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【 ブクンダ池(仏供田池)跡地 】 | 藤井寺市藤井寺1丁目 近鉄南大阪線・藤井寺駅より南へ約130m(北東角まで) |
ブクンダ池は、私が藤井寺市域の「ため池」に関心を持ち、ため池の変遷を調べてみようと思った、その切っ掛けとなった池です。私が 藤井寺市に住み始めた頃にブクンダ池は埋め立てられて公園などに変わりました。当時私は近くに住んでいましたが、“健在”であったブ クンダ池の姿は、残念ながら一度も見たことがありません。しかしながら、いろいろと調べてみると、ブクンダ池の移り変わりは、時代と 共に変化してきた藤井寺市域を象徴するようなものではなかったか、と感じるようになりました。それらの“ブクンダ池物語”を是非知っ ていただきたいと思います。特に市民の皆さんにはよく知っていただいて、「仏供田池」の名を記憶に留めてほしいと願うものです。 |
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① 仏供田池跡地の「ブクンダ公園」(東より) 2019(令和元)年5月 後方左の建物は市立藤井寺駅南駐輪・駐車場の立体駐車場。右側の棚は、開花期の藤棚。 手前のくぼ地は元はせせらぎだった。 合成パノラマ |
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② ブクンダ公園の藤棚(北西より) 2019(令和元)年5月 合成パノラマ |
ちょっと変わった名前-どうして「ブクンダ」? 「ブクンダ池」という表記を見ると、多くの人は「外国語に由来するのか?」と思ってしまいます。今ではカタカナ表記が普通になって いますが、“本名”は「仏供田池」というれっきとした漢字の名前です。 「ブクンダ」という名称が登場したのは、「ブクンダ公園」が誕生した時です。この公園は、元は「ちびっこ広場」という公園で、1974 (昭和49)年1月に仏供田池を埋め立てた跡地にできました。市内の都市公園の第1号でした。それから数年後、藤井寺市では、新しく造ら れる公園には旧小字(こあざ)名を付けることになり、それに合わせて既設の「ちびっこ広場」も名称が変更されました。そして、決まった公園 名が、小字名「仏供田池」から採った「ブクンダ公園」だったのです。「仏供田公園」という漢字名では読みにくいことから、「ブクンダ 公園」というカタカナ表記が使用されました。「ブクンダ公園」という名称が一般化してくると、元の池の名も「ブクンダ池」と表記され るようになったのです。もともと「仏供田池」であったことを知る人もだんだん少なくなっています。 「仏供」は、一般に「ぶぐ・ぶつく・ぶっく・ぶつぐ」などと読みます。促音が無発音となって「ぶく」となる場合もあります。意味は 「仏様へのお供え物(主として食物)」です。「仏供田」は「仏様へお供えする米を作る田」ということになります。一般的には「仏供田」 は、大名などが仏様に米を供えるために寺に寄進した田畑のことを指します。「ぶぐ・ぶっく」が音読みなので、全体も「ぶっくでん」ま たは「ぶくでん」と音読みになるのが普通です。 「仏供田」という地名は全国各地にありますが、「ぶくでん」「ぶつくでん」「ぶっくでん」などと呼ばれています。「ぶくでん」が最 も多いようです。仏供田とよく似た地名に「御供田」があります。大阪府でも大東市の地区名として存在し、「ごくでん」と読みます。由 来は、社領に寄進した説、寺領だった説などがあるもののはっきりしません。寺社の別はともかくとして、「御供え」用の田であることは 推定できます。「仏供田・御供田」という同じような由来の地名が、一般的には「ぶくでん・ごくでん」というよく似た読み方になってい ます。 このような読み方が、藤井寺市の「仏供田池」ではどうして「ぶくんだ」になったのでしょうか。私は以前には次のように推測していま した。まず、「仏供田」をいわゆる“重箱読み”で「ぶっくだ」または「ぶくだ」と読んだ。その後、「ぶっくだ → ぶっくんだ → ぶく んだ」或いは「ぶくだ → ぶくっだ → ぶくんだ」などの変化があった。それが自然な流れだと思ってきました。ところが、後に、新しい 史料に出会ったことで、ことはそう簡単ではないことに気が付きました。 本来の名は「ぶくでん池」 『藤井寺市史第7巻・史料編五』掲載史料で宝暦8(1758)年5月作成の文書『河州丹南郡岡村明細帳』には、この池だけ仮名書きで「ふく でん池」と載っています。『藤井寺市史第10巻・史料編八上』掲載で、同じ宝暦8年の7月作成『河内国丹南郡岡村絵図』には、池の中に 「ふくてん池」と記入されています。江戸時代の文書では濁点を省く表記は普通のことで、どちらも「ぶくでん池」を表します。。 