Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ みなもとのよりみつこうのやかたに つちぐもようかいをなすのず浮世絵事典
☆ 源頼光公館土蜘作妖怪図
 ☆ 天保十四年(1843)<春の出版、八月以降>    ◎参考「源頼光公館土蜘作妖怪図」三枚続・一勇斎国芳画・伊場屋仙三郎板    〈板元が自主的に回収し板木を削り落としたために、板元・絵師とも処罰なし。もっとも、発禁処分になったという噂     は流れた。詳しくは下出、-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」参照〉     △『藤岡屋日記』第二巻 ②413(藤岡屋由蔵・天保十五年正月十日記)   〝源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし〟    〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)春の刊。八月はこの絵が「判じ物」として大評判になり、さま     ざまな浮説が飛び交い始めた時期にあたる。幕政を諷したなどという噂も立ったために、警戒した板元伊場屋が絵を     回収し板木を削り落として、お咎め免れたというのだが、数種の異板はあるし、下出のように京大坂方面にまで流布     したようだから、相当量の数が出ていると思われ、どの程度の自主規制したものか、その実態はよく分からない。昨     年の天保十三年六月、町奉行は町触れを発して役者絵・遊女絵を禁じた。それは浮世絵界から生業の大黒柱を奪うに     等しい仕打ちであった。この判じ物「源頼光館土蜘作妖怪図」は、そうした生業の糧に窮した浮世絵界から生まれき     た苦心の作品なのである。天保の改革は結果として「判じ物」を生み出したともいえようか。皮肉なことに、これ以     降、さまざまな「判じ物」が登場しては浮説が生まれ、その度に改(アラタメ)掛りの判断を悩ませることになってゆく。     それもまた、天保の改革の余波といってよいのであろう。以下、浮説の具体例を江戸と大坂から一つずつ引いておく。     (詳細は下出の拙著「-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」」参照〉
   「源頼光公館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
   「土蜘蛛」解釈(浮説)全文(-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」所収)
   「土蜘蛛」解釈(浮説)一覧(-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」所収)
   「土蜘蛛」その他資料   (-読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」所収)
   -読む浮世絵「判じ物」- 一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」     △「流行錦絵の聞書」絵草紙掛り・天保十五年三月記(『開版指針』国立国会図書館蔵)   〝天保十二丑年五月中、御改革被仰出、諸向問屋仲間組合と申名目御停止ニ相成、其外高価の商人并身分    不相応驕奢(ヲゴリ)のもの、又は不届成もの御咎被仰付、或ハ市中端々売女の類女医師の堕胎(ダタイ)    【俗に子をろしと云】御制禁ニ相成、都て風俗等享保寛政度の古風ニ立戻り候様被仰渡候処、其後同十    四卯年八九月の比、堀江町壱丁目絵草(ママ)屋伊波(バ)屋専次郎板元、田所町治兵衛店孫三郎事画名歌川    国芳【国芳ハ歌川豊国の弟子也】画ニて、頼光(ヨリミツ)公御不例(レイ)四天王直宿(トノヒ)種々成不取留異形    の妖怪(ヨウカイ)出居候図出板いたし候、然る処、右絵ニ市中ニて評到候は、四天王は其比四人の御老中    【水野越前守様、真田信濃守様、堀田備中守様、土井大炊頭様】にて、公時(キントキ)渡辺両人打居候碁盤    は横ニ成居、盤面の目嶋なれば、此両人心邪(ヨコシマ)に有之べし。扨妖怪の内土蜘は先達て南町御奉行所    御役御免ニ相成候矢部駿河守様の【但定紋三ツ巴也】由、蜘の眼巴ニ相成居候、又引立居候小夜着は冨    士の形ち、冨士は駿河の名山なれば駿河守と云判事物の由、飛頭蛮(ヒトウバン/ロクロクビ)は御暇ニ相成候    中野関翁【播磨守父隠居なり】にて、其比世上見越したると申事の由、天狗は市中住居不相成鼠山渋谷    豊沢村え引移被仰付候修験、鼻の黒きは夜鷹と【市中明地又は原抔え出候辻売女也】申売女也、長ノ字    の付候杓子を持、鱣(ママ鰻?)