玄宗皇帝曲。.... 佐久間學

(10/5/10-5/28)

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5月28日

BACH
Mass in B Minor
Susan Hamilton, Cecilia Osmond(Sop)
Margot Oitzinger(Alt)
Thomas Hobbs(Ten), Matthew Brook(Bas)
John Butt/
Dunedin Consort & Players
LINN/CKD 354(hybrid SACD)


他の人が演奏しないような珍しい楽譜を探し出して、「世界で初めて」その音を録音に残すということを生きがいにしているジョン・バットとダンディン・コンソートですが、今回は「ジョシュア・リフキン校訂のロ短調ミサ」というものを引っ張り出してきました。もちろん、これも「世界初録音」にはなるのですが、この楽譜は2006年に出版界の大手ブライトコプフ&ヘルテルから出版されている、だれでも簡単に入手できるものですので、けっして「珍品」ではありません。

校訂者のリフキンと言えば、ミスドではなく(それは「ダスキン」)、それこそ「世界で初めて」ロ短調ミサの合唱パートをソリストだけで歌うことを提唱した人として、おそらく音楽史に名を残すことになるはずの人です。しかし、そんな「最先端」の研究成果を反映させた録音では、「編成」に関しては斬新であっても、肝心の楽譜そのものについては決して「最先端」ではなかったという、ある意味チグハグなところも見受けられましたね。しかし、今回の「原典版」は、そのあたりもきっちり吟味がされた、まさに「最先端」の成果と言えるはず、というのは、ライナーにあった自身も音楽学者であるバットの言葉です。そこで述べられているように、確かにここには、今までの「原典版」では見られなかった数々のユニークな見解が込められています。そのほんの一例が、「Domine Deus」でのオブリガート・フルートがソロではなく2本のユニゾンだ、というようなことでしょうか。そして、なんといっても外せないのが、「楽器編成」に記された「合唱のメンバーがソロも歌う」という、この一言でしょう。

しかし、リフキン自身の録音や、そのエピゴーネンであるパロット盤、あるいはクイケン盤では、「一パート一人」という金科玉条に忠実に従った「8人」のソリストによる演奏でしたが、ここではなんと「10人」のメンバーが用意されています。その内訳は5人の「ソリスト」と、5人の「リピエーノ」、つまり補強要員というもの、つまり、バットの見解としては、必ずしもすべての部分が一人だけで歌われたのではなく、必要に応じて複数が歌う場面もあったのではないか、ということなのですね。リフキンの楽譜を使いながら、その最大のセールスポイントにおいてリフキンに逆らっているのですから、これはなかなか痛快な事態です。「Crucifixus」も、なぜかリフキン版にはない繰り返しを行っていますし。
この、「リピエーノ付きOVPP」は、確かにリーズナブルな解決法であることは、この演奏を聴いて納得できます。たとえば、2番目の「Kyrie」では、なぜかソプラノパートだけはソプラノIとソプラノIIが一緒に歌うようになっています。ですから、これを全部「ソロ」で演奏すると、最後のソプラノが入ってきたところで、今までそれぞれのパートが一人で歌っていたものが二人になり、音色というか質感がガラッと変わってしまうのですね。もちろん、リピエーノが入った今回の演奏では、そんな違和感は全くありません。さらに、対位法的な部分での「ソロ」の明晰さと、トゥッティの部分での「リピエーノ付き」の重量感という対比も、この曲ではやはりあって欲しいという感は強まります。
ソリストたちは、全体に明るめの音色の持ち主で、軽やかな印象を与えてくれます。中でも出色なのがアルトのオイツィンガーとテノールのホッブスでしょう。しかし、肝心のソプラノ二人がかなりのビブラートをかけているのがちょっと残念です。バスのブルックも、ソロはともかく、「Et resurexit」での「合唱」の長大なパートソロは、一人で歌う必然性が全く感じられないほどの惨めな音程でした。
バットはこの録音に当たってリフキンその人とディスカッションを行ったと言いますが、それは一体どんなものだったのでしょうね。取っ組み合いのけんかになってたりして。

SACD Artwork © Linn Records

5月26日

ANDERSEN
Etudes ans Salon Music
Kyle Dzapo(Fl)
A. Matthew Mazzoni(Pf)
NAXOS/8.572277


