Web風土記ふじいでら
Top menu タイトル・修羅 site map
 (こういせき)   大阪府藤井寺市惣社(そうしゃ)2丁目地内
 近鉄南大阪線・土師ノ里
(はじのさと)駅より北東へ900m(「国府遺跡」標柱まで) 徒歩約14分 駐車場無し
 近鉄道明寺線・柏原
(かしわら)南口駅より南西へ約1km(「国府遺跡」標柱まで) 徒歩約15
旧石器時代遺跡の発見
 「国府遺跡」の発見は、藤井寺市域にある遺跡・史跡の中で、後に全国
区的に注目されることになった例の、最初の発見ではなかったかと思われ
ます。一般に報道されて注目されたのは、明治末に偶然巨大石棺が発見さ
れた津堂城山古墳の方が先だと思われますが、発見そのものは国府遺跡の
方が早い時期でした。
 国府遺跡が研究者によって最初に認識されたのは1889(明治22)年のこと
でした。後に日本地理学会を創設した山崎直方という人が学会雑誌によせ
た通信文に書かれてい
ました。当時の山崎氏は京都の第三高等中学校(後第
三高等学校)予科の学生で、人類学や考古学の研究をしていまし
た。この経
過については、かつて藤井寺市の「広報ふじいでら」に連載された『国府
遺跡発掘物語
に詳しく述べられています。現在、市のWebサイトにも掲
載されていますので、そこから引用して紹介させていただきます。
 『
藤井寺には巨大古墳が集まった古市古墳群とともに、全国に名前を知
られた遺跡があります。それは惣社2丁目を中心とした国府遺跡です。大
正期の多量の人骨やそれに伴う縄紋土器やけつ状耳飾りの出土、昭和に入
ってからの河内最古の寺院跡や旧石器の発掘など、考古学・人類学の発展
@ 空から見た国府遺跡周辺の様子
 @ 空から見た国府遺跡周辺の様子  下のA地図と対比すると
    わかりやすい。   〔GoogleEarth 2019(令和元)年3月9日〕より

                        文字入れ等一部加工
にエポックメイキング(画期的)な役割をこの国府遺跡が担ってきたからに他なりません。そこで今回から国府遺跡をめぐる調査と研究成果
の歴史をひも解いてみようと思います。まず、国府遺跡の発見の経緯からみていくことにしましょう。
 国府遺跡が学術雑誌に最初に登場したのは、明治22年(1889年)5月のことでした。今から実に120年近くもさかのぼります。それは『東京
人類学會雑誌』第4巻第39号に掲載された山崎直方さんの短い通信文です。その全文を紹介することにしましょう。
河内に於ける石器時代
遺跡の発見  拝啓近来如何なるまはり合せににや毎日曜降雨の為何等の遠足も不仕遺憾ながら遂に一片の御通知も不申上候處今日曜日には
断然雨を衝て遠足し其結果は實に望外にも望外にも至極面白き事にて御坐候實に五月十九日は本邦に於ける人類学の歴史中一の紀念日とも
可致程小生は羨しく感じ申し候何となれば小生は石器時代の顕然たる遺跡を河内國に発見仕候幸に後報御待ち被下度候(山崎直方)」
望外を
二度も繰り返すところに山崎さんの興奮の度合いが読み取られます。
 古い文章なので、なかなか読みづらいのですが、要約すると、
最近日曜日は雨が多くて遺跡探しに行けなかったのですが、5月19日は雨
をついて出掛けることにしました。あまり期待していなかったのですが、河内の国で人類学の歴史に刻まれるような一大石器時代の遺跡を
発見しました。後の報告をお楽しみにしてください。
こんな具合でしょうか。この最初の通信文には河内の国と記すだけで、遺跡の所在地
や名前が出てきません。遺跡の場所がはっきりするのは、山崎さんが次号に送った報告文です。この報告は、同じく『東京人類学會雑誌』
第4巻第40号に掲載されました。「河内國ニ石器時代ノ遺跡ヲ発見ス」であります。
 
