生煮えの踊り.... 佐久間學

(14/8/26-14/9/13)

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9月13日

RICHTER
Seven String Quartets
casalQuartett
SOLO MUSICA/SM 184(hybrid SACD)


今まで、このレーベルからリリースされている「弦楽四重奏の誕生」という2枚のアルバムによって、そういうアンサンブルの初期の形態から、ハイドンあたりによって完成された姿を俯瞰するという試みを行ってきたスイスの団体カザル・クァルテットの最新アルバムは、その第3弾として、フランツ・クサヴァー・リヒターの7曲の弦楽四重奏曲を収めた2枚組のSACDとなりました。サブタイトルは「GENESIS 1757」。リヒターがマンハイムの宮廷楽団の作曲家を務めている間に作られたこれらの作品は、まさにこのジャンルの「起源」にふさわしいものであることから、このアルバムはこのようなタイトルを付けることになったのでしょう。そして、そのあとの数字は、おそらくこれらが作られた年が1757年であることを示しています。
この「作品5」という曲集は、最初に出版されたのが1768年でしたが、その時には全部で6曲しかありませんでした。それが、1772年に出版された第2版になると、ト短調の曲(作品5/5b)が加わって全7曲となっています。この7曲がすべて演奏されている録音というのは、今回のものが最初なのだそうです。
ただ、これらが実際に作曲されたのがいつなのかは正確には分かってはいませんでした。しかし、ある音楽学者によると、同じ時代の作曲家、ヴァイオリニストのカール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフが亡くなる直前に長男に向かって語ったとされる「回顧録」によって、その年代が1757年であることが特定されるのだそうです。そこでは、当時ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公子ヨーゼフの元にいたディッタースドルフが、その年の冬のある日、悪い予感があったので(彼の言葉では「何か、背中を冷たい手で触られたような気がして」)ソリすべりの誘いを断り、兄弟たちと一緒に、仲間が手に入れたばかりの「リヒターの新しい弦楽四重奏曲」を試演していたことが述べられています。そこではコーヒーの香りと葉巻の紫煙が漂っていたのだとか。と、そこに、さっきのソリが事故を起こして、乗っていた人が亡くなってしまったという知らせが。ディッタースドルフは「リヒターの弦楽四重奏曲」のおかげで命拾いをしたのですね。
1757年と言えば、あのハイドンが最初の交響曲を作った年になります。このリヒターの弦楽四重奏曲も、ほとんどはそのハイドンのそのころの交響曲と同じ急−緩−急の3楽章形式によったもので、第1楽章はソナタ形式で作られています。リヒターの作品の中にはバロック風の様式が見出せるそうですが、確かに「作品5/2」の終楽章では「フガート」という表記でポリフォニックな扱いが見られます。しかし、それも旋律線などはもろ「古典派風」のものです。アルバムのタイトルには「起源」とありますが、たしかにこれらはしっかり「古典派」(「前古典派」と言うべき?)の様式の中で作られているように感じられます。
そんな作品を演奏しているカザル・カルテットは、1996年に作られたスイスの若い団体。17世紀から、現代の「タンゴ」までをレパートリーにしているという活きのいいグループですが、ここでは全員がオーストリアのヴァイオリン制作者ヤコブス・シュタイナーの17世紀半ばに作られた楽器を使っています。もちろん、弓もバロック・ボウです。このSACDは、アンドレアス・プリーマーというエンジニアが写真入りで紹介されているほど「音」にはこだわったものですから、そんなピリオド楽器のニュアンスは、とてもよく伝わってきます。特に、ヴィオラが大活躍するパッセージ(これも、しっかり弦楽四重奏のフォルムが固まっていた証)などでは、独特の音色と肌触りがぞくぞくするほどのなまめかしさで伝わってくるという、すごい録音です。
もちろん、メンバー全員が伸び伸びと演奏している様子もリアルに伝わってきますよ。
ジャケットのトラック表示で、1枚目は「トラック4」2枚目は「トラック4、8」が抜けていますから、ご注意を。