デンマーク出身の「アンデルセン」さんと言えば、ふつうはあの童話作家、ハンス・クリスティアン・アンデルセンを思い出しますよね。もはや「アンデルセン」という言葉は、「人魚姫」の作家としての「記号」と化しています。ですから、フルートのために多くのエチュードを作ったぐらいのことでは、このヨアヒム・アンデルセンさんが多くの人に知られることはまずありません。せめて、あんこの入ったおせんべいでも作らないことには(それは「餡出る煎」)。
事実、フルートを勉強していて、型どおりアルテス、ケーラーと進んだ後に「アンデルセンをやってみましょう」と先生から告げられて奇異な感を抱いた人は少なくないはずです。先生としては、ついに弟子が基礎的な技術をマスターし、いよいよ次のより高い段階の課題に挑めるだけの力を付けたことを伝えるためにその名前を用いたのであって、不審に思われるよりも喜びに打ち震えることを期待していたというのに。そう、フルートのレッスンの現場というごく限られた世界の中では、「アンデルセン」という言葉は「上級者のためのエチュード」という「記号」だったのです。
そんなアンデルセンさんは、まずは卓越したフルーティストとして資料には登場します。彼は、あのベルリン・フィルが創設されたときのメンバーだったのですね。それだけではありません。18821017日というのが、その、現在では世界最高のオーケストラとなった団体が初めて公衆の前で演奏を行った日なのですが、その記念すべき設立記念演奏会で、アンデルセンさんはそのオーケストラをバックにフルート・ソロを披露しているのですよ。
その時に演奏された曲が、まずこのCDで紹介されている、というあたりが、なかなか粋な計らいです。演奏しているカイル・ツァポという人は、彼の伝記や作品目録なども出版しているという「アンデルセンおたく」ですから、それも当然のことでしょう。それは、サンクト・ペテルブルク音楽院の教授だったイタリア人作曲家チアルディが作った「ロシアの謝肉祭」という有名な(もちろん、フルート関係者の間では、ですが)変奏曲です。オリジナルはご当地の作曲家アレクサンドル・セロフが作ったオペラの中のテーマに、7つの技巧的な変奏を付けたものですが、おそらくアンデルセンさんはこの演奏会のために、そのテーマの前に長大な「カデンツァ」を挿入しました。現在ジムロックから出版されているピアノ伴奏の楽譜にも、このカデンツァは取り入れられており、特に「アンデルセンの」という注釈なしに演奏や録音がされているようです。ただ、今まで聴いたことのあるCDでは、このカデンツァは3分程度のものだったのが、今回は4分半という長いものですので、これが「完全版」なのかもしれませんね。
この時代、もうすでにベーム式の楽器は出回っていましたが、もちろんそれがすべてのフルート関係者の楽器になっていたわけではありません。アンデルセンさんも、そんな保守的な方、ですから、このカデンツァにしても、エチュードにしても、確かに華やかなフレーズ満載ではあっても、そんなに難しいという感じはしません。さらに、「ドン・ジョヴァンニによるファンタジー」というタイトルの「ポプリ」がここでは紹介されていますが、それはなんとも素朴な「名曲集」でした。しかも、この中には「フィガロ」の中の曲である「Non più andrai」までもが入っていますよ。確かに「ドン・ジョヴァンニ」の中でこのメロディが流れる場面はありますが、これはちょっと・・・。
もし、ここでのツァポ女史の演奏の精度がもう少しマシなものであったなら、そんな突っ込みはなかったのかもしれませんね。彼女のテクニックはそこそこなのに、細かいパッセージがあまりにもていねいなため、こういう曲ではぜひ味わいたいはずのスリル感が全くありませんし、何よりも音程が最悪なため、曲に浸ることすらできません。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

5月24日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Sinéad Mulhern(Sop), Carolin Masur(MS)
Dominik Wortig(Ten), Konstantin Wolff(Bar)
Emmanuel Krivine/
Choeur de Chambre les Éléments(J. Suhubiette)
La Chambre Philharmonique
NAÏVE/V 5202


