鰯の死。.... 佐久間學

(15/3/15-15/4/3)

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4月3日

ROSING-SCHOW
Alliages
Helen Gjerris(MS), Jeanette Balland(Sax)
Mathias Reumert(Perc), Jesper Sivebreak(Guit)
Andreas Borrengaard(Acc), Asbjørn Nørgaard(Va)
Hélèna Navasse, Svend Melbye(Fl)
DACAPO/8.226580


デンマークの作曲家、ニルス・ロシング=スコウの小規模な編成による作品を集めたアルバムです。1954年に生まれたロシング=スコウは、コペンハーゲン大学の音楽学科を経て王立音楽アカデミーで作曲を学びますが、その後のフランスでのクセナキスのユーピック・アトリエにおける体験が、彼の作風に大きな影響を与えることになりました。ちなみにユーピック(UPIC)とはタブレットで線を描いて音楽を作りだすコンピューターのことで、現金が送れない郵便物ではありません(それは「ユーパック」)。
このアルバムのタイトル「Alliages(合金)」は、ここで演奏されている2つの作品のタイトルでもありますが、そんなフランス的なものと、北欧的な資質の「融合」という作曲家自身のスタイルをあらわすタームという意味も持っているのでしょう。
その「合金」の「1」は2010年に作られた、テナー・サックスとアコーディオンのための作品です。この2つの楽器は付かず離れずというスタンスと取り合いながら、ある時は緊張感あふれる時間を共有し、ある時はもっと開放された軽やかな時間も提供してくれています。ここで、録音としての空間の処理が非常にユニークに感じられるのは、アコーディオンの音像を左右に広々と設定しているために、まるで2つの楽器で演奏されているように聴こえてしまうからなのでしょうか。というか、ちょっと一人の演奏者とは思えないようなところもあるので、もしかしたら多重録音のような気もするのですが、それは知りようがありません。ここでは、アコーディオンの「空気抜き」の音までもが音素材として扱われていますね。
もう一つの「合金」は、なぜか「1」より前の2008年に作られたのにタイトルは「2」となっています。こちらはアコーディオンとヴィオラという組み合わせ、「1」よりもリズミカルな部分が多く、それぞれの楽器が何か真剣勝負を挑んでいるような切迫感があります。それとは別に、互いに寄り添った「ホモフォニック」な部分が挟まって、対比を見せています。
フルートのための作品も2つ。まずは、2014年に行われたカール・ニルセン国際フルートコンクールのセミ・ファイナルでの課題曲(ファイナルの課題曲は当然ニルセンの協奏曲)として作られた「...aus atem...(...息によって...)」というソロ・フルートのための曲です。まるで尺八のようなムラ息の多い音色などが要求されている、単なるテクニックではなくもっと根源的なスキルが問われる作品です。多くの現代奏法が用いられていますが、それらにきちんとした意味を持たせられるかどうかが、審査の上でのポイントになっていたのではないでしょうか。武満の「Voice」にも匹敵するほどの深みを持った作品です。
もう1曲は1991年の「Ritus(儀式)I」です。こちらは打楽器奏者とのデュオ、最初はビブラフォンやグロッケンのような鍵盤系とフルートがまったりとモーダルなフレーズで絡み合い、呪術的な雰囲気を醸し出しますが、フルートの高音のパルスを合図に、ノリのいいドラムが登場、狂ったように激しいお祭りの踊りが始まります。
声のための作品も収められています。2007年に作られた「Nanu(熊)」というのは、グリーンランド語のタイトルで、音楽もグリーンランドの素材が用いられています。声といっしょにアルト・サックスがリズミカルな合いの手を入れ、バックでは打楽器奏者が「石」を叩いて軽やかなビートを刻んでいます。
2013年に作られた「Three Simple Songs」では、3人のデンマークの詩人のテキストによる、ほとんど断片のように切り詰められた「歌」が歌われます。これは、作曲家の若い時代に出会った「シンプル」な様式の音楽の回顧なのだそうです。
ここで伴奏をしていたギターによる「Lines」という、この言葉にさまざまの意味を持たせた3つの曲から成るやはり2013年の作品も聴くことが出来ます。パーカッシブな速弾きがあったかと思うと、グレゴリアン・チャントの引用があったりと、興味の尽きない音楽です。

CD Artwork © Dacapo Records


3月31日

NIELSEN
Symphonies Nos. 5&6
Alan Gilbert/
New York Philharmonic
DACAPO/6.220625(hybrid SACD)


