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散る葉っぱ。.... 佐久間學
そんな最先端の全集に行きつくまでには、やはりさまざまな歴史がありました。調べてみると、シベリウスの交響曲をすべて録音した最初の指揮者は、アンソニー・コリンズだったようですね。彼がロンドン交響楽団とDECCAに録音を行ったのは1952年から1955年にかけてですから、当然モノラルでした。そして、世界で最初にステレオ録音を行ったのが、なんと渡邉暁雄と日本フィルという日本人のチームだったというのですから、少し意外な気がしませんか。それは1962年のこと、実際に録音を手掛けたのはレコード会社のスタッフではなく、当時の日本フィルの母体だった放送局だというのも、ちょっと意外です。ここではアメリカで、ブルーノ・ワルターとコロムビア交響楽団との録音セッションなどを見学してきた若林駿介がエンジニアを務めていました。制作したのは日本コロムビアで、提携先のアメリカのコロムビア(つまり、今のSONY)のサブレーベルであったEPICから全世界に向けて リリースされることになりました。 実は、そのアメリカコロムビアも、それに先立つ1960年からバーンスタインとニューヨーク・フィルによって全集の録音を始めていました。しかし、それが完成したのは1967年でしたから、「世界最初」とはならなかったのでしょう。そして、おなじころ、1963年から1968年にかけて録音されたのが、このマゼールとウィーン・フィルによるDECCAの全集です。さらに、1966年から1970年にかけてはバルビローリとハレ管弦楽団がEMIに録音を行い、メジャー・レーベルによる全集が出揃います。これらは、現在でもCDでのリイシューが繰り返されていますね。 それからは、メジャー、マイナーを含めて、多くのレーベルから全集が登場、様々なアプローチの演奏に触れることが可能となりました。そして、今年の「当たり年」には、さらに力の入った全集が何種類も誕生することになるのです。まずは、2013年にピエタリ・インキネンと、さっきの「ステレオ初録音」を行った(とは言っても、メンバーは全員替わっているはず)日本フィルとのライブ録音を集めたもの(NAXOS)、オッコ・カムが、ラハティ交響楽団と行なった、このオーケストラの2度目となる録音によるSACD(2012-2014 BIS)、サイモン・ラトルとベルリン・フィルとの2014年から2015年にかけてのライブのCD、BD-A、BD(映像)のセット、そして前回のリントゥのBDです。 そこに加わるのが、旧録音の別フォーマットによるリリースです。モノラル時代のコリンズ盤はLPに、そして、マゼールのDECCA盤はBD-Aとなって、装いも新たに登場しました。いずれも、最高の音質を求める姿勢が、アナログとハイレゾのデジタルという正反対のヴェクトルで達成された結果というのが面白いところです。 このマゼールの録音は、それこそLPの時代から良く聴いていたものでした。それが、CDになった時には、そのあまりにもLPとはかけ離れた音に失望したものですが、BD-Aは違います。そこでは、まさに待ちに待ったDECCAの録音の黄金期を作ったあのゴードン・パリーの素晴らしいサウンドが鳴り響いていました。やっぱりー彼の録音は最高です。有名なのはあの「指環」でしょうが、これはその少しあとに手がけたもの。プロデューサーも最初に録音された「1番」は、「指環」のジョン・カルショーです。それ以降は彼がDECCAを退職したのでエリック・スミスになっていますが、もちろん音が変わることはありません。 ここに漂っているのは、弦楽器から沸き立つ得も言われぬ馥郁たる香りです。それが前回のフィンランド放送交響楽団の最新録音では全く感じられなかったのは、オーケストラの違いのせいだけではないはずです。 CD & BD-A Artwork © Decca Music Group Limited |