「石器時代ノ顕然タル遺跡ヲ河内國志紀郡國府村ニ発見セリ村ハ大坂ヲ距ル五里許ニシテ河内國ノ中央大和川石川ノ二流相會スル所ニ沿
ヘリ」
と遺跡の位置を記し、国府遺跡に一致することがはっきりしました。山崎さんがここで採集した遺物には、石器、貝塚土器、獣骨、
獣歯、古代土器、布目瓦を挙げておられます。
〔藤井寺市サイト『コラム古代からのメッセージ国府遺跡発掘物語−遺跡の発見の顛末
(No.115)」』〕(『広報ふじいでら』第365号 1999年10月号)より
              アイコン・指さしマーク 藤井寺市サイト『国府遺跡発掘物語』
 遺跡の発見場所が、「
河内國志紀郡國府村ニ発見セリ」と書かれていますが、明治22年4月1日には国府村は合併で「道明寺村」になって
いました。直後なので山崎氏はご存知なかったのでしょう。
 写真@は、国史跡に指定されている国府遺跡の区域を中心とする衛星写真です。現在かなりの範囲が公有地化されていますが、昔から民
有地であったために、今も多くの民家などが混在しています。この遺跡とされた場所で、今までに多くの学者が訪れ
、30回以上も発掘調査
が行われてきました。出土遺物である石器や人骨を巡って、学界では様々な検討や論争が展開されてきました。国府遺跡は、日本人起源論
や日本の旧石器時代に関する見解にも影響を与えた、まさに“エポックメイキングな遺跡”という存在になったのです。
地図で見る国府遺跡と周辺の様子
A 国府遺跡と周辺の地図
          A 国府遺跡と周辺の地図      この区域は、ほぼ道明寺東小学校の校区に重なっている。
国府遺跡の位置と地域の様子
 上の地図は、国府遺跡の位置と周辺の様子を見ていただくために掲載しました。ベースとなった地図は、もともと道明寺東小学校の校区
地図として作製したもので、校区の文化財地図にも利用しました。国府遺跡が中央に位置していてわかりやすいので、今回、表示事項を調
整して上のような地図に仕上げました。国府遺跡とは直接関係ないのですが、この地域の歴史的特性を知っていただくために、東高野街道
や長尾街道、その元である古代大津道のルートも表示しました。         アイコン・指さしマーク「東高野街道」    アイコン・指さしマーク「長尾街道」
 おおむね大津道推定路から南の範囲が明治期以前に「国府村」だった所です。奈良時代には、この辺りの地域のどこかにに、河内
(かわち)
の役所である河内国府
(こくふ)が置かれていたことが分かっており、国府(こう)の地名が残っているこの地域に国衙(国府の役所建物)があったと推
定されています。「国府遺跡」の名も、このことがもとになっています。国衙の跡と比定できるような遺構は現在のところ見つかっていま
せんが、古街道が交叉する交通の要地でもあり、街道沿いにはいくつもの古代寺院が存在していたことから、国府のあったことはほぼ確実
だと思われます。国府の近くには河内国の市であった「餌香市
(えがのいち)が在ったことも知られており、それもこの地域だと推定する説が有
力です。市野山古墳の伝承名「市の山」も、餌香市の存在と関連するとみる説もあります。奈良時代のこの地域は、当時の幹線道路が交わ
る辺りに国府が在り、大寺院も在って市場もにぎわう、まさに古代の繁華街だったと言えるかも知れません。
 下の写真Aは、国府遺跡の中に立てられている説明看板です。簡潔に遺跡の要点が説明されています。出土した人骨のリアルな姿の写真
が目を引きます。この看板の近くに、
国府遺跡」の標柱や衣縫(いぬい)廃寺の塔礎石もあります。国府遺跡保存区域の最近の様子を写真で紹
介します。お近くの方は是非現地を訪れてみてください。
B 国府遺跡に立つ説明板
B 国府遺跡に立つ説明板(藤井寺市教育委員会設置 1996年3月)
C 「國府遺蹟之碑」の標柱が立つ史跡の中心地(北西より) D 国府遺跡の東側部分(南より)
C「國府遺蹟之碑」と史跡の中心地(北西より)
    正面の住宅地が一段低いことがわかる。木のある部分は
   国府台地の東端。    2010(平成22)年6月(C〜F)
D 国府遺跡の東側部分(南より)
    この一帯は衣縫廃寺の伽藍跡の推定地でもある。草地の
   右側は一段低い。国府台地東端の段差地形である。
遺跡の発掘調査
 明治期からいろいろな学者の注目を集めるところとなった国府遺跡でし
たが、本格的な発掘調査は大正期に入って以降にくり返し行われました。
 日本には旧石器時代は存在し
なかったと考えられていた、今から100年ほ
ど前の1916(大正5)年、京都帝国大学の喜田貞吉講師
は、国府遺跡から採集
された石器の中に縄文時代より古い旧石器時代の可能性のある石器がある
ことに注目しました
出土した地層の状況からその可能性を考えたのです。
 翌1917年、京都帝国大学の浜田耕作教授が現地を発掘調査して、縄文か
ら弥生時代の土器や石器、3体の人骨を発見しました。これにより、国府
遺跡は一躍学会の注目する遺跡となりましたが、依然として旧石器時代の
存在には否定的な見解が示されました。このため、旧石器時代の研究は、
戦後の岩宿
(いわじゅく)遺跡の発見まで、大きく進むことはありませんでした。
当時は旧石器の可能性よりも、“人骨発見”の方が注目され、その後の発
E 衣縫廃寺の塔礎石 F Cの碑の裏面(南より)
 E衣縫廃寺の塔礎石
   まったく別の記念碑の台座に使用されている。
      F Cの碑の裏面(南より)
     「是石器時代人骨七十餘體出土之地也」
の発掘調査でも次々と人骨発見が報じられました。
 上の写真Cの右端は、1927(昭和2)年に大阪史談会
大阪国史会が建てた「国府遺蹟
之碑」です。写真Eがその裏面で、「是石器時代人骨七十餘體出土之地也」と刻まれ
ています。この時点ですでに
70体以上の人骨が出土していたことがわかります。その
後も人骨の出土があり、総数は
90体ほどになっています。
 翌昭和3年に大阪府が建てた「石器時代遺跡地」の碑も、写真Cの左端に見えてい
ます。
旧石器の確認−国府型ナイフ形石器
 1949(昭和24)年の群馬県岩宿遺跡での旧石器発見以降、旧石器時代の存在が少しず
つ明らかになる中で、国府遺跡も旧石器時代の確認を目的として、1957年・1958年に
再度発掘調査が行われました。
 この発掘調査では特徴的な旧石器が確認されました。これらの石器は、大阪府・奈
良県の境にある二上山
(にじょうざん)で採れるサヌカイトという石を使って、横に長い石片
(翼状剥片(よくじょうはくへん))を連続的にはぎとっていく方法で作られていました。この製法
は後に「瀬戸内技法
と名付けられましたが、この方法で作られたナイフ形の石器は、
国府遺跡の名をとって「国府型ナイフ形石器」と呼ばれ、石器分類の標式とされてい
ます。
 旧石器時代の遺跡調査が各地で行われるようになり、土器と同じように各地で出土
した石器の比較検討が進んできました。材質や形状、製造法などの類似性もわかって
きました。同じ技法で作られたナイフ形石器の分布の様子から、いろいろなことがわ
かってくるようになったのです。それらの調査・研究に指標として用いられたのが、
「国府型ナイフ形石器」だったのです。
G 国府遺跡で出土した石器の例
 G 国府遺跡で出土した石器の例
      上段3種が典型的な国府型ナイフ形石器。
 『ふじいでらカルチャーフォーラムW 国府遺跡の謎を
  解く
』(藤井寺市教育委員会 1996年)より 一部彩色加工
H 「瀬戸内技法」の製造工程を概念化した図  左のH図は、サヌカイトで国府型ナイフを作る瀬
戸内技法の工程を図式化したものです。瀬戸内技法
の特徴は、第2工程にあります。翼状剥片を一定の
厚みで連続的にはぎ取っていき、それをナイフの素
材とするものです。第3工程でナイフに仕上げられ
ますが、上のG図の上段に国府型ナイフ形石器の典
型例が見られます。
 翼状剥片を連続的にはぎ取っていく技法は、サヌ
カイトという石が持つ独特の割れ方をよく知ってい
て確立された技術だと考えられます。どんな石でも
できる技法ではないのです。
 「サヌカイト」は安山岩の一種で、二上山と並ぶ
産地の香川県坂出市の旧国名から「讃岐岩
(さぬきがん)

