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 蓮 地   藤井寺市道明寺2丁目 近鉄南大阪線・道明寺駅より南西へ約420m
昔は道明寺の門前池
 右の写真が現在の蓮池とその周辺の様子です。2つの池をまとめて「蓮池」と
呼んでいます。普通は「はすいけ」と読みますが、江戸時代の享和元年(1801年)
に刊行された『河内名所図絵』の「道明尼寺」の項では、「…
龍吟池は門前の蓮
(れんち)をいふ。」と書かれています。「れんち」という読み方も使われていた
ようです。なぜこの書物に載っているかと言えば、この蓮池は古刹として知られ
ていた“当時の道明寺”の南大門の前にあった寺池だったからです。つまり、た
め池ではなく、寺の門前池として存在していたわけです。
 もともと、江戸時代まで道明寺の寺領であった旧道明寺村では、国府台地の部
分に小規模な池が造られたほかは、大きなため池はありませんでした。村の東を
流れる石川の水を水源とする用水路が村の中を通っており、大きなため池を必要
としなかったのです。小さな蓮池が現在まで残り続けたのは、その水が必要とさ
れたからではなく、やはり、昔から存在し続けた寺の門前池であったことが大き
な理由でしょう。次の文は、蓮池の前に市が設けた説明板の内容です。
@真上から見た現在の蓮池
  @ 真上から見た現在の蓮池       文字入れ等一部加工
              〔Google Earth 2018年1月31日〕より
『 蓮 池
   古墳時代このあたりの豪族土師氏により、土師神社(現道明寺天満宮)を、又、推古天皇時代聖徳太子により土師寺
    (現道明寺)が建立された。
   古絵図では南大門前、参道に接して左右の2ヶ所の蓮池が描かれており、今では往時を偲ぶ数少ない遺構である。
   この蓮池を地元の要望を受けて門前町等の歴史的雰囲気を活かしつつ、消防水利施設として機能転換を図ったもの
    である。                                            藤井寺市 』
A門前通り両側の蓮池(南より)
A 門前通り両側の蓮池(南より)        2016(平成28)年11月    合成パノラマ
     道路脇に休憩ベンチが設置されている。通りの突き当たりは道明寺天満宮の神門である。
B西側の蓮池(南東角より) C東側の蓮池(南西角より)
B 西側の蓮池(南東角より)  2016年7月 合成パノラマ  C 東側の蓮池(南西角より)  2016年7月 合成パノラマ
消えてしまった道明寺南大門
 寺の門前池であった蓮池ですが、では、その南大門はどこでしょうか。今の蓮池の
周りを見て
も、寺の門らしいものは見当たりません。実は、南大門はかつて蓮池の20
mほど北側にありましたが、今その姿は見られません。重要文化財に指定されていた
南大門でしたが、かなり以前に、門をくぐり抜けようとしたトラックにぶつけられて
倒壊してしまいました。年数を経ていて崩壊もひどく、修復は無理という状態で撤去
されました。
 写真@で「南大門跡」と示された位置の道路に、カラー舗装とブロックで南大門の
柱の位置が表示されています。右の写真Dがそれです。ここからまっすぐ延びる道が
“当時の道明寺”の境内の参道です。正面に見える階段上の門は現在の道明寺天満宮
の神門ですが、“当時の道明寺”では「中門」だった門です。

