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旧石器時代遺跡の発見 「国府遺跡」の発見は、藤井寺市域にある遺跡・史跡の中で、後に全国 区的に注目されることになった例の、最初の発見ではなかったかと思われ ます。一般に報道されて注目されたのは、明治末に偶然巨大石棺が発見さ れた津堂城山古墳の方が先だと思われますが、発見そのものは国府遺跡の 方が早い時期でした。 国府遺跡が研究者によって最初に認識されたのは1889(明治22)年のこと でした。後に日本地理学会を創設した山崎直方という人が学会雑誌によせ た通信文に書かれていました。当時の山崎氏は京都の第三高等中学校(後第 三高等学校)予科の学生で、人類学や考古学の研究をしていました。この経 過については、かつて藤井寺市の「広報ふじいでら」に連載された『国府 遺跡発掘物語』に詳しく述べられています。現在、市のWebサイトにも掲 載されていますので、そこから引用して紹介させていただきます。 『藤井寺には巨大古墳が集まった古市古墳群とともに、全国に名前を知 られた遺跡があります。それは惣社2丁目を中心とした国府遺跡です。大 正期の多量の人骨やそれに伴う縄紋土器やけつ状耳飾りの出土、昭和に入 ってからの河内最古の寺院跡や旧石器の発掘など、考古学・人類学の発展 |
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@ 空から見た国府遺跡周辺の様子 下のA地図と対比すると わかりやすい。 〔GoogleEarth 2019(令和元)年3月9日〕より 文字入れ等一部加工 |
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にエポックメイキング(画期的)な役割をこの国府遺跡が担ってきたからに他なりません。そこで今回から国府遺跡をめぐる調査と研究成果 の歴史をひも解いてみようと思います。まず、国府遺跡の発見の経緯からみていくことにしましょう。 国府遺跡が学術雑誌に最初に登場したのは、明治22年(1889年)5月のことでした。今から実に120年近くもさかのぼります。それは『東京 人類学會雑誌』第4巻第39号に掲載された山崎直方さんの短い通信文です。その全文を紹介することにしましょう。「河内に於ける石器時代 遺跡の発見 拝啓近来如何なるまはり合せににや毎日曜降雨の為何等の遠足も不仕遺憾ながら遂に一片の御通知も不申上候處今日曜日には 断然雨を衝て遠足し其結果は實に望外にも望外にも至極面白き事にて御坐候實に五月十九日は本邦に於ける人類学の歴史中一の紀念日とも 可致程小生は羨しく感じ申し候何となれば小生は石器時代の顕然たる遺跡を河内國に発見仕候幸に後報御待ち被下度候(山崎直方)」望外を 二度も繰り返すところに山崎さんの興奮の度合いが読み取られます。 古い文章なので、なかなか読みづらいのですが、要約すると、最近日曜日は雨が多くて遺跡探しに行けなかったのですが、5月19日は雨 をついて出掛けることにしました。あまり期待していなかったのですが、河内の国で人類学の歴史に刻まれるような一大石器時代の遺跡を 発見しました。後の報告をお楽しみにしてください。こんな具合でしょうか。この最初の通信文には河内の国と記すだけで、遺跡の所在地 や名前が出てきません。遺跡の場所がはっきりするのは、山崎さんが次号に送った報告文です。この報告は、同じく『東京人類学會雑誌』 第4巻第40号に掲載されました。「河内國ニ石器時代ノ遺跡ヲ発見ス」であります。 「石器時代ノ顕然タル遺跡ヲ河内國志紀郡國府村ニ発見セリ村ハ大坂ヲ距ル五里許ニシテ河内國ノ中央大和川石川ノ二流相會スル所ニ沿 ヘリ」と遺跡の位置を記し、国府遺跡に一致することがはっきりしました。山崎さんがここで採集した遺物には、石器、貝塚土器、獣骨、 獣歯、古代土器、布目瓦を挙げておられます。』〔藤井寺市サイト『コラム古代からのメッセージ「国府遺跡発掘物語−遺跡の発見の顛末 (No.115)」』〕(『広報ふじいでら』第365号 1999年10月号)より ![]() 遺跡の発見場所が、「河内國志紀郡國府村ニ発見セリ」と書かれていますが、明治22年4月1日には国府村は合併で「道明寺村」になって いました。