ベートーヴェンの「第9」を小編成のオケとコーラスで演奏するという試みは、別に目新しいものではありません。オリジナル楽器の黎明期には例えばハノーヴァー・バンドあたりが「当時の編成に忠実」な形で録音を行っていました(NIMBUS/1988年)。ジョナサン・デル・マーの校訂による「ベーレンライター原典版」などは、その流れから生まれたものだったのでしょうが、刊行されるや否や、そんなマニアックな範疇にとどまることはなく、全世界のオーケストラのライブラリーとして取り入れられることになってしまいましたね。もちろん、ベートーヴェンはバッハとは違って、楽譜にコーラスの人数の指定などはしていませんでしたから(これは、もちろんジョークです。近々、そんな「リフキン校訂原典版」による「ロ短調ミサ」をご紹介出来るはず)、モダン・オケの標準的なサイズでこの楽譜を使った演奏も広く行われています。
そんな様々な演奏形態が提案されてきた中で話題になったのが、ヤルヴィとモダン楽器の室内オケとによる2008年の録音でした。そして、2009年になってオリジナル楽器の陣営から提案されたものが、この録音です。
今ではすっかりオリジナル系の指揮者として定着したクリヴィヌがとった編成は、ヤルヴィとほぼ同様のものでした。オケは「8型」、コーラスはさらに少なくなって32人しかいませんよ。
実は、このコーラスは、以前デュリュフレの「レクイエム」で素晴らしい演奏を聴かせてくれた、あの当時は名前も知らなかった指揮者に率いられた「レ・ゼレマン室内合唱団」という団体です。デュリュフレの時とは微妙に名前が変わっていますが、実体はほとんど同じものなのでしょう。それが「第9」を歌うというのですから、色んな意味での期待が高まります。
クリヴィヌの指揮の下、シャンブル・フィルはとても爽やかな演奏を繰り広げています。まるで、髪を洗ったあとのような(それは「シャンプー」)。いや、冗談ではなく、本当にそんな感じ、この「第9」からは、「音楽に於ける人類の偉大な遺産」みたいなかったるさは、微塵も感じることは出来ません。オリジナル楽器特有の、そして、それを取り入れた「ピリオド・アプローチ」ではお馴染みの、フレーズの最後を短くしてあっさり仕上げるという歌い方が、とても心地よいものに感じられます。
さらに、それぞれの楽器がとても主張を込めた存在感を示しているのも、そんな風通しの良い流れのせいなのでしょう。中でもティンパニは、今まで聞こえてこなかったようなフレーズまでがはっきり分かるほどの明晰さ、そのとてつもなくダイナミックなマレットさばきは、とてもエキサイティングです。4楽章のマーチで初めて出てくるバスドラムも、一瞬ティンパニと聞き間違えるほどの軽やかな音色で、ベーレンライター版特有の1オクターブ低いコントラファゴットと見事に溶け合っています。ただ、例の合唱を導き出すホルンの不規則なシンコペーションは、なぜか見事に「フツー」の形に変わっていましたね。やはり、ここはクリヴィヌの美意識とは相容れないものだったのでしょうか。
その楽章の合唱は、期待通りの素晴らしさでした。彼(彼女)等は、デュリュフレを演奏していたときと全く同じスタンスで「第9」に向き合っていたのです。あの透明で繊細な声で歌われるベートーヴェン、こんな美しいものが、この世にはあったのですね。そこには、力ずくで「すべての人は兄弟になりなさい!」と言い切るような威圧感は全くありません。「みんなが仲良くなれたらいいのにねえ」といったような優しささえ、感じることは出来ないでしょうか。誰一人として「叫んで」いない「第9」、おそらく、こんな素敵なものを目指す合唱団が、これからは出てくるのかも。ねっ、艦長(だれそれ?)。

CD Artwork © Naïve

5月22日

DVORÁK
Cello Concerto in A Major
Ramon Jaffé(Vc)
Daniel Raiskin/
Staatsorchester Rheinische Phiharmonie
CPO/777 461-2


ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」といえば、名曲中の名曲ですよね。というか、ギョーカイでは「ドボコン」というアタックNo.1みたいな(それは「スポコン」)言い方をするだけで、彼の他のピアノやヴァイオリンのための協奏曲をさしおいてチェロ協奏曲のことが思い出されるほど、この曲はドヴォルジャークと一体化しているのではないでしょうか。
しかし、あの曲は確かロ短調だったはず。しかし、このタイトルを見ると「イ長調」となっていますよ。てことは、別の曲?
そうなんです。ドヴォルジャークには、その、1895年に作られた有名な曲の他に、その30年前、彼がまだ24歳の美少年(笑)だった頃の1865年に完成したチェロ協奏曲があったのですよ。当時ドヴォルジャークは、国民歌劇場建設のための仮設劇場のオーケストラにヴィオラの団員として参加していたのですが、その仲間であったチェリスト、ルドヴィク・ペールの要請で、チェロ協奏曲を作曲しました。しかし、ペールはその曲を受け取った直後、その楽譜を持ったまたドイツに行ってしまいます。彼の手でこの協奏曲が演奏されることはありませんでしたし、ドヴォルジャーク自身も、それ以来この曲のことはすっかり忘れてしまったそうなのですね。
結局、1904年にペールは亡くなるのですが(ドヴォルジャークが亡くなった数ヵ月後!)そのときに、この自筆稿はロンドンの大英博物館に売却されることになります。その楽譜のオーケストラ・パートは、まだきちんとオーケストレーションがなされたものではなく、ピアノによるスケッチに、楽器の指示が入った程度のものだったのでしょうね。1929年に作曲者没後25年の記念事業の一環としてこの曲の「世界初演」がプラハで行われた時には、ピアノ伴奏の形で演奏されています。
きちんとオーケストレーションが施された形で「初演」されたのは、翌1930年のことでした。ただ、これは、オーケストラ譜を出版しようとしたブライトコプフ&ヘルテル社が、ギュンター・ラファエルという作曲家に依頼して作らせたバージョンによるものだったのですが、彼の編曲はいくつかのカットを施すなど、ドヴォルジャークのオリジナルからは少し隔たったものだったようですね。しかし、ハンス・ミュンヒ=ホランドのソロと、ジョージ・セルの指揮によってプラハで行われたこの演奏は、大成功を収めたそうです。
ドヴォルジャークが楽譜に残した指示に忠実に、さらに、作曲家の編曲様式をきちんと考慮した良心的なオーケストレーションは、1975年にヤルミル・ブルクハウザーによってなされました。このCDで演奏されているのは、もちろんその「ブルクハウザー版」です。
同じチェロ協奏曲とは言っても、この曲はのちの「ロ短調」とはまったく異なるテイストを持ったものでした。彼の初期の交響曲のように、そこにはドイツ・ロマン派の様式がきっちり反映されています。全3楽章を切れ目なく演奏するというプランも、それこそメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を思わせるものです。型どおりのソナタ形式にのっとった第1楽章では、その第1主題などは陳腐そのもののメロディでしかありません。ただ、それにつけられたハーモニーから、まっとうな「西洋音楽」からは少し外れた「翳り」のようなものが感じられるあたりは、間違いなくドヴォルジャークの個性の反映なのでしょう。そして、第2主題になると、やっと彼らしいメロディアスな一面が発揮されてきます。
独奏チェロの扱い方も、低音から高音までめまぐるしく駆け巡るといった「ロ短調」での激しさは、ここでは全く見られず、ひたすら、つつましやかに淡々と歌っているだけです。なにしろ、ソリストの技量を誇示するはずの「カデンツァ」は、第2楽章の最後にほんの少し設けられているだけなのですからね。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

