寝ちゃ、いやっ・・・。.... 佐久間學

(09/11/7-11/25)

Blog Version


11月25日

MUSORGSKY
Pictures at an Exhibition(orch. by M.Ravel)
Mariss Jansons/
Royal Concertgebouw Orchestra
RCO LIVE/RCO 09004(hybrid SACD)


ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、数ある編曲の中でも、ラヴェル版のオーケストラ編曲が最も有名で、演奏回数も群を抜いています。もちろん、オリジナルはピアノ独奏用の作品なのですが、ラヴェルがこの編曲を行ったときには、その楽譜はリムスキー・コルサコフによって校訂されたものしか出版されてはいませんでした。後にムソルグスキーの自筆稿に基づいた「原典版」が出版されるのですが、それはリムスキー・コルサコフ版とは多くの部分で異なっているものでした。さらに、ラヴェルはピアノ版を忠実に編曲したわけではなく、何ヶ所かカットを施したり、繰り返しの場所を変更したりしています。つまり、ラヴェル版というものは、ムソルグスキーの自筆稿からは何段階ものフィルターを通り、変更を加えられたものだ、ということは、常に念頭に置いておく必要があるのでしょう。というよりも、そもそもピアノ版とオーケストラ版とは全く別のものなのだ、という認識すらも、場合によっては必要になってくることでしょう。特に、「殻を付けたひよこの踊り」の最後の部分などは、オーケストラ版(→音源)に比べるとピアノ版(→音源)はなんとも不自然な終わり方になっています。もっとも、ピアニストに言わせるとラヴェル版の方が逆に奇異に感じられるのだ、と聞いたことがありますが。
そんな具合に、ムソルグスキーから不自然でゴツゴツした部分を削り取っていとも滑らかなタッチに変えてしまったものが、ラヴェルの編曲です。そのようなスコアを前にして、ヤンソンスはことさらこの曲が本来持っていた生々しいエネルギーを取り戻そうと考えたのではないでしょうか。最初の「プロムナード」でのトランペットソロや、それに続く金管のコラールの響かせ方などを聴くと、このオーケストラだったらもっと滑らかで艶のあるものに仕上がるのでは、といういぶかしさが湧いてきます。しかし、おそらくそれはヤンソンスの意志に基づくものだったのではないでしょうか。「こびと」での木管のアンサンブルの間に、普段はあまり聞こえてこないチューバの声部を強調してある種粗野なイメージをかき立てていたのも、その意志のあらわれなのでしょう。
さらに、そんな「意志」を貫くために、ヤンソンスはラヴェルのスコアに手を入れることすらも厭いませんでした。「サミュエル・ゴールデンベルクとシミュイレ」の後半、トランペットと低弦の対話のバックには、バスドラムと吊りシンバルの盛大なロールを挿入して、ラヴェルの作った軟弱なバランスを崩しにかかります。さらに、「カタコンブ」の冒頭には銅鑼の一撃が。これで、この曲のイメージはガラリと変わります。ラヴェルの西欧的な響きは、一瞬にしてロシアすらも飛び越え、東洋の世界に変わってしまうのですからね。この「銅鑼攻撃」は、その後の曲にも執拗にあらわれます。時には吊りシンバルも伴ったそのインパクトは、決してストコフスキー流のこけおどしではなかったはずです。
そして、最後の仕上げに登場するのが、バスドラムが作り出すポリリズムです。以前ゲルギエフ盤を聴いたときに初めて体験したそのリズムの冒険は、ラヴェルのオーケストレーションを逆手に取った見事なものでした。ここでのヤンソンスの処理にはその時ほどのショックを感じなかったのは、そこに行くまでの彼のやり方から、ある程度それが予想されたからなのかもしれません。
「展覧会の絵」全曲だけで33分、それがこのSACDのコンテンツの全てですが、その分価格が2割ほど安くなっています。この措置は、余計なカップリングを付けられるよりはるかに嬉しいものです。前回のブルックナーでは2枚組なのに1枚分の価格、そういう点では、このレーベルはとても良心的です。

SACD Artwork © Koninklijk Concertgebouworkest

11月23日

COLORaturaS
Diana Damrau(Sop)
Dan Ettinger/
Münchner Rundfunkorchester
VIRGIN/519313 2