とも呼ばれます。「サヌカイト」という名称は、明
治時代に日本各地の地質を調査したドイツ人地質学
者ナウマン博士が、讃岐岩を本国に持ち帰り、知人
のバインシェンク博士が研究して命名したものと言
H 「瀬戸内技法」の製造工程を概念化した図
     『ふじいでらカルチャーフォーラムW 国府遺跡の謎を解く』(藤井寺市教育委員会 1996年)より
        掲載の図を基にレイアウトを再構成し、彩色・文字打ち直し等一部を加工。
われています。今日では「讃岐岩」よりも「サヌカイト」の方が広く使われる名となっています。サヌカイトの表面は緻密で黒色ですが、
長年自然界に在ると風化によって表面が薄い緑灰色になります。黒色の面は比較的最近に割れた面だということを示しています。
 サヌカイトの最大の特徴は、何と言ってもその堅さにあります。私もサヌカイトの塊を砕いた経験がありますが、なかなか大変な思いを
しました。鋼鉄製のタガネを当ててハンマーでたたくのですが、簡単には割れません。尖っていたタガネの先がすぐに丸くなりました。鉄
器も無い時代に古代人はどうやってサヌカイトを割ったのだろうかと、思わず彼らの智恵を尊敬しました。サヌカイトが持つ独特の割れ方
を知っていなければ、連続的に翼状剥片を作ることなどとても無理なことです。讃岐地方ではサヌカイトは「カンカン石」と呼ばれます。
 サヌカイトをハンマーでたたくと、「チーン」という高い金属音がします。音だけ聞いていれば、ほとんどの人は石をたたいた音だとは
思わないでしょう。この特性を生かして、サヌカイトの小片で風鈴が作られたりしています。また、多くのサヌカイト片の大きさを調整し
て、サヌカイト製の楽器として「石琴
(せっきん)」が作られてもいます。市販品もありますが、かなり高価です。堅さゆえの加工の難しさの上
に、良質のサヌカイト自体の入手がだんだん困難になってきていることもあると思われます。
国史跡の指定へ
 国府遺跡では、約2万年前の旧石器時代から縄文、弥生、古墳と、各時代の
人々が生活したと思われる跡が発見されており、現在までの調査で縄文・弥生
時代の約
90体の人骨が出土しました。考古学の研究史に大きな足跡を残し、貴
重な資料を提供してその名を全国に知らしめました。1978(昭和53)年に藤井寺
市内で発見された「修羅」や世界文化遺産に登録された「古市古墳群」などよ
りも先に、国府遺跡は全国的な注目を集めた藤井寺市の代表的文化財の遺跡だ
ったのです。
 戦後の高度経済成長期に実施された発掘調査では、以前から推定されていた
衣縫廃寺が、飛鳥時代創建の法起寺式伽藍配置の堂々たる古代寺院であったこ
ともわかりました。この推定伽藍跡範囲は、国府遺跡の保存区域と重なってい
ます。これらの調査結果に基づいて、国府遺跡はその主要な範囲が定められ、
1974(昭和49)年に国指定史跡となりました。さらに、1977年(昭和52年)にも追
I 藤井寺市内遺跡で出土した国府型ナイフ形石器
 I 藤井寺市内遺跡で出土した国府型ナイフ形石器
    『ふじいでらの歴史シリーズ1 探検・石器の時代』
     (藤井寺市教育委員会 1995)より
   背景を加工処理
加指定を受け、現在は史跡公園として整備されています。また、周辺一帯は「周知の埋蔵文化財包蔵地」に指定されており、史跡指定範囲
に限らず住宅などの建て替えがあれば発掘調査が行われます。今後も国府遺跡の全体像に迫る発掘調査結果が期待されるところです。
 
