方を使って調べさせた。これは絵双紙懸り名主の改(アラタメ)(検閲)も通って、     板元・画工とも分かっているが、深意があるとも聞かないので、吟味には及ばなかった。改名主の権限で売買禁止、     板木と摺り溜めの分は集めさせた。このところ時の雑説や絵柄の不分明な絵を画いて、人々に考えさせ、買う側を競     わせるような類の絵が時々出る。午年(弘化三年)下絵の改を入念にして、紛らわしいものは町名主の館市右衛門に     申し出るよう改掛の名主へ通達しているが、今回、このような不分明の絵柄に改印を押し、さらに浮説が生じても制     止しようともしないのは甚だ職務怠慢である。これまでのように改方の規則を通達するだけでは厳しい取締りが出来     ないので、改掛の入れ替えを行ってはどうかという相談であった。その際、井戸対馬守が指し添えた風聞書が、以下     に示す隠密廻り同心による国芳の身辺探索結果報告と、絵草紙掛名主の風聞および代替名主に関する調査報告である。     まず国芳に関する書付から〉    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二六七件 p129)    (嘉永六年八月、隠密による国芳身辺調査報告書)   〝  新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付   隠密廻    新和泉町画師国芳義、浮評等生候絵類板下認候旨入御聴、同人平日之行状等風聞承探可申上旨被仰渡候    間、密々探索仕候風聞之趣、左二申上候、                         新和泉町南側 又兵衛地借                          浮世画師 芸名 歌川国芳事 孫三郎 五十六才                                     妻 せゐ  三十八才                                     娘 とり   十五才                                       よし   十二才                                     母 やす  七十二才                                  外ニ人別ニ無之弟子 三四人    右国芳事孫三郎義は、亀戸町友三郎地借、浮世画師、芸名歌川豊国事庄蔵先代之弟子ニて、歌舞妓役者    共似顔板下重も之稼方有之候処、天保十二丑年以来、絵類御取締廉々之内遊女・歌舞妓役者似顔御制禁    之御沙汰ニ付、武者・女絵又は景色之絵類類等板元注文受候得共、右絵類ニては、下々市中之もの并在    方商ひ高格別ニ相減候故、国芳義は画才有之者ニ付、奇怪之図板下認候絵類売出し候得は、種々推考之    浮評を生候より、下々之ものとも競買求候間、板元絵双紙屋共格別之利潤相成候ニ付、国芳え注文致シ    候もの多相成候処、右絵類之内ニハ浮評強絶板いたし候へは、猶望候もの多相成、内々摺溜置候絵類高    直ニ競ひ売買いたし候人気ニ至り、板元絵双紙屋共存外之利潤有之仕癖ニ成行候間、兎角異様之絵類を    板元共注文いたし候様相成候ニ付、書物絵双紙懸名主共踊形容之絵柄は為売捌、此踊形容と申立候は、    歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印売出し候間、奇怪之絵柄ハ凡相止候、然処、踊    形容之似顔絵は豊国筆勢勝レ候ニ付、国芳えは板元より之注文相減、又通例之武者絵・景色等之絵類ニ    ては商ひ薄、旁国芳職分衰候ニ付、図柄工風いたし絵類売出し候へは、下々にて何歟推考之浮評を生シ    候より望候もの多、商高相増候様ニ図取いたし候て、職分衰微不致様ニ仕成し候由    〈隠密同心たちも、判じ物が生まれてきたのは、天保改革で遊女・役者似顔絵を禁じたためだと認識していたようであ     る。