ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

実験
実験1―ここを指差す
実験2―頭のない体
実験3―鏡の実験(1)
実験4―鏡の実験(2)
実験5―顔対顔がないもの
実験6―目を閉じて実験する
実験7―すべての物事になる
実験8―世界を回転させる
実験9―触る実験
実験10―頭がない円
実験11―紙袋の筒の実験
実験12―手の中の現金
実験13―物との距離をなくす
本当の姿に目覚たままでいる
実験

*実験の動画を見たい方はこちらへ(日本語字幕つき)

*それぞれの実験のページに行くには、左の各実験の名前をクリックしてください。

自分の本当の姿に目覚めたままでいる(Richard Lang)

それを継続する

ここに紹介した実験は、あなたの注意を自分の本当の姿に導きます。しかしながら、一回見ただけでは、自分の人生に大きな変化は生まれないことでしょう。あなたは目覚めるという習慣を発展させる必要があります。

見ることを日常の活動と結びつける

あなたは、ワークショップでの状況から日常へと実験を広げる必要があります。一人でいるときは、単一の目と頭がない体に気づいてください。また人々といっしょにいるときは、お互いに顔を交換していることに気づいてください。歩いているときは、風景がその中を動いている静寂さになってください。心が騒がしいときは、自分の思考や感情がその中で起こる妨害されない空間に気づいてください。

あなたは自分が定期的にしている何かを見つけて、それをするとき、それを頭がないものとしてやることができます。このことは歯磨き(歯ブラシが虚空に消えていきます)から、車の運転(そのとき、あなたは静寂で、道路が動きます)まで、どんなことも可能です。電話をしているときは、電話は虚空に消えていきます! そして、自分と相手の声が静寂さの中で起きます。テレビを見ているときは、スクリーンの単一の目は、あなたの単一の目を思い出させてくれますが、でもあなたの単一の目は枠のない目です。見ることを、瞑想、タイチ、ヨガ、ダンス、楽器を演奏することなど、何でも結びつけてください。

見ることを友人たちと分かち合う

同じ波動の友人たちといっしょに時を過ごすことは、役に立ちます。頭がないことは伝染します。それについて話す必要もなく、私たちはお互いに自分の本当の姿を思い出させます。あなたの顔は私に、自分には顔がないこと、つまり、私はあなたのための受容能力であり、相手もまたそうであることを思い出させます。また実験を使って、他の人々と頭がないことを分かち合うことができます。私が人々に示すとき、私は自分にも頭がないことに気づかざるをえません。しかし、それをどんな人にも押しつけるのは実りがなく、無礼なことです。人々の中には、このことを知りたくない人たちもいます。

あなたは間違ってそれをやることができません。

自分の頭のなさを一部だけ見ることは不可能です。あなたは、物は半分だけしか見ることはできませんが、虚空を半分見ることはできません。それを見るとき、あなたは一度にすべてを見ます。それ以上見ることは何もありませんし、またそれを不完全に見ることもできません。それはある日はよく見えず、次の日はよく見える、あるいは、あなたよりも他の誰かのほうがよく見える、ということはないのです。中心では、見ることの段階はなく、見者の階級もありません。(もし私たちが仮にもここで、″何かをここでやる″ことを話すことができるとすれば)、誰もがそれを完全にやります。気づきはよりよくなることはなく、また、それを無視しても、それが退化することもありません。

恩恵

もしあなたが見ることを取り上げて、それを自分の人生に統合するとき、どんなことが起こる可能性があるのでしょうか? 自分の本当の姿を継続的に経験することから、多くの肯定的効果があります。

世界を直接見る

しばしば人々は、物理的世界をもっと明確に経験します。色はもっと鮮やかで、音ももっと明晰で、トンネル的狭い視野があなたの単一の目のパノラマ的視野に置き換わります。最も平凡なものにさえ、美があります。私たちが自分の肩の上に頭がしっかりと固定されていると想像するとき、その頭のこと、そして、自己イメージに取りつかれます。その結果、自分の目の前にあることを受け入れる余地がより少なくなります。私たちの自己イメージは、世界をぼやけさせる霧のような役割を果します。私たちは与えられている世界をあるがままではなく、世界についての自分の考えを見るのです。しかし、私たちが中心には自己がないのを見るとき、自分自身についての強迫観念の力は弱まります。私たちは自分でいっぱいになるかわりに、世界でいっぱいになります。そのとき、世界は直接認識され、そのすべての物質的美の中で、それ自身を現すのです。