5月20日

The History of European Choral Music
Eric Ericson/
Rundfunkchor Stockholm
Stockholmer Kammerchor
TOWER RECORDS/QIAG-50055/60


もはや入手が極めて難しくなってしまった音源の復刻に熱心に取り組んでいるタワー・レコードが、またしてもなんとも懐かしいアイテムを出してくれました。「合唱の神様」として広く知られていた(いや、まだご存命のはずですが)1913年生まれの合唱指揮者、エリック・エリクソンが、1968年から1975年にかけて手兵ストックホルム放送合唱団とストックホルム室内合唱団による演奏をEMIに録音したものです。元々はドイツのEMIである「ELECTROLA」によるローカルなプロダクションで、16世紀のタリスに始まって、その当時の「現代」であった20世紀の作曲家に至るまでの「5世紀」の合唱曲を網羅したという、壮大なアンソロジーです。もっとも、最も「若い」作曲家が1933年生まれのペンデレツキだったという、そんな時代の録音なのですが。
元々は何枚組のLPだったのかはわかりませんが、当時の東芝EMIから1972年に「芸術祭参加」として国内盤が出たときには、まだ全部の録音は終わってはいなくて、その中のドビュッシー以降の曲だけが3枚にまとめられて、譜例なども付いた超豪華ボックスとして発売されました。日本語タイトルは「20世紀のヨーロッパ合唱音楽」。ジャケットには「ヨーロッパ」がありませんが。

今回のCDのジャケットデザインは、その時の布張りのボックスのテクスチャーを再現したものなのでしょう。国内盤はそれっきり、残りの曲が発売されることはありませんでしたが、輸入盤では1994年に3枚組のCDボックスが2セット、それぞれ「Europäische Chormusik auf fünf Jahrhunderten」と「Virtuose Chormusik」というタイトルですべての曲がCD化されています。今回の復刻盤も、同じマスターによるものなのでしょう、そのヨーロッパ盤と同じコンピレーションになっています。

今回改めてそのラインナップを見渡してみると、エリクソンがレパートリーにしていた曲の幅広さには驚かされます。なんたって「5世紀」というスパンの作品が集められているのですからね。今のように、必ずしも「参考音源」が豊富に出回ってはいなかった時代ですから、当時の合唱関係者は、この録音をまさに「規範」として、練習に励んだことでしょう。事実、ドビュッシーの「シャルル・ドルレアンの3つの歌」やラヴェルの「3つの歌」などは、まさに理想的な演奏として、恰好の「お手本」になっていたはずです。
ただ、ラルス・エドルンド、ゴフレード・ペトラッシ、イルデブランド・ピッツェッティ、ラルス・ヨハン・ヴェルレなどという、現在ではほとんど顧みられない作曲家の作品が含まれているのが、なんとも「時代」を感じさせられるものではあります。
同じように、ここで聴かれるエリクソンのスタイルにもそんな「時代」の陰はつきまといます。おそらく、当時彼が合唱に求めたスタイルというものは、ロマン派近辺の音楽では充分にその格調の高さを誇ることが出来るものなのでしょう。しかし、もっと「古い」、あるいは「新しい」音楽に対しては、なんとも鈍重な印象を与えられてしまうのですよ。例えば、タリスの40声部のモテット「Spem in alium」は、昨今のスマートな演奏を聞き慣れた耳には、まさに野暮ったいものでしかありません。なんと言っても、それぞれのパートの声が、あらゆる意味で重すぎて、声部間の風通しがとても悪くなってしまっているのですね。
そして、「新しい」ほうでも、リゲティの「Lux aeterna」などでは、その粘着質の声には辟易とさせられます。そこからは、この曲にはぜひあって欲しい万華鏡のような輝きなどは、望むべくもありません。
合唱団自体が、この頃とは比較にならないほどの透明なソノリテを獲得しているのと同時に、エリクソンを軽く超えるだけの「神様」が世界中にうじゃうじゃいるようになったのが、今の世の中なのではないでしょうか。今や世界の合唱は、当時の水準をはるかにしのぐ高みに達していることを、この貴重な復刻盤は教えてくれています。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

