ラッターマン。.... 佐久間學

(15/12/25-16/1/12)

Blog Version

1月12日

Time and its Passing
Ralph Allwood/
Rodolfus Choir
SIGNUM/SIGCD445


合唱指揮者のラルフ・オールウッドが、彼が長らく勤務していたイートン・カレッジの学生などを集めて1983年に作ったイギリスの合唱団「ルドルフス・クワイア」の最新アルバムです。たしか2009年頃に録音されたバッハの「ロ短調」をこの合唱団で聴いてがっかりしたことがあったのですが、今回はどうでしょう。
この合唱団は在籍の年齢制限がありますから、学生の合唱団のように毎年メンバーが少しずつ変わります。今回のメンバー表と、その2009年の時のメンバーとを見比べてみたら、なんと、全員入れ替わっていましたよ。ということは、「ロ短調」の時とは全く別の合唱団ということになります。それだったら、もしかしたらちゃんとした演奏が聴けるかもしれません。しかも、「ロ短調」は良く見たら放送用のライブ音源だったようで、そんなハンディもそのまま録音に反映されていましたからね。
確かに、今回のアルバムでは、彼らの持ち味であった美しいハーモニーが生かされるような選曲でしたから、総じてなかなか楽しめました。とは言っても、どうやらこの合唱団、やはりバッハのメリスマのような精密作業や、基本的にポリフォニーはあまり得意ではないことも分かりましたから、まあ身の丈に合ったレパートリーで勝負をすればいいのでしょうか。クリスマスの歌とか
このアルバムには、「時と、その移ろい」とでも言うようなタイトルが付けられています。なかなか意味の深そうなタイトルですが、まずは16世紀から21世紀の現代までをカバーする「時」のスパンが一つのファクターとなっているようです。そして、その「時」がもたらす「永遠性」のようなものがテーマになっている作品が集められているというあたりが、コンセプトとなっているのでしょう。
そんなアルバムの劈頭を飾るのが、「時」を超えた作風で一世を風靡したジョン・タヴナーだというのも、何か象徴的な気がします。ここでの合唱団は、かつて見せていたような子供っぽい発声からは見事に脱皮していて、まるで深淵からのうめき声のようなひそやかさで「Oh, Do Not Move」という1990年に作られた音楽を始めています。
そこから、3世紀を飛び越えて聴こえてきたのは、トーマス・タリスの聖歌「Thou Wast, O God, and Thou Wast Blest」です。この穏やかなテーマは、やがて20世紀にヴォーン・ウィリアムズによって「タリスの主題による幻想曲」という管弦楽作品の中に使われ、やはり「時」を超えたつながりが生まれることになるのです。この合唱団は、そんなほとんど伝承曲とも言える作品を、いともイージーに歌っているような印象を受けてしまいます。
しかし、次の、まさに「現代」の作曲家ガブリエル・ジャクソンの「To Morning」になると、そんなちょっと無気力だった合唱団がにわかに豹変します。まさに水を得た魚のように、積極的に音楽を作るようになっていたのです。おそらく、このあたり、伝統的な書法でありながら、ちょっと現代的なテイストを加えたようなものが、彼らが最もシンパシーをもって歌えるようなジャンルだったのではないでしょうか。1962年生まれのジャクソンよりさらに若いトーマス・レックネル(b.1989)の「Ozymandias」やベンジャミン・ロワース(b.1992)の「The Evening Watch」といった、これが世界初録音となる2つの作品で見せる果敢な表現には、確かに何か光るものが感じられます。
ただ、エストニアのペルトや、ハンガリーのコダーイといった「外国人」では、何か上っ面しかなぞっていないようなもどかしさを感じないわけにはいきません。特に、英語で歌われているコダーイの「Esti dal」は、まるで蒸留水のようなテイストで、ハンガリーの「心」までを表現するほどの域には達してはいません。
そして、やはり「外国人」であるヨハン・セバスティアン・バッハでも、因縁の「ロ短調」からの「Et incarnatus est」は、ただのヒーリング・ピースに成り下がっています。

CD Artwork © Signum Records


1月10日

BEETHOVEN
Symphonies Nos.5 & 7
Manfred Honeck/
Pittsburgh Symphony Orchestra
REFERENCE/FR-718SACD(hybrid SACD)


