ツンデレツキ。.... 佐久間學

(15/12/5-16/12/23)

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12月23日

DEVIENNE
Quartets
Kersten McCall(Fl)
Gustavo Núñez(Fg)
Musica Reale
Channel/CCS SA 35415(hybrid SACD)


このオランダのレーベルがリリースした、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者をフィーチャーしたアルバムは、例えばこちらのエミリー・バイノンをメインにしたアンサンブルなどのシリーズがありました。その流れでの新しい録音、今回はベイノンとともに首席フルート奏者を務めるケルステン・マッコールと首席ファゴット奏者のグスターヴォ・ヌニェスを中心にした四重奏曲がそれぞれ2曲ずつ収められています。
このオーケストラのライブ映像を見ると、バイノンが首席奏者に就任した1995年以降のものは、当時のかなり年配のもう一人の首席奏者はめったに乗っていなかったような気がしますが、2005年にマッコールがその後釜として新たに入団すると、バイノンと同じぐらい、あるいは少し多めの頻度で登場するようになったのではないでしょうか(あくまで、個人的な感想です)。まあ、確かにバイノンと比べても遜色のない演奏を聴かせてくれていたようですが、それほどの存在感はないのかな、と思っていたところに、この、ほとんど初めての、彼をメインにしたアルバムを聴いて、正直かなり驚いているところです。これはかなりすごいフルーティストです。
「マッコール」という、いかにもオネエ風(それは「マツコ」)、ではなく、スコットランド風のラストネームのせいか、イギリス人のように思われてファーストネームを「カーステン」と表記しているところもありますが(このSACDの帯でも)、彼は生粋のドイツ人なので、「ケルステン」と呼んだ方が本人も喜ぶのではないでしょうか。作曲家を父に持ち1973年にフライブルクで生まれ、現代音楽祭で有名なドナウエッシンゲンで育ったマッコールは、ニコレなどに師事、1997年には第4回神戸国際フルートコンクールで1位を獲得しました。その時の2位が、最近引退したアンドレアス・ブラウの後任として長く務めたシカゴ交響楽団からベルン・フィルに移籍したマテュー・デュフー、第3位がバイエルン放送交響楽団の首席奏者で音楽学者でもあるヘンリク・ヴィーゼという顔ぶれですから、昔から「すごかった」のでしょう。
神童であり、夭折しているところから「フランスのモーツァルト」とも呼ばれるフランソワ・ドヴィエンヌは、自身がフルートとファゴットを演奏したために、おもにその二つの楽器ための協奏曲や室内楽曲が有名ですが、それ以外の楽器のためにも膨大な作品を作っていますし、かなりの数のオペラや歌曲も作っているそうです。その中で、ここでマッコールたちが同僚のロイヤル・コンセルトヘボウ管の弦楽器奏者(日本人のヴァイオリン奏者の内藤淳子さんや、ヴィオラの小熊佐絵子さんなども)たちと演奏しているのは、Op.66-1とOp.66-3の2曲の四重奏曲です。いずれもクイケンたちの演奏で聴いたことがありました。しかし、ピリオドとモダンという楽器の違いもありますが、その印象はずいぶん異なるものでした。クイケンはあくまでアンサンブルの中の楽器という位置づけですが、マッコールはもっと存在感のあるソリスティックな活躍を見せています。イ短調のOp.66-1の冒頭で、最初に弦楽器だけでメランコリックなテーマが演奏される中に、彼のフルートが登場するとその場の空気がガラリと変わってしまうほどのインパクトが感じられます。こういう種類のフルートを吹いていたのが、あのゴールウェイでした。マッコールはゴールウェイほどの華やかな音色ではありませんが、技巧的なフレーズを「聴かせる」ことに関しては、決して引けを取りません。その完璧なテクニックと、心地よいピッチには、安心して身を委ねられる快感がありました。これからは、この人には注目が必要ですね。
音色に関して言えば、この録音ではゴールドの楽器では出ないようなこもった音のキーノイズが時折聴こえてきます。もしかしたらここでは時代的にあえて地味な音にするために、木管の楽器を使っていたのかもしれません。

