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回転寿司占い
巷間で「ポスト・『元祖・動物占いLucky animal !』と目され密かなブームとなっている「回転寿司占い」を試してみた。「Lucky animal !」の方が占いのヴァリエーションも広いうえ、一方的な占いだけでなく、一発ギャグをかますという双方向的楽しみだとか自らの運命を自らのギャグセンスで自由に変える喜びまでも感じることができ、どう考えても回転寿司占いが「Lucky animal !」の座を奪うことなど考えられなかったのだが、実際に試してみると此がなかなか侮れぬ。
回転寿司という意外性、それを実際に皿に取っていくという遊戯性もさることながら、結果が予想を遙かに凌駕して的中しているのである。「好きになるまでに時間がかかる人。相手のことをよく知ってからでないとつきあうことができません」「ちょっと変わった一点ものに心が惹かれる人」「夢や理想の実現のためにはその努力を惜しまない人」「自分がやりたいことを好きなようにやりたい、自由願望の強い人」「ユニークな発想のできる人になりたいと思っています」。恋愛観をはじめとする5つの人間性について、見事に当たっているではないか。
考えてみれば、食欲というもの、その人の趣味・嗜好が最も現れやすい分野であるから、其処から人間性を読みとる事が比較的たやすいのであろう。世間一般で行われている、抱いてみたい異性(場合によっては同性や生物種)を聞いてその人のキャラクターを判断する行動なども、いわば「性欲占い」のようなものであろう。
となると、「Lucky animal !」「回転寿司占い」に続く占い界の次のトレンドは、同じく人間の3大欲求の一つ「睡眠欲」を利用した占いではなかろうか。「何処で寝たいか」「何時寝たいか」「どんな格好で寝たいか」などを如何に面白く占いに取り込むかが、「Lucky animal !」に次ぐポジションに位置するかどうかの鍵を握るものと思われる。
続・犯罪防止広告
2000/01/09で触れて以来も相変わらず駅頭等で見かける「痴漢は犯罪です」告知ポスター。今日新宿駅で見たものは警視庁作成のものだったであろうか。例の如く「痴漢は犯罪です」のコピーを見ながら「痴漢を『成人男性の健全な娯楽』だとか『老化防止の趣味』だとか思ってる奴っているのであろうか」と思いつつ全体を眺めてみる。痴漢を楽しむ男性に嫌がる女性の絵が真ん中に書いてあり、其の下には「信頼」「友人」「家族」「仕事」「プライド」だったか、それぞれの単語が書かれた箱が5つ積み上げられ、それが揺れているのだ。要するに、「痴漢を満喫すると其の代償として、世間からの信頼や友人づきあいや家族関係や職場環境や己のプライドが崩れてしまいますよ」という事が言いたいのであろう。
しかしちょっと待てよ。痴漢を楽しむ男性に嫌がる女性のイラストを描いていて、「痴漢代は高くつくで。あんたの得にはならへんで」かよ。被害者の受ける苦痛や迷惑はどうでも良いのか。否広告としては、最も効果的な訴求ポイントを絞ってアピールすれば良いのであり、その点に於いては痴漢を楽しむ男性に対して「得にならん」という一点を刷り込むことに成功していると言えるという事か。
それにしても、犯罪抑止のために刷り込む効果的なポイントが「被害者の気持ちを考えろ」とか「自分がやられる立場になってみろ」とかなどではなく「お前の得にならん」とは何とも悲しい状況である。そういえば先日の報道番組において、生徒間犯罪(俗に「いじめ」と言われる行為であるが、1999/10/01で触れたように実体を矮小化するような単語は用いたくない)の防止策について、「結局こういった行為が自分にとって得にならないという事を解らせる以外に防止策はないのでしょう」と識者がコメントしていた。此程未熟な社会に於いては、現在の刑法に期待すべき「犯罪抑止効果」や、更に言えば「基本的人権」の意義などについて、真剣に議論すべきなのでは無かろうか。近代法が社会の成熟とともに発展してきたというのであれば、逆に社会の頽廃つれて退化していくのもやむを得ないような気がするのだ。私としては寧ろ法の退化ではなく社会の成熟を希求するのだが。
続・健康
「私個人の体調や病気の話に割かれている」事が「エゾシカの嘶き」を詰まらなくする原因の一つだと2000/03/23で述べてから僅か1ヶ月後に思いっきし体調の話を立て続けに書くことになろうとは思いもしなかった。それだけ2000/04/19で触れた病院での診察結果及び2000/04/25で触れた発症内容等が私にとっては余りに重大なものであったという事なのであろう。
と言う訳で、今日も検査の為に2000/04/19で触れた病院に足を運んだ。MRIなる此の検査、数日前に母親から概要を聞かされたのだが、此が相当精神的に堪えるものとの事。当初簡単なものと考えていた私にとっては恐怖感を予め植え付けられる結果となってしまった。全く余計な事をするものである。
恐怖感を若干抱きながら病院に向かい、検査室の中のベッドに仰向けに横たわり、頭部を枕とベルトとでしっかり固定された後、さながら円柱形の棺桶のような処に入れられ、暗い空間の中で機器類の断続的な動作音を耳にしながら長時間過ごした。
検査中は別に何も感じなかったのだが、暗所で目を塞いでいる時に只管機械音を耳にしていると、安静状態の脳に音が焼き付けられたかのように、後で幻聴の如く脳裏にその音が出現してしまうのである。こうなると、検査が却って問題解決を長引かせる方に向かいかねないような気すらしてしまう。一体何時になれば問題解決に向かうのであろうか。これ以上「エゾシカの嘶き」で健康の話を採り上げて詰まらなくしてしまうのは御免である。
煙草体験