ホーネックとピッツバーグ交響楽団による新しいアルバムが出れば聴かないわけにはいかなくなるという、ほとんど依存症状態に陥っています。今回はクラシック界の超定番、ベートーヴェンの交響曲第5番と第7番です。
かつては「運命」とも呼ばれていた「5番」ですが、最近ではこのニックネームはまず見られないようになりました。
というか、よく考えてみると、日本語では「運命」という文字を見たことはありますが、果たして今までLPやCDのジャケットに、この「交響曲第5番『運命』」に相当する「Symphonie Nr.5 "Schicksal"」などという表記があったのかな、という気になってしまいました。これはドイツ語ですが、英語でも「Symphony No.5 "Fate"(もしくは"Destiny")」のように書いてあるジャケットをもし見たことがあるという方がいらっしゃったら、ぜひご一報ください。
そもそも、「Schicksal」などという珍しい単語を知ったのも、このSACDのホーネック自身のライナーノーツを読んだからでした。そこには、これが「運命」と呼ばれるようになった大元の極悪仕掛け人、アントン・シントラーがこの作品の冒頭のモティーフについて書いた「運命が扉を叩く」というフレーズのオリジナルのドイツ語「Das Schicksal klopf an die Tür」が、そのまま引用されていました。
この、指揮者自身のライナーノーツはもはや彼のアルバムの「名物」となった感がありますが、そこでまず述べられているのが、この、とても有名な2つの交響曲を自分自身で演奏するためのハードルの高さについてでした。そのためのいわば「理論武装」なのでしょうか、彼のライナーノーツはこの20ページのブックレットの半分以上を占めています。さらにその中で、大部分が「5番」のために費やされています。そこで彼は、この作品の演奏史を、1910年のフリードリッヒ・カルクとオデオン交響楽団の世界初の録音までさかのぼって検証していきます。さらには、ホーネックがウィーン・フィルの団員だった時に指揮台に立っていた多くの現代の巨匠についての実体験も加わり、そこから自らの演奏をどのように組み立てたかの詳細な「説明」がなされているのです。
もちろん、そんな長ったらしい英文は、邪魔にこそなれ、何の役にも立たないことは明らかです。実際に聴いてみさえすれば、彼が何をやりたいのかは瞬時に分かるのですからね。
まずは、その、とても有名な冒頭のモティーフの扱いです。これはかなり意外なものでした。おそらく今の指揮者だったら怖くてできないような、それこそ往年の巨匠然としたとても「堂々とした」テンポでの始まりだったのです。しかし、これは実は彼の周到な演出、あるいは、もしかしたらとてもいたずらっぽい冗談だったのかもしれないことが分かります。このモティーフが2回繰り返された後は、いとも軽快なテンポに変わってしまったのですからね。まんまとしてやられたと思っているうちに、音楽の中にはどんどん新鮮なアイディアが登場してきて、リスナーはもうひと時も聴き逃せないような状況に陥ってしまうことは間違いありません。楽器のバランスも、必要なものはぜひ聴かせようという意志が強く働いているようです。ホルンなど、こんなフレーズがあったのかと思わずスコアを見直してしまったぐらいですからね。
もちろん、基本的に楽譜通りに演奏するという姿勢は崩してはいませんが、1か所だけ、第4楽章の134小節目からのピッコロを、1オクターブ高く演奏させています。ここは、非常に重要な部分なのに楽譜通りに吹いたのではまず聴こえてきませんから、これがとてもはっきり聴こえてきたときには小躍りしてしまいましたよ。
「7番」でも、同じように新鮮なアイディアが満載。これはぜひ実際に聴いて確かめてみてください。録音も、「これぞ、ハイレゾ」というとても瑞々しい音に仕上がっていますから、存分に大編成のベートーヴェンのサウンドを楽しむことが出来ますよ。

SACD Artwork © Reference Recordings


1月8日

BACH
Mass in B minor
Maria Keohane, Joanne Lunn(Sop)
Alex Porter(CT), Jan Kobow(Ten), Peter Harvey(Bas)
Lars Urrik Mortensen/
Concerto Copenhagen
CPO/777 851-2(hybrid SACD)


