エゾシカの  2000/08/01〜2000/08/31

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2000/08/31

続・肉欲

 業務上、強引に己の肉欲を奮い立たせた事が2度程ある。誤解無き様断っておくと、此処で言う「肉欲」とは所謂性欲の婉曲的言い換えでは無く文言通りの「肉」に対する欲求である。

 以前居たことのある職場に於いては先ず自己紹介の際に自らの酒肉に対する欲望が極めて薄い事をアピールしていたのだが、皮肉な事に或る日、食肉関係の得意先を担当することになった。非常に興味深い業務内容である一方、兎に角食肉関係の知識については食肉経験が頗る不足していた為に噸と疎い。

 私が当時の業務について心掛けていた事の一つとして「新しい得意先を担当したら先ず其の商品を知り、用い、好きになろうとする」事が挙げられる。別に得意先におべんちゃらを遣う為ではなく、自らが其の商品を知らない事には、好きにならない事には始まらない仕事であったというだけなのだが。

 そんな訳で昼食時だとか得意先を訪れた際だとかにわざわざ肉欲を奮い立たせて先輩を誘い、焼肉屋に足を運んだりしていたのだ。考えてみれば、自ら人を誘って焼肉屋に足を踏み入れる経験など、後にも先にも無さそうな気がする。

 そしてこんな事もあった。或る別の得意先に於いて食事にご招待与った時の事。行き先はカツ専門店。次から次へと豚、牛、鶏等が同一の料理法を施されて食卓に登場する。通常の食事であれば他のメニウに興じる事も出来ようが、運悪くカツ専門店、食卓に一切逃げ場が無い。更に此等の料理は大皿形式ではなく、一人一人に盛りつけられて次から次へと登場する為、目の前に居る変化した動物達を次々と己の胃袋に納めていかないと二進も三進も行かぬ。得意先にご紹介いただいている手前、私は嫌な顔一つせずに彼等をぱくぱくと貪り食っていたのだ。

 仕事の為に自分を曲げることは極力避ける様振る舞い続けてきた積もりであった(別に「そういったスタイルがかっこいい」とかという理由ではなく、自らの性格を考えるとそうせずには自らが破綻してしまう虞がありそうなのだ)のだが、上記の行動が可能だったという事は、余程「肉欲を奮い立たせることがちょろい」のか「仕事の為に自分を曲げている」という意識が希薄だったのかの何れかなのであろう。出来ることなら後者であって欲しいのだが。


2000/08/30

肉欲

 実は肉欲が殆ど無いのである(1999/08/31参照)。誤解無き様断っておくと、此処で言う「肉欲」とは所謂性欲の婉曲的言い換えでは無く文言通りの「肉」に対する欲求である。

 私に獣心が芽生えた6年前の話でも無ければ、草食獣の名称をハンドル名に用いた3年前の話でも無く、物心ついた幼少時より私は肉が食べられなくなっていた。其れ以前は全く気にせず肉を食べていたという関係者の証言から、恐らく獣達の死体だとか屠殺シーンだとかを何らかの形で目にした事が原因なのかも知れぬ。

 お陰で小学校の給食では非常に難儀した。栄養のヴァランスを考えてほぼ毎日の様に何らかの形で肉が混入されているのだが、その所為で私は給食を食べる時間が非常に長くなり、決まって昼休みを全部潰したり放課後まで食べさせられたりしていたのだ。勿論そんな事をしても私の肉嫌いが無くなる訳ではなく、教師が根負けして「もういい、残しなさい」と言うのを只管待つという日々が続いていた。

 親も好き嫌いを無くそうとして彼の手此の手を用いて私に肉を食べさせようとしていた。料理の中にさり気なく混入させるのは日常茶飯事であり、時にはどう見ても肉にしか見えぬ食品を通常と若干異なった加工を施して「これ肉ちゃうで」と言って口にさせるという荒技も用いていた。

 しかし其の一方で、ハンバーグやソーセージの類は苦もなく口にすることが出来、昔も今も「好き」な部類に属する。只単に「肉の原型を留めていたら駄目だが原型を留めぬ加工品であれば大丈夫」という事なのであろう。此は或る意味判り易い。

 処が此の「一般的基準」にも揺るぎが生じる事になる。歳を経るに連れて今まで口にしたことの無いような肉料理を食べることにより、「ん?これ肉やけど案外いけるやんけ」という事になる事が屡々あった。高校時代に初めて口にしたチキンナゲットは其の後好物と化し、学生時代に初めて接した牛タン、社会人になって初めて接したしゃぶしゃぶは、何れも及第点を与えることができたのだ。

 さて、斯様に肉欲が少ない上に偏っている私が、先週の「獣医師広報板」オフ会に於けるしゃぶしゃぶに次いで、今週末に或るサイトのオフ会で手羽先を口にする事が決定した。手羽先の本場である名古屋に於いて、無事己の肉欲を奮い立たせる事が出来るかどうかが非常に楽しみである。


2000/08/29

女体盛り

 深夜番組を観ていたところ女体盛りについて言及されていたのだが、現在旅館の料理として女体盛りがメニウとして提供されているのは全国広しと雖も2箇所程度しか無いそうである。

 其の2箇所のうちの一つと思われる北陸の或る旅館宿、毎年私の勤める会社の或る支社にパンフレットを大量に送ってきていたのだが、其れがどういう訳か其の支社に居た同期から全く関係無い私の処に100部程度お裾分けされてくる機会が屡々存在した。

 昔は其のパンフレットにも女体盛り写真が堂々と掲載されていたそうなのだが、流石に送り付けられる側としては、頼みもしない女体盛り写真のパンフレットが大量にあっても処理に困るだけであり、旅館側に相当の苦情が来たに違いない。何時しか女体盛り写真はパンフレットから消えてしまい、料金表だの宴会の他の出し物だのが女体盛り写真に取って代わる事となったものと推測される。

 其れにしても、其れにしてもである、殆ど怒りに近い疑問なのだが、何故女体盛りは決まって女体に刺身なのだ。此程までに外道な刺身の食し方を私は知らぬ。只単に中年女性の張りのない肉体に食物が並べられた事が外道というよりは、新鮮さが売りの食物をわざわざ人肌で温めるという行為が許せないのだ。

 とはいえ、考えてみた処、日本料理に於いて人肌で食すのが適当な食物というものが存在するのであろうか。余程人肌に厳しい熱さか、人肌で温めるべきでない適度な冷たさを有しているかの何れかであろうに。畢竟、女体盛りなる料理自体、日本料理に於いて素材の旨さを活かしたものとは言えぬのだ。

 最近ブームの牛丼店に於いて、通は御飯とは別に牛だけを皿に盛って食すようである。此処は一つ、女体盛りにも「別盛り」の導入を提唱したい。


2000/08/28

虎・馬・鹿

 2000/08/07で触れた通り、寓居近辺の車道は歩行の際若干危険を伴う。通勤及び帰宅の際に此の道路を横断すると、時々過去を想い出すのである。

 小学校の頃、知人と戯れながら下校の途に就いていた際、知人が車道を横断して逃げ出した為に私は此を追いかける事になった。自動車の通行量の少ない此の車道、丁度横断歩道が青になる前であり、本線の自動車用信号は黄色が点灯していた。「信号が黄色になれば自動車は減速して停車の準備をする」という教育的知識しかなかった小学生にとっては「信号が黄色になれば運転手は信号に引っ掛かるまいと急加速を始める」という常識は全く通用せず、私は黄色信号に焦って見通しの良い直線道路を飛ばしている自動車に勢い良く跳ね飛ばされる事となった。

 時速数十キロの鉄塊との衝撃、自らが宙を舞っている光景は其の際強く印象に残ったのだが、自分が次の瞬間にどうなるのかという処にまでは思慮が及ばず、地面に叩き付けられる衝撃や死の恐怖を感じる事は無かった。貴重な経験をふいにしたものである。

 地面には仰向けに叩き付けられた。通常で有れば間違い無く「運悪く後頭部挫傷若しくは頭蓋骨陥没により死亡、あの時若し俯せであれば顔面は潰れても命だけは…」という事になって関係者の涙を誘っていたのであろうが、幸いな事に背負っていたランドセルが緩衝剤となり、結果的に骨折すらせずに頭や手足を若干擦り剥いた程度(全治2日、3日後には登校していた)で済み、而も跳ねられた直後に泣き乍らも運転手を自宅までナヴィゲイトしていたのである。今更だが家に行く位なら即病院に行けよ。

 しかし此の時の経験が暫くトラウマとなり、2車線以上の道路を横断する際には如何なる場合に於いても必ず中央の車線分離帯上で立ち止まってしまうようになってしまった。運転手に何度怒鳴られても、此の習性は暫く身体から抜けきらなかったのだ。