SACD Artwork © Channel Classics Records bv


12月21日

BRAHMS, BRUCKNER
Motets
Nigel Short/
Tenebrae
SIGNUM/SIGCD430


半世紀近くの歴史を持つイギリスの6人組の男声アンサンブル「キングズ・シンガーズ」のメンバーの中には、そこを離れてからも合唱界で活躍している人がたくさんいます。創設メンバーとして25年間も在籍していたアラステア・ヒュームの後任者として1994年に加入し、2000年までセカンド・カウンターテナーのパートを務めていたナイジェル・ショートもそんな人たちの一人でしょうと言うことができます。余談ですが、現在のこのパートは、彼の次の次に参加したティモシー・ウェイン=ライトが務めています。そんな風に、現在のこのアンサンブルのそれぞれのパートは、オリジナルメンバーから何代も後の後継者によって成り立っていることになります。現在のメンバーの最古参は、1990年に4代目のファースト・カウンターテナーとして加入したデイヴィッド・ハーレイ、彼の在籍年数はすでに25年になりますから、おそらくアラステア・ヒュームとサイモン・カーリントン(セカンド・バリトン)が持つ最長在籍記録を更新することになるでしょう。
ショートはアンサンブルを「卒業」したのち、合唱指揮者として活躍を始め、2001年には「テネブレ」という室内合唱団を創設して、オーケストラとの共演など多くのジャンルでの活動を行い、この合唱団を高水準なものに育て上げました。その一つの成果が、2011年に録音された、ロンドン交響楽団との共演によるフォーレの「レクイエム」などのアルバムです。ここでは、とても澄み切った響きと、それを支える完璧なピッチを聴くことが出来ました。
今回のアルバムには、基本的にこの合唱団だけのア・カペラで、ブルックナーとブラームスのモテットが収録されています。録音されたのは今年の1月、フォーレから4年後ですが、この合唱団はさらなる進化を遂げていました。というより、ショートの古巣のキングズ・シンガーズや他のイギリスの合唱団同様、この4年間にはメンバー自体が大幅に入れ替わっていたのです。アルトなどは5人のメンバーの中で同じ人は一人しかいません。
その結果、合唱団全体のダイナミック・レンジが格段に広がったような印象があります。特に、フォルテシモになった時の物理的なヴォリューム以上の、聴感的に迫ってくる音の大きさには、びっくりするほどのものがありました。それはおそらく、テナーの圧倒的な力によるものなのでしょう。そして、ピアニシモの時の音の小ささも驚異的、しかも、それはただ小さいのではなく、その中にしっかりとした表現が込められているというのがすごいところです。
そんなものすごい表現力で歌われたブルックナーのモテットは、今まで聴いてきたこれらの曲とは全く異なった次元の音楽となっていました。常々、これらの宗教曲の中には、音楽的には交響曲と同じ語法が込められているという印象はありました。しかし、それはあくまでミニチュアとしての交響曲というイメージであり、そこから交響曲のエキスが感じられる、という程度のものでした。ところが、この「テネブレ」の演奏では、まさに交響曲そのものの大きさが原寸大のスケールで感じられてしまったのです。
例えば「Locus iste」のような端正な曲からは、まるで交響曲第7番の第2楽章のような敬虔さと深みを味わうことが出来ます。さらに、この交響曲の持つ「祈り」の精神が、人の声で歌われることによってよりストレートに伝わっては来ないでしょうか。合唱だけではなく、3本のトロンボーンとオルガンが加わる「Ecce sacerdos magnus」には、まさにフィナーレのような壮大さまでもが備わってきます。
ブラームスのモテットになると、交響曲との関連性はかなり希薄になります。彼の場合は、それぞれのジャンルは求めるものが異なっていたのかもしれません。そんな中で、「ドイツ・レクイエム」の4曲目「Wie lieblich sind deine Wohnungen」が英語によって歌われているのが興味を引きます。そこからは、聴きなれたドイツ語版とは全く異なる情感が。

CD Artwork © Signum Records


12月19日

HOSOKAWA
The Raven
Charlotte Hellekant(MS)
川瀬賢太郎/
United Instruments of Lucilin
NAXOS/NYCC-27298