ダムラウのソロアルバムには、毎回いろいろな面で楽しませてもらっています。今回はタイトルが「コロラトゥーラ」という、彼女が主に歌っている声のキャラクターを表す言葉ですが、その文字を色分け(+大文字)することによって、「COLORS」という言葉を浮き出す、という仕掛けになっています。もちろん、それによって「コロラトゥーラ」の語源が「カラー」だったことを認識させる、という意味も持っているのでしょうね。それに合わせたのでしょう、ジャケットを彩る彼女のドレスのなんとカラフルなことでしょう。こんな派手なパッチワークを楽々と着こなす彼女は、なんだかそんなニューヨーカーである「SATC」のヒロイン、キャリー・ブラッドショーに似てません?
そんなカラフルな歌声を、今回も彼女は存分に聴かせてくれています。前2作では、モーツァルトやサリエリを歌っていたので、バックのオーケストラも小編成の地味なものでしたが、今回は、ベル・カントやヴェリスモ、さらにはミュージカルまで含まれているという選曲ですから、オケもフル編成、しかも日頃オペレッタなどをやり慣れているミュンヘン放送交響楽団というのも、嬉しいところです。
ダン・エティンガーの指揮するそのオーケストラは、そんな期待通りの役割を演じてくれています。1曲目、グノーの「ロメオとジュリエット」からの「Ah, je veux,vivre 私は生きたいの」で、まずカラフルなサウンドを印象づけてくれますよ。続く「リゴレット」の「Caro nome 慕わしい人の名は」のフルートの前奏も粋ですねぇ。とにかく、このオケが前奏で歌を導くのがうまいのには舌を巻きます。ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」のロジーナのアリア、「Una voce poco fa 今の歌声は」などでの、ワクワクするようなイントロの扱いはどうでしょう。そして、そこに入ってくるダムラウの絶妙のタイミング。それから先の、ダムラウの計算され尽くした奔放さにピッタリ寄り添うオケは、まさに絶品です。というか、そんなオケに乗せられれば、彼女に怖いものなどありません。常々感じていた彼女のクレバーさは全開となります。
そんな「賢さ」が端的に感じられるのが、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」の有名なアリア「O mio babbino caro 私のお父さん」ではないでしょうか。この人気アリアは、「ソプラノ歌手」(それがどんなランクのものであっても)のソロアルバムには必ずと言っていいほど登場する「名曲」、とても甘いメロディを持っていますから、そんな「ソプラノ」たちはめいっぱい甘ったるく歌うことを心がけているようです。2番目のフレーズに出てくるオクターブ跳躍などはその聴かせどころ、限りないポルタメントをかけてとろけるように歌ってくれているものです。でも、一度でもこのオペラを「見た」ことがあれば、この歌がそんなベタベタに甘いものではないことはすぐ分かるはず、なんたってこの曲は「財産がもらえなかったら、死んでやるんだから(かなり強引な意訳)」という、いわば「脅し」の歌なのですから、このダムラウの演奏を聴けば、そんな「ソプラノ」たちの勘違いがいっぺんに分かってしまいます。
ダムラウはドイツ人ですが、彼女の歌う英語の歌詞には、ドイツ訛りは全く感じられません。バーンスタインのミュージカル「キャンディード」の、とてもミュージカルとは思えない技巧的(まさに「コロラトゥーラ」)なクネゴンデのナンバー「Glitter and be gay 着飾って浮かれましょ」では、ハイノート(C♯?)も楽々とこなし、まさにネイティブそのもののきれいなことばを披露してくれています。「♪笑って〜、笑って〜/笑ってキャンディード」って(それは「キャンディキャンディ」)。
彼女は、すでにここで歌っているツェルビネッタもレパートリーになっているのだそうです。芝居も上手な彼女ですから、「ナクソス島のアリアドネ」での映像も、ぜひ見てみたいものです。

CD Artwork © EMI Records Ltd/Virgin Classics

11月21日

The Catalogue
Kraftwerk
KLINGKLANG/KLANGBOX 002 50999 9 67506 2 9


ビートルズの全アルバムのデジタルリマスターに続いて、「クラフトヴェルク」(いわゆる「クラフトワーク」)の1974年から2003年までの間にリリースされた8枚のアルバムのリマスター盤が、ジャケットデザインも一新されて発売になりました。それらを一括してお求めになると大幅な値引きになるものですから(国内盤は除外とさせて頂きます)、ついボックスセットで買ってしまいましたよ。
荷物が届いたときにはびっくりしました。そのボックスは、まさにヴァイナル盤と同じ大きさと重さだったのですからね。確かに、今回のリマスターではヴァイナル盤も同時に発売になっていますが、一応CDだと思って注文したはずなのに・・・。
しかし、その、まるでお歳暮の調味料セットのような豪華な箱を開けてみると、ヴァイナル盤の大きさだったのは厚いブックレットだけでしたので、一安心、8枚分のブックレットが、さらに箱に入っていましたよ。肝心のCDは、一番底の穴の中に、2枚ずつ紙ジャケに入って収められています。その紙ジャケには中袋があって、それにはオリジナルジャケットに近いものが印刷されていました。