1991年に初めてのコンサートを行い、1999年にはチェンバロ奏者として国際的に名声を博していたラース・ウルリク・モーテンセンを芸術監督に迎えて躍進を続けているデンマークのバロック・アンサンブル「コンチェルト・コペンハーゲン」による、バッハの「ロ短調」の新しい録音です。
この曲を演奏する時、特にピリオド楽器の場合は、「合唱」のサイズをどうするかが問題になります。そんな問題提起を最初に行ったのが、ご存知ジョシュア・リフキンでした。彼の主張は「合唱は各パート一人ずつ」というもので、それを最初に発表したのが1981年、それを実践して彼自身が1982年にNONESUCHに行なった録音は、当時はセンセーションを巻き起こしました(先生も焦っていました)。しかし、それは未だに多くの問題をはらんだ主張とみなすのが、大多数の見解なのではないでしょうか。
しかし、今回のSACDの指揮者モーテンセンは、リフキンがとった編成によって今までとは異なる新しいバッハ像が現れていることは評価しているようで、伝統的な大編成の合唱では実現できないような各声部の独立性などははっきりしてくると認めています。その上で彼が採用した合唱の編成は、5人のコンチェルティーノ(ソリストも兼ねる)と5人のリピエーノという10人の陣容でした。これは、おそらく最近の「リフキン説」を取り入れている演奏家がとっている標準的な解決策なのではないでしょうか。例えば、ミンコフスキや、楽譜もリフキン校訂のものを使っているバットがそんな「10人編成」を採用していますね。
注意しなければいけないのは、弦楽器については「1パート一人」というわけではないこと。リフキンのバンドは2.2.1.1.1と、ヴァイオリンはそれぞれ2人ずつです。これはバットも同じ人数。ただ、ミンコフスキあたりはもっと増やしていて4.4.2.2.1という、かなりの「大人数」になっています。モーテンセンが採用した弦楽器の人数は、このミンコフスキと同じでした。やはり、このぐらいいないことには、ちょっとギスギスした響きになってしまいますね。
今回の演奏でとても惹かれるのは、ソリストもオーケストラもとてもしっかりと自分のパートに感情をこめて歌い上げている、ということです。指揮者のモーテンセン自身はオルガンを弾きながらの指揮ですから、それほどきっちりと指示しているわけではなく(時折、縦の線が微妙にずれたりすることがあります)、それぞれのプレーヤーが自主的に発散している音楽を最大限尊重しているという姿勢なのでしょう。オーボエなどは、歌いまわしもしゃれていますし、興が乗ると装飾を入れたりしますから、とても自由な雰囲気が現場を支配していたことが分かります。
そして、なんと言ってもティンパニとトランペットのテンションの高さには、驚かされます。それはまるで、ジャズバンドのようなノリの良さで、曲全体をグイグイ引っ張っていきます。
さらに、そんな「リズム隊」が入らないしっとりとした、例えば「Agnus Dei」などでは、先ほどの少し大きめの弦楽器の包容力のあるサウンドが生きてきます。ここのヴァイオリンのイントロはどんな演奏を聴いてもなにか間抜けな印象が付きまとうものですが、それぞれのプレーヤーが主体的に歌っているこのアンサンブルでは全くそんな気配はありません。ここにはバッハが込めたであろう哀しみの情感があふれんばかりに漂っています。
それは、ソリストたちにも言えること。アリアやデュエットでは、あくまでバッハの様式の中で最大限の情感を吐き出しています。さらに、それが合唱パートを歌う時になれば、その情感はそのまま増幅されて、とてつもないエネルギーとなって迫ってきます。この人たちが「Crucifixus」などと歌いだそうものなら、涙にくれない人などいません。
リフキンが30年前に企てたなんともストイックな試みは、彼が思ってもみなかったような形で結実していたようです。

SACD Artwork © Classic Produktion Osnabrück


1月6日

HASSE
Works for Flute
Imme-Jeanne Klett(Fl)
Nele Lamersdorf(Fl)
Elbipolis Barockorchester Hamburg
ES DUR/ES 2062


このサイトに初登場、1993年にハンブルクで創設された新しいレーベル「ES DUR」です。ユニークなのは、ブックレットに最初から日本語の解説が入っているということです。つまり、ドイツ語、英語、フランス語のアルファベットに続いて、なんと漢字やひらがなのページが現れるのですね。これはいい感じ。ただ、誰が訳したのかは分かりませんが、その訳文は結構いい加減、フルート奏者が作曲まで手掛けているように読めてしまいます。英語やドイツ語の同じ部分にはそんなことは書かれていないのに。
ヨーハン・アドルフ・ハッセと言えば、18世紀の半ばに多くのオペラを作った作曲家として知られています。1699年にハンブルクの生まれと言いますから、このレーベルともつながりがあるのでしょう。ここでは、ハンブルクで活躍している演奏家によって録音されたフルートのためのソナタと協奏曲、そしてフルート2本による二重奏を聴くことが出来ます。
ハッセはバッハの一回りあとの世代になるのでしょうが、一生ドイツで暮らしたバッハとは異なり、若いころにはナポリに留学、その後もイタリア国内やロンドン、ウィーンでも活躍、晩年はヴェネツィアで暮らしたという国際的な人でした。
まず、協奏曲が最初と最後に1曲ずつ収録されています。いずれも3つの楽章を持つイタリア風の典型的な協奏曲のスタイルです。最初のロ短調の曲では、真ん中の楽章は長調に、逆に、最後のト長調の協奏曲では、真ん中の楽章は短調になっているという、分かりやすい構成です。この時代の曲を演奏する時には、どんな楽器を使うかがまず興味の対象ですが、ここでクラットというおそらく50代の女性フルーティストは、ハンス=ヨヘン・メーネルトという珍しい木管を使っています。ベームシステムのメカニズムですが、とても鄙びた音色がこの時代の作品に良くマッチしています。そして、クラットはノン・ビブラートでさらにピリオド感を漂わせています。しかし、その吹き方には目の覚めるような爽快感があり、華々しい装飾と相まって、とてもスタイリッシュ、ピリオドでありながら現代感覚も併せ持つというなかなか素敵なことをやっていましたよ。特に目覚ましいのが、オクターブを上げての華麗なパッセージです。ピリオド楽器ではこんなことは無理でしょうね。
協奏曲ですから、カデンツァも挿入されています。ロ短調では第2楽章だけですが、ト長調では全楽章に入っています。おそらくクラットの自作でしょう、ありきたりのフレーズではなく、次々に思ってもみなかったような展開になるという意外性がたまりません。
ソナタもやはり2曲、こちらはいずれも「教会ソナタ」のスタイルをとった4楽章形式のものです。しっとりとした情緒が漂うホ短調のソナタも魅力的ですが、よりファンタジーの溢れるニ短調の曲の方が、大きなスケールを感じます。
そして、もう2曲、今度はもう一人のラーマースドルフというやはり女性のフルーティストとの二重奏です。ただ、これはハッセのフルート曲のアルバムだと思っていたら、この2曲には「ロバート・ヴァレンタイン作曲」というクレジットが付いていました。よくあることですが、この時代の出版社は、楽譜を売るために知名度の低い作曲家の作品を、すでに有名になっているほかの作曲家の作品として出版したりしていました。この2曲も、オランダの出版社から「ハッセ作曲2本のフルートのための8つのソナタ作品5」というタイトルで出版された曲集の、7曲目と8曲目にあたるのですが、のちに、このヴァレンタインというイギリス生まれで後にイタリアで活躍した作曲家が以前に作っていた曲だったことが分かったのだそうです。確かに、これは協奏曲やソナタと比べると、明らかに作曲様式というか、作曲家の趣味が異なっていることが分かります。