5月18日

RAVEL
Boléro etc.
Georges Prêtre/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
WEITBLICK/SSS0111-2


2008年、2010年と、立て続けにあのウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの指揮者に指名されるという、いきなり晴れ舞台に登場した感のあるジョルジュ・プレートルですが、なんだか素性の怪しい音源なども出回っているようですね。
このCDも、放送局が演奏会を収録した「放送音源」をそのまま商品にした、という、普通は物故した「巨匠」の貴重な演奏の記録としてリリースされるパターンです。しかし、ここに収められている「展覧会の絵」、「ダフニスとクロエ第2組曲」、そして「ボレロ」という超有名曲は、いずれも今まで彼による録音がなかったというのですから、いくら怪しくても手を出さざるを得ないのでしょう。
まずは、200810月に、ベルリンのフィルハーモニーで録音された「展覧会の絵」です(他の曲も、ロケーションは一緒)。何よりも、「ちゃんとした」CDではまず聴くことの出来ない、盛大な会場のノイズが耳をつきます。放送局がセットしたマイクなのでしょうが、演奏よりも大きなレベルで、咳払いなどが録音されているなんて、いったいどんなところにマイクを立てたのでしょう。しかも、「テュイルリー」が終わったときには、はっきりとした叫び声のようなものが聞こえますよ。なんだか子どもが我慢できなくて大声を出したような感じ、いったいどんな客層を相手にしたものだったのでしょう。というか、こんなノイズだらけの演奏が初めてのCDなんて、あまりにもプレートルがかわいそう。
次の「ダフニス」は、2006年2月のライブ。こちらはまずはまともな客層だったようで、充分に演奏に浸れるだけの静寂は保たれているように思えます。そこから聞こえてくるラヴェルは、確かになかなかユニークなものでした。「パントマイム」で登場するフルートのドソロは、ちょっと普通では聴くことの出来ないほどの、入念な表情付けのなされたもの、このあたりが、プレートルの持ち味なのでしょう。これをやりすぎると、ウィンナ・ワルツのような悲惨な結果に終わるのでしょうが。
そして、問題は200110月に録音された「ボレロ」です。まずは、商品としてのCDではあり得ないようなとんでもないミス。最初に登場する1番フルートの前半のフレーズの最後「ドレミッファッレ〜ソ〜〜」の4番目の「ファ」の音が、抜けているのですよ。右手の中指を1本上げるだけなのに、なんでプロがこんなイージー・ミスを犯してしまったのでしょう。しかも、1番フルートのあとでボレロのリズムを刻み始める2番フルートまでが、2拍目の裏と3拍目の表をやはり抜かしてしまっているのですから、どうしようもありません。良心的な指揮者だったら、ここで演奏をやめて最初からやり直しているところですよ。
しかし、そんなミスも、ファゴットが2つ目のテーマを演奏し始めると、すっかり忘れてしまいます。このテーマの3小節目と7小節目を、ファゴット奏者はなんともダラダラと崩したリズムで吹いていたのですね(→音源)。正確には、十六分音符が連続しているところが、すべて八分音符の三連符という譜割りに変えられていたのですよ。その後でこの部分が出てくるときには、奏者が変わっても同じリズムになっているので、別にファゴット奏者が酔っぱらっていたわけではなく、プレートルがそのように指示をして吹かせていたことになるのですが、これはかなり異様です。木管全員が力を合わせて、一斉にこのリズムで吹いているのを聴くと、めまいをおぼえるほどですよ。「展覧会」は、原典版のピアノの音に変えたりしないで、きちんとラヴェルの楽譜通り演奏しているというのに、これはいったい何なのでしょう。
いずれにしても、こんなものはひっそりと闇ルートで入手するようなアイテムです。まっとうな市場でおおっぴらに売り買いされるようなものでは決してありません。本人も愁えとる

CD Artwork © Melisma Musikproduktion

5月16日

XENAKIS
Atrées etc.
Konstantin Simonovich/
Instrumental Ensemble of Contemporary Music, Paris
EMI/687674 2