SACD Artwork © casalQuartett

9月11日

TRAD
竹内まりや
MOON/WPZL-30906/7

2007年の「デニム」以来となる、7年ぶりのオリジナル・アルバムの登場です。「デニム」の時にはまさにデニムのロングスカート、そして、今回は三つ揃えのスーツとピンホールカラーのシャツという「トラッド」なファッションで迫ります。というか、これは男物の打ち合わせですから、なんともボーイッシュ。
今回のジャケットやブックレットを飾るのは、まりやの故郷、出雲の風景です。そのスーツ姿のショットは出雲大社、タータンチェックのスカートでバックにしているのは稲佐の浜ですね。ジャケットの写真は、おそらく「竹野家」の中なのでしょう。
もちろん、初回限定盤を買いましたから、「おまけ」が付いてます。今までだとカラオケのCDなどがそんな「おまけ」だったのですが、今回はなんとDVDです。このところ盛んに目にする「静かな伝説(レジェンド)」のPVを始めとする、これまでのPVのハイライト・シーンだけではなく、2000年のライブ映像まで入っていますから、これはたまりません。ライブの方は何度も見ているものなのですが、こうやってパッケージになっていると、感慨も新たです。「駅」の細やかな表現は、ライブならではの深い味ですね。
その「レジェンド」の映像を、CDと同じオーディオ環境で聴いてみると、なんだかCDよりも滑らかな音が聴こえてきます。特に達郎のコーラスが入ってきた時の音場の広がりが全然別物で、見事に各声部が溶け合ったまろやかなハーモニーになっています。そこで、DVDの音声スペックを確認してみると24bit/48kHzPCMなのだそうです。まあ、ハイレゾと言えるかどうかは微妙なところですが、この違いははっきりと音に出ていたのですね。いや、ショルティの「指環」だってこの程度のスペックであれだけの音が聴けたのですから、やはりこれだけでもはっきりCDをしのぐ音になるのでしょう。
こうなると、まりやや達郎の曲も、オリジナルのハイレゾで聴いてみたくなりますね。ドリカムの中村正人でさえ雑誌のインタビューで「24/96で録音している」と言ってるぐらいですから、達郎だったら当然同程度の規格を採用しているはずですからね。というか、いまどき16/44.1で録音を行っている現場なんてないのではないでしょうか。
と、音に関しては興味深い体験があったのですが、この曲自体ははっきり言ってあまり好きではありません。「デニム」に入っていた「人生の扉」と似たようなテイストを感じる曲で、なんとも重苦しい歌詞と、それに合わせたまるで演歌のような思い入れたっぷりの歌い方が、ちょっと辛く感じられてしまうのですよ。まあ、これはおそらく作家自身の「進歩」なのだ、ということは、最近のプロモーションでの発言でうかがうことが出来ますから、もはやどうしようもないことなのでしょうが、1ファンとしては「進歩」などしなくてもいいからあまり変わらないで、と、願わずにはいられません。
そういう意味で、このアルバムの中で最も注目したのは、みつき(高畑充希)のために作った「夏のモンタージュ」のセルフカバーです。「幸せだな~」とかは入ってません(それは、セリフカバー)。オリジナルはこちらに収録されていて、その時には「まりやがセルフカバーを行っていないのは、もはやこの歌には付け加えるべきものは何もないと判断してのことだったのでは」と書いていましたが、まりやはそれをやってしまったのですね。その結果は、予想どおりでした。オリジナルが持っていた切なさやはかなさといったものは、ものの見事にこのカバーから消え去っていたのです。オリジナルのすばらしさは、なんと言っても歌った人の魅力、曲はそれを助けただけのものに過ぎませんでした。つまり、「扉」や「レジェンド」を歌ってしまった人には、もはやこの歌に真の命を吹き込むことはできないのです。悲しいかな、それが「進歩」というもの、辛くても耐えるしかありません。

CD Artwork © Warner Music Japan Inc.

9月9日

「ビートルズ!」を作った男
レコード・ビジネスへ愛をこめて
高嶋弘之著
DU BOOKS
ISBN978-4-907583-23-1


この本のタイトルが、ちょっとマニアックなのに気づいた人はいるでしょうか。「ビートルズ」に「びっくりマーク」が付いているのがミソ。これは、グループ名としての「ビートルズ」ではなく、彼らのファースト・アルバムとして日本で発売されたLPのタイトルなのですよ。ジャケットは同じ時期にアメリカで、やはりファースト・アルバムとしてリリースされた「Meet the Beatles!」と同じですが、曲目は日本でのデビュー・シングルの「I Want to Hold Your Hand」など、アルバム未収録の3曲と、それまでにリリースされていた2枚のアルバム(「Please Please Me」、「With the Beatles」)からそれぞれ6曲と5曲をピックアップして編集した日本独自のものだったのです。表紙のイラストは、そのLPOR-7041)のA面の模写です。「エバークリーン」が使われた「赤盤」だったんですね。「もしや」と思って調べたら、タイトルが入っている部分は、その日本盤の発売当初の帯ではありませんか。
もちろん、そのLPの編集を行ったのは著者の高嶋弘之ですから、まさに「『ビートルズ!』をつくった男」となるのですね。それがリリースされたのが1964年の4月5日(発売日には諸説あり)、つまり、今年は「ビートルズ!」が出てからちょうど50年目となるのです。これは、おそらくそのあたりを記念しての復刻だったのでしょう。というより、この時期の日本での独自編集のアルバム5枚をCD化したボックスが発売されたばかりですから、それとのミエミエのタイアップなのでしょう。そう、これは過去(1981年)に出版されたものの、とっくの昔に廃刊となった書籍の復刻版なのでした。
あの1966カルテット」の生みの親である、高嶋音楽事務所の代表高嶋弘之は、有名な話ですがかつては「東芝レコード」のディレクターとしてのサラリーマン生活を送っていました。彼がその東芝を退社して、別の会社を作ったりしている時に、乞われて書いたのが元の本です。彼が「東芝」に入社したのは1959年、そして退社したのが1969年、そんな、出来て間もない「東芝」時代のハチャメチャなディレクター人生が、語られています。
そこで紹介されているのは、なにも知らなければ突拍子もないように思えるほどの「反則技」の数々ですが、もはやそんなことは今では誰でも知っている、ごく普通に「業界」では行われていることばかりなのですね。いや、それはもはや「レコード」業界だけではなく、ありとあらゆる業種(テレビ番組、映画、あるいは書籍)が日常的に販売戦略として行っている手法なのですよ。
この本が書かれた当時ではおそらく知る人はあまりいなかったであろう、たとえばレコードの売り上げ枚数をごまかして公表したり、アルバイトを雇って作為的にラジオのリクエストをたくさん送りつけるなどという「浅知恵」は、今では誰でも知っていること、知っていても、あえてそれを知らないフリをして受け止める、というのが「賢い」人たちの生き方なのですよ。それをあたかも重要な「秘話」であるかのようにしか語れない著者の「愚かさ」のみが、とても目立ってしまうだけという、これは本当につまらない本です。表紙のマニアックさと、その内容とのあまりの落差は、まさに「1966カルテット」と共通しています。
でも、せっかく買ったのですから、賢い読者としては、そんな駄文の端はしにちりばめられた彼自身でしか語ることが出来ないはずの「事実」の重みを、味わうことにしませんか。それは、たとえば「帰って来たヨッパライ」で大ヒットを放ったフォーク・クルセダーズの第2弾シングルとして発売を予定していた「イムジン河」が、すでに出荷されてしまった時点で「発売中止」という「上から」の指示に従わざるを得なかったという事件。そこでは、当事者からの貴重な証言として詳細な事実関係を、まさに「歴史」として知ることが出来るはずです。