武者絵・子供の女絵・景色絵(風景画)だけでは暮らしが立たないので、板元たちは困ったすえに、「種々推考     之浮評」が生ずるような「奇怪之図」を国芳の画才に託して頼んだ。目論見通りこれが当たって浮説が立つ、そこで     これを絶版にすると、却って逆に人気を煽ることになって、高値で取引される始末。とかく「異様之絵」がますます     持て囃されることになった。そこでそれを抑えようと、役者似顔絵だが画中に名前や紋所を入れない「踊形容」と称     するものを許可したところ、ねらい通り「奇怪之絵柄」の方は止まった。ところが、この「踊形容」なるものは豊国     の方が優れているため、注文が豊国の方に集中し国芳への注文は逆に減ってしまった。国芳は図柄を工夫してこの衰     微を防ぐ手立てを講じなければならなくなった〉        一 浮世画師は惣体職人気質之者にて、其内国芳義は弟子も多ク、当時は重立候ものニ候得共、風俗は     野卑ニ相見、活達之気質ニて、板元共より注文受候砌、其身心ニ応候得は、賃銀之多少ニ不拘受合、     又不伏之注文ニ候得、賃銀多談合候ても及断、欲情ニは疎キ方之由、尤、図取之趣向等国芳一存ニは     無之、左之佐七え相談いたし候由                              神田佐久間町壱丁目 喜三郎店                                        明葉屋 左七                           此ものは狂歌を好、狂名は梅の家と申候由    右佐七は、茶番或は祭礼踊練物類之趣向功者之由、同人は国芳え別懇ニいたし候間、同人義板元より注    文受候絵類、図取を佐七え相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候由、    〈浮世絵師は総じて職人気質、国芳は弟子も多く当節の大立て者だが、立ち居振る舞いは野卑、気質は闊達で、板元か     らの注文も気に入れば賃金の多少に関わらず引き受け、不服だと高くとも断る。金銭等の欲望は薄いとのこと。図柄     や趣向取りについては国芳一存ではなく、左七(狂名梅の屋)と相談の上で制作する由。この左七は茶番師で祭礼の     際の踊りや練り物の工夫が巧みという。国芳とは極めて昵懇。国芳は板元から注文が入ると、左七と相談して浮説が     生ずるような絵柄を考案するようだ〉
   一 国芳居宅は、新和泉町新道間口二間半・奥行六問、自分家作ニ住居、家内八九人程之暮方ニ付、妻     子ハ相応之衣類も着候得共、其身ハ着替衣類等之貯も薄、注文受候画類賃銭相応ニ受取候得共、弟子     共之内えも配当いたし、其上欲情には疎キ方ニて暮方等ニは無頓着、借財等も有之候者之由、且、前     書佐七義、当六月廿四日、下柳原同朋町続新地家主、料理茶屋河内屋半三郎方借受、雅友共書画会催     候節、国芳義同所へ参り、畳三十畳敷程之紙中え、水滸伝之人物壱人みご筆ニて大図ニ認、隈取ニ至     り手拭え墨を浸シ隈取いたし候得共、紙中場広にて手間取候迚、着用之単物を脱墨を浸、裸ニて紙中     之隈取いたし候間、座輿ニも相成、職人之内にては、下俗之通言きおひもの杯と申唱候由    〈暮らし向き、妻子は相応の衣類を着ているが、本人はおかまいなし。画料はそれなりだが、弟子に分けてやったり、     また金銭にも無頓着だから、借金もあるようだ。左七が、さる六月二十四日、柳原の料亭河内屋を借り受けて、書画     会を開催したおり、国芳は畳三十畳もある紙に水滸伝の人物を一人藁筆で画き、手拭いで隈取りしようとした。とこ     ろががあまりに大きすぎて手間取るというので、国芳は着ていた単衣を脱いで墨に浸し、裸のまま隈取りしたという     ことだ。