◆◆◆◆ 国道170号(大阪外環状線) ◆◆◆◆ |
一般国道170号(旧道も170号に指定) 《現道延長》76.2km 《総延長》142.1km(旧道・重用区間を含む) 《起点》大阪府高槻市八丁畷(はっちょうなわて)交差点(国道171号との交点) 《起点》大阪府泉佐野市上瓦屋(かみかわらや)交差点(国道26号との交点) 《通過市町》高槻市・枚方市・寝屋川市・四條畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市・藤井寺市・羽曳野市・富田林市 ・河内長野市・和泉市・岸和田市・貝塚市・熊取町・泉佐野市 指定:1963(昭和38)年4月1日(旧道) 変更指定:1982(昭和57)年4月1日(指定区間の変更) |
① 国道170号の路線図(現道・旧道) | ||
② 国道170号・西名阪自動車道・近鉄南大阪線(西より) 〔GoogleEarth 2020(令和2)年11月〕より |
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2本ある「国道170号」-特異な存在の国道 現在、大阪府では、高速道路を除く一般国道は24本が通 っています。その中で、府内部分の延長が最も長い国道がこ の「一般国道170号」です。しかも、国道170号は起点も終 点も大阪府内にあり、大阪府内だけを通る国道です。 他にも、起点・終点とも府内にある国道が3本あります。 172号(大阪港-大阪市中央区 8.0km)、479号(豊中市-大 阪市 28.6km)、481号(関西国際空港-泉佐野市 5.8km)の 3本です。これらに比べると、国道170号の延長が随分長い とわかります。それは、この国道の起源に由来しています。 右図にあるように、現在、170号を名乗る国道は2本あり ます。現道と旧170号ですが、2本はほぼ全線が併走してお り、起点(高槻市)-寝屋川市間と熊取町-終点(泉佐野市)間 は重なっています。また、一部が重なるだけでなく、河内長 野市内や和泉市内では新旧の170号が平面交差しています。 どちらの道路にも「R170」の同じ標識が立っているのです。 このような2本の国道の存在自体が珍しいことでもあります。 旧170号のバイパスとして造られたのが現道170号なので すが、普通、このような場合は旧道の方は格下げとなって府 県道に移管されます。ところが、170号の場合は旧道もその まま国道として維持されています。これには幾つかの理由が |
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あるようですが、最大の理由は「旧170号」という呼称が定 着してしまった、ということのようです。 現道170号は、もともとは主要地方道「大阪外環状線」と いう府道として計画・建設されました。1982年4月1日に国道 170号に指定されましたが、その時点ではまだ全線が開通し |
生駒山地・金剛山地・和泉山脈のふもとに沿って通っている様子がわかる。このルートの元 となった東高野街道は、石清水八幡宮(京都府八幡市)から淀川沿いに南下し、さらに生駒山 麓にそって河内地域を南下すると、紀見峠(河内長野市)から紀伊国(和歌山県)に入って高野 山に向かった。国道170号の枚方-河内長野の区間が、ほぼこの街道ルートと重なる。河内 長野から和歌山に入るルートもかつては170号の一部であった。 |
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てはいませんでした。それまで、藤井寺市-河内長野市間の部分でも、幾つかの区間に分けて開通してきました。その間は旧170号も国道 としての存在を維持し続けてきたのです。その期間がけっこう長かったため、使用されていた「旧170号」という呼称が定着してしまいま した。府道に格下げして新たな府道名を付けても、通行する利用者には分かり難いと考えられたようです。しかも、旧170号の四條畷市- 泉佐野の区間は、もともと「府道20号枚方富田林泉佐野線」に指定されていたのです。ほぼ全線が府道と重複していたのです。 「旧170号」を府道に格下げして、へたに名称変更を行うと混乱を招きかねない。