直後なので山崎氏はご存知なかったのでしょう。 写真@は、国史跡に指定されている国府遺跡の区域を中心とする衛星写真です。現在かなりの範囲が公有地化されていますが、昔から民 有地であったために、今も多くの民家などが混在しています。この遺跡とされた場所で、今までに多くの学者が訪れ、30回以上も発掘調査 が行われてきました。出土遺物である石器や人骨を巡って、学界では様々な検討や論争が展開されてきました。国府遺跡は、日本人起源論 や日本の旧石器時代に関する見解にも影響を与えた、まさに“エポックメイキングな遺跡”という存在になったのです。 |
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地図で見る国府遺跡と周辺の様子 | |||
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A 国府遺跡と周辺の地図 この区域は、ほぼ道明寺東小学校の校区に重なっている。 | |||
国府遺跡の位置と地域の様子 上の地図は、国府遺跡の位置と周辺の様子を見ていただくために掲載しました。ベースとなった地図は、もともと道明寺東小学校の校区 地図として作製したもので、校区の文化財地図にも利用しました。国府遺跡が中央に位置していてわかりやすいので、今回、表示事項を調 整して上のような地図に仕上げました。国府遺跡とは直接関係ないのですが、この地域の歴史的特性を知っていただくために、東高野街道 や長尾街道、その元である古代大津道のルートも表示しました。 ![]() ![]() おおむね大津道推定路から南の範囲が明治期以前に「国府村」だった所です。奈良時代には、この辺りの地域のどこかにに、河内(かわち)国 の役所である河内国府(こくふ)が置かれていたことが分かっており、国府(こう)の地名が残っているこの地域に国衙(国府の役所建物)があったと推 定されています。「国府遺跡」の名も、このことがもとになっています。国衙の跡と比定できるような遺構は現在のところ見つかっていま せんが、古街道が交叉する交通の要地でもあり、街道沿いにはいくつもの古代寺院が存在していたことから、国府のあったことはほぼ確実 だと思われます。国府の近くには河内国の市であった「餌香市(えがのいち)」が在ったことも知られており、それもこの地域だと推定する説が有 力です。市野山古墳の伝承名「市の山」も、餌香市の存在と関連するとみる説もあります。奈良時代のこの地域は、当時の幹線道路が交わ る辺りに国府が在り、大寺院も在って市場もにぎわう、まさに古代の繁華街だったと言えるかも知れません。 下の写真Aは、国府遺跡の中に立てられている説明看板です。簡潔に遺跡の要点が説明されています。出土した人骨のリアルな姿の写真 が目を引きます。この看板の近くに、「国府遺跡」の標柱や衣縫(いぬい)廃寺の塔礎石もあります。国府遺跡保存区域の最近の様子を写真で紹 介します。お近くの方は是非現地を訪れてみてください。 |
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B 国府遺跡に立つ説明板(藤井寺市教育委員会設置 1996年3月) |
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C「國府遺蹟之碑」と史跡の中心地(北西より) 正面の住宅地が一段低いことがわかる。木のある部分は 国府台地の東端。 2010(平成22)年6月(C〜F) |
D 国府遺跡の東側部分(南より) この一帯は衣縫廃寺の伽藍跡の推定地でもある。草地の 右側は一段低い。国府台地東端の段差地形である。 |
