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◆  大 和 川  ◆
  (やまとがわ)     一級河川   《 一級水系・大和川 》   《 奈良県・大阪府 》
 近畿日本鉄道・南大阪線 土師ノ里
(はじのさと)駅より北へ約1.1km 徒歩約17分(河内橋南詰まで)
   〃   ・道明寺
(どうみょうじ)線 柏原南口駅より南東へ約100m  徒歩約2分(新大和橋北詰まで)
   〃   ・大阪線 安堂
(あんどう)駅より南西へ約180m  徒歩約3分(安堂交差点前堤防上まで) ※以上は藤井寺市域近辺のみ
 国道25号・安堂交差点の南東約170mに柏原市役所駐車場有り
 流域面積 1,070 ku   延長
68km       管理:国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所
奈良盆地の水を集めた川−水は大和から
 藤井寺市を流れる川について紹介するときに、真っ先に取り上げるべきは「大和川」でしょう。と言うより、淀川に次ぐ大阪府の代表的
な河川です。合流している「石川」とともに、藤井寺市の地理・歴史に密接に関わっている川として紹介したいと思います。
 「大和川」は、奈良盆地とそこに面する山地の水を集めて1本の川となり、大阪平野に流れ出る大阪府内で2番目に大きな川です。大和
盆地の水を集めた川、大和の国から流れ来る川、そのような意味合いから「大和川」と呼ばれるようになったのでしょう。古代には、都の
ある飛鳥や奈良と難波の津を結ぶ重要な水運路でもあったのです。
 当の大和の国では、源流に始まり本流とされる川は「初瀬川
(はせがわ)」と呼ばれています。公式には現在は「大和川」ですが、歴史的には
ずっと「初瀬川」です。古くは「はつせがわ」とも呼ばれ、和歌などに出てきます。大和川水系としては
奈良盆地の主な川だけでも20
近い川があり、それらが集まって1本の本流となった川が本来の「大和川」ですが、支流を含めた総称として「大和川」と表される場合も
少なくありません。大阪平野に出てからも、いくつかの支流が流れ込んでいます。
 大和川についてページを構成しようとする時、関係する地理的範囲が広く歴史的な経緯などもあって、テーマや分野が多岐に渡ります。
取り上げる情報もキリがないと言っていいほどあり、編集に困るほどです。本サイトは大和川をテーマとするサイトではないので、ここで
は、ひとまず大和川の概要をお伝えすることにとどめておきたいと思います。より広い分野についても大和川のことを知っていただきたい
と思いますが、さらに詳しい情報については、ここでは専門機関のサイトを紹介しておきます。大和川の維持管理や治水対策の整備事業な
どに取り組む国の担当部署、「国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所」です。ここのサイトでは、大和川の維持・管理業務や整備・
治水事業のほか、防災や大和川の水環境などについても取り上げられています。そして、江戸時代にさかのぼる大和川の歴史について、児
童用の学習資料も合わせて、詳しく紹介されています。一見の価値はあると思います。         アイコン・指さしマーク「大和川河川事務所」
@ 藤井寺市北部を流れる大和川(北西を見る)
@ 藤井寺市北部を流れる大和川(藤井寺市北條町 北西を見る) 2019(令和元)年9月
    川中の構造物は水位調整のための堰堤(えんてい)。昭和30年頃に造られた。左端に見える橋は 「河内橋」
  で国道旧
170号が通る。この辺りの河床から船橋遺跡が現れた。
         合成パノラマ
A 藤井寺市北部を流れる大和川(東を見る)
A 藤井寺市北部を流れる大和川(藤井寺市北條町 東を見る)   2019(令和元)年9月
   右寄りに見える橋梁は、手前が近畿日本鉄道道明寺線の大和川橋梁、後方が新大和橋。橋の後方に
  見えるアーチ屋根の建物は柏原市民文化会館「リビエールホール」。その右が柏原市役所。
合成パノラマ
  写真@は藤井寺市内を流れる大和川の一部です。北條町から船橋町(ふなはしちょう)にかけて続く左岸(南岸)堤防から対岸の柏原市方面を見た
様子です。左端には国道旧
170号が通る「河内(かわち)が見えています。その左の方が下流側で大阪湾へと向かいます。川の中に見える構
造物は、1955(昭和30)年頃に設置された堰堤
(えんてい)です。写真Aは写真@の右側方向です。近鉄道明寺線の大和川橋梁が見えています。そ
のすぐ後方には、府道802号
八尾河内長野自転車道線(南河内サイクルライン)が通る人道橋の「新大和橋」があります。後方の山並は生駒山
地の最南部の山々です。           アイコン・指さしマーク「河内橋−藤井寺市の交通」     アイコン・指さしマーク「新大和橋−藤井寺市の交通」

 堰堤の下流側にたくさんのコンクリートブロックが並んでいます。これは、水質浄化の一方法として設置されているものです。堰堤から
の落下水流によって川底が削られることを防ぐ役目もあると思われます。大和川河川事務所では近年の事業として、大和川中・下流の水質
浄化を目指した様々な取り組みを行っています。堰堤の北端部分には魚道も設けられており、河川内の生物の成育環境の改善にも取り組ん
でいます。最近では、アユの遡上も見られるようになってきています。
 なお、藤井寺市域の大和川に架かる橋としては、上記の橋のほかに「大正橋」と「新大井橋」があります。4つの橋の架橋順は、新大和
橋・大正橋・大井橋(新大井橋の元の橋)・河内橋の順ですが、現存の橋で最も古いのは河内橋です。戦後に歩道増設などの改修はされまし
たが、橋脚
橋梁は1938(昭和13)年竣工当時のものです。他の3橋は戦後に新しい橋に架け替えられています。最も新しいのは新大和橋で、
1974(昭和49)年の竣工です。各橋と通過する道路の関係は次の通りです。
   
新大和橋《 府道802号・八尾河内長野自転車道線(南河内サイクルライン) 》  大正橋《 府道旧号・旧中央環状線 》
   
新大井橋《 国道170号(大阪外環状線) 》     河内橋《 国道旧170号 》
                     アイコン・指さしマーク「大正橋−藤井寺市の交通」    アイコン・指さしマーク「新大井橋(大井橋)−藤井寺市の交通」
増水で一変する大和川の姿
 普段見られる大和川の風景は、写真@Aのように静かにゆったりと流れる光景が広がっています。しかし、もともとが広い範囲の降雨を
集めて流れる川なので、ひとたび大きな雨が続くと、大和川の中下流の様相は一変します。初夏の梅雨前線による豪雨や夏から秋にかけて
の台風による豪雨で、大和川が大増水した様子は度々見られてきました。川沿いの自治体で避難勧告の出されたこともありました。過去に
は、奈良県の王寺町周辺や大阪府の柏原市などが洪水に見まわれたこともありました。また、大和川が大増水した結果、注いでいる支流河
川の流入が妨げられ、支流河川で洪水が起きることもありました。長年に渡って治水のための整備事業が続けられてきましたが、今なお、
豪雨による水難の脅威は無くなったわけではありません。地域の安全を確保する取り組みは日々継続されています。
 写真BCは、2017(平成29)年10月22日の夜間に近畿地方を通過した台風
21号による豪雨で増水した大和川の様子です。写真@Aと比べて
見ると、その光景のあまりの違いに驚かされます。「静かな川」と「怖い川」の二面性をはっきりと見せつけています。この濁流の写真は
雨がやんで数時間後の朝に撮影しているので、大和川の水位の最高位はもう少し高かったと思われます。写真のように堤防から堤防まで、
川幅いっぱいに濁流が流れる光景は、以前は数年に1回見られる程度だったと思うのですが、近年はその頻度が高くなっている感じです。
B 台風で増水した大和川(北西を見る) C 台風で増水した大和川(東を見る)
B 台風で増水した大和川(北西を見る)   合成パノラマ
    川幅いっぱいの濁流で、堰堤の構造物はすっかり水没している。
C 台風で増水した大和川(東を見る)  過去には、鉄橋の橋脚
 基礎の周囲がえぐられて長期間普通になったこともある。 合成パノラマ
2017(平成29)年10月23日   前夜に近畿地方を通過した台風21号による豪雨で増水した。
奈良盆地から大阪平野へ−大和川の流れ
 下のE図「大和川水系の流域地図」は、「大和川」という1つの川に集結している多くの河川の流域範囲を表した地図です。大和川河川
事務所サイトに掲載されている地図を基にして、必要な名称や記号、川筋などを書き加えました。各配色も加工してあります。
 奈良県の笠置山地を源流とする大和川の幹川流路の延長は延長は
68kmです。上流部分では「初瀬川」とも通称され、初瀬ダムをさらに
さかのぼった所に源流位置
(印位置)があります。この初瀬川が奈良盆地に下ると、盆地にある多くの河川が次々と合流しながら西へと流
れて行き、やがて奈良盆地を出る頃には1本の川にまとまります。これが本流「大和川」です。そして、生駒山地と金剛山地の間の谷部を
抜けて大阪平野に出て行きます。そこで金剛山麓の南河内地域を南から流れて来た石川と合流し、そこからほぼまっすぐ西へと流れ、堺市
に至って大阪湾へと流れ込んでいます。この大和川に注ぎ込む水の流域範囲は、奈良盆地とその周囲の山地、そして大阪府の南河内地域全
体、ということになります。大和川を中心とするこれらの河川を総称して「一級水系・大和川水系」と言います。国土交通省によって指定
されたものです。大和川をはじめ、合流する多くの河川が「一級河川」に指定されています。
 大和川水系の規模を示すデータを
大和川河川事務所のWebサイト内から「大和川の概要−数字で見る大和川」の表で紹介しておきます
が、各統計データの調査年の表示はこのページにはありませんでした。                アイコン・指さしマーク「藤井寺市の川と池」
           D 数字で見る大和川
 流域面積 1,070 ku  全国土面積 377,719ku            利根川 16,840ku
 石狩川 14,330ku   信濃川 11,900ku   淀川 8,240ku
 幹川流路延長 68 q  信濃川 367q   利根川 322q   石狩川 268q
 年間平均降雨量 1,258 o  全国平均 1,718 o
 年間平均総流出量 8.1単位記号・立方メートル  柏原地点    豊水 22.61単位記号・立方メートル/秒   平水 13.57単位記号・立方メートル/秒
         低水  9.98単位記号・立方メートル/秒    渇水  6.39単位記号・立方メートル/秒
 流域市町村 38  21市 15町 2村
 流域内人口 215 万人  全国人口 1億2,630万人(約2%)
 氾濫区域内人口 400 万人  全国氾濫区域内総人口 5,165万人(約8%)
 氾濫区域内資産 69 兆円  全国総資産 1,003兆円  内 氾濫区域内には663兆円(約10%) 
 支川数  177  ※ 同サイト別ページより引用して追加
 基準地点川幅(柏原市) 200 m
(国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所サイト内『事務所紹介』「大和川の概要−数字で見る大和川」より)       
 表Dのデータで、参考データの全国統計データと比べて見ると、大和川はそんなに大規模な川ではないことがわかります。同じ大阪府の
淀川でも、流域面積では8倍もの開きがあります。年間平均降雨量も、全国平均よりは
500mm近くも少ない量です。もともと大阪府は降
水量の少なめな場所です。奈良盆地も、同じ奈良県の南部山地地帯に比べるとだいぶ少ない降水量です。
 全国的に見ると大規模な川ではありませんが、「支川数」の総数は
177もあります。おもな支流だけでも20本ほどあります。各支流の流
域では、大和川水系の一部であることは日頃そんなに意識されてはいないでしょうが、それらのすべては大和川に合流しているのです。
大和川水系の流域地図 ※ ロールオーバーになっています
大和川水系の流域地図
  ※ 国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所サイト内『大和川について』の
   「わたしたちの大和川−第1章 大和川のすがた−大和川の地形のようす」掲載の地図を基に製図。旧大和川筋や文字の追加、
   色変更など、一部独自の加工を追加。            《
…大和川源流地点 》
  ※ 「旧大和川筋」として表示されている川筋や池は大和川が付け替えられる以前の川・池の状況を表しており、I図の現在の
   旧大和川筋とは異なる。
  ※ ロールオーバーで出る市町村区分図で着色の市町村は、現大和川や旧大和川の流域・流路として直接的に関わりの深い地域
   を示す。
 E図「大和川水系の流域地図」を見ると、どれだけの範囲のどれだけの川が「大和川」として終結しているのかが、一目瞭然です。まさ
に奈良盆地と南河内の川です。生駒山地と金剛山地を挟んで、奈良盆地と大阪平野が“水”でつながっている様子もよくわかります。地形
と川の分布の関係については、よりわかりやすい資料として下のI図「色別標高図」を紹介しておきます。土地の微妙な高低の様子や各河
川の現在の流路を読み取ることができます。
 E図やI図の一般的な流域地図とは別に、河川管理の行政を進める上で公式に定められた「大和川流域」があります。下のG図が、国土
交通省の大和川河川事務所が資料書籍やWebサイトに掲載している「大和川流域図」です。これが行政上公式に定められている「大和川
水系の」流域範囲です。言い換えれば、この範囲に入っていない河川は、大和川水系ではないということです。大和川水系の維持・管理・
改修などに当たる行政機関が「国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所」ですが、実際にはこの事務所が大和川水系のすべてを管理し
ているわけではありません。大和川河川事務所
(含出張所)が直接管理しているのは、大和川本流の佐保川との合流点から大阪湾の河口まで
37.6kmと、支流のごく一部分です。藤井寺市内では、大和川のほかには石川の一部だけがその範囲です。残り区間や支流のほとんどは
奈良県と大阪府が管理を担当しています。
 E図「大和川水系の流域地図」は、ロールオーバー効果を設定しています。ポインターを地図中に入れると別の地図F図が現れます。F
図には、大和川水系の流路が現在のどの市町村にあるのかを表してあります。大和地域の有名な古寺・古社も表示してあります。古代の都
である「飛鳥」「平城京」との関係を見ることもできます。
G 大和川水系の流域範囲   H       大和川とおもな支流
川の長さ(q) 流域面積(ku)
 大和川 68    1,070
おもな支流
 石 川(いしかわ) 29      223
 曽我川(そががわ) 27      159
 西除川(にしよけがわ) 26       54
 寺 川(てらかわ) 23       70
 葛城川(かつらぎがわ) 23       52
 飛鳥川(あすかがわ) 22       41
 富雄川(とみおがわ) 22       47
 佐保川(さほがわ) 15      131
 葛下川(かつげがわ) 15       48
 東除川(ひがしよけがわ) 14       40
 千早川(ちはやがわ) 14       36
 竜田川(たつたがわ) 13       54
 高田川(たかだがわ) 13       29
(2009年 国土交通省調べ)
  G 大和川水系の流域範囲    大和川河川事務所作成の資料より
       国土交通省が行政上公式に定めた大和川水系の流域範囲を示している。
    国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所サイト内
    『大和川について』「わたしたちの大和川2016」より
人工の川−藤井寺市の大和川
 上のE図「大和川水系の流域地図」には、生駒山地と上町台地の間に「旧大和川筋」が薄い青色で表示されています。薄い色で表示した
のは、この川筋が現在の流路ではなく、江戸時代の元禄期までのものを復元表示しているからです。つまり、その時代までは、大和川はこ
のような流路で流れていたのです。江戸時代の宝永元年(1704)年、石川との合流点から西へ流れる新しい流路が、約8ヵ月という超スピー
ド工事で造られました。大阪府内ではよく知られている「大和川の付け替え」と呼ばれる江戸時代の一大公共事業です。それまでE図の旧
川筋分布のように何本にも分流していた大和川の川筋を、石川との合流点から1本の本流としてまとめ、そのまま西の大阪湾へ流す、とい
う流路の切り替えのために新しい川が造られました。川の付け替えが必要だったのは、旧川筋が昔からしばしば洪水を起こし、流域の村々
に大きな被害をもたらしてきたからです。旧川筋は、長年の間に天井川となっていて、ひとたび氾濫するとたちまち一帯が水びたしとなり
水が引きにくいという流域でした。大阪平野、特に河内平野と呼ばれる旧川筋流域を安定した農作地帯にするためには、大和川による洪水
を防ぐ治水対策が何としても必要でした。こうして実施された土木事業が「大和川の付け替え」だったのです。幕府の直轄地が多かったこ
ともあり、新川の造成工事は幕府が主体となって行われ、何ヵ所かの大名にも御手伝普請
(おてつだいぶしん)として工事が命じられました。
 「洪水対策」という観点から見ると、この新川造成工事はあくまで「治水事業」でした。しかし、一方で、安定した年貢収入を求める幕
府の立場からすれば、この事業は一大新田開発事業でもあったのです。旧川筋や池を新田として開発すれば、広大な農地が誕生します。工
事費用という一時的な支出を負担しても、先々のことを考えれば思い切った新田開発は大きな魅力だったことでしょう。
 新大和川ができて以降、旧川流域での大規模な水害は激減しましたが、ゼロになったわけではありません。また、新たに新大和川による
洪水も何度も発生しています。それでも、総合的に見れば、河内平野におけるその後の農業の発展は、この一大土木事業なしには成立し得
なかったと思われます。綿花や菜種の栽培が盛んとなり、平野郷
(現大阪市)は綿花の集積地として発達しました。後の大阪における綿紡績
産業の先がけともなりました。近代から現代に至っては、河内平野は大都市近郊に集中する流入人口の受け皿となり、一帯の市街地では急
速な人口増加を見ることとなります。藤井寺市周辺もその一つの地域でした。藤井寺市の大和川は、まぎれもない「人工の川」なのです。
大和川水系ではない
     「旧大和川筋」