 はたと気付いたのだ。此ぞ正に2000/08/01で触れたエゾシカの習性。私がエゾシカを名乗る背景には自らも知らぬ形で此の時のトラウマの影響が有るのかも知れぬ。


2000/08/27

風俗広告

 私にしては珍しく所謂下ネタなるものに真正面から取り組んでみるのも偶には良かろう。

 先日オッサン向け夕刊紙を購入する事になったのだが、風俗広告を目にする内に或る事に気付いた。通常は風俗嬢のプライヴァシー保護の為に顔の一部を隠した状態で写真が掲載されているのだが、目を隠すのが普通だと思っていた処、どうやら口を隠すのが最近の風俗広告に於けるトレンドとなっているようなのだ(因みに囲碁欄に於いても女流名人戦の挑戦者が同じポーズの写真を掲載されているではないか)。以前からそうだったのかも知れぬのだが如何せん風俗には関心の薄い私(1999/06/14参照)にとっては幾ら写真入り情報が氾濫しようと余り印象に残っておらず、今回偶々じっくりと風俗広告を目にして判明した次第。

 ユーザー側の強い要望があった事は幾ら風俗に関心の薄い私と雖も容易に推測がつく。目を晒すことにより顔が印象に残り易くなり、取り敢えず視覚的に楽しむべき箇所である風俗嬢の顔で店の善し悪しを判断できるというメリットがある。因みに幾ら印象に残り易いと言っても此が若し乳首だの女陰だののみの写真だとすれば、揉み応え、歯応え、汁の味、濡れ具合、締まり具合等の本来的機能が全く伝わらぬ為に余り意味を為さない。其れを考えると、顔の中でも本来的機能が視覚的に楽しむものと言うよりは吸い付き具合、しゃぶり具合等を楽しむものである口については、広告に於いて敢えて晒す事に対するニーズも少ないのであろう。

 処が本来の目的である風俗嬢のプライヴァシー保護の観点からは大きなマイナスになるのではないか。人間が他人を認識するにあたり最も印象に残り易いのが目である事は経験則上ほぼ間違い有るまい。然るに印象度が薄いのではないかと思われる口を隠して肝心の目を晒すのでは、顔を晒しているのと殆ど変わらぬのではないか。風俗に関心の薄い私が論じるのも何なのだが、私なりに理由を幾つか考えてみた。

・人間の本能として、「隠された物は猥褻である」という先入観があるのだが、其れを利用することにより何気ない顔のパーツでもユーザーのエロティシズムを本来の実力以上に駆り立てる事が可能となる。
・我々には想像もつかぬような口技や舌技を惜しげもなく駆使出来るよう、密かに風俗嬢の口が特殊な形に改造されており、とてもじゃないが公開できない。
・実は此等の写真、風俗嬢ではなく精巧なダッチワイフであり、だらしなく丸く開いた口がばれぬように隠されている。

 何れの模範解答も今一つ決め手に欠ける。矢張り風俗に関心の薄い私にとっては困難なテーマであった。親切な読者の方々からの御教示が頂ければ幸甚である。


2000/08/26

機種交換

 「獣医師広報板」のオフ会に参加する為に大阪入りした序でに携帯電話を買い換える事にした。契約しているNTTドコモ関西のエリアという事で、1999/05/15で述べたような不自由を感じずに済む上、関西は何よりも電話機代が安いのだ。

 さて、今回買い換えを行う事にしたのは、前に持っていた機種(1999/06/03参照)の操作性が極めて悪かった所為である。ボタンが細く固い為、小さいボタンを狙って爪先に力を入れて操作せねばならず、メールなぞ打とうとすると指が攣りかけるのだ。携帯時に何かの弾みで誤ってボタンが押されることが無いように工夫されていたものらしいのだが、其れだけの工夫が為されているにも拘わらず、スーツの内ポケットに入れているだけで誤ってボタンが押され、用の無いところに電話が掛かってしまい苦情を受けるケースが偶にあったのだ。因みに私の胸は洗濯板の様に骨が浮き出ているもので無ければ鋼の筋肉を誇っているものでも無い。

 当時はiモード対応の機種が他に無かった為の仕方ない選択であったが、今回は選択の余地が相当ある。機種を色々検討している際に、少なくとも私にとっては不可解な事実に気付いた。全体若しくはボタンを覆う部分が二つ折りになっている機種があるのだが、此が相対的にずば抜けて高価格であり、而も非常に人気が高いのである。何故なのだ。

 私が携帯電話を選択する際には端から購入対象から除外する此の手の機種、兎に角不便ではないか。とりわけ全体が二つ折りになるタイプ、発信の時だけでなく受信の時も一々蓋を開けねばならぬ。受信の際など其の分受信音が鳴り響く事になり、場所次第では周囲にも不快感を与え兼ねぬ。他にも、通常時には画面が見えないために、待ち受け画面の日時表示を時計代わりに用いる事も能わぬ(注:最新機種は蓋を閉じた状態で日時表示の確認が可能)。此の手の機種のメリットとしては「折り畳んでコンパクトになる」点が挙げられているが、其の分分厚くなる為、シャツの胸ポケットやジーンズのポケットに納めにくい。大体、移動時に携帯電話を鞄の中に入れておれば全く意味の無いメリットではないか。コンパクトさでは非折り畳みの同等機種で優れている物があるではないか。「画面とボタンとが別のパーツになっているので画面表示が広く取れる」というメリットも良く言われる処ではあるのだが、これとて非折り畳みの同等機種に優れた物がある。私が認めるメリットといえば精々「誤ってボタンが押される事が無い」事位か。

 因みに各機種の買い換え価格は、「全体折り畳み式・白黒液晶」>>「非折り畳み式・大画面・白黒液晶」>「ボタン折り畳み式・カラー液晶」>>「非折り畳み式・カラー液晶」>>>「非折り畳み機・コンパクト・白黒液晶」(因みに此の機種に至っては交換無料)という感じであり、人気も此に比例していると言えよう。考えれば考える程、全く解せぬ。


2000/08/25

最近の食生活

 1週間程ぶっ続けで「日本に来ても故郷を懐かしむイタリア人」の如き食事を繰り返している事に先日気付いた。要は連日必ず昼か夜にパスタかピザを食していたのだ。尤も全てが自ら欲した訳ではなく、「飲み会に行こうとして和食系の店を訪れた処偶々休日で他に空いている店に連れて行ってもらったらイタリア系の店であった」という偶然も含まれているのだが。

 確かに元々イタリア系の食事は好きな方である。学生時代にボンゴレビアンコを食した際に食中りを起こし、発熱、嘔吐、悪寒、腹痛等を起こして数日間寝込んでから半年間、此がトラウマとなりパスタが食べられなくなった時期を除けば、自炊やインスタントや外食などでパスタやピザを口にしている。本筋とは離れるが、食中りの原因は、ボンゴレビアンコの缶入りソースを一旦開封した後半月程放置して食べた為浅蜊に中ったものと思われる。結局自分で招いたトラウマかよ。

 さて、此程迄にイタリア系の料理が続けば一体何処まで続くのかを試してみるのが人情と言うもの、早速試してみようと思ったのだが此を断念せざるを得なかった。偶々一昨日、賞味期限が明日に訪れる雪花菜を安いという理由だけで400gも購入した為、此を消費するのに胃袋を割かねばならねばならないのだ。遠大な試みを袖にして、味の付いていない雪花菜に振り掛けや鰹節を混ぜて、ぱさぱさの雪花菜を喉に詰まらせながら己の無計画さを悔いていた昨夜の夕食タイムであった。


2000/08/24

舌打ち

 通勤の際にエレヴェータを用いるのだが、このエレヴェータ、なかなか親切というか、人が良いというか、はっきり言って機械には不要どころか害とも言えるような性格を持ち合わせているのである。

 幾ら扉が閉まろうが、後から駆け込んで乗ろうとした人が外から昇降ボタンを押せば、一旦閉まった扉が再び開くのである。エレヴェータの数も利用者も少ない所であれば、後から乗り込む人を助けた方が良いだろうし、こういったケース自体其程発生しないであろう。しかし先述の場所にはエレヴェータが10機程並んでいる上、人の往来が絶えないのである。従って、エレヴェータが発車しようとする→後から来る人が扉を開いて乗り込む→また扉が閉まろうとする→後から来る人がまた乗り込む(人間の習性として、扉が閉まろうとすれば尚更遠くから駆け込んでも其処に入ろうとするものである)→…を繰り返している内に別のエレヴェータがやって来て其処に人が流れるようになって初めて当該エレヴェータが発車できる、といった事態が恒常的に生じているのだ。既にエレヴェータに乗っている人にとっては迷惑極まりないばかりか、後から乗り込む人にとってもさしてメリットが無いのである。

 前置きが長くなった(此処までは前置きだったのか。書いている内に本論を忘れかけていたではないか)。そんな訳で、既にエレヴェータに乗っている人は、出発直前に再び扉が開くことによる不満や苛立ちを感じるのだが、屡々そういった感情が或る形で発露されることになる。必ずと言って良い程舌打ちをするオッサンが出てくるのだ。