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ただ、いざ購入しようと思って通販サイトを見てみたら、不思議なことを発見。全く同じ商品なのに価格差があるものが2種類存在しているのですよ。「通常定価」だと、片方は9,277円でもう片方は12,419円と、3,000円以上の違いがあります。どちらもちゃんと日本語字幕も入っていて、その違いと言えば「日本語帯」があるかないかだけです。確かに、その「帯」は一読の価値がある労作ではありますが、それだけで文庫本4冊分の価格が上乗せされているというのは、ちょっと納得がいきません。 これは、要は正規に国内での販売を任されている代理店を通して販売されたものと、そのサイトが別のルートで直接メーカーから輸入して販売(並行輸入)していたものとの価格差なのです。はっきり言って、きちんとした販売店がこんなことをやるのは商道徳を完全に無視した薄汚いやり方なのですが、元々この「H」という販売店はまっとうなところではありませんから仕方がありません。もちろん、ここではしっかり帯の付いた代理店経由の商品を購入していますよ。 その帯に書いてある収録時間を見てみると、全部で584分とあります。ほぼ10時間、相当な時間ですが、そのうちの実際の交響曲の演奏時間は254分だけです。残りの330分は、リントゥ自身の解説によってそれぞれの交響曲が作られた時代背景や作曲家のその時の状況などが語られたものと、彼とフィンランドの作曲家との対談による交響曲のアナリーゼです。それは、リハーサルを行っている時の映像と楽譜によって、とても分かりやすく解説されています。ここだけ見ただけでも、シベリウスの作曲の秘密が分かるという素敵な「おまけ」ですよ。 そして、肝心の演奏は、このオーケストラの本拠地、2011年の9月に出来たばかりのヘルシンキのミュージック・センターの中にあるコンサートホールでのライブ映像です。ご存知、豊田泰久さんが音響設計を担当したホールですね。客席の全景が見られるカットがほとんどないのが残念ですが、例えば同じ豊田さんの手になるミューザ川崎とよく似たアシンメトリーの客席のレイアウトの、美しいホールです。ステージの床が白い色に塗装されているのが素敵ですね。 そのホールで録音された音は、最高です。音声はCDのフォーマット以上のハイレゾで再生されますから、このオーケストラの底光りのする弦楽器の音は、背筋が寒くなるような響きとなって聴こえてきました。 個人的な興味としては、昨年末に首席奏者として正式に採用された日本人のフルーティスト小山裕幾さんの姿が見れるのでは、ということでした。ただ、実際に小山さんが吹いていたのは「5番」だけ、あとは、「1、6,7」はブロンド、「2,3,4」は栗色の髪の、それぞれ公式サイトには載っていない若い女性がトップを吹いていました。サイト上でのもう一人の首席奏者は、リハーサルの映像でしか吹いていませんでしたね。一応「2015年に収録」とはありますが、詳細なデータがないのでそのあたりの事情は全く分かりません。 その小山さんの音は、前任者のペトリ・アランコのようなシャープなものではなく、暖かみはあるのだけれどちょっとこのオーケストラのサウンドには合わないような印象を受けてしまいました。偶然、彼らが来日した時の映像をテレビで見ることが出来ましたが、その時の小山さんの音の印象も、全く同じものでした。 BD Artwork © Arthaus Musik GmbH |
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ここでルイスが使っているのは、そんな「モダン・チェンバロ」の代表とも言える、プレイエルのランドフスカ・モデルです。おそらく、このジャケットの写真と同じものなのでしょう、2弾鍵盤ですがストップは16フィート、8フィート×2、4フィートという4種類、さらに、音色を変える「リュートストップ」やカプラーなども加わっているので、それを操作するには、足元にある7つのペダルが必要です。このペダルの中には、ピアノの右ペダルと同じ「ダンパー・ペダル」も含まれています。なんせ、ピアノに負けない音をチェンバロで出そうとして開発された楽器ですから、ダンパーがないと音を切ることが出来ないほどの大きな音が出るのですね。 そんな楽器の音を、まずプーランクの「フランス組曲」で味わっていただきましょう。オリジナルはブラスバンドにチェンバロという編成ですが、それをチェンバロだけで演奏しています。バロック時代の宮廷舞曲をモデルにした7つの曲から成っていますが、ここでのストップの切り替えによる音色やテクスチャーの変化には驚かされます。そこに、朗々と響き渡る残響が加わるのですから、これはまさに「ピアノを超えた」新しい楽器という印象を与えるには十分なものがあります。 次の、これが世界初録音となるフランセの「クラヴサンのための2つの小品」になると、その音色に対するチャレンジには更なる驚きが待っています。