初めて煙草を口にしたのは小学生の頃である。当時実家の仕事場では客に対して煙草を大量に販売していた事、実家では何故か煙草の空箱を畳んだものを利用して傘や建築物等を作成するのが流行していた事から、家の中には煙草が氾濫していた。そういった環境の下であるからして、好奇心の旺盛な子供が煙草を口にするのは時間の問題であった。
しかし子供にとって其れは途轍もなく不味かった。何で大人はこんな物を有り難がって吸っているのか。その時の体験がトラウマとなっているのか、以後戯れに数回口にした事がある程度で、煙草を吸いたいと思った事など無かった。
さて、先日、小学校の時以来、自発的意向で煙草を口にすることになった。というのも、2000/04/26で触れた通り、私が現在服用すべき薬が朝昼には事実上服用できないため、其の代用品として「気分を鎮めることが出来、且つ眠くならない」物を煙草に求めたのである。
恐らくニコチン・タールの類の含有が最も少ない銘柄を選んだと思うのだが、それでも途轍もなく不味い。何で排煙者はこんな物を有り難がって周囲に迷惑をかけつつ吸っているのか。小学校の時の私の感性は間違っていなかったのである。その上、私が当初期待していた、気分を鎮める作用が劇的に感じられる訳でもない。精々1本吸う中で1〜2回程いいタイミングで肺に煙が入っていった時に若干落ち着いたかなぁという気分になる程度である。更に不愉快な事に、寓居で吸っていた処、室内全体がたちどころに煙の臭いに包まれてしまったのである。慌てて消臭剤を大量に散布して事なきを得たのだが。
結局煙草は薬の代用品としては非常に割に合わぬものであることが判明。其の一方で、割に合わぬながらも薬代わりに使用しないことには奇病は良くならぬのではないかという不安を抱きつつもあるのだが。
睡眠薬
初めて睡眠薬を服用したのは中学生の頃である。寮生活の中で生活時間が予め決められており、縦令眠たくなくとも決まった時刻に消灯となり、嫌でも床に就かねばならない。翌朝は登校日であろうが休日であろうが起床時刻が定められており、夜眠れなければ其の分睡眠時間が減って昼間眠たくなり其の反動で夜は目が冴えるという悪循環を日々繰り返していた為、母親が当時から服用していた睡眠薬を分けて貰っていたのである。実際には依存症が怖くて余り服用することなく、将来いざと云う時に一気に服用すべく、薬を貯め込んでいた。結局暫く後に偶々目にした自殺関連の書物に因り、此の睡眠薬の致死量は極めて大きいため其れ単独で死に至るのは不可能と判ったのだが。
さて、先日医者に処方された内服薬。此がもう兎に角眠くなるのだ。睡魔と格闘する暇もなく、すとんと眠りに落ちてしまう。睡眠薬として服用すれば、中学時代に服用していた睡眠薬以上の効果が得られるという事実に感動したのだが、今はそんな効果など必要ない。此ではとてもじゃないが実生活の中に於いて朝や昼になぞ服用できないのだ。奇病は未だ快方の兆し現れず。一体どうすれば良いのか。
不運
讃岐でも其の名が轟き渡っているという、江戸の讃岐饂飩屋の場所を調べて足を運んでみた。昨日の退社後に普段途中下車など先ずする機会の無い駅で下車し、5分程歩いて店に入ったのだが、既に饂飩玉が売り切れており、すごすごと帰路に就いた。何とも運が悪い。
しかし運が悪かったのは此だけでは無かったのだ。其れから駅に戻って列車に乗り込んだのだが、ほんの少し動いて直ぐ止まってしまった。どうやら線路内に人が入り込んだ為、人を追い出し終えるまで列車が動けないとの事。偶々その駅で下車したばかりに、私が乗った直後にそういう事故に遭うとはとは全く運が悪い。結局復旧の目処すら立たぬということで、仕方なく隣の別路線の駅までの1km強を歩くことにした。
駅に着いたら着いたで、ホームに着くのと列車が発車するのがほぼ同時。寓居方面まで向かう列車が来るまで待つこと15分。本来なら讃岐饂飩に舌鼓を打ち満足気分で普段より早めの帰宅をするという予定が、結局何も出来ぬ儘普段とさほど変わらぬ帰宅時刻となってしまった。
余程此が堪えたのであろう、本日職場で此の上ない体調不良振りを発揮する事になってしまった。とまあ、奇病の原因を強引に何らかの事象に結びつけ、少しでも安心することによって奇病を鎮めることとしよう。そんな詰まらぬ事でもしない限り、最早私の神経は保たない位の処に来ているのである。
新鮮味
忘れぬ為に記しておくと、実際にこの文章を書いているのは2000/04/28の深夜、無論「エゾシカの嘶き」始まって以来の遅筆となる。
2000/04/21で、北海道を「余り度々訪れて北海道への時めき感やドキドキ感が薄れても困る」と記して愕然とした。最近では北海道に着く瞬間に、以前ほどの時めき感やドキドキ感を感じていない事に気付いたのだ。原因として考えられるのは、北海道で最初に足を踏み入れるのが殆どの場合新千歳空港であるからでは無かろうか。何度と無く歩き慣れた季節感を感じることのない建物。電車やバスに乗り換えようとしたり、空港内で買い物や食事をしようとしたりする際、空港内の案内看板を見ずとも希望の場所に足を運べるくらい、新千歳空港内は毎回隈無く歩いている。従って、北海道入りした瞬間には「ああ此処だな」程度の感覚しかないのである。精々空港から外を見て「雪が積もってるな」とか、新千歳空港の改札を入った直後にある外気口からの風を感じて「やっぱり涼しいな」とか感じる位であろう。
其れでは他の空港を使ってみてはどうだろうかと思ったのだが、北海道内で未だ利用したことのない空港は、礼文、利尻、奥尻、中標津、新紋別。更によく見ると、東京からの直行便があるのは中標津だけではないか。しかも運賃が異常に高い。
かと言って列車の旅も、半年程前に体験したばかり。残るは船旅と思い時刻表を見たところ、東京からの直行便が何時の間にか無くなっているではないか!