ご存じのように、「クラフトヴェルク」というのは、ビートルズが解散した年である1970年にラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダーという二人のドイツ人の音楽家が結成したユニットです。彼らが演奏するシンセサイザーやヴォコーダーのほかに、さらに2人のパーカッションのメンバーを加えて、現在もまだ現役で活躍しています。しかし、つい最近創立メンバーの一人のフローリアンが脱退したというニュースが伝えられていますので、この先はどうなることでしょう。なんせ、これまでのアルバムは、すべてこの二人の共同プロデュースですからね。
8枚の内訳は、「Autobahn (1974)」、「Radio-Activity (1975)」、「Trans-Europe Express (1977)」、「The Man Machine (1978)」、「Computer World (1981)」、「Techno Pop」(Electric Cafe (1986)を改題)、「The Mix (1991)」、「Tour de France (2003)」という、いずれも一つの時代を作ったと言える作品ばかりです。なんと言っても「テクノ」のパイオニア、彼らが音楽シーンに与えた影響ははかりしれません。ビートルズの13アイテムのアルバム以上に、これらの8枚(そのうちの1枚、「The Mix」は、事実上のベスト盤ですが)はかけがえのないものです。
ということで、今まで買おうと思いながらなかなか機会がなかった彼らのアルバムをほぼ全部手に入れられただけでとても満足しているところですが、やはり「デジタルリマスター」というのが売り物のようですから、どれほどのものなのかは確かめてみる必要はあるでしょう。さいわい、手元には「TEE」のヴァイナル盤(CAPITOL国内盤)がありますので、比較してみましょうか。

しかし、残念なことに、というか、予想通りですが、ここでも、いかに最新のリマスターの結果であっても、到底ヴァイナル盤をしのぐ音になることはありませんでした。いくら「テクノ」とはいえ、録音自体はアナログですし、中には「生」楽器も使われています。タイトル曲の後半で、アルバム用に付け加えられた「Metal on Metal」という曲が切れ目なく続きますが、そこで出てくる文字通り金属を叩いている音などは、ヴァイナル盤の音のリアルさはCDの比ではありません。シンセのパルス音にしても、なにか暖かみのようなものが感じられるのですから、不思議です。
最後の「Tour de France 」には、かなり前にリリースされた同じタイトルのシングル曲が収められています。それがヒットしていた頃、そのテーマ(→音源)がヒンデミットのフルートソナタの第1楽章のテーマ(→音源)とそっくりだったのに驚いたことを思い出しました。今聴いてみるとキーまで同じ、フローリアンはフルーティストだったそうですから、無意識に聴きなれたメロディを使ったのか、もしかしたらそんなマイナーな曲は誰も知らないだろうとパクったのか、どちらかなのでしょうね。それは、ちょっと下品でみっともないことです。

CD Artwork © Kling Klang Produkt

11月19日

BACH
Mass in B Minor
Judith Nelson, Julianne Baird(Sop), Jeffrey Dooley(CT)
Frank Hoffmeister(Ten), Jan Oplach(Bas)
Joshua Rifkin/
The Bach Ensemble
TOWER RECORDS/WQCC-184/5


「バッハの『ロ短調ミサ』では、合唱のパートはそれぞれ一人ずつで歌うべきだ!」という「奇論」を発表しただけでなく、それを実際に自ら演奏して世に問うた、という、ジョシュア・リフキンの歴史的な録音は、長いこと廃盤になっていて入手できませんでしたが、このたびタワーレコードによる「復刻」という形でリイシューされました。もちろん、現在ではこの主張はバッハ業界には広く受け入れられるところとなっているのはご存じの通りです。この数年の間に録音されたクイケンミンコフスキの演奏を聴けば、合唱はアリアなどを歌っていたソリストが一人(もしくは二人)で一パートを歌うということが、ごく自然なものに感じられるはずです。
さらに最近では、「OVPP」などというプラスティックスの新品種(LPレコードの素材である「PVDC(ポリ塩化ビニリデン)」とか、ペットボトルの「PETE(ポリエチレンテレフタレート)」と似てません?)みたいな呼び名で、この概念をあらわすことも、マニアの間ではブームとなっています。しかし、この「One Voice per Part」の略語が、決してリフキン自身の造語ではないことは知っておく必要があるでしょう。
リフキンが、単なる「音楽学者」ではなかったことは、先日のビートルズのカバー(?)アルバムを聴けば良く分かるはずです。そもそも、彼の名前が知られるようになったのは、スコット・ジョプリンの「ラグタイム」を、彼自身のピアノ演奏で広く世に知らしめたからなのですからね。したがって、彼はこの「説」を発表したのちも、単なる机上の空論に終わらせることはせず、実際に演奏してその「音」を世間に知らせるために、軽やかなフットワークを発揮することになります。学会で発表したのが198111月ですが、なんとその年の1231日には、このレコーディングを開始しているのですから、なんという素早さでしょう。そして、発売されたレコードは、彼の思惑通り大きなセンセーションを巻き起こすことになるのです。
そんな、ある時代を記録した貴重なアイテムではありますが、その演奏を改めて全曲きちんと聴いてみると、なんとも主張に乏しいものであることに驚いてしまいます。いや、なんと言っても「一パート一人」というとんでもない「主張」があるのですからそれで満足すればよいのでしょうが、それだけで終わってしまっているのがとても残念です。ただ楽譜通りの音をきちんと並べただけで、そこには「表現」という創造的な作業が見事に欠落しているのですね。
その「楽譜」に関しても、ちょっとちぐはぐな点を見つけてしまって、いささか戸惑っているところです。リフキンほどの「音楽学者」であれば、演奏にあたっては当然きちんと校訂の手が入っている「原典版」を使っているはずだ、と思っていたのですが、ここで使われているのはなんと「旧バッハ全集」を底本にした楽譜なのですよ。聴いてすぐ分かる両者の違いは、「Gloria」の冒頭の合唱の後半、「Et in terra pax hominibus bonae voluntatis」で始まる5声のフーガで、赤字の部分のテキストに付けられた音符。「旧全集」は八分音符+八分音符(→音源)と均等ですが、「原典版」では付点八分音符+十六分音符(→音源)と「はずんで」います。「原典版」がベーレンライターから出版されたのは1954年のことですから、知らなかったはずはありません。現に、1960年代にはすでにマウエルスベルガーとドレスデン・クロイツコールによって、この楽譜による演奏が録音されてますし。「バッハの時代の演奏を忠実に再現」しようとしたのがリフキンの仕事だったはずなのに、明らかに忠実さに欠ける楽譜を使っていたなんて、なんだか間抜けじゃないですか。
ちなみに、この録音が公になった直後、1984年に彼の「説」に賛同して同じ曲を同じスタイルで録音したアンドルー・パロットも、なぜか「原典版」を使うことはありませんでした。もしかしたら、「新全集」に対する反感、というのも、リフキンの思想だったのかも。でもそれは、あまりに理不尽

