タイトル・Web風土記ふじいでら
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◆ 藤井寺インターチェンジ
 (ふじいでらインターチェンジ)
 〒583-0033 藤井寺市小山
9-3-1    TEL:072-955-9581 〈西日本高速道路関西支社阪奈高速道路事務所〉
 近畿日本鉄道南大阪線・藤井寺駅より北東へ約1.1km 徒歩約17(IC入口まで)
      〃      ・土師ノ里駅より北東へ約
1.2km 徒歩約18(IC入口まで)
 府道
12号堺大和高田線・藤井寺IC前交差点
(国道170号沢田交差点から西へ約200m)北側に入口
① 藤井寺インターチェンジ入口の様子(南より) ② インターチェンジ入口ゲートの様子(南より)
① 藤井寺インターチェンジ入口の様子(南より)
        右側の車列は、出口から接続道路の府道12号へ出る車。
                   2015(平成27)年10月
② インターチェンジ入口ゲートの様子(南より)
    下り天理・名古屋方面3、上り大阪方面2の5つのゲートがある。

                   2015(平成27)年10月
西名阪自動車道の第1番IC
 西名阪自動車道は大阪松原市の松原ジャンクション(JCT)を起点として、奈良県天理市の天理インターチェンジ(IC)までの27.2kmをつ
なぐ西日本高速道路の高速道路で、藤井寺市内を北西から南東にかけて斜めに通り抜けています。藤井寺ICは松原
JCTから3.1kmの位
置にある、IC番号が1番のインターチェンジです。
 接続道路は府道
12号・堺大和高田線で、大阪湾岸の堺市と奈良盆地南部を東西に結ぶ主要道路です。ICの出入口として府道に藤井
寺IC前交差点」という大きな交差点が設けられました。ICの
200mほど東には国道170(大阪外環状線)が南北に通っており、東西に
も南北にも各方面と連絡しやすい位置にインターチェンジが設けられています
。これにより藤井寺市は、昭和40年代から急増した自動車交
通の中で、その位置が中継地点として重要な役割を持つことになります。
 藤井寺インターチェンジは、西名阪自動車道
(当初は西名阪道路)の開通に合わせて、1969(昭和44)年3月21日に供用が開始されました。
道から進入すると松原
大阪方面と天理名古屋方面に入口が分かれますが、地図感覚では西側(左側)だと思っている大阪方面が東側(右側)
の入口で、逆になっています。進入路の設計の都合でそうなったのでしょうが、開通からしばらくの間は、間違えて進入する車がけっこう
ありました。その後、行き先表示も大きく目立つように変えられ、大きな路面標示がいくつも書かれています。
高速道路管理の基地-阪奈高速道路事務所
 インターチェンジの敷地内には、西日本高速道路関西支社の「阪奈高速道路事務所」があり、大阪府南部にある西日本高速道路関西支社
所管の高速道路の維持管理や料金サービスの業務を担当し
ています。また、「大阪府警高速道路交通警察隊西名阪藤井寺分駐所」も置かれて
います。阪奈高速道路事務所が管轄する高速道路・有料道路は次の通りです。
  
近畿自動車道(長原IC~松原IC)    西名阪自動車道(松原JCT~天理IC)    阪和自動車道(松原IC~泉佐野JCT)
  南阪奈道路(美原JCT~葛城IC)     関西空港自動車道(泉佐野JCT~りんくうJCT)
  関西国際空港連絡橋(りんくうJCT~関西国際空港IC)    堺泉北道路(堺JCT~取石IC)
 これらを見ると、大阪府にある西日本高速道路
(NEXCO西日本)の高速道路の内、大和川以南の地域がすべて対象となっていることがわかり
ます。藤井寺ICにある阪奈高速道路事務所は、大阪府南半分の高速道路管理の一大拠点なのです。ちなみに、大阪府の北側半分を管轄し
ているのは、名神高速道路・近畿自動車道の吹田IC内に置かれた「大阪高速道路事務所」です。
③ 真上から見た藤井寺インターチェンジ
③ 真上から見た藤井寺インターチェンジ

          〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月
〕より
  この地域は、藤井寺市の中央部であり、幹線道路が近接・
 交叉する交通の中心部でもある。
  学校やスポーツ施設、図書館など、公共施設の多い地域と
 なっている。
           文字入れ等一部加工
幹線道路と地域の変貌
 藤井寺インターチェンジのある場所は、藤井寺市域の
ちょうど中央部に当たります。同じ時期にすぐ近くに大
阪外環状線が開通したこともあって、この一帯は大きな
変貌を遂げました。
 この一帯は、昔から水田の広がる藤井寺市域では中心
的な田園地帯でしたが、ICや外環状線ができたことを
きっかけに、たちまち周辺の様子は大きな変化を始めて
いきました。
④ 1961(昭和36)年の様子  左の写真④は、藤井寺インターチェンジや外環状線の
建設が始まる数年前の様子です。まだ、大型公共工事の
開始をうかがわせるものは何も見られません。色付けし
ている部分が、後にインターチェンジや道路が建設され
る場所を示しています。広々とした田園地帯の真ん中に
2本の大きな道路が同時に建設されていくことになりま
した。
1961(昭和36)年の様子
       〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より
   インターチェンジができるまでは、この地域一帯は水田
  の広がる田園地帯であった。昭和30年代になって新たにで
  きたのは小
山藤の里町の住宅地と藤井寺中学校(新築移転)、
  そして、府道堺大和高田線の長尾街道との交叉部分から東
  側ぐらいである。
   色付けした部分が、昭和40年代に建設された道路や川の
  位置である。
          文字入れ等一部加工
 幹線道路が開通したことによってまず変化を見せたのは、自動車の通行量です。藤井寺市自体を出発地や目的地とする自動車の通行量は
そう変わらないでしょうが、インターチェンジに出入りして藤井寺市を経由する自動車はどんどん増えていきました。外環状線もインター
チェンジを利用する自動車の接続道路として、たちまち通行量を増加させました。両方をつないでいる府道堺大和高田線は、数年後には拡
幅工事が行われ
IC出入り口での渋滞が緩和されました。③の写真で、府道のこの部分だけがずいぶん広くなっている様子がわかります。
 幹線道路ができ通行量が増大すると、今度はその利用者を対象として商業施設が沿線に登場してきます。下の写真⑥は、インターチェン
ジ開業から
8,9年ほど後の様子ですが、すでにIC出入口周辺にはいろいろな建物が並んでいますそのほとんどは一般住宅ではありませ
ん。ICの北側
(左)には新しい住宅地ができ始めていました。
 それから
40年ほど経った現在の様子が写真⑤です。写真④と比べてみると、あまりの違いに驚かされます。写真⑤と⑥の40年間の変化
にも大きなものがあります。IC周辺に広がっていた農地はことごとく姿を消し、公共施設や学校、そして住宅や商業施設に変わっていま
す。IC内の施設自体にも変化が見られます。入口ゲートの位置が北寄りに移設されているのがわかります。進入待ちの車列が府道にまで
続くことを防ぐためでしょう。また、ゲート以外の施設建物もほとんど建て替えられていることがわかります。
 あれだけ広がっていたIC周辺の田畑も、現在ではほんの一部に残るだけとなりました。その変化は写真③と④の比較で歴然としていま
す。藤井寺インターチェンジの開業と大阪外環状線の開通は、地域変貌のまさに先がけとなる大きな転換点でもあったのです。
⑤ 藤井寺インターチェンジと周辺の様子(北西より) ⑥ 1978(昭和53)年頃の様子(北西より)
⑤ 藤井寺インターチェンジと周辺の様子(北西より)
〔GoogleEarth
3D画 2015(平成27)年〕より
 文字入れ等一部加工
⑥ 1978(昭和53)年頃の様子(北西より)
     『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)より
                   文字入れ等一部加工