さすが、今年は「二ルセン・イヤー」というだけあって、交響曲全集が2種類も完成してしまいました。しかもなんとSACDで。このギルバートとニューヨーク・フィルのツィクルスは、録音を始めたのは2011年と早かったのですが、最後の曲を録音し終わったのは、2014年の10月、その4か月前に終わっていたサカリ・オラモとロイヤル・ストックホルム・フィルによるBISの全集にほんの少し後れをとってしまいました。1枚目と2枚目の間が開き過ぎたのが痛かった。
とは言っても、今まではニルセンが作った交響曲の正確な数なんて知らなかった人の方が多かったものが、さすがにこれだけ盛り上がれば「6曲」だというのはほとんど常識となったことでしょう。もっとも、この作曲家の正しい読み方が「ニールセン」ではなく「ニルセン」だ、と認知している人は相変わらず少ないままですが。
このDACAPOのツィクルスは、当初は交響曲だけではなく、協奏曲や他の管弦楽曲も含めた「管弦楽曲全集」になるはずだったと記憶していますが、代理店のインフォによればこれが「完結編」なのだそうです。せっかく定期演奏会でかなりの曲を演奏したというのに、それらはリリースされることはないのでしょうか。
今回も、今までと同じく、定期演奏会で演奏されたものをライブ録音して出来上がったSACDです。2014年の10月1日から3日までの3日間、エイヴリー・フィッシャー・ホールでのコンサート、前半に「マスカレード」序曲と「交響曲第5番」、後半に「交響曲第6番」が演奏されていました。今までのこのシリーズだと、2つの曲の間の録音のクオリティの差が結構目立っていたのですが、今回はそんなことはありませんでした。おそらく、同じ日の演奏がそれぞれベストだったので、それをメインの音源として使ったのでしょうね。いつもながらのそれぞれの楽器がはっきり浮き出てくる精緻な録音ですが、今回は特に弦楽器のまろやかな響きが別格です。本当にもううっとりするような極上の録音には、トイレ(御不浄)に行く時間も惜しくなるほどです。
そんな弦楽器のクールな響きは、「5番」の第1楽章(この交響曲には2楽章しかありません)のまるでミニマル・ミュージックのような音楽に見事にマッチしています。そこに唐突に割り込んでくるスネアドラムの硬い響きも、見事に「異質なもの」として感じられます。楽章の後半はちょっとロマンティックなモティーフが出てきますが、それはあくまでそれまでのクールなモティーフとの対比、その2つの要素が並行して何の脈絡もなく続くのがニルセンらしいところでしょうね。エンディングでは、クラリネットとスネアドラムだけの超ピアニシモが、ぞっとするほどの美しさを見せています。
第2楽章は3拍子の曲なのに変な切迫感があるのがやはりニルセン。途中でゆっくりとした無調っぽいテーマが出てきますが、そこでものどかさと厳しさが同居しているという風景が。
「6番」は、サブタイトルが「Sinfonia semplice」ですから「素朴な交響曲」と訳されているようですが、その内容は「素朴」からははるかに遠いものになっています。というか、見かけは「古典的」な4楽章、オーケストレーションも薄めという風にわざと「素朴」であるかに見せかけて、実際は油断のできないことを仕掛けているというアイロニーあふれるものなのではないでしょうか。そのオーケストレーションにしても、第2楽章などはメインは打楽器、そこに管楽器のアンサンブルが加わって「鳥の声」などを聴かせていますが、弦楽器は一度も現れることはありません。交響曲だというのに。
第4楽章も、変奏曲という形式を逆手にとってのやりたい放題、途中で大真面目に「ウィンナワルツ」のパロディが始まったのには思わず大笑い。エンディングはまさにお祭り騒ぎですし。第1楽章冒頭のあったか〜いテーマに騙されてはいけませんよ。

SACD Artwork © Dacapo Records


3月29日

KANNO
Light, Water, Rainbow...
小川典子(Pf)
BIS/SACD-2075(hybrid SACD)