今回、EMIの「20th Century Classics」というバジェット・コンピレーションのシリーズの一環としてリリースされたものの中に、こんなクセナキス編が入っていたのには、ちょっと驚いてしまいました。ペンデレツキあたりではかなりまとまったカタログを誇っていたのは知っていましたが、このレーベルがクセナキスを録音していたなんて、実は知らなかったものでして。
ご存じのように、EMIというレコード会社は、かつては独立していた様々な会社が次第に統合されて出来上がったものです。ですから、それぞれの会社(というか、レーベル)が個々に独立した企画で録音を行うということもしばしばありました。この、クセナキスの初期のアンサンブル作品を収めたアルバムも、フランスのEMIであったPathé Marconi1968年と1969年に制作したものだったのですね。ちなみに、Pathé Marconiはイギリスの「HMV(His Master's Voice)」と同じく、「ニッパー」のマークを使っていましたが、キャプションはフランス語で「La voix de son maitre」、つまり「VSM」だった、などということを知っている人はずいぶん少なくなりました。

ここに収録されている作品を作曲順に並べてみると、最も初期のものが1957年の「アコルリプシス」、そして1961年の「ヘルマ」に続いて、1962年の「ST/10-1080262」、「ST/4」、「モルシマ−アモルシマ」、「アトレ」、「ポラ・タ・ディナ」から、1965年の「ノモス・アルファ」、「アクラタ」まで、初期のクセナキスを語る上で欠かすことのできない名作のオンパレードではないですか。なんか、タイプしていても興奮してしまいますよ。というか、録音データからすると、これらのものはほとんどすべてが初めて録音されていたものなのではないでしょうか。確か、昔国内盤でも日本コロムビアの現代音楽シリーズの廉価盤LP(真っ黒なジャケットに、曲名だけが白く印刷されていたかっこいいデザイン)で一部が出ていたような。指揮者のシモノヴィッチ(下野竜也さんの芸名ではありません)という名前も、同じシリーズの高橋悠治がピアノを弾いていた「エオンタ」で記憶にあったものです。
その「エオンタ」は、LE CHANT DU MONDEからCD化されましたが、こちらのEMIの録音は、そんな断片的なものしか耳にしたことがなく、しかも、それには「EMI」というクレジットはありませんでしたから、その全貌(多分)がこんな風にCD化されたのはとても意義深いことなのではないでしょうか。
まず、「ヘルマ」に、1976年の高橋悠治(DENON)以前の録音があったということが、一つの驚きです。ここで演奏しているジョルジュ・プリュデルマシェール Georges Pludermacherという人は全くなじみがありませんが、この超絶技巧が要求される曲をここまでの完成度で演奏しているのは素晴らしいことです(いや、実は、この曲を楽譜通りに正確に演奏した録音などは存在しない、という説もあるのですが)。
そして、「声」が入っている作品、「ポラ・タ・ディナ」も、今回初めて聴くことが出来ました。「メロディ」とは無縁の音楽を構築したクセナキスですが、ここから聞こえてくる無垢な「歌」は、なんとも印象深い光を放っています。
この時期のクセナキスは、確率論や統計論を音楽を作る上で応用、その演算のためにコンピューターを使うという、きわめて斬新な方法をとっていました。その結果できあがった作品は、当然のことながら、それまでの音楽の流れからは完璧に遊離したものでした。弦楽器のグリッサンドが幾重にも絡み合う中から生まれてくる「混沌」が産み出す衝撃は、今でも色あせることはありません。今までの西洋音楽が、自然の中の秩序から音楽を作り上げたように、いわば「秩序」と同程度に存在しているはずの「無秩序」から作り出されたクセナキスの音楽、その、最も早い時期の彼の軌跡を、ここで存分に味わってみようではありませんか。信じられないほど良好な録音で。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

5月14日

BARTÓK, KODÁLY
Concertos for Orchestra
Rafael Frühbeck de Burgos/
London Symphony Orchestra
BRILLIANT/9169