ならば、「旧170号」のままにしておこう、となった のではないでしょうか。これに対して、現道170号の方は、地元ではもっぱら「外環状線」とか「外環」の略称で呼ばれることが普通になっ ています。人々は通称をうまく使い分けて、「国道170号」を区別しているのです。なお、国道旧170号を指して「旧外環」などと呼ぶ人 がいますが、この言い方はまったくの誤りです。語呂よく言い表したいのでしょうが、旧170号は一度たりとも「外環状線」に位置付けら れたことはありません。新も旧もなく、国道旧170号に「外環」を付けて呼ぶこと自体が間違いなのです。 |
③ 国道170号(南より) 2016(平成28)年12月 沢田歩道橋より北を望む。ここの通行量は多い。 |
④ 国道170号(南西より) 2019(令和元)年5月 野中4丁目交差点から野中跨道橋に上って行く。 |
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⑤ 国道170号(南より) 2015(平成27)年10月 西古室北交差点から近鉄藤井寺跨線橋を望む。上を 通るのは西名阪自動車道。下を走るのは近鉄南大阪線。 |
⑥ 国道170号(南より) 2015(平成27)年10月 野中4丁目交差点から野中跨道橋を望む。野中交差 点で下を通るのは府道31号堺羽曳野線と府道186号。 |
旧街道をなぞる国道 旧170号の枚方-河内長野間は、旧街道である「東高野街道」をほぼなぞるルートで戦前から逐次整備が進められ、戦後の高度経済成長 期に国道に指定されました。江戸時代からの旧街道がそのまま国道になった部分も多いのですが、自動車交通に合うような拡幅整備ができ ない部分では、近くに併行する形でバイパスの新道路が造られました。現在の藤井寺市域を通過する旧170号は、すべて1938(昭和13)年に 「産業道路」として開通した新路線です。国道指定されるまでは「府道柏原富田林線」でした。大和川を渡る橋もこの時新たに「河内橋」 が架橋されました。 「東高野街道」 「河内橋」 大和川以南の河内長野までの区間は大部分がバイパスとして造られた新道でしたが、大和川以北の区間では旧街道をそのまま府道・国道 に転用した部分が多く、道路の幅が国道と呼ぶにはふさわしくない狭い部分も見られます。中には、アーケードの商店街を通過する部分も あり、日中は自動車通行禁止区間となっています。国道を迂回しなければいけないのです。これはもうビックリです。 現在の旧170号は現道と同様に高槻市-泉佐野市の路線で指定されていますが、現在の指定(1982年4月指定)になるまでは、高槻市-河 内長野市-和歌山県橋本市の路線で170号に指定されていました。まさに東高野街道のルートそのものだったわけです。 東高野街道は淀川上流近くにある石清水八幡宮(現京都府八幡市)付近を起点として淀川沿いを南下し、河内国を生駒山地・金剛山地の山 麓に沿って縦断します。河内南部の長野村(現河内長野市)で西高野街道・中高野街道と合流して高野街道となり、南下を続けて紀見峠を越 えると紀伊国に入りました。現在の河内長野市-橋本市の区間は、1982年4月の変更指定により国道371号に指定されています。この371 号にもバイパスが建設されていますが、上の地図では旧道を表示しています。 バイパスとして造られた現道170号 この河内長野市-橋本市間が371号の変更指定を受けて分離され、170号が高槻市-河内長野市-泉佐野市として変更指定されたのは、 旧170号のバイパスを造る計画に始まります。大阪府が計画した「都市計画道路・高槻橋本線」がそれです。まずは、高槻市-河内長野市 間のバイパス計画が1965(昭和40)年までに決定されます。その後、主要地方道枚方富田林泉佐野線のバイパスとして河内長野市-泉佐野市 間が加えられ、「都市計画道路・大阪外環状線」の計画が1970(昭和45)年までに決定されました。つまり、当初は府道の建設だったのです。 「大阪外環状線」は、大阪府が計画した広域幹線道路網の一部で、大阪中央環状線の外側に併行する環状道路として計画されました。