エゾシカの  2001/06/01〜2001/06/30

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2001/06/30

難聴のボクサー

 日曜深夜という極めて視聴率の良くない時間帯、テレヴィ局によっては各局若しくは系列局の自主制作ドキュメンタリー番組が放送されるのだが、此等が時として「何でこんな時間帯に放送するねん、もっとええ時間帯に放送せんかい」と言いたくなる位見応えのあるものなのだ。

 先日観た番組に於いては、生まれつき難聴の高校生ボクサーが採り上げられていた。主人公は小学生の頃から生徒間暴力(此の語については2000/05/29等参照)を受けていた為に「強くなりたい」の一心で、恐らく格闘技に取り組む際に多大なハンディキャップとなるであろう難聴をものともせずボクシングに取り組む光景が紹介される。

 尤も此だけでは別世界の人物の伝記を読むかの様に、己に投影する事も無く「ああ凄いなぁ」で終わってしまうのだが、主人公が試合に臨み血塗れになって敗北した時にボクシングの練習が嫌になり暫くジムに通わなくなり、久し振りに顔を出せば出したで「今の儘の気持ちで練習しても迷惑だ」と罵られる始末。結局主人公は暫く考えた後、元通りの気持ちを取り戻しつつ練習に参加したり後進の指導にあたったりで以前の様にジムに頻繁に通う事になる。

 単に向上心→挫折→向上心というテーマであれば、近年のヤラセ番組でも食傷する程採り上げられていよう。しかし此の番組では、己の背負ったハンディキャップの大きさを克服する位の強固な意思、第三者が観てても此は誰であろうが挫折してしまうであろうと思える位生々しく血に塗れた敗北シーン、挫折していた時期に於いてジムに居る時の空虚な表情と友人達と過ごしている時の楽しげな表情のギャップ、此等が全て説明が不要な位リアルに丁寧に描かれており、全く素直な気持ちで主人公及び其の周囲の人間に対してテレヴィという媒体を通じて接する事が出来るのだ。

 さて、此の番組を通じて強く感じたものが二つある。番組の最後で主人公が今後の夢を問われた際に「強い大人になりたい」と答えていたのだが、具体的に「強い大人」とはどんな大人なのか、彼の中では今一つ具体化されていなかったようである。恐らく其れはボクシングで勝つ事と同一ではないし、かといって彼からボクシングを奪っても容易に得る事が出来るという性質の別物でも無かろう。彼の目指す「強い大人」とは何かを彼自身が模索し、其の方向を向き、「強い大人」になって欲しいという強い衝動を覚えたのだ。

 もう一つは彼を取り巻く周囲の人達の態度。「彼が障害者だから大事にしよう」という眼では無くあくまで「彼の『強くなりたい』という直向きさを支えてあげよう」という眼で彼と接している姿に強く心惹かれ、私自身彼等と一緒になって主人公の直向きさを支えてあげたいという気持ちで一杯になったのだ。

 そんな訳で深夜に感情を強く揺さぶられ、気が付けば涙すら流していたのであった。


2001/06/29

変人

 学生時代には自己の署名及び著作物には其れが縦令ワープロ文書であろうがわざわざ筆ペンを用いて花押を記入していた。私の花押は「変」という文字の一字体であり、今一歩変人に成り切れぬ私が変人に憧れている事を然りげ無く主張していたのだ。尤も花押を記入する行為自体が充分己の変人振りのアピールとなっているような気がしないでも無い。一度ゼミの発表資料に於いて余白部分に大きく花押を記入した処「メモを記入するスペースを何故わざわざ潰すのか」とどえらい顰蹙を買った事も今となっては良い想い出である。

 就職活動の際、或る企業の面接に於いて己の長所と短所を問われた際「長所は変な処であり、其の変な処が時に短所となっております」なる旨の発言を行い見事に落とされた事があった。少なくとも己の変な処を具体的に述べねば説明として不十分だと後から思う一方で、左様な具体的な説明の内容が却って徒となり「左様な輩は当社には不要」と判断される懸念も充分に想像された。

