ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

実験
実験1―ここを指差す
実験2―頭のない体
実験3―鏡の実験(1)
実験4―鏡の実験(2)
実験5―顔対顔がないもの
実験6―目を閉じて実験する
実験7―すべての物事になる
実験8―世界を回転させる
実験9―触る実験
実験10―頭がない円
実験11―紙袋の筒の実験
実験12―手の中の現金
実験13―物との距離をなくす
本当の姿に目覚たままでいる
実験

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このページにはすべての実験が掲載されています。読みにくい場合は、左の各実験の名前をクリックしてください。

実験1‐ここを指指す

世界の中の何を指さしても、あなたは外見を指さすことになります。あなたは自分が眺めているものから、離れていて、あなたには何かの外見が見えます。何かを指差して、試してみてください。


次に他の人たちがあなたの顔を見るところに、指を向けてください。あなたは何が見えますか? あなたは自分の注意を180度回転させ、自分をゼロセンチのところから眺めています。あなたは何か外見が見えますか?

あなたの指は、今、何を指差していますか?

他の人たちがあなたの顔を見るところで、自分自身を指さすとき、あなたはまったく「何もないもの」を指さしているのではありませんか? ここには目もなく、口もなく、ほほもなく、頭もありません!

外側(他の人)から見ると、あなたは自分の頭を指差しています。


あなたは頭を失って、世界を得ました!

実験2‐頭のない体

他の人たちのためには、あなたは肩の上に頭を乗せて、まっすぐ立って、体の下には足があります。これがあなたの第三人称の姿です――距離を保って、あなたは現われ、そのときあなたは人間です。

第三人称:あなたは世界の中にいます。

でももう一つの見方――あなたの第一人称としての見方を考えてください。

第一人称:世界があなたの中にあります。

他の人たちにとっては、あなたは世界の中の誰かです。でも自分自身にとっては、あなたは世界のための空間です。あなたが世界の中にいるのではなく、世界があなたの中にあります!

これら二つの見方、外側と内側の見方は、その視点によって、どちらも真実です。(あなたが自分を見れば、頭がありません。他の人たちがあなたを見れば、あなたには頭があります。そして、もちろん、鏡やカメラを通じて見たあなたの自身の姿にも頭があります。鏡の実験を参照してください)

実験3‐鏡の実験(1)

あなたが鏡を見るとき、あなたは自分の顔がどんなふうかを見るだけでなく、それが「どこ」にあるかも見ます。つまり、顔は、ここあなたの肩の上に乗っているのではなく、鏡の向こうにあります。

鏡を自分のほうに近づけると、あなたはイメージを得ます。鏡の中には人間の一部しかありませんが、それもまたあなたの反映です。

大きな鏡を遠くへ立ててください。そうすれば、人間の体全体が見えます。

実験4‐鏡の実験(2)

では、空に巨大な鏡を想像してください。それはあなたの外見を反映するでしょうが、そのイメージは、一人の人間のものではもはやありません。

    

この範囲では、あなたは自分の国家の顔を見るでしょう。さらに遠くでは、惑星の顔を見るでしょう。さらに遠く離れれば、銀河の顔を見るでしょう。

あなたが鏡(実際の鏡であれ、想像上の鏡であれ)をもつ場所は、その範囲、そのレベルでのあなたの姿を映し出します。もしあなたが非常に近い範囲の自分自身の映像を見ることができるとすれば、あなたは細胞、分子、原子など、実際ほとんど無にいたるまでを見ることでしょう。

事実、これが、科学者たちが最新の洗練された道具を使って、私たちに映し出してくれる私たちのレベルです。でも、鏡、カメラ、電子顕微鏡、他の人々はすべて、「私たちが自分の中心で何か」を言うことができません。

誰も、自分以外、私たち一人ひとりの中心に踏み込んで、ここで、自分が何であり、誰であるのかを言うことができないのです。なぜなら、私たちはすでにここにいるからです! 

自分が中心では何かを、他の人たちが言ってくれるのを待つ代わりに(彼らは、それを言う位置には決していることができません!)、私たちは自分で単に見ることができます。その顔が人間の顔であれ、惑星の顔であれ、銀河の顔であれ、細胞の顔であれ、原子の顔であれ、他の人たちがあなたの顔を見るまさにその場所で、あなたは今、何を見るでしょうか? 