古代人を飾ったもの−漢字・けつ(けつじょう)耳飾り
 藤井寺市の市章には、国府遺跡から出土した漢字・けつ状耳飾りの形がモチーフとして使われています。漢字・けつ状耳飾りというのは、滑石や蛇紋岩な
どの緑色系の美しい石が選ばれて作られ、耳たぶに開けた孔に切れ目から差し込み耳飾りとしたものです。
                                 アイコン・指さしマーク「市章・市民憲章・市歌・市民音頭・市の花・市の木」
J 国府遺跡出土のけつ状耳飾り(京都大学所蔵) K けつ状耳飾りの使用例  写真Kは、市立生涯学習センターの古代史展示コーナーに
展示されている漢字・けつ状耳飾り使用例のレプリカです。
 漢字・けつ状耳飾りは、用途や時代のはっきりしない遺物だったの
ですが、大正
6・7年に行われた大阪医科大学(現大阪大学)
大串菊太郎氏の発掘調査で、その謎が解かされました。この
調査では
36体もの人骨が発見されたのですが、その中で、漢字・けつ
状耳飾りが人骨の頭がい両脇から1対になって見つかったの
です。
 扁平なドーナツ形の一端に切れ目を入れたような形の遺物
は、石器時代の耳飾りだったことが分かったのです。
 漢字・けつ状耳飾りは大串氏の調査で6対、12個も出土し、大きな
J 国府遺跡出土の漢字・けつ状耳飾り(京都大学所蔵)
  けつ状耳飾りは、全部で6対12個が出土している。
   『探検・石器の時代(藤井寺市教育委員会)より
K 漢字・けつ状耳飾りの使用例
  市立生涯学習センター「アイ
 セル・シュラホール」展示より
話題となりました。なお、漢字・けつ状耳飾りの漢字・けつとは中国の玉器の漢字・けつのことで、その形が似ていることで命名されたものです。京都帝国大学の
濱田耕作氏は、国府遺跡の漢字・けつ状耳飾りは中国から輸入された可能性があることを指摘していました。全
12個の漢字・けつ状耳飾りは、現在、関西大
学博物館に3対6個、京都大学総合博物館に2対4個、道明寺天満宮に1対2個が保管・展示されています。

国府台地で暮らした人々
 現在国史跡指定区域となっている部分は、国府台地の北東端に位置しています。大昔、この台地上に住居を構えた人々は、台地の北側に
広がる河内平野を見下ろしいたことでしょう。その北方には、古代の大阪湾とも言える河内湾の水面が光っていたはずです。稲作が始まっ
てからは、台地の下に広がる低地が、かっこうの水田として人々の生活を支えていたことでしょう。台地の東方には古来より石川・大和川
の豊かな流れがありました。川の向こうには山地も連なり、山の幸も豊かだったことでしょう。実に条件の良い場所が選ばれていることに
感心します。この場所で、石器時代から営々と人々が暮らしてきたと思うと、何かしら感慨深いものがあります。
L 国府台地を表す地図 M 国府台地の地形がわかる空中写真
L 国府台地を表す地図
  おおむね20mラインから上が台地と見られる。
  古墳で彩色の無い線表示は復元ラインを示す。地図中
 の小古墳は、消滅しているものの方が多い。
 