 G図の「大和川流域図」をみると、
「旧大和川筋」が流域に入っていませ
ん。実は、新大和川ができてからも、
旧大和川の川筋は細い川として残され
ていました。水田地帯だったこの一帯
に水路を残すのは当然のことですが、
実際にはむしろ水不足が起きるぐらい
でした。それらの水路の多くは現在も
存在しており、右のI図に見える「旧
大和川筋」がそうです。
 この「旧大和川筋」が、G図「大和
川流域図」に入っていないのは、「大
和川水系」ではないからです。「旧大
和川
」と呼ばれる川(個々に河川名はあ
)でも、大和川水系の仲間ではないの
です。なぜか?。理由は簡単です。旧
大和川筋の水は大和川に流入していな
いからです。
 「大和川水系」の川の水は、すべて
大和川に流入し大阪湾へと流れて行き
ます。旧大和川筋の水は、逆に大和川
から流れて行く水なのです。
 では、旧大和川筋の川はどんな水系
に入っているのでしょうか。それは北
の方から流れて来
る「寝屋川(ねやがわ)
を中心とする「寝屋川水系」です。寝
屋川と合流し、最終的には大阪城の北
で大川
(旧淀川)と合流して大阪湾へと
I 色別標高図の地形で見る大和川の流域
 I 色別標高図の地形で見る大和川の流域
     
(国土地理院サイト『地理院地図』−「色別標高図」より)      文字・記号・川筋の追加等一部を加工
流れて行きます。「寝屋川水系」は、一級河川水系として大阪府が管理する水系です。大阪府では、別に「淀川水系寝屋川ブロック」とい
う呼称も使用しているようです。旧大和川筋の川は、もともと、自然地形に沿って河内平野を北へ向かって流れ、北から来る寝屋川と合わ
さって池を造り、旧淀川の水と合流していく川でした。その河川としての流れ方の構造自体は
300年後の今も何ら変わっていないのです。

◆  大和川の付け替え  ◆
 既述の通り、石川との合流点から西の大和川は造られた川です。1704(宝永元)年の2月に工事が始まり、10月には完成しています。大
変なスピードで工事が終わったわけです。工事の規模を考えると、現代に工事を行ったとしても、これは驚異的なスピードです。
 工事の多くは、地面を掘って川を造るのではなく、土を積み上げて固め堤防を築いていくというものでした。1ヵ所だけ台地を横切る部
分があり、この部分は固い地盤を掘り進む大変な難工事となっています。それを考えると
、8ヵ月という工事期間はなおさら驚きです。
 この新川造成工事は、「大和川の付け替え」と言われる歴史的な一大事業です。詳しい経過を紹介する優れた他のサイトがあるので、詳
細はそちらに譲ることにし、ここでは「付け替え史」の概要と付け替え後の問題点の紹介に留めておきたいと思います。

なぜ付け替え?
 藤井寺市付近から海までの大和川が人工の川であることはすで
に述べました。では、いったいなぜ十数キロもの川を造る必要が
あったのでしょうか。これもすでに簡単に紹介しました。旧大和
川の川筋ではたびたび洪水が起きており、それをなくすための対
策として新しい川を造ることになりました。
 では、なぜ旧大和川筋ではたびたび洪水が起き
たのでしょうか。
なぜ新しい川を造らないと洪水をなくすことができないのでしょ
うか。そこから取り上げたいと思います。
(1)昔の大和川

 付け替え以前の大和川は、J図のように大阪平野に入ると何本
もの川に分かれて北へ向かって流れていきました。2つの大きな
(浅くて部分的には湿地帯)をつくって、大阪城の北で再び1本
になり、北から来る淀川
(現大川)と合流して大阪湾へと流れて行
きました。この分流してから再び合流するまでの流路でたびたび
洪水が起こり、この河内平野一帯では水との戦いの長い歴史がく
り広げられてきたのです。では、なぜそんなに洪水が続いてきた
のでしょうか。
 結論的に言うと、J図のように分流していることに大きな原因
があります。1本の本流となって奈良盆地を出て来た大和川は、
大阪平野に入ったとたんに何本もの川に分流します。水流が分か
れたことで、それぞれの川の勢いは衰えます。それまで水流の勢
いで流されて来た砂が、流れの勢いが落ちたことで川底に沈んで
溜まっていきます。そうして、次第に川は浅くなって川底が高く
なり、「天井川」と呼ばれる状態になって行きました。川底の方
が川の周囲の土地よりも高い状態です。この状態で川が氾濫すれ
ばどうなるでしょうか。川から流出した水は元の川には戻って来
れません。そもそも、なぜ大和川は大阪平野に入ったら分流する
のでしょうか。それは、河内平野のでき方に原因があります。
J 昔の大和川の川筋   
J 昔の大和川の川筋
  付け替えが行われる前の旧大和川の様子に、現在の海岸線や新大和川を重ねたもの。
      神崎川(かんざきがわ)   猫間川(ねこまがわ)   菱江川(ひしえがわ)
      玉櫛川
(たまぐしがわ)    楠根川(くすねがわ)    久宝寺川(きゅうほうじがわ)
      恩智川
(おんちがわ)     大乗川(だいじょうがわ) 落堀川(おちぼりがわ)
(2)宿命の川−砂で埋まる川
 この旧大和川流域の多くは、もともとは海でした。生駒山地と上町台地
の間の河内平野は、「古代の大阪湾」とも言える「河内湾」という内海
(う
ちうみ)
でした。縄文時代のことです。やが弥生時代の頃には「河内潟(がた)
となり、さらには「河内湖」となりました。北からの淀川、南からのの大
和川、2つの川が運んでくる砂によって、だんだん小さく浅くなっていっ
たのです。特に南から来る大和川の流れはたくさんの砂を運び、南から順
々に湾を埋めていきました。右のK図が、大和川が河内湾を埋め出した頃
の様子です。早くも“分流の芽”が見えています。
 山間部を抜けて広い平地部に出た川は、自然と何本にも分かれて、増水
するたびに氾濫をくり返しては砂をまき散らして行ったのです。こうして
北へ北へといくつもの川筋が伸びていき、陸地が広がっていきました。土
地の傾斜が大変小さく、低地性扇状地形と言われる地形を造ります。流れ
のゆるやかな時には川底に砂がたまりやすく、やがてこれらの川筋は川底
が周囲の土地よりも高い「天井川」となっていくのです。
 川筋を表す細かな等高線を見ると、川筋の部分で下流に向かって等高線
の曲がりがいく筋かに分かれて出っ張っています。鳥の足跡みたいな形か
ら「鳥趾状
(ちょうしじょう)」と言われる、天井川地形を表す典型的な等高線です。
山の尾根筋と似たような形です。谷を流れる普通の川筋だと、等高線はV
字形で下流に向かって行きます
(図L)
 河内湾が大和川の運ぶ砂によって低地性扇状地形になったことで、大和
川は分流する川となって北へ延びて行きました。そして河内湾がすっかり
平野となった時、最も低い土地に最後まで水が溜まって残ったのが、J図
に名前が見える「深野池」と「新開池」です。これらの池は遊水池(ゆうすい
ち)
的な存在で、水の流入する状況によって池の形や大きさは変化していた
と言われます。
K 縄文時代前期の古代河内湾の推定図
K 縄文時代前期の古代河内湾の推定図(縄文時代前半)
         『出土品が語る 海と「おおさか」』
               (大阪府立近つ飛鳥博物館
2014年)より
           文字打ち直し、及び文字追加等、一部加工。
L 旧大和川流域の微地形等高線図 (3)くり返す洪水
 天井川であるということは、いったん洪水が起きると、
氾濫した水はなかなかもとの川には戻りません。川底を掘
っても、もともとの地形のでき方からして、また同じよう
に天井川になっていってしまうのです。堤防をかさ上げし
ても、やがて川底がさらに上がり、また堤防を高くする、
というくり返しです。これは困ったものです。
 洪水がおきやすい原因がもう1つあります。いったん分
流した流れが大阪城の北で1つになり、淀川と合流してい
ましたが、広範囲で雨が続いた時には淀川の流れの勢いの
方が強く、大和川の流れが入り込みにくいということがあ
ったのです。深野池や新開池が遊水池の役目をしていまし
たが、これにも限度がありました。
 このように、大和川は、地形のでき方からどうしても洪
水が起きやすいという宿命を背負った川として、多くの河
内の村の人々を苦しめてきたのです。