また、『藤井寺市史第6巻史・史料編四下』掲載、文化10(1813)年6月岡村作成の文書『溜池用水樋御入用御普請所之分控』の中には、 はっきりと仮名書きで「ぶくでん池」が出てきます。岡村の“公文書”に当たる文書に書かれた「ぶくでん池」の名称は、村の人々にも共 有されていたはずです。このことから、幕末近くの時点では「ぶくでん池」が基本となる名称だったと思われます。つまり、私の推測の前 提であった「ぶっくだ」「ぶくだ」の読みではなかったということです。 そうなると、どうして「ぶくでん」が「ぶくんだ」に変わったのか、という疑問が生じてきます。この場合、上記の私の推測のような促 音がらみの変化は起きないはずです。「ぶくでん」が訛って「ぶくんだ」に変化したと考えるには、その期間が短か過ぎるのです。私の新 たな仮説は、「ある時期に突然変わってしまったのではないか。」という推測です。 ①「仏供田池」という漢字名を知らない人が、池の名を知っていそうな人に口伝えで「ぶくでん池」を聞いた。②それを記録したり、さ らに伝えたりする過程で、“記憶間違い”などにより「ぶくんで池」にしてしまった。③さらに記憶間違いや聞き間違いが重なって「ぶく んだ池」に変わってしまった。上記の私の初めの推測よりもずっと起こる可能性が高い“言い変わり”です。 こう考えると、短期間にコロッと変化したこともうなずけるのです。「ぶくでん池 → ぶくんで池 → ぶくんだ池」のような、記憶間違 いや聞き間違いによる“突然変異”が起きた結果だったのではないでしょうか。それも、案外新しい時期のことではなかったかと、私は推 測します。「ブクンダ公園」の名称に変えられた時期は、上で紹介した藤井寺市史の刊行が始まる前で、「ぶくでん池」の名称を史料から 見つけるのは簡単ではなかったと思われます。市の文化財保護課もまだできていない時期でした。身近に居る池の名を知っていそうな人に 聞く、という聞き取り作業で調べたとしても間違いではなく、当時は普通に行われる方法だったでしょう。ただ、もう少し念を入れた確認 作業がほしかったと私は思います。 「ぶくでん池」という江戸時代以来の本来の呼称が史料で確認できるからには、「ブクンダ」という誤った名称は変えるべではないかと 個人的には思います。「ぶくんだ池」という実在しなかった字(あざ)名をもとに付けられた「ブクンダ公園」というおかしな名前は、誤認の 産物としか私には思えません。「ぶくでん公園」とか「ぶくでん池公園」が、本来与えられるべき名称だと思うのです。 ところで、「仏供田池」の名の基である「仏供田」自体はどこにあった「田」のことでしょうか。それがわかる史料はありません。最も 考えられるのは、仏供田池そのものが元は田であったということです。水田をため池に転用したのではないかと考えられます。或いは、周 辺に仏供田が在って、その田に利用されるため池だったのかも知れませんが、明治初めに残る小字(こあざ)名では、周辺に「仏供田」の小字名 はほかには存在しません。はたまた、別の考え方として、実際の仏供田とは関係無く、単なるネーミングとして「仏供田」が付けられただ け、という可能性も無くはありません。知りたいところです。 ![]() |
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時代で変わった池の大きさと形 右の写真③は、仏供田池跡地と周辺の現在の様子です。昭和40年代中頃に埋 め立てされる前の池の形が赤線の範囲です。仏供田池は昔から旧岡村の共有地 だったのですが、市有地となって埋め立てられました。この時期、藤井寺市は 人口の急増期で、小・中学校や幼稚園・保育所などの公共施設が相次いで新設 されていました。もともと市域の狭い藤井寺市では、比較的利便性の良い場所 に公共施設の用地を確保することは簡単ではありませんでした。必要とされる まとまった面積、市街化が進むに連れて上昇する地価、いずれも大きな課題で す。市街化と反比例するように田畑が減少する中、ため池が1つ、また1つと 公共施設用地として転用されていきました。 仏供田池の場合は、1971(昭和46)年4月に市立第3保育所を開設する計画が 進んでいました。同時にこの地域には無かった都市公園の整備も計画されまし た。現在のブクンダ公園ですが、もしこの時期に公園を造っていなければ、現 在の時点で公園を新設することはまず無理だったでしょう。さらに、マイカー 時代の到来により藤井寺駅の近くにも公営駐車場の新設が求められ、公園・保 育所用地の残り部分が市営駐車場となりました。写真⑬がその様子ですが、当 |