この座興が大いに受けて、国芳には「きおひもの」と云う評判も立っている〉      一 此節絵双紙屋共売買いたし候二枚続浮世又平名画奇特と題号国芳板元左之通、                                浅草東岳寺門前  嘉兵衛店                                地本草紙問屋仮組 越村屋平助    右之もの板元ニて売買いたし居候大津画之図柄ニ付、浮評を生候処、右二枚続大津画は、当六月六日、    草稿ヲ以懸名主共立会席え持参いたし候ニ付、禁忌之義も無之候間改印いたし、六月中旬より出板いた    し候由、右大津絵は、相画師浮世又平認候大津絵之画勢抜出候趣向ニて、表題傾城反魂香と申浄瑠璃文    句を取合候由、紙中人物似顔左之通、                              歌舞妓役者之内                       浮世又平   市川小団次                       雷      浅尾 奥山                       若衆     中村翫太郎                       福禄寿    坂東佐十郎                       座頭     市川広五郎                       鬼      嵐 音八                              但、音八は大柄ニ付、紙中えも大振認候由、                       奴      中村 靏蔵                       弁慶     中山 市蔵                       猿      中山文五郎                       娘      中村 相蔵                       大黒     嵐 翫五郎    〈この度の「浮世又平名画奇特」の板元は越村屋平助。改は六月六日、特に違犯もないので認められ、同月中旬には出     版された。これは浮世又平が画いた大津絵と「傾城反魂合」という浄瑠璃の文句を取り合わせたという。画中の似顔     は以下の通りとして、役者名を記しているが、おそらく紛れようもなく似ているのであろう、これは上掲の『藤岡屋     日記』と全く同じである。これは役者似顔絵であっても名前や紋が入っていないから「踊形容」と称されるものであ     る。おそらく国芳ら制作側の意図としては、単に許可された「踊形容」を画いたに過ぎないということなのだろう〉       右之外、流行逢都絵希代物と題号いたし候、画師国芳、絵双紙屋仮組浅草並木町弥兵衛店(湊屋)小兵    衛板元にて、三四ケ年以前売出候大津絵も、画勢抜出候趣向之図ニ候処、此錦絵売出之節より浮評等生    し不申候処、当六月中売出し候前書二枚続錦絵之分、浮評相生し候由、    右、密々承糺候風聞之趣、書面之通り御座候、且、孫三郎義前書之外不正之所業等可有之と探索仕候得    共、差当如何之所業等相聞不申候、依之右絵類相添、此段申上候、以上、      丑(嘉永六年)八月               隠密廻り〟    〈大津絵の趣向を使って、国芳は三四年以前にも「流行逢都絵希代物」という錦絵を湊屋から出しているが、このとき     は浮説が生じなかったが、しかし今回の「浮世又平名画奇特」には浮説が生じた。国芳(孫三郎)については前述の     通りで、さし当たり不正は見つからなかった。以上が国芳に関する隠密の結論である。「流行逢都絵希代物」には     「ときにあふつゑきたいのまれもの」のルビがあり、こちらは三枚続である」。中図に国芳自身と思しき人物が画か     れているが、顔の部分は例によって大津絵を配して巧妙に隠している。国芳の「判じ物」のように、そこには何かが     隠されているけれども、はっきりと姿は見せない。逆にそうだからこそ見物の想像をかき立てるという仕掛けだ。参     考までに引いておく〉