CD Artwork © Nonesuch Records

11月17日

基礎から学ぶみんなのリコーダー 楽しくウェルネス!
吉澤実・市江雅芳編著
音楽之友社刊
ISBN978-4-276-64503-5

今まで、「音楽でウェルネスを手に入れる」2007年秋)、「声楽家と医学博士が贈る歌の処方箋」2008年秋)と、ほぼ1年ごとに新作を発表していた市江雅芳さんが、やはり1年のインターバルを経て3冊目の書籍を刊行されました。今回はリコーダー奏者の吉澤実さんとの共著で、リコーダーの入門書です。
リコーダーという楽器、もちろんバロック時代あたりに大流行した管楽器(当時は横笛のフルートより人気がありました)ですが、この国ではもっぱら小学生が最初に手にする楽器、として知られていましたね。最近でこそきちんと「リコーダー」と呼ばれるようになりましたが、かつては「たて笛」、あるいはもっと昔には商品名をそのまま使って「スペリオパイプ」と呼ばれていたものです。世界的なフルーティストの工藤重典さんが、小学校の時に地元の放送局のジュニアオーケストラのオーディションに、この楽器で応募したというのは有名な話です。なんとユニークな。彼は決して紋切り型(それは「ステレオタイプ」)ではなかったのですね。
そんな教育的な楽器としてではなく、きちんとしたピリオド楽器として認知されるようになったのはごく最近のこと、若きフランス・ブリュッヘンあたりが華々しくシーンに登場したあたりでしょうか。その時に初めて、この楽器が小学校の「鼓笛隊」とは次元の違う豊かな音楽性を持っていることに気づいた人は多かったはずです。
吉澤さんたちは、そんな、かつて音楽の授業時間にこの楽器に親しんだ人たちに、改めて「趣味」の対象としてリコーダーを演奏してもらおうと考えたのでしょう。現在放送中(11月いっぱい)のNHK教育テレビの大人向け習い事番組「趣味悠々」では、「リコーダーで奏でる懐かしのオールディーズ」と題して、そのような人たちが親しんだ曲を教材に用いた基礎的なレッスンを行っています。

それは、かつてプラスティックス製の「たて笛」に慣れ親しんだ中高年の人たちに、新たにきちんとした木製の楽器を購入してもらい、この楽器の本格的な魅力に触れてもらおうとする楽器店との思惑とも合致して、ある種の「ブーム」が巻き起こる予感すら感じられるものです。現に、さる楽器店では、この講座のテキストとリコーダーを大々的にディスプレイ、手ぐすねを引いてお客さんを待ち受けていますよ。
そして、そのテキストに、市江さんは前作と同様に、医者として、あるいは演奏家としての立場からエッセイを寄せていました。今回の書籍は、そのテキストの延長のような位置づけでしょうか。本編ではリコーダーの基礎的な知識から、全く初めての人でも始められるような奏法の基本がていねいに述べられています。そのための練習曲も、全部で31曲も用意されていますよ。その中にはアンサンブルの楽譜もたくさん収録されているのが嬉しいところです。
そこに、市江さんのエッセイ、「ドクター市江のウェルネス・コラム」の登場です。専門用語を交えながら、まず、リコーダーの要求する適度の息の量は、呼吸機能を活性化させること、さらに、この楽器のための2種類の運指(リコーダーの場合、ホルンやクラリネットのように調の異なる同族楽器のために「移調」した楽譜を使うことはなく、F管であるアルトリコーダーやバスリコーダーでは、4度下の運指を使って実音を出します)では指に指令を与えるために脳が活性化、そして、なんと言っても、アンサンブルでお互いに聴きあってハーモニーを作るというのは「聴覚フィードバック」という高度な作業になるわけで、さらなる脳の活性化につながることなどが、平易に語られます。
それで分かるとおり、リコーダーの演奏は、特に中高年にとっては「ウェルネス」の格好のツール、ここはひとつ、業者に踊らされたフリをして挑戦してみてはいかがでしょうか。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp

