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【 長地跡地    藤井寺市国府1丁目 近鉄南大阪線・土師ノ里駅より北東へ約570m
池ではなかった池
 長池
(ながいけ)は現在は跡地しか存在しません。現地で見ても、そこが池
であったことはまずわかりません。「長池広場」という呼称がわずかに
ヒントを与えてくれるだけです。逆L字形の池は、当然ながら自然によ
る造形ではなく、明らかに人工造営物だとわかります。人工のものと言
っても、ため池が造られたのではありません。そもそも、これは「池」
ではなかったのです。わざわざこんな使い勝手の悪い池を造ることはな
いでしょう。
 古墳に興味をお持ちの方はお気づきでしょうが、長池はすぐ横にある
市野山古墳と関係しています。と言うより、古墳の一部だったのです。
市野山古墳は周辺の発掘調査などから、2重の周濠を持つ大型前方後円
墳であったことがわかっています。長池はその外濠の一部の残存形態で
あると考えられています。右の写真@でわかるように、長池の短辺部分
と長辺部分は、それぞれ市野山古墳の北側堤及び東側堤と平行に位置し
ています。しかも、堤との間隔も北側も東側も同じです。市野山古墳外
@長池跡地の現在の様子
@ 長池跡地の現在の様子 〔GoogleEarth 2015(平成27)年11月〕より
濠の北東角部の残っていた部分が長池だったのです。角部が残っていたことで、周濠の一部であることがよりわかりやすくなりました。
 外濠の他の部分がいつ頃無くなったのかはよくわかりませんが、かなり古くから無くなった可能性があります。古墳の南側、後円部の内
堤部分の上を旧街道の長尾街道が通っていて、現在もそのまま市道となっています。長尾街道は古代の「大津道」だと考えられており、堺
の町から一直線に東に延びていたと推定されています。それによれば、本来は市野山古墳の
300m近く北側を通っていたはずです。それが
今の藤井寺市域に入ってから途中で南に折れて、市野山古墳の内堤部分を通るルートに変わってしまったのです。言うなれば、大和の国へ
入る短絡ルートができたわけです。 ということは、その時点で後円部の外濠は無くなっていた可能性が高いと考えられます
(もともと後円
部には外濠は造られなかったとの見方もある)
。 内堤の上を通り道に使うという時点で、古墳(この場合天皇陵)の扱いがかなり崩れていた
と言えるわけで、いずれにしてもかなり古くから外濠の大部分は消えていたものと推定されます。 アイコン・指さしマーク「市野山古墳」 アイコン・指さしマーク「長尾街道」
台地上にあった長池
 なぜこの長池の部分だけが残ったのかはよくわかりません。ただ、もともとの地形から見ると、長池の部分は市野山古墳全域の中で、最
も低い地形だった場所です。したがって、周辺の水を集めやすい場所としてため池に利用するために意図的に残された可能性もあります。
「藤井寺市の川と池」のページで地図を見ていただくとわかりますが、この辺りの地域
(旧国府村や北側の北條村・船橋村)には、もともと
ため池はありませんでした。水田地帯には石川を水源とした南から来る用水路が巡っていて、ため池を造る必要がなかったのです。ところ
が、長池や市野山古墳がある場所は、国府
(こう)村の中でも水田地帯よりも一段高い段丘の上にありました。「国府台地」と呼ばれている低
地生の台地地形です。この国府台地には市野山古墳やその南の仲津山古墳をはじめ多くの小古墳が築かれています。有名な「国府遺跡」も
この台地上にあります。石器時代から人々が住む場所でもありました。台地という地形であるため、この場所は水田耕作には適しません。
多くは畑作に利用されました。農村地帯であった戦前の地形図を見ても、水田はほんの一部にしか見られません。
 畑作中心とは言え、台地上の土地で耕作をするためには一定の用水を確保する必要はあったでしょう。古代から存在した古墳の周濠は、
格好の用水として役立ったと思われます。時代を経ると共にその多くの部分が新田
(畑作も含む)に転用されても、一定の水源は必要なもの
として残されたと考えられます。もっとも、市野山古墳周辺の地形から考えると、この周濠に常時水が蓄えられていたとは想像しにくいこ
とでもあります。実際には、ほとんど空堀状態ではなかったかとも考えられています。事実、現在の市野山古墳の内濠を見ても、年間を通
じてほとんどが空堀の状態で、梅雨や台風などの大量降雨の後だけ水の溜まった部分が見られます。空堀を歩いて簡単に墳丘に行くことが
出来たため、江戸時代末期までは村人が出入りして共有林のように利用していたようです。
 空堀の一部を池として利用するために残すとすれば、当然水を集めやすい部分が選ばれたはずです。長池の部分が残されたのも、必然的
なことだったのではないでしょうか。
現在の長池跡地
 写真Aは、長池跡地の様子を北側から撮ったもの
です。左側のフェンスで囲まれた施設が東側の長辺
部分の跡地です。この施設は市立第5保育所です。
その向こうには、写真@にあるように惣社
(そうしゃ)
館という地区の集会所があります。惣社地区は旧惣
社村で、国府村の分村として存在していました。明
治初期の大字
(おおあざ)区分としては国府村の一部でし
たが、現代に至ってからは別地区として独立した存
在になっています。現在の長池の場所は国府1丁目
ですが、そこに惣社地区の会館があるのも、昔から
A長池跡地の様子(北より)
A 長池跡地の様子(北より)   左側のフェンス内は市立第5保育所。右側の柵内が長池