本来なら「日本作曲家選輯」シリーズの一環としてリリースされるはずの細川俊夫の作品がこんな体裁でリリースされたのは、このシリーズがついに終焉を迎えたのだという意味に受け取っていいのでしょうか。これでまた一つ、レコード業界の「良心」が潰え去りました。
今回は、日本語では「大鴉(おおがらす)」というタイトルになっている、2011年から2012年にかけて作曲された作品が収録されたアルバムです。うどんに一振り(それは「とおがらし」)。委嘱したのは現代音楽を専門に手掛けるルクセンブルクのアンサンブル「ユナイテッド・インストゥルメンツ・オブ・ルシリン」。2012年の3月17日に作曲家自身の指揮によりベルギーのブリュッセルで初演が行われました。その後、同年の10月25日にアムステルダムで行われた公演で指揮を任された川瀬賢太郎とこのアンサンブル、そして、初演の際のソリストでこの作品を献呈されているメゾ・ソプラノのシャルロッテ・ヘレカントは、2014年に東京の津田ホール(10月27日)と広島のアステールプラザ(10月30日)での日本公演を行いました。このCDは、広島での公演の前日と翌日、同じホールでのセッションで録音されたものです。
「大鴉」というのは、有名なエドガー・アラン・ポーの詩です。ある寒い夜、恋人を失って悲嘆にくれている男のもとに、一羽の大鴉が舞い込んできますが、それはただ一言「Nevermore」という言葉を発するだけ。そんな大鴉と対峙して、男は次第に妄想の世界に入っていく、という多くの示唆に富んだ内容を持っています。細川は、それをテキストにして、女声のソリストと12人の楽器奏者による「モノドラマ」を作り上げました。
元の詩が全部で18のスタンザ(連)で出来ていることから、メゾ・ソプラノが歌う部分も18に分かれています。そしてその間には、前奏あるいは間奏と位置付けられる楽器だけで演奏される部分が入ります。このパートは、その場の情景や心象を極めて雄弁に語っています。それは、もちろんテレビドラマに付けられるような底の浅いありきたりな音楽ではなく、もっと根源的に直接感覚に訴えてくるような種類の音楽です。もし、真の意味での「現代音楽」というものがまだ存在しているのであれば、それが持っている非調和の世界の行きついた最も幸福な帰結と言えるものでしょう。
曲全体の中で常に漂っているのは、もしかしたら風の音なのではないでしょうか。それは、最初は文字通り具体的な「ウィンド・マシーン」によってもたらされるものですが、やがてヴァイオリンのハーモニクスや、バスフルートのムラ息などに形を変えて同じような情景描写が担われます。その「風」が男の心の動きとともに振幅を増す時には、バスドラムや金管楽器が強烈にサポートしてくれます。
その、本来「男」が語っている詩を「歌って」いるメゾ・ソプラノは、最初のスタンザでは完全な「語り」として登場します。その最後の行で、それは「歌」としてのピッチとビブラートを持った声に変わります。しかし、続くスタンザではやはり「語り」に戻ってしまいます。そして、もう一度「歌」が現れるときには、それは紛れもない「能」の形を模倣したものになっていました。やがて、それは「能」のテイストもちつつも、ベル・カントとしてのクライマックスに達します。それが17番目のスタンザ。そのあとにアルトフルートで奏されるほとんど尺八のような音楽には、確かな落ち着きがありました。そして最後のスタンザの最後のシラブルが完全に「ささやき」となると、残るのはかすかな風の音だけ、最後に聴こえてくるのは南部鉄器で作られた風鈴でしょうか。
それにしても、全曲45分間が一つのトラックというのは、ちょっとありえません。これが、途中をトラックで切ると音が止まってしまうNMLのバグを配慮してのことだとしたら、本末転倒も甚だしいのでは。それと、曲の前にあるポーの詩の朗読は、全くの蛇足です。

CD Artwork © Naxos Japan, Inc.


12月17日

WAGNER
Der Ring des Nibelungen
Georg Solti/
Wiener Philharmoniker
DECCA/478 6748(BD-A)


BD-A(ブルーレイ・オーディオ)が初めて商品として出回ったのは、2009年だったのではないでしょうか。それは、ノルウェーのレーベル「2L」によるものでした。ここでは、超ハイ・スペック(24bit/352.8kHz程度)のPCMの規格「DXD」による録音を行っていて、それをご家庭で再生するために音声のスペックが最高で24bit/192kHzであるBDにいくらかサイズ・ダウンして収録したのです。これで、規格上はSACDより高解像度の音が再生できることになりました。
それは、当初は単なるマニアックなメディアでしかありませんでした。しかし、2012年にDECCAがステレオ録音の金字塔であるショルティの「指環」のCDを、新しくリマスターを行って豪華な装丁でリリースした時に、ほとんど「おまけ」というような形で、全曲を1枚に収録したBD-Aも一緒に付けてくれたおかげで、やっとSACDと並ぶハイレゾ再生のメディアとして認知されるようになったのです。確かにそのBD-Aからは、同じデジタル・マスターから作られたSACDをもしのぐ音を聴くことが出来ましたから、そのファンは確実に増えたはずです。とは言っても、その後の展開は必ずしも順調とはいえないようですね。
そんな、いわばパイオニア的な役割を果たした「指環」のBD-Aですが、やはりパイオニアならではの予測できない製造上の不備があったのでしょう、最近再生してみたら一部で音飛びが発生するようになっていました。その発生個所は確かに最初は問題なく聴けていたはずですから、経年的な要因、あるいはパッケージの問題があったのでしょう。なにしろ、いかにもとりあえず作りました、的な安っぽいボール紙の袋に裸で入っていただけ(下の写真の右側)ですからね。映像のBDでも、不織布の袋に保存していたらエラーが出るようになったということがあちこちで報告されていましたから、そんなこともあったのかもしれません。
そんな不良品を聴いているのはストレスがたまるので、この際、2014年の末にBD-A単品でリリースされてまだ市場にあったものを新たに買うことにしました。これではディスクは対訳(英語のみ)が掲載された分厚いブックレットの中の、ちゃんとしたデジパックに収納されていましたから、保存上の問題はなくなることでしょう。
ただ、せっかくのブックレットですが、そこにかなり重大な間違いが見つかりました。「ワルキューレ」の録音年代が「1963年」となっているのですよ。これは明らかなミスプリント、正しくは「1965年」です。DECCAよお前もか、という感じ、情けないですね。
つまり、最初に「ラインの黄金」が録音されたのが1958年、「ジークフリート」と「神々の黄昏」が1962年と1964年、最後に録音されたのが「ワルキューレ」です。「ライン」のころはまさにステレオ録音の最初期ですから、それからノウハウも習得してその7年後の「ワルキューレ」が一番いい音で録音されているのだと普通は思いますが、どうもそうではないようですね。とりあえず、不良品の口直しということでまずは「ワルキューレ」から聴きはじめたのですが、第1幕の第2場あたり、登場人物が3人になったところで、ジェームス・キングとゴットロープ・フリックの声がとても歪んで録音されていたのです。もう一人のレジーヌ・クレスパンだけは問題ありません。1980年代に最初にCD化されたものも聴いてみましたが、それも同じ状態でしたから、これはアナログのマスターテープそのものの歪みなのでしょう。ソリスト用のマイクのレベル設定に問題があったのかもしれませんね。これは多分、「ジークフリート」と「黄昏」の間でミキシング・コンソールが入力チャンネルの多い新型に変わったため。それまではソリスト用のマイクは全員で共有していたものが、一人一人にそれぞれマイクをセットできるようになったので、逆にフェーダーの操作が大変になってしまったからなのでしょう。なんでも、エンジニアが2人だけでは手が足らず、プロデューサーのカルショーまでもが操作したそうさ。ソリストに関しては、「ジークフリート」の音が最高なのでは。