 「俺はむかついているのだ」という事を改めて周囲に知らしめているのだろうが、冷静に考えれば此の行為、非常に下品なものでは無かろうか。唾液で覆われた粘膜である舌と歯茎・口蓋とをひっつけた上で、其の粘性を利用して音を立てる。質的にはディープキスの際に舌や唇や歯茎や口蓋等をべちゃべちゃと引っ付けたりするのと同種のものではないか。更に音の内容だけを採り上げれば、口と口のみならず、口と性器だの、性器と性器だの、性器と器具だのとが織りなす音とそう変わらぬ。

 公衆の面前に於ける若者達の性行為及び其の付帯行為を批判する中高年の言い分の一つに「人前であんなにチュッチュチュッチュしやがって…」というものがあるが、何の事はない、音だけで言えばオッサン共もさほど変わらぬ事をしているではないか。


2000/08/23

筑紫哲也NEWS23

 先週の事、報道番組「筑紫哲也NEWS23」に於いて、一般人を100人程度スタジオに招いて「責任」についての議論を戦わせていた。彼等は世代別に3グループに分けられており、必然的に世代間に生じる責任観の相違を浮き立たせるものとなっていた。

 此の特集、個人的にはまどろっこしい議論に思えた。責任について語ろうとする以前に、大抵の意見が「最近の若者はなっとらん」「何を言うか、俺達の何処が悪いのだ」などという世代批判に終始していた感があったのだ。只単に或る事象について、「お前の考え方は間違っている」「いや違う、俺達はこう考えているのだ」などという議論を交わしても、其の論拠や背景が呈示されない限り全く不毛な議論ではないか。尤も此が最後には「現代は皆に責任感が欠けている」「そういった状況は良くない」という結論に収束することになったのだが。

 此のまどろっこしさ、或る意味に於いて筑紫哲也の真骨頂とも言えるのではないか。討論の場に於ける彼の司会の特徴として、先ず主題に纏わる当事者の意見をとことんまで抽出し、当事者同士が意見を出しながら考え方を整理させていく事により何らかの収束を図っていく点が挙げられる。此の手法、真理の追究という点に於いては非常に適切であり、第三者が此から其の主題について考えていく為の一助にするのに持ってこいである一方、第三者が既に其の主題について或る程度考えを深度化させている場合には「何で今更そんな議論を行うのか」「どういった結論に着地するのかが今一つ不明確」等という不満を抱くことになるのだ。

 斯うした演繹的手法に相対し、帰納的手法に拠る討論の司会を行う代表として田原総一郎を挙げることが出来よう。彼の特徴は、「先ず結論ありき」で其の結論に持っていく為に深々と議論を進めていく事と言って良かろう。予め収束点が第三者の期待通りになることが予想される主題についての議論であれば、正に第三者の期待に添う形で議論が進んで行くため、此程面白い物は無かろう。処が収束点がどうも期待と異なると思われる場合だとか、収束を急がずに議論を進めて欲しい場合に於いては、「目立つな」「せっかち」などという感情を彼に対して抱くことになるのである。

 前置きが長くなった(此処までは前置きだったのか。書いている内に本論を忘れかけていたではないか)。此の番組に於いて只管私に怒りの激情を駆り立てたシーンが一つあった。「最近の若者は無責任」という中高年からの意見に対する若者の意見として、子供の不始末を親が庇って謝るケース等を挙げて「我々の親の世代が子供に対して責任を持ちすぎた為に我々が無責任になってしまった(=若者が無責任になっているのは親の所為である。しゃあないやんけ)」というものがあった。確かに或る意味其の通りだと思うのだが一寸待て!貴様が言うな貴様が!

 餓鬼なら兎も角二十歳前後の者が「私達、今まで責任をとることがなかったから今後も責任をとりません」「責任の取り方を誰からも教えてもらわなかったから責任がとれないんです」「批判するのなら、教えてくれなかった人達を批判してください」である。自分の行動についてどういった責任が付随するのか判らんのかよ!阿呆か貴様等。「ではどうすれば責任が持てるか」「こういった場合に於ける責任とは何か」等、貴様等が自分で考える事ではないか!

 処が更に情けない事に、こんな正論じみた責任転嫁の意見に対して中高年側が「阿呆か貴様等、ええ年になってそんな事も考えられんのか」と言えば済むものの、一生懸命「否、親の世代も一生懸命責任を伝えようとしていた」などという自己正当化及び水掛け論しか返していなかったのだ。もう怒りが収まらんわ気が抜けるわ…。


2000/08/22

日本経済新聞・5

 「エゾシカの嘶き」上で何かとお騒がせな日本経済新聞(って騒いでいるのは私の方ではないか)を自宅にて定期購読する事になった。嘗て勤務先の採用パンフレット用インタヴューに於いて「おれ学生時代日経なんて全然読んでなかったんやで〜」などと脳天気な答えを夢多き学生達に対してかましていた私が、其の日経を定期購読するとは時代も変化したものである。

 さて、「エゾシカの嘶き」と共に何度と無くお互いの著作を意識しつつ切磋琢磨してきた事により、日本経済新聞側も私に対する特別な感情が芽生えてきたのであろう。今回の定期購読にあたり、様々な歓待を其の紙上に於いて展開してくれたのである。

 定期購読の申し込みを行ってから宅配の当日まで、広告欄に不可解な商品の宣伝が掲載されていたのだ。通常は書物類の広告で埋まっているスペースに、いきなり枕の宣伝である。何じゃい此はと思ってよくよく読めば、其の枕、何と2000/07/18で触れた快眠枕ではないか!恰も「我々は『エゾシカの嘶き』を今でも精読しています」と宣言せんばかりの行動。

 次に驚いたのは宅配初日の新聞。2000/05/06で触れた通り抑も其の存在自体が「エゾシカの嘶き」を意識したと思われる別刷りの文化欄の中に「CMネットワーク」なるコラムがあるのだが、此の文章を読んで私は目をひん剥いた。此の文章、一般論→当のTVCMの紹介→着眼すべき点→更なる疑問・問題点提起→其の解決→オチと流れる展開、「…ではないか」という疑問提起や「…いるのだ」という断定等、私が「エゾシカの嘶き」上で屡々展開するTVCMに関する文章と酷似しているのである。「我々はあなたの文体を身につけるまでに至りました」という記者の言葉が明瞭に聞こえてくるではないか。

 そして数日後、今度は非常に手荒い歓待を受けることとなった。株価欄の「銘柄診断」なるコーナーに於いて「軟調な展開」「アナリストは『弱気』判断」「今期は(コストの)削減余地が少ない」「上値の重い展開となる公算が大きい」などというネガティヴな言葉で論評された其の銘柄こそ正に、私が先日購入した直後に暴落し、小遣いどころで済まぬ含み損を抱えさせているものであった。「我々にとってはあなたの行動くらい何でもお見通しなんですよ」というストーカー的主張と言えよう。

 此だけの事象が私の定期購読を機会に連続して発生している以上、只単に私の思い過ごしであるとは誰も思えまい。


2000/08/21

寝過ごし

 またやってしまったのだ。此の週末の和歌山旅行、寝過ごしの為出発が遅れてしまった。3年前、九州旅行の際に見事に寝過ごしてしまい、新幹線で同行する予定だった人間に追い付こうとして急遽羽田空港に向かったものの、3連休初日という事で福岡や熊本便に全く空席が無く、熊本に行く為に大分空港に向かわねばならぬ事になり、結局半日で期せずして九州を半周したのだ。而も所要時間は新幹線で追いかけるのと全く同じ。時間も金も無駄になってしまった。其れでも懲りずに昨夏の旅行前に思いっきり寝過ごした件については1999/08/10で述べた通りである。

 そして今回。朝クリーニング屋に寄った足で旅行に出発する予定が、目覚めれば既に当初乗車する予定だった列車が発車した後。結局クリーニング屋に寄る間も無く旅行に出掛けることになってしまったのだ。

 其れにしても此では旅好きの名が廃ってしまうではないか。以前はこんな事など無かったのに…と纏めようとした処、旅行の際に寝過ごしで痛い目に遭った経験は今に始まった事では無い事を想い出した。車中で寝過ごして下車すべき駅を通過してしまった経験が数度、そして其れ以外にも印象的な寝過ごしも一度あったではないか。

 1999/10/25で触れた話にある、駅前で寝袋にくるまれて寝ていた処を暴走族に取り囲まれてしまった時の事。金品を奪われたり身体に危害を加えられたりする事無く無事窮地を脱した私は、先程追い出された駅に戻り、駅員の目を盗んでホームで眠ることにした。

 恐怖から逃れて安心したのだろうか、目覚めて私の視界に入ってきたものは、私が寝ていたベンチを避けるようにして存在していたラッシュアワーの通勤客の人混みであった。不特定多数の衆人環境に晒されながら横になって眠ったのは後にも先にも此の時だけである。


2000/08/20

自炊

 名古屋に来て1ヶ月余りで生活及び気分の持ち様に若干余裕が出てきた所為か、最近自炊を試みるようになった。「自炊」とは言えまだ素材から作るには至らず、米や汁物、或いは麺類を用意し、半調理品を何品か付け合わせるといった程度なのだが。