  広場。中央の擁壁上の住宅地は、市野山古墳内堤の部分に当たる。住宅背後の上に見える
  緑は市野山古墳の墳丘。                   2013(平成25)年7月       
合成パノラマ
の関わりがあってのことかも知れません。或いは、長池の水利権と惣社地区がもともと関係あったのかも知れません。
 写真Aで右側の柵に囲まれている場所は、通称「長池広場」と呼ばれている跡地の北側の短辺部分です。東側の半分近くが舗装されてい
て、地区の臨時駐車場などに利用されています。あとの西側部分は更地状態です。この広場は、池の埋め立てからしばらく後までは出入り
自由の広場として子どもたちの良い遊び場となっていました。自然と「長池広場」と呼ばれるようになりましたが、その後、安全管理上の
問題もあってか鉄柵で囲まれてしまい、現在のような状態になりました。
 広場の後方にコンクリートの擁壁が見えます。以前は土の法面のままでしたが、数年前に擁壁工事が行われて新しく住宅が建設されまし
た。以前から住宅があったことは下の写真EやFでもわかりますが、その時からこの場所は広場、つまり長池よりも高い土地でした。実は
この場所は市野山古墳の内堤部分に当たります。下に並べた写真で見える通りです。この内堤部分がなぜこのように高い段差をつくってい
るのかと言えば、古墳が築造される前の元の地形に起因しています。市野山古墳の築造場所の地形は南の後円部の方が高く、北東に向かっ
て緩やかに下がって行く地形です。そのため古墳を築造する時に、南側と高さを合わせるために内堤の北辺と東辺の部分で盛り土を施して
います。その盛り土の分が、宅地化した現在も段差として見えているのです。つまり、古代の土木工事の跡というわけです。
変わってきた長池跡地の周辺
 現在の長池跡地の周辺はどんどん住宅で埋まってきていますが、
40年ほど前までは、まだまだ多くの農地が広がっていました。どのよう
に変わってきたのか、
70余年前からの写真で比べてみました。現在の写真@とも合わせて見てください。
B戦後間もなくの長池の様子 C高度経済成長期に入った頃の様子
B 戦後間もなくの長池の様子
          〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日 国土地理院〕より
C 高度経済成長期に入った頃   1963(昭和38)年12月3日
     『古墳の航空大観』(末永雅雄著 学生社 1975年)より
 写真Bは戦後間もない時期の様子ですが、長池の北側に惣社村の集落の南部
が見えています。そのほかはほとんどが農地である様子がわかります。明治初
期の頃とそんなに変わらない様子です。
 写真CDは
17年後の1963(昭和38)年、東京オリンピック開催の前年です。日
本は高度経済成長期に入っていました。昔からの集落のほかにも、田園の中に
住宅の出来ている様子がわかります。それでも、まだまだ田園地帯であった様
子も写真Dでわかります。
 このころから藤井寺市
(当時美陵町)では人口の急増が始まりました。学校・
幼稚園・保育所といった教育・保育施設が次々と新設されていきました。長池
にもついに公共施設用地として転用される日がやって来たのはこの後です。
消えた5世紀の遺構
 昭和
49年4月から5番目の市立保育所を開設することになり、その用地とし
て長池が転用されることになったのです。もともと水田がほとんど無い台地上
だったために、埋め立ての影響はそんなに無かったのかも知れません。予定通
D長池の鳥瞰写真(南西より)
D 長池の鳥瞰写真(南西より)  1963(昭和38)年12月3日
     『古墳の航空大観』(末永雅雄著 学生社 1975年)より
り埋め立て工事は行われました。ところが、この埋め立て工事が後で大変な問題となります。
 市野山古墳の全体像を知る上で長池は貴重な手掛かりとなるものだとして、国だか府だかの史跡に指定されていたのです。その長池を埋
め立てて保育所を建設するすることについて、事前の届け出がなかったというので、文化庁からきついお叱りを受けることとなってしまい
ました。行政の不手際については、昔も今もことさら大きく報道されるのが常で、この時も新聞などでけっこう大きく報道されました。行
政手続きはともかくとして、5世紀に築造された古墳の貴重な遺構部分が失われたことは事実であり、古代史跡を売りとしている藤井寺の
地にとってはやはり残念なことではありました。そんなこともあってなのか、第5保育所は年度初めではなく、昭和
49(1974)年7月1日に
開所しています。写真Eが保育所開所から約半年後の様子です。埋め立てた逆L字形の土地に、保育所だけが出来上がっています。
 保育所の南側部分には後に惣社地区の集会所がつくられましたが
(写真F)、残る北側部分には何も構造物は造られていません。公更地状
態のままで残されて現在に至っています。園や児童遊園の一覧には載っていませんが、地元の子どもたちに「長池広場」と呼ばれるように
なったことは既述の通りです。「古墳外濠の遺構」として、一応は保存されているということでしょうか。
 
E埋め立てられた長池 F10年後の様子
E 埋められた長池  東側跡地に市立第5保育所が開設
      された。〔1975(昭和50)年1月24日 国土地理院〕
F 10年後の様子 〔1985(昭和60)年10月8日 国土地理院
   長池広場に重なって見える樹木は、内堤部分の法面にあった木々。

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