よい子。.... 佐久間學

(11/2/5-11/2/24)

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2月24日

指揮者の仕事術
伊東乾著
光文社刊(光文社新書501)
ISBN978-4-334-03604-1

著者の伊東さんという方、初めて名前を知ったのですが、なんだかものすごい人のようですね。まず、出身大学が東大の大学院、しかも博士課程というのですからね。なおかつ、専攻が物理学ですって。それだけで充分研究者として生きていけるはずなのに、彼は敢えて作曲や指揮への道を目指すことになります。そして、今ではそんな音楽家への夢を叶えたあげくに、母校では、新たに設けられた「東京大学大学院情報学環・作曲=指揮・情報詩学研究室」の准教授に就任しているのですからね。いやいや、そんなことで驚いていてはいけません。彼はなんと、作曲では「出光音楽賞」、音楽以外の著作では「開高健ノンフィクション賞」などという、それぞれの分野では最高の権威とされているものまで受賞しているという、すごさなのですから、なんとも多才な方なのですね。奥さんは一人なのでしょうが(それは「多妻」)。
そんな伊東さんの、これは初めてとなる音楽をテーマにした本です。満を持して、というか、最も得意な分野のことを述べるのですから、書きたいことがあとからあとからわき出てくる、といった感じの、真に中身の濃い、我々にとっても読みどころ満載のものに仕上がっているのではないでしょうか。
まず、タイトルにもあるような、「指揮者とはどういうことをやっているのか」という点について、まさに現場の人間ならではの明快な説明が語られます。それは、ありがちな精神的なものではなく、あくまで「科学的」に納得できるような語り口ですから、面白いように理解できます。おそらく、プロ、アマを問わず、実際にオーケストラに参加している人間であれば、誰しも「うん、確かにそうだね」とうなずいてしまうはずです。その中で、あのブーレーズの指揮の姿をコンピューターで解析しているコーナーが、ひときわ興味を引きます。一見、淡々と振っているようでいて、実は非常に精密な、情報量の多い指揮であることがよく理解できます。
さらに、伊東さん自身の、指揮者としての修業時代の話が圧巻です。1990年に初めて札幌で行われた「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」でバーンスタインが来日したときには、武満徹監修の雑誌の編集に携わっていた伊東さんは、彼の全てのリハーサルを見学したり、長時間の独占インタビューを行ったりしていたそうなのですね。その直後にバーンスタインは亡くなってしまうのですから、そのあたりの筆致はとてもドラマティック、本当にこんなことがあったのか、と思ってしまうほどです。
指揮者として必要なことが、テキストに関する理解だ、という流れで、突然ベートーヴェンの「第9」のテキストの、「真の意味」について語られている部分は、かなり衝撃的な内容です。明らかな誤訳がまかり通っているために、ベートーヴェンが真に訴えたいこととはかなりゆがめられた形で、特に日本では演奏されているというのですね。この主張には、かなりの説得力があります。一見ノーテンキなお祭り騒ぎの曲のように思えてしまいますが、実はこんな深遠な意味があったのですね。もちろん、この「伊東説」を支持するも無視するも、それは読者の自由です。
最後に、この「第9」を蘇演したワーグナーについて、熱く語られます。「トリスタン」のアナリーゼから、バイロイトの音響的な特徴まで、つぶさに述べる中から、「指揮者」の理想的な姿を浮き上がらせよう、という手法です。ワーグナーが嫌いな人でも、その「リーダーシップ」には、思わず納得させられてしまうことでしょう。
そんな「リーダーシップ」が、経営者にとっても重要なのだ、という、恐ろしくありきたりな「まとめ」さえなかったら、この本は安っぽいビジネス書に終わることなく、卓越した音楽書としての価値を持ったに違いありません。

Book Artwork © Kobunsha Co., Ltd.

2月22日

BACH
B Minor Mass
Catherine Backhouse(Sop), Clint van der Linde(Alt)
Ben Johnson(Ten), Colin Campbell, Håkan Vramsmo(Bas)
Ralph Allwood/
Rudolfus Choir, Southern Sinfonia
SIGNUM/SIGCD218


最近、バッハの「ロ短調ミサ」の「新しい」楽譜の出版が相次いでいます。1つは前にもご紹介した、ジョシュア・リフキン校訂のブライトコプフ版。これは、2006年に刊行されていますので、すでにこれを用いた録音なども発表されていましたね。そして、もう一つ、ベーレンライターから昨年刊行された「新バッハ全集改訂版」です。半世紀以上にわたって続けられてきたこのバッハの「原典版」の出版事業はひとまず終了しましたが、その中にはいまいちその成果に問題があったものもあったようで、それらを再度校訂して、より完成度の高い「原典版」を出版しようというプロジェクトが、引き続きベーレンライターで始まったそうなのです。その第1弾として刊行されたのが「ロ短調」でした。なんせ、フリードリッヒ・スメントによる「原典版」が出版されたのが1954年ですから、当時に比べれば研究の精度は格段に上がっているでしょうし(今回は、X線を使って使われているインクを判別したのだとか)、何よりもリフキンなどの仕事によって「原典版」としての地位が危なくなっていることに危機感を抱いたのでしょうね。今回のウーヴェ・ヴォルフの校訂によって、その地位は守られた、というのが出版社の言い分です。

