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☆ かわなかじまかっせん 川中島合戦浮世絵事典
 ☆ 天保十五年(弘化元年・1843)<七月-十月>     筆禍「川中島合戦」三枚続・一勇斎国芳画 佐野屋喜兵衛板      処分内容 絵双紙改掛(アラタメガカリ)名主の裁量により売買差し止め(禁止)      〈改掛の名主は出版が是か非か見極めることができなかったので、町奉行の判断が下るまで、取り敢えず売買を禁       じたのである〉    ◯ 七月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p238〕   (町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)    〝川中嶋合戦三枚継絵之儀ニ付奉伺候書付    一 川中島合戦 三枚継絵      右品、当五月中、芝三島町長兵衛店、絵双紙屋(佐野屋)喜兵衛より、其節絵双紙掛月番名主加賀町     (田中)平四郎え差出改之上、彩色八編摺、其外猥ヶ間敷儀も無之ニ付、一旦為売出候処、先年川中     島合戦絵柄ニ付、御調等有之候由、此節及承侯ニ付、先つ不取敢右品売買差留置、如何可仕哉之段、     名主平四郎伺出申候    右依之相調候処、先年川中島合戦絵御調御座候程は、御番所御直調ニ有之候哉、私共書留相知不申候得    共、文化元子年五月、絵双紙問屋並組々年番名主え取締申渡候内、一枚絵、草紙類、天正之頃以来之武    者等名前を顕画候儀は勿論、紋所・合印・名前等紛敷儀も、決て致間敷旨有之、然は、此度差出候川中    島合戦絵出板可為致品ニは無之、早々絶板申付、摺立侯品は不残取上ヶ可焼捨旨、申渡候様可仕候哉、    則差出候三枚継并文化度申渡写相添、此段奉伺候、以上     辰七月              館市右衛門〟    〈この五月、板元の佐野屋喜兵衛から「川中島合戦」(三枚続・一勇斎国芳画)の出版申請があった。当時、絵双紙の     改(アラタメ=検閲)掛りだった名主・田中平四郎は、彩色・絵柄等特に問題なしとして許可。そして一旦売りに出され     た。ところが川中島合戦の絵柄には先頃当局の取り調べが入っていたことが分かったので、担当名主の田中平四郎は     取り敢えず販売を差し止めにして、町年寄・館市右衛門に伺いを立てた。七月、館はそれを受けて町奉行の判断を仰     いだ。文化元年、天正年間以降の武者絵を禁じる触書が出ており、川中島合戦はこれに抵触する、従って板木は絶板、     錦絵は残らず焼却すべきではないかと。それに対して、南町奉行鳥居甲斐守(耀蔵)がこう答えた〉     〝川中嶋合戦錦絵之義ニ付、被遣候書面一覧致シ候処、永禄時代之武者絵ニ付、売買苦かるまじく、勿論    天正後の武者絵名前を顕し候を被禁候は、畢竟 御当家え拘り候儀有之故と相聞候〟    〈鳥居耀蔵は川中島合戦は天正以前の永禄年間だから問題なしとした〉       〝当五月中出板、其後心付売留為致伺出候川中嶋合戦三枚継絵之儀、別段不被及御沙汰候〟    〈十月「川中島合戦」の件は正式に落着。結局問題なしとされた。それにしても、町年寄・館市右衛門、川中島が天正     以前であることは当然承知の上であろうに、なおかつ絶板・焼却すべきとしたのはなぜであろうか。然るべき理由が     あってのことと思われるがよく分からない。ただ十月の上申書にこうある〉     〝永禄と天正纔之違ひ、下々之者細蜜ニ弁え兼、右絵柄に泥ミ、若此末時代紛敷武者絵等出板仕候ては、    恐入候儀ニ罷成、私より取極候儀は申上兼、御賢慮を以被仰付被下候ハゝ、難有仕合可奉存候〟   〝以来天正以前ニ候とも、其頃の絵柄ニて弁別紛敷分は、縦令壱枚絵之類ニ候共、名主共限ニ不改、私方    え差出改受候様可申渡段、被仰渡奉畏候〟    〈永禄年間(1558~1570)と天正年間(1573~1592)とのわずか違いを、下々の者が識別出来かねて、「川中島合戦」     のような絵柄に拘ってしまうと、今後とも紛らわしい武者絵が出版されるようになるかもしれない。それでは申し訳     ないし、私の方でも判断しにくいので、賢明な検閲指針を示して頂きたい。また今後は天正以前のものでも、絵柄を     識別し難いものは、名主任せの改(アラタメ)をとせず、町年寄に提出して検閲を受けるようにしてほしいという提案で     ある。どうやら、館市右衛門は「川中島合戦三枚継絵」をことさら問題視することによって、名主たちの検閲基準を     明確にしたかったのかもしれない。また際見極めが難しいものについては、これをきっかけとしてその判断を町奉行     に預けたかったのかもしれない〉        ◯ 十月〔『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p381)      〈「川中島合戦」一件、町奉行から正式に下された裁定は以下の通り〉   〝天保十五辰年十月 川中島合戦継絵、館市右衛門取調書差出候ニ付、絵柄、御当家え拘り候筋無之ニ付、    不及沙汰、以来天正以前ニ候共、其頃之絵柄ニて、弁別紛敷分は館市右衛門方え差出、改受候様、可申    渡旨同人え申渡之事〟    〈徳川家に拘わるような絵柄もないから取り上げるまでもないとした。また天正以前の紛らわしき絵柄のものについて     も上出館市右衛門の提案が受け入れられている〉