無境界

顔という想像上の壁の消滅は、あなたをすべての他人と環境と融合させます。人々はもはや<他人>ではなく、世界はもはや<外部>ではありません。それはまるであなたが宇宙によって衣服を着せられたかのようです。あらゆる石、星、人々、木、動物と、あなたはこの内なる秘密、存在の秘密を分かち合います。この霊的交流は、あなたとあらゆるものの関係を変容させます。自分が自分自身の顔の代わりに、隣人の顔をもっていることを見ることは、長期的は、あなたが彼、彼女とどう関係するのかと切り離すことはできません。あなたはあなたの隣人なのです。また、環境が自分の肉体であることを見ることは、環境をどのように扱うのかを改めて深く考えさせてくれます。

自信、平和、喜び

あなたの本質は、常に存在し、近づくことができます。それは信頼でき、決して枯れることがあります。それは想像できないほど創造的であり、あらゆる物事の源泉です。それはまたそれ自身の源泉でもあります。底しれないこういった真実が、あなたの存在の中に染み出て、あらゆるレベルであなたに影響を与えます。この気づきから生まれる内なる自信、平和、喜びは、あなたが人として何かを達成したことや人としての長所によるのではなく、あなたの本質によるものです。自分の本質の岩盤の上にあるので、それらの自信、平和、喜びは根拠が十分にあります。なぜなら、どんな嵐も自分の本質を破壊することはできないからです。死さえも。

結果を忘れる

それにもかかわらず、必ずしも誰もがこれらの恩恵を経験したり、あるいは同じ程度、恩恵を経験したりするわけではないことは、言っておく必要があります。私たちは皆、違っています。そして、やって来たものは、去っていきます。すべての平和、自信、喜びの感情が抜け落ちるときがあるでしょう。そのとき、私たちは、見ることと関連づけてきた恩恵もなく、ただ何者でもない(無である)という明白な事実とともに残されます。しかし、このことが起きるとき、本当は何かがおかしくなったわけではありません。そういった〈結果〉を失うことは、進化と変容のプロセスの一部であり、新しい成長の余地を生みます。本当に失うことができず、常に手に入り、信頼できるものは、どんな特定の経験の底にも流れ、それらが来て去ったあとにも残る気づきです。それは今、この瞬間、与え受け取ることを信頼できるものです。

私たちはどんな困難と出会う可能性があるでしょうか?

見ることと感じることを混同する

頭がないことは、感情ではありません。それは感情が起こる空間に気づくことです。しかしながら、頭がないことが、愛、平和、喜び、くつろぎといった肯定的な感情に導くので、見ることはこれらの感情と関連づけられるようになります。その危険性とは、そういった感情が去ったとき(あらゆる感情は去るものです)、私たちは、見ることを失った、あるいは、私たちは間違ってそれをやっていると思うかもしれないということです。でも何も失われてはいませんし、何も間違っているわけではありません。

見ることは、来ては去っていく特定の感情の下にあって、残ります。それは、気分のよいときと同じように、私たちの気分が悪いときにも手に入るものです。出来事と感情から独立しているのが、あらゆる底にあるその安定性です。私たちが自分のまわりや自分の内部の物事が崩壊していることに気づくとき、これらの感情と、この混乱よりも自分に近い場所、影響をまったく受けず、全体であるこの場所の両方に注意を向けることができます。私たちがクレージーに感じるとき、見ることは正常さ、私たちの本当の姿の正常さへの生命線です。何もこの根本的正常さを破壊することはできません。

虚空から〈物事〉を作る

虚空は無です。でも私たちがそれについて話し、それに気づき、特に本当の姿、真我、神などという名前をつけるとき、無であるものを何かにしてしまう危険性に陥ります。これは自分の肩に自分の頭や何かを見るのと同じくらい幻想であり、おそらくはもっと危険なことです。真我が、小さい自己を膨らませる微妙な方法となり、私はその名前、そのイメージに執着するようになります。私には頭がなく、空間と同じく明晰であるという観念は、私と世界の間の微妙な障害となります。そのとき私は世界から離れて、自分の〈無〉、自分の神性に引きこもってしまいます。

