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1つの市の川や池を取り上げた独立ページも珍しいと思います。藤井寺市は北に「大和川」、東に「石川」という2つの大きな河川に接 しており、市内を流れる小河川や水路もこれら2つの河川に関わっています。また、羽曳野丘陵の北端となる市の南西部から北西部にかけて は昔からため池が多く、現代に至ってからは、埋め立てて利用されてきた池もたくさんありました。さらに、古市古墳群の半分強の古墳が 存在する藤井寺市では、古墳の周濠に貯えられた水も農業水利として活用されたきた歴史がありました。藤井寺市域においては、川や池は 単なる地理的要素の1つではなく、この地域の村や町が形成され、現代に市街化していく中で、社会的要素と言ってもよい側面も持ってい た感があります。川と池を1つのページに構成しようと考えた動機もその辺りにありました。 私が藤井寺市に住み始めてしばらくのち、藤井寺市の地図や航空写真を見て、羽曳野市を含めてため池が多いことに少々違和感を持ちま した。私が育った場所は、海沿いの真っ平らな低地でため池など1つも無い所だったからです。この池の多さは何なのだ、と思いました。 いろいろと調べていくうちに、ため池が藤井寺市域の歴史や町の変化に大きく関わっていることがわかってきました。消えていったため池 の方が多いのですが、それによって町が変わり、地域の歴史がつくられてきたという事実が浮かび上がってきます。 |
藤井寺市の川と池の地図 |
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《 凡 例 》 | |||||
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法河川 | ![]() |
おもな水路 | ![]() |
水路の暗渠(あんきょ)部分 |
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池 | ![]() |
消滅した池(部分) | ![]() |
現存の古墳 |
「藤井寺市の川と池の地図」について ◇藤井寺市内の河川・水路の名称は、『藤井寺市地域防災計画2015』に掲載の「河川、水路図」に準拠している。 ◇道路と交叉する水路は、流路がわかるように原則として道路上にも水路を描いている。実際は暗渠(あんきょ)になっている。 ◇消滅した池(部分)は、『藤井寺市史・第10巻史料編八上』掲載の「地籍集成図」に準拠しているが、小規模のものにつ いては一部省略したものがある。 ◇旧大水川の▲印部分は、現大水川の下を暗渠でくぐっている。現大水川建設時に改修された。 ◇市域外に続く水路については、一部のおもなものだけを表示している。 ◇羽曳野市域の古墳については、水路の流路に関わるものとして、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)と隣接する 二ツ塚古墳の2基のみを表示している。 |
河川管理行政に関する用語 ( 国土交通省Webサイトに準拠して構成 ) | ||
区 分 | 用 語 | 用 語 説 明 |
河川一般 | 本川(ほんせん) (幹川) 支川(しせん) 派川(はせん) |
本 川 流量、長さ、流域の大きさなどが、もっとも重要と考えられる、或いは最長の河川です。 支 川 本川に合流する河川です。また、本川の右岸側に合流する支川を右支川、左岸側に合流 する支川を左支川と呼びます。さらに、本川に直接合流する支川を一次支川、一次支川 に合流する支川を二次支川と、次数を増やして区別する場合もあります。 派 川 本川から分かれて流れる河川です。 |
水 系 | 水系 | 水系名 同じ流域内にある本川、支川、派川およびこれらに関連する湖沼を総称して水系と言い ます。その名称は、本川名をとって「利根川水系」「信濃川水系」などという呼び方が 用いられています。 |
一級水系 | 国土保全上または国民経済上特に重要な水系で、政令で指定されたものを言います。一級水系の 管理は基本的には国土交通大臣が行います。水系には水源から河口までの小河川も含まれます。 |
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二級水系 | 一級水系に指定された水系以外で、公共の利害に重要な関係があるとされる水系に対して都道府 県知事が指定するものです。二級水系の管理は都道府県知事が行います。 |
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単独水系 | 一級水系・二級水系以外の水系です。 | |
法 河 川 と 法定外河川 |
