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 カラ池・新池跡地    藤井寺市津堂3丁目 近鉄南大阪線・藤井寺駅より北西へ約2km

市の北西端−カラ池の周辺
 「カラ池」と聞いても、藤井寺市民でもわかる人は少ないのではないでしょ
うか。隣接する藤井寺高校の生徒さんや先生方、市民野球場を利用したことの
ある人、ご存知なのはそういった方々ぐらいでしょうか。
 カラ池周辺は藤井寺市の北西の端に近く、藤井寺高校敷地の西側はもう西隣
の松原市です
。そして、市民野球場の南側は南隣の羽曳野市です。この場所はか
つて、学校や公共施設などがなければ、ほとんどの市民は訪れることがないと
思われる地域でした。市内で最も遅い時期まで広々とした田園地帯だった所な
のです。したがって、そこで耕作をされている農家の人が来られるぐらいだっ
たでしょう。現在でも市内では最も田畑が多く分布している地域なのです。
 市民野球場の土地も昔は「新池
」というため池でした。カラ池と共に大切な農
業用水として利用されていたのです。新池という名前なので、おそらく比較的
後の時代に新たに造られたため池だと思われます。
 「新池」という名前の池は、あちこちの村に造られていました。現在の藤井
カラ池周辺の様子
 カラ池周辺の様子 〔Google Earth 2017(平成29)年5月〕より
                     文字入れ、境界線等、一部加工。
寺市域にも「新池」がいくつもありました。隣接してため池が造られたということは、それだけ周囲に水田が多かったということです。
 『藤井寺市史・史料編八上』に『河内国丹北郡津堂村領麁絵図』という江戸時代の絵地図が載っています。時期がはっきりしませんが、
この絵図にカラ池と新池が描かれています。カラ池には「
若林村溜池」と書かれています。若林村は、カラ池のある津堂村の北西に接する
隣り村です。同じ丹北郡に属していて、地形からはカラ池の下流に位置しています。つまり、カラ池は津堂村に在るものの、池の水の所有
(今の水利権)は若林村にあったということです。これは珍しいことではなく、全国各地で普通にあったことで、しかも、現在に引き継が
れています。同じような例は、藤井寺市域の他のため池でもあると思われます。なお、新池は「
津堂村溜池」と絵図に書かれています。
 ついでながら、若林村は1704年の大和川付け替え事業によって新大和川が村の真ん中を流れることになり、村が川の南北に二分されまし
た。現在、北側は八尾市若林町、南側は松原市若林として、それぞれその名を留めています。
 なお、「カラ池」は漢字では「唐池」と書かれます。読み間違いを防ぐためか、現在はカタカナ表記が普通となっています。
50年余り前のカラ池周辺の様子 40年近く前の様子
  昭和30年代のカラ池周辺   文字入れ、境界線等、一部加工。
          〔1961(昭和36)年5月 国土地理院〕より
   南側の羽曳野市域に住宅地ができている様子がわかる。
    40年近く前の様子  〔1979(昭和54)年10月 国土地理院〕より
     藤井寺高校開設のため、池の一部を利用して通学用の舗装
    道路が新設されている。
    文字入れ、境界線等、一部加工。
水田地帯からの変貌
 上の左側写真は、半世紀と少しを遡った時代のカラ池・新池周辺の様子です。もっと以前の終戦後間もない時期の写真では、池の周りは
田畑ばかりでしたが、
50年余り前には南側の羽曳野市域に住宅地が延び出していることが分かります。しかし、藤井寺市域側には未だ住宅
は1軒も無い状態でした。古代条理跡の区画の形もわかりやすい写真です。
 この田園地帯の風景を一変させる切っ掛けとなったのが、大阪府立藤井寺高等学校の開設で
した。昭和40年代の大阪府内の児童数急増を
受けて、府下の各地に府立普通科高校が相次いで新設されました。それまで藤井寺市内の府立高校は藤井寺工業高校
(現藤井寺工科高校)
かありませんでした。南河内地区全体でも、普通科高校が存在したのは富田林市だけでした
(当時松原市は中河内地区)。昭和46年4月にま
ず新設開校したのが羽曳野市の羽曳野高校
(現懐風館高校)でした。次いで昭和49年4月に開校したのが藤井寺高校だったのです。水田地帯
の真ん中に、まるで野中の一軒家のようにそびえ立つ立派な校舎。まるで白亜の殿堂といった感じです。2年後の昭和51年4月には、市立
藤井寺北小学校が市内7番目の小学校として近くに開校しました。田畑ばかりだった地域がこの時期から旧に変化を始めていきました。
水鳥1  細い農道だった道は通学用の新しい舗装道路に整備され、農家の人の姿し か見ら
 れなかった田園の中に、毎朝夕徒歩や自転車で通学する高校生の列が登場しました。
 小学校の新設もあったことで、この地域に出入りする車の通行量も増加しました。し
 かしながら、カラ池周辺はもともと市のはずれにあり、高校が造られたことで「この
 場所も藤井寺市だったのか。」と、やっと認識されたような状況でした。松原市域ま
でひと続きの水田地帯だったので、「ここまでが藤井寺市」という良い目印となる建物の登場でした。上の右側写真は
高校開校から5年後の様子です。羽曳野市側では住宅がかなり増えてきていますが、藤井寺市域の部分では依然として
田畑が広がる地域でした。
 それから数年後には新池の埋め立てが行われ、高校開校から10年後となる1984年(昭和59年)5月には、津堂市民野
球場と野外活動広場
(現在は野球場の一部として管理)が完成したのでした。ため池の一つが埋め立てられたということ
水鳥2
は、それだけ農業用水の需要が減ったということで、水田の減少が進行していたわけです。その後カラ池の整備工事が行われ、現在のよう
な補強された堤と池畔遊歩道が囲むカラ池の姿に変わりました。
 周囲の水田などと共に餌場となっているのか、カラ池ではカモやサギなどの水鳥がよく見られます。靜かな水面を進む鳥たちの姿は、藤
井寺駅周辺の市街地とはまったく異なるのんびりとした雰囲気を感じさせてくれます。この景観も、藤井寺市の姿の一つなのです。
  
カラ池全景の様子(東側池畔より)
カラ池全景の様子(東側池畔より)           2013(平成25)年5月       合成パノラマ
             対岸の右寄りの建物は大阪府立藤井寺高等学校。中央部分が津堂市民野球場。
カラ池全景の様子(北西角部より)
カラ池全景の様子(北西角部より)           2013(平成25)年5月       合成パノラマ
      中央後方の遠景に見える山並みは金剛山地。アオコ繁殖の季節には、水面は一面の緑の鏡となる。
アイコン・指さしマーク「藤井寺市の桜名所−カラ池・市民野球場」

公共施設へ転用−新池跡地
 新池が埋め立てられて、藤井寺高校開校から10年後には津堂市民野球場と野外活動広場がが完成しました。市民野球場と野外活動広場の
周囲には、この時に植えられたと思われる桜の木が立派に育ち、満開の時期には野球場を利用する人々の目を楽しませてくれます。残念な
のは、公園ではないので自由に出入りして桜を楽しむことができないということです。野球の試合中や練習中は危険があり、邪魔ともなり
ます。使用されていない時は閉鎖されています。野球場内に桜がずらりと並んでいる景観自体が珍しいのですが、何とももったいないとい
う感じがします。この新池跡地も、ため池を公共施設用地に転用した例の一つとして市民活動に貢献しています。
 
新池跡地の市民野球場(東より)   新池跡地の市民野球場
(東より)
   2020(令和2)年4月
 
 写真の左側の方に野外活動
広場だった場所がある。
 

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