1曲目の「Grave」という指示のある曲は、まるで葬送行進曲のような重々しい歩みで進んでいきますが、もっぱら使われるのが16フィートのストップを駆使した超低音です。それも、ヒストリカルでは絶対に出すことのできない分厚い音ですから、その「ビョン・ビョン」というお腹に響くビートは、例えば最近のダンスミュージックにも通じるものを感じさせます。クラヴサンによるクラブサウンドですね。 チェコの作曲家マルティヌーの作品も、ここには3曲収められています。その中で最も初期に作られた「クラヴサンのための2つの小品」では、やはり「モダン・チェンバロ」ならではの鋭い打鍵を駆使した音楽が聴かれます。 もう一人、「6人組」のメンバーの中では最も知名度の低いルイ・デュレが、様々な2つの楽器のために作った「10のインヴェンション」をピアノソロに編曲したものをが、チェンバロで演奏されています。タイトル通りのバッハを意識したポリフォニックな2声の曲ですが、中には半音階を駆使した無調を思わせるようなものも有り、それが妙にこの楽器とマッチしています。 かつて、「モダン・チェンバロ」が「ヒストリカル・チェンバロ」の代わりを務めることが出来なかったように、「ヒストリカル」では「モダン」のために作られた曲を演奏することはできません。これは全く別の楽器として共存すべきものなのに、今では「モダン」はすっかり衰退してしまい、絶滅の一歩手前です。こんなCDを聴くにつけ、このまま博物館の中でしか見られない楽器になってしまうのは、あまりにもったいないような気がします。 CD Artwork © Naxos Rights US, Inc. |
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今年の11月の初めに、今回は、「1+」という名前で、同じ曲目のBDとDVDがリリースされました。映像がメインの売り方をされていたので、全く興味はなかったのですが、ちゃんとCDだけのバージョンもあって、しかもそれは「リマスター」ではなく「リミックス」されたものだ、という情報が流れてきました。そういうことであれば、手に入れないわけにはいきません。 「リミックス」というのはクレジットカードではなく(それは「アメックス」)、オリジナルのマルチトラックのテープから、新たに2トラックにする作業(トラックダウン)をやり直すということですから、楽器やヴォーカルのバランスや定位までも変えることができるものなのです。もちろん、それをオリジナルからどの程度変えるかは、プロデューサーやアーティストのポリシー次第になるわけです。たとえば、先日のシュガーベイブの「ソングズ」の場合に、山下達郎はCDでは「リマスター盤」と「リミックス盤」の両方を作っていましたが、その「リミックス」は極力オリジナルに忠実に行っていましたね。 しかし、今回ビートルズの「1」の「リミックス」を行ったジャイルズ・マーティン(オリジナル録音のプロデューサー、ジョージ・マーティンの息子)は、オリジナルにはこだわらない、かなり大胆なリミックスを行っているようでした。 そのあたりを比較するのに、本当は2000年版「1」があればいいのですが、確かに手元にあったはずのこのCDがどこを探しても見つかりません。仕方がないので、その元となったオリジナルアルバムや、シングルのみのものは「Past Masters」と比較することにしました。おそらく、それらと旧「1」との間には、決定的な違いはないはずでしょうから。 ![]() ♪Yellow Submarine
ストリングスに関しては、この中の唯一のジョージの曲「Something」のバックのストリングスが以前の無機質な音からふんわりとしたテイストが味わえるものに変わっているのに狂喜ものです。「You’re asking me will my love grow」でのピツィカートも、これを聴いて初めて弦楽器のピツィカートと認識出来たぐらいです。 今回、これだけ音が明瞭になったのは、オリジナルのトラックダウンの際の度重なるダビングによる歪がいかに大きかったか、ということを明らかにしてくれるものなのではないでしょうか。それが当時の技術の限界だったとしても、これだけのマスターテープの音を今まで聴くことが出来なかったのは、とても残念です。それと、当時は基本的にモノラルミックスがメインで、ステレオミックスは二次的なものというスタンスでしたから、単純に左右のトラックに楽器やヴォーカルを振り分けただけという、今聴くととても不自然な音場(「音場」という意識すらなかったのかもしれません)のものが中期までのものにはたくさんありました。それが、今回のリミックスではヴォーカルがセンターに定位するなど、当たり前の音場で聴けるような配慮が多く見られます。これは、現在のオーディオ環境としてはまさに待ち望まれていたことです。 今回のジャイルズの仕事が、ビートルズのすべてのアルバムのリミックスという一大プロジェクトのスタートだと思いたいものです。それは2006年に「Love」がリリースされた時にも願っていたことなのですが。 CD Artwork © Calderstone Productions Limited |