法河川 | 法河川とは河川法の適用される河川または準用される河川であり、その種類として一級河川、二 級河川、準用河川があります。また河川法の適用されない河川を普通河川または法定外河川と言い ます。 |
一級河川 | 一級水系に係る河川で、国土交通大臣が指定した河川を言います。またこの指定された河川には、 国土交通大臣が管理する指定区間外区間(直轄管理区間)と都道府県知事が管理を法定受託された指 定区間とがあります。一級河川は、一級水系のみに指定されるので、一級河川に指定されている水 系に二級河川が指定されることはありません。 |
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二級河川 | 一級水系に指定された以外の水系に係る河川で、地域的に見て重要であると都道府県知事が指定 した河川を言います。二級河川は一級河川に指定された水系以外で指定されるので、一級河川と二 級河川が同じ水系で混在することはありません。管理権限は都道府県知事が持っています。 |
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準用河川 | 河川法の規定の一部を準用し、市町村長が管理する河川です。一級水系,二級水系,単独水系に かかわらず設定されます。 |
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普通河川 | 一級河川・二級河川・準用河川以外の小河川を普通河川と呼びます。実際の管理は、市町村など が行っています。 |
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河川管理者 | 河川管理者 | 河川は公共に利用されるものであって、その管理は、洪水や高潮などによる災害の発生を防止し、 公共の安全を保持するよう適正に行われなければなりません。この管理について権限を持ち、その 義務を負う者が河川管理者です。具体的には、一級河川については、国土交通大臣、二級河川につ いては都道府県知事、準用河川については市町村長と河川法に定められています。 |
指定区間 | 国土交通大臣によって指定された一級河川の管理は、原則として国土交通大臣が行うが、区間と 事項を定めて都道府県知事に管理事務の一部を法定受託することができます。この国土交通大臣の 指定により知事に法定受託された区間を指定区間といいます。 |
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指定区間外区間 (直轄管理区間) |
国土交通大臣によって指定された一級河川で、都道府県知事が法定受託した区間(指定区間)以外 の区間を指定区間外区間(直轄管理区間)といいます。直轄管理区間の管理は、国またはその地方整 備局等の出先機関が行います。 |
河川管理に関する行政用語は、一般市民に とってはわかりづらい言葉です。しかしなが ら、知っていないと河川の種別や位置付けを 理解しにくいのも事実です。そこで、少々煩 雑ではありますが、国土交通省のサイトにあ った用語集に準拠して表にしました。上の地 図を見るときの参考にしてください。 右の表は国土交通省のサイトに掲載されて いるもので、河川別の接続関係と管理者をわ かりやすくまとめてあります。上の表を読む ときに参照してください。 一級水系「大和川水系」 「大和川」は一級水系「大和川水系」の本 川であり、大阪府内では淀川水系に次ぐ規模 の水系を構成しています。「石川」はその大 和川の一次支川の1つである一級河川です。 藤井寺市内の「法河川」としては、大和川 |
河川別および管理者一覧表 ( 国土交通省Webサイトより ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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と石川のほかに、一級河川の「大水川(おおずいがわ)」「落堀川(おちぼりがわ)」、準用河川の「西水川(にしみずがわ)」があります。管理は、大和川と 石川橋以北の石川が国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所で、これらの部分は「指定区間外区間」という国土交通省の直轄管理区間 です。石川の石川橋以南の上流と大水川・落堀川は一級河川の「指定区間」となっていて、法定受託による大阪府の管理が指定されていま す。実際の管理事務は大阪府富田林土木事務所が執行しています。準用河川の西水川は、表でわかるように藤井寺市が管理する河川で、市 が管理する唯一の法河川です。 ![]() 法河川以外のおもな水路は「普通河川」「法定外河川」などと呼ばれています。行政上では「法定外公共物」と呼ばれることもあります。 藤井寺市サイトの道路水路課のページには、「通称青線と呼ばれている水路は、平成17年4月1日より藤井寺市の所有であります。」