菅野由弘さんは、1953年生まれ、東京藝術大学の修士課程を1980年に卒業されています。現在は早稲田大学の教授を務められ、「基幹理工学部表現工学科」というところで研究室を主宰されています。作曲家としては、とても幅広いジャンルでの作品を発表しています。それは「芸術音楽」にはとどまらず、映画やドラマの音楽にまで及んでいます。「Nコン」の課題曲まで作っているんですね。
このアルバムでは、小川典子さんのピアノで、その小川さんからの委嘱作品などを中心に聴くことができます。タイトルにもある「光の粒子」、「水の粒子」、「虹の粒子」という3つの作品が、その委嘱作、これらはミューザ川崎シンフォニーホールとの共同委嘱で作られたもので、2009年、2010年、2011年にそのホールで開催された小川さんのリサイタルでそれぞれ初演されています。
この「粒子三部作」では、日本の「原始的」な発音体がピアノと一緒に演奏されるという画期的な試みが行われているのだそうです。それはピアノが作り出す西洋音楽の倍音の中に、それとはまったく異なる体系の音源を加えて、全く新しい音響を作り出しているのだとか。そのために用意されたのは、「南部鈴」、「明珍火箸」、「歌舞伎オルゴール」というそれぞれ日本独自のサウンドを生み出す音源です。「南部鈴」は岩手県の名産、鋳鉄による鈴で、独特の澄み切った音を奏でます。「明珍火箸」というのも、やはり鉄でできた箸(そう言えば「火箸」の現物にはしばしの間お目にかかっていないなぁ)です。2本の箸が糸でつながっていますから、その糸をつまんで振れば箸同士がぶつかって音が出ます。そして、「歌舞伎オルゴール」という、古典芸能のアイテムにしては何ともショッキングなネーミングが印象的な「楽器」は、仏教での読経の際に使われる「キン」という丸い小さな鐘を、大きさの異なるいくつかのものを並べて固定したものです。歌舞伎ではこれで虫の鳴き声などを表現するのだそうです。
そんな、言ってみれば西洋音楽と日本の伝統工芸品のコラボレーションは、確かにサウンド的にはそれなりの効果は感じられますが、それが音楽としてどうなのか、という疑問は残ります。というのも、このあたりの彼の作風は、もはや確固としたスタイルが出来上がってしまっているために、そこにいくら「チーン」とか「カーン」という異質な音が入っても、それ自体には何の変化をもたらしてはいないように思えてしまうのですよ。その彼のスタイルというのは、ほとんどドビュッシーかと思われるようなフレーズが、とても細かい音(それが「粒子」なのでしょうか)によって紡がれるというもの。しかも、そのフレーズには見事なまでの整合性があって、きっちり先が見通せるというプリミティブなところがあるのですね。正直、この作品群からはただ時間を音符で埋めているという「現象」しか感じることはできませんでした。
この「三部作」の前後に作られた「天使のはしご」(2006年)と「月夜の虹」(2012年)という作品では、ピアノやトイ・ピアノの音をリング・モジュレーターで変調しています。これは、大昔のプログレ・ロックの常套手段でしたね。それはそれで懐かしさは感じるものの、「それで?」という感はぬぐえません。それよりも、武満徹の没後10周年のために作られた「天使のはしご」では、その武満からの引用よりは、彼がよく引用していたドビュッシーや、さらにその「元ネタ」のワーグナーまでが聴こえてくるのには、笑ってしまいました。
このアルバムの中では、最後に演奏されている、1985年に押井守の「天使のたまご」というアニメのために作られた「天使のための前奏曲」というほんの3分ほどのピアノ・ソロが、もっとも心を打たれるものでした。この、シンプルさの中に秘められた油断できないモードに見られるような閃きを、この作曲家はいつの間にかなくしてしまっていたのではないでしょうか。

SACD Artwork © BIS Records AB


3月27日

BACH
St Matthew Passion(BWV 244b)
Charles Daniels(Ev)
Peter Harvey(Jes)
Peter Seymour/
Yorkshir Baroque Soloists
SIGNUM/SIGCD385


以前からおなじみのヨークシャー・バロック・ソロイスツの創設者であるPeter Seymourのことは、ずっと「ピーター・セイムーア」と表記してきましたが、このラストネームのスペルは先日亡くなった映画俳優「フィリップ・シーモア・ホフマン」と同じものだったことに気づき、今後は「ピーター・シーモア」と呼ぶことにしました。楽しい人なんでしょう(それは「ユーモア」)。なんせ彼は、このところ立て続けにこのレーベルからバッハの作品を出しているというブレイクぶりを見せていますから、きちんとしておかないと。
もちろん、この指揮者とアンサンブルの名前を知ったのはモーツァルトの「ドゥルース版」の初演者としてですが、その楽譜を作ったダンカン・ドゥルースは当時はこの団体のコンサートマスターを務めていました。しかし、ちょっと前に「ヨハネ」を録音した時には、もはや彼の名前はなかったので引退したのか、と思っていたら、今回の「マタイ」にはヴィオラ奏者としてクレジットされていましたよ。まだご健在だったのですね。というか、「ヨハネ」ではヴィオラは1人しかいなかったので、別の人が参加、今回はそれが2人になったので、ドゥルースの出番もまわって来たということなのでしょう。
そんな少人数のオーケストラ、今回はすべてのパートが一人ずつという、最小の編成になっていました。合唱はそういう編成でも、大概ヴァイオリンぐらいは1パート2人ぐらい居ますから(たとえばクイケン盤マクリーシュ盤バット盤)、これはオーケストラに関しては史上最少の編成となっているのではないでしょうか。
そして、シーモアは「ヨハネ」では20人ほどの大きな合唱を使っていたものが、今回はオーケストラと同じように1パート一人にしています。もちろん、メンバーはソロも歌います。ただ、エヴァンゲリストは合唱には参加しませんし、1曲目にだけはソプラノのリピエーノが3人ほど加わっています。ですから、おそらくこれはそういうことを提唱したジョシュア・リフキンのプランによる4番目の録音ということになります。
さらに、ここでは一般的に広く用いられているバッハ自身によって改訂された1736年稿(BWV 244)ではなく、1727年に作られたとされる「初期稿」(BWV 244b)が使われています。これも、ビラー盤に続く2番目の録音という、いろいろな面で他のものとは異なったところのある「マタイ」のCDです。
もっと言えば、演奏時間が153分33秒というのも、おそらく知る限りでは最速の演奏になるのではないでしょうか。今までの「最速」はシャイー盤の160分10秒でしたからね。第1部の最後、29番の合唱が、この版では5分ほど短くなっていますが、それを考慮しても「最速」であることに変わりはありません。
この「初期稿」の楽譜は、2004年にベーレンライターから出版されています。ビラー盤はそれを使って初めて録音されたものだったのですが、今回のシーモアはそれを使わず、現存する初期稿のコピー(バッハの自筆稿は失われています)からシーモア自身が校訂した楽譜を使っているようです。そこでは、ベーレンライター版には書かれていない、本来演奏する時には付けられるはずの装飾が、生き生きとよみがえっています。おそらくこれが、このCDの最大の魅力でしょう。
演奏時間があらわすように、最初や最後の大合唱は非常にさっぱりとしたテンポになっていますが、コラールまでそれでやられると、ちょっと辛いものがあります。アリアは、20番のアリアを歌っているテノール以外はそれぞれに力のある人たちで、特にイエスも歌っているバスのピーター・ハーヴェイの慈愛に満ちた歌は感動的です。とは言っても、やはりこの人数の合唱は完璧に物足りません。かなり録音でカバーしているところはあるのですが、第2コーラスなどはそもそも男声と女声のバランスが悪いので、どうしようもありません。
(*ブログのコメントにあるように、「最速」はヤーコブス盤でした)