M 国府台地の地形がわかる空中写真
   段差地形が残っており、台地の様子がわかりやすい。
 〔1948(昭和23)年9月1日米軍撮影 国土地理院〕
             文字入れ等一部加工
 L図は国府遺跡周辺を等高線段彩図で表したものです。藤井寺市教育委員会文化財保護課編集・出版の書物に掲載の古市古墳群古墳分布
図をもとに、古墳や段彩の彩色加工を施しました。国府台地の形がわかりやすいように段彩の色を調整しています。L図と同じ範囲を表す
空中写真が写真Mで、1948(昭和23)年に駐留していた米軍が撮影したものです。国府村だった範囲は、この頃はまだまだ田園地帯で、真上
から見た国府台地の形がよくわかります。今でも台地の段差があちこちで見られますが、当時はもっとはっきりと連続的に段差が見られた
と思われます。これらの地図や写真を見ると、古代人が台地上で住居に選んだ場所は、低地に下りて行きやすい崖の近くで、石川に近い位
置であったことがわかります。国府遺跡の場所が選ばれたのは、たまたまではなく、それなりに理由があったと考えられます。
 
縄文人が見ていた古代河内湾
 右のN図は、大阪府立近つ飛鳥博物館編集・発行の小冊子『出土品が語
る 海と「おおさか」』から使わせていただいた古代の「河内湾」の推定
地図です。一部を加工しています。
 この図の河内湾があった時代は縄文時代前半で、「縄文海進」によって
上町台地の内側に海水が入り込んで大きな湾になっていました。縄文時代
前期中ごろ
(約5500年前)には海面が最も高くなり、生駒山地の麓まで海が
せまっていました。
 この後、気温の低下で海面が下がり、さらに淀川や大和川が運ぶ土砂で
河内湾は少しずつせばめられていきました。やがて弥生時代に入った頃に
は、「河内潟」と呼ばれる干潟が広がっていたようです。そして、河川の
土砂
によって湾が海と切り離されるとともに川の水が流れ込んで淡水化し、
「河内湖」に姿を変えていきました。その河内湖も大和川などが運ぶ土砂
で埋まっていき、広い平野、大阪平野ができ上がったのです。現在でも東
大阪市北部から大東市・門真市などにかけて低地が続くのは、この河内湖
に由来しているのです。
 さて、この頃の国府遺跡の場所はと言うと、
の位置に当たります。す
ぐ東には古代大和川が流れ、北方は分流する川の氾濫原となっていた様子
です。この河口付近は河内湾の最も奧で、淡水が多く混ざる汽水域だった
と思われます。川には淡水魚、海には汽水を好む海水魚と、多くの種類の
魚貝類が採れたことと思われます。東方には生駒山地が連なり、山の獣類
や果実類が豊富に採れたことでしょう。国府台地は実によい条件を備えた
場所だったと言えそうです。
 一日の狩りや採集活動が終わり、台地上から北方を眺めると、夕陽に光
る河内湾の海面が遠方に輝いていたことでしょう。西には大阪湾を染めて
沈みゆく夕陽が、まぶしく見えていたことでもありましょう。
N 縄文時代前期の古代河内湾の推定図 (縄文時代前半)
N 縄文時代前期の古代河内湾の推定図 (縄文時代前半)
  『出土品が語る 海と「おおさか」』(大阪府立近つ飛鳥博物館 2014年)より
                   文字打ち直し、及び文字追加等、一部加工。       