 就職が決まり内定者で名簿を作成する事になったのだが、其の中に「私は○人です」との記載があり○を自由に埋めよという欄があった。私は何等迷う事無く○内に「変」という文字を入れたのだが、後で他の内定者の記載を観れば大喜利風に○内に面白い事を書いている者が思いの外存在し、此処は笑いを取る為にもっと頭を捻って面白い事を書くべきだったかと後悔する事頻りであった。

 現在「変人」たる呼称を或る著名人が己の為に好んで用いる事で俄然「変人」たる語が脚光を浴びている状況を目の当たりにし、上記の様な学生時代の想い出を続々と想起しつつも、変人に憧れつつも未だ其の域に達する事能わぬ状況に対し内心忸怩たる思いを抱いている次第。


2001/06/28

神社と寺社

 昔居た職場に於いて文書を目にしたり作成したりする際に何度と無く誤用の疑いが掛けられ其の都度話題になっていた単語に「神社仏閣」「寺社仏閣」というものがあった。「此は神道も仏教も引っくるめて表現する為に『神社仏閣』と言うのだ」「否仏教施設を強調して表現する為に『寺社仏閣』と言うのだ」という意見に分かれ、語呂として落ち着くのは前者か後者かを考えて更に議論は紛糾し、最終兵器として広辞苑が登場するも「神社仏閣」も「寺社仏閣」も見出し語として登場せず、「仏閣」の用例として正解が掲載されているのを発見し、神社派と寺社派との流血の惨事を寸前で回避する事が出来るのだ。而も此程迄に苦労して正解を導いたにも拘わらず、何故か再び同じ議論が為されたりする事となる。因みに私が文章をしたためる際の用例の手本として学生時代より愛用している「朝日新聞の用語の手びき」(2001/05/10参照)にも此の正解は掲載されていない。

 さて、今日の「筑紫哲也NEWS23」に於いて此の誤用を耳にしたのだが、「否相手は大マスコミ。ひょっとすると己が間違っているかも知れぬ」と一瞬思ってしまった。もうこうなると神社か寺社か一体どちらを信じれば良いのか、其の都度己の常識を揺るがさざるを得ないのだ。


2001/06/27

旅行動向予測の振り返り

 ちゃきちゃきの江戸っ子を辞してからほぼ一年という事で、一年程前の「エゾシカの嘶き」を眺めている中、2000/06/23に於いて私の旅行生活がどう変化するのかを予測している事に気付いた。此処で当時の予測を整理して纏めてみる。

<総論>
 ・電車で数時間の処への旅行が増える一方で、遠方に短期間の旅行に出掛けるという旅行が減少

<プラス予想>
 ・西信州、越中・越前方面、紀伊半島方面の旅行が増える
 ・新幹線だとかを用いた地域、中国・九州辺りへの旅行が増える
 ・夜行列車を強引に用いることにより充実した讃岐饂飩旅行も可能

<マイナス予想>
 ・東北・東信州・越後方面への旅行が激減
 ・北海道に年二回も足を運ぶ機会が無くなりそう

 さて、実際の処、名古屋に来て以来の旅行先は、和歌山、北海道、宮城、三重、郡上八幡。総論ベースではほぼ予想は的中していると言っても良かろう。しかし各論についてはどうか。紀伊半島方面の旅行が五回中二回と多いのだが、西信州だの越中・越前だの中国・九州だの、更には讃岐饂飩旅行だの、一度たりとも行っていないでは無いか。逆に、激減する筈の東北旅行が五回中一回。更には北海道旅行は昨年一年で、如月と長月の二回訪れている。