CD Artwork © Signum Records Ltd


3月25日

XENAKIS
Pléïades, Rebonds
加藤訓子(Per)
LINN/CKD 595(hybrid SACD)


今までは、このレーベルにペルトやライヒといった「ミニマリスト」たちの打楽器作品を録音していた加藤訓子さんが、ついにクセナキスに挑戦してくれました。今回も加藤さん自身の日本語によるライナーノーツが読めるというのも、楽しみです。ただ、このライナー、一部に編集ミスがありますから、ご注意を。
ここで彼女が選んだ曲は、「プレイアデス」と「ルボン」です。「ルボン」は一人の打楽器奏者のための作品ですが、「プレイアデス」はストラスブール・パーカッション・アンサンブルという、6人の打楽器奏者のグループのために作られたものですから、当然一人では演奏することはできません。そこは、ライヒなどではすっかり常套手段となった多重録音で、一人で6人分のパートを演奏しています。これがまず驚異的。ライヒのような単純なフレーズの繰り返しならいざ知らず、クセナキスのもう真っ黒けになるほどたくさんの音符にまみれていて、1回演奏するだけで死にそうになる楽譜を、ひたすら前の自分の録音を聴きながらもう5回も演奏するなんて、気の遠くなるような作業なのではないでしょうか。
彼女は、そんなとんでもないことを難なくやり遂げただけではなく、その「映像」まで作ってしまいました。それが、SACDと一緒にパックされているDVDです。ここでは、なんと「6人」の「動く」加藤さんがこの難曲を演奏している様子を見ることが出来るのです。それは、なんともスリリングな体験でした。もちろん、音はSACDで聴けるものと全く同じものですが、それぞれの加藤さんはそれにきっちりシンクロさせてカメラの前で演奏しています(たまに音とずれていたりしているのはご愛嬌)。それを6人分撮影して、さらにそれらを合成、おそらく、こちらの方が録音よりも数倍手間がかかる作業だったのではないでしょうか。
その、横一列に並んだ加藤さんたちは、彼女たちのトレードマークであるキャミソール姿で、肩から先の腕を露出させています。その12本の腕が、クセナキスのスコアに従って微妙にズレながら激しく動き回る様子は、まるで一編のダンス、そのダイナミックな動きには思わず見入ってしまいます。特に、最後の「Peaux」という、皮を張った太鼓類を演奏するパートでは、まるで和太鼓を叩く時のようにむき出しの腕を高く挙げるポーズが思いっきりセクシー。和太鼓奏者たちがなぜ褌いっちょうで演奏しているのかが分かったような気がします。この曲の最後近くで、6人が完全にユニゾンになるところなどは、見ものですよ。
こんなものを見てしまうと、音だけのSACDでは物足りない気になってしまいます。音自体は、SACDの方が格段に繊細な音で、音色の違いなどがはっきり聴き分けられるものなのですが、トータルの情報量としては映像の方が圧倒的に多くなっています。打楽器の場合は、このような「肉体」とのコラボレーションで、与えられる印象はさらに強烈になって行くのでしょう。
ここでDVDになっているのは、「プレイアデス」の4つの曲の中の2番目から4番目の3曲だけです。それぞれに扱う楽器が異なっているので映像も作りやすいのでしょうが、1曲目の「Mélanges」はそれらの楽器が全部登場しますから、それを6人分並べるのは大変だったのでしょう。
もう1つの作品、「ルボン」は、聴いただけではとても一人で演奏しているとは思えないほどのたくさんの打楽器が使われています。あんな映像を見てしまうと、これも多重録音かも、などと勘繰られてしまいそうですが、もちろん加藤さんは一人で演奏しているはずです。というか、この作品は彼女にとっての一つの「目標」なのだそうですね。これを完璧に演奏できるプレーヤーになりたいと、常々思っているのだとか。これをDVDで見られたら、彼女の本当の凄さが分かるのかもしれません。もちろん、映像はパンツ姿(それは「ズボン」)。

