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◆◆◆◆ 河 内 橋 ◆◆◆◆ | ||||
(かわちばし) 架橋河川:大和川 《 国道旧170号 》 大阪府藤井寺市北條町 (北詰交差点は藤井寺市川北3丁目) 近鉄南大阪線・土師ノ里(はじのさと)駅より北へ約1.1km 徒歩約17分(河内橋南詰まで) 近鉄道明寺線・柏原南口駅より北西へ約700m 徒歩約10分(河内橋北詰まで) JR関西本線(大和路線)・柏原駅より南西へ約800m 徒歩約12分(河内橋北詰まで) 長さ《 200.7m 》 幅員《 10m(含歩道) 》 橋脚《 8基 》 径間数《 9 》 竣工 1938(昭和13)年2月 管理 大阪府富田林土木事務所 |
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@ 大和川に架かる河内橋(北西より) 2024(令和6)年4月 橋脚の梁部は両外側に拡張されている。その上に歩道が増設された。右寄りの流路上の私設は 水質水位自動観測施設。後方右端の山は奈良県境の二上山。 |
国道旧170号が通る橋 「河内橋」は国道旧170号を通す橋として大和川に架かる橋です。片側1車 線で東西両側に専用歩道があります。架橋当時には歩道はありませんでしたが、 通行量の増えた昭和40年代、歩道を設置するために橋脚の梁部を外側に拡張し て両側歩道が増設されました。写真@でその橋脚の様子がわかります。 国道旧170号は、バイパスができて旧国道になった現在も以前とそんなには変 わらない交通量があり、東西幹線の府道12号・堺大和高田線と交叉する土師の 里(はじのさと)交差点ではかなりの混雑も見られます。 ![]() 写真Aが河内橋の近景です。橋の向こうの大和川北詰付近は藤井寺市川北地 区の一部ですが、その後方のマンションなどが建ち並ぶ一帯は柏原市です。写 真左端に見える河川内の施設は、大和川の水質等を定点観測するために国土交 通省近畿地方整備局が設置している水質水位自動観測施設です。この写真の左 |
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A 大和川に架かる河内橋(南より) 2015(平成27)年10月 河内橋は、片側1車線の国道旧170号が通る。歩道は橋脚の 梁部を拡張して東西両側に増設された。左端に見える河川内の 施設は、国交省が設置している水質水位自動観測施設。 |
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上部分には、現在は同整備局の「大和川河川事務所」の新しい庁舎ができています。大和川水系の管理や施策を担う国の機関です。観測施 設は、公害問題拡大の中、河川の水質悪化が問題視され出した昭和40年代に設置されました。現在の大和川は、下水道の普及もあって当時 よりは水質は改善されてきています。 ![]() 写真手前で、南岸堤防の橋から左側の道路は府道174号・八尾道明寺線です。橋の右側は市道で、石川の石川橋西詰めに至ります。 藤井寺市内の大和川では4番目の架橋 大和川に架かる河内橋ですが、河内橋が建設される時には、大和川の藤井寺市部分にはすでに3ヵ所に橋が架かっていました。上流の東 から、「新大和橋」「大井橋(後に新大井橋)」「大正橋」です。架橋の順は、新大和橋(明治7)、大正橋(大正5)、大井橋(昭和11)です。た だし、大井橋は昭和11年に自動車橋に架け替えられもので、農道橋としては明治期からありました。河内橋は4番目に架けられた橋です。 1938(昭和13)年2月、新大和橋と大井橋の間に、柏原−富田林間を結ぶ産業道路が開通しました。それまで河内地域を南北に結ぶ幹線として 利用されていた東高野街道に代わるバイパス道路の誕生です。大和川以南の東高野街道は、新大和橋のほか昔からの集落内を通る部分が多 く、全域に渡って拡幅することは困難でした。集落のはずれを通すようにバイパス路線が設定されました。南河内地域の産業振興を見据え た、新しい自動車道の整備事業だったのです。産業道路は、昔から大阪−奈良間を結ぶ重要街道であった奈良街道(現国道25号)に柏原町(現 柏原市)内で接続し、また、大和川以北の拡幅整備された東高野街道に通じる新たな幹線道路となりました。 