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③真上から見た仏供田池跡地の様子 赤線の範囲が昭和 40年代まで存在した仏供田池の範囲。藤井寺駅と仏供田池跡 地との 間の部分が、かつて池だった所。 文字入れ等一部加工 〔(GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より |
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初は平面式の屋外駐車場でした。 高度経済成長と共に駐車需要は急速に高まり、やがて駐車場は立体式に変わ って駐輪場も併設されました。わずかに残っていた仏供田池の水面もコンクリ ートで覆われて、屋外駐車場が増設されました。それでも駐車場は不足気味と なり、今では、ブクンダ公園の周辺にはいくつものコインパーキングが開業し ています。それらの場所は、かつては商業ビルや商店が並んでいた所です。そ こにも時代の変化を見て取ることができます。 右の写真④は『藤井寺市史第10巻』掲載の『地籍集成図』の仏供田池の部分 です。明治時代初期までの地籍図が基になっていますが、江戸時代の終わり頃 とほとんど同じだと思われます。江戸時代の岡村絵図でもほぼ同じ形の仏供田 池が見られます。下地となっている背景の地図は、昭和30年代中頃に旧美陵町 (みささぎちょう藤井寺市の前身)が作成した管内図だと思われます。写真⑪の様子が ちょうどこの地図の時期です。 仏供田池の姿は、江戸時代から長らくこの図のような大きさ・形で続いてき たと思われますが、明治時代の中頃になって一大変化が起こります。農業用水 の不足に悩む岡村の人々が、仏供田池の拡大を目指したのです。拡大と言って も、実際は仏供田池の北側に隣接して別のため池を新設するというものでした。 藤井寺市史には、このため池新設に関わる史料が何点も載っています。 拡大された仏供田池-第二の仏供田池 『藤井寺市史第9巻』に『溜池築造之儀ニ付御願』という文書が載っています。 明治24(1891)年3月に丹南郡長野村の村長から大阪府知事宛に提出されたもの です。旧岡村は明治22年4月に藤井寺村・野中村と合併して「長野村」となって いました。御願い本文の前半部分を紹介してみます。 『一 本村大字岡ハ耕地ニ比シ従来之溜池僅少ナルカ為 養水欠乏ニシテ多 |
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④『地籍集成図』(部分)に見る昔の仏供田池の形 『藤井寺市史・第10巻』より 背景の地図は昭和30年代中頃。 黒色文字と紫色の表示以外は原図のままである。 |
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年旱害ニ係リ難渋ニ付 今般村会決議之上字岡中及広宗ニテ新池相設ケ度 隣地主及水利関係者江示談候処 何等之故障モ無之候条 願意 御聴許被成下度 …(以下略)』というものです。要点は「岡地区(岡村)は耕地に比べて今まで溜池が少なかったため、用水不足で長年旱害 に苦しんできました。そこで、この度村議会で決議して、岡中及び広宗の字地に新池を築造したいと思い、隣接地主と水利関係者に相談した ところ、何の問題も無かったので、私たちの願いをお聴き入れくださいますよう…」ということです。岡中・広宗という字地は、上の写真 ④で仏供田池の北側に隣接している土地です。本文・日付の後には、「丹南郡長野村大字岡 村長 藤野完平」とあり、公印が押印されてい ます。さらにその後には、4名の地主、8名の隣地主、6名の水利関係人の署名と捺印が続いています。 この御願い文書には添付書類があり、『溜池築造潰地取調書』『新池築造目論見書』が市史に載っています。『溜池築造潰地取調書』に は、各地番毎の潰(つぶれ)地の面積、土地の種類、地価、持ち主が詳細に記されています。これによれば、新しいため池築造のために潰れ地 となる面積の合計は「五反壱畝四歩」となっています。換算すると、約5,072㎡(約0.5ha)になります。その内、88%が水田でした。これ ら潰れ地の合計地価は「三百七拾七円八拾壱銭」となっています。 『新池築造目論見書』には各工事種類別に、面積、見込み延べ人夫数、予定賃金の合計が列記されています。また、杭や縄などの材料費 なども書かれています。この目論見書では、潰れ地の買い取り費用と工事費用の合計金額が「六百四拾四円七拾九銭」となっています。新 池築造事業の総予算、というところでしょうか。 以上の文書とは別に、同じ明治24年3月18日付『官有道敷払下願』という文書も市史に載っています。これも長野村長から府知事宛に提出 されたものですが、要点は、「仏供田池の北端から北方の岡村の集落までつながる道路の一部を、新池築造のために払い下げしてほしい。」 という内容です。願い文と添付図によれば払い下げに該当する道路は、仏供田池北端から北へ33間(約60m)の長さ、幅が半間(90cm)で、面 積は17坪ほどです。この33間の長さを写真④の地籍図に当てはめてみると、新池の北端は現在の藤井寺駅前道路の南側付近となり、他の 資料とも概ね合致します。該当の道路は、写真④の地籍図で三和銀行と重なる緑の線がそうです。この図で、紫色の線で示した形が拡大さ れた仏供田池の形を表しています。 |