とあり ます。それ以前から市が管理してきたはずですが、「では、それ以前は誰の所有だったのか?」という疑問がわいたので、道路水路課にお 尋ねしたところ、「水路に付随する里道を含め国の所有だった」とのことでした。 大和川は、藤井寺市を含む中東部大阪の地域における治水にとって、最も重要な河川です。長年に渡って堤防強化や地滑り対策の事業が 続けられてきました。今なお進行中でもあります。一方、現在藤井寺市域を流れる大和川は人工の川であり、旧大和川流域を含め、大和川 付け替え事業が与えた地域への影響には甚大なものがありました。歴史的出来事としても、現在の問題としても、大和川はこの地域の中で は大変大きな存在だと言えるでしょう。 ![]() 藤井寺市の中での大和川や石川の存在は、治水上重要であることは勿論ですが、別の視点から見ても大きな存在です。地図でわかるよう に、大和川・石川の河川敷部分が市域面積のかなりの部分を占めていることです。もっと広い河川敷がある市町村もありますが、藤井寺市 はもともとの面積がたいへん少ないので、この河川敷の部分は注目されます。大型古墳と共に、将来に渡って非居住区域である面積の割合 は、決して小さくはないのです。 |
消えていった池−たくさんあったため池 上の地図でわかるように、藤井寺市の北西部から南西部にかけて多くのため池がありました。「ありました」というのは、多くの池がす でに姿を消してしまったからです。上の地図で表示した池は、『藤井寺市史・第10巻史料編八上』掲載の「地籍集成図」に記載されていた ものです。概ね明治中頃までの地籍の様子が記載されています。上の地図中、青色で表示された池が現存するものです。北から順に列記す ると、「カラ池・大師池・下谷池・新池・下田池・上田池」の6池と、本来は古墳の周濠でため池として利用されてきた「はざみ池・宮池」 があります。はざみ池は「はざみ山古墳」、宮池は「野中宮山古墳」の周濠です。また、所在地は羽曳野市域ですが藤井寺市に所有権のあ る「中ノ池(飛ヶ城池)・芦ヶ池」もあります。ため池ではなく、寺の門前池として昔から存在した「蓮池(2池)」もあります。これら以外 の多くのため池が今までに消滅したことになります。 消えたいった池のうち比較的大きかった池は、ほとんどが戦後の昭和30年代以降に埋め立てられ、住宅地や公共施設、学校などに利用さ れてきました。農地面積の減少で農業用水の需要が減ってきた一方で、人口増加によって必要度の高まったのが住宅・学校・公共施設など でした。もともと面積の少ない藤井寺市域にあっては、埋め立てによって用地を確保できるため池は貴重な存在でもあったのです。 |
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右の写真は、戦後間もない1948年撮影 の空中写真に加工を施したものです。お もな池に着色しています。この時点で姿 を消していた大きな池は、新ン池と今池 ぐらいです。新ン池は昭和初期に、今池も戦 後となる以前に埋め立てられたようです。 埋め立てられたおもな池が現在どのよ うに利用されているか、一覧にまとめて みました。上の地図とも合わせて見てく ださい。
の周濠部分が元藤井寺西幼稚園の敷地と して利用されていました。 藤井寺市域のため池が北西部から南西 部にかけての地域に集中しているのは、 地形と水源のあり方によります。市域の 東側地域は、石川からの取水を水源とす る水路が巡っており、大きなため池を必 要としませんでした。農地の地形も低地 性の水田が広がる地域です。ただ、低い 台地性地形の国府台地部分だけは、水路 から水を引くことができず、小規模なた め池がいくつも造られていたことが地図 から見て取れます。仲津山古墳の東側辺 りの様子がそれです。 これに対して、市域の西側地域の地形 は、南の羽曳野丘陵から北へ延びてくる |
昔の池の様子(1948年) ロールオーバーになっています | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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〔1948(昭和23)年9月1日米軍撮影 国土地理院所蔵〕より 着色、文字・線画入れ等一部加工。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