 まあ当時の予測もえらい好い加減な物である事よと呆れ笑う一方で、此の一年で此だけの旅行しかしていないのか、其の原因は何なのか、一体己の中に占める旅行とは何なのか、何時まで此の状況を甘受する積もりなのかなどという怒りに近い疑念が次々と沸き起こり、決して誇張では無く背筋が凍り付く位、己のアイデンティティが期せずして崩れつつある事に空恐ろしい気持ちにならざるを得なかったのだ。


2001/06/26

携帯メアド

 最近立て続けに私の周囲の人間が携帯電話のメールアドレスを変更している。11桁の電話番号に基づくアドレスを狙い、無差別なメール送信が第三者に行われた結果、受信者は全く期待せぬメール受信の為に通話料を負担せねばならぬという所謂「迷惑メール」の問題を回避する一手段として、携帯電話事業者が11桁の電話番号に基づくアドレスの変更を此処最近慫慂している為だと思われる。

 其れにしてもどういう訳なのか、彼等の新しいアドレスは皆殆ど例外無く「本名+誕生日(生年だとか月日だとか)」という組み合わせから成るのだ。私にしてみれば何故己のプライヴァシーたる本名及び年齢若しくは誕生日を此処迄偸閑に出来るのかと訝らざるを得ないのだが、よくよく冷静に考えれば、携帯電話のメールアドレスにプライヴァシーを含めた処で如何なる実害も生じないのでは無いかと思われるのだ。

 一般人が日常生活に於いてメールアドレスを用いる機会といえば、所謂「出会い系」を含むエロサイトやエロメルマガの会員登録が大半を占めるのでは無かろうか(無論私は左様な機会など存在しないのだが)。携帯電話の画面でエロ画像を観たりエロメルマガを読んだりせねばならぬ程切迫した欲情状態に至る機会はそうそうあるまいし、左様な状況に於いても、極めて小さく画質の荒い携帯電話の画面に表示されたエロ画像で満足出来るのか、一画面の文字数が極めて少ない中、少し読んでは画面をスクロールさせという状況でエロメルマガを読んで法悦の境地に達するのか、それぞれ甚だ疑問である。出会い系サイトなんぞも、余程携帯電話メールを打ち慣れている若者等ならいざ知らず、殊我々の周囲の人間については、見知らぬ異性とのアヴァンチュールに対する好奇心を、携帯電話での文字入力の面倒臭さが遙かに凌駕してしまうような気がするのだ(繰り返すが私は左様な経験など無いのだ)。

 そう考えると、日常生活に於いて己の携帯電話メールアドレスが遍く広まりプライヴァシーが世間に晒される危険性もそうそう無さそうな気もする。本名+生年月日なるメールアドレスも、此は此で己のアイデンティティとして或る意味主張すべきものかも知れぬ。


2001/06/25

ワンサくん

 或るアーティストが新曲のCDジャケット及びプロモーションヴィデオに於いて手塚治虫の名作「ふしぎのメルモ」の主人公を用いて話題となっている旨耳にして、手塚治虫の別のアニメ作品がふと脳裏を過ぎった。

 「ワンサくん」という、犬が主人公の其の作品、人間に売られた過去、生き別れの母との再会、好きだった女性との別離などというシリアスなテーマを描きつつも、底抜けに明るいテーマソングや随所に鏤められた小ギャグ、そしてふんだんに現われる明け透けな放尿シーンなど、重々しさを感じさせぬ作品であった。アニメとしても、読者投稿及び投稿者が其の儘作品中にいきなり現われたり、アニメの中に実写や写真のコラージュを採り入れたりなどといった斬新な手法が用いられており、獣に関心が無いばかりか寧ろ恐い存在として認識していた幼少の私にとっても非常に印象的なアニメであった。