11月15日

BACH
Brandenburg Concertos
Kati Debretzeni(Vn)
John Eliot Gardiner/
English Baroque Soloists
SDG/SDG 707


ガーディナーの長年の手兵、合唱部門はモンテヴェルディ合唱団ですが、オーケストラではこのイングリッシュ・バロック・ソロイスツでしょう。いつもはカンタータの伴奏などで合唱団をサポートしている彼らの、いわばソロ・ステージとして「ブランデンブルク」を演奏した、記録です。そう、これはそんなコンサートのライブ・レコーディングという、良くある形ではあるのですが、そのようなときに「本番前」に録っておいたものを予備のテイクにするのではなく、「本番後」にさらに録音セッションを組んで問題があったところを修正していたようですね。単なる「ライブもどき」とはひと味違う、もっと前向きの良心が感じられる録音のやり方だとは思いませんか?
録音はパリの「シテ・ド・ラ・ミュジク」という、かなり広い空間(5番以外)と、ロンドンの「キャドガン・ホール」というこぢんまりとしたホール(5番)の2箇所の会場で行われていますが、その違いはほとんど分からないほどなのは、エンジニアの腕でしょうか。というより、ここでは会場全体のアコースティックスではなく、個々の楽器の音をきちんと録るという姿勢をとっているようですから、それほど場所の影響がなかったのかもしれません。その結果、コンマスのデブレッツェーニの弾くバロック・ヴァイオリンの音は、オリジナルと言われて思い浮かべるような軽やかな音色ではなく、もっと芯のある、言ってみれば素材の木材の年輪まで感じることが出来るような骨太のものになっています。チェンバロも、まるでモダンチェンバロかと思ってしまうような強靱な響きです。
演奏は、どの曲もしっかりとした同じポリシーが感じられるものでした。それは、とても生き生きとしたリズムと、自発的な表情です。それが、単にリハーサルで指揮者が要求したものを忠実に再現しているというものではなく、すべてのメンバーが共有しているものが自然に現れているというのが、ちょっとすごいところです。この件に関しては、先ほどのデブレッツェーニがライナーに執筆している文章によって具体的に知ることが出来ます。ずっと継続されているバッハのカンタータなどの演奏を通じて、ガーディナーとメンバーとは「バッハに関する同じ言語」を語れるようになっている、というのです。その基本は「ダンスとリズム」だと。さらに、ほとんど室内楽と言っていい3番から6番ではガーディナーはメンバーに演奏を任せ、大編成の1、2番だけ指揮をしていたのだそうです。それでも1番でのホルンのとびっきりのけたたましさなどは「放任」していたのでしょうね。
興味深いのは、2番や4番でリコーダーを演奏している人が、別の曲ではフルート(トラヴェルソ)やオーボエを演奏している、ということです。いや、トラヴェルシストやオーボイストが、リコーダーを「持ち替え」ている、と言った方が正しいのかもしれません。もちろんバッハの時代ではごく普通に行われていたこんな「持ち替え」も、現代の「オリジナル楽器」のシーンではほとんど実現されることはありませんでしたが(そういう点では、エッカルト・ハウプトのようなモダン楽器業界の人の方が進んでいたのかもしれませんね)、やっとそういう面での「オリジナル」を意識し始めたのでしょうか。その結果、4番でのリコーダーのデュオは、専門のリコーディストにありがちなちょっとひねりをきかせてものではなく、いともシンプルで爽やかなものになりました。その中で流れるようなソロを聴かせるヴァイオリンは、まさに軽やかな「ダンス」そのものざんす

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd

11月13日

MOZART
Requiem
Ruth Ziesak(Sop), Monica Groop(Alt)
Thomas Cooley(Ten), Thomas Laske(Bas)
Karl-Friedrich Beringer/
Windsbacher Knabenchor
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
SONY/88697574752