しかし、私の本質は世界から分離した一つの〈物事〉ではありません。もしあなたの頭が何かに置き換えられるとしたら、それは〈無〉ではなく、世界です。ここには世界から分離しているものは何もなく、世界からあなたを分けるどんな障害もなく、その世界の背後で〈あなた〉は存在しています。しかしながら、中心で自分自身から〈物事〉を作るように思われる微妙な概念を取り扱う方法は、それらを抑圧しようとしないことです。抑圧するとそれらを強化することになります。それらに注意を払い、ここには概念がないことに対して、向こうには概念があることを見てください。あなたは中心では概念から自由です。それらはあなたを〈物化〉しません。

無であることの怖れ

自分が本質を見ることが混乱を招くこともあります。ときに人々は、自分が消えて、見えない存在になってしまうことに怖れをいだきます。そういった人々には、頭がないことは気味わるく、奇妙で、まるで少し気が変になったかのように感じます。事実は、彼らは正気になったということですが、彼らが経験することは、社会から否定され、気が狂っているとレッテルをはられます。社会は、私たちが何も見えない場所に頭をもっていると、私たちに言います。そういうわけで、私たちは所属するために、社会を信じ、ついには、何もない場所に何かを見てしまいますが、それは妄想です。自分が見たもの、あるいは見ないものを信頼してください。

もし怖れているなら、その怖れに気づいてください。あなたは何を怖れているのでしょうか? それを調べてください。一つの反応は、何もないことを見て、それから、無であることについて考えることに切り替えて、その考えを怖れるのです。その考えは、〈無〉それ自身とは同じものではありません。その無を見つづけてください。自分の怖れに直面してください。そうすれば、それはしだいに消えていくでしょう。おそらく怖れがどれだけ強力であっても、それは一つの感情にすぎません。無というのはまた充実、世界で満ちあふれることでもあることに注意してください。そして、無はまた気づいてもいます。ときに、無である怖れは無である安堵感に変わることもあります。無であれば、がんばるべきことも守るべきこともありません。あなたは自分自身から解放されているのです。あなたが一体化するすべての様々な物事の底流にあるものは、変化せず、破壊できないあなた自身の〈中心〉――存在です。

あまりにも単純である

頭がないことはあまりに単純であることが、問題である人たちもいます。彼らはそれを見ますが、でももっと複雑なもの、もっと心理学的なもの、もっと霊的なものを望みます。それで彼らはそれを捨て去って、それをトリック、視覚的幻想であると思うのです。でも人々がそれに留まれば、その単純性はその深さとそのパワーとその実用性に合っていることがわかります。そして、それはトリックではありません。それはあなたが本当にそれを見るとき、意味をなします。

源泉を信頼する

自分とは何かを発見することは、自分の命の中心は、自分が一体化している個人的自己ではなく、あらゆるものを含んでいる真実の自己(真我)であることに気づくことです。この発見は、私の人生の生き方に大きな挑戦を投げかけます。中心における変化とともに、私たちの価値観も変わり始めます。私たちは真我からの視点で世界を見るようになります。しかし、人間の中心と小さな自己に一体化しつづけるという私たちの条件づけは、根深いものです。ここにまさに、〈大きな自己〉と〈小さな自己〉であることの逆説があります。ときに私たちの個人的計画とおりに物事がうまくいかないことがあり、私たちは失望します。もし物事を変えることができないなら、行うべきやり方は結果を手放し、与えられていることを受け入れることが含まれています。

自分の本当の姿を見ることは、起こっていることは源泉からやってくることであり、信頼することができるという認識へと導きます。困難なことは、私たち人間の自己は、真我が知っていることを知ることができず、それゆえ、私たちは真我を信頼するために、信念の跳躍をすることが必要であることです。私たち人間の知と専門知識は、私たちの本当の姿の〈未知〉に道をゆずらなければならないのです。経験は、自分の本質を信頼する知恵を示してくれますが、この信頼とは、私たちが学ぶことができる何かではなく、むしろ、毎回学んだことを忘れ、神の手にまかせるプロセスです。この学んだことを忘れることは、実践とともに簡単になるかもしれませんが、私はそれがいつも簡単であるとは思いません。それにもかかわらず、抵抗が単なる受容だけではなく、起こっていることを完全に歓迎することに変わるとき、平和と喜びがあります。与えられていることは、自分の本質が現象化したことです。ですから、私たちの個人的意志は、私たちの本質の意志と提携し、現在の瞬間に象徴化されています。不安、心配、疑いは、安心、平和、自信へと変わります。