地図で見る第二の仏供田池 拡大された仏供田池の様子を見ることができる写真はありません。少ないながら、この時期の仏供田池が記載された地図を見つけました。 ⑤と⑥の地図がそれです。⑤の地図は、昭和4年に発行された2万5千分の1地形図『古市』の一部を拡大したものです。戦前に地図の製 作・発行を行っていたのは陸軍参謀本部で、陸地測量部という部署が担当していました。地図は軍事情報として扱われていたのです。これ らの地図は、俗に「陸測地図」とも呼ばれています。戦後は政府の民政事業に移管され、現在の国土交通省・国土地理院に引き継がれてい ます。⑤図は昭和初期なので、横書きが右からになっています。また、「ふぢゐでら」の旧仮名遣いが目立ちます。大正11(1922)年に藤井 寺駅が開業しているので、鉄道が通ってからまだ数年後の時期です。明治中期に拡大された仏供田池の形がよくわかります。下の⑦図の形 にほぼ対応していると言ってよいでしょう。この時期の仏供田池の形を表した数少ない貴重な地図です。 ⑥図も⑤図とほぼ同じ頃の様子を表した地図で、昭和27(1952)年近畿日本鉄道発行の『大鉄全史』に載っていた地図です。概要を示すため に模式図として描かれており、仏供田池の形も模式化されていて正確なものではありません。「大鉄」とは「大阪鉄道」のことで、後に合 併で誕生する「近畿日本鉄道」の母体となった鉄道会社の1つです。『大鉄全史』発行の時点では近畿日本鉄道になっていましたが、同書 で掲載されている地図の多くは戦前に作成されています。大阪鉄道は合併で関西急行鉄道→近畿日本鉄道となりましたが、大阪鉄道の歴史 を記録として残しておこうと、戦時中に『大鉄全史』の編集が進められました。戦時の混乱で発行ができなくなり、戦後になってやっと発 行されたものです。⑥図は、『大鉄全史』の「藤井寺経営地」などの事業について述べる中で登場しています。「藤井寺経営地」とは、昭 和初期に大阪鉄道が兼営事業として取り組んだ一大プロジェクトでした。 ![]() 当時大阪鉄道は沿線の各地で住宅地経営に乗り出していましたが、中でも最大の面積となる住宅都市開発事業が「藤井寺経営地」だった のです。「藤井寺経営地」は総面積10万坪にも及ぶ開発事業で、現在の春日丘地区に広がる分譲住宅地、「藤井寺球場」藤井寺教材園」 などを次々と完成させていきました。当時、大阪市の人口は東京市(当時)を上回り、「大大阪」と呼ばれていました。「仕事は大阪で、住 まいは郊外の住宅で」という生活スタイルを売りにした鉄道会社による住宅地開発が各地で進められていたのです。下の写真⑩に見られる 「いちょう通り」は、その藤井寺経営地事業の名残です。経営地の中央を貫くメインストリートとして造られた道路です。この大鉄による 住宅地開発が、後に郊外住宅都市・藤井寺となっていく第一歩だったとも言えるでしょう。藤井寺経営地の宅地分譲は昭和2年3月に開始 されますが、翌年の昭和3年(1928年)10月に藤井寺村は町制を施行して「藤井寺町」が誕生しています。実は、⑤図の地図ではまだ「藤井寺 村」の表記のままになっていました。この地図は昭和4年の発行ですが、藤井寺経営地の姿はまだ反映されていないのです。逆に、そのお かげで経営地が出来る前の様子がわかります。仏供田池から西側は、一面に水田が広がっていたことが記号から見て取れます。 |
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⑤ 地図に見る拡大された仏供田池 昭和初期 1/2万5千地形図大阪近傍九号・和歌山五号大阪東南部ノ四 『古市』〔昭和4(1929)年6月発行 大日本帝国陸地測量部〕より 文字入れ等一部を加工 |
⑥ 藤井寺経営地と拡大された仏供田池(部分) 『大鉄全史』「第十一図 藤井寺附近地図」〔近畿日本鉄道 株式会社 1952(昭和27)年〕より 昭和8年頃まで 彩色・色文字等一部加工 |
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小さくなった仏供田池-第三の仏供田池 旧岡村の人々が多くのお金と労力を掛けて新池を築き拡大された仏供田池で したが、そのわずか40数年後には、再び大きさが変わることになります。しか かも、昔から在った元の仏供田池よりも小さくなってしまったのです。理由は 実に簡単で、仏供田池の半分以上が宅地に転換されることになったのです。た め池を埋め立てて住宅地に転用するという、市街化の先がけとなる出来事でし た。30年ほど後にはベッドタウンに変貌していく藤井寺市域で、市街化のため にため池が消えていく出発点だったかも知れません。藤井寺市史にはこの出来 事に関わる史料が図入りで載っています。 |