Book Artwork © Diskunion Company Limited

9月7日

LOUSSIER
Violin Concertos
Adam Kostecki(Vn)
Piotr Iwicki(Perc)
Gunther Hauer(Pf)
Polish Philharmonic Chamber Orchestra
NAXOS/8.573200


ジャック・ルーシエと言えば、1959年に発表した「プレイ・バッハ」というアルバムで、おそらく世界で初めてジャズの世界にバッハを持ちこんだフランスのピアニストというイメージが定着していますが、そんな彼が作った「ヴァイオリン協奏曲」などというものがあるのだそうです。しかも2曲も。でも、そもそも彼はクラシックのピアニストを目指してパリのコンセルヴァトワールに入学、イヴ・ナットの教えを受けているということですので、もちろんベースにはしっかりとしたクラシックの素養があるのでしょう。それにしても、ピアノではなくヴァイオリンのための協奏曲とは。
この「ルーシエ」さんは、もうすっかり「ルーシェ」という表記(違い、分かります?「エ」は大文字です)に馴染んでしまっていますが、ご本人が「ルーシエ」と発音しているのですからなんとかしてあげたいな、と、常々思っています。同じ綴りで菓子職人を意味する「pâtissier」はきちんと「パティシエ」と発音できるような時代になったのですから、そろそろ「ルーシェ」はやめにしませんか?もし今「パテシェ」という人がいたら、かなりダサいでしょ?
「協奏曲第1番」は1987年から1988年にかけて作られています。正式には「ヴァイオリンと打楽器のための協奏曲」というタイトルが付けられている通り、ソロ・ヴァイオリンの他に「打楽器」がフィーチャーされています。しかし、その実体は殆どルーシエの普段の音楽活動ではおなじみの「ドラムセット」です。4つの楽章から出来ているこの曲の中の、第1楽章と第4楽章に、この「ドラムス」が登場します。つまり、そういうサウンドですから、これは限りなくポップ・ミュージックに近い仕上がりとなっています。別にルーシエは「ジャズ・ピアニスト」の他に「クラシック作曲家」としての別の顔を持っていたわけではなかったのですね。
第1楽章には「プラハ」というタイトルが付いていますが、音楽はなんだか「タンゴ」がベースになっているように聴こえます。しかも、そのテーマが、これが作られた頃にヒットしていたマイケル・ジャクソンの「Smooth Criminal」に非常によく似ている、というのが、さらにその親しみやすさを増しています。
第2楽章と第3楽章は、それぞれ「裸の人」と「ブエノス・アイレス・タンゴ」というタイトルですが、ここではなんともメランコリックな音楽が広がります。
意味深なのは、最後の楽章の「東京」というタイトル。確かに、冒頭にはまるで「雅楽」のようなテンション・コードが響きますが、その後には第1楽章のテーマが出てきて、ごく普通のクリシェ・コードに変わります。さらに、ヴァイオリンがスウィングでアドリブっぽいソロを聴かせたりと、脈絡がありません。ルーシエにとっての「東京」とは、こんなごった煮の世界なのでしょうか。
ただ、そんな音楽ですから、「打楽器」の、特にバスドラムあたりは、もっと締まった音でリズムをリードしなければいけないものが、エンジニアの勘違いでエコーだらけのぶよぶよの音になってしまっています。こんな「クラシカル」なバスドラは、絶対にルーシエが狙った響きではないはずです。
「2番」の方は2006年の作品。こちらは「ヴァイオリンとタブラ」という表記です。インド音楽で使われる「太鼓」ですね。でも、音楽は別にインド風ではなく、あくまでジャズ、しっかりブルース・コードも登場しますしね。しかも最後の楽章などはもろ「チャルダッシュ」だっちゃ。このハンガリーの音楽とタブラとはものすごい違和感がありませんか?
最後に入っているパデレフスキのヴァイオリン・ソナタは、「ピアニストが作ったヴァイオリンのための曲」という共通項だけで強引にカップリングされたものです。もちろん、これは単なる「抱き合わせ」に過ぎません。こんなことをしているから、このレーベルはいつまで経っても「一流」にはなれないのです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