仕方ない。好きになって何度も足を運ぶ以上、新鮮味が薄れるのは当然のことと割り切り、其の分道内に於いて新鮮味を求めることとしよう。まだまだ未踏の地は道内に幾らでもあるし、私が死ぬまでには成し遂げようと思っている「北海道海岸線ドライヴ一周計画」も、まだまだふんだんに残されている。
讃岐饂飩の魅力
起床後、知人に勧めていただいた讃岐饂飩サイトを観ているうちに無性に饂飩が食べたくなったので、近場の上州饂飩屋に足を向け、一杯頂いた。
上州饂飩なるもの、讃岐饂飩と正反対で、すっと噛んでぐいっと来る歯応えだとかつるつる感だとか出汁の底はかと無さだとかとは無縁である。固い餅を細く切ったかの如く噛み始めから噛み切るまで均質の歯応え、雑に切られた麺、笊蕎麦の付け汁のような塩辛い出汁、といった特徴を持っている。否決して不味いわけではない。只単に指向すべきヴェクトルが讃岐饂飩と正反対というだけなのだ。
しかしこれがまた腹に堪える。一杯食べると暫くの間食物はおろか飲み物すら口にできないくらい腹持ちが良い。食後は讃岐饂飩欲など忘れてしまうくらいであり、取り敢えず饂飩欲を鎮めることができるのである。
その直後、讃岐饂飩の大きな特徴、偉大さに気付いた。讃岐饂飩の場合、いくら食べても腹に堪えないのである。何杯でも美味しさを追究できるのだ。これは他の食物には見られない特徴ではあるまいか。そういえば起床後観ていたサイトの管理人、週に最低一度は讃岐饂飩を食べに行き、そこで5玉くらいは当たり前の様に食している模様。味の旨さもさることながら、いくらでも美味しさを追究できる素晴らしさも無言のうちに語られているではないか。
炭酸紅茶
無性に炭酸紅茶が飲みたくなった。別に素っ頓狂な飲み物に憧れたり自ら作ってみたりしている訳ではない。学生時代、ポッカだったかペプシだったか宝酒造だったかから缶飲料として立派に市販されており、風呂上がりには欠かさず愛飲していたのだ。酒を嗜む人が風呂上がりにビールを口にして、その喉越しの爽快さを楽しむかのように、銭湯からの帰りにコンヴィニエンスストアに立ち寄って一本購入し、渋さの中に仄かな甘さを含み、パンチの効いた炭酸で締めたその味を喉で感じ取る事によって、冷房のない寓居に於ける一服の涼を感じていたのだ。
何度か自分で作ってみようと、紅茶に炭酸を混ぜてみたりしたものの、どうしても炭酸に合うあの渋さと甘さのマッチングが再現できぬ。そうこうしている内に、その商品自体市場から全く見かけなくなってしまった。
今となっては商品名は疎か、メーカーまでも思い出せない。記憶にあるのはあの味と、薄小豆色の感に白抜きで描かれたラヴェルのみ。当時より競合商品も存在せず、現在に至るまでその類似品・模倣品も目にしない。紅茶ブームはとっくに去ったものの、折しも現在は緑茶ブーム。「茶の渋み+仄かな甘み+炭酸」という組み合わせを用いて、何処ぞのメーカーが商品化しないものだろうか。
連休の過ごし方
そろそろゴールデンウィークの旅行の予定を検討してみる。参考までに昨年を振り返ってみると、驚嘆すべき事に5/1〜5の5連休、代々木公園近辺でメーデーの行進をしていたり(1999/05/01参照)、ズーラシアに足を運ぼうとした処入場者制限の為に途中で引き返したり(1999/05/03参照)で、旅行は疎か、レジャーの為の外出も完遂していないではないか。
今年旅行に充てるのは5/4〜6の3日間。旅行先として先ず候補に挙がったのは、何時もの如く北海道。昨年9月、現地入り早々に土砂崩れによる通行止めで実現しなかった日高〜襟裳岬〜釧路のドライヴ(1999/09/07参照)を果たしたい、今年はまともに楽しめなかった花見を札幌の円山公園辺りで楽しみたい、という2つの欲望が沸々と沸き上がっていたのだ。しかも今年は有珠山の噴火の影響で、GW期間の北海道の観光客が激減しているとの事。不謹慎な言い方かも知れぬが、このGWは道内全体がいわば観光の穴場となっている。しかし良く考えてみると、北海道は3ヶ月前に訪れたばかり(2000/02/12参照)。更に、そう遠くない内に足を運ぶ可能性もあり、余り度々訪れて北海道への時めき感やドキドキ感が薄れても困る。従って今回は見送ることとした。
次に候補として検討したのは、3月の連休で訪れようとした金沢(2000/03/16参照)。兼六園、金沢城、いしかわ動物園、金沢競馬と、自然に城に獣に馬に、正に私の本能の儘に行動できるのだ。しかしこれらの中で前の3つは既に訪れ堪能したものである上、競馬場も今月、先月と立て続けに足を向けている。どうも今ひとつ新鮮味に欠けそうな気がして、此も見送ることにした。
そして再検討の結果、昨夏にも狙いを付けていた尾道(1999/08/05参照)を候補に決定した。1泊2日では辛いが、2泊3日だと「しまなみ海道」の一部を自転車で楽しむ余裕も出て来るであろう。一頃のブームも去り、落ち着きを見せていることと思われる。少し足を伸ばして、小学校以来訪れていない広島(1999/10/26参照)で、城と動物園も楽しみたい。強いて問題点を挙げるとすれば、私の雨男振り(1999/08/21参照)である。雨に祟られたら自転車計画が台無しであると共に、雨に祟られた前回訪問(1999/08/05参照)のリターンマッチも果たせない。
全く関係ないが、上記の文章、さながら過去へのリンク集の様ではないか。過去の文章にも是非時折目を通して楽しんで頂きたいという意図が見え見えで、自らに対して若干嫌らしさを感じずにはおれない。
広告における競合問題2000
昨年の今頃の「エゾシカの嘶き」を振り返るに、篠原涼子の恥丘をフィーチャーした広告について何度か採り上げていたのであるが、その広告、今シーズンは別のタレントに切り替わっているようである。
薄暗いカラオケボックスのような空間で、2人組の男性芸人が下着姿で女性といちゃつく。路線的には、昨年篠原涼子が下着姿で男児を魅了するといったものを踏襲しているのであろうと思われる。昨年も今年も、タレントの不良っぽさを際立たせる事に加え、その肉体と下着とを露骨に見せることにより、「BODY WILD」という商品名および商品イメージを伝えようとしている様子が窺える。
しかし「不良」は見せ方次第で、アクティヴに見えれば「ワイルド」になるものの、パッシヴに見えれば「享楽・頽廃」になってしまう。昨年のものは篠原涼子の挑発という、「不良」への積極的な意思が見てとられたのだが、今年のものは只単にタレントがうだうだしているだけではないか。画面の中のタレントから我々に訴えかける意思がどうも感じられぬ(強いて言えばラストシーンで画面に携帯電話を投げつけるシーンが「積極的な意思」になるのだろうが)。
よく考えてみれば、今時世間に、「享楽・頽廃」ではなく「ワイルド」な「不良」なるものが存在するのであろうか。否抑も「不良」という概念を持ち出すこと自体が既に今時の考え方ではないのだが。
