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  新大井橋(大井橋)
  (しんおおいばし)    架橋河川:大和川    《 国道170(大阪外環状線)
 大阪府藤井寺市大井2丁目地内
(北詰交差点は藤井寺市川北1丁目)
 近鉄南大阪線・土師ノ里
(はじのさと)駅より北西へ約1.9km 徒歩約28(新大井橋南詰まで)
 近鉄道明寺線・柏原南口駅より西北西へ1.7km 徒歩約25
(新大井橋北詰まで)
 JR関西本線
(大和路線)・柏原駅より西へ約1.5km 徒歩約22(新大井橋北詰まで)
 長さ《 194.9m 》  幅員《 16.5(含歩道) 》  橋脚《 5基 》  径間数《 6 》
 竣工
1969(昭和44)12月  旧大井橋架橋 1936(昭和11)年  管理 大阪府富田林土木事務所
市内最大規模の橋
 「新大井橋」は大和川に架かる橋ですが、藤井寺
市内の大和川・石川に架かる橋の中では最大規模の
橋です。長さ・幅員等の橋の規模は上記の通りです
が、片側2車線で東側に幅3mの歩道が設けられて
います。橋を通過する道路は国道
170号で、大阪
外環状線」にも位置付けられています。藤井寺市の
中央部を南北に通過する幹線道路であり、東西幹線
の府道12号堺大和高田線と交叉する沢田交差点の近
くには、西名阪自動車道の藤井寺インターチェンジ
もあって、170号の交通量はかなりのものです。さ
@ 大和川に架かる新大井橋(南西堤防上より)
  @ 大和川に架かる新大井橋(南西堤防上より)  2013(平成25)年3月  合成パノラマ
   歩道は東側にだけ設けられている。後方の橋は、1977年にできた水道管橋(大和川共同橋)。
  写真手前側には、新大井橋より先にできた大阪広域水道企業団
(旧府営水道)の水道管橋がある。
らに、市の南部では府道31号堺羽曳野線と交叉する野中交差点もあります。また、大和川南岸の堤防道路も府道に制定されており、国道に
は1日中多くの車が出入りしています。                           アイコン・指さしマーク「藤井寺市の交通マップ」
A 真上から見た新大井橋 B 新大井橋付近の疑似鳥瞰写真(東の上流側より)
A 真上から見た新大井橋   〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より
  通過道路は国道170号(大阪外環状線)。片側2車線で、通行量は多い。
             
色調補正の上、文字・記号入れ等、一部加工。
B 新大井橋付近の疑似鳥瞰写真(東の上流側より)
            〔GoogleEarth3D化画像 2015(平成27)年12月〕より