9月5日

MOZART
Requiem
Arleen Auger(Sop), Gurli Plesner(Alt)
Adalbert Klaus(Ten), Roger Spyer(Bas)
Sergiu Celibidache/
Choeurs de l'ORTF(by Jean Paul Kreder)
Orchestre National de l'ORTF
ALTUS/ALT296


チェリビダッケは、シュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者在任中の1973年から1975年の間に、当時の「フランス国立放送管弦楽団」の首席アドヴァイザーというポストにあり、このオーケストラが1975年に改組されて「フランス国立管弦楽団」となった時には、初代の音楽監督に就任しています。そんな間柄にあったオーケストラとの、1974年2月に行われたモーツァルトの「レクイエム」のライブ録音がリリースされました。おそらく、今まで何らかの形でブートっぽいものは出ていたのでしょうが、正規品として発売されるのはこれが初めてのこととなります。つまり、フランス国立放送局によって録音され、ラジオ放送に使われた音源を、それを管理している団体「INA(Institut national de l'audiovisuelフランス国立AV協会)」からのライセンスを得て、新たにマスタリングを行ったものが、このCDということになります(この団体の名前を見て、「さすが、フランスは進んでる!」などと感心しないでください。「AV」とは「オーディオ・ヴィジュアル」の略語ですからね)。
そんな、ちゃんとした放送局の音源にしてはずいぶんバランスの悪い音に驚かされます。「Introitus」冒頭の弦楽器がほとんど聴こえないのに、それに続く木管楽器がやたらはっきりと聴こえてくるのですからね。合唱が入ってきても、かなり大人数のような感じはしますが、なんか遠くの方で歌っているようにしか聴こえません。そのくせ、フォルテッシモになるとソプラノあたりの音は見事に歪んでいますから、やはりこの時代のフランスの放送局の録音のスキルは、レコード会社にははるかに及ばなかったのでしょうか。
そこに、ソプラノのアーリーン・オージェのソロが入ってきます。いつになく安定した声で、最初のフレーズ「Te decet hymnus Deus in Sion」を、なんとノンブレスで歌い切りましたよ。普通のテンポでは15秒ほどかかりますから、どんな歌手でも1回か2回は息を取るものですが、チェリビダッケの極端におそいテンポによって、それが20秒近くになっているのに、です。これはちょっとすごいこと、というか、もしかしたらチェリビダッケの指示によって、流れを中断するようなブレスは禁止されていたのかもしれませんね。
そんな大きなフレーズのとらえ方は、確かにこの演奏全体を支配する要因のよういん(ように)感じられます。ただでさえ遅いテンポが、こんな粘っこいフレージングのためにさらに地を這うような表現に変わり、この世のものとも思えないほどに「深み」を増す、というのが、この指揮者の音楽の作り方なのでしょう。
ただ、そんな「大きな」音楽にはとてもついていけない、という人も、合唱団の中にはいたのかもしれません。「Kyrie」の二重フーガになると、「Kyrie eleison」という長い音価のパートはかろうじて悠々とした動きを保っているものの、それに交わる「Christe eleison」という細かい音符のメリスマが、タガが外れたように走り始めました。ただ、走っているのはそのパートだけ、他のパートは同じテンポを保っているので、そのメリスマだけが異様な切迫感に囚われてしまっているように聴こえるのが、とてもスリリングです。
それにしても、チェリビダッケの作る音楽の悠然さというのは、まさに常軌を逸する一歩手前のところまで迫っているのではないでしょうか。並みの指揮者ではあらん限りの力を振り絞ってダイナミックの限りを作りだす「Dies irae」での、殆ど冗談に近いような平静なたたずまいはまさに驚異的です。それはもっぱら、ここでの合唱が、全く「言葉」に意味を乗せることをせず、ひたすら純粋に「音響」を追求させられているからなのでしょう。これだけ大人数の合唱の全てのメンバーに、こんな「魂」が抜けた歌い方を徹底できる指揮者など、チェリビダッケの他にはいないのではないでしょうか。しかし、それがなんとも美しい音楽に聴こえるのですから、困ったものです。

CD Artwork © INA

9月3日

Mussorgskij-Ravel
Tableaux d'une exposition
BREITKOPF/5532(Full Score)