総合病院
患者という立場では恐らく初めてではないかと思うのだが、総合病院という名の施設に足を運んだ。余程の突発かつ重篤な病や怪我なら兎も角、普通は近場の医院や診療所で事足りるのだが、今回は私が検査を受けるべき医科が近場では総合病院にしかなかったのである。
噂には聞いていたが、其の混雑振りには只管閉口した。巳の刻辺りに病院に着いてから受付が完了するまで約30分。私の受検する医科の前で待つこと2時間。他の医科は患者の回転が速いようだったのだが、私の医科は堪らなく回転が悪い。そろそろ午の刻も終わるかという時にやっと診察を受けることができ、診察終了後にレントゲン検査を受けることに。ここでまた暫し待った後、ばしゃばしゃとあらゆる角度からレントゲン撮影を行った。此にて検査終了、勘定支払の手続きを行い、薬を貰って帰宅。おお此処までで4時間ではないか。しかもその内半分以上が待ち時間とは。
こういう状況を実際に体験してみると、最近の様々な医療ミス報道と併せ、この国の医師というもの、量的にも質的にも相当問題があるのではないのかという気になってしまう。などと、自分が強く志しており未だに憧れを持っている業界のことを、さも他人事のように物してみる。
広告と企業姿勢
日本中央競馬会の今年度のTVCMは、正に脳天気という言葉が相応しい昨年のものとは異なり、上品、落ち着き、しっとり感といった言葉で語られるようなものとなっている。
タレントが親子に扮した家庭の一齣を切り取るものと共に、音楽とモノクロ映像による様々な人物が主体となったプロモーションヴィデオ的なものとがあるのだが、問題は後者の30秒ヴァージョン。ラストシーンで人で溢れる競馬場のスタンドが映し出されるのだが、此が皆手拍子で盛り上がっているシーンなのである。此は些か拙いのではないか。馬は繊細な動物であり物音に驚きやすい為、レース前の手拍子等により馬が影響を受けて公正なレースが妨げられぬ様、競馬場に於いては確か禁止されていたような気がする。その一方で手拍子シーンをTVCMで流すとはどういう訳なのであろうか。
ひょっとすると、TVCMで紹介しているのはレース前の手拍子ではなく、レース終了後に勝ち馬に対して捧げられていたものかも知れぬ。しかし情報の受け手が全員そう解釈しているのかどうか。日頃TVCMの表現の揚げ足を捕るかのような事はしないのだが、此については企業姿勢の問題として非常に気になるのだ。
先日競馬場に於いて、大量の賭金を投じられた有力馬の一頭が、レース前の手拍子が原因かどうか判らぬが、興奮してコースを走れなくなってしまった光景を目の当たりにして、阿呆な競馬観戦者共にモラルを呼びかけるだけでなく、ギャンブルの胴元として公正な競馬を主催するべき側に対しても、積極的にこの問題の解決に取り組むべきではないかと改めて強く思うのである。
椎名林檎・5
椎名林檎の新譜「勝訴ストリップ」を嗜む。今迄楽曲を嗜む際、歌詞など二の次と考えていた私にとって、CDをセットする前に歌詞カアドを一頻り味わうという楽しみ方を初めて教えて呉れた彼女の功績は余りに大きい。
彼女の詩を嗜むにあたり、先ず最初は目で楽しむ。まるで「エゾシカの嘶き」を手本にしたかのような言葉遣いや言い回し一文の長さ。大胆な比喩。そして今度は彼女と同じ立場に自らを位置させてみる。私が同じ立場だったらどう感じるか、どう表現するか。一致する点、異なる点、思想のヴェクトルは同じで有り乍もどう足掻いても此の域に達することは出来ぬと脱帽すべき点。この最後の点が多ければ多い程、詩を堪能することが出来る事になる。
最近気付いた楽しみ方。自らを彼女と対峙させ、彼女の思想や思考や主張に対して、私としてどう答えるかを考えてみる。例えば私の好きな人が彼女の詩のような台詞を口にした場合、私は一体どういう行動に出るのだろうか、出るべきなのだろうか、出たいのだろうか。こんな事を真剣に考えさせて呉れる程に、彼女の詩は時として余りに直截的な性愛に関する問題提起を行っているのだ。
其れにしてもよく考えてみればCDを購入して2夜目だと云うのに、CDは未だに購入時の状態でケースの中に収まったままではないか。
煙草犯罪
人混みの競馬場を歩いていてつくづく感じたのだが、煙草を手にして歩いている輩共、何とかならぬものであろうか。もうこの際、彼等の排出する煙だとか吸い殻のポイ捨てだとかについては一々触れまい。何はともあれ火の点いた煙草を指に挟んで歩いているのが周囲にとっては危険極まりないのである。歩くと自然に手が揺れるため、此の輩共が指に挟んだ煙草は彼等自身の視界から外れたところで前後や横に振られる事になる。此が人混みで真っ直ぐ歩くのも儘ならぬ場所で行われるとどうなるか。当然周囲の人間の腰や手に炎が接触し、衣服を焼いたり手を火傷したりする事になる。其れ位のことが此の輩共には判らぬのであろうか。
もし仮に、指に剃刀を挟んで歩いたり、剣山を手の甲に外向けに張り付けたり、否そんな極端な例を持ち出すまでもなく、針一本摘んで歩いたりするだけで、周囲からはたちどころに人気が去り、或る者は震え戦き、或る者は怒り叫び、場合によっては即警察の出動を待たねばならぬ場合すら存在するであろう。然るに何故、此が熱く燃え盛る炎であれば、周囲の人間は疎か施設管理者までも、皆此を許容して何も言わぬのであろうか。恰も皆の共通認識として、「出血はいかんが火傷なら構わぬ」等という不文律が存在しているかの様にすら思えるのだ。何時から世間はSMクラブのルールを公共の場で受け容れる事に同意したのであろうか。
椎名林檎・4
2000/02/25で触れた、深夜情報番組に於ける椎名林檎の特集に於いて、彼女の詩を「リアルなエロス」と表現している人がいた。外連味のない直球を投げつけるかの如く自らの思想や思考を直截的に表現する中で、自らの性愛に関する欲望についても全く同様に表現されている事を一言で評した言葉のようである。
この言葉を耳にした時、「嗚呼、正に其れ其れ!」と感動したのだ。彼女の詩の特徴の一つを見事に一言で言い表した言葉ではないか。この言葉、決して忘れまじと暫くの間パソコン上の付箋紙に記入しておいた位であった。
只、私が此の言葉を口にするには些か躊躇せざるを得ない。何故ならば、私の語彙の中に「リアル」だとか「エロス」だとかという横文字単語はさほど強い存在感を示している訳ではないからである。もっと私らしい表現を考えねばならぬ。かといって、此を其の儘日本語に意訳すれば良いという事でもない。「生々しい淫らさ」「写実的なエロ」(「エロス」でなく「エロ」であれば私の語彙の中に存在している)だとか、色々考えてみたのだが、どうもしっくりこない。
2ヶ月近く私を悩まし続けた問題に、やっと一つの解答が呈示された。普段観ている深夜報道番組に於いて、偶々椎名林檎の特集が行われており、その中で街頭の青年が彼女の詩を「滲み出るエロさ」と評していたのである。滲み出るエロさ。「リアルなエロス」を、其の意を保ちつつ、私の語彙に於いて言い換えれば、正に斯うなるのでは無かろうか。街頭の名も無き青年に感謝。
