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 上田地・細池跡地・新池跡地 
           上田池:藤井寺市青山3丁目 近鉄南大阪線・藤井寺駅より南へ約2km   古市駅より西へ約1.2km
           細池跡:羽曳野市軽里3丁目 近鉄南大阪線・古市駅より西へ約700m

ため池の多い地域
 「藤井寺市の川と池
」の地図でわかるように、上田(かみのた)下田(しものた)
の周辺地域は羽曳野市域を含めてもともとため池の多い地域です。現在もい
くつものため池が存在していますが、かつてはもっとたくさんのため池があ
りました。
 この一帯は藤井寺市域では最も南の地域で、標高も市内では最も高い地域
です。もっと高い南側の羽曳野丘陵の先端に連なる地形です。つまり、南側
から流れ来る水をためて、北側に位置する水田に用水を供給するのが、これ
らのため池です。明治中期までの旧村としては、野中
(のなか)といいました。
村の中に在るため池の中では、上田池・下田池が最大のものでした。藤井寺
市史掲載の江戸時代の絵図を見ると
、「上ノ田池・下ノ田池」の表記もあり、
読みは「かみのた・しものた」だとわかりますが、現在の地図では「上田池
・下田池」の表記が標準です。
 二つの池が南北に接している形ですが、初めからこのように二つのため池
だったのか、先に一つあったのか、その辺りはよくわかりません。池の形を
ると、どちらの池も東岸が直線で同じ方向角になっているのが目立ちます。
明らかに人為的な形状だとわかります。
古代運河の跡も
 実は、上田池の北端部に突き出ている長方形部分は、古代に築造された運
河と推定されている「古市大溝
(ふるいちおおみぞ)」の遺構の一部なのです。下田池
東岸の直線形も、この運河遺構を示すものなのです。右の写真①にポインタ
ーを置くと、ロールオーパー効果によって別の写真が現れます。そこに、古
市大溝の推定跡地を表示しています。その写真でわかるように、「細池跡」
「中ノ池」も古市大溝跡の一部であると推定されています。古市大溝の築造
時期については、今のところ複数説があって未だ定説化していませんが、い
ずれにしても千年以上前であることは確かだと思われます。これらのため池
もそれだけ古い歴史を秘めていることになります。
①現在の上田池・下田池周辺の様子
 ① 現在の上田池・下田池周辺の様子
   (GoogleEarth 2015年11月30日)より   文字入れ等一部加工
    ※ ロールオーバー効果で「古市大溝推定跡地」が表示されます。
 古市大溝についての詳述は他のページを見ていただきたいと思いますが、まずは、上田池・下田池がこの古代運河に関わりを持ちながら
築かれた池であると推定されることに注目してください。推定跡地に運河が通っていたことを前提とすれば、上田池・下田池の形態や並び
方の特徴もうなずけます。運河の跡を利用してここにため池が造られたのか、池があったからここに運河を通したのか、興味が湧くところ
です。さらに、ボケ山古墳に接していることも何らかの関連性を感じさせます。古市大溝の今後の調査・研究が大いに期待されます。
                                      アイコン・指さしマーク「中ノ池・堀川跡地-藤井寺市の川と池」
 