 米を買ったのが自炊意識に拍車を掛けている。総菜だけをわざわざ購入する気にはなかなかなれぬが、暖かい銀舎利があれば否が応でも総菜を準備せねばならぬ。近所にコンヴィニがあればパックの総菜を買えば済むのだが幸か不幸かコンヴィニは仕事帰りに立ち寄るのは些か困難な位置にあるのだ。そうなるといきおい週末に近くのスーパーで食材を買ったり、仕事帰りにわざわざ一駅乗り越して駅前のスーパーに足を運んだりする事になる。となると必然的に100%出来合いの総菜よりは素材に近いものを購入することになってしまう。

 以前仕事で現代食卓事情を分析する事になった際、週末毎に目を血走らせてスーパーの食品売り場を巡っていた事が有ったのだが、自らの生活に直接役立てるべく血眼で食品売り場を巡るのは学生時代以来の事、其れこそ飢えた野獣の如くあれも此もと買い漁る。其の結果当然数食では処理しきれない量になってしまい、一度買い物をすれば自ずから数日間自炊を続けねばならなくなるのだ。

 そういった生活を送る中で、自らの食した物を記録して以後の料理のネタの参考にすべく、人知れず「EZOSHIKA CHAT」を用いて食事を記録することにしている。「お前こんなもんばっかし食ってたらいかんぞ」だの「パスタにはあんかけが一番似合う」だの「朝食にはトーストに小豆を載せて食べてみろ」だの「赤味噌無くして名古屋で生きていけると思ったら大間違いやぞ」だののご助言を期待している。因みに最後のは助言ではなく脅迫だと思われるが。


2000/08/19

ニューハーフ

 2000/08/06で述べた東山動物園訪問の際、ふれあいコーナーにいた馬と触れ合う(一方的に触れるだけでは無い)ことが出来た。数頭居る内の一頭がなかなか人慣れする性格なのであろうか、触ってくれと言わんばかりに柵に寄り掛かって佇んでいたのだ。生身の馬とも暫くご無沙汰だったばかりでなく、名古屋に転勤して以来予想外に貧困な競馬中継及び競馬情報番組の影響(余り知られては居ないが、中京地区に於いては関東地区で放映されている全競馬番組の内、メインレース前の1時間程を除いては全て競輪番組に置き換わっていると言っても過言では無いのだ。関東地区を中心に土曜深夜に放送されている、さとう珠緒の下着の色情報を入手することが可能な競馬番組など中京地区に於いては全く以て論外である)により、馬自体を目にする機会が減少し、馬欲が暴発せんばかりに私の中に蠢いていたのだ。此の苦しみを喩えれば、生身の異性(勿論人によっては同性だとか動物だとか器具類だとかも有り得る)との性行為が出来ないばかりかエロヴィデオすら観賞することが出来ない苦しみと同様のものと言えよう。言う迄も無いが此はあくまで喩えであり、私が馬と性行為を出来ずに苦しんでいるだとか、馬のエロヴィデオを観賞できずに苦しんでいるだとかという事では決して無い。

 そんな状態であるからして、只管馬の顔面や肩や背中を触ったり逆に私の顔面や掌を馬の鼻で触って貰ったりしている内に、相手が陰茎を中途半端に大きくしてぶらぶらさせている男性、而も恐らくせん馬(乗馬用、競走馬用の馬で、気性を鎮めて人間が接し易くする目的で去勢された牡馬。乗馬の場合牡は大半がせん馬となっている。因みに日常用語として毎週の様に用いている「せん馬」の「せん(敢えて書けばこんな感じ→馬扇)」、何故コンピュータで表示することが出来ないのだ)である男性である事を全く意識する事無く、顔面を彼に触って貰っている事に無上の幸福を感じていたのだ。

 遡れば学生時代、サークルのOBに騙されて連れて行かれたゲイバーに於いて、「貴方真面目そうな顔しながら実はと〜んでもないセックスしてそうね」などと人相占いを受けたり会話やショーを楽しんだ後、店を出る際にホステスの一人に「あ〜ら、綺麗なお肌ね♪」と顔を一頻り撫で回された事があった。ニューハーフに顔を触られたのは此の時以来である。言うまでもなく当時は無上の幸福など一切感じなかったのだが。

 其れにしても、2000/01/14で幼女と戯れるオッサンに嫉妬したかと思えば今度はニューハーフとのボディランゲージを心行くまで愉しむとは…。


2000/08/18

差し歯

 先日の事、差し歯が折れた。特に固い物を噛んだという訳ではなく、此処暫くぐらついていた差し歯を舌でレロレロと弄くるうちにぐらつきが大きくなり、其の儘折れてしまったのだ。

 高校時代、初めてのラグビーの試合中、妙にエキサイトして敵にぶつかっていったらまともにタックルを食らってしまい(今から思えば顔面から突っ込んでいったらタックルを食らう以外の結末は予想出来ないではないか)、其の場で医者に運ばれて唇を数針縫う事となった。縫合後も暫く続いた酷い出血の陰で全然気付かなかったのだが、此の時に上顎の門歯を2本欠いたのであった。幸い2本共1/4程度欠けただけで済んだのだが、もし世が世で私が齧歯類だったとしたら、とてもではないが真っ当な社会生活を営むことが出来なかったであろうに。

 其れ以上に心配だったのは楽器演奏の点であった。中学・高校時代に吹奏楽部に於いてトランペットを担当していたのだが、此の楽器、極めてデリケートに出来ており、息が口中及び唇をどの様に伝わるかで音が全く異なってしまうばかりか音そのものが出なくなる事が多々あるのだ。当時は既に部活を引退していた為に即困るということは無かったものの、唇と歯を傷めた事によって将来二度とトランペットが吹けなくなるかも知れぬと気に病んでいたものであった。

 さて、怪我の後差し歯を入れ、固い物を噛んだりで何度か折れたりし、面倒臭くて暫く其の儘にしていた時期などもあったのだが、数年前、当時の職場のビルに入居していた歯医者に別件で通う事になった際、折れた歯を不憫に思った歯科医がなかなか折れぬよう工夫した差し歯を入れて下さった。此の時の差し歯は非常に快適なものであり、全く装着感を感じさせずに日々の生活を送ることが出来たのだ(言い換えれば其れ迄の差し歯は一体何だったのだ)。

 そんな訳で、折れた差し歯を目前にして、高校時代のラグビーのタックルシーンだのトランペットの事だの当時の職場での公私ともに充実した日々だのが全く予期せぬ形で脳裏に駆け巡っていたのであった。意外な処にも様々な過去が詰まっているものである。


2000/08/17

選択

 今私は人生に於いて最大の選択の一つを迫られている。今月も何時もの如く動物愛好会の会報「どうぶつと動物園」の最新号が送付されてきたのだが(あ、住所変更手続をまだ行っていない)、其の中に会員更新の案内が入っていたのだ。確か東京での生活を始めた年の秋に、都内の各動物園の最新情報把握及び講演会等参加を目的として入会して早6年、確か此が3度目の更新になる。

 例年であれば何の躊躇いもなく更新手続きを行えば良いのだが、今回は会員を継続すべきか退会すべきかの岐路に立つこととなったのである。

 上野動物園にパンパステンジクネズミが来園しようが、多摩動物公園に新マレーバク舎がオープンしようが、「よし、それなら…」とそうそう簡単に足を運ぶ訳にはいかぬ。ナイトツアーが開催されようが、動物園ゼミナールが開催されようが、開催時間帯を考えれば東京で宿泊せねばならぬ。入会当初の目的を満たす事が期待できない上、「会員は園内の物品が2割引」などという美味しい特典も画餅である。

 とはいえ会報「どうぶつと動物園」の魅力もなかなか捨て難いのだ。日本国内のモウコノロバの血統図だのジャイアントパンダの掌及び指の活用方法だの、皆が知りたくてもなかなか知る機会の無い様な知識や最新学説をいとも簡単に得ることが出来る手段は他にそうそう有るまい。

 残された選択期限は後2ヶ月程度。もう暫く悩みながら、東山動物園の会報についての情報収集も平行して行った上で、人生に於いて悔いのない選択をしたいものである。


2000/08/16

続・旅欲の行方

 考えてみれば漠然と欲望が湧いてきたのは2000/07/09だったか。先々週末に獣欲を満たした事(2000/08/06参照)により私の中で取り残されて増幅してきた旅欲を今週末に鎮める事にした。

 結局2000/07/09で対抗として挙げた和歌山に行く事にしたのだが、此の地は社会人になって唯一足を踏み入れた事の無い都道府県であるというだけでなく、未だ嘗て街を足で踏んだ事の無い都道府県庁所在地の一つでもあるのだ。因みに他には浦和、前橋、徳島、佐賀。徳島と佐賀は兎も角、浦和や前橋は此の6月迄のちゃきちゃきの江戸っ子時代に足を運ぼうと思えば比較的簡単に足を運べる位置であり、和歌山については生まれてから社会人1年目迄過ごしていた近畿地方では無いか。否別段都道府県庁を意識して旅行している訳ではないし、近いからという理由で都道府県庁所在地に足を運ばねばならぬと言う訳でも決して無い。他のマニアックな都道府県庁所在地に足を運ぶ位なら当然近場の県庁所在地位は訪れているのではないかと思った為の意外感から採り上げたものであるのだが。