        3D化画像に色調補正の上、文字・記号入れ等、一部加工。
川で二つに分けられた村−「新大和川」の登場
 新大井橋は藤井寺市の大井地区内にありますが、橋の北側にある川北地区も元々は大井地区と同じ村で、明治の中頃までは「大井村」と
言いました。実は
、17世紀までの大井村には大きな川などは無く、一つで陸続きの村だったのです。現在のように川の北と南に分かれたの
、1704年(宝永元年)のことでした。この年、現在の大和川が人工的に造られ、この川によって大井村が二つに分断されてしまいました。
 元々の大和川は、藤井寺市域の北東部付近から大阪平野を北へ向かって分流する川でした。昔からよく洪水を起こす川で、長年に渡って
広範な地域に多くの被害をもたらしてきました。
18世紀に入ってようやく、洪水の根本的解決策となる「川の付け替え事業に幕府が取り
組みます。これは、大和川の流路を付け替えて洪水を防ぐという治水事業であるとともに、元の川跡を利用する大規模な新田開発事業でも
ありました。多くの農地を失うことになる大井村のような多くの村が反対を訴えましたが、事業は実施されてわずか8ヵ月という超スピー
ド工事で、長
さ14.3km、川幅約180mの「新大和川」が完成しました。川の付け替えの起点となったのが、藤井寺市の北東に位置してい
た船橋
(ふなはし)村です。下のD図の右下部分がそうです。図にある大阪鉄道(後の関西本線)は旧大和川の川跡に敷設されました。
 この川の付け替え事業によって、大井村は村の真ん中を分断されてしまいました。西に隣接する小山村も村地の一部が川の北側になりま
した。大井村の集落部分はかろうじて潰れ地になることを免れましたが、川の北の土地はすべて農地でした。村の農民にとっては大変なこ
とになりました。日々の農作業のために、
200m近くの川幅を船か徒歩で渡らねばならなくなったのです。新大和川に架けられた橋は、大
阪湾に近い堺で参勤交代にも必要な紀州街道が通る「大和橋
(現大阪市・堺市境)」の一ヵ所でした。当時の幕府の政治的規制と財政事情に
よって橋の数は最少限にされましたが、川沿いの村の人々は大きな不便を強いられることになりました。その後、農作業のために通行する
簡易な細い橋が何ヵ所かに架けられたようですが、史料が乏しくて詳しくはよくわかりません。  
                                         アイコン・指さしマーク「大和川の付け替え」         アイコン・指さしマーク「村だった頃の藤井寺市域」
C 江戸時代絵図にある大井村の橋 D 明治20年頃の大井村周辺
  D 明治20年頃の大井村周辺  〔陸地測量部 1898(明治31)年測図〕より
       藤井寺市域で大和川に架かる橋は新大和橋しか記されていない。
        陸地測量部製作の「明治31年1/2万地形図」に着色・文字入れ等一部加工
C 江戸時代絵図にある大井村の橋 「河内国志紀郡大井村領分絵図」
 の読み取り図 『藤井寺市史 第10巻史料編八上』(安政3年7月 岡田績家蔵)より
        絵図のカラー写真を参考に着色・文字入れ等一部加工
絵図に見る大和川の橋−安政三年「大井村領分絵図」
 左のC図は、『藤井寺市史 第10巻史料編八上』に掲載されている安
安政3(1856)年7月作成の、「河内国志紀郡大井村領分絵図」の読み取り図」です。実際の絵図の写真では文字等が読めないので、絵図の
内容を線画と印刷文字で表したものを「読み取り図」と言います。この領分絵図は約
1.2m×約1.3mの大きな物で、村内の道・川・溝を
描き、さらに各田畑の小字
(こあざ)・面積・石盛(こくもり)所有者が細かな文字でびっしりと書き込まれています。C図はこの絵図の一部で、
大井村集落中央部の北側に当たる部分です。この部分の大和川には「
農通橋」という橋が書き込まれていますこの部分の川幅として「
幅百二間半
(約186m)」とあります。「農」と付いていることからも、農作業用の橋であることがわかります。このような細い簡易な橋の設置
は、ある程度は認められたものと思われます。いつ頃からこの橋が在ったのかを知る史料はありませんでした。一つだけ手掛かりにできる
史料が、『藤井寺市史 第6巻史料編四中』掲載の「天保十四年
(1843年) 河内国志紀郡大井村明細帳」の中にありました。
 『
一 大和川 幅百弐間半 (中略)  一 農道板橋壱ヶ所長川幅同様 右修覆料年〃銀五百目外根杭人足等モ被 下置候』という記述の
部分があります。少なくとも、安政3年領分絵図が作成される
10数年前には「農道板橋」の在ったことがわかります。川幅と同じ102
半の長さで、領分絵図の書き込みと一致します。この板橋の修復費用として毎年銀
500匁のほか根杭や人足についても役所からいただい
ている、ということです。ということは、役所に公認された橋だったわけです。
 『藤井寺市史 第10巻史料編八上』にはもう1件、大井村の橋が描かれた絵図が載っています。「堺県志紀郡大井村川北領地引絵図面写