②上田池の様子(南西角地より)
② 上田池の様子(南西角地より北を見る)     2017(平成29)年6月    合成パノラマ
   西岸沿いは遊歩道、東岸沿いは国道170号。右手建物は医療法人ラポール会・青山病院。
③上田池の様子(西岸より南東を見る)
③ 上田池の様子(西岸より南東角を見る)     2017(平成29)年6月    合成パノラマ
  左岸横は国道170号、右岸沿いは遊歩道。対岸正面は柏原羽曳野藤井寺消防組合消防本部。
 写真②と③は、上田池のそれぞれ北方向、南方向を見た様子です。西岸沿いには遊
歩道が整備されてお
り、よい散歩道となっています。東岸の南半分は国道170(大阪
外環状線)
に接していますが、北半分と北岸は細い遊歩道になっています。
貴重な古市大溝の残存部分
 右の写真④は北岸から南を見た様子で、上田池の北端に突き出た部分です。すなわ
ち、古代運河・古市大溝の一部が残っている部分ということになります。この辺りを
通っていた大溝の幅は、概ねこの程度であったと想像できます。現在残っている大溝
の遺構の中には、これよりももっと広い所があります。大溝の幅は部分によっていろ
いろだったようです。写真④の部分から北に続く下田池沿いの大溝跡地は、近年まで
④上田池の様子(北岸から南を見る)
④ 上田池の様子(北岸より)  2016(平成28)年10月
   この水路のような形は古市大溝の一部が残っている部分。 
ずっと水田でしたが、最近半分ほどが住宅地になりました。だんだん大溝跡地の形状がわかりにくくなっていくと思われます。市街化が進
む中で、空中写真でも跡地の形状をたどることがしにくくなっています。
都市化が進む中で
 下の写真⑤~⑧は、1946(昭和21)年から1985(昭和60)年の
40年間で、上田池・下田池の周辺が変わってきた様子を見ることができるもの
です。特に写真⑥以降の高度経済成長期における変化には大きいものがありました。     アイコン・指さしマーク「下田地-藤井寺市の川と池」
 写真⑤は、太平洋戦争敗戦から約
10ヵ月後の撮影です。田畑やため池の様子は、明治の頃からほとんど変わっていない感じです。大きく
違うのは、戦前に新たに府道が造られたことでしょう。今では池の跡もよくわからない「新池」もはっきりと見えます。現在は池ではなく
なった「細池」も見えています。稲荷塚古墳は、まるで田畑の海に浮かぶ島のようです。今ではすっかり住宅に囲まれています。
 写真⑥は、写真⑤から
18年後の1964年、東京オリンピックの年に撮影されたものです。写真⑤の頃とそんなに変わらない感じですが、
大きな変化も見られます。新しい府道の建設が進められていることです。戦前に造られた府道堺古市線
(竹内街道のバイパス)のさらなるバ
イパスとして新しい府道堺羽曳野線
(現府道31号)が建設されました。この直後、大阪府内では1970年開催の日本万国博覧会に向けて、各地
で新しい幹線道路の建設ラッシュが展開していきます。藤井寺市域に関わっては、この府道堺羽曳野線のほかに、大阪外環状線
(現国道170
号)
、西名阪道路(現西名阪自動車道)の建設が行われました。この時期から藤井寺市域は人口の急増期を迎え、1966年11月1日に市制を施
行して「藤井寺市」が誕生しました。写真⑥でも、青山古墳の南北地域で住宅用地開発の様子が見られます。
⑤戦後間もなくの上田池周辺の様子 ⑥高度経済成長期に入った頃の様子
⑤ 戦後間もなくの上田池・下田池周辺の様子
       〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日 国土地理院〕より
                     文字入れ等一部加工
⑥ 高度経済成長期に入った頃の様子(東京オリンピックの年)
          〔1964(昭和39)年5月22日 国土地理院
〕より
                    文字入れ等一部加工
 写真⑦は、写真⑥からさらに11年経った様子です。⑤→⑥の18年間の変化に比べ、この10年間ほどの変化の大きさがわかります。
府道堺羽曳野線に接続する新しい道路が出来て、田畑だけだった所に住宅が建ち並んでいます。新池は姿を消し、そっくり住宅地となって
います。中ノ池の北西側にも住宅が並んでいます。中ノ池の北西方向には「堀川」という池が続いていましたが、この時期の住宅地開発で
姿を消しました。また、人口増による水需要の高まりに備えて、新たに「野中浄水場
(現野中配水場Ⅰ)」が建設されています。
 写真⑦からさらに
10年後の様子が写真⑧です。この10年間の変化はもっと大きくなっていることがわかります。大阪外環状線が開通し
ており
上田池の一部が道路用地となっています。細池も埋め立てられて池ではなくなりました。10年前には田畑だった場所のあちこちに
住宅・工場・店舗などが出来ています。羽曳野市域でも同じような変化が見られます。
 この写真⑧の様子からちょうど
30年後の様子が写真①です。すっかり市街化が進んでおり田畑は一部に“残っている”感じです。上田池
・下田池はしっかり存在していますが、上田池はさらに面積を減らしています。1/3ほどが埋め立て
られて、柏原羽曳野藤井寺消防組合消
防本部の新しい庁舎が造られました。
 この数十年の間に、上田池・下田池周辺の中小のため池の多くが姿を消していきました。この先、農業水利としての必要度が下がっても
せめて上田池・下田池は残ってほしいものです。治水・防災対策上も必要だと思われますが、地域の景観としても水生生物や水鳥の環境と
しても、ぜひ残ってほしいため池群です。
 