 しかし其の後、「ワンサくん」が世間で話題になったり他人との会話に於いて話題になったりした記憶がとんと無いのだ。精々一時三和銀行のマスコットキャラクターになっていた程度では無かろうか。書店に赴いても手塚治虫の他の作品集は数多存在すれど、「ワンサくん」を店頭で見掛けた記憶も覚束ぬ。インターネット上に於いても検索エンジンでヒットする件数はたかが知れている。他の手塚治虫作品が何かの機会に話題になるにつれ、「ワンサくん」が気になって仕方無いのだ。


2001/06/24

プロ意識

 讃岐の地に於いては饂飩の製麺所が麺の卸のみならず其の場で饂飩店を開き客に饂飩を供する場合が少なからず存在する。そしてそういった店舗で供された饂飩は大抵の場合(少なくとも私が経験した中では例外無く)美味しいのだ。他店舗に卸す為の麺を創っているだけに麺が美味しいのは判るのだが、出汁が美味しいとはどういう事か。

 己の麺の美味しさを最高の状態で供する為に、本業の製造過程では関係が無いと思われる出汁に迄己の手で最高を求める。己の最高を証明する為に其処迄して己の手で環境を整えトータルの最高を追究するのか。此ぞ正にプロ意識の極致、味の良さに勝るとも劣らぬ位魅力的に感じられるのだ。


2001/06/23

自転車屋

 現在の寓居から10km程度の処に在る、数年前の寓居周辺を先日訪れた。昨年にも会社帰りに後輩に誘われ「天下一品」に行く序でに訪れた事があったのだが、昼間に訪れるのは久方振りである。

 駅自体が当時の跡形も無く大きく改築されており、駅周辺にも変化が見られた。駅前にATM機が設置されたり自転車置場が拡張されたりといった一方、仕事帰りに立ち寄っていた駅前のコンヴィニが無くなっていた。其の中でも当時と全く変わらぬ有様で、駅ロータリー脇の自転車屋が健在であったのだ。

 学生時代に愛用していた自転車を後輩に譲り、社会人になって暫く自転車の無い生活を続けていたのだが、其の街に暫く落ち着いて住む事となったのを切っ掛けに自転車を購入する事にした。事前にマウンテンバイクの型録を蒐集し検討を進めて店頭に赴いた処、どの型録にも掲載されていないデザインの機種を勧められた。其のデザイン、さほど其れ自体が魅力的とは思えぬものであったのだが、「此のデザインの自転車は市内にも三台しか無いのだ」という言葉が、昔から限定ものに弱い私への効果的な殺し文句となり、機能的に私の求める処を下回らぬ事を確認した上で即購入するに至ったのだ。其の後此の自転車は休日の度に私の足となり、更にちゃきちゃきの江戸っ子時代を経て、周囲に商業施設の乏しい現在の寓居生活に於いては無くてはならぬ存在となっている。

 長年の時や生活環境の変化を経ても当時と変わらぬ存在である私の自転車と、其の自転車店が長年の時や環境の変化を経ても当時と変わらぬ状況が私の中で重なり、当時の生活を思い起こすと共に、「時を経ようが環境が変わろうが、変わらないものってあるよな、あっても良いよな」と感じ入った次第。


2001/06/22

獣欲業を制す

 今もそうなのだが以前は其れ以上に子供という存在を受け容れる事が困難であった。独自の世界観や感情の発露に基づく傍若無人さ、我儘さ、更に当方の意思を全く受け容れぬ、理解せぬ。そして彼等が何を行っても「子供なんだから」等と許されてしまうという社会に於ける暗黙の了承。更には己の幼少時代を今から振り返るにとてもじゃないが好きになどなれぬというのが其の理由である。嘗ては子供を見るだけで業が湧き、近寄ってきたりコミュニケーションを取ろうものなら業腹も煮えくり返るに至っていたのだ。

 此の気持ちに僅かなりとも変化が訪れたのは獣と接する様になってからであろうか。相手の世界観や感情の発露の方法を相手の種独特の個性と捉え、其れが縦令私のものと相反するものであろうが理解する事により、言葉無くとも眼前の相手との接触を愉しむという行為が心地良く感じられる様になったのだ。