戦後には国道に制定されて「国道170号」の命名を受け、河内平野の南北道路交通に大きく貢献してきました。昭和40年代の急速な自動 車社会化の時期には、この国道170号のさらなるバイパスが必要とされ、「大阪外環状線」が建設されました。現在の「国道170号」です。 かつての国道170号は、現在では一般に「国道旧170号」と慣習的に呼ばれています。新設のバイパス道路が同名で国道に昇格したにも拘 わらず、旧国道は府道に移管されることもなく、そのまま「国道170号」を名のっているのです。少々特異なケースだと思われます。 ところで、この現国道旧170号が産業道路として開通した時に、同時に供用開始されたのが「河内橋」です。藤井寺市域で大和川を越え る4本目の橋でした。ただし、新大和橋は人道橋なので、自動車道橋としては3番目となります。 「河内橋」の名 ![]() ![]() 「河内橋」の名は、いかにも「河内平野を縦貫する幹線道路が通る橋」らしい名前と言えるでしょう。少々大げさ過ぎると言えなくもあ りません。「河内橋」の命名者には、この名前にどんな思い入れがあったのでしょうか。「大和」の国名が付く川に「河内」という国名の 付く橋が架けられる、という少々不思議な名前の取り合わせです。川の方は「大和から流れ来る川」を表し、橋の方は「河内に在る橋」を 表しています。 古代に「河内大橋」という朱塗りの立派な橋のあったことが万葉集の中で詠まれています。この橋が、どの川のどこに架かっていたのか については、昔から諸説あってはっきりとはしていません。多くに共通しているのは、「大和川か石川の藤井寺市の近辺に架かっていた橋」 ということです。地図や写真が残っているわけではないので、永久にわからずじまいかも知れません。推定された場所の近くに架けられる 新しい橋の名前を決めるとき、「河内橋」の命名者がこの「河内大橋」のことを意識していたのかどうか、興味のあるところです。 ![]() |
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B 昭和10年代の河内橋 『目で見る 八尾・柏原の100年』 (郷土出版社 1995年)より |
C 昭和30年頃の河内橋周辺(北西より) 『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)より (昭和20年代の終わり頃と思われる) 周囲をカットして文字入れ加工 |
昔の河内橋 写真Bは、昭和10年代(1940年頃)に撮影されたと思われる河内橋です。掲載された『目で見る 八尾・柏原の100年』の写真説明では、 「昭和初年」とありますが、河内橋は昭和13年に竣工しているのでそれはあり得ません。写真では、大変美しい橋に見えます。しゃれた照 明塔が立ち、欄干もなかなか現代的で美しいデザインとなっており、立派な石造りの欄干と標柱です。「本当に河内橋か?」と思わず反応 してしまいましたが、橋桁の下部に見られるアーチ構造の形状は現在の河内橋と共通しています。おそらく、戦後昭和40年代の歩道増設の 改修工事の時に、重量軽減のために金属製の現在の欄干に取り替えられたものと思われます。 写真Cは、『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)に掲載されている、河内橋周辺の様子がわかる写真です。本に 書かれている撮影時期は「昭和10年頃」となっていますが、これも河内橋の完成よりも早い時期はあり得ません。それどころか、写真左の カットした部分には、戦後の昭和20年代末頃に造られた大和川の堰(せき)が写っています。また、一緒に掲載されている「昭和初期」とされ る別の航空写真も同じ時の飛行で撮られたと見られますが、その写真も写っている内容から昭和20年代末頃と推定されるのです。この写真 の河内橋には、写真Bのようなしゃれた照明塔は見られません。戦時中に撤去されたものと思われます。この場所は、当時は旧道明寺町で した。数年後には西隣の藤井寺町と合併しますが、この頃はまだまだ広々とした水田の光景が普通に見られる田園地帯でした。地域の総体 的な景観としては、昭和10年頃とそんなに変わらないと言えるのかも知れません。 |