⑦大きく変化し始めた頃の様子 ⑧新国道(現国道170号)が開通した後の様子
⑦ 大きく変化し始めた頃の様子
 〔1975(昭和50)年3月4日 国土地理院〕より
 文字入れ等一部加工
⑧ 大阪外環状線(現国道170号)が開通した後の様子
 〔1985(昭和60)年11月4日 国土地理院
〕より 文字入れ等一部加工
⑨ 1977年6月の上田池周辺の様子 ⑩ 1985年の上田池周辺の様子
⑨ 1977年6月の上田池周辺の様子(西より ⑦の2年後)  ⑩ 1985年の上田池周辺の様子(西より ⑧と同じ年)
⑨⑩とも 大阪府立近つ飛鳥博物館図録18『百舌鳥・古市 門前 古墳航空写真コレクション』(1999年3月)掲載の写真より   部分切り出しのうえ文字入れ等一部加工

細 池 跡-貴重な「古市大溝」の残存部分
 細池はその名の通り細長い直線形の池でした。上の空中写真でその形がわか
ります。明らかに、自然地形に由来するものではなく、計画的に造られた形と
言ってよいでしょう。
 細池跡地は藤井寺市域ではなく、隣接する羽曳野市域内に在ります。この場
所は江戸時代には軽墓
(かるはか)(現羽曳野市軽里)という村で、野中村の南どなり
でした。藤井寺市史掲載の絵図を見ると、『河内国丹南郡野中村領内惣絵図』
(寛政3〈1791〉年)だけが「誉田(こんだ)村細池と記入されていて、他の多くの絵図
では「軽墓村細池」となっています。疑問に思って調べたら
、『村差出帳』(安永
7〈1778〉年4月
野中村)の中に、「軽墓村野中村領境に字細池と申誉田村用水池
御座候 此水野中村領内田地壱反程へ用水掛り申候
という記述がありました。
これでわかりました。細池は「軽墓村領に存在する誉田村所有の用水池」とい
うことです。そして、野中村領の水田約1反歩にも細池から用水供給を受けて
いたわけです。誉田村
(現羽曳野市誉田)というのは、野中村の東どなりの村で
す。
 ページの一番上で述べたように、細池は古代運河・古市大溝の一部であった
と推定されています。つまり最近まで、運河の形態を保った細長い池として存
在していたのです。残念ながら写真⑧までの段階で池は埋め立てられ、現在は
更地状態でその形を見ることができます。右の写真⑫がその様子です。両側の
住宅地の高さから落ち込んでいる様子が、かろうじて池や運河であったことを
教えてくれます。写真奧の部分は駐車場として利用されており、北側に折れ曲
がった部分も病院の駐車場になっています。これらの大溝跡の土地は現在民有
  ⑪細池跡の様子(写真①の部分拡大)
 ⑪ 細池跡の様子(①の部分拡大)   文字入れ等加工
            (GoogleEarth 2015年11月30日)より
⑫細池跡の様子(南東から北西を見る)
 ⑫ 細池跡の様子(南東から北西を見る) 2014(平成26)年11月
  正面樹木の後方に見えるアンテナ付き建物は柏羽藤消防本部
 
地で、史跡等の指定も受けていません。はっきりとした形で残っている部分だけに、できれば運河の原形に近い状態で保存されることが望
まれます。北に折れ曲がった大溝の跡地は、やがて大阪外環状線の北で上田池の大溝遺構地形につながっていきます。
 