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⑦ 宅地転換された仏供田池 『藤井寺市史・第6巻』より かすれ・つぶれを補修して彩色し一部を加工 |
⑧ 仏供田池の大きさと形の変遷 『藤井寺市史・第6巻』掲載の地図をもとに作図。 |
『藤井寺市史第6巻』に『議案第四九号 地類変換ヲ為スノ件』という、昭和11(1936)年9月19日に当時の藤井寺町議会に提出された議案 書が掲載されており、議案の提出者は「藤井寺町大字岡部落有財産管理者 藤井寺町長 堀端重太郎」となっています。議案本文はわずか 1行で、『左記溜池及堤塘ヲ宅地ニ地類変換ヲ為スモノトス』です。左記として記載されているのは、宅地に変換する土地の一覧表で、地 番ごとの地目、反別(面積)が並んでいます。宅地に変換される土地の総面積は 1,967坪(6,491㎡)で、仏供田池全体の公簿面積3,652坪 (約12,052㎡=約1.2ha)の約53.9%を占めています。つまり、一度は拡大された仏供田池ですが、半分以上面積が減ってしまうということ です。上の⑦の地図がその範囲を示しています。この図は、議案書と一緒に市史に掲載されていた図を加工したものです。この図の仏供田 池の大きさが、明治時代に拡大されて以降の全体像だと思ってよいでしょう。仏供田池の最大面積は約1.2haあったわけです。 議案書の一覧表の後ろには、「理由」として、『曩(さき)ニ大阪鉄道株式会社カ住宅経営ト共ニ漸次本溜池利用田畑ガ住宅地トナリ其灌漑利用 田畑減少セルヲ以テ現在公簿面積三、六五二坪ノ内本案ノ通リ地類変換ヲセントスルニアリ』の一文が載っています。 池でなくなった場所は 『藤井寺市史第6巻』掲載の⑦の地図を基に仏供田池の変遷をまとめたのが⑧図です。明治時代の新池築造でかなり面積が増大した仏供 田池でしたが、「用水を利用する田畑が減ったから」という理由でばっさりと半分以上が埋め立てられ、宅地に変換されました。明治時代 中頃から昭和10年代に至る、わずか40数年の間の出来事です。 宅地への変換が決まった後、この場所がどのようになったのかを示す地図や写真がありません。最も近いと思われるのが、写真⑩で見る 様子です。宅地転用からほぼ10年後の昭和21(1946)年撮影の空中写真で、敗戦から1年も経っていない時期です。赤線の範囲が当時残っ ていた仏供田池、ピンク色の線が宅地に転用された推定範囲を示しています。宅地に変換された旧仏供田池の部分には、なぜか中学校が存 在しています。この土地に学校が開設されるに至った経過については、史料を探してはいますがよくわかりません。 この学校は、太平洋戦争が敗戦で終わる5ヶ月前の昭和20年3月に開校した、財団法人菊水学園の旧制「菊水中学校(後に菊水高校 1952 年廃校)」です。「菊水」という名がいかにも時代と地域を象徴しています。「菊水」とは、鎌倉時代末期に活躍した武士・楠木正成が用い た「菊水紋」に由来しています。楠木正成は後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くしたことで、戦前・戦中に忠君愛国のシンボルとして扱われ ていました。藤井寺市域を含む南河内地方は、楠木氏一族の根拠地ということで、各地のゆかりの場所が楠公(なんこう)史蹟になりました。こ の地域で「菊水」の名が付く事業所などが見られるのは、この時代の名残と言えるでしょう。 菊水中学校が開校して半年も経たないうちに敗戦となりましたが、戦後再開された全国中等学校優勝野球大会(後 全国高等学校野球選手 権大会)の大阪府予選には、昭和21年から26年まで出場しています。 菊水中学校は戦後になって「学校法人菊水学園・菊水高等学校」とな りましたが、昭和27年に廃校となりました。わずか7年間の存在であった菊水高校(中学校)でした。 その後、菊水高校があった場所は一時は公民館や幼稚園にも利用されましたが、やがて高度経済成長期になると商業用地に転用されて、 銀行や商業ビル、商店街が建ち並ぶ一角となりました。今や藤井寺市内の商業用地としては駅前一等地です。その最も南にある通りが「菊 水商店街」と呼ばれており、ここにかつての「菊水」の名を留めています。 写真⑨は、藤井寺の地にあっては珍しい雪景色の仏供田池です。北岸から南を写した様子で、後ろの辛國神社の森が見事な雪景を見せて います。そして、鏡面のような水面にきれいに映った逆さ景色が写真に迫力を加えています。掲載されていた『カメラ風土記ふじいでら』 では「昭和10年ごろ」と書かれていますが、埋め立て後の小さくなった仏供田池だと推定されます。推測される撮影位置や対岸との距離を 考えると、埋め立て以前の北岸からでは遠過ぎると思われるからです。いずれにせよ、今となっては、“健在”であった仏供田池の姿を残 す貴重なひとコマに違いなく、秀逸な写真だと思います。 |