でも、ごらんのように、スメント版もヴォルフ版も装丁が全く同じ、表紙を開いて初めて「改訂版」だと分かるというのは、ちょっと問題ですね。まだ店頭にはスメント版も残っているのでしょうから、間違って買ってしまう人が出てくるのでは、というのは老婆心でしょうか。
CDとして最も新しいものである2010年リリースの今回の「ロ短調」では、まだヴォルフ版は使われてはいないようでした。なぜか録音された日にちがどこを見ても書いてないのですが、普通に考えれば、録音された時にはまだこの楽譜は出版されていないはずですし。
演奏しているのは、ロドルフス・クワイアという、初めて聴くことになる団体です。なんでも、メンバーは16歳から25歳までに限られているそうで、それを過ぎると「卒業」してしまうのでしょうね。30人以上いる「普通の」合唱団ですから、リフキンのようにソロを歌ったりはしません。
オーケストラの「サザン・シンフォニア」は、以前リュッティさんざん聴いたときにはモダン楽器を演奏していましたが、ここではオリジナル楽器を使っています。両方とも弾ける人が集まっているのか、曲の時代によってメンバーを変えているのか、それは分かりません。ただ、この「ロ短調」でのオケの響きは、かなりモダンな感じを受けるものでした。フルートはもちろんトラヴェルソなのですが、密度の高い音質と、アグレッシブな演奏からは、この楽器の持つ「鄙びた」情感は殆ど感じられません。大活躍しているトランペットも、ナチュラル管にしてはあまりに輝きがありすぎるような気がします。
肝心の合唱ですが、予想していたとおり、「若い」というよりは「幼い」声だったのには、がっかりです。歌い方が、まるで日本の中学生のようにだらしないのですよね。まあ、ハーモニーはそこそこきちんと響かせているので、「ハモり」のセンスはいいのでしょうが、これがポリフォニーになると、たちまち馬脚をあらわしてしまいます。メリスマの歌い方がまるでダメ、これではバッハは歌えません。「Gloria」の最後、「Cum Sancto Spiritu」なんか惨めですよ。オケのスピードに全く付いていけないモタモタした歌い方をしていると思ったら、175小節のソプラノの入りのあたりで、ついに指揮者が全体のテンポを落としてしまいましたよ。これは別にライブでもなんでもなく、録り直しのきくセッション録音のはず、こんなものを商品にしていいと思っているのでしょうか。

CD Artwork © Signum Records

2月20日

音楽で人は輝くー愛と対立のクラシック
樋口裕一著
集英社刊(集英社新書
0577F
ISBN978-4-08-720577-0

クラシック音楽の「通」を自認する樋口さんの、最新作です。彼は、「通」が嵩じて、あのフランスのナントが発祥の地である「ラ・フォル・ジュルネ」の、なんと、アンバサダー(それが、どのような職種なのかは不明ですが)まで務めている、というのですから、すごいものです。その「ラ」(そんな略し方は・・・)の今年のテーマが後期ロマン派なのだとか、それで、そのタイアップなのでしょうか、この本ではそんな時代のクラシック音楽が、その時に活躍していた作曲家同士の「対立」と、「愛」を通して描かれています。これはなかなか面白い視点、まさに「通」ならではのお仕事ですね。
「対立」というのは、あまりにも有名なこの時代の音楽の2大潮流間の争いのことです。かたやワーグナーを代表とするいわば「標題音楽」の陣営と、かたやブラームスに代表される「絶対音楽」の陣営との、ほかの作曲家や評論家を巻き込んでの大論争について、その萌芽はベートーヴェンあたりからすでにあったのだ、という視点で、長いスパンにわたっての対立の様相がつぶさに語られます。この本で一つ特徴的なのは、それぞれの項目で一区切りついた時に、「ポイント」という段落が付いていることです。ここまでのお話の「まとめ」をやってくれるという、心憎いばかりの配慮です。本文をきちんと読んでいれば、そんなものは必要ないのでしょうが、なにかと忙しい現代人にとっては、あるいはここを読むだけで内容が分かってしまうという、とても親切な扱いですね。まさに「ハウツー本」の鑑。ただ、中にはあまりに要約してしまっているために、せっかく本文の中でていねいに語られていうことがほとんど伝わらない、という場合もあるので、注意が必要です。というか、そんな要約だったらそもそも必要ないのでは、と思ってしまうのですが、それが読者に対するサービスだという信念には、逆らうわけにはいきません。
ただ、なぜか最後の「新ウィーン楽派」についてだけは、この「ポイント」が付けられていないのが、気になります。本文が3ページもないので、ことさら要約することもないとの判断だったのでしょうが、それまでの潔い「言い切り」がここだけ読めないのはちょっとさびしい気もします。ただ、この件に関しての著者の文章は、それまでのものに比べるとなにか切れ味がありません。おそらく著者は、この、シェーンベルク一派に対してどのようなスタンスを取るべきか、正確には、どのようなスタンスを取れば、それまでの記述と整合性を持つことが出来るのか、という点に関してあまり自信が持てていないのではないか、という気がするのですが、どんなものでしょうか。少なくとも、「新ウィーン楽派の人々が始めた試みは、今なお続いているとみなすべきだろう」という認識は、あまりにも楽天的すぎます。
もう一つのテーマは「愛」ですね。ここに登場する作曲家たちが寄せた女性への想いの諸相が、まるで週刊誌のようなスキャンダラスさで語られるのは、なかなか興味深い試みです。作曲家に限らず、芸術に携わる者の創作のモチヴェーションが、女性(もちろん、男性も)によって大きく左右されるという真実を見事に描いています。
そして、巻末には、著者お勧めの後期ロマン派の名曲が紹介されています。作曲家の人となりとその作品の両面から迫るというこの周到な構成も、やはり著者の配慮の賜物でしょう。それでこその「アンバサダー」です。なにしろウェーベルンの「弦楽四重奏のための5つの断章」を「現代音楽が最後にたどり着いた地点」と言い切っているのですから、おのずとこの本の読者層は特定されてしまいます。これはそういうレベルの「配慮」が行き届いた「ハウツー本」、それ以上でもそれ以下でもありません。