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そんな、一区切りがつくところでの仕事ということで、この録音にはかなりの力が入っているようです。それは、この前の「魔笛」でも取り入れられていた「聴くオペラ」というコンセプトが、さらにスケールアップしていることで、よく分かります。地のセリフがある「ジンクシュピール」という形式を最大限に利用するために、サウンド・エフェクトやフォルテピアノの即興演奏などを駆使して聴く人に楽しんでいただこうというやり方ですね。これが、「魔笛」ではセリフそのものはシカネーダーのものをほぼ忠実に(ごくわずかなカットがあります)使っていたものが、今回はなんとヤーコブス自身の手で大幅に書き換えられたセリフが使われているのですよ。きちんと「Dialogfassung René Jacobs 2014」というクレジットまでありますからね。 例えば、最初に出てくるセリフである、ベルモンテがアリアを歌い終わったところでの独白は、NMA(新モーツァルト全集)では「Aber wie soll ich den Palast kommen, wie sie sehen, wie sprechen?(しかし、どのようにして宮殿の中に入ればいいのだろう?どのようにすれば、彼女に会って話が出来るのだろう?」なのですが、ここでは「Ich will sie sehen, mit ihr sprechen! Aber wie komme ich in den Palast?(彼女に会いたい!彼女と話したい!しかし、どうしたら宮殿の中に入れるのだろう?)」と、コンスタンツェへの思いがより強く感じられる言い方に変わっています。 こんな調子で、より分かりやすいセリフに変わったうえに、歌は歌うは、オリジナルではセリフのない衛兵にまできちんと出番を作るわと、とにかく楽しんで聴いてもらいたいという気持ちが伝わってくる改変です。もちろん、セリフの中ではフォルテピアノやオーケストラまでが入ってより盛り上げますし、アリアを歌っている間でも、それを一時中断して気の利いたセリフを挿入するといった、普通には聴けないサービスが満載ですよ。 そのおかげで、演奏時間はなんと2時間40分にもなっています。普通はセリフを適宜カットして2時間弱、カットなしでも2時間20分ぐらいですから、聴いたことのないシーンが続出で、まるで別のオペラを聴いているようです。 音楽的には、「トルコ」を強調、打楽器の激しいビートが強調されています。さらに、普通は「ピッコロ」が使われるパートに「リコーダー」が用いられています。これは、楽譜には「Flauto piccolo in Sol」と書かれているパートなのですが、当時は単に「フルート」と言うと縦笛の「リコーダー」を指していたからなんですね(横笛の「フルート」は「Flauto traverso」と言います)。これは、確かに効果的。 さらに、先ほどから登場している「フォルテピアノ」も、「ハンマーフリューゲル」というクレジットで、もう一人のキーボード奏者が加わっています。この二つの楽器、どこが違うのかわかりませんが、楽器が2台あるのは確かです。 歌手の人たちも、心なしかアリアよりもセリフの部分で盛り上がっているような気さえします。ブロンデ役のエリクスモーエンの下品な笑い方など最高です。ペドリッロ役のプレガルディエン(息子の方)も、ちょっとした間の取り方がすごくうまいですね。ただ、オスミン役のイヴァシュチェンコはあまりにもお上品、そして、ベルモンテ役のシュミットの歌は、コロラトゥーラもヘタだし、ちょっと趣味とかが合わないかも。 CD Artwork © harmonia mundi s.a. |