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⑨ 仏供田池畔の雪景色 (昭和10年代の埋立以降と思われる) 北岸よりの撮影。後方に見える樹木は辛國神社の森。 『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)より |
⑩ 戦後間もなくの仏供田池周辺の様子 文字入れ等一部加工 宅地転換された部分には、戦時中に私立中学校(旧制)が開設された。 〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日 国土地理院〕より |
空から見る第三の仏供田池の変化 小さくなった仏供田池のその後の様子を、空中写真で追ってみましょう。写真⑪は、写真⑩の時から15年後の様子です。東京オリンピ ックを3年後に控えた昭和36(1961)年、日本社会は高度経済成長期の中で高揚感に覆われていました。多くの市民にレジャーを楽しむ余 裕が生まれてくると、各地で様々なレジャー産業が展開されていきました。仏供田池も釣り堀として利用されるようになりました。写真⑪ で、池の中に並ぶ釣り用桟橋の様子が見えます。菊水高校が廃校となった跡地には、最初の商業施設として三和銀行(当時)藤井寺支店が移 転して来ましたが、公民館や幼稚園といった公共施設にも利用されていました。しかし、この後数年という短い期間で、またたく間にこの 跡地は商業施設で埋まりました。経済成長がどんどん進む時代の中では、当然の結果とも言えるでしょう。 7年後の様子が写真⑫です。この時期に先立つ昭和41(1966)年11月1日、旧美陵町(みささぎちょう)は市制施行により「藤井寺市」となってい ます。すでに人口急増が始まっており、急激に進む都市化の真っ只中でした。三和銀行(現三菱UFJ銀行)に続き、近畿相互銀行藤井寺支店 (現関西みらい銀行)が進出しています。銀行に並んでパチンコ店もできました。さらに、A&Pやタマヤ百貨店といった年配層には懐かし い商業施設もできました。私も葛井寺の近くに住んでいた頃にはA&Pをよく利用しました。仏供田池のすぐ隣にあった店ですが、買い物 に行った時に仏供田池を見た記憶がありません。当時の私にはため池への関心などまったく無かったのですが、通りがかりに見た記憶すら 無いのです。多分、その時点では埋め立てが終わっていて、更地の状態だったのではないかと思います。ただの空き地に見えたのだと思い ます。 昭和46年3月の空撮写真を基に藤井寺市が製作した1/1万「藤井寺市管内図」では、仏供田池は空き地状態になっており、第3保育所が建 った場所には「工事中」の表記もあります。このことから、遅くとも昭和45年中には埋め立ては終わっていたのではないでしょうか。大阪 で日本万国博覧会が開催された1970年のことです。第3保育所が開所したのは、昭和46(1971)年4月です。 |
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⑪ 昭和36年の仏供田池周辺の様子 文字入れ等一部加工 写真④背景の地図は、この写真の頃の様子を表している。 〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より |
⑫ 昭和43(1968)年の仏供田池周辺 文字入れ等一部加工 菊水中学校跡地は商業地化し、釣り堀は廃止された。 『藤井寺市勢要覧1978』より |
さらに7年後の様子が写真⑬です。昭和50(1975)年1月の撮影ですが、その1年前の昭和49年1月には、更地状態だった場所に藤井寺市 内の都市公園第1号となる「ちびっこ広場」が完成しています。児童遊園はそれ以前にも出来ていますが、都市公園としては最初であった というのは、少々驚きです。写真⑭が開園して数年後の「ちびっこ広場」の様子です。 仏供田池跡地の南側半分には、市立第3保育所と市営駐車場が造られています。これらも時代の要請が求めた施設と言えるでしょう。旧 美陵町時代に保育所は2ヶ所体制となりましたが、人口急増期を迎えて、第3保育所以降にも相次いで新設されていきました。最大7ヶ所 まで増設されたのです。このような公共施設の新設事業にとって、ため池を埋め立てた用地が大変役だったことは既述の通りです。ほかに も、「長池」を埋め立てて新設された第5保育所の例や、鉢塚古墳の周濠を埋め立てて造られた藤井寺西幼稚園の例があります。 人口増加 → 住宅地増加 → 田畑減少 → 用水需要の減少 → ため池埋め立て → 人口増加で必要となった施設の新設、というサイクル が市内の各地でくり返されていきました。 |