Book Artwork © Shueisha Inc.

2月18日

OTTE
Das Buch der Klänge
Ralph van Raat(Pf)
NAXOS/8.572444


ハンス・オッテというドイツの現代作曲家の最も有名な作品、「響きの書」の新しい録音です。この曲は、ゴダールの「21世紀の起源」という1999年に作られた映画のサントラに使われておって、それで一躍有名になったのだそうです。もっとも、シュトラウスの「ツァラ」のファンファーレのような分かりやすい曲ではなく、映画自体も「2001年」に比べたらはるかにマイナーなものですから、「有名になる」といっても多寡が知れていますがね。
1926年に生まれて2007年に亡くなったオッテは、小さい頃からピアノやオルガンの演奏に才能を示します。アメリカのエール大学でヒンデミットに作曲を師事した後、ドイツに帰ってからはワルター・ギーゼキングの生徒となり、ピアニスト、作曲家として活躍を始めます。さらに、1959年から1984年まで、ラジオ・ブレーメンにクラシック担当のディレクターとして招かれ、「プロ・ムジカ・ノヴァ」という音楽祭を創設して、ジョン・ケージやメシアンといった大御所や、当時台頭してきたテリー・ライリー、ラモンテ・ヤング、そしてスティーヴ・ライヒといった「ミニマリスト」たちを、ドイツの聴衆に初めて紹介したのです。
1979年から1984年にかけて作られた「響きの書」は、そんな「ミニマリスト」たちと共通のイディオムによって作られた12の部分から成るピアノ・ソロのための作品です。今までに、オッテ自身の演奏CELESTIAL HARMONIES)や、サントラに使われたヘンクのECM盤など、3種類以上の録音がありましたが、そこに2009年の最新録音が加わることになりました。
12の曲は、それぞれに特徴的なキャラクターをもっていて、あたかもオッテが出会った数々の作曲家へのオマージュのように感じられてしまいます。もちろん、基本となっているのは1曲目や5曲目に見られるようなライヒの語法の延長線上にあるものでしょう。細かいパターンを幾層にも重ね合わせた結果、モアレのように見えてくる風景を楽しむ、という趣向ですね。ただ、オッテの場合は、ライヒのような無機的な風景ではなく、もっと色彩的な移ろいが感じられるものに仕上がっています。それは、まさにライヒの語法によるメシアンの持つカラフルな世界の培養でした。それは、10曲目のまるで光のきらめきのようなシーンを経て、最後の12曲目の、もはやメシアンそのもののような、「色」を持つアコードの連続という一つの生命体となるのです。
一方で、ひたすら単音にこだわった3曲目などには、リゲティの「ムジカ・リチェルカータ」の投影を見ることは出来ないでしょうか。8曲目では、ソステヌート・ペダルで引き延ばされた音をバックグラウンドにして、メシアン的なテンション・コードと、リゲティ的なクラスターが交互に出現する、というワクワクするような試みも披露されます。
かと思うと、黒鍵だけで単旋律を演奏する6曲目などからは、グレゴリアン・チャントの影すらも感じられてしまいます。似たようなドビュッシー的なモーダルの世界も、あちこちに発見できることでしょう。
ある意味「ミニマル」が到達した、一つの豊穣、しかし、それをとことん味わうためには、押し寄せる猛烈な睡魔との戦いも必要になってきます。もちろん、それはペルトやタヴナーにはお馴染みの試練ですね。
楽譜を見たわけではないので断言は出来ませんが、それこそケージの音楽のように、繰り返しなどにはかなり演奏家に任される部分があるのではないでしょうか。オッテ自身の演奏に比べると、オランダの新鋭ファン・ラートは、時折全く別のことをやっていたりします。1曲目などは、一瞬他の曲では、と思ってしまいましたよ。さらに彼の場合、ビートに微妙な伸び縮みがあって、そこから生まれるグルーヴには独特の魅力が感じられます。このあたりが、「後出し」の特権なのでしょうね。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