BD-A Artwork © Decca Music Group Limited


12月15日

FÜRSTENAU
Masonic Music
Mario Carbotta(Fl)
Aldo Martinoni(Guit)
Diego Fasolis/
RTSI Choir of Lugano
DYNAMIC/DM8002


ネットでセールをやっていたので覗いてみたら、こんなCDが見つかりました。そこで「フュルステナウ」という名前に引っかかって入手してしまいました。確か、「Bouquets des tons」というタイトルのフルートのエチュードを作った人が、そんな名前だったはず、しかもこれはフルートが加わった演奏が聴けるというのですから、興味が湧いてくるのも当然です。余談ですが、このエチュードは「音の花束(ブーケ)」と訳されているようですが、本当はそんなかわいらしい訳語ではなく、「音の束」ぐらいの即物的なもののはずです。とても手におえないほどのたくさんの音が「束」になっている、という感じのとても難しい練習曲ですから。
しかし、手元に届いてみると、それはどうやら別の「フュルステナウ」さんであることが分かりました。エチュードを作ったのはアントン・ベルンハルト・フュルステナウ、このCDの作曲家はカスパール・フュルステナウです。とは言っても、この二人は全くの他人ではなく、実は親子だった、ということも分かりました。カスパールの息子がアントン・ベルンハルトですね。しかもその息子のモリッツもフルーティストになったという、3代フルーティストが続いた家系だったのです。
1772年にドイツのミュンスターで生まれたカスパール・フュルステナウは、最初はオーボエ奏者だった父からオーボエを教わりますが、その父が亡くなったために作曲家でファゴット奏者でもあったアントン・ロンベルクの元に引き取られます。そこで彼はファゴットを習うのですが、やがてフルートに転向、見る見るうちに腕を上げて、15歳になったころには軍楽隊で演奏することで、家族を養うこともできるようになっていたそうです。後にオルデンブルクの宮廷オーケストラの団員となり、その地で47年の生涯を終えることになります。
作曲家として、カスパールは2曲のフルート協奏曲をはじめ、フルートが入った室内楽を数多く残しています。特にギターとのアンサンブルが多いのだそうです。しかし、今では全く知られていない彼の作品ですから、この中の曲もこのCDが録音された1998年の時点ではすべて世界初録音でした。
中でも、彼が属していたフリーメーソンの集会で歌われたであろう、やはりフルートとギターの伴奏が付いた男声合唱とソロのための歌は、まさに「珍品」と言えるものでしょう。「友情のために」とか、「貞節のために」といった、まさにフリーメーソンの教義が述べられている歌詞なのですが、それに付けられた音楽がとてもシンプルで和みます。というより、同じフリーメーソンの影響を強く受けているモーツァルトの「魔笛」を思わせるようなフレーズがあちこちに登場しているのには、興味が尽きません。
それを彩るフルートのオブリガートは、とても技巧的なものでした。これは間違いなくカスパール自身が集会では吹いていたのでしょうね。歌っているのは、ルガーノにあるスイス・イタリア語地区放送の合唱団の男声パートです。もちろん、ソロも合唱団の団員が担当しています。時にはテノール、時にはバリトンあたりが、得意げに喉を披露している中で、男声合唱が渋いハーモニーを付けるという、まさにフリーメーソンの集会そのものの光景が眼前に広がります。ここで、今ではバロック音楽の指揮者として高名なディエゴ・ファソリスの名前がクレジットされていますが、別にこれは指揮者がどうのという音楽ではないような気がします。どうやら、このアルバムのメインはフルーティストのようですね。
その、フルートを吹いているマリオ・カルボッタというパスタ料理のような名前(それは「カルボナーラ」)の人は、こちらのメルカダンテの協奏曲集で聴いたことがありました。ちょっとこんな曲にはもったいないような立派な演奏を聴かせてくれています。カップリングのギターとのデュオ作品も、同じような作風で楽しめます。

CD Artwork © DYNAMIC S.r.l.