 ※ 淀川も後に近代の治水事業で新放水路が造られまし
  た。明治の中頃から事業が始まり、明治43(1910)年に
  新淀川が完成しました。大阪城の方へ流れる旧淀川は
  現在は「大川」と呼ばれています(図E・図J)。
L 旧大和川流域の微地形等高線図
   (1m間隔等高線による微地形図)
      『古代を考える 10 河内国府と国分寺址の検討』
       (古代を考える會 1977年)より

             周囲の一部をカットの上、河川・海に着色加工。
旧大和川流域での洪水の記録
西暦 年 代 事   項 史 料 出 典
750 天平勝宝 2. 5 大雨のため伎人堤・茨田堤(まんだのつつみ)など決壊。 続日本記
762 天平宝字 6. 6 長瀬川(久宝寺川)決壊。 続日本記
772 宝亀 3. 8 河内国茨田堤6か所、渋川堤11か所、志紀郡5か所の堤防決壊。 続日本記
784 延暦 3. 9 河内国茨田堤15か所決壊。 続日本記
785 延暦 4.10.27 河内に洪水、堤防30か所が決壊。 続日本記
832 天長 9. 8 河内摂津で大雨、堤決壊。 大日本史
日本紀略
848 嘉祥 1. 8. 5 大雨のため茨田堤切れる。 続日本後記
1539 天文 8. 8.17 洪水で河内国で流される村70あり。 中好幸『甚兵衛と大和川』
1544 天文13. 7. 9 畿内洪水、摂津河内両国で被害甚大。 皇年代略記
1563 永禄 6. 8. 5 この日より雨が続き1万6千人死亡。 江原武鑑
1608 慶長13. 2 暴風雨が続き摂津河内両国洪水。処々の堤防決壊。 凶荒誌 中好幸『甚兵衛と大和川』
1620 元和 6. 5.20 大和川氾濫、柏原の堤防決壊、2万4千石余りの土地が荒れる。 八尾市史
1633 寛永10. 8 大和川で洪水、堤防が切れ、36人が水死。 八尾市史
寛永10. 8.10 大和川・石川が氾濫、柏原堤300間、舟橋村堤30間、国分堤50
が流失、柏原村民家
50軒流され、136人の水死者、2万石余りの土
地が荒廃。
八尾市史
1635 寛永12 春 洪水、国分・船橋・柏原・弓削の堤防を破損。 八尾市史
1638 寛永15 吉田川氾濫、1か所決壊。 中家文書 八尾市史
1650 慶安 3 大和川氾濫、八尾木で決壊。 中家文書 大東市史・八尾市史
1652 承応 1 吉田川決壊、1か所決壊。 中家文書 大東市史・八尾市史
1662 寛文 2 玉櫛川川口法善寺二重堤、洪水のため流失。(以後堆積がひどくなる) 中家文書 八尾市史
1666 寛文 6 このころ大和川は天井川化し、田地より高い場所が現れる。 中家文書
1674 延宝 2. 4.10 大雨、洪水。 中好幸『改流ノート』
延宝 2.6.13・14 玉櫛川・菱江川・吉田川・深野池・新開池が洪水、堤防決壊35か所。 中家文書 八尾市史・大阪市史
延宝 2. 6 洪水で玉櫛川の二重堤が決壊。 中好幸『改流ノート』
1675 延宝 3. 6. 3 玉櫛川・菱江川・吉田川・深野池・新開池が洪水、堤防決壊19か所。 中家文書 大東市史・八尾市史
延宝 3. 8 大和川諸流はすべて天井川化し田地より3m程度高くなる。
甚兵衛、堤防比較図を提出。
中家文書
1676 延宝 4. 4.26 玉櫛川・菱江川・吉田川・深野池・新開池が洪水、堤防決壊10か所。 大東市史
延宝 4. 5 玉櫛川・菱江川・吉田川・深野池・新開池で6か所の堤防決壊。 中好幸『改流ノート』
延宝 4. 7 玉櫛川・菱江川・吉田川・深野池・新開池で4か所の堤防決壊。 中好幸『改流ノート』
1681 延宝 9. 7 玉櫛川・菱江川氾濫、6か所で堤防決壊。 中家文書 八尾市史・柏原市史
1683 天和 3 玉櫛川・菱江川氾濫、吉田堤7か所で堤防決壊。 中家文書 大東・八尾・柏原 各市史
1686 貞享 3 玉櫛川・菱江川・恩智川3か所で決壊。 中家文書 大東市史・八尾市史
                         《『大和川付替えと流域環境の変遷(古今書院 2008年)掲載「大和川関連歴史年表」より抜粋 》
 年表の中で注目されるのは、1674〜76(延宝2〜4)年の3年連続の洪水の様子です。延宝時代に入る前に大和川の天井川化が進行してお
り、延宝時代以降はそれがさらに悪化していたものと推察されます。1680年代に入ってからも、玉櫛川・菱江川・吉田川などでの洪水が頻
発しています。延宝の洪水が起きる
20年ほど前に、大和川下流の農民たちが初めて幕府に川の付け替えを訴え出ていました。
川の付け替え」という考え−根本的解決をめざして
 洪水の原因が、もともと川と地形のでき方にあるのであれば、川そのものの在り方を変えるしかないということになります。つまり、洪
水を起こす川を無くして、代わりに洪水を起こしにくい川を新たに造るという考えです。そう考えた人々の中から「
大和川を付け替えたい」
という願いが広がっていきます。現在中河内と呼ばれている地域の庄屋たちが中心でした。中でも、今米村
(現東大阪市今米)の庄屋であっ
た甚兵衛
(じんべえ 後に苗字帯刀を許されて中甚兵衛)は、付け替えを願う人々の中心となって長い期間に渡って大きな役割を果たします。
 川を付け替えると言
っても、大和川は河内一帯を流れる大きな河川です。いくつかの村の農民たちでどうこうできる事業ではありません。
現在の大阪府地域は当時は大変複雑な支配関係が入り組んでおり、大坂の地は幕府にとって重要な拠点でもあったので、大坂の町や河内・
摂津の多くの村が幕府の直轄支配地となっていました。老中配下の2つの大坂町奉行所
(東・西)が行政・司法などの仕事を担っていました。
川の付け替えという広範囲の地域に関わる事業は、当然この町奉行所が管理する一大公共事業としてしか実現できません。甚兵衛たちの付
け替えに向けての運動は、町奉行所
(=幕府)に対して、「大和川の付け替え」事業の実現を“願い出る”というものになっていきます。
 これらの付け替え促進運動には、河内国の中でも大和川の中・下流域に当たる大県
(おおがた)郡・高安(たかやす)郡・河内郡・若江郡・渋川郡
讃良
(さらら)郡・茨田(まった)郡と摂津国の東成(ひがしなり)郡の多くの村が加わっていました。
付け替え工事実現までの道のり
 甚兵衛たちは大和川の各河川流域を調査して回り、付け替え工事の綿密な計画書を添えて奉行所に付け替えを願い出る嘆願書を提出しま
す。嘆願書は何度か提出されていますが、いずれも「洪水による流域農民の苦難を切実に訴え、根本的な解決は川の付け替えしかないこと
を技術的見地から提案する」という内容でした。下の表Mの内容が、付け替えを願い出た人々の訴えの要旨です。実際の願い出は何回か行
われ、訴状もその度に書かれています。表Mでは、その中心となる訴えを掲げています。
 その内容で注目すべき点は、経済的観点からも付け替えをする方が合理的であることを指摘していることです。その要点は、@将来に渡
って何度も堤防修理などの工事をくり返すよりも、付け替え工事をした方が一度の出費で済み、長期的にみれば利点が大きい。A旧大和川
の河川や池は不要となるので、これを新田開発すれば、農地面積を大きく増やす
(幕府の年貢収入を増やす)ことができる、というものでし
た。まことに説得力のある意見だとは思いませんか? これは幕府にとっては大きな魅力のある話で、実際、幕府が最終的に付け替えの決
定をする段階では、この2点が重要なポイントであったと思われます。とは言え、この甚兵衛たちの訴えはすぐには聞き入れられませんで
した。最初の訴えから付け替えが決定されるまでには、実に
50年近い年月が経っているのです。
M 大和川付け替えを嘆願した人々の訴えのおもな内容 (嘆願書の骨子を平易に意訳した児童用の文)
一 大和川は、川底を掘ったり堤防を直したりしても、すぐに土や砂がたまって洪水になり、私たち百姓はいつまで 経っても
  安心できません。
一 洪水を防ぐには、石川と大和川の合流点からまっすぐ西へ流すように、川を付け替えるしかないと思います。
一 新しい川で、およそ
200ha(換算値)の田畑がつぶれますが、代わりに今の川や池を田畑にすれば、およそ2,000ha(換算
  値)
もの新田ができることになります。
一 川底を掘ったり堤防を直したりするだけでは、これからもたびたび工事が必要となり、多くの費用がいります。しかし、
  川を付け替えれば一回の工事だけでよく、費用も少なくて済むことになります。
               『4年・社会 わたしたちのくらし 第10版』(藤井寺市教育委員会 2009年)より (一部漢字・読点等を改変)
 その間、幕府は大和川付け替えについての検分(現地調査)を何度か行い、一度は付け替え決定をして工事に着手しかけたものの、河村瑞
(ずいけん)の意見に従って取り止めにするということもありました。河村瑞賢は伊勢出身の江戸町人でしたが、木材販売などで財を成し、
地の土木事業を手掛けた実績を買われて、大和川の治水についての調査を命じられていたのです。土木事業や治水について広い知見を持っ
ているはずの瑞賢が、なぜか大和川については「付け替えは不要」という判断をしています。「大和川の洪水は淀川と合流する辺りに原因
があるので、この部分を改修して底ざらえをすればよい。」というのが瑞賢の見解でした。この判断は、当時の実績ある瑞賢にしては「千
慮の一失」と言うべきではないか、そう指摘する瑞賢の研究者もいます。
強まる「付け替え反対」の動き
 一方では、甚兵衛たちの動きに対応して、川の付け替えに反対の考えを持ち、奉行所に対して逆に付け替えをしないように願い出る人々
がいました。甚兵衛たちの計画で新川の予定地となっている場所に関わる村々の農民たちです。付け替えが実現すれば、農地が新川の川床
としてつぶれ地となってしまう村、農地は失わないが大和川の流路が変わることで新たな危険や不利益を被ることになる村など、多くの村
が反対の動きに加わりました。後に、実際に多少なりとも農地を失うことになった村は
40ヵ村にも及びました。
 甚兵衛たちが奉行所に嘆願書を提出すると、反対の人たちもすぐに多数の村々の連名で嘆願書を提出するという、お互いの願いがぶつか
り合う厳しいものとなりました。大きな開発公共事業を巡って推進派と反対派が対峙するという、現代にもよく見られる構図ができてしま
ったのです。現在と違うのは、事業の決定者は幕府であり、それも一方的に決定する権力を持った支配者だったということです。
 付け替え反対を訴えたのは、河内国の志紀郡丹北
(たんぼく)郡と摂津国の住吉(すみよし)郡の村々でした。現在の藤井寺市域や柏原市域で反対に
加わった村は、志紀郡と丹北郡に属していました。藤井寺市域には、付け替えで土地を失うことになる村がいくつもありました。付け替え
反対の嘆願書の連署には、それらの村々の名前が残されています。特に、新川への切り替え地点となる船橋村や北條村は、3回提出された
反対の嘆願書で3回とも連署しています。多くの農地を失うだけでなく、北へ流れる川を地形に逆らって無理に西へ曲げて流すことに、大
きな不安を感じていたのです。
 下の表Nは、付け替え反対の村々が提出した嘆願書の要旨の一部を紹介したものです。これらの項目のほかにも、「南北に通じる街道が
新しい川によって断ち切られ、仕事で南北に行き来する者が大変な不便を強いられる。」などの訴えがありました。いずれも感情的な訴え
ではなく、なかなか合理的な理由として挙げられています。これらの訴状の内容は、中心となった村の庄屋家に残された訴状の写し
(控え)
によって明らかになっています。『藤井寺市市史』などにも掲載されています。付け替え反対の嘆願書は3回提出されていますが、最後に
提出された元禄の嘆願書がよく知られています。
N 大和川付け替え反対を嘆願した人々の訴えのおもな内容 (嘆願書の骨子を平易に意訳した児童用の文)
一 川を付け替えると多くの土地が川底になり、田畑を失う百姓たちは生活ができなくなります。
一 付け替える川は、西へまっすぐ流すので、水の勢いが強くなり、堤防が切れやすくなります。そうすると、川の北側では、
  土地が低いために多くの村が洪水の害を受けることになります。
一 
付け替える川の南側では、南から流れて来る川の水がせき止められて、田畑が水につかりやすくなります。
一 付け替える川の北側では、水不足の起きる心配があります。
一 川や池の跡にできる新田は、川底となる田畑より広いが、砂地のため作物が育ちにくい土地です。
一 付け替える川は、西へまっすぐ流そうとするために、土地の高い所を通すことになり、工事が大変困難です。
               『4年・社会 わたしたちのくらし 第10版』(藤井寺市教育委員会 2009年)より (一部漢字・読点等を改変)
付け替えが決定される
 詳しくはここでは省略
しますが、50年近くの間には、幕府・推進派・反対派の3者の間では、いろいろなやり取
りや紆余曲折がありました。河村瑞賢の意見によって付け替えを取り止めた幕府は、その後何度も堤防修理や底ざ
らえの工事をしますが、結局のところ洪水の根本解決にはならず、そうこうしている間にも、1674〜1676年には3
年連続で大きな洪水が起きるという事態を迎えます。
 幕府から付け替え嘆願禁止の命を受けたことにより、
15年間ほどは表だった付け替え嘆願運動は止まりますが、
1702
(元禄15)年に42ヵ村による付け替え嘆願書が再び提出されます。前年の元禄14年に付替検討役となってい
た堤奉行の大坂東町奉行所代官
・萬年長十郎は、嘆願書を受けて「付け替え」の検討に入ります。翌1703(元禄16)
年4月、萬年長十郎は甚兵衛の案内で幕府として第6回目となる大和川付け替え検分を実施しました。翌5月には
若年寄・稲垣対馬守重富、大目付・安藤筑後守重玄、勘定奉行・荻原近江守重秀の一行が検分を行います。萬年長
十郎と荻原重秀は、1674(延宝2)年10月26日、共に幕府・御勘定に就いています。今日風に言えば、同期任官の財
務官僚仲間というところですが、その後重秀は度々禄高を加増されて出世
し、ついには勘定奉行にまでなりました。
 検分の後、改めて甚兵衛たちの付け替え案を吟味した幕府は、ついに
1703(元禄16)年10月、大和川の付け替
え」を決定します。なんと、そのたった4か月後の
1704(元禄17年)2月には、堺の川口予定地から工事が開始さ
れているのです。現代のように通信・輸送の手段が発達していない時代に、驚くべき勢いで事業が開始されたこと
が伺えます。
 幕府のこの付け替え決定の背景は、やはり経済的要素、早く言えば損得勘定ということでしょう。決定から5年
前の元禄
11年、河村瑞賢(翌年82歳で没)が手掛けて木津川川口(現大阪市)開削の工事が行われ川口周辺の大阪湾
O「新大和川付替起点」記念碑
 O「新大和川付替起
    点」記念碑
    新大和橋南詰に
   建てられた。
  2011(平成23)年3月
岸に約450(約450ha)に及ぶ12新田の開発が進められました「川口新開」と呼ばれる事業です。新田開発は町人請負で行われ幕府は
2万両余りの土地代金を徴収することができました。そして、検地後の新田は約4千石に及ぶものとなったのです。この結果から元禄期の
財政悪化に悩む幕府が“新田開発のうま味
を学習したことは、想像に難くありません。他に、堀江川(大阪市)の開削による33(約33ha)
の新地開発などもありま
した。これらの町人請負による新田開発の実績は、当然のこと、大坂で代官に就いていた萬年長十郎から同期仲間
である勘定奉行の荻原重秀に親しく上申されたことでしょう。勘定奉行は、現在で例えれば財務大臣に当たる役どころです。
驚異的なスピード工事
 工事は、幕府が費用を負担する公儀普請
(こうぎぶしん)として行われました。およそ半分が幕府の直轄工事で、残りは御手伝普請として、播磨
(はりま)国姫路藩が工事の助成を命じられました。しかし、藩主の本多忠国が工事開始直後の3月に急死したため、代わりに和泉(いずみ)国岸和田
藩・摂津国三田
(さんだ)藩・播磨国明石(あかし)藩の3藩に、担当区域を分けて御手伝普請が命じられました。各藩は直ちに工事に取り掛かりまし
た。姫路藩に代わってすぐに工事を担当できる適当な藩が近隣に見当たらなかったのか、3つの近隣の藩に分けて工事が命
じられています。
要するに、藩の財力の問題です。3つの藩の石高を合計すると、姫路藩の石高とほぼ同じでした。大和川本流の造成工事とは別に、大和国
高取
(たかとり)藩と丹波国柏原(かいばら)藩にも付帯工事が命じられています。御手伝普請を命じられた大名は、工事費用もかなりの割合の負担を強
いられました。
      (※「○○藩」の呼称は、現在は一般的な歴史用語として広く使用されているが、公式な名称として使用されたのは明治に
                なってからである。ここでは、わかりやすいように一般用語として使用している。)
  岸和田藩(岡部長泰)……  53,000石
  