CD Artwork © C2 Hamburg


1月4日

シベリウスの交響詩とその時代
神話と音楽をめぐる作曲家の冒険
神部智著
音楽之友社刊
ISBN978-4-276-13055-5


昨年、2015年はシベリウスの生誕150年ということで、コンサートやCDなどのリリースで盛り上がっていましたね。ただ、彼は1865年の12月8日に生まれていますから、正確には昨年のその日が「生誕150年」の始まりで、今年の12月まではそれが続くことになります。でも、おそらく世間では2016年になったとたんに、昨年のようなシベリウス・フィーバーはきれいさっぱりなくなってしまうのでしょうね。そんな、正確な意味での「150年」の始まりごろに刊行されたのが、この本です。
著者の神部さんという方は、おそらく今の日本では最もシベリウスに関しての多くの情報に通じているのではないでしょうか。そのお仕事の一端である、音楽之友社から出版されている交響曲のスタディ・スコアの校訂と、その解説の精緻さには、驚きを隠せません。以前からシベリウスの作品はブライトコプフ&ヘルテルから全集の刊行が続いており、そちらのスコアの方がよりオーセンティックなものだと思っていて、こちらにはほとんど見向きもしていませんでしたが、ある日実際に手に取ってみるときちんとその全集版の校訂結果を反映されている上に、「日本語」で最新の情報が詰まった的確な解説が読めることが分かったのは、本当に衝撃的でした。現在は「3番」までしか出ていませんが、継続して残りのものも出版が予定されているというので、とても楽しみです。
そんな神部さんの、タイトルだけを見ると単にシベリウスの「交響詩」だけに特化した解説書が出たのかと思っていたのですが、これも「実際に手にして」みると、そんなジャンルを超えた広く深い内容のものだったので、改めて驚いているところです。
つまり、ここでは一応、「交響詩」と言われているものを作曲年代順に扱うという構成にはなっていますが、どうやらそれらの交響詩たちは、単に年代を区切る「骨格」として配置されているだけのようなのですね。もちろんそこではその交響詩のアナリーゼっぽい「楽曲解説」も述べられていますが、もっと肝心なのはその骨格に絡み付いている「筋肉」や「皮膚」といったパーツに相当する、それが作られたころに作曲家はどのような状態(精神的なものから経済的なものまで)にあったか、とか、その頃の国際情勢がどのようなものであり、それが作曲家の創作活動、さらには生活そのものにどのように影響を与えていたかということが、実に詳細に語られているのですよ。それによって、それぞれの曲の位置づけやそこに込められた作曲家の意思がよりはっきりするのは、言うまでもありません。
それらの語り口が、とても分かりやすい文章で綴られているのも大きなポイントです。「クレルヴォ」の章などは、まるで推理小説のようにこの曲の「謎」とされていた事柄を明快に解いてくれるのではないでしょうか。
さらに、それらを語るときには、実際の資料を具体的に提示しているという点が、とてもリアリティを感じさせてくれます。シベリウスの自筆稿や書簡、日記なども、今では新しい研究が進んでいるそうで、そこからはかなり精度の高い「事実」が読み取れるようになっています。さらに、彼の作品についての評価なども、驚くほど多くの資料によって発表された当時の巷のコメントが生々しく伝えている内容が紹介されています。
そのような手法で著者が目指したのは、よく言われている「フィンランドの国民的作曲家」としてのシベリウス像を超えた、より普遍的な音楽を生涯にわたって追及していた作曲家の姿を明らかにすることでした。そこから見えてくるものは、いたずらに世間の潮流に身を任せることなどは決してない、自身の信じる道を生涯にわたって貫いた求道者の姿です。この本には、そんな作曲家の作ったものを、より深いところで聴いてみたいと強く望まずにはいられないような力が漲っています。

Book Artwork © ONGAKU NO TOMO SHA CORP.