大 阪府北部を通る国道171号の一部、東部を縦断する170号バイパス、主要地方道枚方富田林泉佐野線バイパス(河内長野市-泉佐野市区間) の三つの道路をつないで構成される環状形態の路線です。上記のように計画が決定していましたが、この計画の実現を早める大きな契機が やってきます。1970(昭和45)年3月から大阪府の千里丘陵で開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」です。 高度経済成長のピークに近づく1965(昭和40年)、大阪万博の1970年開催が決定しました。万博開催に向けて、開催地と周辺地を結ぶ交通 アクセスの整備が急きょ求められることになり、各方面の都市計画道路が急ぎ計画され事業化されました。大阪市の周辺部を通る道路の整 備も急がれ、大阪外環状線もその一つでした。特に兵庫県内-大阪府北部-藤井寺市沢田交差点の区間は急ピッチで工事が進められ、万博 開催の3ヶ月前には供用が開始されました。沢田交差点以北区間の開通が急がれたのは、その9ヶ月ほど前に西名阪道路(現西名阪自動車道) の藤井寺インターチェンジが開業していたからです。沢田交差点-藤井寺I.C間はわずか200mです。西名阪道と大阪外環状線の接続点と なるのが藤井寺市沢田交差点なのです。府道堺大和高田線(現府道12号)の沢田交差点-藤井寺I.C間もこの時に拡幅整備されました。 大阪外環状線沢田交差点以北の開通によって、大阪府北部-大阪外環状線-西名阪道路-名阪国道(国道25号バイパス・自動車専用道路) -東名阪道路-名古屋市、という大阪府-名古屋圏の新しいルートの基礎ができました。これは、1965(昭和40)年7月に全通した「名神高 速道路」の代替ルートとして、かねてよりその実現が望まれていたものでした。それだけ日本初の都市間高速道路である名神高速道路の物流 道路としての重要度が高まっていた、ということです。 「西名阪自動車道」 万博開催に間に合わせるために、この大阪外環状線-西名阪道路の建設工事は急ピッチで工事が進められましたが、沢田交差点以北の大 阪外環状線、沢田-六万寺(東大阪市)間が開通したのは1969(昭和44)年12月15日、以南の沢田-野中東間の開通は1970(昭和45)年3月6日の ことでした。日本万国博覧会の開会は1970年3月14日だったので、まさに直前の開通だったわけです。 西名阪道路・大阪外環状線の開通によって、この後、藤井寺市の商業立地・工業立地としての状況は大きく変化していくことになります。 昭和20年代初めの米軍撮影空中写真を見ると、大阪外環状線が建設された場所は、藤井寺市域の中でも最も多くの水田が広がる地域であっ たことがわかります。今日では考えられないような広々とした田園の光景です。そのど真ん中を貫き、市の中央を縦断するように造られた のが大阪外環状線でした。後に大変貌を見せることになる藤井寺市域ですが、その先がけとなる切っ掛けが西名阪道路と大阪外環状線の開 通でした。日本社会は、この高度経済成長時代に確実に自動車社会に移行していたのです。 「空から見る藤井寺市」 新しい幹線道路と公共インフラ整備-藤井寺市に増えた公共インフラ施設 大阪外環状線は、大阪市郊外の主要都市を結び府内の外郭部を通る環状道路を構成する主要幹線道路の一つとして建設されましたが、同 時に別の公共インフラを整備する計画もセットになっていました。それは、府営水道(当時)の幹線送水路網の拡大整備を道路建設と同時に 行おうというものです。計画策定の当時、大阪府東部・南部の人口は急増を迎えており、泉北・泉南地域の湾岸部では工業立地の需要も増 大していました。生活用水・工業用水は、共に供給量の大幅な増加が求められていました。 |