三 田 藩
(九鬼隆久)……   36,000石
  明 石 藩(松平直常)……  60,000石
  姫 路 藩(本多忠国)…… 150,000石
工事の各分担区間の長さは次の通りです。

《 公儀普請(幕府) 》…………5.7km
《 御手伝普請普請(大名) 》…8.6km

   岸和田藩(大阪府)……2.5km
   
三田藩(兵庫県)………2.5km
   明石藩(兵庫県)………2.5km
   姫路藩(兵庫県)………1.1km

 工事の多くは、地面を掘るのではなく、平
地に土を積み上げて固め堤防を築いていくと
いうものでした。切り替え地点から河口まで
の河床の勾配を計算すると、半分以上は掘ら
ないで、むしろ盛り土をする必要があったの
です。この勾配に関しては、綿密な調査によ
る設計図面が残されています。
 全体的には掘る工事よりもしやすかったの
ですが、上町台地南部
(J図)では台地をかな
大和川付け替え工事の分担区分概略図
P 付け替え工事の分担区分
  P 付け替え工事の分担区分    『4年・社会 わたしたちのくらし』(藤井寺市教育委員会)掲載地図に基づく
       一部改変加工。模式図なので、川幅は実際の縮尺とは異なる。角度・距離も適宜改変している。
    新大和川建設に直接関わらない付帯工事の一部は省略している。
り掘らなければならない難工事となりました。わずか540mほどの区間を掘り進むのに、工事全体に要した延べ人数の半分近くを投入する
結果となったのです。ちなみに、幕府が担当した工事区間はほとんどが平地で、盛り土による築堤工事の部分でした。『大和川付替えと流
域環境の変遷』によると、盛り土工事と掘削工事の長さや比率、作業人員は次のようになっています。
  《 総工事区間…14.3km 延べ人員数…245万人 》  盛り土部分 …
8.8km (62%)     延べ  98万人 (43%)
                            掘削部分 5.5km (38%)    延べ 147万人 (57%)
 なお、P図にあるように、新大和川本体とは別に、いくつかの付帯工事が行われています。付帯工事の中心は「落堀川
(おちぼりがわ)の開削
で、それに伴う川の切り替え工事として、西除川と大乗川の切り替え工事が行われています。
 それぞれの藩は、他の藩の工事よりも遅れてはならじと、互いに競うように工事の進行を急ぎました。当初3年ほどを見込まれていた工
事でしたが、驚異的なスピードで進んだ結果、わずか8ヵ月で新川が完成
しています。
1704年(宝永元年)10月13日、旧大和川の堤防を切り
崩して流れを新川に切り替える工事が行われ、ここに、「新大和川」が誕生したのでした。新しく造られた川は次のようなものでした。
    
◆川の長さ 約14.3km(切り替え点から当時の河口まで)    ◆川の幅 100(約180m)
    