1月2日

TARNOW
Theremin Sonatas
Carolinea Eyck(Th)
Christopher Tarnow(Pf)
GENUIN/GEN 15363


以前こちらで聴いていた、いまや世界一のテルミン奏者として大活躍している1987年生まれのドイツの美人テルミニスト、キャロリナ・アイク(エイクとも表記)のソロアルバムです。クラシックのみならず、幅広いジャンルの音楽家とのコラボレーションを展開している彼女ですが、今回はいともまっとうなピアノとテルミンのために作られた「テルミン・ソナタ」です。
その曲を作り、ピアノで彼女と共演しているのが、1984年生まれのピアニスト、作曲家のクリストファー・タルノフです。これは、彼がキャロリナとの共同作業の中で作り上げた2曲の「ソナタ」と、2曲の「インテルメッツォ」の世界初録音のCDです。
それぞれの曲の正式なタイトルには、「テルミンとピアノのための」という言葉が入っています。ここでのピアノ(もちろん、タルノフ自身が演奏しています)は、単なる伴奏ではなく、どちらかというと「主役」を演じているのではというほどの存在感があります。「ソナタ」では、まずはピアノだけの演奏が延々と続き、そこにおもむろにテルミンが入ってくるという感じ、それからは、それぞれの楽器がお互いに目いっぱい主張しあうバトルが展開されています。
いずれの曲も、作風はドビュッシーやメシアンを思い起こさせるようなテイストの和声、というか、モードに支配されたもので、決して古典的な味わいではないものの、いわゆる「現代音楽」と言われていたような日常の音楽体験から遠く離れた要素は皆無で、安心して音に身を任せられる音楽です。それにしても、ピアノの音の多さには、それだけである種の快感が味わえます。
一方のテルミンは、もはやメソッドも、そして楽器そのものも、この楽器が世に出た時代のものからは大幅に様変わりしていることがはっきりわかります。世界初のテルミニストだったはずのクララ・ロックモアの演奏は非常に良い音で録音されたものが残っていますが、それを聴く限りでは例えば普通の弦楽器や管楽器と同じフレーズを演奏している時には「こんなプリミティブな楽器で、よくここまでやれるね」という、ほとんど憐憫の情しか感じられないものが、彼女から2世代ほど経たアイクの場合はもうそんなことは当たり前という境地にまで達するようになっているのですからね。
さらに、ここでは「単音」しか出せないはずのこの楽器から、なんと「2つの音」を同時に出しているという信じられないことを、彼女は「ソナタ」の中で行っています。これについては、CDの中にボーナストラックとして収録されている「Carolina Eyck on Composing for Theremin」という20分程度の映像が、その「謎」を解き明かしてくれています。
彼女は、SNSを多用して、このような映像を日常的に発信しており、これはその中の一つなのですが、ここでは彼女が実際に彼女の楽器「イーサーウェーヴ・プロ」を操りながら、様々な「企業秘密」を惜しげもなく公開しています(別に秘密にしなくてもいーさ)。そこで明らかにされているのが、「エフェクター」の存在です。彼女の足元には、ロック・ミュージシャンさながらのエフェクターがズラリと並び、テルミンの音をさらに豊かで多彩なものに変えているのですね。そんなエフェクターの中に「ハーモナイザー」もありました。これがあれば、単音に音程の異なる音を重ねることができるのです。さっきの「2つの音」は、これで4度や5度上の音を加えていたのですね。
そもそも、テルミンの原理を応用して、そこにキーボードを付けた楽器が「オンド・マルトノ」なのですが、彼女の演奏を聴いているとまるでそのオンド・マルトノとそっくりな音が聴こえてきます。彼女だったら、メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」のオンド・マルトノのパートでも、彼女の楽器でやすやすと弾ききってしまえるのではないか、という気がしてきました。もしかしたら、そう遠くない将来に、そんな面白いことをやってくれる日が来るかもしれませんね。