にて鉢巻いたし候坊主は芝邊寺号失念日蓮宗にて鱣屋の娘を囲妾ニいたし、    其上品川宿にてお長と申飯売と女犯ニて御遠島に相成候ものゝ由、筆を持居候は御役御免ニ相成候奥御    祐筆の由、頭に剱の有るは先達て江戸十里四方御構に相成候歌舞妓者市川海老蔵、成田不動の剱より存    付候由、頭に赤子の乗居候は子おろし、當の字付候提灯は当百銭の由、纏に相成居候鮹は足の先きより    存付高利貸、分銅は両替屋、象に乗候達磨は先達て貪欲一件ニて遠島に相成候牛込御箪笥町真言宗ニて    歓喜天守護いたし候南蔵院の由、其外家業御差留御咎等ニ相成候もの共の恨ミに有之由、専ら風聞強く    候故、内密御調ニ相成候。右ニ付市中好事の者調度絵草屋(ヱソウシ)屋え、日々弐三人宛尋参候得共、絵    草紙屋にても、最早売々(ママ)不仕候、右は全下説ニ程能附会(コジツケ)風評致候共恐入候事ニ有之候、乍    併諺にいふ天ニ口なし人をもつて云わしむると申事あれバ、若自然右を案じ、又乍承夫を紛敷画候ハふ    とゞき至極のもの共也〟    〈憚ったためか、この「聞書」は頼光が暗示するものを記さない。四天王は水野忠邦以下当時の四老中。碁盤の目は坂     田金時(堀田備中守)と渡辺綱(真田信濃守)両人の心が邪(ヨコシマ=横縞〉であることを暗示。土蜘蛛は巴と富士の     模様から前町奉行矢部駿河守。飛頭蛮(轆轤首)はもと小納戸頭取中野碩翁。天狗は修験僧・鼻の黒い女は夜鷹・鯰     の鉢巻き坊主は女犯の罪で流罪になったもの(日啓・日尚父子)・長の字のある杓子をもつ女は飯盛女(私娼)・筆     を持つ総髪は奥右筆(奥儒者成島図書司直かあるいは奥御右筆組頭大沢弥三郎か)・頭に剣のあるものは江戸払いに     処せられた市川団十郎・頭に赤子は子堕ろし婆・當百銭は天保通宝百文銭(発行は水野忠邦の発案)・柄の先が蛸の     纏は高利貸し・分銅は両替商・象に乗る達磨は流罪僧の南蔵院等々。書留は巷間の風聞を伝える。要するに、これら     の妖怪は、水野が主導する改革によって、家業を禁じられたり処罰されたりした人々を暗示するというのである。     (詳しくは上掲の「「土蜘蛛」解釈(浮説)一覧」参照のこと)     巷間では、苛酷な改革を断行したお上(将軍・四老中)とその被害者・犠牲者(矢部駿河守等々)という図式で、こ     の国芳の判じ物を捉えていると、この「聞書」はいう。またこうした浮説は所詮牽強付会に過ぎないとするものの、     もし承知の上で紛らわしく画いているとすれば不届きだともいう。やはり制作側の意図に疑念を拭いきれないのであ     る。しかしそれでも当局は国芳と板元伊場屋を摘発しえなかった。以上のような浮説と同様の意図をもって、国芳や     伊場屋がこの「源頼光公館土蜘作妖怪図」を制作したかどうか、見極められなかったのであろう。     天保の改革は浮世絵の大黒柱である役者絵と女絵(遊女・芸者等)の制作を禁じたが、生業に窮した浮世絵界はその     代わりに判じ物を考えだした。言わば天保の改革は判じ物の生みの親なのである。皮肉なことに、これ以降、検閲担     当の名主たちは、制作側の意図を特定できないよう巧妙に作られた判じ物に直面しては、思案投げ首、頭を悩ますこ     とになっていく〉     〝其頃風評を消んと四天王并保昌五人ニて土蜘蛛退治の絵、同画ニて出板いたし候得共、蜘の眼に矢張三    ッ巴を画候なり、然れ共四天王直宿(トノヒ)妖怪の絵は人々望候得共、土蜘退治は売れも不宜候由〟    〈「源頼光公館土蜘作妖怪図」から生ずる浮説をかき消そうとして、国芳は今度は四天王に平井保昌を加えて、葛城山     の土蜘蛛退治を作画したようだ。蜘蛛の目は「妖怪図」同様三つ巴にしたようだが、これは売れ行きが良くなかった。     伝説を単に絵解きするだけでは、もはや市中の人々の興味に応えることが出来なくなっていたのである〉     △「一勇斎の錦画」『浮世の有様』著者不詳・天保十四年(1843)十月記   (『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」p851)   〝其絵京大坂へ二千枚づゝ登せしと云、絵を売れる店毎にこれを出す、江戸にても同様の事なりしが、始    の程は人も心付かざりしが、後には何れも心付、此絵を大に買はやらせ心々思ひ/\にこれを評し、は    んじ物の絵と称して種々さま/\の風説をなすにぞ、上にもやう/\と心付、板元を召捕吟味有りしに、    其作者といへるは麾下に有てこれをしらべぬる時は、大変に及びぬるやうすなるにぞ、板木并にこれま    で仕込有し絵をば悉く御取上にて焼捨となり、板元居町払にて手軽く相済しと云、京摂にてもこれを商    へる事厳しく御停止となる。