このCDのジャケットには、曲のタイトルが「Requiem in D Minor, K.626(Unfinished)」と書かれていましたよ。長年この曲を聴いてきましたが、「未完成」という「副題」が付けられていたのには初めてお目にかかれました。いや、確かにこれは盲点でしたね。これからはこの曲を「未完成鎮魂曲」と呼ぶことにしましょうか。
もちろん、その後にはしっかり「Completed by F. X. Süssmayr」と続きますので、そんな「未完成」なものをそのまま演奏しているのではないことは分かります。しかし、確かネットで見たメーカーのインフォでは、このCDは「バイヤー版」である、と明記されていたはず、大半はその版であることが購入の動機だったのに、実際に手にしてみたらジュスマイヤー版だったのですから、ちょっとだまされた気がします(どうきてくれる!)。こういうメーカーのインフォ、「素晴らしい演奏!」みたいな主観的な感想は決して鵜呑みにすることはありませんが、こんな基本的な情報が間違っているのはなんともお粗末な話です。いや、そもそもそんなものを信用すること自体が、大きな間違いなのでしょうがね。これは、どのメーカー(代理店)にも言えること、とても情けない現状です。さる代理店では、毎月リリースされる膨大な量の新譜のインフォを、たった一人の人が書いているのだとか、それではまともなものなど出来るわけはありませんね。
と、商品を扱っている人はまともではありませんが、このCDの演奏自体はなかなか「素晴らしい」ものでした。歌っているのがウィンズバッハ少年合唱団、女声パートを少年が歌い、男声パートはたぶん声変わりしたOBの男声が歌っているという「混声合唱団」です。1946年にハンス・タムによって創られたこの合唱団は、1978年に現在のベリンガーが指揮者を引き継ぎ、その体制はすでに30年以上経過しているのだそうです。そんな長い時間をかけて彼が築き上げたものは、しっかりとした表現力をもつ少年パートでした。ここで聴くことの出来るそのパートは、音色や音程は幾分拙さが残るものの、音楽を表現する力に於いては大人の合唱団にひけをとらないものがあります。特に、「Kyrie」のフーガや、続く「Dies irae」のような切迫したシーンでのテンションの高さには圧倒されてしまいます。指揮者の指示なのでしょう、フーガのテーマのアクセントの付け方などはちょっと不自然な形になっているものを、彼らは見事に必然性のある表現として歌いきっています。ただ、その分だけ「成人」に対しては要求が甘かったのか、あるいは彼らはもはや少年の頃のような集中力は持てなくなっているのか、同じフーガの出だしがなんともいい加減になっているのには笑えます。
その「少年」も、おそらく綿々と歌い上げる、といったような場面ではやや力が不足していることを、指揮者は認識しているのでしょうか、「Lacrimosa」あたりは敢えて「お涙」を排したイケイケの音楽として作ろうとしています。結果的にはそれは大成功、決して湿っぽくならない、硬質な表現で心を打たれるものが出来あがりました。
Recordare」冒頭のチェロを聴けば分かるように、ベルリン・ドイツ交響楽団のメンバーも、渾身の仕事をしています。どのパートもしっかり自分の役割を主体的に演じていることが良く分かる好演です。なんと言っても、合唱と一緒に盛り上げるときのハイテンションはさすが。
Kyrie」の再現である終曲のフーガ「Cum sanctis tuis」の最後(つまり、曲全体の最後)では、ベリンガーはちょっとした味付けを行っています。オーケストラは最後の小節の頭だけを演奏したあとはフェイド・アウト、その後は無伴奏の合唱だけが響いている、という、ちょっとショッキングなシーンを作ったのです。そこで現れる「声」だけの空虚五度の美しいこと。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

11月11日

LANG
The Little Match Girl Passion
Paul Hillier/
Theatre of Voices
Ars Nova Copenhagen
HARMONIA MUNDI/HMU 807496(hybrid SACD)