12月13日

STRAWINSKY/Petruschka
MUSSORGSKY/Bilder einer Ausstellung
Mariss Jansons/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
BR KLASSIK/900141


ストラヴィンスキーとムソルグスキーという二人の「スキー」の曲が入ったCDです。余談ですが、この苗字は女性だとストラヴィンスカヤとムソルグスカヤになるのだそうです。本当すかや?(東北地方限定おやぢ)
指揮をしているヤンソンスは、ついこの間までバイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団というともに世界で1、2を争うオーケストラの首席指揮者を兼任していましたが、今ではこのCDのバイエルン放響に専念です。さらに、以前からも関係のあったオーケストラはたくさんありましたから、今までに作られたCDは膨大なものになります。ですから、ここで演奏している「ペトルーシュカ」も「展覧会の絵」も、ともにこれが3度目の録音ということになるのですよ。それぞれ1回目はオスロ・フィル、2回目はロイヤル・コンセルトヘボウ管というところも共通しています。それぞれのオーケストラとの、それぞれの時期の演奏には、同じ指揮者でも細かいところで違っているところはあるはずですから、そんな比較も興味があります。さいわい、そのすべての録音を聴くことが出来ましたので、そのあたりを中心に。
「ペトルーシュカ」の場合は、オスロが1992年(EMI)、コンセルトヘボウが2004年(RCO)、そして今回のバイエルンが2015年に録音されています。この曲で注目したいのがフルート奏者です。そのフルートがヘンリク・ヴィーゼだったのです。2006年にこのオーケストラの首席奏者になったばかりのヴィーゼは、古株のフィリップ・ブクリーよりは録音の機会が少ないような気がしていましたから、これもてっきりブクリーだと思って聴いていたらあまりにもその演奏が新鮮だったので確かめたらヴィーゼだったのですね。というのも、今回のCDでは、どちらの曲でも重要なソリストの名前がきちんと表記されているのです。この曲だと、フルート、トランペット、そしてピアノのクレジットがありました。彼のソロには、すべてのフレーズに今まで聴いたことのないようなファンタジーが宿っていました。素晴らしいの一言に尽きます。
コンセルトヘボウのフルートは、おそらくエミリー・バイノンでしょう。彼女もとても繊細な演奏を聴かせてくれていますが、ヴィーゼを聴いた後ではちょっと当たり前すぎるような気になってしまいます。そして、オスロはもっと平凡な人でした。
「展覧会の絵」はオスロが1988年、コンセルトヘボウが2008年、今回が2014年です。ここでは、使っている楽譜に違いがありました。ヤンソンスはオリジナルのラヴェルのスコアに手を加えて演奏しているのですが、1回目と2回目以降とではその改変の場所が全然違っているのですよ。オスロでは、せいぜいティンパニのロールを少し加えて盛り上がりを作る程度。そして重要なのは「キエフの大門」の最後の部分で、このページでは再三ご紹介している(たとえばこちら)バスドラムを叩くタイミングが、新しい楽譜に見られるようなごくまっとうなビートになっていることです。
これが、2回目以降の録音では、まずこのバスドラムが古い楽譜のミスプリント通りに、とてもイレギュラーなタイミングで叩かれているのです。さらに、後半にはやたらと銅鑼や他の打楽器が楽譜の指定以外のところで盛大に鳴らされています。それと「バーバ・ヤーガ」の中間部でのフルート2本が交代で吹く三連符が、もっと細かいほとんど「トリル」に近い吹き方に変わっています。
そんな、ちょっとワイルドに変貌した楽譜を、コンセルトヘボウでは十分に生かし切ってとても力強い演奏を聴かせてくれていたものが、今回のバイエルンでは何ともお上品な演奏に終始しているものですから、なにかとても居心地の悪いものになってしまっています。両方とも最後に拍手が入っていますが、心なしかコンセルトヘボウのお客さんの方が熱狂しているな、と感じたのは、偶然ではないはずです。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH


12月11日

BEETHOVEN
Symphony No.9
渡辺洋子(Sop), 長野洋奈子(Alt)
藤沼昭彦(Ten), 栗林義信(Bar)
近衛秀磨/
二期会合唱団
読売日本交響楽団
NAXOS/NYCC-27295