西名阪自動車道
 西名阪自動車道は、1969(昭和44)年3月21日、当時の日本道路公団管理の「一般有料道路西名阪道路
(一般国道25号)」として、旧松原
(現松原JCT)-天理IC間が開通しました。1年後の1970年3月15日には大阪府吹田市の千里丘陵で日本万国博覧会(EXPO'70)が開幕しま
した。と言うより、万国博の開幕に合わせて西名阪道路の建設が進められたのです。当時の大阪府内外では、万国博開催に向けてのアクセ
ス道路の整備が大々的に進められていました。大阪外環状線
(現国道170号)もその一つで、西名阪道路に遅れること9ヶ同年の12月に
沢田交差点以北が開通しました。
これにより、藤井寺ICから外環状線などを経由して、吹田市の万国博会場へ行くことができるようになり
ました。
 その後、1973(昭和48)年4月1日、高速自動車国道「西名阪自動車道」に昇格しています
。そして、1988年3月17日、近畿自動車道の全線開
通により同自動車道と接続され、同時に旧松原ICは松原ジャンクションとなりました。現在の西名阪自動車道は、松原
JCT-天理IC間
27.2kmです。
特異な高速自動車国道-珍しい道路構成
 西名阪自動車道は、変わっていると言うか、ワケありと言うのか、少しばかり特異な高速道路です。そもそも、「名阪」というネーミン
グは、「
古屋-大」間をつなぐ道路を表します2大都市間を結ぶ幹線道路としての名称のはずですが、少し違います。名古屋」は
「名古屋市」ですが、「大阪」は「大阪市」を意味していません。なぜなら、西名阪自動車道は大阪市が起点でも終点でもなく、通っても
いないからです。「名阪」とは、「名古屋市-大阪府間を結ぶ」という意味なってしまっています。名神高速道路や東名高速道路とは似て
非なる命名の仕組みだったのです。もっと言うならば、「名阪」が付く道路名でありながら、実際の起点-終点の地名は「松原-天理」と
いうのもおかしなことです。これは、道路名の誕生が高速道路建設構想に基づいていたからだと考えられます。
  ⑦                         西名阪自動車道・名阪国道・東名阪指導者道の路線図     ( 2020年12月現在 )
⑦ 西名阪自動車道・名阪国道・東名阪指導者道の路線図
 「西名阪道路」は開通当初、天理IC以遠も続きの道路が建設されていて、最終は名古屋市までつながっていました。ただし、その道路
構成は上の⑦図で示したように、少しばかり複雑です。大阪府・松原
JCTから愛知県・名古屋西JCTまで、確かに1本の道路として通
って
いますが、道路名は3つに分かれます。大阪府側と名古屋側の両端の部分が高速道路で、間の最も長い部分は自動車専用道路の一般国道で
す。道路の名称は西から
「西名阪自動車道」「名阪国道(国道25号)」「東名阪自動車道です。大阪-名古屋間という、大都市間を結ぶ
高速道路網の区間としては、大変珍しく変則的な道路構成になっているのです。多くの人が疑問に思うのは、名阪国道の部分がなぜ高速道
路になっていないのか、ということだと思います。
 この疑問の背景には、名阪高速道路の建設構想が建設計画に具体化する段階で、いくつもの課題が重なったことがありました。名阪高速
道路の構想に先だって、我が国で初の長距離都市間高速道路として「名神高速道路」が開通していました。この名神高速道路の迂回路線と
なる名古屋-阪神地区間の高速道路として構想されたのが「名阪高速道路」でした。急速に拡大する自動車輸送の需要に対応するために、
名神高速道路の補完路線が必要とされました。この時期に
、「日本万国博覧会(EXPO'70)」の大阪府での1970年開催が決まったことも、名阪
高速道路の建設計画に少なからず影響を与えています。つまり、この万国博開催に名阪高速道路の開通を間に合わせることが追求されたの
です。さらに
名阪国道の部分については、国道25号のバイパスとして無料道路を望む地元の強い意向とそれに連動する用地買収交渉の問
題など、いくつもの条件がからみ合って具体化したのが、西名阪道路・名阪国道・東名阪道路という道路構成の姿でした。
 開通が急がれたため、開通当初は多くの区間が対面通行の変則形態で開業しています。その後、車線増設の工事が進められ、現在のよう
な車線構造となりました。柏原IC以西の藤井寺市を通る部分は、現在は上下線とも3車線になっています。また、名阪国道は片側2車線
の全線4車線となっています。名阪国道の一部区間では、最高制限時速が
70km/hに引き上げられています。
 名阪国道の区間が高速道路化されれば、当初の「名阪高速道路」構想は実現するのですが、実際には今になってこの区間を高速道路化す
ることは困難です。自動車専用道路の一般国道とされたことで、道路そのものが高速道路規格で建設されていないことが最大の壁です。高
速道路にするためには大幅な改造をする必要があります。また、ルートの変更を必要とする部分もありそうです。天理東IC-福住IC間
の急勾配の連続カーブは、長距離高速道路では普通にはあり得ないカーブです。
 名神高速道路の補完路線として構想された「西名阪自動車道・名阪国道・東名阪自動車道」の路線ですが、名阪国道区間の問題もあり、
輸送量の増加を求めることは難しいでしょう。一方、本家の名神高速道路も年々通行量が増えていき渋滞も頻発していました。一部区間を
複線化するなどの対策も行われましたが、それも限界にきています。阪神淡路大震災などの大災害発生もあり、東名高速道路・名神高速道
路の代替路線の新設が急務とされました。そうして始まった新高速道路建設事業で進行中なのが、「新東名高速道路」「新名神高速道路」
の建設です。「新名神高速道路」も、⑦図にあるようにかなりの部分が開通しています。全線の供用が実現した時には、西名阪自動車道の
通行事情にも一定の変化が見られるものと予想されます。             「西名阪自動車道-藤井寺市の交通」

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