2月16日

Enola Quintet Plays Yellow Magic Orchestra
Enola Quintet
PALM TREE/XQJU-1001


普段はCDなどはもっぱらネット通販で購入していますから、あまりCDショップに立ち寄ることはありません。ニュー・リリースの情報には事欠きませんし、何より在庫の豊富さからいったら街のショップに勝ち目はありませんからね。それでも、なにかの折にひょっこりパルコの7階あたりにあるそんなお店に行ってみると、品数は少ないものの、実際の「物体」として目の前に陳列されているCDを見ることの楽しみに、ふと気づかされるものです。もはや、絶滅寸前品種、もしかしたら数年後には姿を消してしまっているかも知れないそんな風景を慈しむ時には、ちょっぴり感傷に浸ったりするものです。
最近のそんなお店では、もはやクラシック専用のブースなどといった贅沢なものはなく、「イージーリスニング」や「ジャズ」のコーナーと同居しているのが当たり前の姿です。ですから、クラシックの棚の前でCDを物色している時にも、BGMにジャズの新譜がかかっている、などというケースもあり得ます。まあ、それはそれで新鮮な体験ではありますが。
そんな時に何気なく聴き流していた「音」が、突然意味を持ち始めることがあります。その時流れていたのは、なんか、どこかで聴いたことのある曲、軽いボサ・ノヴァ風のリズムに乗ったピアノが奏でているのは、どうやらバカラックのようですね。とてもすんなり入ってくる心地よいメロディ、なかなかセンスのよいアレンジだな、と思ってしばらく聴いていると、ちょっとバカラックとは違うのでは、という気がしてきました。しかし、曲自体は間違いなくよく聴いていた、ほら、あれですよ、あれ・・・あれっ?これはもしかしたら・・・。
というわけで、思い出したのは全く「ジャズ」には縁のないはずの、YMOの「テクノポリス」だったのですよ。いやあ、これは盲点をつかれた感じです。なんという斬新なアプローチなのでしょう。あの、まさに「テクノ」の草分けとも言うべき近未来の衣装をまとったギンギンの機械的な音楽を、こんなけだるくアダルトな「午後のまどろみ」的なものに変貌させてしまうなんて。
これは思いがけない収穫だと思い、当然売り場にCDがあるのだろうとジャズの棚を探したら、売り切れてしまったのでしょうか、確かに目立つPOPで飾られたスペースはあったものの、そこには現物はありませんでした。残念ですね、ストアプレイを聴いてせっかく買う気になったお客さんがいるというのに、これではなんにもなりません。このようにして、怠惰なショップは、ネット通販に客を奪われてしまうのです。
数日後手元に届いたアルバムには、全部で9曲のYMOのカバーが収められていました。演奏しているのが「エノラ・クインテット」というギタリストの村山光国がリーダーを務めるジャズ・ユニットです。焼肉とは関係ありません(それは「エバラ」)。ただ、ここではギターは加わらないピアノの草間信一を中心にしたトリオ、そこにたまにボーカルの長谷川碧が入るという編成です。それがなぜ「クインテット」なのかは、永遠の謎。ただ、村山はコーラスで参加していますから、それで5人?あるいは、ベースとドラムスがダブル・キャストなので、「インストは総勢5人」なのでしょうか。
正直、アルバム全体ではそれほどのインパクトは感じられませんでした。「テクノポリス」でのラテン・フレーバー満載の天倉正敬のドラムスは、最初に聴いたような「大人の」味を出しているのですが、「ライディーン」で演奏しているもう一人、まるでスティーブ・ガッドのようなフュージョンっぽいドラムスの吉田太郎だと、あまりに当たり前すぎて。この曲こそ、天倉のまったりとしたドラムスで聴いてみたかったのに。
それと、やはりYMOはインストで聴きたいものです。ボーカルははっきり言ってジャマ。あと、「エノラ」というユニット名に嫌悪感を抱いてしまうのは、世代の違いでしょうか。

CD Artwork © Palm Tree Music Co., Ltd.