ラヴェルが編曲したムソルグスキーの「展覧会の絵」は、今のオーケストラの現場ではほぼ例外なくBoosey & Hawkesから出版された楽譜を使って演奏されているはずです。正確には、「B&Hから出版された何種類かの楽譜、および、そこから派生した楽譜(海賊版とも言う)」ということになるのでしょう。もちろん、これ(ら)にはきちんとパート譜も用意されていますから、演奏に使うためには申し分ありません。何しろ、この楽譜は、1929年に「ロシア音楽出版」から最初に出版されたものを、そのまま版権を譲り受けたという、とても由緒正しいものなのですからね。しかし、このB&H版は、1942年に出版されて以来、1953年と2002年とに改訂を行っていますが、いまだに多くの疑問点やミスプリントが残った、ちょっと信頼のおけない楽譜のままでいます。というか、2002年の「新改訂版」と呼ばれるものは、版下は1953年版をそのまま使い、それにほんの少し手を加え、いくつかの注釈を書き加えただけ、というしょぼいものですからね。
そんな中、1994年にEulenburgから、ラヴェルの自筆稿などの資料を精査してきちんと校訂された楽譜が出版されました。2004年には日本版も出版されています。これは、今までB&H版では謎とされていた部分が、ことごとく解決されていた、素晴らしいエディションでした。ただ、これはパート譜などは用意されていませんでしたから、部分的に指揮者や演奏者が楽譜に書き込んで直すための、いわば「研究用」の資料としての価値が一義的なものだったのでしょう。
そこに、つい最近、Breitkopf & Härtel社(これもB&Hなので、「ブライトコプフ」と言うことにします)という「大手」が、参入しました。この出版社でラヴェルの新しい楽譜の校訂を行ってきた、指揮者であり音楽学者でもあるジャン=フランソワ・モナールの校訂による、やはりEulenburgと同じ手法で作られた「原典版」です。こちらは、レンタルになりますがちゃんとパート譜も用意されていて、実際にオーケストラのライブラリーとしての需要を見込んで出版されたものです。
その作られ方からも分かる通り、このブライトコプフ版は、B&H版に比べたら、限りなく編曲者であるラヴェルの意思に近いものとなっています。つまり、あくまでラヴェルの自筆稿に忠実な校訂を行い、仮にそこがムソルグスキーの楽譜とは異なっていても、ラヴェルが書いたものを優先させるという姿勢が貫かれているのです。そんな例が、最初のプロムナードの23小節目(「5番」の2小節目)の3番ホルンと3番トランペットの最初の音です。ムソルグスキーではこの音はEフラットですが、ラヴェルの自筆稿ではEナチュラルなので、ここでもEナチュラルになちゅらっています。B&H版ではEフラットでした。
もう一つ、「サムエル・ゴルデンベルク」の19小節目(「60番」の2小節目)のトランペットの16番目の音も、ラヴェルはダブルシャープ、ムソルグスキーはただのシャープですが、こちらはダブルシャープ、B&Hはシャープです。そのあとの同じ形も、同様ですね。
この2点は、もちろんEulenburgも全く同じ扱いなのですが、中にはブライトコプフ版独自の解釈が現れているところもあります。「バーバ・ヤガー」の125小節(「94番」)からの10小節間は、今までのどの楽譜でもチューバとティンパニが交代で、あるいは同時に「ブンブン」あるいは「ドンドン」とやっていたのですが、この楽譜ではティンパニの「ドンドン」だけになっています。
こんな有名な曲ですから、いずれこの楽譜を使って「ブライトコプフ版による世界初録音」みたいな帯コピーのついたCDが発売されることでしょうね。
この楽譜、知ったのは日本の楽譜屋さんの案内ですが、そこでは本体価格12,580円でした。でも、直にブライトコプフのサイトから買ったら、59.9ユーロ、今の為替相場だと8,000円ちょっとです。送料を入れても9,500円、日本で買えば税込13,586円+送料ですから、かなりのお買い得でした。注文して1週間で届きましたし。

Score Artwork © Breitkopf & Härtel

9月1日

BRAHMS
Hungarian Dances
Duo Praxedis
Praxedis Hug-Rütti(Hp)
Praxedis Geneviève Hug(Pf)
PALADINO/PMR 0051