堤防の高さ 約5m
(台地を掘り込んだ部分は、堤防は造られていない。)
 完成当時の新川は約14.3kmの長さでしたが、後の時代の海の埋め立てによって、図Jのように河口の位置が4kmほど海側に移りまし
た。付け替えの起点となった、石川との合流点の堤防には、河口から
18.2kmの地点を示す写真21)の「大和川距離標」が存在します。
技術的工夫と付帯工事−大和川付け替え工事の心髄
 初めて「大和川の付け替え」のことを読まれた方は、「どうして?」と疑問に思われたことでしょう。せっかく大工事を行って川を造る
のに、どうして真っ直ぐな川にしなかったのだろうかと。もっともな疑問です。私も調査・研究を始めた当初は大いに疑問でした。旧大和
川流域の洪水をなくすためのバイパス放水路としての新大和川です。ならば、真っ直ぐ大阪湾に流出させる川の方が良いはずでは、と思う
のが普通です。P図でわかるように、西の方の下流部分では、不自然に屈曲した部分さえあります。中央部から東の部分でも、カーブを描
く形になっています。いったい、こんな人工の川を造った理由は何なのでしょうか。
 実は、この新大和川の流路の形には、新大和川建設のために綿密な地形調査を実施し、地形と水の流れと工事の方法を考え抜いた人々の
土木技術が結集されているのです。今日のように、様々な大型重機が使える時代なら、もう少し違う流路で設計されたかも知れません。し
かし、人力に頼って進める工事では、それに見合う工法でしか流路の設計はできませんでした。それでも、この流路の決定と実施された工
事の過程には、様々な技術的工夫の跡が見られます。その内容の詳細は多岐に渡り少々煩雑にもなるので、このページでは敢えて省略させ
ていただき、他のサイトに譲りますが、ポイントとして次のような点が挙げられます。
@ 切り替え地点から河口となる海岸までの地形は1枚の平面地形ではなく、必ず低地性の台地部分を通過しなければならない。L図の等
 高線図でわかるように、石川との合流点から真っ直ぐ西へ向かうと、台地部分にぶつかります。ここに川を造ろうとすれば、当然掘って
 造る掘削工事が多くなります。費用と時間が増えることは必至です。そこで、南から張り出している台地の北縁に沿わせるように、新大
 和川を少し北寄りに曲げました。P図の
地点付近から北寄りにカーブしているのがそれです。15m等高線に接している大堀辺りでは、
 新大和川の南岸には堤防が築かれていません。むしろ少し掘り込んでいます。北岸には盛り土で堤防が造られています。この部分のカー
 ブについては、「太田の千両曲がり」と称されるまことしやかな伝説も残されています。潰れ地となることを嫌がった村が役人に賄賂を
 渡して流路を曲げてもらった、という話です。太田とは地点の北に接する村の名前です。単なるうわさ話の域を出ませんが、曲がりの
 不自然さを理解しにくいことから、後年になって創作された話ではないかと思われます。
  新川はこのまま西方へ進んで行ってもいいように思われますが、
地点付近で急に南へカーブします。別の理由がありました。
A 依羅
(よさみ)池と浅香山の谷を利用しようとした。J図に依羅池」が見えます。この池を新川流路の一部に利用し、残った池の部分は、
 掘削工事で出た土の捨て場に利用したと伝えられています。しかし、地点から南へカーブして行くと、まともに台地部分を掘削しなけ
 ればならなくなります
(I図・L図)。掘削工事区間を減らすことが必要なら、地点からそのまま西へ進む方が良いはずです。
  そこには、もう一の別の理由がありました。新大和川と浅香山と呼ばれる低い丘陵地形の間にある谷筋地形を落堀川の一部として利用
 していることです。次の
Bの内容とも連動しますが、落堀川を一旦南に曲げて地点から再び北へ曲げるようにしています。この落堀川
 の曲がりに合わせて本流の新大和川も曲げたと思われます。なぜ落堀川に合わせて本流を曲げる必要があったのか。それは、落堀川の流
 れを大和川本流に流入させる時に、増水時の逆流を防ぐために、わざわざカーブの部分で曲がりの外側から流入させるようにした、とい
 うことです。このカーブの構造を設計するのに、この地形の部分が適していると判断されたものと思われます。台地部分の掘削工事が必
 要となることを承知で選択したわけです。ただし、実際の工事では既述の通り、固い台地の地盤を掘削するのに苦労しており、予定外に
 多くの人員を投入する結果となっています。台地の掘削工事に苦労していますが、それでも、落堀川を大和川本流にどのように流入させ
 るのか、ということは重要なポイントだったのです。かつて、幕府が一度付け替えを決定して杭打ちまで済ませたことがありましたが、
 その時の予定流路は、もっと北の方の天王寺村付近を通るルートでした。
B 大和川をこのような流路に付け替える上で、地形と水の流れに関して最も懸念されたのは、東除川・西除川・大乗川などのように、南
 の方から北へ流れ下って来る水の流れであった。
南から流れて来た川の水は新大和川の堤防で遮られてしまい、そこに溜まってしまうこ
 とになります。直接新大和川に流入させる形にすると、大和川の増水時には本流の水勢に押されて流入できず、逆流してしまうのです。
 そこで、付帯工事として「落堀川」の開削が行われました。既存の川と落堀川と
 の関係を概略的に表したのがP図です。また、Q図は落堀川と水の流れ を示し
 た模式図です。          アイコン・指さしマーク「落堀川−藤井寺市の川と池」
  実際には3つの小河川だけではなく、多くの水路から落堀川に流入して行きま
 す。それらの水を集めて、Aで述べたように地点曲がりの所で大和川に流入さ
 せるという配水対策を施したのです。
  P図でわかるように、東除川は直接大和川に流入させるようになっています。
 @で述べたように、この部分は南岸が台地部分で高いので、もともと東除川は高
 い位置を流れていました。そこで、落堀川とは合流させずにそのまま大和川に流
 入させたのです。落堀川は東除川と交叉することに
なりますが、この部分では、落
 Q          落堀川の模式図
Q 落堀川の模式図
 堀川が東除川の下をくぐるという立体交差の構造で造られました。「伏越樋(ふせこしひ)」と言われる技術が用いられています。水の流れと
 地形の関係を調べ抜いて考え出された設計だったのでしょう。ただ、そのままでは増水時の落堀川の流れがうまくいかなくて、たびたび
 あふれ出る事態となり、ついには下をくぐる伏越樋が壊れてしまいました。その後、J図のような形に改修されています。東除川を落堀
 川と合流させて大和川に流入させるよう改修されました。その結果、落堀川は一旦この部分で切れた形になり、ここから西の落堀川の水
 は浅香の地点で流入しました。改修はされましたが、それでも大増水の時には逆流が起きて、落堀川や東除川の氾濫する事態が現代
 まで続きました。現在は東除川の新しい放水路が造られ、また、藤井寺市内に2ヵ所、下流側の松原市・堺市に各1ヵ所の排水ポンプ場
 が建設されるなど、対策が進んでいます。                 アイコン・指さしマーク「小山雨水ポンプ場・北條雨水ポンプ場」
 @ABで紹介したように、新大和川の流路を敢えて曲げたことや、落堀川開削の工事を加えたことの中には、付け替え工事における技術
的工夫がたくさん詰まっています。一見すると「変な形の川!」と思ってしまう新大和川の形の中にこそ、工事の真髄があったのです。
土と水に頼って生きる農民の知恵
 以上のような技術的な対応策や設計上の工夫は、現代の私たちが想像する以上に綿密で優れたものであったと言ってよいでしょう。付け
替え推進運動の中心となった中甚兵衛の子孫である中家には、大和川の付け替えに関する膨大な文書が残されています。それらの中には、
実に多くの手間を掛けた綿密な調査記録や、新大和川の流路予定地に関する正確な測量図、細かい計算を経て作成された勾配図など、現代
にあっても専門家でなければ製作は困難と思われるものが多数存在します。当時の農民層が持っていた治水・土木の知識や技術の水準には
驚かされます。もともと何よりも用水が重要なものであった稲作農民にとっては、安定した用水確保のための治水の知識や土木技術は、必
須のものであったことでしょう。行政・司法の官僚として奉行所に勤める幕府役人よりは、こと治水・土木に関しては農民層の方が上まわ
っていたのではないかと思われます。
 明治政府以来、徳川支配の江戸時代をことさら遅れた時代だったとイメージ化させようとする日本史教育が続いていました。私の中にも
小学生以来のそのようなイメージがけっこう出来上がっていました。しかし、実際の江戸時代の文化・学術の水準は、私の想像を遙かに超
える高いものでした。近年、江戸時代の暮らしや文化についての関心が高まり、江戸時代そのものの見方、捉え方を見直そうとする動きも
盛んになってきました。江戸時代の庶民の識字率の高さは、世界的に見ても相当高いものであったことが知られています。寺子屋の普及率
もかなりのものでした。それらがあってこそ、明治に入ってからの急速な近代化や西洋文化の受容が可能であったのです。決して、明治期
になったとたんに近代的進歩が始まったわけではありません。私たちは、先人達の残した歴史をもう少しつぶさに知る必要
がありそうです。
新しい大和川ができて
 新しい大和川ができたことで、奈良盆地から流れて来た大和川の
水の大部分は、直接大阪湾へ流れて行きました。甚兵衛たちが願っ
たように、旧大和川流域での今までのような洪水はなく
なりました。
 旧川筋には、川跡の中央部分に農業用水を送るための水路が残さ
れ、他の部分は埋め立てられて農地にされました。深野池や新開池
も埋め立てられて、川跡の土地とともに新田として開発されていき
ました。新川の川床となったつぶれ地は
全村で約270haに上りま
したが
川跡や池跡で新たに開発された新田の総面積は、約1,050
ha
にもなりました幕府が重視したと思われる付け替えのメリット、
農地の増大ということは、みごとに実現したわけです。
 新田の開発は、町人請負、寺院請負、農民寄合請負などによって
進められましたが、中でも規模の大きかったのが大坂の大商人によ
る町人請負で、当時の新田の名前がそれを物語っています。鴻池
(こう
のいけ)
、菱屋、天王寺屋、河内屋、布屋などがあり、現在の地名に残
るものもあります。大坂の大商人たちにとって、新田開発への投資
は利幅が小さく回収への年数もかかるものでしたが、大名貸しで貸
し倒れのリスクを負うよりは安定性のあるものだったようです。
 新田地名のうち、現在の地名でその名が残っているのは、次のよ
うな所です。
八 尾 市《二俣・柏村・山本・天王寺屋・安中》
東大阪市《金岡・吉松・菱屋西・新喜多・菱屋東・川中・鴻池・
      箕輪・三島》
大 東 市《御供田・深野南・深野・深野北・三箇・灰塚》
 かつては大字
(おおあざ)を形成していたそれぞれの新田は、戦後の急速
な人口増加による市街化で、次第に地図上で見える旧大字地区の形
がわかりにくくなってきました。それでも、現在の市街地図の中で
旧大和川跡地の形状のわかる地域があちこちにあります。地名は変
わっていても旧川跡の形がよくわかる所、新田地名は残っているも
旧大和川筋で開発された新田
R 旧大和川の跡に開発された新田の分布
 R 旧大和川の跡に開発された新田の分布  各新田名は後ろに「新田」
       が付き
、「○○新田」という名称になる。地図内では省略した。
 《参考図》◇大和川河川事務所サイト『大和川つけかえ300周年』「大和川の付替え」
      ◇    〃      
『大和川について』「わたしたちの大和川2016」
      ◇
『国史跡・重要文化財 鴻池新田会所』サイト「鴻池新田会所のあらまし」 他
のの旧川跡の形がくずれてしまっている所など、地域によって新田跡地の現状は様々です。

 大和川の付け替えが残したもの
 「大和川の洪水を防ぐ」という付け替えの最大目的は達成されましたが、大和川という大きな川の流れを変えたことで、付け替えの後、
様々な問題が起こりました。中には
、300年後の今でも続いている問題もあるのです。これらの問題のほとんどは、かつて付け替えに反対
した村々の農民たちが嘆願書の中で反対の理由として指摘をしていたことでした。付け替えの後に、次々と現実のものとなっていったので
す。もともと反対派の農民たちが指摘していたこと
は、川の実態や農業水利、地形
(土地の高低)などに
基づいて予測され、相当高い合理性を持つものだっ
たのです。代表的な例を挙げておきます。