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録音に使われているのはいつもの彼らの本拠地、ベルゲンにある「グリーグ・ホール」です。このホールは写真で見ると扇形のだだっ広いワンフロアなので、あまり音は良くなさそうな気がするのですが、ライブではなく、お客さんの入っていないところでのセッション録音なので、適度の残響によってとても豊かな響きが加わっています。 リットンとベルゲン・フィルとのプロコフィエフは、2005年に録音された「ロメオとジュリエット」と2012年に録音された「交響曲第6番」(それに、フレディ・ケンプのバックでピアノ協奏曲の2番と3番)がありましたが、今回は2014年に録音された「交響曲第5番」と「スキタイ組曲」という有名曲のカップリングです。 「交響曲第5番」が作られたのは1944年、第2次世界大戦の末期です。それ以前にドイツ軍がロシアに侵入したことに対する抗議の意味が込められているのだ、とされている作品ですが、同じころに同じようなモティヴェーションで作られたショスタコーヴィチの「交響曲第7番」ほどの深刻さはほとんど感じられないのは、同じ「ソ連」の作曲家でありながら、この二人が本質的に異なるキャラクターをもっているからなのでしょう。 さらに、今回のリットンは、このプロコフィエフの「明るさ」をより際立たせるような演奏を行っているせいか、そのショスタコーヴィチが1時間近くの時間をかけた末に達した歓喜の境地に、プロコフィエフはすでに第1楽章で達してしまっているように感じられてしまいます。冒頭に現れる民謡風のモティーフは、その楽章の最後にはまさに華々しいクライマックスを迎えて、勝利の喜びを歌い上げています。その陰で、時折聴こえてくるちょこまかしたせわしないモティーフが、おそらく逃げ惑うドイツ兵なのでは、などという分かりやすいイメージが、彼のタクトからは伝わってきます。 続く第2楽章、そして最後の第4楽章も、まさにエンターテインメントとしての浮き立つような気分が満載、そのため、その間に挟まる第3楽章のちょっとダークな側面までも際立たせています。この楽章だけは、それこそショスタコーヴィチを思わせるような不思議なテイストが漂っていますね。それは、チャイコフスキーの「眠りの森の美女」やベートーヴェンの「月光ソナタ」の引用のせいでしょう。 カップリングの「スキタイ」も、このころ(作られたのは1916年)の作曲家のとんがった作風を前面に押し出した、見事な演奏と、そして録音です。おいどん、好きたい。一部の人たちの間では有名な2曲目の「邪神チェジボーグと魔界の悪鬼の踊り」などは、かつてNAXOSのハイレゾ・コンピのデモとして使われていたオールソップのBD-Aなどは裸足で逃げ出すほどのぶっ飛んだ録音です。三連符が続く箇所で不規則にアクセントが付けられている部分からは、まるでストラヴィンスキーのような荒々しさも聴こえてきます。 ただ、最近フルートの首席奏者が変わったのでしょうか、このオーケストラのサウンドとは微妙に齟齬のあるきついビブラートには、ちょっとなじめません。12年間リットンが務めた首席指揮者のポストも、2015/16年のシーズンからはエドワード・ガードナーが引き継いでいますから、もうこれ以後の録音もないのかも。 SACD Artwork © BIS Records AB |
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ただ、そもそも、このアルバムのリーダー、コントラバス奏者のEgon Krachtという人の情報が、日本語では全くヒットしません。オランダ人なので「エホン・クラハト」とでも発音するのでしょうが、それで検索しても、全く引っかからないのですよ。原語での検索だとオランダ語のWIKIで、やっと「1966年生まれのコントラバス奏者、作曲家」というのが分かるぐらいです。 このクラハトさんは、彼の作曲家としてのスタートとなった「マタイ受難曲」(2002年)、ユダからの視点で書かれた新たなテキストによる「ユダ受難曲」(2005年)と、これまでにすでに2曲の「受難曲」を発表しています。そのシリーズの3作目として2011年に初演されたのが、この「スターバト・マーテル/スターバト・パーテル」というタイトルの曲です。その時と同じ「ザ・トゥループ」という彼のグループによって2013年に録音され、オランダでは2014年に発表されたSACDが、やっと日本でもリリースされました。 「スターバト・マーテル」というのは、有名な「Stabat mater dolorosa」という「悲しみにくれる母親が佇んでいた」という意味のテキストで始まる宗教曲のことです。かつては「悲しみの聖母」という邦題がありましたが、今では誰も使いません。