この場所を指さして、見てください。この<内側を見ること>は、ここ中心では何の外見も示さないのではないでしょうか? でも、この<何の外見もないこと>が、それにもかかわらず、気づいていて、あなたが見るすべてで満たされ、あらゆるレベルのこの素晴らしい、生きている宇宙でいっぱいなのではないでしょうか?

実験5‐顔対顔がないもの

この練習を友人とやってください。友人の顔を見てください。そして、彼(彼女の)の顔の色、形、目、鼻、髪の毛などに気づいてください。

まず、相手の顔と自分の顔を同時に見ることができないことに気づいてください。ここには、目もなく、色もなく、形もありません。まったく見るべきものが何もありません。空っぽで、明晰で、開かれていて、境界がないのです。そして、ここのこの<空間>は、友人の顔でいっぱいです。

別の言葉でいえば、現在の証拠にもとづいて、あなたの友人を見るとき、あなたは「顔対顔」になっていますか。それとも、「顔対顔がないもの」になっているでしょうか? あなたは自分自身の頭を失って、代わりに友人の頭を受けとっています。あなたは自分自身の顔ではなく、彼(彼女)の顔、外見を身に着けています。

明らかに外側から見れば、あなたとあなたの友人はそれぞれ一つ頭をもっています。外側からみれば、これは意味があります。でも、あなたは外側ではなく、内側から、まったく距離のないところから、その状況を見ています。

あなたの顔・頭は、友人の顔・頭のために、消えているのではないでしょうか?

これは実際、あなたが自分自身の頭を失って、世界の自分以外の人の頭を得ていることになります。あなたはあなたの友人です。あなたはあなたの隣人です。あなたは、他の人たちのために開かれて<作られて>います。この気づきは、隣人を愛するよい基礎となります。

実験6‐目を閉じて実験する

目を閉じて、第一人称現在形であることがどんなことか探求します。

記憶やうわさや想像ではなく、自分自身の現在の経験にもとづいて、自分がどれくらいの大きさか判断してください。あなたの形は何ですか? あなたには何かの大きさや形になることが可能でしょうか?

あなたは境界をもっていますか? あなたが終わって、世界が始まる場所があるでしょうか? それとも、あなたと世界をわけるものは何もないでしょうか? 

おそらくあなたは遠くから近くの音まで、様々な音を聞くことでしょう。あなたは自分が今いるところで、何か音を聞きますか? 音は、あなたが今いるところの静寂さの中で、来り、去ったりするのではないでしょうか?

中心では、あなたは思考や感情の集合――心でしょうか? この心は何で、どこにあるのでしょうか?

思考や感情はそこから現われるのでしょうか、それとも、何もないところから現われるのでしょうか? あなたの心は、中心に集められ、箱詰めされ、世界から切り離されていますか、それとも、自由で、箱には詰められていず、世界と結びついているでしょうか?

温かさ、深さ、快適さ、呼吸などの感覚が現れています。これらの感覚は、あなたを固くて、制限された中心にある<何か>に変えてしまいますか? あるいは、これらの感覚は、思考、感情、音などと同じように、気づきの透明性の中に、現われて去っていくものでしょうか? 頭痛はどれくらい大きいものでしょうか? 一方方向の注意は、痛みを頭の境界の内部にあるものと考えて、それに注意を払います。二方向の注意は、その中で痛みと頭という概念が起こる空間に気づきます。向こうに顔があって、ここには顔がないように、向こうには痛みがあって、ここには痛みがありません。

あなたが一体化する様々なものの底にあり、それらを含んでいるのは、何も占有していない、永遠の純粋な意識です。それは物ではありませんが、でもそれは絶対的に現実であり、常に存在しています。それがあなたの本当の姿です。

実験7‐すべての物事になる

次の実験は、1972年にダグラス・ハーディングがデザインした二人のためのワークシート、「信じられない仮説をテストするための道具セット」から引用しています。「信じられない仮説」という言葉は、テニソンからの引用で、彼は、「呼吸よりも、手足よりも近いものが、彼(神)である」と言っています。