@ 新川が予定されている所に造られると、多くの
 土地がつぶれ地となってしまい、田畑を失う農民
 は生活に困窮することになる。

  余りにも自明の指摘であるが、嘆願書ではまっ
 先に書かれている訴えである。農民たちが、何よ
 りも困ること、避けたいことで、付け替え反対の
 理由は本来この一点だと言ってもよいぐらいであ
 る。他の訴えの内容は、言わば幕府に付け替えの
 決定を躊躇させるための材料として、練りに練っ
 て書き並べた究極の知恵でもある。
  付け替え後、つぶれ地の代替地として別の土地
 を与えられた農民も多かったが、決して埋め合わ
 せになったとは言えない結果だったようである。
 もらった代替地の土質が失った良田に比べて悪か
 ったり、かなり離れた場所に代替地を与えられた
 りして苦労した農民も多く、没落したいった者も
 少なくなかった。
S 新大和川切り替え点と旧大和川跡地(南東より)
 S 新大和川切り替え点と旧大和川跡地(南東より) (GoogleEarth 2017年5月18日)より
    切り替え点となる大和川流路の折り曲げ地点には頂点部分ができた。「築留
(つきどめ)」と
   呼ばれる。  
鳥瞰図的な視角になるように、写真に傾斜を付けている。
  右の表は、新大和川の造成によって生じた
 潰れ地のうち、藤井寺市域の村についての記
 録である。下方にある 24)図と比べて見ると
 わかりやすい。現在の藤井寺市域全体での潰
 れ地は、実に約
43haにも及んでいる。これ
 は阪神甲子園球場の約11個分に相当する。
 藤井寺市辺りの平均的な面積の小学校なら、
 
約27,8校分の広さである。この数値は、農
 地を基盤とする稲作で成り立っていた当時の
 村々の生産活動や暮らしにとっては、大変大
 きな負担を強いるものだった。特に、北條村
 ・大井村・小山村などの一帯は、古代条理が
 残る優良で安定した水田地帯
だったのである。
新大和川造成に伴う潰れ地
郡 名 村 名 潰 れ 地 反 別 (u) 潰れ地石高(石)
志 紀 船 橋   4 3 4 3   43,050 (≒4.3ha) 61.432
北 條   9 6 9 6.5   96,119 (≒9.6ha) 165.859
大 井  14 0 922  139,808 (≒14ha) 237.596
小 山  13 5 713  134,621 (≒13.5ha) 170.290
丹 北 小 山   0 4 028     4,059 (≒0.4ha) 5.924
津 堂   0 8 912     8,062 (≒0.8ha) 12.678
    『河内木綿と大和川』(山口之夫著 清文堂出版 2007年)「新大和川付替にともなう潰地」表より抜粋
  『河内木綿と大和川』に掲載された潰れ地の表では、付帯工事分も含めてすべての該当する村が一覧となっている。藤井寺市域以外で
 潰れ地の多
かった村としては、東瓜破(うりわり)村(24.3ha 現大阪市)・城蓮寺村(24ha 現松原市)・杉本村(14.6ha 現大阪市)・丹北太田村
 (13.5ha
現八尾市)・若林村(12.6ha 現八尾市・松原市)などが挙げられる。一方、石高で見ると、丹北太田村は付け替え以前の石高の約
 
60%近くが潰れ地で減少した計算となる。北條村は約55船橋村は約47%で、村の石高のおよそ半分を失ったことになる。22)図で
 わかるように、北條村はもともと村域が狭い村であった。そこに幅
200m近い川が造られたのである。当時は現在の市域境界よりももっ
 と北に村の境界があり、村域の半分近くが潰れ地となっている。隣接する船橋村も同じような状況であった。
A 造られる新川は西へまっすぐ流すので、増水時には水勢が強くなり、堤防の決壊が起きやすくなる。
 そうなると、土地の低い川の北側は多くの村が水害を受けることになる。
  今まで大きな川が無いので洪水の害も無くて済んでいた地域が、新たな害を持ち込まれることになる
 という不安であり、当然避けたいことである。実は、この新大和川でも心配された通り度々洪水が起き
 ている。幕末には大和橋
(紀州街道・現堺市)の上流付近で北岸の堤防が決壊し、30戸流失の被害が出て
 いる。明治期以降も何度か洪水があり、大きな被害を受けている。まさに、新大和川ができたことで発
 生した、新たな持ち込み災害であった。
B もともと土地の北側が低くて、水が南から北に向かって流れる所に横向きの川(横川と言う)を造るの
 で、従来から北へ流れていた水路が新川の堤防でさえぎられ、新川の南側では大雨の時に水が溜まりや
 すくなる。
  新川は平地に堤防を築いて流すというものだったので、南から流れてる水路の水を新川に落とし込む
 ことが難しい。増水時には新川の水勢が強いために逆流して、新川の南側一帯が水びたしとなる恐れが
 ある。この点については幕府も問題を認識しており、既述の通り、対策の付帯工事として、南側堤防の
21) 大和川距離標
 21) 大和川距離標
    河口から18.2km地点。
 下に「落堀川」という排水路を造る工事を行っている(Q図)。しかし、元々の土地の勾配に直交する横川あるために、落堀川の流れには
 問題があり、新大和川に流入させにくいという難点は続いた。そのため、大雨が続いた時には落堀川周辺のあちこちで田畑や家屋の浸水
 が起き、それは現代に至るまで続いてきた。                    アイコン・指さしマーク「藤井寺市の災害−過去の記録」
  1980年代から、落堀川から大和川へ流入しやすくする放水路を新設したり、雨水ポンプ場を建設して増水時に強制排水したりすること
 が取り組まれてきた。藤井寺市内には2か所のポンプ場が造られている。この対策によって、ようやく落堀川による浸水は減少してきた
 のである。
C 従来南から流れて来ていた用水路が新川で切られてしまうので、新川の北側の土地では水不足が起きやすくなる。
  図Jのように、西除川・東除川をはじめ何本もの用水路が北へ向かって流れていたが、すべて新川によって切られてしまうことになっ
 た。新川の北岸にも多くの樋
(取水門)が設けられたが、新川以北の西除川・東除川などは従来の規模が維持されず、取り入れられる水量
 は減ってしまった。また、旧大和川筋に残された用水路も、水量が以前ほどはなく、小雨の年には水不足に苦しむこととなった。付け替
 え後も旧流域の水田面積は減ったわけではなく、むしろ新田ができたことで必要とする用水量は増えることとなる。
  現在の八尾市にあったある村では、『水不足に苦しむ村人の窮状を見かねた庄屋が、独断で水門を造り導水して村を救い、自らはその
 責めを負って大坂城内で処刑された。』という出来事が伝えられている。人々はその恩を忘れず、とむらいの念仏踊りを永く伝えてきた
 と言われる。旧流域での水不足を象徴する出来事であろう。
D 新川は西へまっすぐ流そうとするために、土地の高い台地部分を通すことになり、工事の困難さが予想される。
  既述している通り、新川を西へ流そうとすれば必ず台地部分を通すことになる。上町台地の南の方(遠里小野台地)を掘って川を通して
 いるが、6mほどの深さを
540mに渡って掘り進むのに、思わぬ苦労をしている。予想以上に固い地盤であったために、予定外に大量の
 人手を投入しなければならなかった。それは、当然のこととして、工事費用
(多くは人件費)の大幅な増加をもたらした。
E 旧大和川筋の川跡や池跡にできる新田は、新川によるつぶれ地よ
 りも広い面積であるが、川や池の跡地であるために砂地であり、農
 地としては質の良くない土地である。

 
水田利用はしにくい土地
  農民の経験則から当然予想されるマイナス面である。新川でつぶ
 れ地となった地域は、古代条理が多く残る比較的良質で安定した農
 耕地域であった。それに対して、新たにできる新田は水田として利
 用するのに適していない土地なのである。土質だけではない。もと
 もとが天井川だった所は土地が高く、用水から水を落とし入れて引
 くことが難しい。新田で水田として利用できたのは、条件の合う限
 られた場所だったのである。
  天井川跡にできた新田は今でも一部が農地として利用されている
 が、そのほとんどが畑として耕作され、水田はほとんど無い。大都
 市圏なので近郊野菜栽培が多いということもあるが、米作が安定収
 入となっていた時代でも畑が多かったのは、やはり水利の問題が大
 きい。旧川跡に残された水路の流れも新田農地よりも低く、現在の
 畑作では電動ポンプによる汲み上げで利用されている。昔は畑地の
 あちこちに井戸が掘られていて、
4,50年ほど前までは、はねつる
 べが立っている井戸をあちこちで見ることができた。
  現在の柏原市にあった市村
(いちむら)新田に残る史料には 、付け替
 え4年後の頃の新田の土質が記録されている。全体の約半分が下畑
 で、2割が下々畑、中畑が3割弱、という内訳である。上畑はほん
 の数%で、実に7割が下畑以下の土地だったことになる。安定した
 農作ができるまでには、相当の年月が要されたであろう。
 畑として利用−木綿と菜種
  予想された通り土質の良くない新田であったが、このことが後に
 思わぬ展開を示すことになる。水田としての役には立たなかった新
 田が、江戸期の後半になって大いに利用されていくことになった。
  消費経済が農村にも入り込み出したことで、商品作物
(換金作物)
22) 昔の空中写真で見る旧大和川の跡
 22) 昔の空中写真で見る旧大和川の跡  旧川の跡地は畑に利用され
    たため、周囲の水田地帯と色合いが異なり区別しやすい。
     また、地割りも旧川の中央線に直交する形になっていて、周囲の
    条里制地割りと異なる。
〈米軍撮影 1947(昭和22)年9月23日〉より
 の栽培が急速に拡大していくことになる。河内では綿花の栽培が急速に広がって行ったが、その綿畑にいち早く利用されたのが川跡の新
 田であった。水田には向かないが、水はけの良い砂質の土地は綿の栽培には大いに利用できたのである。

  綿作り自体はそれまでにも行われていたが、大坂商人が綿花栽培に投資したこともあって、河内地域での綿花栽培は大変盛んになって
 いった。大坂近郊には綿花の集積地もでき、後に工場制手工業による綿織物産業へと発展していくことになる。一時は、旧来からの水田
 さえ綿花栽培に転作して増産されるなど、大変な勢いで拡大して行った。明治以降に大阪で綿工業が発達していく下地がこの頃にできた
 と言える。この頃河内地域で生産された木綿生地は「河内木綿」として知られ、大坂商人によって全国に流通して行ったのである。
  一方、同じ河内地域でも北河内と言われる深野池があった辺りは、もともと湖沼ができていた低地で、湿地帯も多かった。この一帯で
 は綿花栽培は多くはなく、商品作物の中でも菜種の栽培が広がっていった。菜種油も当時消費が拡大していた流通作物で、これも大坂商
 人が関与することで生産が拡大していった。この一帯では、春になると一面菜の花という光景があちこちで見られたそうである。綿花と
 菜種の栽培は、場所によってその生産の比率は異なるが、江戸期の後半に河内地方の農村経済を支え、大阪の発展に大きく貢献したのは
 間違いのないところであろう。洪水の心配が無くなって、安定して農作ができる土地に変わり、増えた新田に合う作物が流通する社会的
 変化があり、これらが同時期にかみ合って起きた歴史の巡り合わせと言えようか。
 近代化の中での利用−鉄道・工場・住宅・学校などへ
  さらには、明治以降の近代から現代に至って、この新田の土地はまた新たな役割を担っていくこととなる。天井川の跡地であったこと
 がメリットに作用したとも言える。
  まずは、鉄道の建設に当たって、旧川跡地が利用されることになる。現在のJR関西本線である。昔から集落がある所や良田を潰さな
 ければならないような場所には鉄道は造れない。川跡の新田はもとから土地が高く、鉄道の道床として盛り土をする必要が無い。新田で
 あったので集落は無く、すぐに転用ができる。まことに都合が良かったと言えよう。後に現在の近鉄大阪線の一部分も川跡の土地を利用
 して通している。なお、大阪市・天王寺駅を起点とする関西本線は、当初の開業は大阪鉄道
(初代)によるものであった。
  鉄道ができると、その輸送力を必要とする工場の建設にもちょうどよい土地であった。畑地であったので建物を造るのにも都合良く、
 農地としての価値からも取得しやすい土地であった。川の跡と言っても元の川幅は相当広く、現在の柏原市の最も川幅が広かった部分は