新 池 跡-完全に市街化した池の跡-昔の名前には謎が…
 このため池は、旧野中村の中で上田池・下田池と並んで主要な存在だったのですが、現在ではどこがその池の跡なのか、現地を見てもさ
っぱりわかりません。地図や空中写真
(写真⑦)の道路や家並みをよく見ることで、かろうじて昔の池の形を見つけることができます。今や
完全に市街化していると言ってよいでしょう。
 新池が埋め立てられて姿を消したのは昭和
40年代のことですが、藤井寺市史の『地籍集成図』では「新池址となっていますつまり明
治中期の小字
(こあざ)名では「新池址」と呼ばれていたわけです。近年まで「池」であったことは上の空中写真でわかりますが、昔の小字名で
なぜ「址」が付いていたのかが疑問です。昭和
30年代に町が作成した地図では「新池」となっているので、当サイトでもこれに倣って「新池
としています。新池という名のため池はあちこちの村に見られますが、この池は上田池と同じく旧野中村のため池でした。明治期以降には
「新池」となっていたようですが、実は、もっと遡った時代にはまったく別の名で呼ばれていたようです。藤井寺市史掲載の江戸時代の野
中村絵図や文書を見ると、興味深い池の名前が見られます。
 ① 『
(前掲)村差出帳』(安永7〈1778〉年4月)では、「溜池拾弐ヶ所」の中に「上ノかうろん池」「下ノかうろん池」と載っています。
 ② 『
(前掲)河内国丹南郡野中村領内惣絵図』(寛政3〈1791〉年)でも、「上ノかうらう池」「下ノかうらう池」と南北に二分して名前が
  記入されています。写真⑤⑥の新池を見ると、くびれのようになった部分が東西両側にあります。当時はこの部分で南北に仕切られて
  いたようです。「かうろん池・かうらう池」は、現代仮名遣いでは「こうろん池・こうろう池」です。以後の絵図も二つの池として描
  かれているものが多いのですが、池の名前は絵図によって微妙に異なっています。
 ③ 『河内国丹南郡野中村絵図
』(天保14〈1843〉年)では、「上かうろん」「下かうろう」となっています。時期不明ですが、「カウロ池
  「
下カウロ池」と書かれた絵図もあります。
 ④ 時期不明の『河内国丹南郡野中村上ノ田池等論所絵図』という題の絵図が2点ありますが、片方では「
野中村共有 字口論」、もう
  一方では「
野中村 口論池」となっています。この2点の絵図では一つの池として描かれています。もう1点、「口論池」と書かれて
  いる別の絵図がありますが、これも一つの池で描かれています。
 ⑤ 『野中村誌
』(明治15〈1882〉年5月)では、まだ「上ノ口論池」「下ノ口論池」と記されています。
 明治期の小字名では一つの小字になっているので、「二つの池→一つの池」という順で変化したと思われます。名前については、「口論
池」を用いた表記が比較的後の時代のものに多く、古い時代のものは仮名表記になっています。
 以上のことから推察して、おそらくは、「こうろう池→こうろん池→口論池」の順で変化したものではないかと考えられます。
 「こうろん池」の「口論」は、この池をめぐって何か論争が起きたことを想起させますが、残っている「水掛かり絵図」等では、別の場
所が論所
(係争地)として表示されていても、この口論池にはそのような表示は一切ありません。そもそも、この池の位置や他の池とのつな
がり方から見て、別の村と係争になるような池とは思えません。やはり「口論」の表記は、後の時代になって「こうろう池→こうろん池→
口論池」という変化の中で、当て字として出来た表記ではないかと私は推測しています。
 一般に、地名などが変化する場合、正式な読み方から省略形へ、より発音しやすい言い方へ、よりリズムの良い方へと変化
していきます。
その点から考えても、「こうろん池→こうろう池」という変化は考えにくく、やはり「こうろう池→こうろん池」という変化と見る方が妥
当ではないかと思います。ただし、①と②はその逆の順となりますが、この時期は両方の言い方が混在していたのではないでしょうか。
 加えて、元々の名前であったと思われる「こうろう(かうらう)池」の語源として、「漢字「こう」・さんずいに黄の旧字(こうろう)池」が考えられます。「潦」は「地上
にたまった雨水
(広辞苑)」を意味します。自然に溜まった雨水で出来た池が始まりだったとすれば、この名前もうなずけます。「潦」の
文字が難しく読みにくいことから、「かうらう池」という仮名表記になったとのではないかと思われます。やがて、元の意味を離れて「こ
うろう池→こうろん池→口論池」と、読み方の「音」だけがひとり歩きをして変化をしたと考えることもできます。

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