SACD Artwork © Linn Records


3月23日

BRUCKNER
Symphony No.4
Manfred Honeck/
Pittsburgh Symphony Orchestra
REFERENCE RECORDINGS/FR-713SACD(hybrid SACD)


このレーベルからのホーネックとピッツバーグ交響楽団とのSACD、第3弾は、なんとブルックナーでした。
例によって、ホーネック自身がライナーノーツを書いていますからそれを読んでみたら、そのタイトルが「交響曲のローブをまとった交響詩」という、これだけでまずご飯が3杯は食べられそうな「おいしい」ものでした。なにしろ「ロマンティック」というサブタイトルが付いた作品ですから、確かに何か具体的なイメージはわきそうな曲ではありますが、ホーネックはそこに正面切って「交響詩」としてのアプローチを試みているのですね。なにか期待できそうです。
その期待は、第1楽章の「ブルックナー開始」の弦楽器のトレモロが、はっきり森の木々の葉擦れのように感じられたときに、ハズレではないことが分かりました。それは、出てくるフレーズすべてに、指揮者の確固たる「具体的なイメージ」がしっかりと込められた演奏だったのです。とは言っても、そのようないわゆる「プログラム」は、ブルックナー自身が明らかにしているのですから、ホーネックはあくまでそれにのっとって音楽を作っていただけなのかもしれませんが、それが他の指揮者の演奏からは聴くことのできないユニークなものに仕上がっているというのが、面白いところです。
第2楽章でも、ヴィオラのパートソロでテーマが歌われる間に他の弦楽器がピチカートでリズムを刻んでいるという部分などは、「吟遊詩人がギターをつま弾きながら歌っている情景」なのだと言われれば、もうそのものずばりのものが音で表現されているように思ってしまいますよ。オーケストラの団員というものは、こんな風に実際の情景を思い浮かべるような指示をする指揮者の方が、なんだか一緒に音楽を作ろう、という気になるのではないでしょうかね。「そこの音はしっかり伸ばして」というような機械的な指示で思いを伝える指揮者もいるでしょうが、これだとなんのためにそういうことをするのか、という最後の形が見えてこなくて、結局指揮者の思いが完全には伝わらないのでは、という気がしませんか?
ですから、そんな指揮者の思いをしっかり「音」として伝えられるものにしようというメンバーそれぞれの「意気」のようなものが、この演奏からはふんだんに感じ取れるのですよ。第3楽章などは「狩り」の情景ですから、もうシャカリキになって張り切っている様子がミエミエです。それがトリオになると、そのレントラー舞曲が何としなやかに踊られていることでしょう。確かにここまで来ると「交響曲」のピースとはとても思えなくなってしまいます。
第4楽章も、このホーネックの演奏は退屈することを許さないような仕掛けが満載、ブルックナーがこんなの楽しくていいのか、と思ってしまうほどですよ。彼がちょっとふざけて書いていることなのかもしれませんが、253小節目から4小節間にクラリネットとホルンが演奏するテーマが、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」の「水夫の合唱」の一部分とそっくりというのですね。「どこが?」という気もしますがね。こんなんだったら、モーツァルトの「レクイエム」の「Tuba mirum」の33小節目の低音のフレーズと「白松がっ、モナカ」の方がよっぽど似てます。でも、本気でこんなことをライナーに書く人はなんか信用したくなってしまいますね。実はこの個所の4小節目のホルンの音符には、その前のクラリネットと合わせて楽譜にはないトリルが加えられています。この勢いで、最後の部分を、複雑なリズムが入り組んでいる「第1稿」に差し替えたりしたら、もっともっと面白かったのでしょうがね(これは、普通の第2稿ノヴァーク版)。
もちろん、録音は最高です。特に金管楽器の神々しいまでの美しい響きに包み込まれると、「もうあなたにすべてを任せます」みたいな気持ちになってくるほど、「力」ではなく「音色」で聴く者を跪かせられるサウンドが迫ってきます。

SACD Artwork © Reference Recordings


3月21日

BACH
Goldberg Variations
Thomas Gould/
Britten Sinfonia
HARMONIA MUNDI/HMU 807633(hybrid SACD)