の標題ですが、製作年は不詳です。ただ
「堺県」は「大阪府」に統合されるまでの明治4〜14年の間だけ在ったので、その間に製作され
たものと思われますが、おそらくは明治初期の方だと思います。絵図の中には橋が描かれており、『
農道橋 長サ百間』と書き込まれてい
ます。また、図外の書き込みには
新大和川大井村領 川幅百弐間半』『字堂之後 農通板橋百間』という記述が見られます。
 ここで少し整理してみたいと思います。橋の名前が何通りかありました。史料の古い順で、1843年「
農道板橋1856年「農通橋」、明
治初期「
農道橋」同「農通板橋」の4つがありました。最も古い大井村明細帳が「農道」を用いていることから推察して基本は「農道橋
だと思われます。「板橋」の言い方は、手すりのあるような橋と区別する表現だと思います。「農通(板)橋」の「通」は、「道」の同義語
に扱われ、同じ「しんにょう漢字」として混用されたものではないかと推察されます。川北領地引絵図面で、同じ絵図の中に「農道
」と「
通」の出てくることがそれを示していると思います。
 ところで、「農通橋」「農道橋」を当時の人々はどう読んでいたのでしょうか。「農道」は現代なら当然「のうどう」で、農道橋は「の
うどうばし」「のうどうきょう」などとなるところでしょう。しかし、当時の例では訓読みにすることが多く見られます。ある歴史セミナ
ーで私が聞いた説明では、「野通橋」を「のかよいはし」と読む例がありました。新大和川で、現在の松原市域になどに掛けられた小橋の
名称ですが、公儀橋ではなく村民などの民間で造られた橋をそのように呼んだそうです。この例に倣えば
、「農通橋」は「のうかよいばし
となります。「農作のために川を渡って通う橋」という意味はよくわかりますが、どうも語呂がよくありません。同じく「農道橋」は「の
うみちばし」となります。この方がまだ可能性が高いと私は思っています。と言うのも、「通」は人名によくあるように「みち」という俗
読みがよく使われます。「道」の同義語としても使われます。
通」も「道」もどちらも「みち」と読んでいたとすると、「農通橋」と「農
道橋」が同じ絵図で混用されていたこともうなずけます。一方、「農通」を「のうどう」と読むことは考えにくいので、「のうどうばし」
ではなかったとみるのが妥当でしょう。絵図や古文書では読み仮名の付いていることは少ないので、仮名書きで表記されたものがないと判
断が難しいところです。
明治時代になってから
 上のD図は、1898(明治31)年に陸軍参謀本部・陸地測量部が発行した「1/2万地形図
の一部です。現在は藤井寺市域の大井村から船橋村
にかけた大和川沿いの部分です。この地図を見ると、大和川に架かる橋としては、船橋村と北岸の市村新田
(現柏原市)に架かる「新大和橋」
しか描かれていません。新大和橋は明治7年に完成したのですが、入れ替わるように大井村の「農道橋」が無くなっています。実際に無く
なっていたのかどうか、よくわかりません。板橋は在ったけど正規の橋とは認定されず、地形図の製作段階では無視されて載せられなかっ
た可能性もあります。それを窺わせる記述が『藤井寺市史 第9巻史料編七』にあります
。「明治九年十一月 橋梁樋管堤防明細帳 河内国志
紀郡大井村」という史料です。その中で大和川に架かる橋について、『
村往来筋 一 金焼架橋 木 渡 百間 巾 四尺高 壱間半 皆民費
ヲ架之 壱ヶ所
』と記載されています。明治9年時点では、このような橋の存在していたことがわかります。幅が4尺(約1.3m)、高さ1間
(約2.7m)という、今日からみれば川の規模の割には心細い橋です。架橋の費用は皆民費で負担しています。この当時の「民費」というの
は、今日の市町村税のようなもので、町村の行政運営のために町村民が負担した費用のことです。要するに、全部村民が負担したというこ
とです。民費に対して、国や府県の支出するのは「官費」と言いました。          アイコン・指さしマーク「新大和橋−藤井寺市の交通」
 ついでながら、D図の地形図について少し補足します。地図の右上に大阪鉄道の路線と柏原駅が載っていますが、大阪鉄道のこの区間が
開業したのは明治
23年のことです。この大阪鉄道は、後に関西鉄道に買収されて関西本線となります。近畿日本鉄道の前身会社の1つであ
った大阪鉄道とは別で、「初代大阪鉄道」などと呼ばれています。
 「橋梁樋管堤防明細帳」では橋の名称が書かれていません。ここに出てくる「
金焼」の意味もよくわかりません。本来の金焼の意味とは
違うようです。この橋がやがて「大井橋」と呼ばれるようになったものと思われます。
 その後の様子として、『藤井寺市史 第9巻 史料編七』に「明治廿四年大阪府石川
・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書」と
いう史料の記録が挙げられます。そこには「
第十二 橋梁」の項の表に石川橋や新大和橋と並んで、『大井橋 大和川 志紀郡道明寺村大字
大井 木造  延長 六〇九尺 幅員 一〇尺
』とあります。史料として初めて「大井橋」が出てきました。長さが609(101間半=約184m)
幅員は
10(約3m)とあり、「明治9年 橋梁樋管堤防明細帳」記載「金焼架橋」の「巾四尺」の2.5倍の幅員を持つ立派な橋に変わってい
ることがわかります。その後に製作された「明治41年測図二万分ノ一正式地形図」では、大井村集落の北側に橋が描かれています。ただし
名称の記入は無く、新大和橋だけ名称が書かれています。なぜか幅は新大和橋よりも細く描かれています。「
幅員一〇尺」は新大和橋より
も1尺長い幅員なのですが。その後、昭和期に至る間の経過に関する史料は見つかりませんでした。
E 昭和初期の大井橋周辺 F 昭和30年代の大井橋周辺
E 昭和初期の大井橋周辺        ※新大井橋位置は推定
  『二万五千分の一地形図「古市」
』〔陸地測量部 1929(昭和4)年発行〕より
                     