そう言えば、彼女の新作「勝訴ストリップ」を未だ手にしていない。近年にないペースで最近CDを買い込んでいる為に自らを若干セーヴしていたのだ。しかし早々に此買う可し。
B to B広告
2000/02/28でさらっと触れたのだが、今一度「B to B(=Business to Business)広告」について述べることにする。従来広告というものは媒体に直接触れる個人の消費者に働きかけるもの(Business to Customers)であり、法人向けの商品については、「広告なんぞやるよりは、特定の企業に対して直接セールスを行った方が、必要なターゲットだけに対して必要な方法をとことんまで伝えることができ、しかも安上がりなので、よっぽど効率が良い」と思われてきた。
ところが、法人向け商品についても、マス媒体(新聞、雑誌、テレヴィ、ラジオ)を用いた広告が見られるようになった。その理由としては、1.「広告を出している」=「メジャー」「企業、商品が一流」というイメージにつながり、企業に於ける商品導入の決定の際にプラスに働く、2.商品の認知度向上により、商品導入に係わる稟議の際に各方面の人々に話が通じやすい、3.その企業の営業社員が法人セールスを行う際にも、「あの広告で有名な○○社の者です」などと、広告がセールストークに使えること、4.営業社員にとっても、「俺達の商品が広告に出て有名になっているぞ」などと、士気の向上が期待されること、等が挙げられる。
こういった広告のターゲットとしては、「企業に於ける商品導入の意思決定者」たる管理職の中年男性が設定されていた。例えば「B to B広告」の元祖と謂われている、日本電気のコンピュータサーヴァの広告は、女性ゴルファーという、如何にもオッサン共が悦びそうなキャラクターを用いていた。
しかし「企業に於ける商品導入の意思決定者」は、実は管理職の中年男性だけではなかったのだ。彼等はいくら会社で偉そうにしていても、所詮は子煩悩のパパ。子供が家で「SMAPの中居君がいい〜」などと一言叫べば、会社でも、SMAPの中居君が広告に出ている商品を導入し、「ペンギンやキリンがかわいい〜」などと一言叫べば、ペンギンやキリンが擬人的に広告に登場する商品を導入してしまう。畢竟、最近のB to B広告が狙うターゲットは、管理職の中年男性の子供なのである。
前置きが異常に長くなった。現在オンエア中の企業向けプリンタのTVCM。若手俳優がニコニコしながら、いきなり若者が入浴している湯船に着衣のまま入って行って「カラープリンタと言えば?」と迫り、戸惑って答えられない若者に水鉄砲を浴びせるものと、同じく若手俳優がカーセックス直前のアヴェクが乗っている車に入って行って「カラープリンタと言えば?」と男性に迫り、車外に逃げ惑う若者を押し倒すものとがあるようである。不条理を絵に描いたようなTVCMであり、到底管理職の中年男性に理解できる物では無かろう。更にこの若手俳優、比較的玄人受けする人物であり、彼等の子供に対してアピールするのにも些か中途半端ではなかろうか。
と、先日まで思っていたのだが、何時しかこのTVCMで若者が不条理な目に遭わされている光景を、何かしら溜飲の下がる思いで観ている自分に気付いたのである。実はこのTVCM、寧ろ最近の若者を苦々しく感じていると思われる中年男性に共感を抱かせることにより、直接働きかける効果を有しているのものなのではなかろうか。そう考えると、人をも殺しかねない狂気を孕んだ演技を見せているこの俳優を用いていることにも納得がいくのだ。
執筆の遅れ
毎日「エゾシカの嘶き」をお読みの方はお解りのことと思うが、ここ暫く一日遅れのペースでの更新となってしまっている。即ち「前日に書くべき文章を今日になって書く」という状態が常態化しているのだ。
毎日書くと言うわけでなければ気にならないのかも知れぬが、私の場合、前日の文章を書く際にはわざわざ前日の自分の心境を思い起こし、「昨日の自分」になってから執筆に取り掛かるのである。この心境のスウィッチというのがなかなか厄介なのだ。単に記憶を呼び起こすだけならまだしも、その時の体調やテンションなどまでも思い起こすのが非常に面倒臭い。元気な時に体調不良だった前日の気分を味わったり、テンションの低いときにハイだった前日の自分を呼び起こしたりなど、困難であるうえ、日常生活上できればいちいちそんな事は避けたいのである。
「エゾシカの嘶き」執筆当初は、休日に書き溜めをしておき、それを公開当日の心境に合わせて取捨選択するといったケースが多かったのだが、最近では逆に、平日に執筆ができなかったツケを休日に取り返すというケースが多い。しかし折しも春の競馬シーズン。週末は「EZOSHIKA PADDOCK」の執筆や下準備(予想検討)でパソコンに掛かっている。
そんな訳でこのシーズン、「エゾシカの嘶き」の執筆の遅れがなかなか取り戻せないのだ。以上、言い訳並びに「EZOSHIKA PADDOCK」のさり気ない宣伝であった。
車掌口調
「車掌DJ」という事で話題を席巻しているSUPER BELL''Zの「MOTER MAN」を聴きつつ思うのだが、全国津々浦々、老若を問わず、JR私鉄の別無く、何故車掌という人種の口調は均質化されているのであろうか。不思議なのは其れだけではない。何故車掌という人種の口調は他の人種には見られない独特のものなのであろうか。抑揚、長音の入れ方、間の取り方、何れをとっても車掌向けに全国で統一化された教育が為されているかのように思われるのだ。
違いがあるとすれば各人の声質。それこそSUPER BELL''Zのヴォーカルのように良く通る声であれば、こういった車掌口調も映えるというものなのだが、実際にはそうでない声質の車掌も少なからず存在する。そういった人間が車掌口調を行った場合、声が通らない上、通常人と懸け離れた口調のために抑揚等からも内容を推測する事が出来ず、結局何を言っているのか聞き取れないケースが多いのである。「全国統一車掌口調教育」も大事かも知れぬが、抑も彼等のアナウンスの目的は、乗客に対して必要な情報を聞き取り易く伝えることにあるという事を、「全国統一車掌口調教育」の初っ端に彼等に叩き込むべきでは無かろうか。
フリーソフト
時たまフリーソフトの類を漁りまくる。特に必要性を感じている訳でもないのに、メールマガジンやフリーソフトサイトをチェックして、手当たり次第にダウンロードして使ってみるのだ。必然性無く用いているのだから、そのまま使い続けるケースはそう多くない。そんな中、ここ暫くのうちに「これは当たり!」と思えるフリーソフトに2回程出会うことが出来た。