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⑬ 公共施設に変わった仏供田池 文字入れ等一部加工 仏供田池の大部分は、公園・保育所・市営駐車場と なった。 〔1975(昭和50)年1月24日 国土地理院〕より |
⑭ 仏供田池跡にできた「ちびっこ広場」(北東より) 後方左の建物は市立第3保育所。後に改修されて写真の 池はなくなった。 『藤井寺市勢要覧1981』より |
市営駐車場も、マイカー時代の到来により新設が急がれた施設でした。当初は簡単に開設できる平面式屋外駐車場で開設されました。写 真⑬と⑮で、開設から数年後の市営駐車場の様子を見ることができます。更地に車が並んでいるだけ、といった感じに見えますが、当初は これでこと足りていたのでした。藤井寺市から他市へ転居した私も、時々この駐車場を利用させてもらいました。藤井寺駅から電車を利用 するためでした。しかし、この状況もそんなに長く経たないうちに限界を迎えます。満車になっている時間がだんだんと多くなってしまっ たのです。やがて、市営駐車場はいったん閉鎖されて、立体式駐車場の建設が行われました。現在の市営駐車場の様子は、写真⑰でわかり ます。この写真は空撮した鳥瞰写真に見えますが、実はGoogle Earthの衛星写真を3D化機能によって3D画像化したものです。空撮ほど 鮮明ではありませんが、空撮費用の無い者にとっては有り難い機能です。上空から俯瞰した大まかな様子は、これでも十分に把握すること ができます。現在の市営駐車場は駐輪場専用の建物も併設されており、正式名称も「藤井寺市立藤井寺駅南駐輪・駐車場」となっています。 2021(令和3)年末、立体式駐車場の解体撤去工事が行われ、この部分も平面式屋外駐車場に変わりました。そして、ここの駐車スペース は定期利用者専用となりました。一時利用者用は従来の屋外駐車場だけになりました。周辺に民営コインパーキングが次々と誕生したこと が背景にあると思われます。この改変によって藤井寺駅南駐輪・駐車場もすべて機械式入出庫方式となり、24時間利用可能になりました。 「ブクンダ公園」に変わる ![]() 昭和49年1月に開園した「ちびっこ広場」は数年後には名前が変わりました。新名称は「ブクンダ公園」です。『藤井寺市勢要覧1978』 ではまだ「ちびっこ広場」で載っていますが、昭和53(1978)年7月修正版の1/1万「藤井寺市管内図」では「ブクンダ公園」と記入されてい ます。どうやら昭和53年の春頃には「ブクンダ公園」に変わったようです。この名称変更で、ついに「仏供田池」を「ブクンダ池」と読む 実在しなかった名称が登場したのです。この時以降に「ブクンダ」という名前を初めて見聞きした市民が多かったと思われます。池が埋め 立てられて以降、「仏供田池」の文字を目にすることもほとんどなくなり、池が在ったこと自体を知らない多くの新市民が増えていたから です。 ちびっこ広場の名前が変わったのは、他の公園の整備と関係しています。この頃、市では各小学校区に順次都市公園の新設を進めていま したが、既述の通り、公園にはその場所の昔の小字名を使った名称が付けられました。それに合わせて「ちびっこ広場」も、小字名でもあ った「仏供田池」から採ったつもりの「ブクンダ(誤認名であるが)」を付けた名前に変えられたのです。 ブクンダ公園は平成時代に入って後、市立藤井寺駅南駐輪・駐車場の建設と前後して公園全体がリニューアルされました。円形の池に代 わって流れる川ができ、花壇や大きな藤棚、身障者用トイレの整備なども行われました。そうやって出来上がったのが、写真①②で見られ る現在のブクンダ公園です。俯瞰した全体の様子は写真⑰でもわかります。春には桜や藤の花、色とりどりの花壇で賑わい、秋には紅葉も 見られます。藤井寺駅周辺が市街化した中にあって、ゆったりと過ごせる貴重な憩いの場となっています。 |
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⑮ 空から見た仏供田池跡地(北西より) 1978(昭和53)年頃 『カメラ風土記ふじいでら』より 文字入れ等一部加工 |
⑯ 残された仏供田池の一部(北西より) 1978(昭和53)年 『カメラ風土記ふじいでら』より |