「河内国府(こくふ)」について
 国府遺跡の広がる一帯は、明治22年に最初の合併が行われるまでは「国府(こう)だった区域の一部です。遺跡名もこの旧村名から付けら
れました。「国府」の地名が残るこの地域のどこかに、古代の「河内国府」が置かれていたと推定されています。国府遺跡の西側に志貴縣
(しきあがたぬし)神社がありますが、ここの境内に「河内国府址の標柱石があります。しかし、ここが国府址であることが学術的に確定してい
るわけではありません。いろいろな要素から考えて、この辺りに河内国府のあった可能性が高いという推定です。
 まず地名です。旧村時代は、志貴縣主神社がある場所も含めて国府村でした。現在、志貴縣主神社のある場所は惣社
(そ
うしゃ)
地区で、もともとは国府村の中の小村(分村)でした。惣社(総社)というのは、古代の国府の近くに設けられていまし
た。「国府」と「惣社」、この2つの地名からだけでも、国府がこの辺りにあった可能性を高く感じさせます。国分寺も
全国の国府の近くに建立されましたが、河内国分寺跡と推定される遺跡は、この地の東方の柏原市にあります。地名は柏
原市国分東条町
(こくぶひがんじょうちょう)です。近くには国分尼寺跡もあります。
 次に、古道です。志貴縣主神社の周辺を見ると、古代には志貴縣主神社の北側
(南側とする説もあり)に官道である大津
(後の長尾街道)が東西に通っていました。また、志貴縣主神社の東側では、南北に通る官道・東高野街道がこの大津道
と交わっていました。平城、平安のどちらの都にも通じる主要街道がこの地を通り、交わっていたのです。
 水運についても、この地域は大和川に接しており、北へ下れば難波の都へ、東に上れば大和の国へと通じていました。
現在船橋
(ふなはし)町となっている「船橋村」の地名は、国府で利用された津(港)の名残ではないかという説もあります。国府
が置かれるには、まことに都合の良い場所だったわけです。
 さらには、古代寺院です。志貴縣主神社の東方一帯は、国史跡の指定を受けた国府遺跡の保存区域で、この区域に重な
るようにして、古代寺院の「衣縫廃寺」の伽藍が推定されています。飛鳥寺と同じ様式の軒瓦など、多様な寺院瓦が出土
しており、寺院創立の古さと重要さを示しています。また、ここからまっすぐ北に進んだ所で、今の大和川の河床内で発
見された船橋遺跡では、「船橋廃寺跡」が推定されています。ここからも多様な寺院瓦が出土しています。
「河内国府址」標柱
「河内国府址」
大正8年に大阪
府が建てた標柱
 このように、数々の地名や古道、遺跡などの存在から、志貴縣主神社の近くに河内国府があったと推定されているのですが、今までのと
ころ決定的証拠となる遺跡は発見されていません。つま
り、国府の施設があったことを示す国衙
(こくが)跡の遺構らしきものは見つかっていな
いのです。そのため、河内国府のあった場所は、それぞれの研究者の推測の域を出ません。中には、船橋廃寺跡と推定されている遺跡が河
内国府跡ではないかと推測する説もあります。また、藤井寺市の南部地域に広がる挟山
(はざみやま)遺跡に河内国府が在ったとする説もありま
す。                                            アイコン・指さしマーク「船橋遺跡・船橋廃寺」
 河内国府跡の存在候補地の区域は、現在その多くが住宅地などになっており、一度に大規模な発掘調査を行うことは不可能です。したが
って、河内国府跡につながる手掛かりが発見されるには、まだまだ時間が必要となりそうです。

「餌香市(えがのいち)」のこと
 餌香市に関する記事が、『日本書紀』と『続日本紀』で3回登場しています。古代に「河内の市(いち)」としてにぎわっていたとされる餌香
市ですが、その場所は残念ながら現在のところ推定の域を出ません。比較的多くの説で共通するのが、現在の藤井寺市
、それも国府地区(旧
国府村)
もしくはその周辺に在ったとする点です。この地域はまた、古代に河内国府が在ったと推定されている場所でもあります。
 ここでは、参考資料として、『大阪文化誌 第14号』(大阪文化財センター 1982年3月20日発行)に掲載されている西口陽一氏の論文『

内国餌香市跡即船橋遺跡説」―ある地方「市」の歴史―』から一部を引用させていただいて、餌香市の紹介にしたいと思います。詳しくは
原文をご覧ください。
 まず、論文で引用されている『日本書記』『続日本紀』に記述された文を紹介します。
( 内が引用部分 )
@『日本書紀』雄略天皇十三年春三月項(469年)
 
  「天皇使歯田根命、資財露置於餌香市辺橋本土。」
A
『日本書紀』顕宗天皇即位(485年)前紀項
 
  「吾舞者、旨酒餌香市不以直買、云々。」(※「舞」は原文では人偏付き)
B
『続日本紀』宝亀元年三月項(770年)
 
  「以従五位下山口忌寸沙弥麻呂。西市員外令史正八位下民使毘登日理。權任会賀市司。」
 「餌香市」「会賀市」として登場しています。この「餌香市」とは何か、という視点で述べられる西口氏の文を次に紹介します。
              
(※ 読みやすいように適宜段落を付け、色文字の表示を使用。出典の発行年等は註から転記して追加。)
  ここに登場した餌香市とは何か?最新の『国史大辞典』(第二巻 昭和55年7月 吉川弘文館)には、
  
「餌香市(えがのいち)古代において早くからみえる市の一つ。会賀市とも書く。『日本書紀』雄略天皇十三年条に
 罪人の資財をこの市で売ったとある。また顕宗天皇即位前紀の歌謡に「旨酒
(うまさけ)餌香市」とみえる。旨酒が枕
 詞となっていることを『釈日本紀』は高麗人がこの市に住み美味な酒を売ったのによると説く。
  宝亀元年(七七〇)三月に市司が置かれたがその後の変遷は不明。その所在については現在の大阪府藤井寺市国
 府
(こふ)付近とするのが有力。」とあった。これでは簡単にすぎて、よく分らない。
  次に
『日本地名大辞典』(昭和12年10月 日本書房)をひいてみる。すると、「恵我・餌香・衛我」として、
  