2月14日

音楽の366日話題事典
朝川博・水島昭男著
東京堂出版刊
ISBN978-4-490-10792-0

このような、1年間の全てにわたって、何月何日がどういう日に当たっているか、ということをジャンル別に集めた雑学集のような本はいろいろありますね。これは「音楽編」、ということで、音楽に関するネタが集まってます。だいたい、こういうものはいかにもノウハウ本といった安っぽさがつきまとうものですが、この本はまず装丁が立派、一読しただけで、そんなあまたの「365日」ものとは一線を画したていねいな作られ方が感じられます。おっと、これは「366日」でしたね。しっかりうるう年まで含められていたのでした。それだけでも、普通のものより「1日」お得です。
その、「1日」多い2月29日は、ロッシーニの誕生日でした。これは、わりと有名なことなのでそれほどのインパクトはないのですが、その次の3月1日が「マーチの日」だったというのは、初めて知りました。確かに、3月は「March」ですからね。さらに、そこで語られる、「マーチ」にちなんだ話題の中で、「軍艦マーチ」というのが扱われているのが、ちょっと目をひきます。それこそスーザあたりを出すのが王道なのでしょうが(スーザは別のところで登場していたざんす)、よりによってこんなひねった曲を持ってくるとは。なんか、このあたりにこの本をまとめた、ともに「団塊」世代のお二人のしたたかさのようなものを感じてしまいます。
あくまで「音楽」というジャンルでまとめてはありますが、それが「クラシック音楽」に限定されていない、という視野の広さも、好感の持てるところです。その話題は多岐にわたり、ビートルズやエルヴィスなどのポップスは言うに及ばず、日本の古典芸能(本当の意味での「邦楽」)までも扱われているという、フットワークの軽さです。そして、その中でひときわ目をひくのが、「唱歌」とか「童謡」の周辺の話題の豊富さです。もちろん、その中には「唱歌」を産んだ明治初期の教育制度についての言及も多く含まれます。もしかしたら、このあたりの、もはやかなり風化している日本の音楽教育の歴史をもう一度見直してもらいたいというような願望が、著者たちにこの本を作らせたのでは、とさえ思ってしまう程の、それは物量的な迫力を持つものでした。
例えば、「8月12日」などは、「『祝日大祭日歌詞並楽譜』公示」なのだそうです。雑学と言うにはあまりにマニアックなアイテムですが、そこで語られている「君が代」についての記述は、穏やかな中にも何か強い意志が感じられるものです。かと思うと、2月12日の、「たきび」という童謡を作った作詞家の巽聖歌(たつみせいか)の誕生日では、この曲に対する「軍部のヒステリックな」バッシングが語られます。別に、そこで触れられているわけではないのですが、これは今だったら「えせエコ運動家によるバッシング」と置き換えられるのでは、と勝手な想像をふくらますのも、一興です。「『学習指導要領』(試案)発表」(3月20日)と、「『教育基本法』施行」(3月31日)という、似通ったテーマを繰り返すというしつこさも、熟読すると著者の強い思いが伝わってきます。
まあ、そんな「お堅い」話題だけではなく、もっと気楽に味わえる雑学も満載ですよ。8月1日は中田喜直の誕生日なのだそうですが、それにちなんで彼が新聞に投稿した過激な批評によって巻き起こった論争のことが語られているのには、「やっぱり」と思ってしまいました。それと同じ時期に、彼は音楽雑誌でクセナキスのことをボロクソにこき下ろしていたのですね。当然クセナキス擁護派からの反論も同じ雑誌に掲載されたりして、なんとも低次元で不毛な論争に終始していたことを思い出したのです。
6月22日は、ピーター・ピアーズの誕生日。しかし、そこにブリテンとの関係を露骨に持ち出さないあたりは、なかなか慎み深い「大人」を感じさせられます。

Book Artwork © Tokyodo-Shuppan

2月11日

MAHLER
Symphony No.2
Kate Royal(Sop)
Magdalena Kozená(MS)
Simon Rattle/
Rundfunkchor Berlin(by Simon Halsey)
Berliner Philharmoniker
EMI/6 47363 2