一人がもう一人に次のように指示し、質問する

くつろいで、快適にすわって、静かにして、目を閉じ、次の質問に答えてください。声に出して答えたいときだけ、そうしてください。

「現在の証拠にもとづいて、あなたは今、どんなふうですか?」

「あなたはいくつの足、腕、頭、体をもっているか(もしもっているとすれば)発見することができますか?」

「あなたはどれくらいの大きさですか?」

「それにもかかわらず、あなたは、『I Am=私は存在する』と言えるのではないでしょうか?」

「自分は存在しているという感覚は、自分をあれやこれだと見たり、考えたりしているときに比べて弱まっているでしょうか? おそらくむしろ、今ずっと強くなっているのではないでしょうか?」

「それはあなたの何かの感覚に依存していますか?」

「この、『I Am=私は存在する』は、それを、あなたの人間のある面や他の何かと結びつけるような、何らかの特徴をもっていますか? それとも、そういった特徴などがどれほどどこで享受されても、それは、『I Am=私は存在する』とは、違うものではないでしょうか?

このように自分自身の中心にいることは、またあなたはすべての存在している物事、あらゆる存在の中心にいることであり、彼らの手足よりも彼らの近くにいるのではありませんか?

「そして、あなたは、私の手足よりも、私の近くにいるのではありませんか?」

あなたの鼻はここの顔に、くついていますか?

あなたが自分の鼻を見るとき、顔にくっついている単一のものである代わりに時に不透明で、時に透明で、ときに世界のこちら側に、時に世界の向こう側についている、何かぼやけたものを見るのではないでしょうか?

これらのいずれも、顔にくっついていますか? それらはどこからともなく、現われるのではないでしょうか?

あなたのぼやけた鼻のようなものの、あなた側の神秘的場所に注意を払ってください。ここはあなたの最も内奥の本質、あなたがいつも訪れている秘密の場所です。そこには何かの物質性、形、名前、位置がありますか?

これらのぼやけたもの、私たちの「鼻」は、この誰もいない国への途上にある最後の辺境です。でも、この空間の「最も内奥の場所」から、最も遠い星はどれくらい遠いでしょうか?

実験8‐世界を回転させる

自分の顔があるとされているところを指さし、その場で回転してください。

他の人たちは、あなたのまわりが静止していて、あなたが動いているのを見るでしょう。

他の人から見たあなたの姿

あなた自身の経験も、それと同じですか、それとも、それとは違っているでしょう? あなたが静止していて、動いているのは、世界ではないでしょうか?

内側からの眺め


実験9‐触る実験

これはダグラスのすばらしいワークから生まれた実験です。私たちは自分が見たり、聞いたりするもの外見を身につけるだけでなく、自分触れる物が何であれ、その感触も身に着けます。では、簡単な実験をしてこれを見てみます。

人さし指を伸ばしてください。では、その人さし指で手近にある物の表面を触れてください。それは、椅子でも、カーペットでも、自分の衣服でも何でもかまいません。

今ここで、感じられるものは何でしょうか?

それは指先と触れられている物の両方の感触でしょうか?あるいは、むしろ、たった一つの感覚、つまり、手近かにある物、衣服の感触、木の表面などのたった一つの感覚が存在しているだけでしょうか? 事実、あなたの指先は、魔術的にあなたが触っているものに変換したというのが、真実ではないでしょうか? あなたの指先は、あの物になったのです! 

あなたの指先は、それが対象である物の感触を身に着けることができるために、それ自身を空っぽにしなければならないのです。事実、あなたの体全体の皮膚と、もちろんすべてのあなたの感覚についても同じことが言えます。

ですから、これは自分に自分の真実で本当の姿、つまり、世界が起こるための空っぽさを見せるためのもう一つの方法です。

実験10‐頭がない円

友人たち、3人から10人の間で、円を作って、立ってください。接近できるように、お互いの肩に腕を置き、そして、下を見てください。

そこに、あなたはいくつかの体からできている円を見ます。明らかに彼らは、お互いに異なる存在であり、それぞれが自分の空間を占めています。彼らはある種の「一体感」の中には溶け込みません。一つひとつの肉体は名前、背景、歴史、国籍などなどをもっています。下の向こうでは、私たちはお互いに分離しています。