緩やかな傾斜地形となっています。上の写真では、藤井寺町役場辺りまでがその地形ですが、羽曳野市域も含めてたくさんのため池の存在 がわかります。南から北へ下ってくる水の流れを順に貯えていったため池群です。写真の左側に続く羽曳野市域やさらに西側の松原市域へ と、ため池群は続いています。 藤井寺市域の旧村でため池の多かった岡村・藤井寺村・野中村では、江戸時代の農業水利に関わる絵図がいくつも残されており、昔のた め池の様子を知ることができます。特にため池の多かった最南部の野中村では、多数の絵図が残されており、『藤井寺市史第10巻・史料編 八上』にも多数掲載されています。中には、周辺の村々との水争いに関する絵図もあり、当時の人々にとっての“ため池と水”の大切さを 感じ取ることができます。 地図には「新池」という池が3ヵ所あります。ほかにも「新ン池」や「新シ池」があります。同じ名前や似た名前がいくつもあるのはど うしてかと思われますが、これらの池の名前が付けられた江戸時代までは、それぞれ別々の村に属するため池だったのです。「新池」とは 文字通り新しく造られた池で、既存のため池だけでは農業水利として不足してきたことから新設されたものと思われます。それぞれの村の 中で新しく造られた池に「新池」の名が付けられたわけです。新田の開発などによる農業用水の需要の高まりが考えられます。 |
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藤井寺市のため池一覧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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※ 満水面積は「下の田池」のみ実測値で、他は公簿数値。 (『藤井寺市地域防災計画(平成27年3月) 資料編』に準拠して作成) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上の表は、『藤井寺市地域防災計画・資料編』に所載の「市内のため池一覧表」です。「ため池」と規定されている池が対象なので、蓮 池のように性格の異なる池は入っていません。表の中には、羽曳野市域に所在するため池がありますが、これは江戸時代からの用水の所有 権が現在に引き継がれているものです。所在地の行政区域とは別に水利権の所有が存在します。現在の藤井寺市域に在っため池でも、隣接 する他の市域の村の所有であったため池もありました。また、他の村と共有している場合もありました。 貯水量を見ると、最も多いのが羽曳野市に在る芦ヶ池だというのは意外です。面積でも最多です。面積・貯水量とも最少なのが飛ヶ城池 (中ノ池)ですが、これも羽曳野市域です。中ノ池は江戸時代から度々水争論になった池の一つで、藤井寺市史に掲載されている絵図や史料 でも多くの例を見ることができます。そんな経過が関係しているのか、小さい池にも拘わらず現在でもため池として健在です。他の同程度 規模のため池は、ほとんどがとっくに埋め立てられて住宅地などに変わっています。 上田池は現在では下田池よりも少ない面積ですが、以前は上田池の方が大きなため池で、藤井寺市域では最大のため池でした。大阪外環 状線(現国道170号)の建設と新しい消防本部の建設のために、かなりの面積の部分が転用されました。変化の様子はリンクページの写真で見 ることができます。下谷池と新池も一部が転用のために埋め立てられ、面積を減らしています。 はざみ池と宮池は、いずれも古墳の周濠をため池として昔から利用してきたものです。はざみ山古墳は、後円部の西側周濠部分だけが昔 から農地に利用されていて、残った周濠が和ばさみの形に似ていることから「はさみ山」の呼称が生まれたと言われています。野中宮山古 墳の周濠が宮池ですが、現在の周濠は全体の半分以下になっています。児童公園などに転用されていて、古墳全体が古墳公園のようになっ ています。なお、宮池は古くには「足塚池」とも呼ばれていたようです。野中宮山古墳の古くからの伝承名が「足塚」でした。 藤井寺市域でため池が多い南西部には、江戸時代に「陵池」と呼ばれていた大型のため池もありました。岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵) の周濠のことです。水面の面積も水量も藤井寺市域では最大のもので、江戸時代までは旧岡村の用水として利用されてきました。明治時代 以降、天皇陵の管理が厳格に行われるようになり、他のため池のような農業水利としての利用はなくなりました。旧野中村の用水として利 用され、「ぼけが池」とか「ホケノ池」などと呼ばれていた野中ボケ山古墳(仁賢天皇陵)の周濠も同様です。 わかりにくい「ため池」の名前−看板が無い! 本ページの制作に当たっては、一定の期間をかけて各ため池の現地調査や写真撮影を行いました。その中で思ったのは、「池」というも のの名前が実にわかりにくい、ということです。川の場合は、看板があったり橋に銘板が付けられていたりしてわかりやすいのですが、池 の場合は特に看板などは見ませんでした。そもそもため池は農業用水であって、訪れた人にいちいち名前を示す必要などない、ということ でしょうか。また、池には決まった向きというものは無く、正面入口のような位置が無いことから看板を設置しにくいのかも知れません。 池の名前を表示してあったのは、道明寺の門前池であった「蓮池」だけでした。一方、地図でも池の名前には苦労します。市販の一般的な 地図やWebサイトの地図などでは、普通のため池などの名前は表示されていません。私の場合も、昔の地図やら何やら、あれこれを調べ まくって確認する、ということのくり返しでした。『藤井寺市地域防災計画・資料編』でも、「市内のため池一覧表」は載っていますが、 その分布地図はありません。もう少し市民に「ため池」を知ってもらう手だてがあってもいいのではないかと思いました。 |