樫本大進さんが、日本人としては2番目となる第1コンサートマスターのポストを射止めたベルリン・フィルは、やはりすごいオーケストラだと、つくづく思います。この前も、その樫本さんがコンマスの席に座っている去年の「ジルヴェスター」の映像を見ましたが、指揮のドゥダメルのやりたいことを瞬時に察知して、それを音にしている各セクションの力量に、すっかり感心してしまったところです。ただ、そんな中で、その時に乗っていたフルートのパユだけが、えらく異質に感じられたのは、なぜなのでしょう。このところ、ブラウの出番の映像ばかり見ていたせいなのでしょうが、パユの演奏には他のセクションには感じられる一本芯の通ったところがまるでなかったのですよ。なんか、目指しているものが、全く違うような思いに駆られてしまいました。ソロならばなかなかユニークなアプローチではあるのですが、それをオケの中でやられると、ちょっと、なんですね。カルメンの間奏曲は悲惨でした。
今回のラトルとの「復活」でも、フルートのトップはパユのようでした。何度か出てくるソロの感じが、まさに「ジルヴェスター」と同じですから、たぶん間違いはないでしょう。これが録音されたのは去年の10月ですから、ほぼ同時期になるわけですね。なにしろ、ソロのテンポ感が、ことごとくラトルに逆らったもの、アンサンブルの中でフルートだけが別の方向を向いているのがはっきり分かるのですよ。あんたのやりたいことはよく分かるけど、どうかもっと空気を読んでよ、といった感じですね。
もっとも、ラトルの音楽だって、そんなたいしたものではなかったのでしょうね。確かに、メリハリのきいた颯爽とした演奏ではあるのですが、それがマーラーかと言われると、ちょっとためらってしまうのです。あまりに整いすぎているんですね。かと思うと、なんだか余計なところに変な神経を使っているようで。第1楽章の最後などは、あんまり素っ気ないので、びっくりしてしまいました。
この曲の場合、個人的な興味はもっぱら最後の2つの楽章にありますから、「Urlicht」のアルト・ソロが、あまりに貧弱なのには、心底がっかりしてしまいます。音程は悪いし、ここで要求される「深さ」がまるで感じられないのですね。かといって、ラトルの場合コジェナー以外にこのパートを任せることはあり得ませんから、こじぇな(これは)困ったものです。
そうなってくると、あとは第5楽章の最後にだけ登場する合唱に期待するしかありません。このCDでは、この楽章を7つのトラックに分けているのですが、その切れ目がちょうどフルートとピッコロの掛け合い(ここでも、パユの最後の伸ばしのC♯の音がとてつもなく低いのが耳障り)が終わって、「神秘的に」合唱が入ってくるところになっていますから、その時間が良く分かります。それによると、合唱は最後の15分間しか出番がないのですね。しかもその間はずっと歌っているわけではありませんから、声を出しているのは実質8分半ぐらいではないでしょうか(小節数を数えてみました。293小節のうち、合唱が歌っているのは164小節、ほぼ56%でしたね)。1時間半の中の8分半!延々と待たされると思っていた「第9」などより、はるかに待たされたあげく出番の少ないのが、この曲の合唱だったのですね。
しかし、聴く方もそれだけ「待った」甲斐がありました。サイモン・ハルジーに率いられたこのベルリン放送合唱団は、まさに「真打ち」という貫禄を示してくれたのです。驚異的なのは、合唱が入る部分でのピアニシモから、最後、オルガンまで加わっての大音響の中でも決して存在感を失わないフォルテシモまで、常にコントロールのきいた繊細な音色で歌いきった、そのダイナミック・レンジの広さです。「終わりよければすべてよし」を地でいったような、素晴らしい合唱に、拍手。

(2/2追記)
ブログ版に「復活のフルートはブラウだ」という情報が寄せられました。ベルリン・フィルのフルート首席は、そろいもそろってダメになってしまったのでしょうか。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

2月9日

Lord
To Notice Such Things
Jon Lord(Pf)
Cormac Henry(Fl)
Clark Rundell/
Royal Liverpool Philharmonic Orchestra
AVIE/AV 2190


まるで、沈みかけた船から逃げ出すネズミのように、メジャー・レーベルが相次いでクラシックから手を引いているこのご時世、オーケストラの自主レーベルは、もはやなくてはならないものとなっていますが、このロイヤル・リヴァプール・フィルはかなり早い時期、もう1998年には自主レーベルを立ち上げていたそうです。ただ、流通にはこのAVIEレーベルを通している関係で、ジャケットを見ただけではオケのレーベルとは分からないような感じですね。同じAVIEのディストリビューションでも、サンフランシスコ交響楽団あたりはしっかり自分のレーベルと分かるようになっていますが。ただ、首席指揮者のペトレンコとのショスタコーヴィチ・ツィクルスなどはNAXOSからリリースされていますね。そのあたりの使い分けは、結構したたかなのかも知れません。
ロイヤル・リヴァプール・フィルというと、つい、同じ街出身のポール・マッカートニーが作曲した「リヴァプール・オラトリオ」を初演した団体というイメージがついて回ります。それ以降も、なにかとポップ・ミュージシャンがらみの「クラシック」に縁があるような気には、なりませんか?
今回は、ポールと同じ、イギリスのロックバンド出身のアーティスト、ジョン・ロードの作品、もちろん世界初録音です。ジョン・ロードというのは、殆ど「ヘビメタ」のバンドとして認知されている「ディープ・パープル」の1968年創立時からのキーボード担当のオリジナル・メンバーです。幾度となくメンバーチェンジを繰り返して来たこのバンドの中にあって、2002年に「引退」するまで、一貫してメンバーであり続けました。元々はクラシックの教育をきちんと受けた人で、バンドでも初期の頃は彼が主導権をとってほとんど「プログレ」とも言えるような前衛的な曲を多く提供していました。実際に、シンフォニー・オーケストラと共演したアルバムもありますね。ただ、バンド自体はギターのリッチー・ブラックモアがイニシアティブをとるようになって、より「ヘヴィー」な方向を目指すことになるのですが。
「引退」後、クラシックの世界へ戻ったロードの2枚目となる本作は、嬉しいことにフルートを大々的にフィーチャーしたものとなりました。タイトル曲「To Notice Such Things」は、「ソロ・フルート・ピアノと弦楽オーケストラのための組曲」というサブタイトルを持っていますが、ロード自身が演奏しているピアノは殆ど目立たず、実質的には6つの楽章から成る「フルート協奏曲」です。それぞれの楽章は、叙情的な風景が広がったかと思うと、そのあとには快活なダンスが現れる、といった、非常に分かりやすいキャラクターを持っていて、とても楽しめます。ソロ・フルートのパッセージも、最も美しく歌えるカンタービレや、目の覚めるような技巧の丈を存分に披露できるような、まさにこの楽器のことを知り尽くした書法が感じられるものです。和声も、ベタにロマンティック、ということはなく、適度に現代的な要素も加味されていて、退屈させられることは決してありません。
ソリストのコーマック・ヘンリーという、スパイスみたいな名前(それは「マコーミック」)の人は、2002年からこのオーケストラの首席奏者を務めている、アイルランド出身のフルーティストです。彼は、ロンドン交響楽団やアムステルダム・コンセルトヘボウなどの名門オケでも、ゲストに呼ばれてトップを吹くほどのキャリアを持っていますが、その、とても伸びのあるしなやかな音色と、的確な歌い方を聴いていると、そんな引っ張りだこぶりが納得させられます。
この曲以外にも、「Air on the Blue Strings」などで、彼のソロを聴くことが出来ます。そんな素晴らしいプレーヤーを得て、ロードの作品は、頭でっかちの「現代作曲家」からは絶対に得ることの出来ない、「クラシック音楽の喜び」を確かに伝えてくれています。