1957年生まれのアメリカの作曲家、デヴィッド・ラングの最近の合唱作品を集めたアルバムです。カーネギー・ホールの委嘱によって、ここで演奏しているヒリヤーとシアター・オブ・ヴォイセズのために作られたのが、タイトル・チューンの「マッチ売りの少女」という、演奏時間が35分の大作です。緑色のソフトクリームを売っている女の子の話ですね(それは、「抹茶売りの少女」)。いや、もちろん有名なアンデルセンの童話が元になっている作品なのですが、その童話に、なんとバッハの「マタイ受難曲」を合体させた、というのが、この曲の最大のセールス・ポイントとなっています。ともに「救済」というテーマは共通しているものの、なんともすごいことを思いついたものです。
とは言っても、その「合体」は音楽的な面ではなく、主にテキストについてだけのことのように思われます。なにしろ、最初の曲が「Come, daughter」で始まるのですからね。もちろん最後の曲も「We sit and cry」です。言い忘れましたが、この曲は全体が英語の歌詞、したがってバッハの中で使われていたピカンダーのドイツ語の歌詞も、英訳されたものを用いています。ですから、ブックレットにはフランス語とドイツ語の対訳が載っているのですが、その「ドイツ語訳」はピカンダー→英語→ドイツ語という手順を踏んだものになっていて、元のものとは微妙に異なっているのが笑えます。終曲だと「Wir setzen uns mit Tränen nieder/Und rufen dir im Grabe zu」という歌い出しだったものが、ここでは「Wie sitzen und weinen/Und rufen dir zu」となっている、といった感じです。
そんな曲に挟まれて、本体はレシタティーヴォ風の部分とアリア風の部分が交代に演奏されていきます。そのレシタティーヴォで使われているのが、「マッチ売りの少女」の物語、そして、アリアにはやはりマタイで用いられたテキストが歌われます。
と、外観的にはまさに「マタイ」の形をそのまま踏襲しているように見えますが、音楽的にはバッハとはほとんど共通したところのない、おそらく現在の「現代音楽」の主流を占めているようなサウンドが広がります。それは、耳には極めて心地よい、基本的に同じ音型の繰り返しから成る音楽、少し前なら「ミニマル」という範疇に収められていたようなものでした。作曲家で言えば、アルヴォ・ペルトあたりに非常によく似たテイストでしょうか。なんでも、ラングという人は初期の作品ではかなり刺激的で、強烈なリズムを強調したような作風だったようですが、そんなところにもペルトとの類似性を見ることが出来ます。いや、若い頃は「前衛」的な手法で暴れ回っていても、次第に穏健で耳に優しい音楽に変わっていく(変えていく)というのは、今の殆どの「現代」作曲家のたどる道なのかもしれません。
しかし、この曲の場合には、テキストの扱い方がとてもユニーク。小さな言葉の断片を多層的に組み上げて、不思議なテクスチャーを作り出しているのが一つの魅力として迫ってきます。そう感じられたのは、言葉が英語によるものだったせいなのかもしれません。
打楽器やグロッケンを演奏しながら歌っている4人のシアター・オブ・ヴォイセズのメンバーは、とても透明感のある声で、そんな繊細なテクスチャーを表現しています。彼女たちの声そのものの魅力は、この作品の空虚な本質を、もしかしたら覆い隠してくれているのかもしれません。
後半では、やはりヒリヤーが音楽監督を務めているアルス・ノヴァ・コペンハーゲンが加わって、もう少し厚い響きを聴かせてくれています。ただ、このコラボレーションが必ずしも良い結果を生み出してはいないと感じられるのは、同じ指揮者による合唱団でも、この二つの団体は目指すものがかなり異なっているせいなのでしょうか。

SACD Artwork © Harmonia Mundi USA

11月9日

Les Chefs-d'Oeuvre de la Musique Sacrée
Various Artists
HARMONIA MUNDI/HMX 2908304.33


「宗教音楽の主要な作品」というタイトルの、30枚組のCDボックスです。その名の通り、5世紀頃に歌われていた聖歌から、20世紀に作られた「ミサ」という名のシアターピースまで網羅されているという、まさに合唱ファン待望のアイテムです。なんと言ってもお値段が6900円、一枚あたり230円ですよ。それも、SONYなどが最近派手に出している、大昔の録音を集めたものではなく、殆どが1980年台以降、デジタル録音によるものなのですから、たまりません。つい最近リリースされたばかりの2008年録音のデュリュフレのレクイエムなどというものまで入っていますよ。

ボックスのパッケージ自体は、普通の字体でただタイトルが書いてあるだけというなんとも素っ気ないものでした。しかし、中を開けてみてびっくり、CDが入った紙ジャケには、それぞれ全く別の楽しい絵が印刷されているではありませんか。いや、「楽しい」というのはちょっと不謹慎、実はよく見てみるとキリストの磔刑などが描かれていますから、これはもっとシリアスな内容を持っているものなのでしょう。そして、それはどうやら、ブックレットの表紙にある絵の一部分を抜き出したもののようですね。この絵は15世紀フランドルの画家ハンス・メムリンクという人が描いた「受難」という作品なのだそうです。テーマはともかくその絵のいたるところで聖書に描かれたキリストの「受難」の模様に出会えるという、不思議な絵ですね。

これを見て、「もしや」と思い、CDのジャケットを番号順に並べてみました。予想通り、これはきっちり横6枚×縦5枚に、元の絵を分割したものだったのですね。上にある字は、次の列を重ねると見えなくなるような工夫までされていますよ。もうCDを聴かなくても、こんな手の込んだ装丁だけで嬉しくなってしまいます。

中身は、このレーベルのすでに定評のあるものが目白押し、それらは、単なる「名演」というのではない、独特のこだわりを持ったものばかりです。例えば、ヘレヴェッヘによるフォーレの「レクイエム」は、ネクトゥー・ドラージュ版による最初の録音、初めてこれを聴いたときにはこの曲に対する印象が全く変わってしまったという思い出があります。アンサンブル・クレマン・ジャヌカンのジョスカンなども、さるエラい先生がカンカンになって怒ったという「不真面目」な演奏ですしね。そんな風に、ほとんどはすでに耳にしているものだと思っていたのですが、実際に手にしてみると、特に古い音楽についてはまだまだ聴き漏らしていたものがたくさん残っていました。それらを、少しずつ時間を作って聴いていく楽しみが、これから待っています。
ただ、この紙ジャケが、上からCDを出し入れする、という形になっているのがちょっと気に入りません。かつてのLPのジャケットでは、中身は例外なく「横から」入れるように作られていたものです。これは、立てておいたときに埃が中に入らないように、という配慮があったためです。LPからCDになって、埃が再生に与える影響は格段に小さくなりました。しかし、だからといってこんな無防備な、そう、言ってみればパンツを履かないで大通りを歩いているようなジャケットには馴染めません。というか、いつの間にかそんなことを思いもしないような人がこういうものをデザインする時代になってしまっていたのですね。
もう一つ、明らかなミスがありました。30枚組といっても、最後の1枚は実は音楽CDではなく、歌詞の英独仏の対訳が掲載された3種類のPDFが入っているCD-ROMなのです。英語の場合全部で72ページにもなる膨大なものですが、そこではCD26に入っているブルックナーのモテットと、CD27に入っているプーランクのモテットとミサの歌詞が、ゴッソリと抜けています。