CD Artwork © Genuin Classics


12月31日

Jurassic Awards 2015

今年も「おやぢの部屋2」をご覧いただいて、ありがとうございました。年末恒例の「ジュラシック・アウォード」の発表の日がやってきました。例によって、部門ごとの今年のエントリー数の集計と前年との比較です。
  • 第1位:合唱(今年51/昨年51)→
  • 第2位:オーケストラ(42/49)→
  • 第3位:現代音楽(21/6)↑3
  • 第4位:フルート(19/19)↓1
  • 第5位:オペラ(14/13)→
  • 第6位:書籍(9/18)↓2
現代音楽がこんなに増えたのは、なぜなのでしょう。おそらく、「現代音楽」というくくり自体が変わってきているのでしょう。
■合唱部門
今年も多くの合唱曲を聴きましたが、とびぬけて印象に残るというようなものはほとんどありませんでした。そんな中で、久しぶりにブルックナーのモテット集が2種類もリリースされたことが、とてもうれしいことでした。その、3月のファーガソン盤と12月のショート盤は、ともにスケールの大きいブルックナー像を示していたことで、それぞれに大きな感動を与えれくれました。
■オーケストラ部門
生誕150年ということで多くのアイテムがリリースされたシベリウスですが、なんといってもリントゥの最新の映像による交響曲全集が、映像ならではの情報量の大きさで圧倒されました。これを「大賞」にしたいと思います。この部門での次点として、クリュイタンスのベートーヴェンの交響曲全集のSACDによる復刻盤を挙げさせて下さい。半世紀以上前の録音が見事に生々しい音によってよみがえっています。
■現代音楽部門
昨年の悲願だったペンデレツキの自作自演による交響曲全集をやっと聴くことが出来ました。これが部門賞です。唯一「8番」の改訂版が聴けるということと、「1番」でさりげなく行っている改訂が大きなポイントです。もちろん、それは音楽としてのクオリティが高いからではなく、それによって作曲家の心根までもがまざまざと露呈されているからにほかなりません。
■フルート部門
なんと言っても、ウィーン・フィルの首席奏者カール=ハインツ・シュッツが録音したモーツァルトの「フルート四重奏曲」を部門賞に挙げないわけにはいきません。ここでは、単に彼が卓越したフルーティストであるだけでなく、ピリオド楽器の登場で演奏様式がガタガタになってしまったこの時代の音楽に、モダン楽器としてとるべき一つの回答が得られているというあたりにも、重要な意義を認めることが出来ます。
■オペラ部門
ヤーコブスの「後宮」は、相変わらずの一本芯が通った制作態度が、今のレコード業界に喝を入れてくれるものでした。次点は待望久しい「炎の天使」のリイシュー盤です。
■書籍部門
バッハの「ロ短調ミサ」の、全く新しい資料に基づく原典版が出現したこととともに、それがいとも簡単に入手できるような状況であることに感謝したいものです。ブルックナーの「交響曲第7番」のコールス版などは、いつになったら普通に買えるようになるのでしょう。「戦火のシンフォニー/レニングラード封鎖345日目の真実」も、今年は何かと縁があったということで次点に。

ということで、某「レコード・アカデミー賞」とは全くかぶっていないというのが、ささやかな誇りです。来年も、たくさんのレコードを紹介していきます。


12月29日

BEETHOVEN
Symphony No.9
針生美智子(Sop), 富岡明子(MS)
又吉秀樹(Ten), 小林由樹(Bar)
秋山和慶/
仙台フィルと第九を歌う合唱団他
仙台フィルハーモニー管弦楽団
Onebitious Records/OBXX00004B00Z(2.8MHz DSD)


仙台フィルが、12月23日に行われたに「第9」の演奏を、その5日後にハイレゾで配信を開始させるという離れ業をやってのけました。いつかはこんな日が来るとは思っていましたが。実際にやったのは、SONY系の音源配信サイトの「MORA」。そこの中の、「DSD」専門の配信レーベル「Onebitious Records」です。
アルバムの仕様は、もちろん演奏会で演奏されたすべてのプログラムが2.8MHz/1bitのフォーマットのDSDで録音されたものが収録されているのですが、それが2通りの録音方法で行われています。まずは、ごく普通の録音方式の中でも最もシンプルなやりかた、ステージ上方に吊り下げた2本のマイクだけによるワンポイント録音です。そしてもう一つ、これはおそらくこの配信サイトの顧客に対する配慮なのでしょう、「バイノーラル録音」というやり方です。これは「ダミーヘッド」という言い方もされますが、人間の頭と同じ大きさのマイクスタンドの「耳」に当たるところに小さなマイクを装着して録音を行うシステムです。ここで実際に使われているものには、ちゃんと「耳たぶ」まで付いています。
つまり、これはヘッドフォンを使って音楽を聴く時に、より自然な音場が感じられるように設計されたマイクです。SONYでは、ハイレゾを高級なオーディオシステムだけではなく、いわゆる「ウォークマン」で聴いてもハイレゾを体験できるというスタンスで大々的なプロモーションを行っていますから、当然そのようなユーザーへ向けての最適な録音方法による音源も用意するという「戦略」には抜かりがありません。
この「アルバム」を購入すると、序曲の「エグモント」と、「第9」の4つの楽章のそれぞれがワンポイントとバイノーラルの2つのファイル、合わせて10個のファイルがダウンロードされます。それで価格は1500円。一見お得なようですが、そのようなコンセプトであれば、それぞれのユーザーに向けて2種類の「アルバム」を用意して、価格を半分ずつにすればいいのでは、と思ってしまいます。というのも、せっかくだからとこのバイノーラルのファイルをヘッドフォンで聴いてみたのですが、その音のとてもハイレゾとは思えないあまりのクオリティの低さには驚いてしまったものですから。さらに、売り物のバイノーラルの音場も、おそらくマイクはかなり後ろの客席にセットしたのでしょう、まるでモノラルのような音場にしか聴こえません。これは、型番を見ると最低のグレードの製品、そのワンランク上のプロ仕様できちんとマウントされているマイクまで表示されているものの三分の一以下の価格のものです。よくそんなものを使って「商品」が作れたものです。
ワンポイントの方も、マイクは非常に定評のあるものですが、DSDのレコーダーは実はこれ(↓)。
全くの偶然ですが、個人的にアマチュアオーケストラの演奏会で、この同じレコーダーを使って、同じホールで、同じ位置のマイク(それはホール備え付けのもの)からの入力を直接録音したことがあります。それと聴き比べてみると、演奏の方はなんたってプロとアマチュアですから比べ物になりませんが、音に関してはこれより数段いいものが録れていました。その時のフォーマットは96kHz/24bitのPCMですが、万一の入力オーバーに備えてリミッターを使っていました。これは、通常は作動せず、オーバーした時だけ同時に用意していた低いゲインのものに差し替えるという優れものです。しかし、このアルバムではDSDで録音していますから、ファイルの特性上そのような操作は不可能です。そのために、なかなか思い切った録音レベルを設定できなかったのではないでしょうか。それにもかかわらず、合唱が明らかに飽和しているところもありますし。
演奏は、とても端正で格調高いものでした。ただ、合唱の男声の人数がちょっと少なかったようで、なんだか苦しげなところが見られたのが残念です。