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一般的に水道事業は市町村が運営しますが、自己水が不足する自 治体や工業地帯の大量需要に対しては、府営水道からの供給が大き なウエイトを占めていました。淀川の水を水源とする府営水道(現大 阪広域水道企業団)村野浄水場(枚方市)から、大阪府東部・南部地域 へ水を送る送水管を大阪外環状線の地下に埋設する計画が道路建設 計画と併行して進められました。実際には、用地買収の済んだ道路 建設予定地に、路盤整備に先だって送水管を埋設する必要がありま す。藤井寺市でも、新大井橋や新道路の建設工事が始まる前に、大 和川をまたぐ送水管橋の建設や地下埋設工事が進められていました。 写真⑦は、沢田交差点以北の大阪外環状線が開通する5年半ほど 前の様子です。「大井橋」は旧の橋で、そのすぐ東側に外環状線が 通る「新大井橋」が架けられるのですが、西側にはすでに水道管橋 の工事が進んでいることがわかります。外環状線の建設用地も買収 済みで、整地の行われている様子も見て取れます。その後の新大井 橋の完成形の様子は別ページで紹介しています。 「藤井寺市の交通-新大井橋(大井橋)」 2ヵ所の府営水道ポンプ場 この府営水道の送水管埋設工事に伴って進められた水道施設の建 |
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⑦ 始まった水道管橋の工事 〔国土地理院 1964(昭和39)年5月22日〕より 送水管は1本か2本が設置済み。外環状線の用地も準備されているのが わかる。大井橋は旧の大井橋で、その東側に新大井橋が架けられた。 文字入れ等一部加工 |
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設工事が2ヵ所あります。共に藤井寺市内に造られた「大阪府水道部藤井寺ポンプ場」と「同美陵(みささぎ)ポンプ場」です(現在は大阪広域水 道企業団が運営)。これらのポンプ場は、北方にある村野浄水場から大阪府南部や湾岸部に送水するために設置された中継ポンプ場の一部で す。「藤井寺ポンプ場」は大和川の北側に、「美陵ポンプ場」は大和川から約2km南方に造られました。 道路地下の送水管を流れて来た水を大和川の上をまたぐ送水管に大量に送るためには、送水ポンプで加圧し揚水する必要があります。そ の役割を担うのが大和川の北側に造られた「藤井寺ポンプ場」です。一方、「美陵ポンプ場」は、外環状線の下を南下して来た水道水をこ こで分岐する役割を持っています。南河内地域を経て泉南地域へ送るルートと、西へ向かい湾岸地域へ送るルートに分岐されます。 このように、市域の狭い藤井寺市に2ヵ所のポンプ場が設置されたのは、二つのポンプ場の役割が異なるからです。ちなみに、「美陵ポ ンプ場」の名称は、建設が決まった当時の自治体名に由来します。藤井寺市域は当時は市制施行前で、「美陵町(みささぎちょう)」でした。美陵町 は1966(昭和41)年11月1日に市制を施行して「藤井寺市」となりました。 「藤井寺ポンプ場・美陵ポンプ場」 |
その後の道路建設 日本万国博覧会の開会に間に合わせるべく建設が急がれ、暫定的に一部区間が開通した大阪 外環状線ですが、その後、沢田交差点以南の区間でも建設が進められていきました。ただし、 開通区間が南へ順次延伸していったかと言えば、そうではありませんでした。藤井寺市内の未 開通区間を残したまま、その南側の羽曳野市内の区間が先に開通するということもありました。 沢田交差点から南下する沢田-野中東の直線区間、さらに白鳥北(国道 旧170号)につながる 連絡線区間までは順調に開通しましたが、応神陵前交差点から南下する本線部分の工事は予定 の大幅な変更を余儀なくされました。大きな原因となったのは、道路予定地の遺跡発掘調査と ため池をめぐる訴訟問題でした。 応神陵前交差点から南に位置する「はざみ山古墳」周辺一帯には、広大な範囲に古代遺跡が 分布していることがわかり、「はざみ山遺跡」と命名されました。外環状線予定地はその中心 部分に重なっており、綿密な発掘調査が行われました。当然その間の道路建設工事はストップ することになります。 写真⑦は当時空撮された発掘調査後の外環状線予定地の様子です。よく見ると、外環状線予 定地の中にはざみ山古墳周濠の一部が食い込んでいるのがわかります。古墳の多い古市古墳群 のど真ん中を縦断することになる大阪外環状線なので、当然古墳を避けるようにしてルート設 |
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⑦ 建設予定地での発掘調査(南西より) 1974(昭和49)年頃 予定地にはざみ山古墳周濠部の食い込んで いる様子がわかる。 『はさみ山古墳-古市古墳群の調査研究報告Ⅶ -藤井寺市文化財報告第43集』より |