遺跡の発掘調査 明治期からいろいろな学者の注目を集めるところとなった国府遺跡でし たが、本格的な発掘調査は大正期に入って以降にくり返し行われました。 日本には旧石器時代は存在しなかったと考えられていた、今から100年ほ ど前の1916(大正5)年、京都帝国大学の喜田貞吉講師は、国府遺跡から採集 された石器の中に縄文時代より古い旧石器時代の可能性のある石器がある ことに注目しました。出土した地層の状況からその可能性を考えたのです。 翌1917年、京都帝国大学の浜田耕作教授が現地を発掘調査して、縄文か ら弥生時代の土器や石器、3体の人骨を発見しました。これにより、国府 遺跡は一躍学会の注目する遺跡となりましたが、依然として旧石器時代の 存在には否定的な見解が示されました。このため、旧石器時代の研究は、 戦後の岩宿(いわじゅく)遺跡の発見まで、大きく進むことはありませんでした。 当時は旧石器の可能性よりも、“人骨発見”の方が注目され、その後の発 |
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E衣縫廃寺の塔礎石 まったく別の記念碑の台座に使用されている。 |
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F Cの碑の裏面(南より) 「是石器時代人骨七十餘體出土之地也」 |
の発掘調査でも次々と人骨発見が報じられました。 上の写真Cの右端は、1927(昭和2)年に大阪史談会・大阪国史会が建てた「国府遺蹟 之碑」です。写真Fがその裏面で、「是石器時代人骨七十餘體出土之地也」と刻まれ ています。この時点ですでに70体以上の人骨が出土していたことがわかります。その 後も人骨の出土があり、総数は90体ほどになっています。 翌昭和3年に大阪府が建てた「石器時代遺跡地」の碑も、写真Cの左端に見えてい ます。 旧石器の確認−国府型ナイフ形石器 1949(昭和24)年の群馬県岩宿遺跡での旧石器発見以降、旧石器時代の存在が少しず つ明らかになる中で、国府遺跡も旧石器時代の確認を目的として、1957年・1958年に 再度発掘調査が行われました。 この発掘調査では特徴的な旧石器が確認されました。これらの石器は、大阪府・奈 良県の境にある二上山(にじょうざん)で採れるサヌカイトという石を使って、横に長い石片 (翼状剥片(よくじょうはくへん))を連続的にはぎとっていく方法で作られていました。この製法 は後に「瀬戸内技法」と名付けられましたが、この方法で作られたナイフ形の石器は、 国府遺跡の名をとって「国府型ナイフ形石器」と呼ばれ、石器分類の標式とされてい ます。 旧石器時代の遺跡調査が各地で行われるようになり、土器と同じように各地で出土 した石器の比較検討が進んできました。材質や形状、製造法などの類似性もわかって きました。同じ技法で作られたナイフ形石器の分布の様子から、いろいろなことがわ かってくるようになったのです。それらの調査・研究に指標として用いられたのが、 「国府型ナイフ形石器」だったのです。 |
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G 国府遺跡で出土した石器の例 上段3種が典型的な国府型ナイフ形石器。 『ふじいでらカルチャーフォーラムW 国府遺跡の謎を 解く』(藤井寺市教育委員会 1996年)より 一部彩色加工 |
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左のH図は、サヌカイトで国府型ナイフを作る瀬 戸内技法の工程を図式化したものです。瀬戸内技法 の特徴は、第2工程にあります。翼状剥片を一定の 厚みで連続的にはぎ取っていき、それをナイフの素 材とするものです。第3工程でナイフに仕上げられ ますが、上のG図の上段に国府型ナイフ形石器の典 型例が見られます。 翼状剥片を連続的にはぎ取っていく技法は、サヌ カイトという石が持つ独特の割れ方をよく知ってい て確立された技術だと考えられます。どんな石でも できる技法ではないのです。 「サヌカイト」は安山岩の一種で、二上山と並ぶ 産地の香川県坂出市の旧国名から「讃岐岩(さぬきがん)」 とも呼ばれます。「サヌカイト」という名称は、明 治時代に日本各地の地質を調査したドイツ人地質学 者ナウマン博士が、讃岐岩を本国に持ち帰り、知人 のバインシェンク博士が研究して命名したものと言 |
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H 「瀬戸内技法」の製造工程を概念化した図 『ふじいでらカルチャーフォーラムW 国府遺跡の謎を解く』(藤井寺市教育委員会 1996年)より 掲載の図を基にレイアウトを再構成し、彩色・文字打ち直し等一部を加工。 |