 400mほどもあった。工場用地としては十分な面積が確保できたのである。
  次いで、大阪市とその周辺で人口が増え出すと住宅の需要が高まり、電鉄会社などがいち早くこの新田の土地を利用して住宅地開発を
 行っていく。大阪市につながる鉄道の沿線で、しかも土地が高くて水害の心配のない高級住宅地として、各地に新しい住宅街が誕生した
 のである。かつて農民たちが質の悪い土地として避けたかった川跡新田の何という変わり様であろうか。歴史がもたらす皮肉な結果でも
 ある。
  住宅地が増え人口が増加したことで、今度は学校の建設が必要となってきた。昭和
30年代からの人口急増で大阪市の衛星都市となって
 行った旧大和川流域の都市では、次々と学校新設が必要となり、その内のかなりの数が川跡新田の土地を利用して建てられた。現在の市
 街地図を見ても、川跡の場所に公立・私立の学校がかなり存在することがわかる。
 珍しい川跡地利用の例
  川跡地を利用してできた施設や建物の変わり種の例を一つ紹介しておくと、映画
 撮影所が挙げられる。久宝寺川
(現長瀬川)跡地にできた菱屋西新田の一部を利用し
 て1928(昭和3)年11月に開設された
、「帝国キネマ長瀬撮影所」である。当時の菱屋
 西地区は、大阪電気軌道
(現近鉄大阪線)の長瀬駅に近いこともあって住宅地化が始
 まっていたが、周辺一帯はまだまだ田園風景の広がる所であった。その中に約
3ha
 の敷地を確保して、2棟の大型ステージ棟を中心とする近代的な撮影所が建てられ
 た。当時は“東洋のハリウッド”とも称せられたそうで、世間の注目度が察せられ
 る。ところが残念なことに、早くも昭和5年9月30日に火災で全焼
してしまい、撮影
 所は京都市の太秦
(うずまさ)に移転して撮影所が再建されることはなかった。昭和14
 年、跡地の一部に学校法人樟蔭学園の創始者・森平蔵の私邸が建てられ、戦後に学
 校法人に寄付された。現在建物は
「樟徳館」の名称で樟蔭女子大学の施設として使用
 されているが、主屋をはじめ6件の建造物が登録有形文化財の指定を受けている。
 樟徳館の現在の所在地は、「東大阪市菱屋西
2丁目4番12号」である。
23) 帝国キネマ長瀬撮影所と久宝寺川跡地の様子
 23) 帝国キネマ長瀬撮影所と久宝寺川跡地の様子
     (南西より)       1928年頃の撮影
   (2013年11月朝日新聞掲載) 
文字入れ等一部加工
  写真 23)は、撮影所ができた当時に朝日新聞社が撮影したものであるが、一般住宅しか建っていない中、大型の撮影所の建物はさぞか
 し目立ったことであろう。撮影所敷地の南端
(写真で左端)は段差になっている。これは天井川地形がはっきりとした形で残っている場所
 である。川跡地の南側は写真では一面の田んぼであるが、現在は完全に市街化して住宅地となっている。しかし、そんな中にあっても、
 天井川地形の段差は今でもはっきりと残っている。段の下一帯は「横沼町」である。

 今も残る天井川の跡

  天井川であった旧大和川、特に現長瀬川と玉串川の大部分は、周辺の土地との段差が大きかったため、新田開発の後も周囲の土地に一
 体化して取り込まれることはほとんど無か
った。また、新田名がそのまま近代以降の大字(おおあざ)名とし転用され、行政区の形としてもほ
 ぼそのまま引き継がれてきた所が多い。その結果、現在の市街地図の行政区分を見ても、簡単に旧川跡新田の地形をた
どることができる。
 また、新田の境界に沿って道路が造られている所も多く、その場合はさらに川跡の形を見つけやすい。一方、もともと低地帯だった深野
 池や新開池の一帯は、都市化が進む中で周囲と一体化して住宅開発されたり施設が建設されたりして、今の地図上では新田跡の形を見取
 るのは難しい。
  長瀬川や玉串川の新田跡の現地へ行くと、天井川の段差の跡を至る所で見つけることができる。高い所では2mほどの段差があり、は
 っきりと周囲の土地から浮き立った地形となっている。川跡を横切って道路が造られた所は傾斜地に変わっているが、よく見るともとも
 と段差のあったことがわかる。写真 23)の場所などは、典型的な段差地形の見られる代表例の一つである。
  かつて多くの村の人々を苦しめた天井川が、川でなくなってから
300年もたった今でも、その天井川地形のゆえに様々に利用されなが
 らも川の形を残している。感慨深いものを感じるが、これも一種の歴史遺産だと言えよう。
F 昔から村があった所に大きな川を造るので、村が2つに分けられてしまい、(農作業などの)生活をしていく上で大変不便なことになる。
  昔からあった大きな川は、たいてい国や郡、村の境となっていた。しかし、村が先にあって、後から川ができる場合は、当然村域は分
 断されることになる。藤井寺市には、新大和川によって村が二分され、川向こうに飛び地ができた場所が2か所ある。現在までその姿は
 引き継がれている。川の付け替え後も橋は造られなかったので、農作業に行くのにもいちいち船を使わなければならなかった。その地の
 農民にとっては、新たに抱え込む大きな負担であ
 った。
  現在でも「分けられた村」の影響が別の形で続
 いている。道明寺小学校の校区は大和川で二分さ
 れていて、川向こうの校区
(川北地区)の児童は通
 学の道のりが長いため、以前は路線バスで、現在
 はスクールバスで通学している。
  藤井寺小学校区にも飛び地の校区
(小山地区)
 あり、この地区の児童は藤井寺市と八尾市との行
 政協定により、八尾市立の小学校に通学すること
 ができる。日常生活にとって、川による隔たりは
 思いのほか大きいのである。
  藤井寺市の北西部に位置していた若林村は、2
 つに分けられた後、近代以降の町村合併で大和川
24) 二つに分けられた村の様子
 24) 2つに分けられた村の様子(藤井寺市を通る大和川)
    青文字が当時の村名・新田名。グレー小文字の地名は、現在のその部分の地区名を表す。
 の北側と南側とで別の市に属することになった。北側は八尾市、南側は松原市である。かつての村の名が両方の地区名に残されている。
G 新川ができる場所には、昔から大坂・摂津・河内と和泉・大和・紀州とをつなぐ主要な街道が南北に通っており、新川はこれらの街道
 を切ってしまうことになって、商売で行き来する人や参詣の旅人に大きな不便を与えてしまう。
  藤井寺市の北東部にあった船橋村は、昔から東
 高野街道が旧大和川を渡河するルートに位置して
 いたが、その他の街道は摂津や河内で大きな川を
 渡ることは無かった。しかし、それらの街道も新
 大和川によって皆切られてしまった。当時の幕府
 の政策と財政事情から、大きな川に架ける橋は必
 要最小限に規制された。新大和川で橋が架けられ
 たのは、大坂と和歌山を結ぶ紀州街道が渡河する
 「大和橋」1つだけであった。紀州徳川家が御三
 家であったことや、高野山信仰や熊野信仰の広が
 りなどもあってか、紀州街道は重要視されていて
 大和橋は公儀橋として幕府が直接管理をした。
  一方、あとの街道については明治時代に入るま
 で橋が架けられることはなく、人々は渡し船を使
 うことを余儀なくされたのだった。
  藤井寺市域に関して挙げると、新大和川北岸の
 柏原村と南岸の船橋村との間に渡し船が運行され
 ていた。享和元年(1801年)刊行の『河内名所圖會
 
(かわちめいしょずえ)』には、その渡し船の渡河の様子を
   25) 河江戸時代絵図に見る新大和川の渡し船(南西より)
   25) 河江戸時代絵図に見る新大和川の渡し船(南西より)
             『河内名所図会』(1801年)「大和川 築留」より(部分切り抜き)
     左右見開きを合成して継ぎ目処理のうえ、かすれ補修や着色、文字入れ等一部加工。
 描いた絵図が掲載されている。 25)図がその部分図であるが、この渡船航路は東高野街道の新しいルートの一部となるものであった。も
 ともと東高野街道は付け替え前の大和川を柏原村付近で渡河していたので、東高野街道の往来については新たな負担となるものではなか
 った。しかし、この規模の川で隔てられてしまった柏原村と船橋村・北條村などとの往来は、大きな不自由を強いられることとなった。
  『河内名所圖會』刊行年から推測すると、25)図の様子は大和川付け替えから
100年近く経った頃を描いていると思われる。北岸の柏
 原村の船着き場を出た渡し船が、今まさに南岸の船橋村を目指して向かう様子である。橋の無い大きい河川では、各地で見られた日常的
 な光景であった。この絵図はかなり細かく描写されていて、北岸の堤防沿いには水勢を弱めて堤防を守るための「水制
」も描かれている。
 「杭出し」と呼ばれる水制の一種であるが、大和川のこの部分では北岸堤防への水流の当たりが強くなるために、かなりの数の杭出しが
 設けられていた様子がわかる。
  水制 … 川岸や堤防から川の中心に向けて突出して設けた構造物。流水を弱め、水制の背後に土砂を沈殿させて護岸
             とし、流水を川岸や堤防に衝突しないように中央に追いやり、川筋を安定させる。杭や木組み、石を詰めた蛇籠などが用いられた。
                                       アイコン・指さしマーク「東高野街道−藤井寺市の昔の街道」
 嘆願書では他にも何箇条かの指摘が書かれていますが、ほとんどが的を射たものと言ってよい内容です。それでも幕府は最終的に付け替
えを決定します。「安定した農作
(安定した年貢収入)を妨げる度重なる洪水を、何としても防がねばならない。」「財政状態の厳しい幕府
としては、大和川治水対策の財政負担を何とか改善したい。」といった治水政策の大義の前には、反対した村々の訴えの多くは、「何とか
なる」程度のものとして処理されたのかも知れません。当時の幕閣の中で、付け替え決定までにどのような審議・検討がなされたかを示す
史料は残っていませんが、その結果から推しはかることはできるでしょう。
予期しなかった事態−砂で埋まる港
 新大和川ができた後、幕府も反対した農民たちも予想しなかったある事態が起きました。しかも、その影響は現在もなお変わらずに続い
ているのです。それを付け加えておきます。
H 新大和川ができてしばらくすると、新大和川の河口となっていた大阪湾で、河口のすぐ南側にあった堺の港の沖に砂がたまり出したの
 です。かつては河内平野に天井川をつくってきた大和川の運ぶ砂が、今度は新しい大和川で直接に大阪湾へ運ばれて来たのです。堺の町
 の人々は、港の沖に砂防堤を造ったりして港を守る努力をしましたが、付け替えから
30年ほどすると、とうとう港は大きな船が出入りす
 ることが難しくなりました。砂はなおもどんどんたまり、ついには今までの港はあきらめて、もっと沖に新しい港を造る築港事業が開始
 されます。砂がたまってできた土地は新田開発が行われ、海側へ土地が広がって行きました。
  堺新港は
1810(文化7)年に完成します。川の付け替えから100年余りが経っていました。幕末には幕府の砲台が港に置かれ、明治維新
 の後には工場や洋式灯台も造られました。そうして堺新港は大阪の産業の発展に貢献し
ますが、昭和30年代からの高度経済成長の流れの
 中で、重化学工業を中心とする臨海工業地帯の建設のために堺港の沖や周辺の海が埋め立てられて行きました。大和川の運ぶ砂で浅くな
 っていた海は、埋め立てをしやすい海でもあったのです。
  昭和
40年代の前半には、さらに新しい堺泉北港が活躍を始めます。かつて新港として造られた堺港は、この時点で「堺旧港と呼ばれ
 る存在に変わりました。しか
し、新しい海岸線から奥まった所で、今でも小さな港として利用されています。明治10年に造られた洋式灯
 台は、我が国で現存する最古の木造洋式灯台として保存されています。
  大和川の運ぶ砂の堆積は今もなお続いており、堺泉北港周辺の水深を保つために、時々海底の浚渫
(しゅんせつ)が行われています。
歴史の流れの中で
 