円の外からの眺め

では、自分自身の肉体に気づいてください。それは胸から上は無の中に消えています。この視点から、他の肉体もまた、彼らの胸から上が、あなたの肉体が消えている同じ無へ消えていることに気づいてください。

あなたから見た眺め

ここ頂上では、多くの無の物はなく、ただ一つだけです。ここでは、淵のない空間には、お互いをわける線も、名札も、私のものとかあなたのものという無を少しというなものはありません。ここでは、私たちは分かちがたく一つです。

ここの頂上にある名前のない気づきは、すべての異なった肉体を含んでいます。それらは、名前のないこの一つなるものへ消え、これから現われてきます。

下を見れば、一人ひとりが自分自身のユニークな視点、思考、感情をもっています。私はあなたが考えていることやあなたの過去が何かを知りませんし、あなたの名前さえ知らないかもしれません。でも、私はここ円の頂上では、あなたが本当は誰かを見ることができます。

ここ頂上では、下にある違いを破壊することなく、私たちのすべての違いが消え、すべての分離が克服されます。頂上のこの空間には、あらゆる視点をいれる余地があります。

頭のない円は、円の寺院のようなものです。肉体は円柱のように壁を作ります。でもこの寺院は破壊されてしまいました――屋根が吹き飛ばされてしまったのです。その寺院は空に向かって広く開かれています――その空は完全に明晰で、境界がありません。そして、あなたがその無限の空――存在の空です。

今、下を見下ろしているのは誰ですか?

見ている存在を見て、私は、自分の本当の姿、境界をもたない一なる者のところへ戻ってきました。私は、この一なる者はあらゆる人を含んでいることに気づきます。円の下では、私は多くの中の一人です――他の人たちは私の横に立っているか、離れて立っているか、いっしょに立っているか、私と面と向かって立っているかです。でもここ、胸の線より上では、他者は存在しません。すべての分割は癒され、すべての分離は克服されています。

ここでは、下のすべての私たちを含んでいる、すべての存在の中の一なる者がいます。あなたが、その一なる者です。

実験11‐紙袋の筒の実験

二人の友人に(BとC)にあなた(A)を助けてもらってください。

まず紙の筒が必要です。紙袋の片側を切るか、大きな紙の両端を貼り合わせて、筒を作ってください。その紙の筒は、自分の顔が入るくらいの大きさが必要です。

外側から見た眺め


AとBは、明るい光のある場所にすわって、紙の筒を広げ、その中にお互いの顔を入れます。

Cはゆっくりと次の質問を二人にします。

内側から見た眺め

1(自分の記憶や想像からではなく)、今、与えられていることにもとづいて、紙の筒の中にはいくつの顔がありますか?

2あなたが側は閉じていますか、それとも開いていますか?

3あなたは、相手と面と面と向き合っていますか?

AとBは息つぎのために筒から顔を出したあと、再び筒に戻ります。Cはさらに質問をします。

1もしあなたが虚空でないとしたら、向こうの顔は形あるものとして、見ることができますか?

2もしあなたが無でないとしたら、向こうの顔は何かとして、見ることができますか?

3もしあなたが無色でないとしたら、向こうの顔は色のついたものとして、見ることができますか?

4もしあなたが透明でないとしたら、向こうの顔は不透明なものとして、見ることができますか?

5もしあなたが静寂でないとしたら、向こうの顔は動いているものとして、見ることができますか?

6もしあなたが単純でないとしたら、向こうの顔は複雑なものとして、見ることができますか?

7もしあなたが境界をもっているとしたら、向こうの顔は制限されたものとして、見ることができますか?

8もしあなたが変化しないものでないとしたら、向こうの顔は変化のあるものとして見ることができますか?

もう一度休憩をしたあと、再び筒の中に入って、さらに質問に答えてください。

1第一人称、単数、現在形としての今のあなたは、年をとったり、朽ち果てたり、始まったり、終わったりすることができるような存在ですか?