着色・文字入れ等一部加工
F 昭和30年代の大井橋周辺  〔国土地理院 1961(昭和36)年5月30日〕より
   大井橋は西へ400m近く移され、コンクリート橋になった。この頃は
  まだ戦前の農村風景と大きくは変
わっていない。  文字入れ等一部加工
昭和時代になって−戦前から戦後へ
 上のE図は、1929(昭和4)年に発行された「二万五千分の一地形図」の一部です。旧大井村の集落の北側には橋が架
かっており、「大井橋」
と明記されています。私が入手した地図で、「大井橋」の名称入り地図としては最も古いものです。ここでは、「旧大井橋」と呼ぶことに
します。と言うのも
この地図の7年後、1936(昭和11)年には大井橋は400m近く西へ移されてコンクリート製の立派な橋に改修されるこ
とになるからです。地図中にピンク色で示した所が、移設された大井橋の推定位置です。ここには、後に「新大井橋」も架けられることに
なります。新しい大井橋がここに決められた理由がよくわかりません。将来ここに道路を通す計画があったのかどうかもわかりません。今
日のように、何年も先まで見通した都市計画があったのかも疑問です。推測できるのは、藤井寺地区から橋を越え
旧沼村(現八尾市)を通
り抜けて大阪市へ至るルートにしようとしたのか、ということぐらいです。位置決定の理由に関する史料もありませんでした。
 なお、移設の大井橋が完成した2年後の1938(昭和13)年、大和川
にはもう1本の新しい橋が架けられました。産業道路
(現国道旧170
号)
が柏原−富田林間に開通し、大和川を渡る橋として「河内橋
」が
架けられました。
 写真Fは、E図の時代から
30年ほど経ってからの様子です。やっ
と写真で見ることができる「大井橋
です。これが昭和11年完成の
コンクリート製の大井橋です。実は、
もう15年ほど前の戦後すぐに
撮影された写真もありますが、大井橋周辺の様子はほとんど変わっ
ていません。鮮明度の良い写真Fを使いました。写真でわかるよう
に、大井橋を利用する場合、橋の両側では堤防道路を通ることにな
ります。現在のように、幹線道路でスーッと通り抜けるような存在
の橋ではなかったのです。それでも、橋が無かったことを考えると
大変ありがたい存在ではあったことでしょう。大井地区集落の周り
や川北地区では、まだまだ広々と水田の広がっていた様子がわかり
ます。
 写真Gは、写真Fの7年前の様子を俯瞰した様子です。この頃で
 
 
  G 昭和30年頃の大井橋周辺(南西より)  1954(昭和29)年11月11日
  『日本の古墳』(末長雅雄 朝日新聞社 1961年)「図版第51 仲哀天皇陵」
   より部分切り出し
             文字入れ等一部加工
は、7年ぐらい経っても全くと言ってよいほど変わっていません。大井橋に直接に接続する幹線道路が無いので、橋だけがモニュメントの
ようにポツンと独立して存在しているように見えます。大和川の南側も北側も広々とした平地で、農地の広がっていた様子がよくわかりま
す。大井橋は現在の新大井橋と違って、多くの橋脚が並ぶ橋であったこともよくわかります。
 
G 始まった水道管橋の工事 H 新大井橋の誕生
H 始まった水道管橋の工事   〔国土地理院 1964(昭和39)年5月22日〕より
  送水管は1本か2本が設置済み。外環状線の用地も準備されているのがわかる。
                                文字入れ等一部加工
I 新大井橋の誕生   〔国土地理院 1975(昭和50)年1月24日〕より
    水道管橋・新大井橋とも、6年前には完成。大井橋も残っているのがわかる。