バルトークの「管弦楽のための協奏曲」、いわゆる「オケコン」は、個人的には最近極めて身近な存在となっているので、新しいCDが出ればまずチェックするようになってしまっています。スキヤキにも欠かせませんし(それはイトコン)。今回のBRILLIANTなどは、コダーイの同名曲とのカップリングでほぼワンコインですから、なにはともあれお買い上げ。
もちろん、このレーベルですので、素性は怪しげなもの、それでも一応録音データが完備しているのはうれしいことです。ライセンス元が「Phoenix Music International」とあったのがちょっと「?」でしたが、どうやらここはCAPRICCIOの引受先のPHOENIXとは無関係のようで、レーベル的には「COLLINS」の音源なのだそうです。バルトークは1989年、コダーイは1990年の録音です。
そんな、使い回しの音源ですから、マスタリングもいい加減、なんとも平板な音であるのは、値段相応ということで、我慢するほかはありません。それでも、スコアではなく、1番フルートのパート譜を見ながら聴くという、「実用的」な用途には充分です。このフルート奏者が誰であるかは分かりませんが、確かなテクニックと、かなり存在感のある主張を秘めた人であることは、よくわかります。なんといってもチェックすべきは、第1楽章の最初に出てくる重要なテーマを提示するソロと、第4楽章の最後にあるカデンツァでしょう。1楽章のほうでは、フレーズの最後、三連符の下降音形にかなり意味を込めているのが印象的です。個人的には、ここはもっとあっさり処理してほしいところですが。4楽章のほうは、逆に最後の半音の上向音形のニュアンスが、なかなか味のあるものとなっています。
スコアと違って、パート譜だけで音を追っていくと、休んでいる間のカウントが分からなくなってしまうことがあります。たいていの指揮者は、どんな時でもテンポを揺らして表情を付けているので、同じテンポで数えているとずれてしまうのですね。しかし、ここでのフリューベック・デ・ブルゴスの指揮は、素直に数えていればなんなく同期出来るという分かりやすいものでした。逆に言えば、あまり煽ったり歌い込んだりせずに淡々とした表情を付けている、ということになるのでしょう。ただ、「演奏」を聴くときには、これはあまり面白いものにはならないのかもしれません。実際、複雑なリズムから生まれるはずの緊張感や躍動感などは、ほとんど味わうことは出来ませんでした。基本的にテンポが遅めというのも、譜面を追いかけるのは楽ですが、聴いていると退屈してしまう要因になるのでしょう。
カップリングのコダーイの作品は、同じ「オケコン」というタイトルでも、バルトークのものに比べたらはるかに低い知名度しかありません。もちろん、最初にこの「Concerto for Orchestra」、あるいは「Konzert für Orchester」という、かつてバロック時代に栄えた「コンチェルト・グロッソ」という形式を現代の機能的なオーケストラに置き換えた形式を提唱したのは、バルトークのこの曲が依頼主のボストン交響楽団によって初演された1944年より20年ほど前にこんなタイトルの曲を作ったパウル・ヒンデミットだと言われています。そこから始まった「オケコン」作りの伝統は、有名なところではルトスワフスキなどを経て、現代のスクロヴァチェフスキ(もちろん、あの指揮者)などに受け継がれています。日本人でも三善晃などが作っていますね。
コダーイの作品は、連続して演奏される4つの部分からなっている、20分に満たないあっさりとした曲です。作り方も、バルトークに比べたらはるかにあっさり、古典的な様式すら感じられます。おそらく、チェロ独奏で始まる2つ目の部分が最もキャッチーさを備えたものでしょう。甘く盛り上がるテーマを華麗に歌い上げている芸風こそは、フリューベック・デ・ブルゴスの真骨頂に思えます。

CD Artwork © Brilliant Classics

5月12日

RAVEL/Boléro
HONEGGER/Pacific 231
RIMSKY-KORSAKOV/Scheherazade
Piano Duo Trenkner-Speidel
MDG/330 1616-2


エヴェリンデ・トレンクナーとゾントラウト・シュパイデルという、ドイツの女性二人によるピアノ・デュオのアルバムです。言ってみれば、ドイツ版ラベック姉妹のようなものでしょうか。ただ、あちらはいくつになっても美しいままなのに、こちらのお二人はかなり崩れた容姿、ビジュアル的な訴求はちょっと難しいお年頃です。
ですから、彼女たちはレパートリーである意味勝負に出ているのでしょう。もうすでにこのレーベルから出ているアルバムはかなりの数に上っていますが、それらは他ではなかなか聴くことのできない堅実、というかマニアックなもので占められています。なんたって、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」や、いわゆる「管弦楽組曲」までもピアノ2台(あるいは4手)で弾こうというのですからね。さらに、マーラー(6番と7番、メンバーが一人別の人)やブルックナー(3番)の交響曲ですよ。すごすぎます。というか、こういう、いわば「試奏」のバージョンを、ふつうのコンサートで取り上げるという姿勢自体が、なんともユニークです。
今回取り上げているのも、リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」とオネゲルの「パシフィック231」、そしてラヴェルの「ボレロ」という、すべてフル編成のオーケストラで演奏してこその曲ばかり、はたして、4本の腕だけによるピアノの演奏で、どこまで魅力を引き出せることでしょう。
実は、「シェエラザード」については、以前も同じ楽譜で演奏されたものを取り上げていました。その時には、演奏者のスキルが作曲者自身の編曲の能力を超えてしまっていることが如実に分かってしまうような印象を持ってしまったものでした。リムスキー・コルサコフのこの曲は、オーケストレーションを施されないことには、なんとも魅力に乏しいことに、その時には思い知らされたのです。しかも、彼はピアノの演奏ではそれほどのものを持ってはいませんでしたし。しかし、今回の二人は、そんなスカスカな楽譜から、なんとも言えない味を出しているではありませんか。正直、この人達は年も年ですしそれほどキレの良いテクニックや、精密なアンサンブル能力があるわけでもありません。その代わり、楽譜の裏側に込められた情感を表現することにかけては、まさに年の功、非常に長けたものがあるのでしょう。ここからは、とても懐の深い味わい深さが感じられるのです。さすがに、最後の楽章などは細かい音符で指がまわらなくなっていたりしますが、それでもなにかそこからはひたむきさが伝わってくるのですから、面白いものです。
オネゲルの「パシフィック231」は、1923年に作られた、オーケストラによって蒸気機関車の動きを模倣するという痛快な曲ですが、彼自身によって翌年作られたこのピアノ・デュオバージョンでは、「シェエラザード」とは逆に、オーケストラの色彩感が抜け落ちた分、作品自身の音楽的なしたたかさがより明確になっています。次々と飛び出してくる不思議な和声と旋法をもつ刺激的なフレーズの応酬は、オケ版を聴いているときにはほとんど感じられないものでした。しかも、彼女たちの演奏が持っているリズム的なユルさが、ここでは(おそらく意図したものではないのでしょうが)なんとも言えないポリリズムの雰囲気を生み出しているのです。これは、かなり強烈なインパクトとして迫ってくるものでした。
しかし、「ボレロ」では、そんな面白さなどは、見つけられるはずもありません。この単純なリズムと、陳腐なメロディの繰り返しだけで成り立っている音楽は、ピアノだけで演奏されるとまさに出来の悪いミニマル・ミュージックのような姿をもろにさらけ出すだけのものに成り下がってしまいます。なんとイジワルな。