2「私はこれだ、あれだ」と言うことができなくても、それでもあなたはまだ「I AM=私は存在する」と言うことができるのではないでしょうか?

3この生まれることなく、死ぬこともない「I AM=私は存在する」とは、誰で何でしょうか?

休憩

1あなたは自分をゼロセンチのここで、30センチ向こうにいるパートナーのような何かだと判断することができますか?

2あなたは自分の側に、何かの「物質」(頭、顔、目)を発見すことができますか?

3あなたは向こう側に、何かの「霊」、意識を発見することができますか?

4あなたは今まで、向こうの顔に意識を与え、こちらの意識に顔を与えるという二重のウソを生きてきたのではないでしょうか?

5この二重の見せかけが、あなたの個人的人間関係の問題、あらゆるあなたの問題の底にあったのではないでしょうか?

休憩

1あなたは今、向こうの顔は単に色のついた、動いている形だと理解して、それをもっと明確に、もっ怖れなく、もっと深く見るのではないでしょうか?

2あなたは今、向こうの顔は舞台装置の一部であって、取りつかれていないと理解して、それをもっと愛すべき存在として見るのではないでしょうか?

3「霊」が向こうの目から覗いていないので、あなたの霊もあなたのパートナーの霊も分けることができるものでしょうか?

4あなたは今、自分のパートナーに次のように言えるのではないでしょうか?「あなたの顔はあなたの一時的外見にすぎません。私はまさにあなたの永遠の現実です」

5あなたは今、あらゆる場所のすべての存在に、次のように言えるのではないでしょうか?「ここでは私はあなたです」

実験12‐手の中の現金

開いた手に硬貨をもってください。

                  

            

(1)よく眺めて見てください。この手は硬貨を所有していますか…?

この硬貨が手を所有していないと、誰が言うことができるでしょうか…?

事実、それはどちらの場合でもなく、所有するという場合でなく、単に物と物がお互いに対して、触れているという場合であることに、気づいてください。

手と硬貨がどれほど二つの物で、お互いに空間の中に自分自身の小さな場所を占有し、相手を追い出しているかに、気づいてください。お互いがどれほど自分自身とその分離性を主張しているか、それらは決して混じったり、お互いを所有しあったり、お互いを乗っ取ったりする危険性がありません…

(2)では、自分の向う側にある手と硬貨をまだ眺めながら、自分の腕のこちら側で、何が両方を受け入れているかに気づいてください。


             


自分自身を、あの硬貨と手と腕で満たされている、ここにある空っぽさとして、見てください。

これらの三つに対立していない何もなさとして、自分自身を見てください。あなた自身は、それらに対して第四のものを加えていませんし、それら以外の何ものでもありません。今、事実として、自分自身が、それらであることを見てください

これが本当に所有するということです。

実験13―物との距離をなくす

(1)あなたが座っているところから、何かの物とそこにいる誰かの間の距離を読んでください。もし今、あなたが一人なら、何でもいいですから、二つの間の物の距離を読んでください

                                           


(2)ゆっくりと定規を自分側にまわし、これらの距離が収縮していくのを眺めてください。

(3)その片端があなたのほうに向くまで、定規を回して、自分と物との間に距離がないことを読んでください。距離がゼロに収縮しました。

あなた(A)と「遠くに離れた」物(B)との間にまっすぐ引き伸ばされた線は、あなたにとってはまったく線ではありません:それは点です。もちろん、想像の中で、あなたはCへ飛んで、そこからAとBの間の距離を読むことで、自分をBから切り離すことを試みることもできます。


しかし、仮にあなたがそれに成功しても、あなた(今想像上でCにいる)とBの間の距離は依然として、ゼロです。真実はといえば、あなたがどれほど試みても、あなたは無限の遺産を回避することも、放棄することもできません。あなたは銀のスプーンをくわえて生まれてきたと言うことは、いつの時代でも控えめな表現ではなありません。あなたは銀のスプーンのマーケットを買い占めたのです。

自分の本当の姿に目覚めたままでいる(Richard Lang)