    「流行逢都絵希代物」 一勇斎国芳画(国立国会図書館デジタルコレクション)    ◯『泰平年表』三編巻二 竹舎主人編   (国立国会図書館デジタルコレクション)(15/30コマ)   〝是月(嘉永六年七月)国芳筆之大津家流布す 此絵は当時勢柄不容易事ども差含み相認候判詞ものの由     依之売捌御差留 筆者板元等過料銭被申付〟  ◯『筆禍史』p157「浮世又平名画奇特」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝『武江年表』嘉永六年の條に「六月廿四日柳橋の西なる柏戸(料理屋)河内屋半次郎が楼上にて狂歌師    梅の屋秣翁が催しける書画会の席にて浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ三十畳程の渋紙へ水滸伝の豪傑九紋    龍史進憤怒の像を画く衣類を脱ぎ絵の具にひたして着色を施せり其闊達磊落思ふべし」とあるに、其翌    月には所謂お咎の筆禍ありたり、『続々泰平年表』嘉永六年の條に「癸丑七月国芳筆の大津絵流布す此    絵は当御時世柄不容易の事共差含み相認候判詞物のよし依之売捌被差留筆者板元過料銭被申候」とあり、    其詳細は記載せずといへども、大津絵とは『浮世又平名画奇特』と題せる二枚続の錦絵なるべし、此絵    には一勇斎国芳の署名と共に、天保十三年制定の名主月番の認印もある間に「丑六」とあり、丑六とは    嘉永六年癸丑の六月なること明確にして、年号も符合し居り、又図案は浮世又平が筆を執りて画きたる    雷公、鷹匠、藤娘、鬼、弁慶、奴、等が紙面を抜出て活動する画様なれば、「国芳筆の大津絵流布す」    といへる大津絵なるべし    時代懸隔のために、其画の寓意のある点を判断すること能はざれども、『浮世絵』第三号の所載に拠れ    ば、若衆に「かん」とあるは疳性公方の渾名ありし十三代将軍家定のこと、藤娘は大奥のきれ者藤の枝、    外方は老中牧野忠雅、赤坂奴は紀州侯、鯰は若年寄鳥居忠挙、座頭は老中阿部正弘、弁慶は芝増上寺の    ことなりなどとありて、同じく寓意の点は解し難しとせり、右の註は此錦絵の後に墨摺一度のものあり    て一々略註を附けしものありしに拠るといへり     数年前に発行せし『帝国画報』に「歌川国芳は大津絵の狂画を描きて発行せしが、当時を誹るものと     して発売を禁ぜられたり、此に掲ぐる大津絵はそれならんか、但しは故らに我顔を覆はせたるは、其     後の諷刺的作ならんか、とにかくに、国芳の大津絵は世に珍らしければ、茲に紹介す」とありて、画     様は前記の『浮世絵又平名画奇特』と略ぼ同様にして只抜けからの画紙散乱し、其中の一葉が画者の     顔を覆へるが如し差あるのみのものを掲出しありたり、但し版元及び彫工を異にし、発行年月の記入     はなきものなりし     〔頭注〕大津絵考    これは既に先輩の諸説紛々として其判定に苦しむ所なるが、吃の又平、浮世又平、浮世又兵衛、岩佐又    兵衛、此四名を同一人物と見て、大津絵をかきしは、此又平なりとする説あれども、我輩は大津絵かき    の又平と浮世又兵衛とは別人なりとするなり、岩佐又兵衛が時世粧を画きしが故に、浮世又兵衛と呼ば    れたるにて大津絵かきの又平が浮世又兵衛にあらざる事は、其画風の大に相違せるにても知らるゝなり、    又其人格閲歴の上に於ても大に相違せるが如し、尚大津絵かきの名は又平といふにてあらざりしならん    と思はるゝ程なり    名画の誉れといへる演劇の吃又などは、妄誕の戯作たること無論なるが、其根元は支那小説に出で、そ    れに浮世絵の名画師岩佐又兵衛を付会せしなるべし〟   〈上記〝『浮世絵』第三号の所載に拠れば(云々)〟の『浮世絵』第三号記事とは三田村鳶魚の記事〉  ◯『浮世絵』第三号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「国芳の大津絵」   〝(前略)此の頃偶然手に入りたる墨摺一枚絵あり、斉しく「浮世又平名画奇特」と題し、全く同一の画    図なり、只だ彼は錦絵二番物にて、是は墨摺一枚なるだけの差に過ぎず、先日吉田里子(りし)氏来話の    時、其共に展観して、墨摺錦絵先後談をなせるほどに、里子氏申さるゝには、一度発布を禁止されしも    のを説明まで付けて流布せしめんこと、幕府時代の事としては請取れず、故に此墨摺先づ行はれ、その    景気よきより錦絵も出たるならんと聞きて、如何にも然るべく思はれしが善く視れば「嘉永六丑年あと    さきなり、安政元年寅」と朱にて書入れあり。