☆ 弘化元年(天保十五年・1844)<十月以降>
筆禍「化物忠臣蔵」中判十二枚揃 一勇斎国芳戯画 上州屋金蔵板
処分内容 町年寄の裁量により売買差し止め(禁止)
処分理由 不明(浮説の流布か)
〈実際に売買禁止になったかどうか確認できていない〉
◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)
(記事は天保十五年冬。下記国芳の「土蜘蛛」の絵が出板されたのは天保十四年八月)
〝去年は頼光が病床、四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶
板せられしにも、こりずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化
物忠臣蔵等、其もよふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初
ははゞからず町老の禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟
〈今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」(一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」の絶板にも懲りず四天王ものが出版に
なった。(国芳の「土蜘蛛」は処分されなかったが、その後に出た玉蘭斎貞秀の「土蜘蛛」は処分された)ここに言
う「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三界図絵」。「岩戸神楽」とは「国貞改二代豊国画」の署名のある
「岩戸神楽乃起顕」。つまり天保十五年四月、改名したばかりの三代豊国画。そして「化物忠臣蔵」とは十二枚続き
の一勇斎国芳画。これらは始めは憚ることなく売られ、町老(町年寄か)の差し止め(禁止)で出てからは、隠して
高値で売られたようである。2011/03/25記〉
〈この天照大神の出現を、天保十四年(1843)閏九月の老中交代劇、水野越前守忠邦の老中罷免、阿部伊勢守正弘の老
中就任を戯画化したものと、捉えていたが、一方で、如何に痛快な出来事とはいえ、時流に敏感な江戸の出版界が、
一年以上も前のものを、わざわざ出版するであろうかという疑問もある。ところが『浮世の有様』の弘化二年(1845)
正月の記事に「水野越前守殿にも再勤後、種々の取沙汰なりしが、又御登城御差留に旧冬相成し由、慥に江戸表より
申来りしと云」とある。(下出参考史料参照)水野越前守の老中再辞職は、正式には弘化二年の二月二十二日だが、
前年の天保十五年(1844)冬の江戸では辞任の噂が流れていた。そうすると「岩戸神楽乃起顕」を水野再辞職の判じも
のだと考える輩も出てこよう。2013/11/12追記〉
「化物忠臣蔵」 一勇斎国芳戯画 上州屋金蔵板(東京国立博物館蔵)