ブラームスの「ハンガリー舞曲」は、オーケストラ作品として、オーケストラの演奏会のアンコールには欠かせないレパートリーになっていますが、そもそもの形態はピアノの4手連弾でした。全部で21曲作られ、出版されていますが、この曲集には「作品番号」は付けられていません。その代わり、後に「WoO 1」という番号が与えられています。これは「Werke ohne Opuszahl」、つまり、「作品番号が付いていない作品」の「第1番」ということになります。作品番号が付いていないのに「番号」が付いているというのは明らかな矛盾ですが、そこには様々な事情があるのでしょうから、笑って許してあげましょう。この場合の「事情」は、ここに現れるメロディはブラームスがジプシーの曲を「採譜」しただけで、自分のオリジナルではないことから、このような措置を取ったのだ、と言われていること。あくまで、「編曲」ということで、「作品」には含めなかったのでしょう。
もちろん、こんな有名な曲ですから今までに多くの楽器のために編曲されてきました。そんな中でも、今回のハープとピアノという組み合わせはとてもユニークなものなのではないでしょうか。でも、もともとのジプシーの音楽にはよく登場するツィンバロンという楽器は、なんとなくハープとの共通点があるような気がしますから、もしかしたらそういう意味での相性がいいのでは、と編曲者は考えたのかもしれません(編曲者の名前はクレジットされていません)。
ここでの演奏者は、「デュオ・プラクセディス」というチームです。整体師ではありません(それは「カイロ・プラクティック」)。ハープがプラクセディス・フーク=リュッティ、ピアノがプラクセディス・ジュヌヴィエーヴ・フークというお二人、ジャケットの写真を見ると同じようなドレスを着て顔もよく似ていますから、姉妹なのでしょうか。あのラベック姉妹の若い頃みたいな感じですかね。でも、よく見てみると、左側の人の手は静脈が浮き出ていてなんかお肌に張りがありません。もしや、と思ってライナーを見ると「スイスの母と娘のデュオ」と書いてあるではありませんか。えーっ!ということは、片方は「今」のラベック姉妹ですね。それにしてもこの若づくりには驚かされます。
「母」の方はハープを弾いている人でした。確かに、他の写真を見てみるとドレスの胸の開き方が微妙に違ってたりしますね。いったいお幾つなのでしょうね。ところが、容姿はそのようにどんな風にも飾る(ごまかす)ことは出来ますが、演奏の腕はまさに年に見合った衰え方を見せているのが、とても悲しいところです。
この編曲、オリジナルのピアノ版を尊重しているようですが、ハープは基本的に「プリモ」のパート、たまに「セコンド」と入れ替わる、というプランです。ですから、細かい十六分音符が並ぶところがたくさん出てきますが、それが悲惨そのもの、とても楽譜通りには弾くことが出来なくてオタオタしている姿は、耳を覆いたくなるほどです。しかも、そんな醜態を少しでもカバーしたいとでも思っているのでしょうか、時折高音のアコードで、とてもハープとは思えない、まさに無理やり弦をひっぱたいているような荒っぽい音で、自らの存在を「主張」しようとしていますから、こうなるともはや音楽とは言えなくなってしまうほどです。ピアニストでもいますよね。お年を召されて指なんかもう回らなくなっているので、早いパッセージはごまかすし、弾けるところだけ力いっぱい叩きつける、という人が。そんな、完璧に「老醜」をさらけ出しているのが、この「母」なのですよ。
たまに、「セコンド」になると、ハープならではのアルペジオが、とても美しく響いてくるところがあります。これが出来るのに、なぜこんな弾けもしないような編曲を施したのか、とても不思議です。いずれにしても、こんなものを商品にしたレーベルの良心は疑われても仕方がありません。

CD Artwork © Paladino Media GmbH

8月30日

AHO
Theremin Concerto ・ Horn Concerto
Carolina Eyck(The)
Annu Salminen(Hr)
John Storgårds
Lapland Chamber Orchestra
BIS/SACD 2036(hybrid SACD)