シーズンまっただ中なのに(それは「歳暮」)。もちろん、この「母親」というのはその「聖母」マリア、佇んでいるのは息子のイエスが処刑された十字架の下ですね。そこに、クラハトさんは「Stabat pater dolorosus」という、「父親」を主語にしたテキストを新たに作って加えたのですよ。 ですから、ジャケットもそれぞれに対応して、表は「母」、裏は「父」になっています。この「父」の写真はすごいですね。この毛むくじゃらの腕がどうなっているのかこの写真ではよく分からなかったのですが、どうやら自分の腕を首の後ろで組んで、悲しみをこらえている、というポーズのようですね。 そんな、「男目線」のラテン語のテキストと、さらに新作のオランダ語の歌詞とが交錯して、この1時間以上の大曲は進んでいきます。まずは、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスという3つの弦楽器が奏でる神秘的なピアニシモに導かれて聴こえてきたのが、ごくまっとうな「合唱」だったのには、一安心です。それこそゴスペルみたいなものが出てくるのではないかとひやひやしていたものですから。 その合唱(正確にはソプラノ、アルト、テノールの重唱)によるメインテーマは、なんだかどこかで聴いたことのあるようなメロディでした。プーランクの「スターバト・マーテル」あたりが、いちばん近いでしょうか。そして、そこに絡む弦楽器は、まさにペルトの世界です。ですから、これは「ジャズ」ではなく、ごくフツーの「現代音楽」のようなテイストを持っていました。ただ、そこに時折インプロヴィゼーションが挿入されるあたりが、ジャズがベースの音楽であることの証なのでしょう。ただ、そのソロはもっぱらフリューゲル・ホルンがとっていて、リーダーのクラハトのソロは1ヵ所だけ、あとはアンサンブルに徹しているようです。 と、気持ちはわかるのですが、なんか「クラシック」にも「ジャズ」にもなりきれていないところに、居心地の悪さを感じてしまいます。その責任は声楽のソリストたちにあることは間違いないのでは。 録音は、予想通りのすばらしさでした。その声楽陣の澄んだ「音」は、なかなか他では聴けないものです。ですから、なおさら、その歌い方に対する中途半端なスタンスが、際立ってしまいます。 SACD Artwork © Turtle Records/Edison Production Company BV |
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間違っているのは、ソリストのアン・アキコ・マイヤースが参加している曲目のクレジットが、本当は「4曲目から6曲目」のはずなのに、「5曲目から7曲目」になっているのと、その「6曲目」の「フラトレス」のヴァイオリン・ソロが入ったバージョンが作られた年代です。曲目のリストでは(1977/1992)となっているのに、ライナーには「1977年のヴァイオリン・ソロと弦楽合奏のバージョン」と書いてあるのですから、いったいどちらを信じたらいいのでしょう。 ふつう、こういう間違いがあった物が市場に出た時には、こちらのようにひと言「お詫び」を入れるというのが社会常識なのですが、このレーベルと代理店はそれを怠っているか、あるいは、信じられないことですがこれらのミスに気が付かないのですから、最悪です。 ただ、そんな劣悪な会社ではなく、ごく普通の人でも、ペルトが作った「フラトレス」という曲のバージョンの多さには、様々な混乱を抱いてしまうはずです。最近はバーサンもいますし(それは「ウェイトレス」)。そもそも、ものの本ではオリジナル・バージョンとされる「弦楽五重奏と木管五重奏」という編成のものが、ペルトの楽譜を一手に扱っているウニフェルザールのカタログには見当たらないのですからね。そのカタログには、この曲のなんと17種類ものバージョンが載っているというのに。それ以外にも加藤訓子のマリンバ・バージョンもありますし。 指揮者のヤルヴィ一家は、ペルトとは家族ぐるみで親しく交際しているのだそうです。なんたって、このアルバムの中では唯一の「ティンティナブリ以前」の作品である「クレド」を1968年に初演したのがネーメ・ヤルヴィなのですからね。1992年に録音されたネーメ・ヤルヴィとフィルハーモニア管弦楽団とのCHANDOS盤(CHAN9134)では、ここでの息子のアルバムと同じ曲をその「クレド」を含めて4曲演奏しています。 