 こんな訳で和歌山市に足を踏み入れたくなった為、1泊2日で手頃な観光を求めて訪れることにしたのだが(旅先をこんな好い加減な方法で決めて良いものかどうかは今後検討の余地があろう)、幸い市内には城に動物園に、更に景勝地としても和歌浦、食べ物としては和歌山ラーメンがあり、観光欲が或る程度満たされるからまだ良い。もし同様の理由で他の、街を足で踏んだ事の無い県庁所在地を訪れようとしたらどうなるのか。

 佐賀市は以前より、柳川観光と併せて城跡を訪れたいと思っているので早晩足で踏む機会も出て来よう。徳島市については、確か城跡はあったと思うのだが、構築物や堀なんぞ残っていたであろうか。後は動物園も競馬も無いような気がする。あっ、徳島ラーメンがあったか。処で浦和…。ちゃきちゃきの江戸っ子時代、埼玉県内の他市には観光だの逢い引きだの運動だの知人宅訪問だので四方八方に足を運んでいたが、浦和には終ぞ足を踏み入れることなく江戸っ子を辞める事になったのである(抑も江戸っ子って途中からなったり辞めたり出来るものなのか、一抹の疑問を抱いているのだが)。まあ競馬場があるということは足を踏み入れる機会も今後存在しよう。さて、残った前橋…ううう、観光スポットは疎か、名産も食べ物も、抑も街のイメージ自体、何一つ知識が無いのだ。そう考えると、前橋は或る意味、都道府県庁所在地界に於けるヤブイヌ的存在であると言えよう。

 因みに先日リンクさせて頂いたサイトの運営者の方、偶々前橋の方ではないか。余りにタイムリーであった為、此処でも改めて其のサイトへのリンクを張らせて頂く。

 お笑いHP さるの独り言 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kouji-44/


2000/08/15

悪戯・7

 そろそろ此のネタにも飽きてきたので、2000/08/11に於いて思わせ振りに述べた事について触れることにする。

 「エゾシカの嘶き」を過去から熟読してらっしゃる方は今回の一連の文章をご覧になって1999/07/13を想起し、「お前のやってる事は『悪戯』を通り越しているのではないか。自ら『戯を通り越した行為を悪戯と呼ぶこと無かれ』と主張しておきながら何なのだ此の様は」とお怒りのことと思われる。

 今の時点での私は当然の事乍ら、此等の行為のうち単なる「悪戯」で済まされぬものが少なからず存在している事位承知している。処が実際の行為時に遡れば、「自らの行為が他人様に多大な迷惑を掛けるという認識が欠けていた」若しくは「他人様に多大な迷惑を掛けることが判っていながら其れを上回る楽しさを当該行為に感じていた」為に、此等の行為を「悪戯」または其れ以下のものと認識していたものと思われる。

 即ち「悪戯」なる概念、行為者の主観に拠る処が極めて大きいのである。となると或る「悪戯」を越えた行為について「悪戯」と称する権利を有しているのは事の認識の足らぬ愚かな行為者のみであり、マスコミ等が犯罪報道等に於いて「悪戯」なる言葉を多用するのは不適切此の上無い事ではないかと思い、1999/07/13を読みつつ改めて我が意を益々堅固なものにした次第。


2000/08/14

悪戯・6

 幼少の頃、自宅に「ヒサヤ大黒堂」のパンフレットが次々と郵送されていた。御存知の方も多いと思うが、此の「ヒサヤ大黒堂」、新聞広告等に於いて痔の薬の試供品及び手引書を資料請求希望者に無料送付している企業であり、各地の都市に「ぢ」という看板を屋上に頂いた豪勢なビルを建て、痔の方々への相談を実施している。当時「痔」なる病を知らなかった私は興味本位で其のパンフレットを読んだのだが、憖じ漢字が読めたり辞書を用いたりできた所為で、痔が肛門から出血するという病である事、パンフレットの所々に掲載されている痔や脱肛の肛門写真、薬造りに於いて創業以来貫かれている「良薬は口中に入れても害無し」なるポリシーに則って出荷前には肛門に塗布すべき薬を必ず嘗めて不良品でないことを確かめるという事実、何れにも多大な衝撃を覚えたのであった。其の一方で痔については他の小学生にそうそう負けぬ位の知識を蓄える事が出来たのだが、其れが役に立ったと思えた事は一切無い。

 或る日の事、其のパンフレットを読んでいた時に母が現れた為、思い切って尋ねてみた。「うちの家、誰か痔なん?」当時の実家の便所は汲み取り式であり、便器の中に屎尿に紛れて血に染まった紙が混じっていた事があった為、「きっと誰かが痔で苦しんでいてしょっちゅうヒサヤ大黒堂から資料を貰っているのだろう」と信じて疑わなかったのだ。後で考えれば此の血は母の経血だったのだろうが。そして母親は暫し沈黙した後、全く予想外の言葉を口にしたのである。「世の中には悪い人がいるんや。あんたはそんな人になったらいかんで」。其の時は全く意味が分からず、「悪い事をした人が痔になるんやろか」と悩んだりもした。

 当時両親は一部の客から非常に恨まれ易い仕事に就いていたという事で、悪い客が親の名前を勝手に使ってヒサヤ大黒堂に資料請求し、パンフレットを送付させるという嫌がらせを行っていたという事に気付き、当時の母の言葉の意味する処を把握できたのは、数年後に私が知人の名前を勝手に使ってヒサヤ大黒堂に資料請求しようと思った時の事であった。


2000/08/13

悪戯・5

 中学時代に寮生活を送っていた時の事、小生意気で癇に障る部分があるのだが何処か憎み切れぬ後輩と同室になった事がある。そういった複雑な感情を抱きつつ彼と接していたため、音楽や小説の話題で互いに良い意味で影響し合っていた一方で、時として彼に対して何処までが冗談で何処からが本気なのか判らぬような悪戯も行っていた。其の都度此方は非道い事をしたと思い彼に優しく接したのだが、彼は非道いことをされた事をおくびにも出さず何事も無かったかのように小生意気に接してくるため、再び此方の神経を逆撫でして私を悪戯に駆り立てるという悪循環が何度か続いたりもした。当時記録していた日記に於いても、毎日のように「あいつむかつく」と「あいつには悪い事をした」の何れかが書かれていたのだ。今から思えば思春期特有の少年のプライドの鬩ぎ合いだったのであろう。何とも大人げない事をしたものだと思いつつ、「それにしてもあいつは相変わらず小生意気な儘なんやろうなぁ」などと思って当時程ではないものの同様の感情が発生したりもするのだ。

 さて、其の悪戯の中で、「食べられないものを食べさせる」というものが同室であった半年間の内に3回程あった。具体的には菓子類に入っている乾燥剤の類。酸化鉄系の褐色の粉末は「レーズンを擦り潰したもの」、シリカゲル系の珪素化合物は「金平糖」、青いタブレット状の脱水剤は「ラムネ」と偽って食べさせようとしたのだ。3回目なんぞは怪しみもせずに口に運ぼうとする姿が余りに痛々しく、口に運ぶ寸前に「食うな!」と止めてしまった。

 時は替わって学生時代。中学・高校の同級生が遊びに来るということで、缶入りドッグフード(挽肉)を用意し、夜食に「コンビーフ」と称して炒めて提供した。「俺はもう腹一杯やから」と食べようとしない私の目前で、一口食べて一瞬顔を顰める同級生。醤油や胡椒を掛けたりし乍ら何とか半分ほど食べて「ごめん、これどうしても俺の口に合わん」と申し訳なく謝る彼を見て此方が申し訳なくなった。「いや、謝らないかんのは俺やねん」コンビーフの真相を明かした結果、私も強制的に食べさせられる事によって赦しを得た。

 其処に偶々やってきた高校の先輩。相当酔っている様子で「食い物を出せ!」と叫き散らす。「何でもいいんですか?」「おお、何でもええから早う出せ!」其の言葉ににんまりした同級生と私。躊躇いもせずに残ったドッグフードを炒めて先輩に差し上げた。「コンビーフを炒めたものです」「何やえらい味が抜けとるな。(厨房に移り)お前、フライパンで炒め過ぎたんとちゃうんか。こういうのは味が逃げんようにアルミホイルに包んでフライパンで焙るんや」包んで焙っても同じ味やと思うぞ、と思いつつ、其の先輩が食べる様を只管観察していたのだが、結局其の先輩も全部を食べきれずに帰宅してしまった。

 此の先輩には高校時代から今に至るまで何の恨みも抱いていないのだが、彼だけには未だに真相を伝えていない。


2000/08/12

悪戯・4

 中学の頃、所謂「イタ電」、悪戯電話に嵌ったことがあった。寮生活の合間、偶に休暇で自宅に帰省した際に、手当たり次第に無差別にダイアルを回したものであった。よくやったネタは、女性の声色を用いてクイズ番組を装って簡単な問題を出して正解させ、賞品の発送を約束したまま放っておく、若しくは高額の賞金を期待させ、誰も判らぬような問題を出して不正解にさせて残念がらせる、といったものであった。しかし私が女性の声色とは、今から思えば事の迷惑さ以上に強烈な事であるではないか。ああっ、そういえば女性の悶え声だとか喘ぎ声もよくやったぞ!くそっ、余計な過去を…。

 さて話は戻るが、他によくやったネタとして、相手に対してひそひそ声で「あんたんとこ、麻薬持ってるやろ…」と呟くというものがあった。先方から何を言われても只管「あんたんとこ、麻薬持ってるやろ…」である。悪戯電話だと判っていても家族に対する疑心暗鬼が少なからず生じた事であろう。

 其の中で一度だけ脳天をかち割られたかのような反応を受けたことがあった。何時もの如く私が呟き、先方が「あんた誰やねん」と問い質す。此のラリーの応酬を何度か行った後、先方からの予期せぬスマッシュ。

 「わかった!!!あんた、榊さんやろ!!!」

 誰やああっ!榊って!!!こっちが聞きたいわいっ!!!