一つは「鐘つき時計」なる時計ソフト。これが普通の時計ソフトと大きく異なっているのは、通常のデジタル時刻表示と共に、「子」だとか「午」だとかの十二支を用いた時制、「暮六ツ」だとか「暁九ツ半」だとかの不定時制(夜明けを「明六ツ」、日暮れを「暮六ツ」としてそれぞれの間を6等分したもの)が用いられているのである。特に注目は不定時制。住居の経緯度をセットし、それに合わせてその日の日の出日の入の時刻を割り出した上で不定時制に換算するという芸の細やかさを持ち合わせている。2000/02/29で私が強く推奨した時制を用いたこの時計、余りにユニークな時刻表示機能の前に、時刻の変わり目に鐘を撞く機能が霞んでしまう。
そして今日使い始めたのが「窓の中の物語」なるテキストヴューアー。テキストファイルの文章を、恰も文庫本や新書本を読んでいるかのように、本の見開きに縦書きで表示される。ページを捲るときも紙擦れの音が鳴るという凝り様である。このソフトを用いて、テキストファイル化した過去の「エゾシカの嘶き」を読んでみる。格調高き名文が格調高き書物に収められたかの如くページを彩る。普段ホームページで読んでいる以上に文章が面白く感じられるのだ。これは手放せぬ。
両者とも、「エゾシカの嘶き」を嗜むには必携のソフトウェアであると言えよう。
七歩詩
漢文や三国志に造詣の深い方には馴染み深い詩だと思われるが、魏の詩人・曹植の作品に「七歩詩」というものがある。後継争いで反目し合い、結局魏国王となった兄・曹丕から「お前の詩の才能が優れているというのであれば、七歩歩く内に兄弟をテーマにした詩を作れ。良い作品ができなければ首を刎ねてやる」とまあ何とも漫画のように理不尽な要求を突き付けられた曹植が、その時にしたためた詩がこの作品である。此を聴いた曹丕は思わず涙したと謂われている。
煮豆持作羹/漉菽以爲汁/其(※)在釜下燃/豆在釜中泣/本是同根生/相煎何太急
(※)正しくは草冠に「其」
要は、「豆料理を作るときに、豆殻は釜の下で燃えて、釜の中の豆を痛めつけているかの様子である。元々同じ根から生まれたものなのに、どうして一方が一方を激しく痛めつけるのか」という内容である。苦手だった漢文の授業の中で、この詩およびその背景だけは一生忘れ得ぬくらい衝撃的なものであった。
さて、風呂場で貧血を起こしそうになってふと思ったこと。人体に於ける血と尿は、お互い肉体から生成されるものである。この両者に「ひん」という言葉を付けてみる。片や「貧血」、片や「頻尿」。前者は「足りなくて困る」現象、後者は「多すぎて困る」現象と、全く正反対のものになってしまう。思わず七歩詩を連想して、貧血が頻尿を痛めつけたり、頻尿が貧血を痛めつけたりするという訳の分からぬ想像をしてしまった。抑も血と尿を「肉体から生成されるもの」という同じ土俵に載せたこと自体が誤りではないかと思えるのだが。
恥
自らの内面を発露させるという目的を持って著している以上、「エゾシカの嘶き」で書かれた事を恥ずかしいと思うことは滅多にないのだが、昨日(2000/04/08)の話題を公開した直後に途轍もなく恥ずかしい気分になった。「お前一体何日間シーツ洗うてなかってん」というツッコミが容易に予想されたからである。
自らが「これは恥ずかしい」と感じていることを公開した場合、それは既に「恥ずかしい」ものではない。本当に恥ずかしいものなら心の中で閉ざしておくものである。しかし、自らが別段恥ずかしく思っていない事を何も思わず公開し、その後に「これは恥ずかしい」と思ってしまうと、その事に対する「恥ずかしい」という感覚のみならず、「恥ずかしいものを公開してしまった恥ずかしさ」までも感じてしまうことになる。
そういった精神状態を少しでも平常に近づけるべく、ここでシーツを洗わなかった言い訳を述べることにする。1999/10/03で述べたとおり、私の寝床は書架及び書斎を兼ねており、布団の上に書物が山積みされている。100冊を超える競馬雑誌を除いても、美術書から文庫本まで50冊は下らぬ。そんな状態であるから、寝床から布団を取り去る事自体が至難の業なのである。それ以上に、布団を元通りに戻した上にこれら書物をきちんと整理して積むことが此亦大変。そんな訳で、シーツの洗濯が久しぶりとなってしまった次第。
…恥の上塗りになり兼ねぬわい。
続・花粉症
体調の話になると途端に話が詰まらなくなると2000/03/23で書いた処なのだが、今回は体調の話から入っていくことにする。どうやら今年は花粉症が非道いだけではなく可成り長引いており、杉花粉がピークを過ぎたと謂われる今になってもまだ鼻水や嚔に悩まされている。外出時だけなら兎も角、最近では帰宅後室内に於いても嚔が止まらないのである。外出時服に付着した花粉だとか所謂ハウスダストだとかが充満しているのであろう。
さて、そうだとすればどうすれば良いものか。窓を開けて換気を図るというのは、新しい花粉をふんだんに部屋に呼び込む事になり、却って逆効果であろう。エアコンディショナーも同様。
花粉が付着しているのは衣類や布団類なのだから、これらを何とかしようとも思うが、クリーニングは時間が掛かるため、スーツ類をその都度クリーニングに出すというのは現実的でない。布団を干しても花粉塗れになるのがオチである。結局布団のシーツを洗濯することによって取り敢えずお茶を濁した。
此が案外効果覿面。良いことを発見して効果を得た喜びが、絶好の花見日和でありながら花粉に塗れるのが嫌で花見を断念した悲しさを、本当に若干ではあるが打ち消すことが出来た。しかしもっと早く気づけよ。
広告とターゲット
「社会人という新生活の中に於いて学生時代同様プライヴェートの充実を図っていく為にアフターファイヴを謳歌しようとしている現代風若者の『携帯電話のある風景』を等身大で描いた作品。商品のターゲットである彼等が重視している料金面で競合他企業に劣っている為、目線を彼等に近づけることに因り、商品や企業が彼等と緊密になろうとする工夫が為されている」。広告やマーケティングの講義では恐らく斯様に紹介されるであろうNTTドコモのTVCM。3月からオンエアされている其のTVCMは、如何にもスーツの似合わぬ新入社員らしき数名が如何にも学生風のノリで、飲み屋やボウリング場等の盛り場で遊んだり女性に声掛けたりしているシーンが、彼等に焦点を当てたホームヴィデオの生撮り風に紹介されるという内容の物である。
此のTVCMを観て私は、NTTドコモから他社に自らの携帯電話を切り替えたくなる位不愉快な気分になったのだ。TVCMの若者達の阿呆面や阿呆口調については此の際目を瞑る事にして、「うちの商品は、学生気分の全く抜けない日々朝まで遊び呆けているような人達を大切なお客様だと考えております」という企業姿勢が見て取れたのが、正にその商品を用いている人間にとっては不愉快極まりないものであったのである。