しかし、その演奏と今回のアルバムの息子の演奏を比べてみると、ペルトの音楽に対する姿勢が全く異なっていることに驚かされます。いや、別に親子だからと言って同じような演奏をする必要などさらさらないのですけどね。というよりも、やはり息子としては親とは違うことをやって認めてもらいたい、あるいは長男のパーヴォと同等に扱ってもらいたいと思っているのかもしれませんね。頭髪に関してはこの二人に勝っているのですからいいのではないかとも思うのですが。 その違いは、演奏時間という分かりやすい数字ではっきりと示されています。つまり、どの曲でもクリスティアンの方がパーヴォに比べると極端にテンポが遅いのですよね。それに伴って、表現がかなり粘っこくなっています。言ってみればパーヴォの演奏は「現代風」、クリスティアンの演奏は「ロマンティック」でしょうか。正直、ただでさえ退屈なペルトの音楽でこんなことをやられると、聴いているうちに必要以上の安寧感に襲われてしまうのではないでしょうか。ちょっと寝不足気味の人だったら、確実に眠り込んでしまうことでしょう。 ここでは、「フラトレス」は2つのバージョンが演奏されています。ヴァイオリンのソロが入るものは、最初に長大なソロが加わっているので尺は長くなっているはずなのに、ソロの入らない弦楽合奏+打楽器のバージョンよりも演奏時間が短いのは、やはりソロが入ると相手に気を使ってそんなにテンポを遅く出来なかったせいなのでしょう。なんか、「小物」って感じがしません? CD Artwork © Naïve |
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ここでガロワが取り上げたのは、ベートーヴェンの作品105と作品107という正式な作品番号が付けられている、「民謡による変奏曲集」です。こんな作品、おそらく実際に聴いたことのある人などほとんどいないのではないでしょうか。余談ですが、悪名高いNMLの表記では、これが「国歌による変奏曲」となっていましたね。 作品番号が付いているということは、ちゃんと出版されたということですが、1819年にイギリスで部分的に出版された時のタイトルが「Twelve National Airs with Variations for the Piano and an Accompaniment for the Flute」でしたから、「National Air」に反応して「国歌」と訳したのかもしれません。でも例えば「庭の千草」などがテーマとして使われているのは聴いてみればすぐにわかりますから、これは国歌ではないと気づきそうなものです。なんともいい加減な日本のNMLのスタッフの仕事ぶりです。 参考までに、その後きちんと作品番号を付けて出版された時のタイトルは作品105が「ピアノ・ソロ、もしくは任意のフルートかヴァイオリンを伴う6つの平易な変奏曲」ですし、作品107が「ピアノと任意のフルートかヴァイオリンを伴うロシア、スコットランド、チロルのテーマによる10の変奏曲」(いずれもフランス語)というものでしたから、「民謡」という単語すら入ってはいなかったのですけどね。 これらの作品は、スコットランドで「芸術産業振興理事会」の職員をしていて、自身もかなりオタクなアマチュアの音楽家だったジョージ・トムソンという人の依頼によって作られました。彼の仕事は出版された民謡の楽譜を収集することでしたが、それが昂じてついに当時ウィーンで活躍していた大作曲家たちに民謡の主題を用いた曲を作らせることを始めたのです。最初はプレイエル、そして彼の師であり、イギリスでのライバルでもあったハイドンにそのような委嘱を行いますが、さらにベートーヴェンにも同様の仕事を依頼します。しかし、そのオファーは金額的に必ずしもベートーヴェンの満足できる条件ではなく、さらに、あくまでアマチュア向けのやさしい作品をトムソンが求めても、ベートーヴェンは断固として応じなかったということで、なかなか話は進まなかったようですね。結局出来上がったのはこの2つの曲集だけでした。 そのような、あくまでフルートはピアノの「付け足し」という位置づけのこれらの作品を演奏する時に、ガロワは大幅に手を入れて「ピアノ伴奏によるフルート・ソロ」という形の変奏曲に作り替えました。例えば、オリジナルではピアノが変奏を弾く中でフルートはちょっとした間の手を入れる、といったような部分でも、フルートに堂々たるテーマを演奏させて、そのバックでピアノがチマチマ変奏を行う、というような改変ですね。 