 子供に対しても此と同様の考えに基づき接してみた。接してくる子供と同じ遊びを楽しんでみたり此方から話し掛けてみたりする。そういったコミュニケーション次第で相手が私を好きになっている様子が感じられた時には業の湧く事無く心地良く接する事が出来るのだ。先日「EZOSHIKA BBS」に於いて読者の方から駄洒落として紹介された「獣欲業を制す」とは正に此の事では無いか。


2001/06/21

穴埋め

 知人にメールを書いている際に突然発見したのだが、「穴埋め」を「あなうめ」では無く「あなうずめ」と読むと、途端にエロティシズムが飛躍的に増加するでは無いか。火照った女陰にゆっくり静かに太い陰茎を隙間無く没入させていく様が忽ち万人の脳裏に鮮明に想起されるに相違あるまい。

 其れにしても此の歳になる迄斯様な日常用語の妙を誰にも教えられる事無く自ら気付く事も無くよく生きてきたものである。一体幼少時から学校の試験等で何度「穴埋め」なる語に接してきたというのだ。此の瞬間こそ正に、己の国語能力及び注意力の無さを最も酷く感じ入った時であった。


2001/06/20

人名にみる獣愛

 人名(姓では無い方)の中に獣が織り込まれるケースは可成り限定的なものであるのだが、或る特定の獣が古今に亘り人名に織り込まれている事に気付いたのだ。尚此の際、十二支絡みの漢字については考慮しない事にする。さもなくば「未咲」「未来」などといった名前が羊としてカウントされたりするのは兎も角「○子」といった女性が全て否応無しに鼠に絡むといった事態を引き起こしてしまうのだ。

 古来より日本人に最も親しまれるばかりか一時期は人間以上に敬われていた犬。此程迄日本人に密接な獣が人名に登場する機会は殆ど無い。姓ならば「犬山」姓が存在しようが、私の知る限り人名に登場する「犬」の例は、「みどりのマキバオー」の主人公の声で一世を風靡した犬山犬子くらいしか思い浮かばぬ。

 それでは猫はどうか。此もなかなか人名に用いられる機会は少ないのだが、有名人の実例は犬よりも若干多い。即興でも初代江戸家猫八、二代目江戸家猫八、三代目江戸家猫八、江戸家子猫の四名が想起された。

 家畜として我々に密接な関係がある牛や豚。前者は画家の奥村土牛が即座に思いつくが其処から先は全く出て来ぬ。後者に至っては全く有名人が浮かばぬばかりか抑も人名に用いられているケースすら想像し難い。

 そろそろ核心に近付いてきた。馬はどうか。古来は蘇我馬子に始まり、滝沢馬琴、坂本龍馬、生存者では俳優の西岡徳馬。其の他身近にも、一馬、和馬、拓馬、等々。更に海外迄含めれば、マルコポーロの「マルコ」なる名が「馬可」と当てられているのだ。

 此等の事実からも明々白々。2001/04/052001/01/15等で触れた通り古来より馬と人とは特別な関係にあったのだ。此の両者の獣愛が古来より我々の日常に聢と根付いていた事を努々忘れず常日頃より意識して日々を送るべきである。


2001/06/19

哀しき病床

 今年度に入って以来毎月一度は体調を崩して会社を休んでいる。卯月は急性胃炎(2001/04/18参照)、皐月は胃液吐瀉(2001/05/31参照)。どうも消化器系が良くないのかと思い日常の飲食物に注意を払った結果、内角直球で二連続ストライクを取った後に投げる遊び球の如く、水無月は高熱という有様。

 昨夜の時点で明らかに翌日には出社出来ぬ位の熱を発しており、今日は通院後医者に行った後は只管床に就き、額から蟀谷を伝い其の儘留まる処を知らず耳に迄流れ入る程の汗をかきまくっていたのだ。