数年前の事であるが、日本経済新聞社が、若手タレントのアップの写真に「ビッグバンになってやる」というコピーを加えたポスターを駅頭で展開していた。其のポスターの前に職場の先輩と居た時、彼にそのポスターについての感想を問われた。如何にも若者の代表といった感じのタレントや、当時話題になりつつあった「ビッグバン」という言葉を覚えたばかりの如何にも頭の悪そうな若者が口にしそうなコピーが、個人的にはどうも好きになれぬ、という趣旨の返事をしようと思った矢先、其の先輩はいきなり語気を荒げて「此のポスター、日経を読んでる者としては非常にむかつくんじゃ」と言い放った。今から思えば、此の先輩も今の私同様、件のポスターから「うちの商品は、流行りの言葉を右脳で解釈して口にするような軽薄な人達を大切なお客様だと考えております」という企業姿勢を見て取ったのであろう。
此処まで書いて自己嫌悪に陥ってしまった。「広く受け容れられる広告なんて、メッセージが薄くなってしまうだけ」と、私自身昨日(2000/04/06)書いたばかりではないか。此こそ正に、広告やマーケティングの講義では必ず触れられる話。個人的に不愉快極まるTVCMを「ターゲットの絞り込みに成功した作品」などと紹介すべきなのが、余りに辛くて堪らぬ。
広告と企業
東京駅で私の目を惹いたポスター。JR東日本が山形方面の温泉を11ヶ所程写真で紹介しており、各々の温泉の湯船を写しているのだが、それら湯船に浸かっているのが動物の着ぐるみ達なのである。熊、栗鼠、兎等の獣達9種に加えペンギンに蛙。温泉の楽しさ、気持ちよさを伝えるには湯船に誰かが浸かっているシーンが必要不可欠。雑誌の紹介記事のように湯船だけ紹介するのは観光誘致ポスターとしては些か物足りぬ。とはいえ若い娘を用いるとエロティックなものになり、老夫婦なんぞを用いると従来からの温泉のイメージである「高年齢層向け」という所から脱却できぬものになってしまうという事で、こういった獣達の着ぐるみというアイデアが産まれたのであろう。
「山形地区の温泉」と一言で括られてしまう全11ヶ所を、それぞれ異なるポーズの異なる動物によって個性を持たせて紹介し、見た目の明るさ・華やかさ(黒をバックにした中、着ぐるみのカラフルさが映えている)が温泉の楽しさを伝え、上で述べたとおりモデルから人間を排除することにより、既存の「温泉」や「温泉旅行」のイメージを払拭するという、「温泉の個性化」「温泉旅行の楽しさ」「温泉イメージの変革」といった点を全て語り尽くしている優れたポスターであると言えよう。勿論、私が獣好きだということを割り引いて評価しても、である。
クリエイターもよくこういった広告を作ったなぁと思うと共に、企業側もよくこういった広告を受け容れたなぁと思ってしまった。私はこのポスターを見て、「自分がクリエイターで、このポスター案を得意先であるA社にプレゼンテーションしたとしたら」という仮定の下、今まで自分が体験したり人から聞いたりした中で、得意先が放つ最も嫌なリアクションを想像してみた。
私:(自信満々で)「…という事で、こういった表現にしてみました」
A社X氏(以下「X」):「こんなのあり得ないですよ。温泉業界も怒ってしまいますよ」
私:「どうしてですか?」
X:「だって、こんな写真を載せたら、『この温泉には動物も一緒に入れる』と思う人が出てきますよ」
A社Y氏(以下「Y」):「『着ぐるみや服を着たまま入れる』と思う人も出てきますしね」
A社Z氏(以下「Z」):「温泉には『不衛生だ』という苦情が来ることになるんですよ」
私:「(内心驚き呆れて)いやぁ、普通そんな人居ませんよ。みんな洒落ぐらいわかりますよ」
X:「そんな事言えないでしょう。クレームを付けて楽しむ人なんていくらでもいます」
Y:「だいたいあんた、もしそういった人が出てきたら責任取ってくれるんですか。常に最悪の事態を考えておかないと」
Z:「うちの広告はオールターゲットですから、いろんな人を想定しておかなければならないんです」
私:(広く受け容れられる広告なんて、メッセージが薄くなってしまうだけやんけ…)
X:「温泉といえばみんな『湯煙』とか『熟年旅行』とかいう共通のイメージを持ってますよね」
Y:「そうそう」
Z:「そのイメージをオールターゲットに訴えよう」
私:(そんなイメージがあるから食いつかん層があるんじゃ!)
X:「湯煙の中で熟年夫婦がくつろいでいるシーンなんてどうです?」
Y:「若者にも知名度のあるヴェテランタレントを使ってみては?」
Z:「うん、これだとうまく行きそうですね。着ぐるみよりはずっといい」
私:「それって20年以上も前のフルムーン旅行のポスターと全然変わらんやんけ!」
広告制作者として、制作意欲やプロの矜持を失うこと必定。こんな得意先には遭遇したくないものである。
それにしても、何で楽しい広告を観てこんな哀しい想像をせねばならないのだ。
日記
当初「エゾシカの嘶き」を「日記」と呼ばれることに可成りの抵抗を感じていた。当然自ら「日記」と名乗ったことはない。全てが全てというわけでは決してないのだが、他のサイトで「日記」と銘打たれた同様のコーナーを見るにつけ、「今日は朝から何々をした」「最近ずっとむかついている」等、その人の毒にも薬にもならぬ生活を只単に述べるに止まったり、感情を発露することにより欲求不満を解消したりするなどといった、一体何のために不特定多数に公開しているのか、一体読者の存在という物は何なのか、等疑問を抱かざるを得なかったのである。
ところが実際他のサイトで「日記」と紹介される機会が何度かあり、そのうちに他者から「日記」と呼ばれることには抵抗が無くなってきたのである。元々「日記」とは、「日々の出来事や感想などの記録」(広辞苑より)という事であり、2000/03/31で触れた「自ら内面を絞り出し発露させる」という私の思想とは若干異なる部分があるのだが、「日記」を文字通り「日々記された物」と解釈すれば、正に「エゾシカの嘶き」の「一日一話」というコンセプトに合致する物ではないか。その点に於いて他者から認めていただいたという点では寧ろ喜ばしい事だと思えるようになってきたのである。加えて、私が読んでいて楽しく思える日記を著しているような方々から「エゾシカの嘶き」を「日記」と評された時に、「ああ、この人の定義する『日記』とは優れた著作物ということなのだろう」と嬉しい気分になるケースが存在するのだ。
しかし一方で自分の中では「エゾシカの嘶き」と己のイメージする「日記」とのイメージがまだ乖離しており、自ら「日記」と名乗ることには未だに抵抗があるため精々「随想」と名乗るに止まっている。
片仮名
片仮名が非常に苦手である。全くと言っていいほど頭に入らない。高校時代の社会科(今の地歴科)は、日本史、世界史、地理のうち、理系では主流の地理に背を向けて日本史を選択していた。というか、「猿暗記で何とかなる」と定評のあった世界史や地理など、私にとっては片仮名を只管覚えねばならないなど、苦痛以外の何者でもない。中学時代には世界史が必須だったため、さながら暴走族のように、片仮名を無理矢理漢字に直して一生懸命頭の中に入れていた。ローマ帝国の時代なんぞ、「億度肛門」(オクタビアヌス)、「虎肛門擬」(トラヤヌス)等、「肛門」という文字が私の試験勉強用ノートや反復書取用計算用紙等に所狭しと踊り狂っていた。