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われています。今日では「讃岐岩」よりも「サヌカイト」の方が広く使われる名となっています。サヌカイトの表面は緻密で黒色ですが、 長年自然界に在ると風化によって表面が薄い緑灰色になります。黒色の面は比較的最近に割れた面だということを示しています。 サヌカイトの最大の特徴は、何と言ってもその堅さにあります。私もサヌカイトの塊を砕いた経験がありますが、なかなか大変な思いを しました。鋼鉄製のタガネを当ててハンマーでたたくのですが、簡単には割れません。尖っていたタガネの先がすぐに丸くなりました。鉄 器も無い時代に古代人はどうやってサヌカイトを割ったのだろうかと、思わず彼らの智恵を尊敬しました。サヌカイトが持つ独特の割れ方 を知っていなければ、連続的に翼状剥片を作ることなどとても無理なことです。讃岐地方ではサヌカイトは「カンカン石」と呼ばれます。 サヌカイトをハンマーでたたくと、「チーン」という高い金属音がします。音だけ聞いていれば、ほとんどの人は石をたたいた音だとは 思わないでしょう。この特性を生かして、サヌカイトの小片で風鈴が作られたりしています。また、多くのサヌカイト片の大きさを調整し て、サヌカイト製の楽器として「石琴(せっきん)」が作られてもいます。市販品もありますが、かなり高価です。堅さゆえの加工の難しさの上 に、良質のサヌカイト自体の入手がだんだん困難になってきていることもあると思われます。 |
国史跡の指定へ 国府遺跡では、約2万年前の旧石器時代から縄文、弥生、古墳と、各時代の 人々が生活したと思われる跡が発見されており、現在までの調査で縄文・弥生 時代の約90体の人骨が出土しました。考古学の研究史に大きな足跡を残し、貴 重な資料を提供してその名を全国に知らしめました。1978(昭和53)年に藤井寺 市内で発見された「修羅」や世界文化遺産に登録された「古市古墳群」などよ りも先に、国府遺跡は全国的な注目を集めた藤井寺市の代表的文化財の遺跡だ ったのです。 戦後の高度経済成長期に実施された発掘調査では、以前から推定されていた 衣縫廃寺が、飛鳥時代創建の法起寺式伽藍配置の堂々たる古代寺院であったこ ともわかりました。この推定伽藍跡範囲は、国府遺跡の保存区域と重なってい ます。これらの調査結果に基づいて、国府遺跡はその主要な範囲が定められ、 1974(昭和49)年に国指定史跡となりました。さらに、1977年(昭和52年)にも追 |
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I 藤井寺市内遺跡で出土した国府型ナイフ形石器 『ふじいでらの歴史シリーズ1 探検・石器の時代』 (藤井寺市教育委員会 1995)より 背景を加工処理 |
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加指定を受け、現在は史跡公園として整備されています。また、周辺一帯は「周知の埋蔵文化財包蔵地」に指定されており、史跡指定範囲 に限らず住宅などの建て替えがあれば発掘調査が行われます。今後も国府遺跡の全体像に迫る発掘調査結果が期待されるところです。 |
古代人を飾ったもの−![]() 藤井寺市の市章には、国府遺跡から出土した ![]() ![]() どの緑色系の美しい石が選ばれて作られ、耳たぶに開けた孔に切れ目から差し込み耳飾りとしたものです。 ![]() |
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写真Kは、市立生涯学習センターの古代史展示コーナーに 展示されている ![]() ![]() ですが、大正6・7年に行われた大阪医科大学(現大阪大学)の 大串菊太郎氏の発掘調査で、その謎が解かされました。この 調査では36体もの人骨が発見されたのですが、その中で、 ![]() 状耳飾りが人骨の頭がい両脇から1対になって見つかったの です。 扁平なドーナツ形の一端に切れ目を入れたような形の遺物 は、石器時代の耳飾りだったことが分かったのです。 ![]() |
