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 下谷池・上谷池跡地  藤井寺市岡2丁目 近鉄南大阪線・藤井寺駅より西へ約200m

下谷池の様子(南東側角地より)
             下谷池の様子(南東角地より)       2014(平成26)年4月       合成パノラマ 
唯一残る藤井寺駅周辺の池
 藤井寺駅の北西側、線路に近い所に下谷池はあります。市街化した藤井寺駅
周辺で唯一存在しているため池です。この池の水を使う水田も今ではわずかし
か存在しないと思われますが、調整池や防火用水池としての役目もあるのでし
ょう。この辺りの江戸時代の旧村名は岡村でした。下谷池・上谷池をはじめと
して多くのため池が存在した岡村ですが、今では下谷池が唯一残る池です。そ
れも小さくなった姿としてです。
 写真Aは、太平洋戦争敗戦から1年も経たない頃に撮影された藤井寺駅周辺
の様子です。1922(大正11)年、大阪鉄道
(近鉄の母体の一つ)の道明寺−布忍間
の開業に合わせて藤井寺駅が開業しました。以後、駅の南側や東側には商店や
旅館などが並び出し、やがて大阪鉄道が藤井寺経営地を開発したことで、分譲
住宅地や野球場、教材園などもできました。もともと駅の南側には名刹・葛井
寺があったので、来訪客の流れも自然と南側が多くなっていったようです。
@ 下谷池・上谷池跡地周辺の様子
  @ 下谷池・上谷池跡地周辺の様子   文字入れ等一部加工
        〔GoogleEarth 2015(平成27)年11月30日〕より
 これに対して、駅の北側には2つの大きなため池があり、駅前に何かが出来るような場所ではありませんでした。これらの池の西側から
北側にかけては広々と田畑が続く地帯で、明治の初め頃からほとんど変わっていないと言ってよい景観でした。
                                                                      「藤井寺経営地と教材園−藤井寺と近畿日本鉄道」
 上谷池・下谷池という2つの接した池ですが、江戸時代の絵図を見ると、東西に長い池の真ん中を道路が通過している様子で描かれてい
る図が多くあります。その様子から、元は1つの池だった所に仕切りの堤を築いて道路を通したのではないかと思われます。『藤井寺市史
・第
10巻 史料編八上』掲載の『河内国丹南郡岡村絵図』(宝暦8年7月)では、「谷池」「下池」の名で記入されています。別の『河州丹南
郡岡村絵図』では「上谷池」「下谷池」と書かれています。「上」と「下」の区別は、水の流れる向きからだと考えられます。この地域一
帯での水の流れは、南北では南から北へ、東西では東から西へとなっているので、西側に位置する池に「下」が付けられたものでしょう。
A戦後間もなくの下谷池・上谷池 B高度経済成長期の頃の様子
A 戦後間もなくの下谷池・上谷池   文字入れ等一部加工
        〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月 国土地理院〕より
B 高度経済成長期の頃の様子     文字入れ等一部加工
         1968(昭和43)年撮影(「市勢要覧1978」)より
高度経済成長期がやって来て
 写真Bは高度経済成長期の昭和43年の様子です。写真Aに比べ、建物が増えているのがわかります。下谷池の西側には新しい住宅地が開
発されています。現在の恵美坂1丁目地区で
ここから西方の市の境界まで400m近く住宅地が続いています。この頃から藤井寺市の人口
は最も激しい急増期を迎えます。写真Aにあった菊水中学校
(後に菊水高校)の場所は、写真Bでは別の建物群に変わっています。菊水高校
は昭和27年に廃校となり、跡地は他の施設に利用されていましたが、駅前の一等地でもあり、昭和30年代以降に順次商業施設に変わってい
きました。駅前には2店の銀行とパチンコ店が並びました。一方、駅の北側はこの時期になっても依然としてため池が並んでいて、池の
北方にはまだ多くの田畑が広がっていました。やがてこの駅北一帯にも大きな変貌の時期がやって来ます。
C埋め立てられた下谷池・上谷池 D完全に姿を消した上谷池
C 埋め立てられた下谷池・上谷池  文字入れ等一部加工
  上谷池と下谷池の一部が埋め立てられ、駅前広場が建設中である。