今でも状況はさほど変わらぬ。日本の市町村名くらいなら音を聞けばそこそこ漢字を書いたり場所を推測したりが可能となるのだが、殊海外の地名となると、国名レヴェルでも何処に何があるのかさっぱり判らぬ事が多い。人名も然り。片仮名人名は何度耳にしても頭に入らぬ事が多い。日常生活に於いても片仮名を避けるが如く、洋文学だとか洋楽だとかといった文化に接することは稀である。
左様な人物が、片仮名の名前が溢れかえっている競馬に興味を抱き毎週のように片仮名に接することを楽しみにしているというのが誠に不思議でならない。
江戸の讃岐饂飩
1999/12/25〜1999/12/26で触れたホワイト・クリスマス饂飩旅行の際の同行者が大坂から東下りをしていた為、必然的に江戸で讃岐饂飩を共に嗜むことになった。1件目は小洒落た国際会議場の地下にある小洒落た讃岐饂飩屋。喫茶店が片手間に饂飩を品揃えの一環として置いている程度のものかと思われたのだが、メニウを見ると全て饂飩。しかも麺の味、艶、歯応えを楽しむ為の生醤油饂飩(名前の通り、冷饂飩に生醤油をかけて食す)があるではないか。美味しさには半信半疑の儘注文してみる。出てきた饂飩を見てにんまり。色艶は上等である。生醤油をかけて食す。否否この歯応え、本場の讃岐饂飩の中に入っても引けを取らぬ腰の強さよ。個人的には生醤油の塩辛さが若干気になったものの、麺の面では合格点を与えても良かろう。
次に足を運んだのは小狭いオヤジ系飲み屋風讃岐饂飩屋。饂飩を落ち着いて食す雰囲気でない所が却って怪しげな本場の讃岐饂飩屋らしさを醸し出す。どうも昨年の饂飩旅行以来、饂飩の美味しい店たるもの、工場の一角だとか納屋の中だとか竹藪の中だとかパチンコ屋の駐車場だとかといった非日常的な雰囲気の場でないといけないという悪しき先入観に囚われている様である。しかし実際に出てきた饂飩、麺の歯応え、出汁の味には幾分疑問が感じられた。そうは言っても饂飩としての平均点は十分に越えている。ぶっかけ饂飩に笊天饂飩を食し、心も体も満たされて同行者と別れた。「江戸で旨い饂飩など食える筈が無かろう」という先入観を多少なりとも払拭することが出来たことも、ちゃきちゃきの江戸っ子(此処6年近く)として生きている私には目出度い事であった。
其れにしても僅か2時間、2軒、3食で費やした金額、ホワイト・クリスマス饂飩旅行の際に2日間、14軒、15玉で費やした金額にほぼ匹敵するのである。あな恐ろしや。江戸の物価の高さを身を以て立証する結果となった。ちゃきちゃきの江戸っ子(此処6年近く)として生きている私には哀しい事であった。
落胆
いやもう非道く落ち込まざるを得ない。元はと言えば私のエイプリル・フール用小技のセンスの所為であるのだが、それにしてもあんまりなのである。
4/1を迎えるや否や、私は「エゾシカの嘶き」に手を加えた。通常「エゾシカの嘶き」トップページ(即ちこのページである)が表示される処、ここに所謂アダルト・チェックを仕込んだのである。何時も通り「エゾシカの嘶き」を読もうとアクセスした人は、先ずピンクや茶色等極彩色の大きな文字で毒々しく書かれた以下のメッセージに仰天することになる。
注意!
ここから先は獣愛についての記述が含まれております。
あなたは獣愛に理解がありますか?
Yes No
ここでたじろがずにどちらかを選択した人には、通常の「エゾシカの嘶き」が表示されるとともに、上部に「エイプリル・フールヴァージョン。残念ながら、獣愛専門サイトへの道はまだまだです。」(Yes用ページ)、「エイプリル・フールヴァージョン。ご安心下さい。非獣愛家にもお楽しみ頂けます。」(No用ページ)という文字が現れるのだ。しかし、四月馬鹿となる事を恐れてアダルト・チェックでたじろいで帰っていった方々は、恐らく二度とアクセスしなくなると思われる。
4/1(土)の「エゾシカの嘶き」へのアクセス数(この日についてはアダルト・チェックのページを見た人)は通常の土日とさほど変わらなかったのだが、翌日4/2(日)になるとアクセス数は前日の3分の1に激減したのである。単にアクセス数が減ったことを嘆いているのではない。只でさえ獣愛関心度が高いと私が信じていた「エゾシカの嘶き」読者のうち、3分の2が獣愛にたじろぎ戦いた事が悲しいのである。
1年
自分の誕生日も新年もその他の記念日も「エゾシカの嘶き」上で祝うことはしなかった。自分固有の記念日であり、且つ「エゾシカの嘶き」をご覧の方々にも意味のある記念日であるようなものでないと、この場で祝する意味がないのではないかと思った為である。そしてそういった記念日が訪れた。「エゾシカの嘶き」、一日一話の掲載を366話、計21万字遺し続けて今日で1年。おめでとう私、ありがとう皆様。
過去に文章を遺しておきたかった、遺しておいて良かった、と強く思ったことが2回ある。
学生時代の事、初めてパソコン・ワープロを入手した時、先ず最初に書こうと思ったのが遺書であった。何時死のうが自らの生きていた証を何らかの形で遺しておきたいと強く思っていたため、自らの生い立ちや思想等を述べることにより自分がどういう人間であったかを記しておこうとしたのである。死んでからでは遅いのだ。しかし実際には「後に遺す」という点を強く意識しすぎたせいか、何から書いてよいのやらなかなか纏まらず、結局その役割を日記に託すことにして、遺書作成を諦めてしまった。
この人には私の全てを受け容れて欲しい、また私の全てを受け容れてくれるではないか、と初めて会ったときから予感させた人がいた。とてもじゃないが一度や二度会って電話で話をした程度では私という人間を理解してもらえないだろう。そう考えた私は、当時まで密かにこつこつと書いていた様々な文章類を、敢えて話題によって選択したり隠したり書き直したりすることなく、全てそのままの形でその人に渡した。歪んだ家族関係、歪んだ中学・高校事情、歪んだ自らの人格。そしてそういった人物が何を好きになり、何を嫌っているのか、そういったものが折々に触れられた文章類及び文章を書いた私を、恐らく家族ですら受け容れることのできないものを、その人は受け容れてくれた、確かに受け容れてくれたのである。
一方は「私という存在を私の亡き後に遺す」という「死」の為、一方は「私という存在を受け容れてもらうために記す」という「生」の為。相反する、それでいて何れも自分が経験するものに対する目的の為に、自らの文章という物の価値が存在するのだ。今此処に著された、著しつつある文章が何時の日か価値を伴う物とならん事を強く切望しつつ、2年目のシーズンに突入していく。