File Artwork © Label Gate Co.,Ltd


12月27日

WAGNER
Das Rheingold
Matthias Goerne(Wotan), Michelle DeYoung(Fricka)
Kim Begley(Loge), Oleksander Pushniak(Donner)
Anna Samuil(Freia), Deborah Humble(Erda)
Peter Sidhom(Alberich), David Cangelosi(Mime)
Kwangchul Youn(Fasolt), Stephen Milling(Fafner)
中村恵理, Auhelia Varak, Hermine Naselböck(Rheintöchter)
Jaap van Zweeden/
Hong Kong Philharmonic Orchestra
NAXOS/NBD0049(BD-A)


最近のアジアのオーケストラの躍進ぶりには目覚ましいものがあります。そんな中で、まだCDでも聴いたことのなかった香港フィルが、なんとワーグナーの「指環(から)」の録音を成し遂げてしまいました。
香港フィルの前身は1895年に作られたというオーケストラですが、プロとして活躍を始めたのはそれからだいぶ経った1974年のことでした。それが、2004年にエド・デ・ワールトが音楽監督に就任したころから飛躍的にレパートリーも拡大し、コンサート形式でR.シュトラウスやワーグナーのオペラも演奏できるようになっていました。2012年からは現在のヤープ・ヴァン・ズヴェーデンが音楽監督に就任、ついに「指環」全曲のツィクルスを始めることになったのです。その第1弾が、2015年の1月に行われた「ラインの黄金」のコンサート形式の上演、そして2016年の1月には「ワルキューレ」の上演が予定されています。
その「ライン」をライブ収録したものが、リリースされました。これにはNAXOSもかなりの力を入れているようで、CDと同時にBD-Aも発売されています。CDとBD-Aがほぼ同じ価格というのがうれしいですね。さらに、BD-Aと同じフォーマットのFLACファイルがmoraではなんと全曲1440円で配信されていますから、こちらはもっとお買い得(他社では2500円)。
もちろん、これはハイレゾを普及させようという意味を持ったディスカウントなのですが、そんな用途としても十分に耐えうるだけのクオリティを持った録音だからこそ、このような扱いにもなるのでしょう。確かに、BD-Aで聴いた時には、ショルティのBD-Aには遠く及ばないものの、なかなか素晴らしい録音でした。しかし、同じものがCDになるとガラッとしょぼい音になってしまいます。なにより、マスタリングの際の再生レベルがBD-Aより4〜5dB低くなっているのが問題、このアイテムに限っては、CDの音はクズ同然のお粗末さです。
香港フィルの力は、確かなものでした。前奏曲の、本当に難しいホルンの導入なども難なくこなしていますし、ワーグナーには欠かせない金管楽器の存在感も、とても立派なものでした。そして、弦楽器の響きの美しいこと。それは、まるで日本の最高ランクのオーケストラの弦セクションを聴いている時のような味わいを持っていました。もちろん、それは褒めているわけではなく、常々弦楽器がそんな風に「美しすぎる」ところが、「本場」のオーケストラに比べて物足りない点だと思っているものですから。特にワーグナーでは、これはあまりにもお上品すぎます。
それと、やはり西洋音楽を目指している団体ではあっても、自然と中国人らしいセンスが現れてしまうところがあって、和みます。それは、第3場の前後でヴォータンたちがニーベルハイムへ行き来する際の場面転換の音楽の中に現れる「鍛冶屋のモティーフ」です。バンダの打楽器が何人もで金属片を同じリズムで叩き続けるというシーンですが、普通は本物の「金床」などを使って低めのピッチで聴こえてくるものが、ここでは何とも甲高い音しか聴こえてきません。そこに広がるのはキンキラキンの京劇の世界、ゲルマン神話の薄暗い世界からはかなり隔たった景色です。
歌手陣はまさに充実の極みです。まず、ヴォータンのゲルネは、最近のこの役にはあまり威厳を与えないという「流行」には全く背いた、真の「神々の長」という雄々しさで迫ります。やはりヴォータンは、この方が全体が締まります。フリッカのデヤングも、昔はあまり良いとは思わなかったものが、ここに来て凄さが光るようになってきました。やはり昔からおいしかったのかも(それは「ぺヤング」)。
ただ、唯一の日本人として参加している中村さんは、出だしのヴォークリンデでディクションの欠点がもろに出てしまっています。声も、この役には重すぎ。