1968年に録音が行われた「学研・世界の名曲」シリーズも、これが最後となりました。こちらは9月の録音、会場は、今は無き新宿の厚生年金会館です。すでに解体されていて、後世には残りませんでした。この当時はまだ音楽専用のコンサートホールなどは日本にはありませんでしたから、この前の録音に使われた世田谷区民会館や杉並公会堂(改修前)といった多目的ホールでオーケストラのコンサートや録音が普通に行われていました。その点では、今では状況は格段に向上しています。
そんなわけですから、この頃の録音ではホール内の豊かな響きを取り込むといった、今は普通に行われていることはできず、マイクで直接音を拾ってそこに人工的な残響を加えるような操作も行われていました。このシリーズの一連の録音もまさにそんなやり方で作られたものですから、なんとも余裕のないギスギスとした音を聴かされることになるのですが、これが当時の日本の精一杯の技術の成果だったのでしょう。そんな時代があったのだ、というサンプルとして聴くほかはありません。
ただ、いかに録音のクオリティが低かったとしても、曲の最後の音がまだ残っているうちにカットして終わらせてしまうというマスタリングのやり方は、許せません。あるがままの姿をそのまま聴かせるというのが基本なのではないでしょうか。それとも、マスターテープがすでにそのようなカットアウトが施されているものだったのでしょうか。
ということで、ついに「第9」の「近衛版」が聴けるようになりました。元の学研のCDにプログラム・ノーツを執筆なさっていた宇野先生が、「リタルダンドをしなくてもいいように4分の3拍子に変えている」とお書きになっているということは、このスコアが出版されているということなのでしょうか。ぜひ見てみたいものですが、とりあえずは耳で聴いて判断するしかありません。しかし、楽譜など見なくても、ただ聴いただけでもはっきり分かる違いがいくらでも見つかりますから、ちょっと普通と違うな、というところがあったら「普通の」スコアを見て確認すればいいだけの話です。特に金管楽器やティンパニは、隙があれば入り込もうと狙っていますから、至る所でほかのパートの補強が聴こえてきます。
それと、ベートーヴェンの時代の管楽器は音域が限られていたので、それに合わせるためにやむなく音型を変えた、というところがこの曲には山ほどあります。例えば、第2楽章の139小節目からは、4つの木管楽器(オーボエだけは2小節目から)のソロで「ソラシドレミファミファソラシド」というスケールを吹くのですが、最後の「シド」だけは当時のフルートでは出せないので1オクターブ下に折り返されています。もちろん、現代の楽器ではこの音自体は出せますが、それをレガートで吹くのはかなりの難易度、そこで近衛はここをピッコロに吹かせています。ピッコロにとってはこんなスケールは楽勝、それで完璧に求められている音が得られるのです。なんでも、近衛自身は「ヘタなオケでもちゃんと鳴るように」改訂を行ったのだとか、こんなところがそんな好例ですね。
このピッコロは、そんな使い方だけではなく同じスケルツォのフォルテの部分ではほとんど出ずっぱりという状態で活躍しています。音楽全体の輪郭が、これでくっきり描かれて、とてもきりっとしたベートーヴェンの姿が浮かび上がってきますね。ただ、「本業」の4楽章のマーチの部分で、高音のFを派手に出しそこなっているのに修正されていないのは、セッション録音とはいってもかなり時間が限られていてそんな細かいところまで録り直している余裕がなかったからでしょうね。
そんな劣悪なセッションでも、近衛は妥協せずに精一杯自分の音楽を後世に残しました。最後の「うちのごはん」でこんな大見得を切れるのは、近衛しかいません。

CD Artwork c Naxos Japan, Inc.


12月9日

BACH
Mass in B minor
Johon Eliot Gardiner/
Monteverdi Choir
English Baroque Soloists
SDG/SDG722