古市大溝(ふるいちおおみぞ)−推定される謎の水路 上の写真では、ロールオーバー効果によってもう1枚の写真が現れます。そこに表されているのは、「古市大溝」という古代の大きな水 路の推定路です。推定路は、南西と北西にもう少しずつ延びて推定されています。現在までに、地理学的・考古学的に調査・研究が進めら れて、大体の推定路がわかってきました。この水路の性格や位置付けについては、文献史学ともあいまって研究が進められ、いくつかの説 が推論として発表されていますが、未だ定説とまでには至っていません。今一つ決め手に欠けるというのが実情です。 推論は大きく2つに分けられます。水路の規模や築造時期などから「運河」と推測する説、この地域を開拓するための「灌漑用水路」と する説、この2つです。ここでは、羽曳野市Webサイトの「市内遺跡の紹介」に掲載された「古市大溝」の説明を紹介しておきます。 『 古市古墳群内を通る巨大な水路で、昭和39(1964)年に航空写真を観察していた秋山日出雄氏によって発見されました。その流路は、 軽里の前の山古墳の北東側付近から北西方向に延び細池に至ります。細池西側で北西に向きを変え、上田池・下田池と北上し、岡ミザ ンザイ古墳の南東部で中ノ池・堀川に続き、北西に下ります。更に、高鷲地区の中池を経て、島泉の墓池から東除川に注ぐ流路を主要 幹線として復元されています。 全長12kmと遺跡の規模が大きいのに比べて、調査規模が小さいためその時期や用途については不明で、掘削された時期が古墳時代後 期の6世紀後半頃であれば、物資の移送に係わる運河説となり、7世紀であればこの地域を開拓するための灌漑用水路(灌漑説)として 機能したものと考えられています。』 今後の研究や新たな発掘調査の成果等が期待されますが、私個人は灌漑説には少々疑問を感じています。と言うのも、現在私たちが周辺 で目にしている灌漑用水路と比較して、古市大溝跡地の規模が大き過ぎると思われるからです。深い水路で流すのは勾配を合わせるのが大 変だったと考えられるので、流量を一定以上確保するために水路の幅を広く造ったことは想像できます。それにしても、現在見られる跡地 の幅は相当な規模です。東除川や西除川などと比べても跡地の幅の方がずっと広く、果たして、古代の人々は灌漑水路として造ったのだろ うかと、どうしても疑問がぬぐえません。 「古市大溝」については独立したページを編集したいと思っていますが、準備がまだ整っていないので、別ページから関係箇所の写真を いくつか紹介しておきます。リンクページも参考にしてください。 |
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@ 細池跡の様子〔GoogleEarth 2015(平成27)年11月30日〕より 文字入れ等一部加工 |
A 細池跡の様子(南東から北西を見る) 2014(平成26)年11月 正面樹木の後方に見えるアンテナ付き建物は柏羽藤消防本部 |
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B 上田池の様子(北岸から南を見る) この水路のような形は古市大溝の一部が残っている部分。 2016(平成28)年10月 |
C 下田池東側の古市大溝跡地(南より) 大溝跡地の北側の半分強は宅地化している。 2017(平成29)年6月 |
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D 現在の中ノ池の様子 〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より 藤井寺市・羽曳野市の境界に沿って中ノ池は在る。存在位置自体は 羽曳野市域であるが、藤井寺市の所有である。 文字入れ等一部加工 |
E 中ノ池と堀川跡地の様子 文字入れ等一部加工 〔GoogleEarth 2015(平成27)年11月〕より 堀川跡地は住宅地となっており、水路だった面影はない。 |
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写真DE−「藤井寺市の川と池−中ノ池・堀川跡地」より |