予は早く心付しゆへにこれを求め置ぬ、其絵を見てこれを弁ふべし、開闢    已来幾度となく乱れぬる世もありぬれども、かゝることを板に彫刻し、上をはづかしめぬることなし、    こはたれがあやまちにてかゝることに至りぬるや、怪むべし恐るべし〟    〈『浮世の有様』は大坂在住の人の書留。噂が箱根を越えて上方に着いた頃にはずいぶん尾ひれが付いた。曰く、板元     は逮捕され吟味に、判じ物の作者は旗本だから取り調べは大ごとになるようだ、板木と在庫は没収のうえ焼き捨て処     分、板元は「居町払(町内から追放)」、売買は禁止等々。いずれも根拠のない噂だが、これは下心をもったものが     意図的に流したフシもある。高値で売り捌くために〉     △『筆禍史』p146「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝一勇斎歌川国芳が画ける錦絵に、頼光病臥なして四天央是を守護し、様々の怪物頼光をなやますの図は、    当時幕政に苦しむの民を怪物なりとし四天王を閣老なりと、誰いひふらしけるとなく、其筋の聞く所と    なりて、既に国芳は捕縛せられ、種々吟味せられしが、漸くにして言訳、からくも免罪せられしといふ    とは『浮世絵師系伝』の記事なるが『浮世絵画人伝』には左の如くあり     天保十四年の夏、源頼光土蜘蛛の精に悩まさるゝ恠異の図を錦絵にものし、当時の政体を誹毀するの     寓意ありて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき、其寓意と云へるは、頼光を徳川十二代将     軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精に悩まさるゝの意に比した     りといふにありき(浮世絵画人伝)      雨花子の寄書に曰く    頼光土蜘蛛の錦絵に付きては、『黄梁一夢』に左の記事あり     (上略)解者曰、其四天王暗指当時執政、群鬼中分得意者与失業者、為甲乙、又皆有暗符歴々可徴、     一時流伝、洛陽為之紙貴、巳(ママ)而官停其発行    なほ当時の落首等の中、耀甲斐(鳥居耀蔵)咄し中「手下の化物には一ッ目小僧(長崎与力小笠原貢三    のことを指すなりとぞ)小菅小僧(普請役小菅幸三郎)金田小僧(勘定組頭金田郁三郎)云々」とあれ    ば是等も右の錦絵中にあるならんか〟   〝〔頭注〕摸倣絵と縮刻絵    『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』が売行よかりし事は、貞秀等に対する刑罰申渡書中にもある如くに、当    時類似の物も数種出たるなり、同じ一勇斎国芳の筆にても、頼光が土蜘蛛を退治するの図もあり、いづ    れも彩色ある大錦絵形三枚続なり〟    〈『黄梁一夢』は木村摂津守茶舟の随筆。刊本は明治16年。「官停其発行」とあるから、後に町奉行が発禁に処したと     いう噂も流れたようだ。ただし国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の刊本『黄梁一夢』には、このくだ     りは見えない〉    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・明治初年記)   〝天保ノ末、浜松相公罷政ノ時、頼光土蜘蛛退治図三枚ツヾキノ錦絵出板シ、頼光ハ曲彔ニ倚テ居眠リ、    青海波ノ模様ノ素袍キタル季武、水車ノ模様キタル六曜ノ星ヲ裏銭ヲ并ベタル如ク、模様取リタル四天    王ノ輩肱ヲ張空ヲ睨ルモアリ、碁盤ニ凭テ眠ルモアルガ、大キナル土蛛ノ頂ノ班ハ暗ニ矢部駿河守ガ紋    所ニ似タル黒点ヲナシ、妖魔ノ眷属坊主アリ、山伏アリ、梵天ノ旗ヲタテ、ソロ盤ノ甲ヲ着、岡場所ノ    売女、十組ノ問屋、女髪結ノ類、異類異形ノ怪物ヲ画キタリ。コレハ国貞ノ門人国芳【後ニ二代目国貞    トナル】ト云モノカケリ。殊ノ外ニハヤリテ、金ヲ以テコレヲ購ニイタル。絶板ニナリテハ、愈狩野ノ    名画ヨリ尊シ。コレヨリ事アル度ニ、何トモワカラヌ怪シゲナルモノヲ画タル錦絵ハヤリテ、観者サマ    ザマニ推度シ、牽強付会シテコレヲ玩ブ〟    〈云うまでもなく国芳を国貞門人で二代目国貞とするのは誤り。浜松相公は水野忠邦。「金ヲ以テ」とあるのは、一両     以上で取引されるケースもあったということか。この土蜘蛛三枚続が出版される前の年の天保十三年十一月、町奉行     は錦絵の値段を一枚16文以上無用とした。するとこの三枚続は48文で売りに出されたのであろう。それが一両以上で     ある。当時の銭相場は金1両=銭6500文であるから、すさまじい暴騰ぶりである〉