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計は行われています。しかし、この部分だけは道路設計上どうにもできなかったということでしょう。完成した道路には、この古墳の食い 込みを避けるため内側にくぼんだカーブが設けられました。後にこの部分には府道をまたぐ「野中跨道橋」が建設され、南行き車線はカー ブを残したしたまま側道となっています。 「藤井寺市の文化財マップ」 |
10年裁判で止まった外環状線建設 藤井寺市内からさらに南の羽曳野市域へ伸びていく外環状線ですが、この辺 りで建設予定地は二つの大きなために重なります。藤井寺市域の最南部に近い 所では「上田池(かみのたいけ)」の一部を削るように通過します。 池羽曳野市域に入るとすぐに大きなため池の上を通過します。ため池を東西 に二分して南へと進んで行きます。このため池は「芦ヶ池」といいますが、江 戸時代から度々争論となってきたため池でした。 芦ヶ池は昔から野中村(現藤井寺市野中地区)の共有地でしたが、所在地は軽 墓村(現羽曳野市軽里地区)であったため、水利権と土地所有権をめぐって度々 両村の間で争いとなりました。明治から昭和にかけての町村合併で、両村は藤 井寺市と羽曳野市にそれぞれ属することとなり、芦ヶ池をめぐる問題は藤井寺 市・羽曳野市の2市間の係争事項となりました。 1966(昭和41)年7月、羽曳野市が芦ヶ池の所有権を主張して、当時の美陵町 (現藤井寺市)を相手に所有権確認登記事項の取り消しを求める裁判を起こした |
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⑧ 芦ヶ池北側で止まった道路建設工事(南西より) 芦ヶ池の南北両側で工事は進んでいた。1977(昭和52)年5月 『百舌鳥・古市-門前 古墳航空写真コレクション』 (大阪府立近つ飛鳥博物館図録18 1999年)より |
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のです。その前年の1965(昭和40)年までには「都市計画道路・高槻橋本線」の高槻市-河内長野市間のバイパス計画が決定していました。 つまり、芦ヶ池に重なる大阪外環状線の予定ルートが両市の争いの発端になったとも言えます。 当時、住宅地需要の急増により藤井寺市・羽曳野市の市街地周辺では地価の上昇が進行中でした。道路建設地としての売却代金はバカに できない金額となります。残った池の部分は幹線道路に面した利用性の高い場所となります。将来埋め立てを行った場合の利用価値は相当 高いものとなることが予想されます。両市とも簡単には譲るわけにいかない問題で、この裁判は10年越しの長期裁判となってしまいました。 和解という形でこの裁判に決着がついたのは、1977(昭和52)年6月のことでした。「時価19億円の池の所有権」を巡る裁判として報道さ れていましたが、結局、藤井寺市が売却代金の一部を和解金として支払うことで終止符が打たれました。報道によれば、外環状線用地の売 却代金は3億2千800万円で、その内9千300万円が和解金として羽曳野市に支払われたそうです。 「芦ヶ池」 大阪外環状線=国道170号バイパスの完成へ 裁判の終了により芦ヶ池の道路建設は着工されました。それ以前に開通していた芦ヶ池以南の部分は順調に延伸しており、1979(昭和54) 年には富田林市まで開通しています。翌1980(昭和55)年4月1日には、藤井寺市の未開通区間だった応神陵前-軽里北間も開通しました。 そして、1981(昭和56)年には河内長野市・工業団地前交差点以北が1本のバイパス道路となりました。 国道170号(旧)は1963(昭和38)年4月1日に高槻市-河内長野市-和歌山県橋本市のルートで制定施行されましたが、約20年を経て指定 変更が行われました。 1982(昭和57)年4月1日、国道170号の終点は橋本市から泉佐野市に変更され、一般国道170号(高槻市-泉佐野市) として制定施行されました。