CD Artwork © Royal Liverpool Philharmonic

2月7日

BACH, J.C.
Mailänder Vesperpsalmen
Johanne Lunn(Sop), Elena Biscuola(Alt)
Georg Poplutz(Ten), Thomas E. Bauer(Bas)
Gerhard Jenemann/
Süddeutscher Kammerchor
Concerto Köln
CARUS/83.347


作曲家で、「親の後を継ぐ」というケースは、いつの時代にも見られます。今だったら宮川泰の息子の宮川彬良(本名は「晶」なんですってね。なんか、他人とは思えません)あたりでしょうか。晶少年は作曲家になることをみやがわなかった(いやがらなかった)のでしょうね。もちろん、いくら親子だと言っても、それぞれに教育を受けた環境や、時代が異なっていますから、出来上がった作品は全く別の個性を持つことになります。「シビレ節」の作曲家に、「マツケンサンバ」は作れません。
自身がすでに「世襲」の作曲家だったあの大バッハの息子たちも、多くの人が名のある作曲家として成功しています。しかし、当然のことながらその作品は父親とは全く別な個性を持つことになりました。大バッハが50歳の時に、年の差16歳の若き後妻アンナ・マグダレーナとの間に生まれた末子、ヨハン・クリスティアンあたりになると、もはや生きた時代の音楽の様式はすっかり変わっていますから、そこに父親の名残を見つけることはほとんど困難なことです。
1735年に生まれたヨハン・クリスティアン、最初は父親や異母兄のカール・フィリップ・エマニュエルなどから音楽教育を受けていましたが、「本場」イタリアで勉強したいという思いを捨てがたく、1754年にイタリアへ赴き、ボローニャで高名なマルティーニ神父の教えを受けることになります。この方には、後に、あのモーツァルトも教えを乞うていますね。
さらに彼は、バッハ家の宗教であったルター派のプロテスタントから、カトリックに改宗します。そして、1760年ごろにはミラノ大聖堂のオルガニストに就任するのです。その時期は、大聖堂で行われる礼拝のための音楽を集中的に作曲、その中の「晩課詩篇」と呼ばれるものが、このアルバムには収められています。
ちなみに、彼が宗教曲を作っていたのはミラノ時代だけのことで、そののちはイギリスにわたり、オペラ作曲家として大成功を収めることになるのですね。そして、イギリスを訪れたモーツァルトとも親交をむすび、その友情は生涯続くのでした。
そんな、さまざまな面でモーツァルトとの接点を持つヨハン・クリスティアンですが、彼のイタリア仕込みの音楽は、この21歳年下の友人に大きな影響を与えました。というより、さまざまな面でこの二人の作品の間に類似点を見出すのは、いとも容易なことです。これが世界初録音となる、ということは、初めて耳にしたほんの5分程度の1曲だけから成る「Domine ad adjuvandum」という、詩篇69をテキストにした作品のイントロを聴いただけで、ごく自然にそこからは「あ、モーツァルトだ」という思いがわき上がってくるのですからね。
したがって、それに続く、いずれもさまざまの編成で演奏される長大な3曲の詩篇と、1曲の「Magnificat」を聴いている間中、そこからはまさにモーツァルトと同じテイストを持つ、愉悦に満ちた屈託のない音楽を腹一杯味わうことが出来たのです。いや、もちろん、事情は全く逆で、この時代にイタリアで教育を受けた作曲家なら、誰しも持っていたであろう資質と趣味を、モーツァルトもしっかり備えていた、というだけのことなのでしょう。
ほんと、オルガンが奏でるちょっとしたソリスティックなフレーズなどは、そのまま「教会ソナタ」の中に見いだすことが出来ますし、木管楽器によるソリなども、まさに「ハ短調ミサ」そのものです。
ピリオド楽器によるオーケストラは、とてもいきいきとそんな「イタリア」の息吹を伝えてくれています。ソリストたちも、あくまで軽やかにコロラトゥーラを聴かせてくれます。ところが、肝心の合唱(「南ドイツ室内合唱団」ですが、某サイトでは「西ドイツ」となっていましたね)が、なんとも融通の利かない歌い方なのですね。これは、「いやしくもバッハと名の付く作曲家の曲が、こんなに軽やかではいかん」という、ドイツ人ならではの「偏見」のあらわれだったのでしょうか。

