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 新地・米口池跡地・升池跡地 藤井寺市藤井寺3丁目 近鉄南大阪線・藤井寺駅より南東へ約700m
もとは3つの池の集まり
 右の写真が現在の新池とその周辺の様子です。現在の新池はクランク状の少
し変わった形をしています。明らかに人工造形の形です。もとはほぼ長方形の
形をしていました。1994(平成6)年に新池の一部を埋め立てて、市立生涯学習
センター「アイセル・シュラホール」が建てられ、残った池の形が現在の姿な
のです。池が小さくなれば当然貯水量は減りますが、この時の埋め立て工事に
合わせて池を掘り下げ、さらに堤の護岸補強整備も行われました。現在の新池
は、農業用水としての役割よりも、降雨時の調整池としての役割の方が大きい
ようです。かつて池の周りは旧藤井寺村の水田が広がる地帯でした。村の用水
として重要な存在だった池ですが、現在周りはほとんどが市街化しており、農
業用水の需要は小さいものとなっています。江戸時代からの旧村・藤井寺村の
領内では唯一残っているため池です。しかも、残っているのは一部分です。
 
シュラホールの完成に先立つこと約30年、1964(昭和39)年には新池の南側に
並らんでいた2つのため池が姿を消して、住宅地と小学校の敷地とになりまし
た。元は3つのため池の集まりだったのです。
  
@現在の新池と米口池・升池の跡地
   @現在の新池と米口池・升池の跡地 文字入れ等一部加工
          〔GoogleEarth 2019(平成31)年3月9日〕より
アイコン・指さしマーク 「アイセル・シュラホール」
A新池の様子(南東角地より)
A新池の様子(南東角地より)

   2019(令和元)年5月  合成パノラマ

 左上に見える建物はアイセル・シュラ
ホール(市立生涯学習センター)。
 右下に見える四角い穴は、暗渠
(あんきょ)
排水路への放水口。降雨時の増水で水面
が一定以上に上がると、この穴から暗渠
の水路に水が流出していく。
 
B新池の様子(西側より)
B新池の様子(西より)

   2020(令和2)年10月  合成パノラマ

 右端に見えるのはアイセル・シュラホ
ールの北側壁面。
 西側(左側)の南北方向地形は、古代に
あった運河
(灌漑説もあり)の「古市大溝
(ふるいちおおみぞ)」の一部と推定されている。
 新池の南側には堤を隔てて、升池米口(こめぐち)池という2つの池が並んで在りました。ほぼ長方形の3つの池が整然と並んでいる様子を
見ると、かなり計画的に造成されたため池であると思われます。写真Cは戦後間もなくの頃の様子です。堤の補修等はあったでしょうが、
明治初めの頃とそんなに違わないと思ってよいでしょう。藤井寺市史第十巻で見られる『地籍集成図』でもその様子がわかります。3つの
池が1つのようにかたまっている姿から、いつの頃からか総称として「三ツ池
(みついけ)と呼ばれるようになりました。新池だけになってか
らも、昔からの言いぐせで「三ツ池」と言う人がいますが、一つの池を総称で呼ぶのはやはり誤りでしょう。
 『藤井寺市史第十巻』に載っている藤井寺村の絵図を見ると、最も古い18世紀中頃の絵図に3つの長方形の池がきちんと並んで描かれ
ています。相当古くから写真Cのような形で存在していたと思われます。市史に掲載の藤井寺村絵図で、個々の池の名前が記入されている
絵図では、「枡池」「込口池」「新池」となっています。このページで使用の「升池・米口池」の表記は、池があった当時に旧美陵町が作
成した地図の表記に倣いました。
C戦後間もなくの三ツ池の様子 D高度経済成長期に入った頃の様子
C 戦後間もなくの三ツ池の様子
    
〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日 国土地理院〕より
                             文字入れ等一部加工
D 高度経済成長期に入った頃の様子
         〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院
〕より
                             文字入れ等一部加工
人口増加と地域の変化
 写真Dは、写真Cの時からちょうど15年後の様子です。日本が高度経済成長期に入り始めた頃です。藤井寺の地にも変化の波は押し寄
せていました。鉢塚古墳と岡ミサンザイ古墳の間の地域に、びっしりと並んだ住宅が見られます。駅近で商店街も近く、格好の住宅用地だ
ったに違いありません。さらに大きな変化は、府道大阪羽曳野線の東側に「日本住宅公団藤井寺団地」が出来たことです。この写真の数年
前から入居が開始されました。ほぼ同じ頃に、岡ミサンザイ古墳の北西側には「住宅公団春日丘団地」も出来ています。また、藤井寺団地
の東側や南側には、大規模な戸建て住宅地が開発されました。三ツ池の周りには次々と住宅地が広がっていったのでした。藤井寺団地はそ
の後建て替え高層化が行われて約半分の土地が民有化され、地区としての名称も「さくら町」に変わりました。公団住宅は、現在は「UR
都市機構・サンヴァリエ藤井寺」となっています。
 写真Eは、写真Dの翌年の様子を撮った鳥瞰写真です。故末永雅雄氏の著書『古墳の航空大観』で、岡ミサンザイ古墳の写真に一緒に写
っていました。藤井寺団地の様子やその向こうに並ぶ住宅地の様子がよくわかります。写真Cの頃からは随分変わってきた感じですが、そ
れでもまだこれは序章に過ぎませんでした。地域はさらに大きな変化を迎えることになります。
 写真Fでは升池と米口池が無くなっています。升池の跡地は住宅地に、米口池の跡地は藤井寺南小学校に変わりました。既述の通り、昭
30年代になって住宅地が急に増え始めますが、それは人口の急増ということでもあります。 戦後ベビーブーム世代で一杯となっていた
小学校は、人口増によってさらに児童数が増加してきました。今の藤井寺市域では明治時代以来ずっと小学校は2校体制を基本としてきま
したが、この昭和
30年代の人口増によって、ついに第三の小学校が必要になってきたのです。こうして、1960(昭和35)年4月に藤井寺小学
校から校区分離した藤井寺南小学校が開校しま
した。開校当初は、鉢塚古墳の北側にあった旧藤井寺中学校の校舎施設(現藤井寺西小学校の
場所)
が仮校舎として使われましたが、新しい校舎施設の建設場所として選定された場所が米口池でした。米口池と同時に升池も埋め立てが
行われ、一度に2つのため池が姿を消していったのです。                    アイコン・指さしマーク「藤井寺南小学校」
E三ツ池の鳥瞰写真 F一つの池となった三ツ池
E 三ツ池の鳥瞰写真     1962(昭和37)年12月3日撮影
    『古墳の航空大観』(末永雅雄著 学生社 1975年)より

                             文字入れ等一部加工
F 一つの池となった三ツ池     文字入れ等一部加工
   升池・米口池が埋め立てられ、新池 は釣り堀に利用された。
         〔1975(昭和50)年1月24日 国土地理院〕より
 1964(昭和39)年10月、米口池の跡地で藤井寺南小学校の第1期工事新校舎が
竣工しました。さっそく使用が開始されますが、それはちょうど東京オリンピ
ックが開催された時でした。以後、第2期、第3期と建設が続き、校舎や体育
館が完成していきました。
 今では藤井寺南小学校も新池も、写真@のようにすっかりと周囲を住宅等に
囲まれています。写真Cの頃に、現在のような三ツ池の姿をどれだけの人が想
像したでしょうか。ため池の姿の変遷が、まさに地域の変貌を象徴していると
言えるのではないでしょうか。
 写真Gは現在の様子を写真Eと比べて見たものです。藤井寺西小学校の記念
航空写真からお借りしました。60年近く経った間にすっかり変わってしまった
ことがよくわかります。池の面積はごく一部を残すだけとなり、あれだけ広が
っていた田畑も、わずかに残っているだけです。探さなければわからないほど
です。かつての田園地帯がみごとに市街化していった、その見本のような変貌
をこの地域は見せています。
G三ツ池跡地の最近の様子
 G 三ツ池跡地の最近の様子(南西より)
      〔藤井寺西小学校創立50周年記念撮影航空写真
        2019年5月14日
〕より     文字入れ等一部加工
H釣り堀に利用されていた頃の新池(西より) I荒れてしまった新池(南より)
H釣り堀に利用されていた頃の新池(西より) 1978(昭和53)年頃
            『カメラ風土記 ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)より
I荒れてしまった新池(南より)      1983(昭和58)年7月
    水質も悪化して釣り堀は廃止された。桟橋は朽ちて崩れている。
 写真Hは、写真Fの2、3年後の様子です。写真Fでもわかりますが、当時
は釣り堀に利用されていました。それが終わる頃の様子だと思われます。新池
の西側から撮ったと思われますが、シュラホールの建っている現在では撮影す
ることの出来ないアングルです。左側に藤井寺南小学校の北館と体育館が見え
ます。
 写真Iはさらに5年ほど経った様子です。当時別の目的で通りがかり、たま
たまついでに撮った写真です。草木は伸び放題となり、釣り用の桟橋は崩れ落
ちて、荒れた様子が見て取れます。整備されてからの写真ABと比べると、そ
の違いが歴然としています。
 右の写真Jは、昭和
40年代の賑わっていた頃の釣り堀の様子です。子ども
れも見られる、のどかで懐かしい風景です。この後、家族レジャーもどんどん
と多様化していきました。
J釣り堀として賑わっていた頃の新池
J釣り堀として賑わっていた頃の新池    昭和40年代
  左後方は住宅公団藤井寺団地    
『藤井寺市勢要覧2016』より

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