道明寺」でなくなった道明寺
D昔の道明寺南大門の跡
 D 昔の道明寺南大門の跡    2014(平成26)年2月
   道路は昔の参道。正面の門は現在の道明寺天満宮神門。
 “当時の道明寺”という表記を用いたのは、現在の道明寺とは異なるということを強調したかったのです。
現在の道明寺は、道路をはさんで道明寺天満宮の西側に隣接していますが、“当時の道明寺”とはまったくの
別ものなのです。明治時代の初めまで、道明寺は現在の道明寺天満宮の場所でした。と言うより、天満宮の社
も含めて全体が「道明寺」だったのです。『河内名所図絵』で「道明尼寺」の題で載っていたのもそのためで
す。江戸時代まで広く全国の寺院で見られた神仏習合の形態だったのです。つまり、道明寺というお寺に神社
が同居している形でした。それがどうして今のような道明寺と道明寺天満宮の姿になったのでしょうか。
 詳しくは別のページをご覧いただきたいと思いますが、明治新政府から出されたいわゆる「神仏分離令」に
よって、神仏習合形態だった寺院や神社はそれぞれ神仏の分離を余儀なくされたのです。「神仏分離令」の趣
旨は神社から仏教色を排除することだったのですが、地域によっては寺が廃寺となってしまった所もたくさん
ありました。道明寺の場合は、いくつもあった「院」や「室」の一部がもとの境内を出て新たな場所に「道明
寺」として存続することになりました。もとの道明寺境内は仏教色を排した神社となり、「土師神社」を名の
りました。かつて土師氏の氏神として創建されたときの名前です。
         アイコン・指さしマーク「道明寺−藤井寺市の寺院・神社」     アイコン・指さしマーク「道明寺天満宮−藤井寺市の寺院・神社」

 江戸時代までの道明寺村は村全体が道明寺の寺領でした。あの秀吉や家康でさえ所領安堵(領地の保障)をし
E旧道明寺の南大門
E 旧道明寺の南大門
 『藤井寺市文化財 第6号
  近世の建築』より
てくれた寺院だったのです。それが、神仏分離令に続く「寺社領上知令」によって、寺院と神社の境内地以外の領地は国家に没収されるこ
とになりました。これによる困窮で廃寺となった寺院も多くありました。道明寺も突然の神仏分離や移転、所領没収で、さぞ困惑されたこ
とでしょう。
 一方の土師神社は、国家神道が制度化された明治期から敗戦まで、近代社格制度によって「郷社」の社格を与えられていました。国家神
道が廃せられた戦後は宗教法人として運営され、正式に「道明寺天満宮」の名称となったのは、1952(昭和27)年のことです。
F『河内道明寺絵図(安永2年〈1773年〉)』に描かれた蓮池   G『河内名所図絵(享和元2年〈1801年〉)』に描かれた蓮池
  F『河内道明寺絵図(安永2年〈1773年〉)』に描かれた蓮池
    『藤井寺市史・補遺編付録絵図』より   一部を切り出して加工
G『河内名所図絵(享和元年〈1801年〉)』に描かれた蓮池
   
『河内名所図絵(復刻版)』(柳原書店 1975年)より  一部を切り出して加工
絵図に見る蓮池
 上の写真Fは、安永2年(1773年)に刊行された『河内道明寺絵図』の一部を加工したものです。蓮池には「龍吟池」の名が添えられてい
ます。『河内名所図絵』の記述にもあったように、蓮池は「龍吟池」の名称で知られていたようです。南大門がきちんと描かれており、四
脚門の形がよくわかります。蓮池の南側に東西向きの水路と道路が見えますが、この道路と水路は現在も同じように存在しています。
 写真Gは、享和元年(1801年)刊行の『河内名所図絵』掲載の「道明寺」絵図の一部を加工したものです。Fの絵図よりも蓮池の様子は精
密に描かれていますが、南大門との大きさの比率がFの絵図とはずいぶん違います。Gは実際よりも大きめに描かれており、逆にFは小さ
めに描かれています。池の形はどちらの絵図とも、正方形か東西に長い形で描かれていますが、現在の蓮池は写真でわかる通り、両池とも
南北に長い形です。また、Gでは蓮池の南の水路が道路の南側に描かれていますが、この水路は現在も道路の北側に暗渠となって存在して
います。これはFの方が正しい描写と言えるでしょう。「蓮」がいつ頃まで実際に池で育っていたのかはよくわかりません。

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