CD Artwork © Harmonia Mundi s. a.

11月7日

HANDEL
Messiah
Julia Doyle(Sip), Iestyn Davies(CT)
Allan Clayton(Ten), Andrew Foster-Williams(Bas)
Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA67800


ベートーヴェンの「第9」と同じように、ヘンデルの「メサイア」も合唱の付いたオーケストラ曲として日本では人気があります。どちらも、なにかの記念にとか、年末のおめでたいシーズンに盛り上がろうという機会に演奏されるのが良くあるパターンです。それはそれで結構なことではあるのですが、そういった場合の演奏というのは、概して水準が恐ろしく低くなってしまうというのが、ちょっと辛いところです。特に合唱パート。考えてみて下さい。「1000人」で「第9」や「メサイア」を演奏するのに、どれだけの意味があるというのでしょう。
という「悪しき体験」が根強くあるものですから、特に「メサイア」に関してはわざわざCDを買ってまで聴きたいとは思えませんでした。しかし、「第9」では、合唱がアンサンブルの一部としてしっかり機能しているような、作品の本質に迫るものもぼちぼち出始めていますので、このレイトン盤が出たのを機にきちんと聴き直してみることにしました。レンジで温めて(それは「冷凍」)。合唱は「ポリフォニー」、まず裏切られることはないだろうという期待を込めて。
それはまさに期待通りのものでした。あまりの面白さに、2時間15分という長丁場を一気に聴き通してしまいましたよ。ちゃんとした演奏で聴けば、これはとてつもなくドラマティックで、聴きどころ満載の曲なのだということを確認できたという、嬉しい体験でした。
合唱はまず予想したとおり、ほんの30人ほどの少人数にもかかわらず、いや、少人数だからこそ絶妙のニュアンスまで表現してくれていて、とても刺激的でした。フーガのテーマなど、凡庸な合唱で聴くとなんとも陳腐なものにしか思えないのに、実際はこれほどまでに面白い「ツボ」が潜んでいたことに、各所で驚くばかり。第2部の最初のあたりにある「All we like sheep have gone astray」などは、初めて聴いたような気がするコンパクトな歌い方、とても新鮮な驚きです。そして、この団体のお家芸のとんでもないダイナミック・レンジの広さ。それがフル・スロットルで迫ってくると、まさに圧倒される思いです。
ソリストたちもとても様式感のはっきりした人たちが集められています。最初に出てくるテノールのクレイトンは、とても端正でしかも伸びのあるきれいな声の上に、細かいメリスマものなんの破綻もないという、この時代のオラトリオには理想的な人です。次の登場者、バスのフォスター=ウィリアムスも、やや大げさな歌い方が気になるものの、決してやりすぎることはありません。カウンターテナーのデイヴィスは、かつてはこの合唱団のメンバーだった人(過去のメンバー表を見て気が付いたのですが、エリン・マナハン・トーマスなども参加していたことがあるのですね)ですから、アンサンブルにも長けています。第1部の最後にあるアリア「He shall feed his flock like a shepherd」は絶品。そして、最後に出てくるソプラノのドイルの素晴らしいこと。声といいテクニックといい、全く欠点が見あたりません。
さらに、オーケストラが、モダンでありながら完璧にノン・ビブラートでの表現をマスターしているという、ちょっとすごいことになっています。彼らのノン・ビブラートは、某シュトゥットガルト放送交響楽団が、指揮者の命令でイヤイヤやっているのとはまさに別次元、あちらが「ピュア」と言っているのはいったい何なのか、というほどの、正真正銘「ピュア」な響きが味わえます。ですから、最後の最後、「Amen」では、まず無伴奏の合唱がいきなりレガートでフーガを始めるというパンチを食らったあとで、このノン・ビブラートの弦楽器のフーガで2発目のパンチ、その直後のびっくりするようなハイテンションのトゥッティが3発目、それで終わりかと思えば、その先にはさらに4発目のサプライズが待っているのですから、完全に「叩きのめされ」てしまいます。

CD Artwork © Hyperion Records Ltd

おとといのおやぢに会える、か。


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