         〔1975(昭和50)年1月24日 国土地理院
〕より
D 完全に姿を消した上谷池       文字入れ等一部加工
   上谷池跡は駅前広場と駐車場などに変わった。
         〔1985(昭和60)年10月8日 国土地理院〕より
 写真Cは写真Bの時から7年後の様子ですが、その間に大きな変化が起きています。上谷池と下谷池の一部が姿を消すことになったので
す。この頃、全国各地で大型スーパーの駅近地区進出が広がっていましたが、藤井寺市にもニチイに続いてジャスコ資本が進出することに
なりました。藤井寺駅の北側には多くの田畑が広がっており、それは駅近でありながら未だ手つかずの広い土地でもあったのです。1973年
(昭和48年)12月、駅北の府道堺大和高田線の近くにダイヤモンドシティ・ジャスコ藤井寺店が開業しますが、これに合わせて市は駅北口前
にロータリー広場の建設を計画します。そして、府道から駅北広場に入る広い道路も建設しました。スーパーはこの道路に面して造られま
した。一方、近畿日本鉄道もこの事業計画に合わせて、藤井寺駅舎を全面改築し西方へ移動する工事を進めました。行政・流通資本・鉄道
事業者の連携による駅前再開発事業でした。これによって、新しい駅舎の北口から出てジャスコに向かうという人の流れが生まれました。
 完成期を順にたどると、1973(昭和48)年12月にダイヤモンドシティ・ジャスコが開業、翌1974年11月に藤井寺駅の橋上式新駅舎が旧駅舎
の50mほど西側に完成、さらに翌1975年6月には駅北駅前広場
(駅前ロータリー)が完成し、新道路・藤井寺駅北線も開通しました。
消えた上谷池と小さくなった下谷池
 写真Eは、駅前広場・道路の建設のために埋め立て造成工事が行われて
いる最中の上谷池の様子です。駅の向こうに、今は無くなったパチンコの
藤井寺会館、名前の変わった三和銀行と近畿相互銀行の看板や広告塔が見
えます。江戸時代、或いはそれ以前からからずっと地域の水田耕作を支え
てきた上谷池が、とうとう姿を消していく瞬間を捉えた1枚です。5月の
ある日曜日、駅周辺を散歩していてたまたま撮った写真です。
 考えてみれば、駅の南側だけに商業施設が集中していた藤井寺駅周辺の
状況は、一種の変則形だったのかも知れません。駅北側の開発を進める上
で、2つのため池が障害になっていたと言えなくもありません。長年に渡
って維持されてきたため池が、駅前広場と道路に提供されたことで、藤井
埋め立て工事中の上谷池
  E 埋め立て工事中の上谷池(北から)  1973(昭和48)年5月13日
                           合成パノラマ
寺駅北側の商業地としての開発が一気に進み始めました。2つの池の水利権に関わる人々の理解と協力が、町の姿を大きく変えていく礎に
なったと言ってもよいでしょう。                             「藤井寺駅−藤井寺の交通」
 写真Cは写真Eの時期よりも後ですが、まだ一部に水面の残っている様子がわかります。この2ヵ月ほど前に藤井寺駅の新駅舎が完成し
ています。駅前ロータリーとなる部分の西側には、造成の終わった広い更地が見えます。5年後の1980(昭和55)年、この場所で第1回市民
まつりが開催されました。駅前駐車場やレンタカー店舗などに使用されて
(写真D)いましたが、現在は複合商業施設ソリヤになっています。
翌1981年5月に市立スポーツセンターが完成し、市民まつりはこちらで開催されるようになりました。
 もう1つわかることは、下谷池も1/3ほどが埋め立てられていることで
す。埋め立てと共に堤の改修工事も行われ、その形が今に続いて
います。この時に深く掘り下げられて貯水量にはそんなに変化は無かったのかも知れません。この場所にはマンションも建てられていまし
(写真D)が、後に解体されて現在は店舗や病院の敷地となっています(写真@) 

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