BD-A Artwork © Naxos Rights US, Inc.


12月25日

RUTTER
The Gift of Life and 7 sacred pieces
John Rutter/
The Cambridge Singers
Royal Philharmonic Orchestra
COLLEGIUM/COLCD 138


久しぶりに、このジョン・ラッターのレーベルの新譜にお目にかかったような気がします。一時ユニバーサルから彼と彼の合唱団「ケンブリッジ・シンガーズ」のCDがリリースされたりしていたので、もうこちらは消滅してしまったと思っていたのですが、彼の原点はまだ健在でした。
原点と言えば、彼の業績で最初に評価されたのがフォーレの「レクイエム」のオリジナル・バージョンを再現したものとされる「ラッター版」の校訂者としての仕事でした。それ以来、彼の名前の日本語表記は「ラッター」で定着したのかと思っていたら、いつの間にか「ラター」というちょっとエロな言い方に変わっていました(それは「ラタイ」)。でも、今回のCDに代理店が付けた帯では、久しぶりに「ラッター」という文字があったので、ほっとしているところです。どうでもいいことですが。
ここに収められているのは、彼のここ数年間の新しい作品ばかりです。それらがすべてオーケストラとの共演で録音されています。まず、大規模な作品としては「子供のミサ」から10年ぶりとなるという、アルバムタイトルの「The Gift of Life」です。これは、彼の友人で教会の音楽監督を務めていた人が引退することになった記念の贈り物として作られました。その際に脳裏をよぎったのは、1985年に作った「レクイエム」なのだそうです。もちろんそれは死者のための音楽ですが、その反対の、それまでの人生を祝福するために使ってもいいのではないか、という発想です。というよりは、同じ大規模な声楽曲でも、ハイドンの「天地創造」のようなものを目指していたのだとか。
作品は6つの曲から出来ています。1曲目のイントロで、まるでハリウッドの映画音楽のような晴れ晴れしい音楽を聴いただけで、その祝典的な性格は伝わってきます。本体は変拍子やシンコペーションなどを多用した、彼ならではの明るさを持ったものなのですが、「レクイエム」のころには確かに存在していた、ちょっと難解な技法によって深みを見せていた部分が、この作品の中からはきれいさっぱりと消え去っていることに気づかされます。おそらく、このあたりが彼が晩年を迎えて到達した境地なのでしょう。
ですから、この大作を聴くときにも、雑念などは差し挟まないでひたすらそのキャッチーな音楽に浸るというのが、聴き手にとっても正しい姿勢なのではないでしょうか。いちおう3曲目などでは、少し暗めなモードとも無調とも取れるようなフレーズがさりげなく混じりこんでいることですし。
4曲目での最後のものすごい盛り上がりで、もうこれで終わっても全然おかしくない、という状況で、さらにヒット曲そのものの美しい曲が2つも続くのですから、聴いていて「得をした」感は満載です。
そして、それ以外に7曲の「宗教曲」が演奏されています。とは言っても、これらの中にはそのように言われて思い浮かべる敬虔さのようなものはあまりなく、もっと華麗で祝典的な作品が並んでいます。しかし、その中でラッターが2011年のあの東日本大震災の被災者のために作った「A flower remembered」は特別な意味を感じさせてくれるものでした。震災の翌年から毎年3月に京都の長岡京市で開催されている「Harmony for Japan」という合唱祭からの依頼によって作られ、2015年の3月7日に、その合唱祭で初演されています。なんでも、歌詞は日本の「俳句」にインスパイアされてラッター自身が書いたのだそうです。しかし曲の方はまさに「ラッター節」満開の、一度聴いたらすぐに覚えられるようなシンプルなものです。いや、そのシンプルさこそがこの曲の命、このCDで歌詞を見ながら初めて聴いた時には、不覚にも涙があふれてきました。同じようなコンセプトで某国営放送が執拗にヘビロテを繰り返している「花は咲く」などという駄作には、とてもそんな力はありません。
この曲には日本語版もありますが、英語版の方がより素直に心に響きます。

CD Artwork © Collegium Records


おとといのおやぢに会える、か。



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