この時、大阪外環状線(主要地方道枚方富田林泉佐野線)も国道170号として制定され、その河内長野市-泉佐 野市の区間も国道170号に変更指定されました。一方、従来国道170号であった河内長野市-橋本市の区間は、上で既述の通りこの時の変 更指定によって国道371号に制定されました。つまり、東高野街道をなぞって南の和歌山県に向かっていた国道170号は西へ向きを変えて 大阪湾岸に至るルートに変更されたのです。 1984(昭和59)年に大阪湾泉州沖に新空港として関西国際空港の建設が決定したため、南河内地域と泉州地域や新空港とを結ぶ幹線道路と して国道170号(大阪外環状線)の位置づけは重要なものとなり、それまで事業化の遅れていた河内長野市-泉佐野市の区間も建設が急がれ ることとなりました。旧170号を残したまま、国道170号となった大阪外環状線はその後も河内長野市以西に向かって延伸を続け、着工か ら30年近く経った1994(平成6)年8月31日、ついに終点・泉佐野市まで全通したのでした。 国道170号(大阪外環状線)が全通してから約30年が経ちますが、丘陵部の和泉市内では未だに片側1車線の区間があります。上下4車 線化の計画はあり、少しずつ建設は進められています。また、終点付近の熊取町-泉佐野市の区間も片側1車線ですが、こちらは沿道が市 街化しており、今後上下4車線化に拡幅することは困難でしょう。丘陵部の区間だけでも早期の車線増加建設の事業化が望まれます。阪和 自動車道や阪神高速湾岸線の高速道路も整備されましたが、大阪外環状線は一般道として河内地域と泉南地域を結ぶ幹線道路であり、特に 物流面では道路建設計画が成立した頃よりははるかにその重要性は増していると思われます。 |
国道170号(大阪外環状線)建設をめぐるおもな歩みを簡単な表にまとめてみました。 |
年・月・日 | で き ご と | |
1963(昭和38)年 | 4月 1日 | 二級国道170号高槻橋本線(高槻市-和歌山県橋本市)として制定施行。(現・旧170号) |
1965(昭和40)年 | 4月 1日 | 道路法改正により一級・二級区分が廃止され、一般国道170号として指定施行。 (170号バイパスとして都市計画道路・高槻橋本線の高槻市-河内長野市の区間が1965年まで に計画決定。) |
1967(昭和42)年 | 大阪外環状線の高槻市-枚方市間が開通。 | |
1969(昭和44)年 | 3月21日 | 藤井寺インターチェンジが開業。一般有料道路・西名阪道路(現西名阪自動車道)の第1期が開通。 |
12月15日 | 大阪外環状線の藤井寺市沢田交差点以北が開通。大和川には新大井橋が架橋される。 | |
1970(昭和45)年 | 3月 6日 | 大阪外環状線の沢田-野中東間が開通。 |
3月14日 | 日本万国博覧会が大阪府千里丘陵で開幕。 | |
主要地方道・枚方富田林泉佐野線のバイパスとして、都市計画道路・大阪外環状線の河内長野市- 泉佐野市の区間が1970年までに計画決定。 |
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1974(昭和49)年 | 大阪外環状線の羽曳野市白鳥北交差点(旧170号)以北が開通。(応神陵前-白鳥北は旧道との連絡線) | |
1979(昭和54)年 | 大阪外環状線の富田林市総合体育館前交差点以北が開通。 | |
1980(昭和55)年 | 4月 1日 | 大阪外環状線の藤井寺市内未開通区間(応神陵前-軽里北間)が開通。 |
1981(昭和56)年 | 大阪外環状線の河内長野市工業団地前交差点以北が開通。 | |
1982(昭和57)年 | 4月 1日 | 終点を橋本市から泉佐野市へ変更し、一般国道170号(高槻市-泉佐野市)として制定施行。 「大阪外環状線」が「国道170号」と呼ばれることとなる。 |
1984(昭和59)年 | 泉州沖の大阪湾を埋め立てて新国際空港(現関西国際空港)を建設することが決定。 | |
1994(平成 6)年 | 8月31日 | 国道170号(大阪外環状線)が泉佐野市まで全通。 |
1999(平成11)年 | 9月 | 国道170号野中交差点(藤井寺市)に府道31号・186号をまたぐ野中跨道橋が完成。 |