バッハの大作「ゴルトベルク変奏曲」は、元々はクラヴィーア、つまり鍵盤楽器のために作られました。ですから、基本的にはその時代の「鍵盤楽器」であるチェンバロで演奏されるものなのでしょうが、一応同じ「鍵盤楽器」ということでオルガンで演奏している人もいましたね。
それを、弦楽器のアンサンブルの形で演奏しようとしたのが、ロシアのヴァイオリニスト、ドミトリー・シトコヴェツキーでした。彼はまずヴァイオリン・ヴィオラ・チェロの3つの楽器のための編曲を行い、その「三重奏」バージョンを自らの演奏で1984年に録音します。その時のヴィオラはジェラール・コセ、チェロはミッシャ・マイスキーでした。もうすぐ終わってしまいますね(それは「ウイスキー」)。
さらに、シトコヴェツキーは、もっと編成を拡大した「弦楽合奏」の形のバージョンも作り、1993年にニュー・ヨーロピアン・ストリングスとともに録音します。「三重奏」はすでにほかのアーティストも何曲か録音しているはずですが、今回のCDはもしかしたら最初の「カバー」かもしれません。
ここで演奏しているブリテン・シンフォニアのメンバーを見てみると、6.5.4.3.2という結構な大きさのアンサンブルでした。ですから、かなり厚い音を期待して聴き始めたら、最初の「アリア」はなんと、コンサートマスターであるトーマス・グールドがソロでテーマを演奏するというものでした。これが、チェンバロやピアノで演奏されるものとは全く異なる、レガートとビブラートのたっぷり加わった甘ったるいものであったことには、ちょっとした違和感を覚えてしまいました。名前を見て、あのグレン・グールドの親戚かなんかかと勝手に思っていた(もちろん、赤の他人です)ものですから、そのあまりの落差に戸惑ってしまったのですね。
ところが、次の第1変奏がトゥッティで始まったら、その、うって変ってアグレッシブな様相にちょっとしたショックを受けることになるのです。そういうことだったのですね。単に編成を大きくしたというだけではなく、そこでソロとトゥッティを上手に使い分けることによって、幅広い表現を目指すというのが、この編曲のコンセプトだったのでしょう。
例えば第5変奏などは、楽器は基本的にヴァイオリン2本とチェロしか登場しません。たまにチェロの声部にコントラバスが加わって低音を補強するというだけの小さなアンサンブルなのですが、これがトゥッティとは全く別の緊張感を生むものになっています。そんな少ない人数の場合でも、とても豊かな響きが感じられるのは、録音された場所が非常に美しい残響を持ったところだからなのでしょう。このオール・ハロウズ教会というのは、あのスティーヴン・レイトンとポリフォニーが良く録音に使っているところです。この響きは、まさにあのハイテンションの合唱を包み込んで、見事にそのパワーを伝えてくれるサウンドと同質のものでした。
第14変奏では、ソリとトゥッティが交互にめまぐるしく変わるという編曲です。チェンバロだったら別の鍵盤を使って弦の数を変えるという場面でしょうね。そんな、おそらくバッハがまるで協奏曲のようなイメージで作ったかのようなところが見事により具体的なものとなって迫ってきます。第16変奏のフランス風序曲もそんな感じ、弦楽合奏の壮大なサウンドで、楽器一つではなかなか表現できない大きな世界が眼前に広がります。
第25変奏は、短調になってしっとり聴かせるところ。グールドのソロは、その短調ならではの短3度の音程を微妙なニュアンスでまるで探るように歌わせていますから、そこからは言いようのない愁いが漂ってきます。
最後にまた「アリア」が冒頭と同じ形で現れたとき、何か現実に引き戻されたように感じてしまったのはなぜなのでしょう。それまでの数々の変奏で繰り広げられていた世界は、もしかしたら夢の中のものだったのかもしれません。

SACD Artwork © harmonia mundi usa


3月19日

RICHTER
Requiem
Lenka Cafoukova Duricova(Sop), Marketa Cukrova(Alt)
Romain Champion(Ten), Jiri Miroslav Prochazka(Bas)
Roman Valek/
Czech Ensemble Baroque Choir(by Tereza Valkova)
Czech Ensemble Baroque Orchestra
SUPRAPHON/SU 4177-2