かつてガーディナーが手兵のモンテヴェルディ合唱団とイングリッシュ・バロック・ソロイスツを率いてバッハの「ロ短調」をDGのサブレーベルARCHIVへ録音したのは、1985年のことでした。それからちょうど30年後の2015年に、こちらはガーディナー自身のレーベルであるSDGで行った録音がリリースされました。
この30年というのは、レコード産業を取り巻く情勢が大きく変わった時期です。すでにCDは実用化されていましたが、今では次のメディアがそのCDを排斥しようと猛威をふるっていますし、DGのような大きなレーベルももはや自前での録音は行わないようになってしまいました。それはバッハの作品そのものに対する考え方にも大きな変化があった期間でもあります。この「ロ短調」に限ってみても、1954年に新バッハ全集として出版されていた楽譜が、2009年には全面的に改訂されています。そして、30年前には激しく吹き荒れていた「合唱は各パート一人ずつで演奏すべきだ」という声高な主張も、現在では単なる「ブーム」でしかなかったことがはっきりしています。
そんな動きの象徴的な出来事が、前回と今回との合唱の編成の変化です。85年には、そのジョシュア・リフキンの理不尽な主張をガーディナーは彼なりに咀嚼して何とか時流に遅れまいとしたのでしょうか、部分的に合唱の部分を「ソリストだけ」で演奏しています。もちろん、今回の録音では合唱の部分は全て「合唱」によって歌われていて、ソロの部分は合唱団のメンバーの中の8人が担当するという方法をとっています。
ガーディナーの演奏スタイルも、この30年間には変わってきていることも、この2種類の録音を比較すれば明確に分かります。DGの録音では、エンジニアの趣味、というか、レーベルとしてのサウンド・ポリシーだったのでしょうが、かなりソフトな音に仕上がっているのでなおさらその違いは際立つのでしょうが、なにかフレーズの角がとれて滑らかになっているような印象が与えられます。しかし、今回は録音自体がとても生々しい、演奏者の気迫のようなものがはっきり聴き取れる精緻なものですから、ガーディナーが奏者たちに伝えた思いがストレートに伝わってきます。具体的にはフレージングがより鋭角的になり、合唱でのテキストの扱いもより緊張感が高まったものとして聴こえてくるのではないでしょうか。「Credo」での「Crucifixus」の最後の5小節での超ピアニシモと、それに続く「Et resurrexit」とのダイナミックスの対比などにも圧倒されます。
使用している楽譜については、どちらの録音でも「ベーレンライター版」というクレジットが認められます。これは新バッハ全集を出版したものですが、当然、今回の録音ではその「新校訂版」が使われていますから、音符そのものが変わっているところもあります。その典型的なものが、「Gloria」の中のソプラノとテノールのデュエット「Domine Deus」です。新校訂版では、昔の楽譜では触れられていなかった資料(ドレスデンで演奏された際に改訂されたパート譜)も加味して、並んだ音符が不均等に記譜されているという注釈が明記されていますから、ここではそれに従った付点音符によるリズムで演奏されています。
基本的なテンポなどはほとんど前回と同じですが、唯一「Benedictus」だけは非常にゆったりとしたテンポに変わっています。このあたりが、ガーディナーが年を重ねたことによる表現の幅の拡大ということになるのでしょうか。ここで歌っているニック・プリッチャードというテノールは、まさしく理想的なピリオド・テノールなのではないでしょうか。あくまでピュアな声から醸し出されるパッションには、心を打たれます。
ただ、そのほかのソリストが、ハンナ・モリソンは別格ですが、ちょっと主体性を欠く拙い歌い方に終始しているのが、この録音の決して小さくはない疵でしょうか。「Agnus Dei」を歌っているメグ・ブラグルあたりにも、失望させられます。

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd


12月7日

Dvořák
Symphony No.9
近衛秀麿/
読売日本交響楽団
NAXOS/NYCC-27294


近衛秀麿と読響による学研への録音シリーズ、第3弾はやはり1968年の、これは6月に行われたセッションです。会場が、それまでの杉並公会堂から世田谷区民会館に変わっていますが、そのことによる音の変化はほとんど感じられません。それどころか、前回の「田園」で気になった残響成分が反対側からはっきり聴こえてくるという不思議な処理は今回も同じようになされています。
毎回、ブックレットに掲載されている菅野冬樹氏の書き下ろしエッセイは読みごたえのあるものですが、今回は近衛とストコフスキーとの関係に焦点を当てたなかなか興味深いものでした。ストコフスキーの伝手でアメリカでの活動基盤も出来、これからという時に奇しくも兄の文麿の内閣が日中戦争を始めてしまったために、近衛はもはやアメリカから去るしかなかったというのは、なんとも皮肉なことですね。逆に、彼がアメリカで大成功を収めていたとしたら、こんな「鑑賞教材」の録音のようなチンケな仕事をすることもなく、したがってこのCDが出ることもなかったのでしょうが、それが「歴史」というものなのでしょう。
今回は、前回までの独墺の古典派の作品とはがらりと変わって、チェコのドヴォルジャークの作品です。カップリングとしてスメタナの「モルダウ」まで入っていますよ。その、ドヴォルジャークの「新世界」では、ベートーヴェン同様に近衛自身が楽譜を改変していますが、そのやり方はどうもベートーヴェンの場合とは一味違っているように思えます。もしかしたら、アメリカでストコフスキーと親しくなったことで、なにかエンターテインメントの要素が近衛の編曲や演奏に加わってきたのではないでしょうか。
そんな「新世界」、改変で気になるのが、第1楽章の316小節から始まる2番フルートのソロです。ここでは、チェコのダンスのようなテーマが最初に2番フルートで演奏された後、それを1番フルートが引き継いで1オクターブ上で繰り返す、という部分なのですが、低音で始まる2番フルートのソロを2人で吹かせているのですよ。確かに音が低くあまり聴こえないのを目立たせようという気持ちは分かりますが、ここでの読響のフルーティストは2番の方もとても優秀ですから、1人でも十分に「鳴る」はず、しかも、この録音では管楽器のソロが異様に目立つようなミキシングがされていますから、2人で吹くとびっくりするほどでっかい音になってしまいます。これは近衛の本意ではなかったはず、おそらくこの録音の現場では指揮者がプレイバックを聴いてバランスを修正するというような機会は設けられてはいなかったのでしょう。
もう1か所、目立って聴こえてくるのが、同じ楽章のエンディングのクライマックス、練習番号13(400小節)。本来ならそこからティンパニが入ってくるのが、近衛はその2小節前から叩かせています。これは13へ向けての盛り上がりを演出するとても痛快な処理なのではないでしょうか。
おなじような盛り上がりを演奏の上で企てているのが終楽章です。まず、序奏の最後、トランペットのファンファーレが入る直前で「タメ」というにはあまりにも激しい急ブレーキがかけられます。これこそが、まさにストコフスキーが頻繁に行ったテンポ・ルバートではありませんか。もうこの楽章はそんなルバートをまじえつつ、明るすぎるどんちゃん騒ぎが繰り広げられていますよ。
「モルダウ」では、後半になるにつれてなんだかテンションが下がっていくのはなぜでしょう。そんな中で「聖ヨハネの急流」でのピッコロの高音だけが、やはり異様に強調されています。ですから、最後に長調に変わる「ヴルタヴァのゆったりとした流れ」の部分でもそれこそストコフスキーっぽくピッコロを1オクターブ上げたりすればかっこよかったのでしょうが、近衛はこのへんではそこまではやっていませんでした。