CD Artwork © Carus-Verlag

2月5日

IDENSTAM
Jukkaslåtar
Simon Marainen(yoik), Brita-Stina Sjaggo(Voc)
Sandra Marteleur(Vn), Thorbörn Jakobsson(Sax)
Janas Sjöblom(Perc), Gunnar Idenstam(Org)
BIS/SACD-1868(hybrid SACD)


フィンランドの作曲家マンティヤルヴィの合唱作品で、「Pseudo-Yoik」という曲があります。日本語では「ヨイクもどき」でしょうか。録音や、あるいは生の演奏でも聴いたことがありますが、複雑なリズムの中から、たくましいエネルギーが感じられるなかなか楽しい曲でした。そのタイトルにあるように、それは「ヨイク」を素材にした作品なのですが、「もどき」というのがちょっと微妙。いったい本物の「ヨイク」とはどんなものなのか、興味がわいてくるのは当然のことでしょう。いつかはちゃんとした「ヨイク」を、と思っていたら、こんなアルバムを見つけました。パーソネルの中に「ヨイク」とあったので、迷わずお取り寄せです。
あのマリー・クレール・アランにも師事したというスウェーデンのオルガニスト、グンナル・イデンスタムが作った「ユッカスヤルヴィの歌」という曲集、手にしたアルバムのこのジャケットには、わざとピントを甘くした写真が使われていました。なにか抽象的なイメージを表現しているのかな、と思ってしばらく眺めていると、なんだか「目」があるように思えてきました。そう、このつぶらな目の持ち主は、トナカイだったのですね。あの特徴的なツノも見えますね。こんなトナカイたちの故郷、スカンジナビア半島の北部、ラップランドに住むサーミ人の伝承歌が、この「ヨイク」です。今では少なくなってしまった「ヨイク」の歌い手(「ヨイカー」ですね)の一人が、ここに参加しているシモン・マライネンなのですね。2013年には来日するかも(「カモン・再来年」)。
その他のパーソネルは、もう一人のヴォーカルとヴァイオリン、サックス、打楽器、そして、作曲者のイデンスタム自身がオルガンと「録音素材」というクレジットで参加しています。いったい、どんなサウンドが繰り広げられるのでしょう。
最初に聴こえて来たのは、想像していた伝承曲のイメージとはまるで違った、いとも洗練された8ビートのポップス・チューンでした。基本的に、とても聴きやすい爽やかな曲調、その中に「ヨイク」のダミ声がフィーチャーされて、不思議なアクセントになっている、という感じです。
確かに、民族的な素材は使われているものの、このポップな仕上がりにはちょっと肩すかしを食らった感があったので、作曲者の経歴をもう一度確認してみると、イデンスタムという人はクラシックのオルガニストであると同時に、「フォーク・ミュージック」のアーティストでもあったのだそうですね。そして、この作品で目指したものは、民族音楽と「シンフォニック・ロック」の融合だというのです。ということは、まさにいにしえの「イエス」や「ELP」が拓いたジャンル、「プログレッシブ・ロック」を、ラップランドの土壌で産み出そうという試みだったのですね。思ってもみなかった展開ですが、これは現代ではある意味とても斬新な企てなのでは。なんだか、とってもいいものに出会えた、という気がします。
曲の中で描かれているのは、この地方の自然や、お祭りなどなのでしょう。軽快なダンスのバックで聞こえてくるのは、まるでストリート・オルガンのような鄙びたリード管、かと思うと、後半には春を迎える喜びが迫力たっぷりのフル・オルガンと、まさにプログレ、といわんばかりの豪快なドラムスの応酬で描かれます。
そんな中で、もう一人のやはりサーミ人である女性シンガーによって歌われる「こもりうた」は、サーミ語、スウェーデン語、フィンランド語という、この地方に住む民族のそれぞれの言語によるヴァージョンが用意されていて、その、とてもシンプルな、懐かしさを誘う曲調の中に確かなメッセージが込められています。
ここぞという時に聞こえてくるオルガンのペダルの重低音が、信じられないほどの音圧で迫ってきます。オーディオ的な興味も尽きない、とても楽しめるアルバムですよ。

SACD Artwork © BIS Records AB

おとといのおやぢに会える、か。


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