フランツ・クサヴァー・リヒターの「レクイエム」というのがあるのだそうです。今回の録音が、その「ピリオド楽器による世界初録音」ということですから、その前に「モダン楽器による世界初録音」があったのでしょうが、そんなものは確認できませんでした。おそらく、そのようなものにかけてはもれなく集められている井上太郎さんの名著「レクイエムの歴史」にも載っていないのですから、それはよっぽどレアな録音だったのでしょうね。
録音だけではなく、リヒターの作品を調べてみてもその「レクイエム」の存在自体がどこにも見当たりません。もちろん楽譜が出版されたことはなく、この録音でも自筆稿が使われています。その自筆稿によれば、作曲されたのは1789年なのだそうですから、これはまさにリヒター本人の没年、彼は自分のために「葬送の音楽」を作っていたのですね。
それに関しては、このCDのライナーノーツで、面白い記録が紹介されています。それは、同時代の詩人、ジャーナリストとしてよりは、あのシューベルトの歌曲「鱒」の作詞家として知られているクリスティアン・フリードリヒ・シューバルトが、彼が発行している雑誌の1789年の10月号に執筆した記事です。
「今月(9月)の12日に、リヒターは身の回りのものをきちんと整理した後に肘掛椅子に座り、彼自身が自らの葬儀のために作曲した葬送の音楽のスコアをじっくりと読んでいた。そして首を垂れ、静かに息を引き取ったのである」
本当かどうかは分かりませんが、なんともドラマティックな臨終の場面ですね。まあ作曲家たるもの、このぐらいの余裕をもって「辞世の曲」を作っておきたいものです。その2年後に同じように「レクイエム」のスコアを見ながら亡くなったモーツァルトは、結局それを完成させることはできなかったのですからね。同じライナーによれば、リヒターの場合は、それを作ろうと思い立ったのが1774年のことだったと言いますから、時間は十分にあったので、こんなくさい演出(?)を行うことが出来たのでしょう。
その「レクイエム」、編成は4人のソリストと合唱にオーケストラという、良くある形ですが、冒頭はいきなり無伴奏の合唱で始まるのに驚かされます。さらに、ほんの数小節で今度はまるでファンファーレのような「元気な」音楽が聴こえてくるのには、もっと驚かされます。これはほとんど運動会の行進曲のような曲調ですから、「葬送行進曲」にしてはあまりに明るすぎるものでした。
「Te decet hymnus」から曲調が変わるのはお約束ですが、そこに出てくるのはまさに「前古典派」然としたちょっと影をはらんだメロディ、それを、経過的に不協和音で彩るという手法は、その時代の音楽の定番です。さらに「Kyrie」では二重フーガが用いられるというのも、モーツァルトの手法を思わせるものでしょう。
ソリストによる堂々としたコロラトゥーラを駆使したアリアなどが歌われるというのも、音楽が内向的ではなく、どちらかというと外面を重視したもののように感じられてしまいますが、これは今の時代だからそう感じるだけなのかもしれません。あるいは、これは、深刻さとは無縁の「涙なんか見せずに華々しく送ってほしい」というような、作曲家からのメッセージだったのかも。
演奏している合唱団は20人ほどの人数ですが、それよりもっと少なく感じられるちょっとおとなしいキャラの団体です。というか、はっきり言って北欧やイギリスの合唱を聴きなれた耳には、かなりどんくさいものです。声の中に「意志」というものが全然感じられないのですからね。もっとも、こういう合唱だからこそ、作曲家の思いとは裏腹に「聴いていて悲しくなる」演奏に仕上がったのかもしれません。
フランツ・クサヴァー・リヒターさんは、草葉の陰からどんな思いで聴いていたのでしょう。

CD Artwork © SUPRAPHON a.s.


3月17日

BRUCKNER
Motets
Duncan Ferguson/
Choir of St Mary's Cathedral, Edinburgh
DELPHIAN/DCD 34071


スコットランドのエディンバラのレーベルDELPHIANというのには、今回初めてお目にかかりました(「サンダンバラ」ならしょっちゅうお目にかかれますが)。カタログを見るとイギリスの渋い音楽などがたくさんあってちょっと惹かれます。しかし、今回はブルックナー。彼が作った合唱曲を集めたアルバムです。これらに関してはこちらにそのCDがほぼ網羅されていますが、ここにこの最新のCDが加わることになります。「最新」とは言っても録音されたのは2010年、2011年にはリリースされていて、並行輸入では入手できたようですが、日本の代理店を通しての国内リリースは今頃になってしまいました。
演奏しているのは、ご当地エディンバラのセント・メアリー大聖堂の聖歌隊です。イギリスの聖歌隊には様々な形態があるようですが、この団体はトレブルに男子だけではなく女子も加わっているというのが、ちょっとユニークなところでしょうか。なんでも、この聖歌隊は1978年にイギリスで初めてトレブルに女子が加わることを許した団体なのだそうです。メンバー表を見ると、それが19人もそろっています。他のパートは5人ずつぐらいですが、アルトは女性アルト2人に男声アルト4人という編成です。
そんな充実した陣容の合唱団は、予想通りのパワフルな声を聴かせてくれていました。それは、最初に演奏されていた「Tota pulchra es(全集版の27番)」を聴くだけでわかります。これはテノールソロと合唱との応唱ですが、まずそのテノール(もちろん、この合唱団のメンバー)の力強さに驚かされます。そして、それを迎える合唱のトレブルが、まるで突き抜けるような声で大聖堂の中に響き渡った時、これは普通の「聖歌隊」とは別の次元の合唱団であることがわかります。そこには、少年(少女)合唱特有の「あやうさ」や「はかなさ」といったものがまるで感じられません。その代わりにあったのが、その年齢でなければ絶対に出せないピュアな響きなのに、大人顔負けのパワーを持つという、信じられないサウンドでした。この曲にはオルガンも加わりますが、そのフル・オルガンにも負けないほどの音圧を、彼らはやすやすと生み出していたのです。ほんと、有名な「Ave Maria(7声、20番)」の前半の山、「Jesus」と3回繰り返す最後の高音のAなどを何の苦労のあとも見せずにスッパリと出してみせるなんて、すごすぎます。
そんな圧倒されるようなサウンドですから、今まで聴いてきたブルックナーのモテットとはまるで別の印象が与えられます。これらの作品は、その和声などは紛れもなく彼の交響曲と同じテイストが感じられるものの、あくまでそれとはまったく別の世界の産物という気がしていたのですが、この合唱団はそんなつつましい作品であったはずのモテットたちから、まるで交響曲のような壮大な世界を見せてくれているようです。
このアルバムの中では最も大きな規模を持つ「Libera me(ヘ短調、17番)」では、ダ・カーポの直前に伴奏のオルガンがなくなり、合唱とトロンボーンだけで「Requiem aeternam」としっとり歌われますが、このハッとさせられるような対比の妙も、それまでの壮大な盛り上がりがあればこそです。
さらに嬉しいことに、今までのCDでは聴くことのできなかった珍しい曲もここでは演奏されています。まず、これだけラテン語ではなくドイツ語のテキストが使われている16番の「Zwei Totenlieder」の2曲です。不思議なことにドイツ語で歌われることによって、ブルックナーがシューマンやブラームスなどと同時代を過ごした作曲家であることがよく分かります。
もう1曲、ここでおそらく初めて録音されているのが、男声合唱による「Iam lucis orto sidere(35番)」です。これを聴くと、男声パートだけでもかなりのハイテンションなのが分かります。ベースあたりはちょっと張り切りすぎているようにも思えますが、それも含めてのこの合唱団のユニークなキャラクターを味わうべきなのでしょう。