CD Arwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

5月10日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
Esa-Pekka Salonen/
Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD193


もはやフィルハーモニア管弦楽団の自主レーベルと認知されているSIGNUMレーベルの新譜は、2008年秋からこのオーケストラの首席指揮者に就任しているサロネンの指揮で、「幻想」です。就任直後、2008年の9月にロイヤル・フェスティバル・ホールで行われたコンサートのライブ録音です。いつもの彼らの録音のように、演奏後の拍手までしっかり入っていますから、それほど編集の手は入っていない、文字通り「ライブ」に近いものなのでしょう。
同じサロネンの「グレの歌」のようなSACDでなく、ノーマルCDだったのは残念ですが、このコンサートはフルートのケネス・スミスが「乗り」だったのは、嬉しいことです。やはり、彼が吹いているとこのオーケストラの音全体が、とても上品に聞こえてきます。今回の録音はちょっとオフ気味のマイクアレンジのようで、個々の楽器の解像度はあまり良くなく、全体の響きがもっさり聞こえる感じですから、特にスミスの音が目立って聞こえるということはありませんが、それだからこそ全体の音色を決めるフルートとしての重要性が際立っているのでしょう。この曲の場合、特にヴァイオリンとのユニゾンがいたるところで現れますから、そんな時の「輝き」はまさに絶品です。
サロネンはまず、そんな美しい響きを、きっちり作り上げようとしているように感じられます。第1楽章で、弱音器を付けたヴァイオリンが歌い出す箇所での繊細なアンサンブルには、思わず息をのむほどです。そして、そんなかっちりとしたアンサンブルを維持した上で、必要なところでは思いっきり弾けてくれています。そのあたりのさじ加減は絶妙、決して煽られているわけではないのに、しっかり熱いものが伝わってくる、というクレバーさが魅力です。繰り返しを行わないのも、すっきりしていて良い感じ。
第2楽章には、オプションのコルネットが入っています。それだけ華やかさが増す筈なのに、楽章全体はなにか冷静な表情に支配されています。コルネットは華やかさのためではなく、逆にシニカルな味付けとして用いられたのでは、などと考えるのは、うがった見方でしょうか。もちろん、体形を整えるためではありません(それは、「コルセット」)。
第3楽章では、呼びかけを行うコール・アングレの積極的な表現が、かなり強烈な印象を与えてくれます。そして、それに答えるバンダのオーボエが、なんだか1回ごとに遠ざかっていくように聞こえるのは、気のせいでしょうか。もう、最初のこの段階で、語りかける相手はすでにひいている、そんな演出なのかもしれませんね。そのせいか、最後に同じコール・アングレの呼びかけに答えるティンパニの雷鳴も、いかにも絶望的な思いにさせられるものでした。
第4楽章の「断頭台への行進」では、一見ノーテンキなマーチのように聞こえて、その実恐ろしさが潜んでいる、というコンセプトを、最後近くでのとんでもないテンポの切り替えで表しているように思えてしまいます。
そして、終楽章では、鐘の音といい、「Dies irae」のテーマといい、なんとも不気味な音色に仕上がっているのが素敵です。他の部分がきれいな音色にまとまっているだけ、こういうところでのくずし方が強烈なインパクトとなって伝わってくるのでしょう。
余白には、同じコンサートからベートーヴェンの「レオノーレ序曲第2番」が入っています。「3番」に比べたら明らかに完成度の低い、正直、演奏する価値などないような曲ですが、それを、このかっちりとしたアンサンブルで聴かされると、その「駄作」ぶりがより強調されてくるようです。スコアがないので断定はできませんが、おそらく木管が間違えて1小節早く入っているところがあります。これは、ライブならでは。

CD Artwork © Signum Records Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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