そして、最大の改変は、この、言ってみれば「金のため」だけに作った(それは決して悪いことではありませんが)イージーとも思われる作品に、ガロワがとてつもなく深みのある「意味」を込めて演奏しているという点です。こんな曲でも以前にヴァイオリンとピアノのバージョンで演奏されたものがあったので聴いてみましたが、その、まさに音符を忠実に再現しただけの演奏と比べると、その違いは歴然としています。おそらく、トムソンの苦情に応じていやいや作り変えたベートーヴェンの仕事に最初はあったはずの作曲家の意地のようなものを、ガロワは丹念に付け加えていたのでしょう。でも、さすがに「フィンガー・ビブラート」はちょっと余計だったような気がしますが。 CD Artwork © Naxos Rights US, Inc. |
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確かに、この3つの作品には共通点があります。いずれも委嘱された時には「若い」合唱団が参加することが想定されていたこと、そして、テキストを書いたのは、最近のチルコットのパートナーである詩人のチャールズ・ベネットだということです。このベネットの詩は、非常にわかりやすい言葉で深い情感を表現しているような印象がありますが、そのあたりがチルコットの作る音楽とうまい具合にマッチしているのでしょう。 そんな、テキストの面白さが見られるのが、2013年にウースターで開催された若い人たちの合唱団のフェスティバルのために作られた「世界を変えた5つの日」です。なんとも大袈裟なタイトルですが、それぞれ「1455年3月29日木曜日 印刷術の発明」、「1834年金曜日 奴隷解放」、「1903年12月14日月曜日 最初の有人動力飛行機」、「1928年9月28日金曜日 ペニシリンの発見」、「1961年4月12日 水曜日 最初の有人宇宙飛行」と、一風変わった歴史観が見られるチョイスです。ただ、ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばしたのは12月17日のはずですがね。 ここでは、このアルバムのメイン・アーティストであるBBCシンガーズとフィンチリー・チルドレンズ・ミュージック・グループという児童合唱団が歌っていますが、子供たちが加わるのは5曲のうちの「印刷術」、「奴隷解放」、「有人宇宙飛行」の3曲だけです。そこでは児童合唱(アッパー・ヴォイス)は成人のソプラノ・パートと一緒に歌うのではなく、単独で別のパートとして用意されています。それは、掛け合いのような形ではっきりその存在感を発揮、それぞれの曲の個性を作り上げているのです。「奴隷解放」では、その手法で2番から児童合唱が入ってきますが、美しいメロディと「ほんの少しの言葉が、人々を自由にする」という歌詞とがあいまって、感動を誘います。 次の、やはり2013年にモーダレン・カレッジ合唱団のために作られた「春の奇跡」は、本来は高校生ぐらいの「若い」人のために作られたものですが、ここではBBCシンガーズだけで歌われています。自然の神秘を水の流れに託して歌うという、イギリス版「水のいのち」、チルコットのもはやルーティンともいえる卓越したキャッチーな手法が冴えわたります。5つの部分が切れ目なく演奏され、時折グロッケンや小太鼓のアクセントが入って、とても起伏にとんだ曲になっています。ここでも、2曲目の「The Souce of The Spring」などは、信じられないほどの美しさを持っています。 そして、最後は、ここで指揮をしているデイヴィッド・ヒルの委嘱で2011年に作られ、2012年の「BBCプロムス」で初演された「アングリー・プラネット」です。ここでは、全ての合唱団が加わって、壮大なサウンドを披露してくれます。4つの楽章に分かれた大曲ですが、次から次へと性格の異なる部分が現れて、退屈することはありません。ここでも、やはり児童合唱はそれだけで一つのパートとして、とても際立つような作り方をされています。タイトルからも分かるように、環境問題をテーマとしたもの、チルコットにしては珍しいトーン・クラスターのようなものまで登場して、シリアスな一面も見せています。子供たちが鳥のさえずりを模倣しているのが、かわいいですね。 CD Artwork c Signum Records |
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おとといのおやぢに会える、か。
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