それを継続する

ここに紹介した実験は、あなたの注意を自分の本当の姿に導きます。しかしながら、一回見ただけでは、自分の人生に大きな変化は生まれないことでしょう。あなたは目覚めるという習慣を発展させる必要があります。

見ることを日常の活動と結びつける

あなたは、ワークショップでの状況から日常へと実験を広げる必要があります。一人でいるときは、単一の目と頭がない体に気づいてください。また人々といっしょにいるときは、お互いに顔を交換していることに気づいてください。歩いているときは、風景がその中を動いている静寂さになってください。心が騒がしいときは、自分の思考や感情がその中で起こる妨害されない空間に気づいてください。

あなたは自分が定期的にしている何かを見つけて、それをするとき、それを頭がないものとしてやることができます。このことは歯磨き(歯ブラシが虚空に消えていきます)から、車の運転(そのとき、あなたは静寂で、道路が動きます)まで、どんなことも可能です。電話をしているときは、電話は虚空に消えていきます! そして、自分と相手の声が静寂さの中で起きます。テレビを見ているときは、スクリーンの単一の目は、あなたの単一の目を思い出させてくれますが、でもあなたの単一の目は枠のない目です。見ることを、瞑想、タイチ、ヨガ、ダンス、楽器を演奏することなど、何でも結びつけてください。

見ることを友人たちと分かち合う

同じ波動の友人たちといっしょに時を過ごすことは、役に立ちます。頭がないことは伝染します。それについて話す必要もなく、私たちはお互いに自分の本当の姿を思い出させます。あなたの顔は私に、自分には顔がないこと、つまり、私はあなたのための受容能力であり、相手もまたそうであることを思い出させます。また実験を使って、他の人々と頭がないことを分かち合うことができます。私が人々に示すとき、私は自分にも頭がないことに気づかざるをえません。しかし、それをどんな人にも押しつけるのは実りがなく、無礼なことです。人々の中には、このことを知りたくない人たちもいます。

あなたは間違ってそれをやることができません。

自分の頭のなさを一部だけ見ることは不可能です。あなたは、物は半分だけしか見ることはできませんが、虚空を半分見ることはできません。それを見るとき、あなたは一度にすべてを見ます。それ以上見ることは何もありませんし、またそれを不完全に見ることもできません。それはある日はよく見えず、次の日はよく見える、あるいは、あなたよりも他の誰かのほうがよく見える、ということはないのです。中心では、見ることの段階はなく、見者の階級もありません。(もし私たちが仮にもここで、″何かをここでやる″ことを話すことができるとすれば)、誰もがそれを完全にやります。気づきはよりよくなることはなく、また、それを無視しても、それが退化することもありません。

恩恵

もしあなたが見ることを取り上げて、それを自分の人生に統合するとき、どんなことが起こる可能性があるのでしょうか? 自分の本当の姿を継続的に経験することから、多くの肯定的効果があります。

世界を直接見る

しばしば人々は、物理的世界をもっと明確に経験します。色はもっと鮮やかで、音ももっと明晰で、トンネル的狭い視野があなたの単一の目のパノラマ的視野に置き換わります。最も平凡なものにさえ、美があります。私たちが自分の肩の上に頭がしっかりと固定されていると想像するとき、その頭のこと、そして、自己イメージに取りつかれます。その結果、自分の目の前にあることを受け入れる余地がより少なくなります。私たちの自己イメージは、世界をぼやけさせる霧のような役割を果します。私たちは与えられている世界をあるがままではなく、世界についての自分の考えを見るのです。しかし、私たちが中心には自己がないのを見るとき、自分自身についての強迫観念の力は弱まります。私たちは自分でいっぱいになるかわりに、世界でいっぱいになります。そのとき、世界は直接認識され、そのすべての物質的美の中で、それ自身を現すのです。

無境界

顔という想像上の壁の消滅は、あなたをすべての他人と環境と融合させます。人々はもはや<他人>ではなく、世界はもはや<外部>ではありません。それはまるであなたが宇宙によって衣服を着せられたかのようです。あらゆる石、星、人々、木、動物と、あなたはこの内なる秘密、存在の秘密を分かち合います。この霊的交流は、あなたとあらゆるものの関係を変容させます。自分が自分自身の顔の代わりに、隣人の顔をもっていることを見ることは、長期的は、あなたが彼、彼女とどう関係するのかと切り離すことはできません。あなたはあなたの隣人なのです。また、環境が自分の肉体であることを見ることは、環境をどのように扱うのかを改めて深く考えさせてくれます。