まるでヒンデミットのように、多くの楽器のために協奏曲を書き続けてきたフィンランドの現代作曲家、カレヴィ・アホのプロジェクトは2011年にその18番目の成果である「ホルン協奏曲」が完成したことによりめでたく終了しました。
この曲の最もユニークな点は、ソリストが前に立って演奏するのではなく、下手の舞台裏からステージ上のオーケストラの後ろを演奏しながら通って行き、上手の舞台裏に隠れてしまう、というパフォーマンスを行うことです。
これはあたかもホルンの「旅」のよう、そんな旅の終わり近くには、まるでベートーヴェンの「7番」のような「タンタタン」という執拗なスケルツォのリズムに乗って、お祭りが始まります。そんな楽しいひと時も、やがて「別れ」が訪れ、ホルンの姿が消えたステージではオーケストラが、まるで彼女を懐かしむかのような音楽を演奏します。
そして、カップリングは、「普通のオーケストラ」にはまず登場しない楽器「テルミン」を独奏楽器にした協奏曲「8つの季節」です。テルミンは20世紀初頭に作られた世界初の電子楽器ですが、クラシックの作曲家が使うことはまずありませんでした。ですから、よもやこの楽器のために協奏曲を作った人など、このアホの前にはいなかっただろうと思ったのですが、調べてみたら1945年の2月に、アニス・フレイハーンという人の「協奏曲」が、世界初の「テルミニスト」クララ・ロックモアのソロ、ストコフスキー指揮のニューヨーク・フィルの演奏によって初演されていました。それはこちらで聴くことが出来ます。まあ、ヴァイオリン協奏曲を代わりにテルミンで演奏した、といった感じの曲で、当時のこの楽器に対する可能性の限界がうかがえます。
つまり、今回のアホの「テルミン協奏曲」では、それとは全く次元の違う使われ方がされているのです。それには、「最新の」テクニックを身に着けたプレーヤーの存在が必要になってきます。それを見つけたのは、こちらでアホの「コントラファゴット協奏曲」を演奏していたナショナル交響楽団のコントラファゴット奏者のルイス・リプニック。2010年に彼のオーケストラがロシア出身の作曲家レーラ・アウエルバッハの「交響曲第1番」(初演は2006年、デュッセルドルフ)を演奏した時に、「アド・リブ」で加えられていたテルミンを演奏していたカロリナ・アイクに衝撃を受け、さっきのCDを渡して、「この作曲家に、あんたの楽器のための協奏曲を作ってもらいなよ」と言ったのだそうです。そこで彼女はアホとコンタクトを取り、アホも作曲を開始、楽器の可能性などをディスカッションするうちに、彼女が歌いながら楽器を弾くことも出来ることも分かり、それもこの作品に生かされることになりました。
作品には、フィンランドの秋から冬の終わりにかけての8つの「季節」を表すタイトルが付けられています。1曲目の「収穫期」では最初にテルミンが演奏を始めた時、それはまるでオーケストラに最初からある楽器、例えばチェロのように聴こえてきました。音の立ち上がりやビブラートの付け方が、今まで聴いていたテルミンとは全く違っていたのです。実は、カロリナは先ほどのロックモアが使っていた「RCAテルミン」とは、文字通り「別の楽器」を、使っていたのでした。それは、故ロバート・モーグが晩年に完成させた「イーサーウェイブ・プロ」という楽器、さらに、より滑らかな歌い方が出来るようなモジュールを加えてカスタマイズされたモデルです。
ある時などは、この楽器はまるでオンド・マルトノのように聴こえてきます。確かに、オンド・マルトノの出発点はテルミンだったのでした。こうなると、いずれはメシアンの作品でもオンド・マルトノのパートを、やすやすとテルミンで演奏するような人が出てくるかもしれませんね。
もちろん、SACDはそんなテルミンの未来形までも予想できるほどのすごい音を伝えてくれています。

SACD Artwork © BIS Records AB

8月28日

小澤征爾 覇者の法則
中野雄著
兜カ芸春秋刊(文春新書985)
ISBN978-4-16-660985-7

以前「指揮者の役割」というとても刺激的な本を書かれた中野さんの、今回は小澤征爾の評伝です。最近は、この「カリスマ指揮者」に関する著作が目白押し、ついこの間もこんなまさに決定的な「一次資料」とも言うべき「自叙伝」が出たばかりだというのに、間髪を入れずに同じような趣旨の書籍の刊行です。でも、こちらの本はなんせ「十数年前」から執筆が始まっているというのですから、それは単なる「偶然」に過ぎないのでしょう。
とは言っても、結果的にはこの本は今までの自伝も含めた多くの小澤の評伝からの引用(「コピペ」とも言う)で成り立っている、という印象は拭えません。なんと言っても、おそらく執筆当時は新聞連載だけでまだ出版はされていなかった先ほどの「自叙伝」からの「引用」のいんような(異様な)ほどの頻度には、笑うしかありません。そうそう、それに加えて、著者自身の著作物からの引用という言わば「番宣」も、そちこちにあふれかえっていましたね。
いや、ここでの著者の目論見は、そのような巷にあふれた評伝から、著者にしかなしえない「なぜ小澤は世界的な指揮者になれたか」という命題に答えを出すという作業だったはずです。その点に関しては、「DNA」やら「脳科学」といった、おそらく今までの評伝には現れることのなかったタームを使いこなしての論陣が張られていますから、おそらく多くの読者には納得がいくのではないでしょうか。
あるいは、本筋にはあまり関係ないような「ネタ」にこそ、価値が見出せる、とか。たとえば、「八田利一」に関するコメントなど。ここで著者は、下の名前に「としかず」というルビを振っていますが、これは間違いでしょう。「はったりいち」と読まないことには、このペンネームの意味が伝わりませんからね。実はこんな痛快な「評論家」が存在していたことは初めて知りました。さる、高名な評論家さんが覆面ライターとして執筆しているのだそうですが、とても他人とは思えません。
そして、これも先ほどの「指揮者の役割」からのコピペですが、「アマチュア・オーケストラばかりを振っている指揮者は、決して大成しない」という手厳しい指摘です。アマオケを振っている限り、指揮者は「お山の大将」で相手を指導するだけ、決してオケから「教わる」ことはない、というのですね。確かに、それはとても納得のいくものです。この本にも登場する小澤の後継者と目されているさる有名指揮者などは、アマオケのリハーサルの途中で、ここからは何も得るものがないと分かったとたん、あからさまに投げやりな練習態度に豹変しましたからね。本番こそ大過なくまとめていましたが、アマオケの当事者は悔しい思いをしたことでしょう。確かに、その後その指揮者はおそらく「大成」することになるのでしょうが、その前に人間的な資質が問われることになってしまいました。アマオケをなめてはいけません。
先ほどの「命題」に直接答えるという形ではなく、ごくさりげなく登場する「CAMI」の存在あたりは、もしかしたら著者の「本音」が隠されているのではないか、という気がします。実際、なぜ小澤がCAMIのアーティストになれたのかは著者にも憶測でしか分からないようですし、これを突き詰めることはひょっとしたらタブーなのかもしれませんね。
おそらく、最後に述べられている「小澤ブランド」の今後、つまり、そう遠くない将来に必ず訪れるはずの事態への著者の冷徹な眼こそが、この本の「真価」なのではないでしょうか。そう思えば、コピペだらけの本体も許せます。
いや、たとえば「ウィーン国立歌劇場の音楽監督のポストは、日本企業の援助に対するバーターだ」というような「憶測」も、コピペを繰り返すうちに限りなく「真実」に近づくことを、著者は知っているのかもしれません。