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残された仏供田池-姿は見えねど 昭和40年代中頃に埋め立てられて、公共施設用地として転用された仏供田池 ですが、写真⑬や⑮でわかるように、池の一部だけは残されました。公園の東 側に出っ張っていた部分で、上の写真⑯が近くで見た様子です。調整池や防火 用水池としての役目が残されたのだと思います。水質維持のためでしょうか、 池の中には6本の噴水が吹き上げていました。 わずかに残された仏供田池でしたが、左の写真⑰で見える通り、今ではその わずかな池の姿さえ消えてしまいました。市営駐車場の改造が行われた時に屋 外平面駐車場となり、数年前からコインパーキング形式になりました。下の写 真⑱がその様子です。 この平面駐車場化によって、「仏供田池」は完全に姿を消しました。寂しい 限りです。一時は約1.2haもあったのにです。 |
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⑰ 写真⑮の場所の現在の様子(北西より) 〔GoogleEarth 3D画像 2021(令和3)年2月〕より |
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視覚上は完全に姿を消した仏供田池ですが、実は姿を変えて今も存在しているのです。写真⑱の駐車場のコンクリート地面の下に仏供田 池は今も生きています。ここを屋外平面駐車場に変える時に埋め立て工事はされていません。池の上にふたをかぶせるようにして駐車場が 造られたのです。残り少ない防火用貯水池としても重要だったのでしょう。今も消防水利として現役です。下の写真⑲は、その消防水利と しての採水口の写真です。公園と屋外駐車場の間の通路に面して、南北2ヶ所・計4口の採水口が設けられています。ただ、何の表示もあ るわけではなく、よく見たとしても下に池が存在していることは、多くの人にはわかりません。「何でこんな所に消火栓が?」と思う人す らごく少数でしょう。ましてや、並んでいる車の下に大きなため池の一部が眠っていることなど、まったく思いのほかでしょう。しかしな がら、この採水口は、かつて仏供田池があってその一部が今も存在していることを示す、唯一の見える証拠物なのです。 |
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⑱ 残存仏供田池の上にできた平面駐車場(北東より) 中央後方の黒い屋根の建物は駐輪場。右側後方はブクンダ公園の桜。 2022(令和4)年4月 |
⑲ 仏供田池の採水口(西より) 2ヶ所ある内の北側採水口 2016(平成28)年11月 |
時代の中で-変化を続けた仏供田池 延々と仏供田池の歴史を紹介してきました。時代の状況に合わせて、仏供田 池は様々な姿に変わり続けてきました。仏供田池の変化が、そのまま藤井寺市 域の変化を象徴していると、私には思われます。 同じような変化は今も仏供田池跡地の周辺で続いています。写真⑰を⑮と比 べて見ると、市営駐車場のほかにも車の並んでいる場所が増えています。写真 左下で車が並んでいる場所は、以前は複合商業ビルでした。その前は写真⑫に あった小型スーパーのA&Pでした。高度成長期にできた商業ビルも、今では コインパーキングに変わっています。戦後に仏供田池の東に出来て賑わってい た商店街も、アーケードの半分が無くなり、代わってここにもコインパーキン グが出来ています。 |
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⑳ 菊水高校跡地の商業地(南東より) 2018(平成30)年10月 写真⑩の中学校の範囲はすっかり商業地となっている。 右側の道路の突き当たりが藤井寺駅。左道路の左側にブク ンダ公園がある。 合成パノラマ |
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人口増加が止まり、人々の生活スタイルも変わり続けています。消費動向も変化をします。それに合わせて商業地が変化をするのはやむ を得ないことだと思います。現在の駅前商業地や公園の姿から、かつての仏供田池の存在を想起するのはまず無理でしょう。それは他の消 えていったため池についても同じことが言えると思います。ただ、本ページで仏供田池を紹介した私としては、仏供田池がただ無くなった というのではなく、言わばドラマチックな変化をくぐり抜けてきたという事実を、少しでも多くの人々、特に藤井寺市民の皆さんに知って いただき、記憶に留めていただくことを切に願うものです。 写真⑳の場所を初めて見て、ここが高校の敷地であったことを想像する人がどれだけいるでしょうか。ましてや、その前はため池であっ たことが思い浮かぶ人はいるのでしょうか。時代を経た地域の景観の変化とは、まさにこの仏供田池のような変貌ぶりが象徴していると思 います。小さな地域の景観の変貌の中には、その地域の小さな歴史が秘められています。 |