自信、平和、喜び

あなたの本質は、常に存在し、近づくことができます。それは信頼でき、決して枯れることがあります。それは想像できないほど創造的であり、あらゆる物事の源泉です。それはまたそれ自身の源泉でもあります。底しれないこういった真実が、あなたの存在の中に染み出て、あらゆるレベルであなたに影響を与えます。この気づきから生まれる内なる自信、平和、喜びは、あなたが人として何かを達成したことや人としての長所によるのではなく、あなたの本質によるものです。自分の本質の岩盤の上にあるので、それらの自信、平和、喜びは根拠が十分にあります。なぜなら、どんな嵐も自分の本質を破壊することはできないからです。死さえも。

結果を忘れる

それにもかかわらず、必ずしも誰もがこれらの恩恵を経験したり、あるいは同じ程度、恩恵を経験したりするわけではないことは、言っておく必要があります。私たちは皆、違っています。そして、やって来たものは、去っていきます。すべての平和、自信、喜びの感情が抜け落ちるときがあるでしょう。そのとき、私たちは、見ることと関連づけてきた恩恵もなく、ただ何者でもない(無である)という明白な事実とともに残されます。しかし、このことが起きるとき、本当は何かがおかしくなったわけではありません。そういった〈結果〉を失うことは、進化と変容のプロセスの一部であり、新しい成長の余地を生みます。本当に失うことができず、常に手に入り、信頼できるものは、どんな特定の経験の底にも流れ、それらが来て去ったあとにも残る気づきです。それは今、この瞬間、与え受け取ることを信頼できるものです。

私たちはどんな困難と出会う可能性があるでしょうか?

見ることと感じることを混同する

頭がないことは、感情ではありません。それは感情が起こる空間に気づくことです。しかしながら、頭がないことが、愛、平和、喜び、くつろぎといった肯定的な感情に導くので、見ることはこれらの感情と関連づけられるようになります。その危険性とは、そういった感情が去ったとき(あらゆる感情は去るものです)、私たちは、見ることを失った、あるいは、私たちは間違ってそれをやっていると思うかもしれないということです。でも何も失われてはいませんし、何も間違っているわけではありません。

見ることは、来ては去っていく特定の感情の下にあって、残ります。それは、気分のよいときと同じように、私たちの気分が悪いときにも手に入るものです。出来事と感情から独立しているのが、あらゆる底にあるその安定性です。私たちが自分のまわりや自分の内部の物事が崩壊していることに気づくとき、これらの感情と、この混乱よりも自分に近い場所、影響をまったく受けず、全体であるこの場所の両方に注意を向けることができます。私たちがクレージーに感じるとき、見ることは正常さ、私たちの本当の姿の正常さへの生命線です。何もこの根本的正常さを破壊することはできません。

虚空から〈物事〉を作る

虚空は無です。でも私たちがそれについて話し、それに気づき、特に本当の姿、真我、神などという名前をつけるとき、無であるものを何かにしてしまう危険性に陥ります。これは自分の肩に自分の頭や何かを見るのと同じくらい幻想であり、おそらくはもっと危険なことです。真我が、小さい自己を膨らませる微妙な方法となり、私はその名前、そのイメージに執着するようになります。私には頭がなく、空間と同じく明晰であるという観念は、私と世界の間の微妙な障害となります。そのとき私は世界から離れて、自分の〈無〉、自分の神性に引きこもってしまいます。

しかし、私の本質は世界から分離した一つの〈物事〉ではありません。もしあなたの頭が何かに置き換えられるとしたら、それは〈無〉ではなく、世界です。ここには世界から分離しているものは何もなく、世界からあなたを分けるどんな障害もなく、その世界の背後で〈あなた〉は存在しています。しかしながら、中心で自分自身から〈物事〉を作るように思われる微妙な概念を取り扱う方法は、それらを抑圧しようとしないことです。抑圧するとそれらを強化することになります。それらに注意を払い、ここには概念がないことに対して、向こうには概念があることを見てください。あなたは中心では概念から自由です。それらはあなたを〈物化〉しません。