CD Artwork © Naxos Japan, Inc.


12月5日

PENDERECKI
A sea of dream breathe on me...
Olga Pasichnyk(Sop)
Ewa Marciniec(Alt)
Jarosław Bręk(Bar)
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.573062


ペンデレツキは、オーケストラや室内楽のための作品の他にも、多くの声楽を伴う作品を作ってきました。ア・カペラの合唱曲もありますね。それらは、初期の作品「スターバト・マーテル」や「ルカ受難曲」のように、ほとんどがラテン語をテキストに用いているか、と思えるものでしたが、ごく最近になってそれ以外の言語でも曲を作るようになっています。そのターニング・ポイントと言えるのが、2005年に作られた「交響曲第8番」だったのでしょう。そこでは、ドイツ・ロマン派の詩人によるドイツ語によるテキストが使われていたのです。
おそらく、それは単にテキストの問題だけではなく、彼の音楽的な転換のポイントにもなっていたのではないでしょうか。それまでの、いわば「死語」であるラテン語で、ある意味日常生活からは超越していた世界にあったものが、日常の言葉を使うことによってその作品にある種の「具体性」が生じることは当然の成り行きです。実際、その「交響曲第8番」からは、例えばマーラーが持っていたようなまぎれもない直接的な感情が溢れ出ていました。それまでに信じられないほどの方向転換を行っていたこの作曲家は、晩年になってさらにその作風に対する舵を大きく切ったのです。
その流れに沿った新たな作品が、この、やはりオーケストラに独唱や合唱が加わった「夢の海は私に息吹を送った...」というタイトルの歌曲集です。ショパンの生誕200周年の記念行事のためにポーランドの国立フレデリック・ショパン協会の委嘱によって作られ、2011年の1月14日にワルシャワで初演されました。その時にはゲルギエフ指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィアが演奏を行っています。
今回のCDは、2012年10月に録音されたものです。もちろん、演奏は常連のヴィット指揮のワルシャワ・フィル、ソリストは初演の時とは全員入れ替わっていますが、合唱は初演と同じヘンリク・ヴォイナロフスキ指揮のワルシャワ・フィル合唱団です。
ここでペンデレツキが用いたテキストは、彼の母国語ポーランド語でした。ポーランドの詩人の作品が全部で22篇使われています。それが6曲、5曲、11曲がセットになって、3つの部分を形成しています。そうなると、音楽の中にも「8番」でのドイツ語とは別の、もっと「東ヨーロッパ」風の雰囲気が漂い始めます。いや、もはや「ヨーロッパ」も通り越した「東洋」までもが、その範疇には入っていることを見逃すことはできないはずです。確かに、ここにはハンガリーのバルトークや、さらには日本の武満、細川といった作曲家のエキスのようなものがふんだんに散らばっています。
第1部の冒頭曲が、まさにそんな「異国情緒」たっぷりのものでした。そこにあったのは武満の後期に見られる甘いフルート・ソロ、その武満や細川が得意とする雅楽のような倍音を持つ弦楽器、そして、バルトーク風のメロディ・ラインです。4曲目と5曲目でソプラノとバリトンのソロが入ってくると、そこにはまるでバルトークの「青ひげ」のような世界が広がってはいないでしょうか。
第2部になると、まるでウェーベルンのような静謐なサウンドの中に、無調的なソロが聴こえてきます。これも、今となっては何かノスタルジーを感じないわけにはいきません。このパートを締めくくる曲での合唱は、さらに強い郷愁をそそられるものでした。
第3部では、興味深いタイトルの「詩」が目に付きます。それは「レクイエム:ショパンのピアノ」という、ショパンへのオマージュが語られている4篇の詩です。もちろん、この作品全体の趣旨に沿ったテキストですが、音楽的にもショパンに対する回帰の情が反映されているのは間違いのないことでしょう。
ソリストも情感深い歌を聴かせてくれていますが、何よりも合唱の存在感が、この作品の魅力を作っています。最後にはなぜかラフマニノフの「晩祷」のような東方教会の響きが。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


おとといのおやぢに会える、か。



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