「河内国の古地名。今の大阪府中河内郡恵我村及び南河内郡道明寺村・藤井寺町・古市町の辺を総称せるものの
 如し。此地方を流るる大和川の一支石川を古くは餌我川と呼べるものの如し。仲哀天皇の御陵恵我長野西陵は藤井
 寺町大字岡に、応神天皇の御陵恵我藻伏岡陵は古市町大字誉田に、允恭天皇の御陵恵我長野北陵は道明寺村大字国
 府にあり。」
とあった。これにより、餌香とは地名だと分った。但し、『日本地名大辞典』が、中河内郡恵我村を
 古代の餌香の一部とするのは当らない。
  
『大阪府全誌』(巻之四 井上正雄 大正11年11月)が、恵我村として、「本地は明治二十二年四月一日町村制の
 施行に際し、別所村・一津屋村・小川村・大堀村・若林村の五ケ村は、当時同一戸長役場の所轄区域にして、地形
 民情共に合併するを便
とするを以て、其の区域に依りて丹北郡所属たりしが、同二十九年四月一日中河内郡に属す。」
 と説明したように、古代以来、恵我村がその地に存在し続けた訳では決してない。又、序ながら記すと、仲哀陵は
 藤井寺町大字岡にあるとするが、現仲哀陵の所在位置は、旧の丹北郡で、志紀郡にあるべき仲哀陵としては不適格
 である。真の仲哀陵としては、
『山陵志』も想定したように、長野邑の西にある仲津山、即ち現仲津姫皇后陵を当
 てるのが良い。すると、志紀郡の中、北から恵我長野北陵、西に恵我長野西陵、南に恵我藻伏岡陵と恵我三陵が同
 一丘陵に一列に並ぶ。
  加えて、
『日本地名大辞典』の「餌香川・衛我河」の項をひくと、益々餌香地方が何処か推定できる。
  
「河内国の古川名。南河内郡道明寺村大字国府(旧名餌香市)の辺を流れ大和川に注ぐ石川を指せるものならん。
 また大和川の部分的称呼とも考えらる。壬申の乱、吉野の将坂本財、高安城より出で、此河を渡り近江の軍将壹岐
 韓国と此河西に戦いしも、敵せずして懼坂に退却せること書紀天武紀に見ゆ。因に懼坂は今の竜田越なりという。
 いま道明寺村の大字に船橋あり、大和川と石川の合流点にして其西岸に当り、新大和川に架橋して柏原町に通ず。
 書紀に餌香市辺橋、万葉集に河内大橋と云うは即ち船橋の辺にありしものならん。また続紀承和八年の条に志紀郡
 孝子衣縫氏女、恵我川に梁を架すとあるも之に同じ。」

  即ち、古代の餌香地方とは、旧の志紀郡の南半、今の藤井寺市の東半部と柏原市西端の一部と推定される訳であ
 る。その地方の市だから餌香市なのであり、その地方の川や河原だから餌香川・餌香河原(
『崇唆紀』)なのである。
 と、「餌香市」とは何かについて諸辞典等からまとめられています。
 石川の古代名とされる「餌香川」についても紹介されていますが、壬申の乱(672年)の時の戦いは「衛我河の戦い
と呼ばれています。ま
た、それに先立つ 587(用明2)年7月、蘇我馬子や厩戸皇子
(聖徳太子)らの蘇我軍主力が物部守屋軍の先鋒と激戦の末突破したという「餌香
川原の戦い」もよく知られています。下って 1615(元和元)年5月の大坂夏の陣では石川
(餌香川)の両岸地域を戦場として激戦が展開され、
豊臣方の後藤基次
(又兵衛)や薄田兼相(隼人)などの武将が戦死します。「道明寺の戦い」と呼ばれる戦いです。古来、「餌香川」付近が重
要な戦いの舞台になっていたわけです。
 さらに、西口論文では餌香市との関連で、「河内大橋」ついても述べられています。
  そして、その餌香市の所在を明らかにする上で、更に重要手がかりとなるのが、史料@の市辺にあったという
 「橋」である。
『大日本地名辞書』(明治33年6月)の吉田東伍博士は、「此橋は万葉集に河内大橋とありて、片足
 羽川に架す。対岸は片の地なれば也。」
と推定し、昭和八年に『日本古代経済』(交換篇第二冊市場 昭和8年5月)
 を著わした西村真次早大教授は、次のように推定した。
  
「いはゞ市は、今日、銀座が銀ブラの徒によって闊歩せられる如く、当時のモダン・ボーイやモダン・ガールに
 よって闊歩せられたのであった。試みに
『万葉集』に出ている次ぎの歌を吟味して見よう。

     
 見河内大橋独去娘子作一首並短歌
     級照
片足羽河之左丹塗大橋之上従紅赤裳数十引山藍用摺衣服而直独伊渡児者若草乃夫香有良武
     橿実之独歟将宿間参乃欲我妹之家乃不知
      反 歌
     大橋之頭爾家有者心悲久独去児爾屋戸借申尾