                            文字入れ等一部加工
2度目の架け替え事業−自動車社会への変貌
 写真Hは、1964(昭和39)年に撮影されたもので、写真Fからわずか3年後のことです。当時の日本は高度経済成長期に入り、各地で大掛
かりな開発が進められていました。特に大都市部やその周辺では、人口集中に対応してインフラ整備が急速に拡大していました。日本社会
が急速に自動車社会に変わりつつあり、道路整備も急ピッチで進められました。この年、東京では日本初のオリンピックが開催
されました。
 大阪府内では、1970年大阪開催の日本万国博覧会に合わせて、各地で幹線道路の新設が進行していました。藤井寺市内でも、万博に間に
合わせるべく、幹線道路の建設がどんどん進められていきました。1つは「主要地方道・大阪外環状線
(現国道170号)」、もう1つは「西名
阪道路
(現西名阪自動車道)」と藤井寺インターチェンジ」の建設です。これらの道路網ができることにより、藤井寺市域の都市景観や街
の様相は一変していくことになります。                          アイコン・指さしマーク「藤井寺インターチェンジ」
 
 写真Hでは、2つの工事の様子がわかります。1つは大阪外環状線の建設です。写真で、大井橋の南北両側に道路建設予定地の形がうっ
すらとわかります。用地買収が済み、建設用地の水田に土が入れられたところです。この後、5年後の開通を目指して道路敷の造成工事が
開始されることになります。
 もう1つの工事は、水道管橋の建設と送水管の埋設工事です。府内の人口急増や事業所
増加などによる水需要の高まりに備え、大阪府営水道
(現大阪広域水道企業団)は大阪府南
部への送水管増設を計画します。送水管が埋設されるのは、新設される大阪外環状線の道
路敷の地下です。したがって、送水管埋設や水道管橋建設の工事は、大阪外環状線建設工
事に先立って行う必要があります。もともと、外環状線建設と送水管延伸は、セットで進
められるインフラ整備計画だったのです。
 写真Hの時点では、水道管橋の5基の橋脚ができており、送水管も1本か2本の設置が
終わっています。全部で4本の送水管が設置されたので、工事の真っ最中だ
とわかります。
河川敷には工事用の仮設道路の様子も見えます。この時点では、新大井橋の建設工事はま
ったく着手されていません。この後、外環状線建設とともに一気に工事が進められていく
ことになります。
 右の写真Jは、写真Hの1年後頃の様子と思われます。出典の『古墳の航空大観』の図
J 完成した水道管橋と道路建設地(南東より)
 『古墳の航空大観』(末長雅雄 学生社 1975年)図版
  第66 仲姫命陵」より部分切り出し
   1965(昭和40)年頃      文字入れ等一部加工
版目次では、撮影日が「昭和29年11月11日」となっていますが、明らかに誤りです。朝日新聞社による撮影ですが、この日に撮影された古
墳の写真が何種類もあり
(写真Gも)、写真整理・原稿調整の段階で手違いが起きたものと思われます。写真Hで見られる工事の進捗状況か
らして、おそらくは翌年の昭和40年ではないかと思われます。新大井橋と大阪外環状線のこの部分の開通は4年後のことです。
完成した「新大井橋」−大井橋もまだ…
 急ピッチ工事の結果、大阪外環状線は1969(昭和44)年12月に藤井寺市沢田交差点以北が開通
しています。沢田交差点は新大井橋から南へ約
1kmの所です。3ヵ月後の1970年3月には、半
年に渡る日本万国博覧会の開会を迎えます。
 新しい幹線道路が大和川を越える新しい大きな橋は「新大井橋」と命名されました。事実上
同じ場所で架け替えられたと言ってもいいので、「大井橋」のままでもよかったのでは、とも
思えるのですが、なぜか「新」が付きました。元の大井橋とは別物の新しい橋です、と示した
かったのでしょうか。普通、「新○○橋」と命名されるケースでは、元の橋も存在しているの
で区別する意味で「新」が付けられます
。「新大和橋」「新十三(じゅうそう)大橋」などがそうです。
架け替えられて新しくなった場合は、普通は元の名前のままです。藤井寺市にある「大正橋・
石川橋」なども、戦後に架け替えられています。
I 新大井橋周辺の地図
 写真Iは、大阪外環を状線の開通から約5年後
の1975(昭和50)年1月に撮影され
たものです。写真
Hからは約
10年半後の様子です。 水田ばかりだ
った一帯に、多くの工場や住宅のできていること
がわかります。田んぼの真ん中に通された外環状
線に沿って、早くも建物が並
んでいます。幹線道
路沿い」という、自動車社会では大きな強みとな
る条件を備えた多くの土地が一挙に誕生したので
した。
 よく見ると新大井橋の西側に接して「大井橋」
の写っているのがわかります。そうです、大井橋
は新大井橋が完成してからも、すぐには解体され
 K 新大井橋の西側にできた水道管橋
  直径1mほどの送水管が4本並んでいる。
    後方が新大井橋。  2018(平成30)年4月
 L 新大井橋周辺の地図  1971(昭和46)年
 『藤井寺市管内図
』(藤井寺市 昭和46年測図)より
          