然らば此の墨摺は錦絵の後に出でたるもの歟。     錦絵の評判よく、禁止されて愈々(いよ/\)賞玩さるゝを見掛け大胆にも禁を犯して刊行せしにもあ    るべし、特に説明を印刷せる小紙片の添えられしは異様なり、其の小紙片には      東都名所 げほう  カイゾクバシ  若衆  タカナハ  やつこ  アカサカ           藤姫   カメイド    弁けい シバ    なまず  カジバシ           雷    アサクサ    おに  ソトカンダ 座頭   フタツメ     とありて的指せず、説明書にも尚ほ説明を要すべく、一面には申訳けの資たること分明なり、さはあ    れ申訳のみのものにはあらず。     老中牧野備前守忠雅。海賊橋に邸地ありしより海賊牧野と渾呼せり。赤坂奴は紀州侯、その邸地の赤    坂にありたるよりいふ。弁慶は芝増上寺、これは十二代将軍家慶公の葬儀に上野と芝の競争ありしが、    増上寺奇捷を博し、芝へ御葬送ありたり。鯰の鍛冶橋は若年寄鳥居丹波守忠挙(ただおき)邸の所在地。    雷の浅草、これは「雷年はしろいからすで、ほうだいから、はだかでのぼる手かゞり」といふ書入あり、    品川の砲台は嘉永六年八月より起工されしものなり、これは誰の事かしれず。神田の鬼も同じ、二ッ目    の座頭、アベと書入あり、老中阿部伊勢守正弘、福山侯の押の法被の印は◯なり 画中の座頭が黒餅の    紋付を着用せるより合点すべし、下屋敷も二ッ目にありたり。説明書と書入とに由(よ)りて、多少とも    其の解を得たれども 略(ほゞ)其の意味を知る段には至らず、寝転びながらに相応の解釈を得んことは    横着に過ぎたり、且つ『浮世絵』の記載としては、幕末の時世を揣摩する必要もなかるべければ、手数    のかゝる穿鑿は御免を願ひ、簡単に国芳の大津絵の発布を禁止されし後に、墨摺にて蒸し返したるもの    ありといふ事だけを申せば足れるに似たり〟  ◯『浮世絵』第十一号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「随筆さがし」焉魚(7/25コマ)   〝前に国芳の風刺画大津絵は二枚続錦絵の外に一枚墨刷あることを云ひしが、錦絵十二枚の春画もあり、    尚ほ左の文書によれば、錦絵の方は数板ありしが如し、流行の盛なること思ふべし。      嘉永六年八月隠密掛より町奉行へ届     今般浅草東岳寺門前嘉兵衛店平助版元にて売出候「浮世又平名画奇特」と題号致候、二枚続錦絵之儀     に付、浮説相立候に付、右板木摺溜共不残、絵草紙掛名主共方へ取上、市中絵草紙屋所持之分共、昨     十六日迄取集売止申付、且類版之分も是亦同様取計候旨、別紙之通、掛名主共、私共迄申聞候間、右     一冊相添此段申上候 以上       丑八月    (別紙)     一 浮世又平名画奇特 二枚続錦絵  浅草東岳寺門前嘉兵衛店 平助       但摺溜百七十八枚、版木二枚     一 右同断 無改重版  長谷川町甚助店      又兵衛                 堀江町六軒町新道仁兵衛店 宇助                 浅草等覚寺門前彦七店   亀太郎       但摺溜、又兵衛分五十八枚、宇助分四十枚、亀太郎分三十四枚、版木二枚三組にて六枚〟     〈(別紙)上段の「浅草東岳寺門前嘉兵衛店 平助」とは、この出版で過料に処せられた版元の越村屋平助。下段の三人は      それに便乗して無断出版した者たち。これも越村屋平助同様、発売禁止、板木摺溜すべて没収となった〉