 
 これはカタシハ河に架けた丹塗の大橋の上を、赤裳の裾引きながら、山藍摺りの衣を着けた少女が只独りで渡っ
 てゆく、あの子にはもう良人があろうか、それともまだ一人者だろうか、聞いてみたいものだという意に過ぎない
 が、此歌によって(一)片足羽川に橋が架かって居り、しかも其欄干が赤く塗ってあったこと、(二)其辺をしゃなら
 しゃならと徘徊した女がどんな服装をしていたかということが知られる。そして、此大橋は、餌香市の近くに架か
 っていたものであるから、これによって其市場がどんな位置にあったかということの見極めがつく。云々」

  そして、当の餌香市については、吉田博士は
「今道明寺村国府の旧名なり」とし、西村教授は、「大和川の南岸
 に恵我村あり、北岸の柏原町に市村あり、道明寺の南方に古市があって色々の幻影を起させ、古代の餌香市の位置
 を推定するのに困難を感ぜしめるが、やはり国府付近の石川端を其址と見るのが妥当であろう」
とした。
  両権威揃って、国府若しくは国府付近とするのが、現在、餌香市を国府付近とする通説の通説となった所以であ
 る。筆者も又、その辺にあったと思うものである。 
 このように、餌香川との関係で考えても、餌香市は現在の藤井寺市国府付近に在ったとするのが妥当であるとまとめてあります。次いで
Aの『日本書紀』の記述についての述べられた文が続いています。
  Aの史料は、清寧天皇二年冬十一月に、後の顕宗天皇が仕えていた播磨国赤石郡の縮見屯倉首の新築祝いの席上、
 詠った詞の一節である。内容は、
  
「築き立てる新しい室の綱の根や柱は、この家長の御心を鎮めるもの。しっかりあげる棟や梁はこの家長の御心
 をもてはやすもの。しっかり置く乗木は、この家長の御心をととのえるもの。しっかり置くエツリは、この家長の
 御心を平らかにするもの。しっかり結んだ縄や葛は、この家長の寿命を堅くするもの。葺いた萱は、この家長の富
 の豊かさを示すもの。出雲田の新墾の十握稲を浅い甕に醸んで作ったお酒を、おいしく飲むことかな。わが友たち
 よ。この山の傍で牡鹿の角をささげて私が鹿の舞をすると、この手作りの旨い酒は、
餌香市でも値段をつけて買う
 ことは出来ない物だ。手をうつ音もさわやかにこのお酒を頂いた。わが永久の友たちよ。」
というものである。
  この記述からすると、当時の餌香市では酒も売っていたらしい。この旨い酒については、鎌倉末期の
『釈日本紀』
 に、
「私記日、師説高麗人来住餌香市醸旨酒時人競以高価買飲故云」と注釈がついていて、当時の餌香市の旨い酒
 の原因とその繁盛ぶりが伝えられている。
(以下略) 
 この論文の後段で西口氏は、餌香市が在ったのは国府付近でも船橋遺跡の場所とみるのがより適切であるとの論を、各種古代史料や出土
資料、河内国の古代寺院に関する考察、古代の「市」の変遷などから、多面的に展開されています。
 その中で、
河内国志紀郡 井於郷(いのえごう)」に在ったとされる「井上寺」が比定されるのは、船橋遺跡で認められた船橋廃寺であると述
べられています。また、允恭
(いんぎょう)天皇陵とされている市野山(いちのやま)古墳について、この地が江戸時代から「市野山」とよばれていて、
ここが文字通り「市の山」であって、すぐ近所に餌香市があったとする見解も述べられています。
 餌香市が船橋遺跡の場所だったのか、国府地区の中だったのか、確定することはできませんが、その昔この地域で河内国府とともに栄え
ていた時代があったことは確かでしょう。
 終わりに、論文の最終部分にある記述を紹介しておきます。
  しかし、繁栄の後には必ず衰退が訪れる。餌香市とて例外ではなかった。奈良後期、あんなに多量に出土した土
 器も、平安時代になると、ほとんど出土しなくなる。奈良後期の層上には、厚い粘土や砂が堆積し、幾多の洪水を
 受けたことが判明している。そして、その砂中から和同開珎を始め、多数の銭貨が出土して来る。恐らく、洪水時、
 金庫から持ち出す暇もなかったのであろう。日常雑器・植物遺体が多数出土するのも同一理由と考えられる。
  都が長岡・平安と山城に移って行くに連れ、河内・大和の文化・経済に占める位置は相対的に下っていった。難
 波と大和の中間地帯にある餌香市も、都がそのどちらかにあればこそ、その有用性もあったのが、今や奈良の都に
 ペンペン草の生える時に至っては、その規模の縮小を余儀なくされてしまった。
(中略)
        *     *     *
 その後、餌香市がどうなったのか、明らかではない。史料とてない。
 
 かくして、「餌香市」は河内国府や船橋廃寺・衣縫廃寺などと共に、歴史の舞台から姿を消してしまったのでした。

menu site map