着色・文字入れ等一部加工
ずに残されていたのです。上のL図はその4年前の状況を基に藤井寺市が製作した『藤井寺市管内図』の一部です。新大井橋にピッタリと
ひっつくように大井橋が存在しています。4本の送水管が並ぶ水道管橋もあります。薄紫色で表示しているように、水道管橋から地下に入
った送水管は、斜めに外環状線地下の送水管につながっています。
 この図を拡大して見ると、大井橋が堤防と接する両端には小さな
階段のあることがわかります。つまり、堤防道路から昇降できたわ
けです。新大井橋建設に当たって取り付け部分の堤防が少しかさ上
げされています。水道管橋で渡された送水管は、もともとの堤防の
上にのせる形で設置されました。その送水管を覆うように堤防道路
がかさ上げされたのです。その結果、大井橋は堤防よりも低い位置
となったのです。右の写真Mは、水道管橋が大和川の南岸堤防を越
える部分を見た疑似鳥瞰写真です。堤防道路の水道管橋が埋まって
いる部分が少し盛り上がっている様子がわかると思います。
 新大井橋の完成後、大井橋は数年間は歩道として使用されていた
ようです。1976(昭和51)年国土地理院撮影の写真を見ると、大井橋
解体工事最中の様子が写っています。つまり、この年に大井橋は姿
を消したことになります。誕生からちょうど満
40年の年でした。
 
  M 送水管埋設のためにかさ上げされた堤防道路(北より)
             〔GoogleEarth3D画像 2018(平成30)年1月〕より

           色調補正の上、文字・記号入れ等、一部加工。
 
J ついに消えた「大井橋」 K 整備された府道186号
N ついに消えた「大井橋」  〔国土地理院 1989(平成元)年4月29日〕より
                        文字入れ等一部加工
O 整備された府道186  〔国土地理院 2007(平成19)年8月11日〕より
                      文字入れ等一部加工
 写真Nは写真Iから14年後の様子です。上記の通り大井橋は1976年に撤去されたので、当然この写真にはありません。代わって新たに新
大井橋の東に設置されたのが、1977(昭和52)年にできた水道管橋
(大和川共同橋)です。写真@でわかるように、この水道管橋はかなり高い
位置に設置されていて、両岸の堤防の上を通っています。この橋には2本の送水管が通されていて、地下に入った後、やはり外環状線地下
の送水管に接続されています。この大和川共同橋も写真Kの水道管橋も、地下に埋設されていたものが大和川を越えるためにいったん堤防
の上方に引き上げられています。大和川共同橋は堤防のはるか上を通っています。その高さまで大量の水道水も送り上げなければなりませ
ん。そのためには、大和川の北方で送水圧力を上げる必要があります。そのための施設として造られたのが「藤井寺ポンプ場」です。藤井
寺ポンプ場は、写真NOの少し上方に位置しています。       アイコン・指さしマーク「大阪広域水道企業団藤井寺ポンプ場・同美陵ポンプ場」
 写真Nでは、大和川南岸の南側で下水処理場建設予定地の造成が進み、暫定的に野球グランドなどに利用されている様子が見えます。外
環状線沿いには、さらに多くの建物が並んできています。
 写真Oは写真Nからさらに18年後の様子です。大和川両岸の地域は更に建物が増えており、農地はずいぶんと少なくなり
ました。完成し
た大和川下流東部流域
大井処理場は、1996(平成8)年8月に下水処理事業を開始していて、2006(平成18)年には大井水みらいセンター」に
改称されました。                                     アイコン・指さしマーク「大井水みらいセンター」
 新大井橋の南詰めから西の堤防道路は府道
186号・大阪羽曳野線になっていますが、新大井橋南詰めからは南に折れ、沢田交差点まで大阪
外環状線と重複しています。この府道の堤防道路の新大井橋と西の大正橋の間が改修され、堤防の南側法面の中段に付け替えられました。
写真Oをよく見ると、その府道に車列のできているのがわかります。改修されたことで通りやすくなり、通行量は大幅に増えました。
 写真FGのように、両岸一帯に水田が広がる中で大井橋がポツンと存在していた頃の様子を思うと、半世紀以上経った写真Oの光景は、
まさに“隔世の感あり”と言えます。地域の様子は見事に変貌していました。

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