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J 国府遺跡出土の![]() けつ状耳飾りは、全部で6対12個が出土している。 『探検・石器の時代』(藤井寺市教育委員会)より |
K ![]() 市立生涯学習センター「アイ セル・シュラホール」展示より |
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話題となりました。なお、![]() ![]() ![]() 濱田耕作氏は、国府遺跡の ![]() ![]() 学博物館に3対6個、京都大学総合博物館に2対4個、道明寺天満宮に1対2個が保管・展示されています。 |
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L 国府台地を表す地図 おおむね20mラインから上が台地と見られる。 古墳で彩色の無い線表示は復元ラインを示す。地図中 の小古墳は、消滅しているものの方が多い。 |
M 国府台地の地形がわかる空中写真 段差地形が残っており、台地の様子がわかりやすい。 〔1948(昭和23)年9月1日米軍撮影 国土地理院〕 文字入れ等一部加工 |
L図は国府遺跡周辺を等高線段彩図で表したものです。藤井寺市教育委員会文化財保護課編集・出版の書物に掲載の古市古墳群古墳分布 図をもとに、古墳や段彩の彩色加工を施しました。国府台地の形がわかりやすいように段彩の色を調整しています。L図と同じ範囲を表す 空中写真が写真Mで、1948(昭和23)年に駐留していた米軍が撮影したものです。国府村だった範囲は、この頃はまだまだ田園地帯で、真上 から見た国府台地の形がよくわかります。今でも台地の段差があちこちで見られますが、当時はもっとはっきりと連続的に段差が見られた と思われます。これらの地図や写真を見ると、古代人が台地上で住居に選んだ場所は、低地に下りて行きやすい崖の近くで、石川に近い位 置であったことがわかります。国府遺跡の場所が選ばれたのは、たまたまではなく、それなりに理由があったと考えられます。 |
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縄文人が見ていた古代河内湾 右のN図は、大阪府立近つ飛鳥博物館編集・発行の小冊子『出土品が語 る 海と「おおさか」』から使わせていただいた古代の「河内湾」の推定 地図です。一部を加工しています。 この図の河内湾があった時代は縄文時代前半で、「縄文海進」によって 上町台地の内側に海水が入り込んで大きな湾になっていました。縄文時代 前期中ごろ(約5500年前)には海面が最も高くなり、生駒山地の麓まで海が せまっていました。 この後、気温の低下で海面が下がり、さらに淀川や大和川が運ぶ土砂で 河内湾は少しずつせばめられていきました。やがて弥生時代に入った頃に は、「河内潟」と呼ばれる干潟が広がっていたようです。そして、河川の 土砂によって湾が海と切り離されるとともに川の水が流れ込んで淡水化し、 「河内湖」に姿を変えていきました。その河内湖も大和川などが運ぶ土砂 で埋まっていき、広い平野、大阪平野ができ上がったのです。現在でも東 大阪市北部から大東市・門真市などにかけて低地が続くのは、この河内湖 に由来しているのです。 さて、この頃の国府遺跡の場所はと言うと、●の位置に当たります。す ぐ東には古代大和川が流れ、北方は分流する川の氾濫原となっていた様子 です。この河口付近は河内湾の最も奧で、淡水が多く混ざる汽水域だった と思われます。川には淡水魚、海には汽水を好む海水魚と、多くの種類の 魚貝類が採れたことと思われます。東方には生駒山地が連なり、山の獣類 や果実類が豊富に採れたことでしょう。国府台地は実によい条件を備えた 場所だったと言えそうです。 一日の狩りや採集活動が終わり、台地上から北方を眺めると、夕陽に光 る河内湾の海面が遠方に輝いていたことでしょう。西には大阪湾を染めて 沈みゆく夕陽が、まぶしく見えていたことでもありましょう。 |