 しかもあんた、榊という奴に麻薬持ってる弱みでも握られてるんかいっ!!!

 其処で気の利いたレシーヴを返せれば良かったものの、当時よりアドリヴには滅法弱かった私は「誰でもええやろ」と言い返すのが精一杯で、逃げるように電話を切ってしまった。最低限「よう判ったな。ばれたらしゃあない」だとか、或いはしつこく「あんたんとこ、…」を繰り返すか等、取り敢えず球を返すことは出来たであろうに。


2000/08/11

悪戯・3

 折角なので此のタイトルの文章を暫く物してみるが、何時もの如く飽きたら止める。また、予め断っておくが、「エゾシカの嘶き」を過去から熟読してらっしゃる方が今回の一連の文章に対して当然抱いて然るべき疑念についても飽きた時点で述べることにする。

 小学校の頃にクラスで「伝言ゲーム」を行うことになった。何人かが一列になり、先頭の人間に与えられた或る文章を後ろの人間に伝えていき、如何に正確に最後の人間まで伝言を伝えていくかをチーム毎に競う此のゲーム、以前からルールを聞いて非常に面白そうなゲームだと思っていたのだが、普段は伝言ゲームのチームを作る程の面子が集まらぬ事、縦しんば集まったとしてももっと他の面白いゲーム(ドッジボールだのポートボールだの)に走ってしまう事から、此の時のゲームがデヴュー戦だった。

 クラスを班毎に分けての対抗戦、子供のことだからやたらと対抗意識を抱いて必死になって取り組む。前の人間からの伝言を一言一句聞き漏らさずにした上、忘れぬように注意しながら次の人間に伝える。伝える際にもとちったりしたら間違いの元。聴力、記憶力、表現力を研ぎ澄ませて勝とう勝とうとしている。最後の人間が発表した台詞が正解と異なっていたら早速犯人探し。「お前間違えて伝えたやろ!」「おれちゃんと伝えたわい!間違えたのはこいつや!」「嘘つけ、お前こう伝えたやんけ!」等と罵声が飛び交う。

 そんな中私の心中に悪戯心がむくむくと持ち上がってきた。途中で全く出鱈目な伝言を伝えたらどうなるであろうか。此は面白い。笑いの好奇心を押さえ込んで眠らせてしまうか、其れとも周囲からの批判を受けるか。私は躊躇いもせず後者を採ることにした。

 どんな文章だったのかもう忘れた。というか前の人間からの伝言を受けた時、既に私の頭の中は笑いの好奇心と次の人間に伝えるべき伝言文書で一杯になっていたのだ。伝言を受け取った私は心の中に沸き上がる笑いを堪えつつ、後ろの人間の耳元で斯う伝えた。「生麦生米生卵」。

 幸い此の言葉はいとも正確に最後まで伝わった。最後の人間が「生麦生米生卵」と発表した直後、笑い声以上に私より前にいた人間達の驚き声、怒り声。予想以上に笑いを取れず、残るは批判のみ。お前ら其処まで真剣やったんかいな…。


2000/08/10

続・悪戯

 子供の頃の悪戯で最も深甚なものとして「置き藁」なるものがある。読んで字の如く、所謂「置き石」の藁版であり、線路を跨ぐ形で藁を積み上げる行為を意味する。嗚呼、此処まで書いただけで其の行為の非道さをひしひしと感じるではないか。

 幼少の頃、家の少し裏に線路があった。田圃と工場との間に敷かれた単線で、上下合わせて1時間に1本列車が通る程度のものであったため、刈り取りの済んだ田圃を公園代わりに用いて所狭しと走り回る子供は列車が来ないのを良いことに其の線路さえも「公園」の一部として用いていた。

 或る秋の日、近所には同級生も殆ど居なくいつもの如く一人で田圃を走り回っていた私にふと好奇心が芽生えた。「もし線路に藁を置いていたら、列車は其の儘走り過ぎることが可能であろうか」周囲に人が居ないのを確認し、両手で掴める位の藁を線路の片方に被せた。

 慌てて家に戻り、列車の走行音を耳にして再び線路を覗きに行った処、藁は見事に蹴散らされていた。「そうか、あんな程度では列車の方が勝ってしまうのだな」と思った私は「ならこれではどうか」と、列車に大勝負を挑むことになった。田圃から何度も何度も藁を抱えてきては線路に置き、立派な藁の山を築いてしまったのだ。

 今度も慌てて家に戻り、列車の走行音を待っていた処、走行音以上にけたたましい警笛音が聞こえてきた。好奇心を抱きつつ線路を覗いた際に目に入ったのは、列車が藁の前で停車して乗務員の方が一生懸命藁を、私が何度も何度も抱えてきて線路に置いたのと全く逆の方法で除けていた光景であった。

 其の光景を見て初めて、自分が深甚な行為を行ってしまったという意識に駆られた。恐怖感ともまた違う気持ち、好奇心は十分に満たされた筈なのに何なのだろう此の気の重さは。

 心中何処かに「悪いことをした自分を発見して叱って欲しい」という意識があったのかも知れぬ。叱られる事で自らが悪い事を行った事に対する贖罪を果たし、完結するということを感覚的に感じていたのではないか。処が結局私は誰にも見つかることなく、叱られることなく、目前に於いて自らの行為の結果だけを残している。而もよくよく考えてみれば、目前で迷惑を蒙っているのは私の好きである列車であり、私の憧れである乗務員ではないか。後味が悪い事此の上無い、全然面白くない。当然乍ら置き藁は其れっ切りで止めた。


2000/08/09

悪戯

 子供の頃の悪戯で最も広範囲に於いて展開したものとして「鳥居攻撃」なるものがある。別に鳥居を攻撃する訳ではなく、鳥居を用いた攻撃を意味する。前者の解釈を採る実例としては「真珠湾攻撃」、後者の解釈を採る実例としては「ミサイル攻撃」が挙げられる。

 別に文法の話題を採り上げる訳ではないので本題に移る。此の攻撃、具体的には、名刺大に切った紙を大量に用意して一枚一枚に鳥居の絵を朱書し、其れを街角の至る所に去り気無く撒いておくのである。後輩の発案による此の悪戯、「立ち小便防止のために設置されるべき鳥居カードが誰の手により何故こんな所に置かれているのか」という不条理、「鳥居なのだから不用意に触れたり除けたりすると罰が当たるかも知れぬ」という恐怖心醸成といった点が、いたく私の悪戯心のツボに嵌ったのである。

 早速実行に移すべく、貴重なレポート用紙(社会人になってそういった感覚が摩滅していたのだが、今から思えば当時は自費で文房具品を購入していたのだよなぁ)を小さく切って一枚一枚に一生懸命鳥居の絵を記入した。そのうち単調な鳥居の絵だけでは飽き足らず、鳥居の絵の下側に「あなたには霊がついている」等と恐怖感を煽るような文言を書いては悦に入っていた。

 百枚位作成したであろうか、街中の彼方此方を自転車で回り、歩道の真ん中、電話ボックス、ポストの上部、トイレ等に一頻り撒いた後、残った鳥居をスーパーの屋上から撒布し、悪戯は無事完了した。

 しかし此の悪戯には致命的欠陥があった。田舎町の事、堂々と街角に鳥居カードを撒くのがばれない位人通りが少ないということは即ち其の鳥居カードを発見する人もそうそう居ないのである。更に言えば、そういった光景を目の当たりにして悦に入っていたりした日には、周囲に人が居ないだけに即座に「犯人はお前だな」と指摘される事になってしまうのだ。悪戯を行ったのは良いが其の結果を楽しむことが出来ぬ。此では何の為の悪戯か判らぬではないか、只単にゴミのポイ捨てと同じではないか。実行後にそう悟り、今後二度と鳥居攻撃を行うことは無かった。

 因みに此の行為、「子供の頃」と述べたが正確には中学3年の時の話である。近年では平気で殺人だの恐喝だのを行う年頃に何とも平和な事をやっていたものだと、其の幼稚さ加減に呆れると共に幾許かの安心感を覚えてしまった。