Book Artwork © Bungeishunju Ltd

8月26日

STRAVINSKY
The Rite of Spring
The Bad Plus
MASTERWORKS/88843 02405 2


アメリカのジャズ・トリオ「ザ・バッド・プラス」が演奏した、ストラヴィンスキーの「春の祭典」です。詰め物をしているわけではありません(それは「パッド・プラス」)。このトリオの中心的なメンバーはベーシストのリード・アンダーソン(左)。彼はもちろんベースを演奏していますが、それだけではなくこのアルバムのクレジットでは「エレクトロニクス」という肩書もついています。そこに、共にスキンヘッドの、ピアノのイーサン・アイヴァーソン(右)と、ドラムスのデヴィッド・キング(中央)が加わります。
ジャズ版の「春の祭典」と言えば、昔からヒューバート・ロウズのバージョンなどがありましたが、今回のものはそれとはちょっとコンセプトが異なっています。ロウズのものはまさに「ジャズ」、オリジナルのテーマを用いて自由なインプロヴィゼーションを行うものですから、それはストラヴィンスキーが作ったものとは全然別な仕上がりになっていますが、こちらは基本的にその「ストラヴィンスキー・バージョン」に忠実な進行を保っています。種明かしをすれば、ここではストラヴィンスキー自身が作った4手のためのリダクション・スコアをそのまま演奏しているのですね。骨組みはあくまでオリジナルそのもの、そこに、ほんの少しアレンジを加えている、というだけのことなのです。
いや、「ほんの少し」というのはあくまで言葉の綾でして、それは単にオリジナルの持つ時間軸を決して逸脱しない、というほどの意味なのですがね。ということは、厳密な言い方をすればこれはもはや「ジャズ」ではないということになります。そのようなチマチマしたカテゴライズからは外れた、たとえばクラシックの用語を使えば「変容」とでも言えそうなスタイルを持ったものでした。
とは言っても、「イントロダクション」では、かなりとんがったことをやっています。まず聴こえてくるのは「心音」でしょうか、低い「ザッ、ザッ」とういうパルス、そこにLPレコードのスクラッチ・ノイズが重なってなんともダークな雰囲気が漂います。このあたりが、「エレクトロニクス」の領域になるのでしょう。ずっとバックで聴こえていた「C」の電子音を受けて生ピアノが同じ音で何度かそれを繰り返し、それがそのままファゴットのオープニング・テーマになるというかっこよさです。その先は音符的には楽譜通りのことをやっているのですが、それを富田勲風の電子音やホンキー・トンク・ピアノのサンプリング、変調されたピアノの音などで「演奏」しているので、なんとも「前衛的」な世界が広がります。フルートのフレーズが吹きあがる前の一瞬の間に「ハッ」という息を吸う音が入るのが、素敵ですね。
しかし、「春の兆し」に入ると、編曲自体は結構「まとも」になってきます。ただし、ピアニストは一人しかいないのに、ピアノの音は左右からそれぞれ別のパートが聴こえてきますから、おそらく多重録音でイーサンが二人分を演奏しているのでしょう。そこに、ベースも即興的な低音だけではなく、スコアから拾ったメロディ・パートも演奏していますから、実質「3人」によるアンサンブル、そこにドラムスがリズムを刻む、というやり方で、音楽は進んでいきます。
ただ、時折ジャズメンならではの「意地」みたいなものも聴こえてきます。「春の兆し」の冒頭で、本来は弦楽器で奏される、不規則なアクセントのついたパルスなどは、1回目はしっかりクラシカルな均等のビートなのに、2回目になるとわざとフェイントをかけたような「ダル」な演出が加わります。とは言っても、最後の「生贄の踊り」の変拍子の嵐になってくると、もう楽譜通りに演奏するだけで精一杯のような感じ、なんだか、もう種も尽きた、ということでしょうか。それでも、最後に延々とコーダを引き延ばすあたりが、精一杯の「意地」なのでしょう。ストラヴィンスキーって、結構すごいことをやっていたのですね。

CD Artwork © Sony Music Enterrtainment

おとといのおやぢに会える、か。


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