Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ひだのたくみむねあげのず 飛騨内匠棟上ゲ之図浮世絵事典
 ☆ 天保十三年(1842)<五月>      筆禍 錦絵「飛騨内匠棟上ゲ之図」(国芳画)・「菅原操人形之図」(豊国画)       処分内容 絶板            ◎絵師 一勇斎国芳・歌川豊国 過料(三貫文)            ◎板元 伊賀屋勘右衛門・古賀屋勝五郎 過料(三貫文)〈原文は勘左衛門、藤五郎だが訂正した〉             他に、竹内(絵草紙屋)丸伊(糴売り)久太郎(摺師)それぞれ過料(三貫文)       処分理由 役者似顔絵・無届け出版〈「無届け出版」は馬琴書翰による〉    ◯『藤岡屋日記』第二巻 ②271(藤岡屋由蔵・天保十三年記)   〝天保十三寅年五月    飛騨内匠棟上ゲ之図菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事    去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛    門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し    売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原    天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。     右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七     人三貫文宛過料、       建まへの跡は古賀屋が家根をふき     画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり。     六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟    〈天保十三年の五月、昨年十一月の芝居移転令と時を同じくして禁じられた役者似顔絵を出版したという廉で、「飛騨     内匠棟上ゲ図」と「菅原操人形之図」が手入れに遇い、絵師の国芳と豊国、板元の伊賀屋・古賀屋等を含めて関係者     七名が三貫文(3/4両)の罰金を科せられたという記事である。役者似顔絵の禁止については、天保十三年の六月の     町触がよく知られているが、十二年の十一月の禁止令は確認できてない。(本HP「浮世絵辞典」「う」の「浮世絵に     関する御触書」参照)竹内は霊岸島とあるから宝永堂竹内孫八か。「せり」は糴(セリ)売り(行商)の意味。摺師の久太     郎は、翌十四年の冬、国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」の流行に便乗して出版した小形版「土蜘蛛の絵」(貞秀画)     の出版が咎められて、罰金三貫文に処せられている(『藤岡屋日記 第二巻』②413)なおこの藤岡屋の記事で不審     なのは「豊国事、庄蔵」というくだり。庄蔵とあるからこの豊国が国貞であることは疑いないが、国貞の豊国襲名は     天保十五年(弘化元年・1844)四月とされる。(『藤岡屋日記』第二巻②419)藤岡屋は、この天保十三年五月の記     事を、国貞が豊国を襲名した後に書き改めたのであろうか。ところで、この二つの役者似顔絵については、曲亭馬琴     も次のような記事を残していた〉    ◯『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-10 ⑥50   (天保十三年九月二十三日付 馬琴、殿村篠斎宛書翰)   〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ    成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改(アラタメ)を不受して売出し候    所、其絵ハ人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連    名等有之候間、役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ    被預ケ候由ニ候。又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞    台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ    絶板せられ候由聞え候。いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々    敷事ニ存候。是等の犯人、合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然る    に、さる若町の茶屋と、下丁成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売    出し候。是ハ江戸絵図の如くニ致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観    音抔を遠景ニ見せて、人物ハ無之候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度    を守り、後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐ    らき事をせし故ニ、罪を蒙り候。此度出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候    ハヾ買取候て、後便ニ可掛御目候〟        〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きた     る」図とは、その板元名やその住所から『藤岡屋日記』のいう国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と豊国(国貞)画の     「菅原操人形之図」に相当すると思われる。双方とも画題は「飛騨番匠棟上の図」で板元は伊賀屋勘右衛門も同じ。     また藤岡屋のいう「本郷町二丁目」の板元・古賀屋は、馬琴のいう「本郷辺之絵双紙や某」に相当しよう。(本HP     「浮世絵事典」の「地本問屋」の項、嘉永四年の「諸問屋名前帳」参照。