2000/08/08

女性専用車両

 痴漢解決の一手段として「女性専用車両」を提唱している向きが存在する。しかし結局此では新たな問題が生じ、実際には余り有効な解決にはならないと思われる。という訳で、新たに生じかねない問題を考えてみる。

 満員電車にオッサンが駆け込み乗車した際、偶々其の車両が女性専用車両であったとすると、周囲には触り放題の女性達で一杯のため、何処にどう手を動かせても必ず女性の肉体に接触する。此幸いと、女性達を掻き分けて一般車両に移動する際に手当たり次第に女性の感触を楽しむ。一生懸命手足を動かせて移動する振りをすればする程思いっきり女性に触れる事になる。

 逆に女性が駆け込み乗車した際、偶々其の車両が女性専用車両では無かったとなると、オッサン共は「ほほう此の女性、女性専用車両を避けたと言うことはきっと触られても構わない、否、触って欲しい為に敢えて一般車両を選んだのに違いない」と考える事になる。其の結果此の女性は、四方八方から髪や項に生暖かく口臭のきつい息を吹きかけられ、左右の乳を別々の男に揉みしだかれつつ更に違う男が乳の谷間に顔を埋め、左右の腿や尻朶を別々の男にまさぐられつつ股間に指を這わされた挙げ句、場合によっては感極まった男性達の精液を衣服にかけられるという、世にあるまじき地獄図を味わわねばならぬ。

 これでは寧ろ「女性専用車両」なんぞ、痴漢を行う側の犯罪意識の低下だとか痴漢の質の悪化だとかといったマイナス面の方が大きいのでは無かろうか。精々映画・「痴漢電車」シリーズの復活が期待できるという、映画ファンに対する細やかなメリットが生じる程度だと思われるのだが。


2000/08/07

或る看板

 「雑文祭」なるイヴェントの開催通知及び参加案内を先日受け取った。過去にも不定期に何度か開催されている此のイヴェント、自らのウェブサイトにて文章を公開している者達が予め日を決めて、皆で同一のテーマや同一の書き出し等による文章を公開し合う。言ってみれば、予め設定されたテーマに沿って各国や企業等がユニークなパヴィリオンを出展する万国博覧会の様なものであろうか。実は1999/09/27の文章、他のサイトを巡っていた処彼方此方で全く同一のタイトルの文章を目にして、「こおろぎ」をテーマとした雑文祭が催されていた事に気付いてしたためたものなのである。

 今回の雑文祭、定められた言葉を織り込んだ三題噺を8月7日に発表するというものであったのだが、其れを見て非常に困った。三題噺用のお題の特異さもさること乍ら、8月7日という発表日に悩んでいたのだ。

 何度か述べた通り、此の「エゾシカの嘶き」、一日一話というコンセプトに基づき執筆している為、8月7日に発表ということであれば、当然ながら2000/08/07の所で発表することになる。処が今回の案内を頂いた時期は7月の転勤前後のばたばたの所為で実際の執筆が1週間程遅れていたのである。即ち、2000/08/07の文章を執筆するのは1週間後になってしまうという事であり、此を避ける為には8月7日迄に1週間分の遅れを取り戻さねばならぬ。現実に1週間分の遅れを半月で回復するのは困難であり、1週間分の執筆を諦めてしまうか雑文祭参加を諦めてしまうかという選択を迫られる事になったのだが、前者は自らのポリシーを破ることになってしまい、世間が許しても体が許さない。とは言え後者は折角の機会をみすみす逃すことになり、此も勿体無い。結局「遅れを回復するよう努力するが、8月7日に間に合わなかった場合には雑文祭に後れ馳せながら参加させて頂く」という事にし、今日(実は2000/08/13)三題噺を公開する次第。

 さて唐突に本題に入る。寓居と最寄り駅とは徒歩4〜5分の距離なのだが、実は非常に歩き辛い事に気付いた。例えば夜に駅から寓居に帰る際、駅の改札を出れば自転車置場から自転車が溢れ返った歩道を暫し進み、高架下を潜る。此の高架下、距離は長いが道幅は狭い上高さが1.8mしか無く相当圧迫感がある。更に道路には煙草の吸殻が散乱しており壁には最近全国的に流行している馬鹿者の落書が書かれており、雰囲気的にもよろしくない。そして高架下を抜けるや否や、いきなり歩道も無く1車線+1車線の車道に出会す。此の道は緩やかなカーヴになっており、見通しが悪い上にも拘わらずスピードが出せるという、歩行者にとっては最も危険な構造となっている。此処を横断して暫し歩くと寓居に辿り着くのだが、寓居に最も近い街灯がどういう訳か夜になっても点灯しない。

 処で、何時も通る度に気になっているのが、高架下を抜け車道に出る手前にある看板。「こどものとびだし注意!」と書かれているのだが、此だと我々のような青年が飛び出す分には注意を払う必要は無いと書かれている様なものではないか。「三歳の子供はいけないが大人は轢き殺しても構わない」などと解釈する悪質ドライヴァーが登場しないことを切に祈っている。


2000/08/06

ヤブイヌとの対面

 栗鼠似の同期(2000/02/18参照)及び其の妻である川獺似の女性(「獣!獣!獣!」内「カワウソ美人」参照)と共に名古屋の東山動物園に昨日足を運ぶ事になった。お目当ては言うまでもなく栗鼠に川獺に、そしてヤブイヌであった。

 広い敷地内に小さな檻が沢山並んでいるコーナーがあったのだが、食肉目ネコ科の獣達が並ぶ中、どさくさに紛れて唯一イヌ科のヤブイヌが只一頭スペースを占拠していた。住居の前には「ヤブイヌ 食肉目イヌ科」としか書かれていない札が掛かっており、此の獣の持つ底知れぬパワーを全く感じさせぬものとなっていた。

 麗らかな昼下がり、肉食獣には途轍もなく気怠い時間帯である。ネコ科の獣達が悉く眠りに就いている中、当然の如くヤブイヌも檻内の上部に備え付けられた棚状の寝床に死んだ様に横たわっていた。而も此方からは背中しか見えぬ。仕方なく我々は加州海驢の鳴き声に現を抜かしたり熊の動きに魅せられたりして時間を潰し、1時間程後に再びヤブイヌ邸を訪れたのだが、相も変わらぬ様子であった。

 更にポニーと肌を擦り合わせたり鯉に給餌を行ったりする事1時間、改めてヤブイヌ邸を訪れた処、彼女は此方を向いて床に寝そべっており、イヌとも思えぬあの独特の表情で始終「く〜ん、く〜ん」というあらいぐまラスカルにそっくりの鳴き声を発し我々をすっかり悩殺したのである。

 我々が悩殺されるわ狂喜乱舞するわ空間を阿鼻叫喚の巷と化すわしていた所為なのだろう、次々と来訪者がヤブイヌに気を留め始めた。残念ながら逆走だとか逆立ち放尿だとか水掻き披露だとかは無かったのだが、其れでも多くのヤブイヌマニアが誕生したことであろう。

 処で、我々は此の東山動物園の売りである子守熊に全くと言って良いほど関心を持たなかったばかりか、中国から貸し出されて5月から一般公開された「中国三大珍獣」の一である金絲猴には目も呉れずに退園したのである。此だけ目的意識が明確かつ偏った動物園見学及び見学者というのもなかなか珍しいのでは無かろうか。


2000/08/05

四題噺

 僅か5行、50字余りの新聞記事の中に鏤められた「官能」「意味ありげな」「女性」「鼻」といった、それぞれ関連させることによりエロティシズム漂う単語。此は決してオッサン向けエロ夕刊紙の話ではなく、此の日の日本経済新聞夕刊の一面を飾ったコラムの話である。

 50字余りの中に上記の4単語を含めてまともな文章に纏めるのは非常に困難である。で、実際どれ位困難なのかを立証してみた。

 「其の女性は意味ありげに体を擦り寄せてきた処、官能的なフェロモンの匂いがぷんぷんと伝わってきたので、私は思わず彼女に鼻を近づけた」

 やっとの事で文章をしたためてみたのだが、此でも60字余り。つまり日経の当該記事、若干エロティシズム漂う文章以上にエロのエキスが濃縮されている、即ちエロ濃度が高いという事ではないか。全く以て日本経済新聞、こんな処に於いても侮り難い。

 因みに当該日本経済新聞の記事、「官能試験室」なる臭いの研究所に於いて女性達が研究活動を行う様を記したものである。股間を極大に膨らませたり愛液でしとどに濡らしつつ8/5付日本経済新聞夕刊を入手しようと励んだ方々、残念。


2000/08/04

エッチマン

 「エッチマン 私は絶対許さない」。品の無い此の標語、言う迄もなく私の作品ではない。名古屋駅構内の派出所の前に掲示してあったポスターの標語である。

 上記標語に女性の笑顔のイラストを加えた此のポスター、趣旨としては痴漢防止、否どちらかと言えば痴漢被害者に対して通報を慫慂するメッセージポスターだと思われる。しかし此の標語、痴漢被害者になることが想定される女性に対して共感が得られるとでも思っているのであろうか。更に言えば痴漢被害者の心情を一体如何ほど慮っている積もりなのであろうか。