大和川付け替えの願いが動き出してから実現するまでの約50年間、 新川ができてから今までの約300年間、いろいろな出来事があり、
無数の人々がその影響を受けてきました。広い地域に関わる大規模な公共事業の歴史としては、当然のことでもありましょう。
 この歴史の上に立って今日暮らす我々としては、負の遺産に苦労した多くの人々がいたことを忘れてはいけないでしょう。しかしながら
「洪水を無くす」という大目的が果たされて安定した農作が可能になり、木綿や菜種の生産の増大、安定した米作などが、後の大阪発展の
基礎の1つとなったことも確かなことでしょう。
 今、明らかに言えることとして、次の2点を挙げておきます。まず1つには、もし大和川の付け替えが行われていなければ、江戸期後半
から近代にかけての大阪の発展の歴史は違っていたであろうということです。当然それは現代の大阪の状況にも影響していたこと
でしょう。
もう1つは、現代に至ってから大和川の付け替えを行おうとした場合、その事業はとてつもなく膨大な費用と長い年月を要することになっ
たであろう、ということです。何よりも住民の合意形成、用地買収、立ち退き移転や代替地確保の問題、事業による不利益の補償など、気
の遠くなるような事業になったことでしょう。現実の付け替えがあの短期間で実現したのは、幕藩体制による支配下で、新川用地のほとん
どが農地であったからだと言えるでしょう。現代にあっては、おそらく不可能な事業であると思わざるを得ません。
 藤井寺市北東部の船橋町や北條町は、かつて村であった頃、かなりの土地が大和川の川床にするために潰れ地となりました。北條町の大
和川の河床からは、大量の土器や古代瓦などが出土しています。「船橋遺跡」と呼ばれ、古代寺院の廃寺跡があったことも推定されていま
す。何よりもそこに大昔から村があり人々が住んでいた証であります。
 大和川の堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いを馳せてみるのも、また、一つの歴史の楽しみ方ではな
いでしょうか。

私にとっての「大和川の付け替え」
大和川の付け替え」の教材化
 「大和川の付け替え」については、私の胸中には特別な思いが存在します。と言う
のも、50年近く前の1972(昭和47)年度、私が所属して
いた市の小学校教育研究会社会科部で「大和川の付け替え」の教材化に取り組んだ体験があったからです。教師3年目のまだ新米の頃でし
たが、各校から集まった部員が協同で調査・研究の作業に力を注ぎ、まとまったカリキュラムと学習資料を完成させたことは、今でも貴重
な体験として強く印象に残っています。
 教材化研究の発端は、地区内では藤井寺市が大和川の地元だというので、南河内地区研究会の社会科部会で、大和川付け替えの教材化に
取り組んでほしいと要請が出たことでした。しかも、秋に定例で行われる地区研究会の研究集会で成果を発表するという前提です。「断る
のも何だかなあ…。」ということで、やってみようということになりました。約4ヵ月ほどかけて学習指導計画案や児童用学習資料の製作
に取り組みました。夏休み中に部員が連れ立って府立図書館まで資料収集に出かけたり、現地調査や写真撮影に行ったりしたことが、今で
はよい思い出となっています。また、様々な史料を調べたり現地調査をしたりすることで、知らなかった歴史的事実が少しずつわかってく
る楽しさを実感することができました。それは、私にとって、後に藤井寺市全体を対象としていくことにつながります。
大きな反響−教材化実践の発表
 できあがった指導計画をもとに、私の同僚の一人が実際の授業に取り組む実践を担当してくれました。その実践成果や反省点などをまと
めて、秋の研究集会で代表が発表しました。この研究集会は、お互いの研究成果を自分達の授業実践に生かしていこうという目的があり、
他の市町村、他の学校、他の教師にも取り組んでもらうようアピールすることも必要でした。当時地区で採択されていた教科書には載って
いない教材だったので、発表当日には私たちが製作した児童用学習資料も配付用に用意しました。結果はと言うと、それはもう大変大きな
反響があり、用意した学習資料はまたたく間に消えて行きました。参加していた多くの先生達の反応として、自分達も取り組んでみたいと
いう意思表示が感じられました。予想を超えた反響と高い評価に、社会科部員は大いに勇気づけられ、達成感を抱くことができました。
 この教材は、当時4年の社会科教育課程で提示されていた「先人による地域の開発事例」として取り上げたものでした。使用している教
科書にも開発事例は載っていましたが、それはサンプル教材みたいなもので、大阪府や関西地区という地域とはまったく関係ない地方の事
例でした。そういう背景があったので、地元大阪府の「大和川の付け替え」の教材化が大きな反響を呼んだのでした。
教材化のコンセプトと時代背景
 それまでにも、教科書会社や教材会社が発行する大阪地域学習用の副読本で、「大和川の付け替え」の内容は含まれていましたが、ごく
概略的な内容で、
2,3ページで結果事実を述べるにとどまっていました。私たちが作成した学習計画は、授業時数20時間を超えるもので、
地図や文章資料も何点も使用していました。今から思うと、少々内容を欲張っていたとも思えるのですが、当時の私たちは、いろいろな視
点で考えられるように、というコンセプトで臨んでいました。「特定人物の英雄物語にはしない。当時の人々の思いや願いに着目する。時
代背景も一定程度理解させる。地形と水の流れについて丁寧に扱い、洪水や治水の基本的理解を助ける。洪水をなくすための事業であった
が、反対運動も盛んであったことを取り上げる。川を付け替えたことによる問題点も取り上げ、大きな開発事業がもたらす影響にも気づか
せる。」などを学習展開の軸にして行きました。
 当時の日本社会では、大気汚染や水質汚濁などの公害問題が社会問題となっており、四大公害裁判が注目されていました。産業振興や開
発事業のために、地域住民が被害を受けたり生活を脅かされるという事態が注目を集め、社会がそれを許さなくなってきていました。そう
いった社会情勢を背景として、私たちが取り組んだ「大和川の付け替え」のコンセプトが大きな反響を呼び、受け入れられて行ったと思い
ます。端的に言えば、付け替えを願う人々の動きと同等に付け替え反対の人々のことも取り上げたこと、それが大きく注目された点だった
と思います。それまでの一般的な開発事例の扱い方には無かった視点での取り組みだったからです。
各地で研究発表−教科書への掲載も
 教材化・授業化の研究成果は、その後、大阪府の社会科研究大会、同じく同和教育
(当時)研究大会、大阪教職員組合研究集会などでも発
表しました。要請されればどこへでも出かけて行こう、という基本姿勢を社会科部内で確認していました。そして、社会科研究事例の大阪
代表として、日教組教育研究全国集会に派遣されることになりました。発表に出かけるたびにメンバーは交代しており、日教組教研にも2
人の代表を送りました。1974(昭和49)年1月、山形市で開催された第23次日教組教育研究全国集会が発表の場でした
。ここでも反響は小さく
なく、良い評価を得られました。この時の発表がもとで、その後に私は新しい活動に取り組むことになります。
 山形での教研集会に参加していたある教科書会社が、「大和川の付け替え」の発表に強い関心を示しており、私たちの社会科部会に教材
の教科書への掲載を依頼して来ました。経過は省略しますが、教育委員会の承認を得て掲載を受け入れることになり、社会科部の活動とは
別に3人の代表者で執筆に当たることにしました。2人の先輩部員と共に私もその1人となりました。昭和53年度版の教科書から掲載が始
まりましたが、その後この教科書会社は小学校社会科教科書からは撤退したので、現在は姿を消しています。「大和川の付け替え」の教材
を高く評価してくれた編集部でしたが、一方では、関西、特に大阪府での採択数の増加を目指したてこ入れに、地元の教材を取り上げたか
ったものと思います。教科書と言えども、売れてなんぼの出版業界ですから、編集企画や教材事例の選択は重要な要素でした。
反省点と思い出と…
 今、反省として振り返って見ると、私たちの作成した教材「大和川の付け替え」は、社会科を得意とする或いは研究している教師には評
価が高く、大いに受け入れられましたが、その他の先生達には少々重い教材ではなかったかと思います。実際、4年生の児童にとっては、
少々欲張った内容もあり、消化不良になりやすい要素をはらんでいました。研究してきた立場からの思いが入り過ぎたと反省しています。
 教科書に掲載した内容とほぼ同じものを、市の教育委員会が発行する4年用の社会科学習資料集にも入れました。地図や写真も同じもの
がほとんどで、教科書よりも大判なものを載せました。教科書会社は執筆を引き受ける時に了承済みでした。教科書には載せていない地図
なども使いました。この資料集に使った地図などの図版を基にした図が、今でもあちこちの出版物や
Webサイトなどで見られます。それま
でには、どこにも見られなかった図を私たちが地図や説明図にしてきました。児童に理解させやすくするためです。新大和川の断面図とか
付け替え反対の村の分布図、新川造成工事の分担区分図、台地部分の掘り込み工事区間の拡大図、落堀川と新川の関係を示す断面図など、
私たちの教材によって初めて図化されたものがたくさんあります。図のほとんどは、製図器具を使用して私自身が手描きで製図しました。
 教科書執筆にしても、資料集編集にしても、膨大な時間と手間を費やして取り組みました。今となってはよい体験、よい思い出ですが、
当時を振り返って見ると、少しでも良い教材を提供したい、その一心でエネルギーを注ぐことができたものと思います。

【 参 考 図 書 】 『 大和川付替工事史 』(畑中友次著 大和川付替二百五十年記念顕彰事業委員會 1955年 非売品)
『 治水の誇里 』(大和川付替二百五十年記念顕彰事業委員會 1955年)
『 大和川 』(藤岡謙二カ著 学生社 1972年)
  『 河内名所図会 』(復刻版 柳原書店 1975年) 
『 古代を考える 10 河内国府と国分寺址の検討 』(古代を考える會 1977年)
『 大阪春秋 第12巻 第2号 通巻40号 −大和川とその流域− 』(大阪春秋社 1984年)
『 續大阪平野発達史 』(梶山彦太郎・市原実著 古文物学研究会 1985年)
地域文化誌『まんだ』連載追録 旧吉田川と川中新田(全) 』(中 好幸著 1992年)
『 改流ノート −大和川の付替− 』(中 好幸著 1992年)
『 わたしたちの大和川 』(「わたしたちの大和川研究会・建設省近畿地方建設局大和川工事事務所 1999年)
  
同書については、国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所サイト・「大和川について」内の『わたしたちの大和川』で追補
『 わたしたちの大和川 資料集 』(建設省近畿地方建設局大和川工事事務所 2000年)
  『 甚兵衛と大和川 〜北から西への改流・300年 』(中 九兵衛(本名・中好幸)著 2004年) 
『 生きている大和川 』(特定非営利活動法人 野生生物を調査研究する会 2005年)
『 河内木綿と大和川 』(山口之夫著 清文堂出版 2007年)
ジュニア版 甚兵衛と大和川 』(中 九兵衛著 2007年)
『 大和川付け替え300年 −その歴史と意義を考える− 』(大和川水系ミュージアムネットワーク編 雄山閣 2007年)
『 大和川付替えと流域環境の変遷 』(西田一彦監修 古今書院 2008年)
  『 大和川の歴史 土地に刻まれた記憶 』(安村俊史著 清文堂 2020年)  〈 その他 〉

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