   「川中嶋大合戦」一勇斎国芳画 佐野屋喜兵衛板 (C's Ukiyo-e Museum)     〈ところで、上掲「川中嶋合戦三枚継絵之儀ニ付奉伺候書付」に出てくる先年取り調べが行われた「川中島合戦」とは何    であろうか。おそらく天保十三年刊、一猛斎芳虎画「信州川中嶋大合戦」五枚続をさすものと思われる。改掛(アラタメガ    カリ)の名主や町年寄館市右衛門はその時の記憶があって、検閲に慎重を期したのかもしれない。この芳虎画に関する文    書を参考史料として引いておく〉     参考史料(天保十三年刊「信州川中嶋大合戦」五枚続・一猛斎芳虎画)一件   ◎『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」第二八六件 p214    (板元・万屋、上総屋、販売元・三河屋鉄五郎、絵師・芳虎の絵草紙掛り名主宛請証文)    〝一 川中嶋合戦大錦絵三枚続 山下町 茂兵衛店 板元 万屋 十兵衛       画師(歌川)芳虎     一 右同断二枚続            通四町目 専吉店 板元 上総屋常次郎     右錦絵、下絵を以当七月中改印申請、摺立売出し仕候処、絵双紙屋見世にて五枚続ニ致し売買仕候ニ     付、右始末御調ニ御座候、此儀、右川中嶋合戦錦絵之義は、元大工町三河屋鉄五郎より被相頼、十兵     衞・常次郎両人は、板元名前ニ願候迄ニ有之、芳虎儀も御調御座候処、是又鉄五郎より相頼候ニ無相     違旨相訳(ママ)候得共、三枚続・二枚続両人名前ニて改印申請、五枚続ニ仕立紛敷売捌方仕候段御察斗     受、可申立様無御座奉恐入候、以来右体紛敷取計方仕間敷旨、且又、前書川中鴫合戦絵五枚続ニ不相     成様、別々ニ売捌可申旨被仰聞、難有奉畏候、為後日仍如件                         山下町 茂兵衛店 板元 万屋十兵衛                                  家主 茂兵衛                        通四町目 忠兵衛  板元 上総屋常次郎                                  家主 忠兵衛                        元大工町 十兵衛店 三河屋鉄五郎                                  家主 十兵衛                         具足町 亀五郎店 亀次郎悴 芳虎事                                   画師 辰五郎                                   家主 亀五郎〟    〈この文書は嘉永二年五月の三枚続錦絵「仙台萩」一件に関する文書の中にあるもの。年次日付はないが、以下の点か     ら、天保十三年のものであることが分かる。国会図書館所蔵の一猛斎芳虎画に「信州川中嶋大合戦」という五枚続が     ある。(下出画像参照)それを見ると、三図に万屋の板元印、二図に上総屋の板元印がある。画題と板元の一致から、     この証文の言う「川中嶋合戦」が国会図書館蔵の「信州川中嶋大合戦」と同じ物であることが分かる。改印をみると     「極」の単印、この形式は天保十三年までで、翌十四年から名主の単印に移るから、この「川中嶋合戦」は天保十三     年以前の出版と考えられる。また天保十三年の十一月晦日には、一枚絵は三枚続まで四枚以上は無用とする町触が出     ているから、それを考慮すると、五枚続ゆえに察斗(咎め)を受けたというこの「信州川中嶋大合戦」はこの年の出     版と見てよいであろう。同年七月、三河屋は万屋と上総屋を使って、それぞれ三枚続・二枚続の作品として、下絵改     (アラタメ=検閲)に差し出し、出版許可を貰った。しかし実際には両方を一括して五枚続として売り捌いた。並べてみ     れば一目瞭然、紛れもなく一つの作品である。その五枚続が問題視され、証文を書く羽目に陥った。ただよく分から     ないのは、この三河屋、七月の時点でどうして三枚と二枚に分けて改を受けたのかという点である。2013/11/12追記〉
   「信州川中嶋大合戦」一猛斎芳虎画 万屋十兵衛・上総屋常郎板 (国立国会図書館デジタル化資料)