 「エッチマン」なる言葉からは痴漢特有の陰湿さや卑怯さ及び犯罪性が全て取っ払われており、職場だとか友人関係だとかの中で必ず最低一人はいる「ちょっと助平だけど其れが余りに明け透けで却って周囲に好印象を抱かせる」という好青年を連想させるではないか。此では人気者に対する憧れすら籠もった愛称である。抑も「エッチ」なる語、昔は「変態」なる語を爽やかに言い換えるために用いられた語であり(今調べたら「広辞苑」でも認知されているではないか!)、現在は「セックス」なる語を爽やかに言い換えるために用いられているのだ。

 身動きの取れぬ車内に於いて自らの乳や腿や尻や時として生女陰等、肉体を散々弄んだ男に対して「エッチマン」なる愛称を与える様な気分になれる馬鹿な女性が存在するとでも言うのであろうか。只単に馬鹿な女性は世に蔓延っているがそんな事は此の際どうでも良い。あくまで「自らを非道い目に遭わせた相手に対して愛称で応える」という意味に於いての「馬鹿」である。全く痴漢被害者になることが想定される女性を愚弄していると言わんばかりの標語でないか。我々の感覚で言えば、極悪非道の犯罪被疑者に対する「髭親父」だとか「俗物教祖」だとか「魔法使いサリン」だとかといった愛称が到底受け容れられないのと同じである。

 愛称というもの、其れが幾ら非道いものだったとしても、何らかの好意的な意識があればこそ付与することができるのである。オフィスレディが不愉快な上司の事を「禿親父」等と呼んでいる内はまだ上司のことを「禿」というユーモラスとも思えるような姿に象徴させて何らかの親しみを残しているのだ。本当に不愉快極まるようになったら「あの親父」だとか果ては「あいつ」「あれ」等、愛称でなく代名詞で呼ばれるようになるのだ。誤解無きように言っておくが此は断じて私の経験談では無い。

 思うに此の標語を考えた人間、「エッチマン」という愛称を用いることにより痴漢の陰湿さ、卑怯さを取り去って痴漢被害者になることが想定される女性に対して精神的に近い位置に入り込もうとしたのであろうが、何のことは無い、此では痴漢に対して精神的に近い位置に入り込んでしまい、寧ろ痴漢被害者に対して反感すら抱かせ兼ねないものになっている。大体痴漢被害者が勇気を振り絞って警察に駆け込んで「私、痴漢に遭ったんです」と報告した処、警官が「そうですか…エッチマン絶対許せませんね。処で貴方はどちらでエッチマンの被害に遭われたのですか?」などと返答した日にゃ、痴漢被害者は痴漢に遭った以上に遣り切れない悲しさに包まれる事必定である。


2000/08/03

尾道

 本欄の執筆にあたり予めネタを仕込んでいたメモを取り出し、其れを元に筆を下ろす機会が時々あるのだが、其の中に以下の一言があった。

 ・尾道は衰退の街?

 此の言葉、2000/05/04以降何度と無く採り上げた尾道旅行から帰ってきてメモしていたものの、今に至るまで日の目を見なかったネタである。書こう書こうと思っていたのだが、自分の中では満足のいく旅行だっただけに、敢えてそういったネガティヴともとれるようなネタを採り上げる事もあるまいと思い、お蔵入りになってしまっていた処、メモ後3ヶ月にして漸く此が生きてくる事になった。

 先日の「日経ビジネス」に於いて、旅行会社による国内観光地の格付けについての記事が掲載されていた。或る観光地について来訪意向の有無及び強弱を、来訪経験者及び未経験者別にスコアリングし、其れを元に「来訪意向指数」「評価指数」を算出し、平面上にそれぞれの観光地をプロットしていったものが掲載されている。

 其の結果、「来訪意向も高く評価も高い」という観光地として白神山地(青森県・秋田県)をはじめ上高地(長野県)、雲仙(長崎県)、黒川温泉(熊本県)、北山崎(岩手県、おれ知らんかったぞ)等々が挙げられる一方で、「行きたくないわ、行ったら期待はずれだったわ」という踏んだり蹴ったりの観光地として、広島、宮島(広島県)、熱海、松島海岸(宮城県)、伊香保(群馬県)に加え、尾道の名前が挙がっていた。蛇足であるが私は今年のGWだけで此の内の3箇所を訪れて居るではないか。

 さて、GWに尾道を訪れた際、数年前に比べて恐ろしいくらい街の活気が失せている事に気付いた。確かに駅舎や駅前道路は「レトロな街・尾道」を売りにしているのに相応しくない位綺麗に整備されている。処が其処から商店街に入っていくと、全く人通りが無いのだ。否、「人気が無い」とも少し違う。GWという事で店を閉めている、尾道の観光地区(線路から山側、因みに今回は足を運ばず)とは外れた地域である、等といった事では説明が付かぬ位、商店街特有の息吹が感じられず寂れてしまっているのだ。

 「レトロな街」の魅力は只単に「古い街」という事ではない。古い街を古いと思わせぬ位其の土地の人々が極自然に彼等の基準に於ける「現代」を生きる事で「古い街」を保っており、そういった雰囲気を訪問者が感じ取ることにより、訪問者は其の古さを訪問者の基準に於ける「現代」と相対化させ、其のずれを感じ取って楽しむのである。然るに尾道の商店街はどうか。其の土地の人々の意思に拘わらず結果的に「古い街」になってしまった、という方が相応しいのではないか。言ってみれば「時が止まっている」のであれば無く「時が取り残されている」のである。

 恐らく斯様に感じているのは私だけではあるまいと、今回の「日経ビジネス」の記事を読んで思った次第。其れにしても「エゾシカの嘶き」から記事を捻り出すのみならず、私の未公開執筆メモからも記事の着想を得るとは、日経グループもなかなか侮り難い(2000/05/06参照)。


2000/08/02

続・カレンダー

 8月のカレンダーを見て仰け反った。2人がお互い見つめ合う事で愛を交わしている写真がいきなり出てきたのである。斯様なポルノグラフィ紛いのカレンダーを入手した覚えは無い、確か此は競馬の年鑑を購入した際に付録として綴じられていた競馬カレンダーの筈と思ってよくよく見直した処、片方は先日日本調教馬として初めてイギリスのG1(トップクラスのレース)を制したアグネスワールド、もう片方は同じ厩舎で飼われているものと思われる犬であった。

 其れにしても馬と犬との愛を伝えるのには絶妙の写真である。2人の愛をファインダーに捉えるのには、シャッターチャンスもさること乍ら抑も2人が愛し合っている事実を認識する必要がある。馬や犬には自らが愛欲に溺れている旨人間に言葉で表現する事は不可能なので、人間は其れを彼等の態度で読みとらねばならぬ。只単にシャッターチャンスをものにするだけでは運次第で素人にも可能であるが、獣愛を感じ取る能力を備えるのには余程獣愛の達人で無くては不可能ではないか。

 此処まで書いてみて思ったのだが、世間で一般的に言われる「獣愛」とは、「馬と犬とが愛し合う」だとか「馬と馬とが愛し合う」というケースも含まれるのであろうか。


2000/08/01

JRとエゾシカ

 JR北海道とエゾシカとの親密な関係の一端について1999/06/25で採り上げたのだが、今年になって両者の関係がより親密なものになってきているように見受けられるのである。

 各JRが編集に携わっている月刊誌「JR時刻表」。時刻表、しかもJRの書籍であるにも拘わらず、実は毎月の表紙を飾っているのは大抵が獣なのである。今年の5月号の表紙は森の中のエゾシカ。時期的に考えると有珠山の噴火で沈滞ムードにある北海道を勇気づけようとする意図が各JRに働いたのではないかと思われる。処がそれから僅か3ヶ月後の8月号、表紙には川の中で佇むエゾシカが登場して居るではないか。

 各JRが編集に携わる中、僅か4ヶ月の間に2度も同一の獣が登場する異常とも思える事態。有珠山の噴火が沈静化した為に北海道を再び元気づける趣旨であろうか。だとすればエゾシカ以外にも、ナキウサギだとかエゾリスだとかのように、他に登場すべき獣が存在するであろう。何故此処までエゾシカに執着するのか。

 そういった疑念を抱きつつ過ごす中、7/25付毎日新聞夕刊に於いて、JR北海道の根室線が全国一動物との衝突事故が多い路線であり、其の中で事故の殆どを占めているのがエゾシカである旨の記事が掲載されていた。どうやら線路上のエゾシカに対して警笛を鳴らすと、彼等は逃げるどころか悲しそうな目をして線路上に立ち竦むらしく、「列車はよけることができないのに」という運転士の嘆きが紹介されていた。JR北海道がエゾシカに執心する背景には、衝突事故に遭ったエゾシカ達への鎮魂及び除霊の意味があるのかも知れぬ。


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