CD Artwork © Delphian Records


3月15日

GRAUN
Der Tod Jesu
Monika Mauch(Sop), Georg Poplutz(Ten)
Andreas Burkhart(Bar)
Thomas Gropper/
Barockorchester L'Arpa Festante
Arcis-Vokalisten München
OEHMS/OC 1809


1755年に、当時のフリードリヒ大王の宮廷楽長だったカール・ハインリヒ・グラウンが作曲した受難オラトリオ「イエスの死」がベルリンで初演されました。この曲は、その後130年にわたって聖週間には演奏され続ける(毎年ではありませんが)という、とんでもないヒット曲となりました。さすがに現在ではそれほど頻繁に演奏されることはありませんが、CDはすでに何枚か出ていて、そこにこの2014年にミュンヘンで録音されたばかりの新しいアイテムが加わりました。
どのCDでもこのオラトリオは「グラウン作曲『イエスの死』」と呼ばれていますが、そもそもこの作品はフリードリヒ大王の妹で、自らも作曲をたしなむアンナ・アマリア女王が、作曲家ではなく、作詞家に対して委嘱したものでした。そんな異色の委嘱を受けたのは、当時高名な詩人、翻訳家として宮廷で活躍していたカール・ヴィルヘルム・ラムラー。彼は親友の詩人ヨハン・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グライムの協力の下、1754年7月には台本を書き上げ、その作曲をグラウンに託したのです。
作曲は滞りなく完了し、1755年の3月26日(聖週間の水曜日)に初演を迎えたのですが、なんとその1週間前に、ハンブルクでそのラムラーのテキストにあのテレマンが作曲した「イエスの死」が初演されていたのでした。この曲のCDは、この「おやぢの部屋」の記念すべき第1回目のエントリーとしてこちらで取り上げていましたが、確かにそのテキストはすべての曲がまったく同じものでした。さらに、最初に歌われるコラールの旋律も、バッハが「マタイ受難曲」で用いたハスラーの「受難コラール」だというところも共通しています。おそらく、ラムラーの台本のコピーが、何者かの手によってハンブルクのテレマンのもとに届けられていたのでしょうね。その「犯人」がだれなのかはもはや知るすべもありませんが、グラウン自身がそれにかかわっていた、という説もあるのだそうです。
この時代になると、かつてバッハが作っていたような、自由詩によるアリアを聖書のテキストでつないでいくという「オラトリオ風受難曲」はもうすたれていて、すべてのテキストを自由に書き起こす「受難オラトリオ」がもっぱら作られるようになっています。長生きをしたテレマンは、その両方の様式に手を染めたということになりますね。
テレマンの場合はソリストがSATBの4人ですが、グラウンではアルトがなくて3人だけ、そして、それぞれのアリアの担当も異なっています。ラムラーはアリアのパートまでは指定してはいなかったのでしょうが、ここでグラウンがアリアに割り振ったパートは、とてもよく考えられたもののように思えます。最初の2つのアリアはソプラノがコロラトゥーラを交えてとても華やかに迫りますが、そのあとのテノールのアリアでは一転してしっとりとしたものに変わります。ここでは、半音音階で上昇して、全音音階で下降するという、まるでモーツァルトのようなメロディ・ラインが頻繁に表れ、豊かな情感が歌われます。さらに、そのあとにはバリトンが、とても重みのある深刻なアリアを歌うというように、徐々に敬虔な心に導かれていくのです。それが、次のソプラノとテノールのデュエットになると、とても穏やかで誰しもが癒されるような音楽が聴こえてきます。それまでは、ほとんど弦楽器と通奏低音だけだったオーケストラにも2本のフルートが加わり、一層のやわらかい響きがもたらされ、聴く者の心を解き放すかのようです。
この作品がこれだけ長い年月にわたって聴かれ続けたのも、そんな考え抜かれた構成があったからなのでしょう。ただ、このCDでは合唱があまりにも弱すぎます。単に美しい響きを出すことだけに終わっていて、そこから何かを伝えようという力が全く感じられないのです。ここで指揮をしているグロッパーが作った合唱団だというのに。

CD Artwork © Oehms Classics Musikproduktion GmbH


おとといのおやぢに会える、か。



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