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N 縄文時代前期の古代河内湾の推定図 (縄文時代前半) 『出土品が語る 海と「おおさか」』(大阪府立近つ飛鳥博物館 2014年)より 文字打ち直し、及び文字追加等、一部加工。 |
「河内国府(こくふ)」について | |
国府遺跡の広がる一帯は、明治22年に最初の合併が行われるまでは「国府(こう)村」だった区域の一部です。遺跡名もこの旧村名から付けら れました。「国府」の地名が残るこの地域のどこかに、古代の「河内国府」が置かれていたと推定されています。国府遺跡の西側に志貴縣 主(しきあがたぬし)神社がありますが、ここの境内に「河内国府址」の標柱石があります。しかし、ここが国府址であることが学術的に確定してい |
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るわけではありません。いろいろな要素から考えて、この辺りに河内国府のあった可能性が高いという推定です。 まず地名です。旧村時代は、志貴縣主神社がある場所も含めて国府村でした。現在、志貴縣主神社のある場所は惣社(そ うしゃ)地区で、もともとは国府村の中の小村(分村)でした。惣社(総社)というのは、古代の国府の近くに設けられていまし た。「国府」と「惣社」、この2つの地名からだけでも、国府がこの辺りにあった可能性を高く感じさせます。国分寺も 全国の国府の近くに建立されましたが、河内国分寺跡と推定される遺跡は、この地の東方の柏原市にあります。地名は柏 原市国分東条町(こくぶひがんじょうちょう)です。近くには国分尼寺跡もあります。 次に、古道です。志貴縣主神社の周辺を見ると、古代には志貴縣主神社の北側(南側とする説もあり)に官道である大津 道(後の長尾街道)が東西に通っていました。また、志貴縣主神社の東側では、南北に通る官道・東高野街道がこの大津道 と交わっていました。平城、平安のどちらの都にも通じる主要街道がこの地を通り、交わっていたのです。 水運についても、この地域は大和川に接しており、北へ下れば難波の都へ、東に上れば大和の国へと通じていました。 現在船橋(ふなはし)町となっている「船橋村」の地名は、国府で利用された津(港)の名残ではないかという説もあります。国府 が置かれるには、まことに都合の良い場所だったわけです。 さらには、古代寺院です。志貴縣主神社の東方一帯は、国史跡の指定を受けた国府遺跡の保存区域で、この区域に重な るようにして、古代寺院の「衣縫廃寺」の伽藍が推定されています。飛鳥寺と同じ様式の軒瓦など、多様な寺院瓦が出土 しており、寺院創立の古さと重要さを示しています。また、ここからまっすぐ北に進んだ所で、今の大和川の河床内で発 見された船橋遺跡では、「船橋廃寺跡」が推定されています。ここからも多様な寺院瓦が出土しています。 |
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「河内国府址」 大正8年に大阪 府が建てた標柱 |
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このように、数々の地名や古道、遺跡などの存在から、志貴縣主神社の近くに河内国府があったと推定されているのですが、今までのと ころ決定的証拠となる遺跡は発見されていません。つまり、国府の施設があったことを示す国衙(こくが)跡の遺構らしきものは見つかっていな いのです。そのため、河内国府のあった場所は、それぞれの研究者の推測の域を出ません。中には、船橋廃寺跡と推定されている遺跡が河 内国府跡ではないかと推測する説もあります。また、藤井寺市の南部地域に広がる挟山(はざみやま)遺跡に河内国府が在ったとする説もありま す。 ![]() 河内国府跡の存在候補地の区域は、現在その多くが住宅地などになっており、一度に大規模な発掘調査を行うことは不可能です。したが って、河内国府跡につながる手掛かりが発見されるには、まだまだ時間が必要となりそうです。 |
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