無であることの怖れ

自分が本質を見ることが混乱を招くこともあります。ときに人々は、自分が消えて、見えない存在になってしまうことに怖れをいだきます。そういった人々には、頭がないことは気味わるく、奇妙で、まるで少し気が変になったかのように感じます。事実は、彼らは正気になったということですが、彼らが経験することは、社会から否定され、気が狂っているとレッテルをはられます。社会は、私たちが何も見えない場所に頭をもっていると、私たちに言います。そういうわけで、私たちは所属するために、社会を信じ、ついには、何もない場所に何かを見てしまいますが、それは妄想です。自分が見たもの、あるいは見ないものを信頼してください。

もし怖れているなら、その怖れに気づいてください。あなたは何を怖れているのでしょうか? それを調べてください。一つの反応は、何もないことを見て、それから、無であることについて考えることに切り替えて、その考えを怖れるのです。その考えは、〈無〉それ自身とは同じものではありません。その無を見つづけてください。自分の怖れに直面してください。そうすれば、それはしだいに消えていくでしょう。おそらく怖れがどれだけ強力であっても、それは一つの感情にすぎません。無というのはまた充実、世界で満ちあふれることでもあることに注意してください。そして、無はまた気づいてもいます。ときに、無である怖れは無である安堵感に変わることもあります。無であれば、がんばるべきことも守るべきこともありません。あなたは自分自身から解放されているのです。あなたが一体化するすべての様々な物事の底流にあるものは、変化せず、破壊できないあなた自身の〈中心〉――存在です。

あまりにも単純である

頭がないことはあまりに単純であることが、問題である人たちもいます。彼らはそれを見ますが、でももっと複雑なもの、もっと心理学的なもの、もっと霊的なものを望みます。それで彼らはそれを捨て去って、それをトリック、視覚的幻想であると思うのです。でも人々がそれに留まれば、その単純性はその深さとそのパワーとその実用性に合っていることがわかります。そして、それはトリックではありません。それはあなたが本当にそれを見るとき、意味をなします。

源泉を信頼する

自分とは何かを発見することは、自分の命の中心は、自分が一体化している個人的自己ではなく、あらゆるものを含んでいる真実の自己(真我)であることに気づくことです。この発見は、私の人生の生き方に大きな挑戦を投げかけます。中心における変化とともに、私たちの価値観も変わり始めます。私たちは真我からの視点で世界を見るようになります。しかし、人間の中心と小さな自己に一体化しつづけるという私たちの条件づけは、根深いものです。ここにまさに、〈大きな自己〉と〈小さな自己〉であることの逆説があります。ときに私たちの個人的計画とおりに物事がうまくいかないことがあり、私たちは失望します。もし物事を変えることができないなら、行うべきやり方は結果を手放し、与えられていることを受け入れることが含まれています。

自分の本当の姿を見ることは、起こっていることは源泉からやってくることであり、信頼することができるという認識へと導きます。困難なことは、私たち人間の自己は、真我が知っていることを知ることができず、それゆえ、私たちは真我を信頼するために、信念の跳躍をすることが必要であることです。私たち人間の知と専門知識は、私たちの本当の姿の〈未知〉に道をゆずらなければならないのです。経験は、自分の本質を信頼する知恵を示してくれますが、この信頼とは、私たちが学ぶことができる何かではなく、むしろ、毎回学んだことを忘れ、神の手にまかせるプロセスです。この学んだことを忘れることは、実践とともに簡単になるかもしれませんが、私はそれがいつも簡単であるとは思いません。それにもかかわらず、抵抗が単なる受容だけではなく、起こっていることを完全に歓迎することに変わるとき、平和と喜びがあります。与えられていることは、自分の本質が現象化したことです。ですから、私たちの個人的意志は、私たちの本質の意志と提携し、現在の瞬間に象徴化されています。不安、心配、疑いは、安心、平和、自信へと変わります。