「本郷弐丁目 金兵衛店 古賀屋勝五郎」     とある)つまり藤岡屋の記事も馬琴の記事も同じ絵に関するものと考えてよい。(以下「飛騨番匠棟上の図」は「棟     上の図」と記す)     天保十三年夏、伊賀屋は浅草猿若町に移転した中村・市村両座の建前(上棟式)を錦絵にしようと目論んだ。ところ     が同年六月の町触で、役者似顔絵が禁じられてしまった。それで、その人物の頭を入木し直し「飛騨番匠棟上の図」     と題して売り出した。だが、案に相違して、役者似顔ではないものの、役者の紋や富本・常磐津の太夫の名前などが     連ねてあるなど、役者絵に紛らわしいとして、発売三日で早くも絶板に処せられたと、これが馬琴の証言。藤岡屋も     馬琴も同じ絵について証言しているのだが、大きな相違点がいくつかある。     一つは役者似顔か否か。藤岡屋の「飛騨内匠棟上ゲ之図」は役者似顔絵だが、馬琴の方は「入木」「人物こそ役者の     似面ならね」とあるから、役者の似顔絵ではない。     二つ目は絶板の理由。上出のように、藤岡屋は天保十二年十一月の禁制(役者似顔絵禁止)違犯とする。馬琴の方は     「役者似顔絵停止ニ成候間」とあるから、天保十三年六月の役者似顔絵禁止令を念頭において、似顔絵に紛らわしい     ことが処分に至った理由だとする。また馬琴は改(アラタメ=検閲)を通さない無許可の出版だったとするが、藤岡屋記     事は特に触れてない。馬琴の口ぶりではこちらの方が絶板理由としては重大だと考えたようで、同年九月に出版され     た渓斎英泉の「猿若町芝居之略図」の例を出して、「此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法     度を守り、後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事をせ     し故ニ、罪を蒙り候」と記している。それにしても、この記事でよく分からないのは「改を不受して」とあるところ。     検閲を受けなければそれだけで違犯である。伊賀屋は承知の上でこの挙にでたのだろうか。おりから天保改革の最中     である。(館役所とは町年寄・館市右衛門。天保十三年六月、今後全ての新規出版物は館市右衛門に申し出て、奉行     所の許可を得るよう通達が出ていた。英泉の「猿若町芝居之略図」(大々判錦絵、板元、中野屋五郎右衛門・三河屋     善治郎、文花堂庄三郎)は下出参照)     三つ目は絶板処分の時期。藤岡屋は五月、馬琴は「夏中」としか記してないが、「役者似顔絵停止ニ成候間」の記述     から、役者絵禁止の触書の出た六月の記事と考えられる。     藤岡屋と馬琴の記事、画題も板元も同じ「飛騨内匠棟上ゲ之図」なのに、なぜこのような違いがあるのか。特に役者     似顔絵か否かに関する相違は実に不可解である。なお国貞画の「菅原操人形」に関しても、藤岡屋は禁制の役者似顔     絵を出版した廉で絶板処分になったとし、馬琴の記事も「飛騨内匠棟上の図」の場合と同様、無許可出版、そして役     者絵ではないものの役者絵に紛らわしいという点で絶板になったとする。どちらかに錯誤があるものと思われるが詳     しいことは分からない。          さらに話を複雑にするのが「飛騨匠柱立之図」(一勇斎国芳画・三枚続)という絵の存在。(以下「柱立之図」と記     す)こちらは絵が残されているので、ネット上の画像を引いておく。     画面の上部が大工たちによる「柱立」の図。図様からすると「柱立」から更に進行した「棟上」の図に見える。雲形     で仕切った下部には、常磐津文字太夫・佐々木八五郎・岸沢式佐・西川扇蔵などの名前を配した芸人二十数名の全身     像が画かれている。名前のない人物もいるが、多くは常磐津の太夫かその三味線方(岸沢・佐々木)である。また、     三枚続の右図左端、名前を配していない人物の羽織には市川羽左衛門の家紋、根上り橘が模様として使われている。     ついでに紋についていえば、常磐津連中の羽織には家紋の木瓜(モッコウ)紋が入っている。まさにこの絵は馬琴のいう     「人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有之候」の記事と     符合する。(富本はよく分からなかったが)しかしそれにしてもなお疑問は残る。馬琴はこのころ失明しているから     直接見たのではなく、亡き長男の嫁・お路などに見てもらったのだと思う。そこで考えられるケースは二つ。一つは     その者が画中の「柱立之図」を「棟上の図」と読みかえて報告した。もう一つは馬琴が「柱立之図」の報告に耳を貸     さず、図様からわざわざ「棟上の図」と書き改めた。しかしこんなことがあり得るだろうか。とても考えられないの     である。     藤岡屋由蔵は「飛騨内匠棟上ゲ之図」とし、曲亭馬琴は「飛騨番匠棟上の図」とする。これは二人とも同じものを見     ていることは確かだ。それでは、二人とも「飛騨匠柱立之図」を見てそう書き替えたのであろうか。これが最大の疑     問である。一番自然なのは、「柱立之図」の前に「棟上の図」の存在を想定することだが、今は確認するすべがない。         最後にこの「飛騨匠柱立之図」の異版について述べておきたい。(これも参考までに画像を引いておいた)異版は元     の版から「不許売買」の文字と常磐津連中など芸人の名前を削除している。これはどういうことか。そもそも「不許     売買」とは商売用ではないという意味なのであろう。すると原版は常磐津連中の配り物なのかもしれない。それを商     売用に転じるために削除したのだろうか。次に芸人の名前の削除、これについては、天保十二年十月、市中取締掛の     「上申書」に「一枚絵和歌之類并景色之地名、又は角力取・歌舞妓役者・遊女之名前は格別、其外詞書一切認間敷候」     (本HP「浮世絵事典」「浮世絵に関する御触書」の項参照)とあるから、これを意識して削りとったものとも考え     られる。ともあれよく分からないことだらけである〉
   一勇斎国芳画「飛騨匠柱立之図」(芸名入りと芸名削除の二版あり)    (Kuniyoshi Project「Comic and Miscellaneous Triptychs and Diptychs, Part I」に所収)
   渓斎英泉画「猿若町芝居之略図」 (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)