 高熱の苦しさ、苦しむ為に存在する休日の辛さ、そして何よりも、先日購入したヤブイヌ縫いぐるみをヤブイヌ顔の後輩に渡してヤブイヌを語り合う為に今日設定した約束を反故にせざるを得なかった事及び其の楽しみの機会が消失したという無念さが、私の病床を一層哀しいものにするのであった。


2001/06/18

開嬢

 職場のパソコンで日本語変換を行う際、「かいじょう」と入力すると決まって有無を言わさず最初に「開嬢」という漢字が表示される。抑も此は如何なる意味なのかと思い広辞苑を繙くも左様な語句は登場しない。さては其の端末を用いていた私の前任者が令嬢を開脚させ股間に顔を埋め女陰をべちょべちょ舐め回して法悦感に満たされているという猥想に浸りながら「開嬢」なる語句を勝手に登録したのかと思ったのだが左様な形跡も存在しない。となると此はIMEの問題だと結論付ける他無かろう。

 最初に目にしたときにはなかなかのセンスの良さを感じていたのだが、毎回毎回何度「会場」という単語を教え込んでも「開嬢」と変換されるのが極めて鬱陶しく感じられ、元々日本語能力の低さには定評があるばかりか「学習機能」を最強レヴェルに調整していても全く学習効果が反映されぬ此のIMEに対して何度も何度も「会場」と教え込むよりは寧ろ「一遍受けたからといって何遍も同じギャグをかました処で聞く方はええ加減飽きてくるのじゃ」と叱った方が手っ取り早いような気もしてきたのだ。


2001/06/17

獣とIT

 昨日(2001/06/16参照)ズーラシアに向かう直前に電器店に足を運んだ処其処に並んで居たパソコン雑誌がいたく私の目と心を惹く事となったのだ。表紙にはまだ鹿子模様も新鮮なあどけない子鹿の写真。右手で巨大パソコンのキーボードを叩こうとしている様子なのだ。

 一体どうやって撮影したのかを考える間も無く私の目は其の隣に並べられた雑誌に移り、馬の一部がサイボーグ化したCGが表紙を飾っている様に只管驚くばかりであった。

 同時期発売の複数のパソコン雑誌が「顔」とも言える表紙に大胆にも草食獣を用いる。従来所謂ITとは縁が無いものと思われていた鹿や馬が今やIT革命の旗手として君臨しているのだ。好みの獣達が雑誌の表紙を飾って嬉しいという念以上に、彼等が時代の先行者として遍く認識されている点に多大な驚きと喜びを感じる事に至った次第。


2001/06/16

ヤブイヌ縫いぐるみ

 久方振りの東京出張の機をみすみす逃す訳にはいくまい。私は其の行動がさも地方からの出張ビジネスマンの王道であるかの如く、東京で一泊した翌休日に「ズーラシア」迄足を運ぶ事にしたのだ。

 春先から罹患した儘未だ治癒する気配の無いヤブイヌ熱の所為で、三ヶ月余りで国内のヤブイヌ動物園を一巡するという挙に至ったのだが、折しも数日前、ズーラシアのヤブイヌに纏わる妙な噂をネット上で見聞していた事も一因なのである。

 二年前にズーラシアに足を運んだ際(1999/06/20参照)、当然飛ぶ様な売れ行きを示していると思われたヤブイヌグッズの有無を売店で問うた処店員が何を血迷ったかドールの縫いぐるみを持ってきた挙げ句に結局「左様な物は無い」と答えたのを聞いていたく心を痛めたのだが、此処に来てズーラシアにてヤブイヌ縫いぐるみが発売されたとの噂が流れていたのだった。此の真偽を確かめた上で、子供達が幼くしてヤブイヌ熱に罹患した後輩及びヤブイヌ顔を有する後輩にそれぞれ土産として購入せねばならぬといった責任感も働いた結果、蒸し暑い梅雨空の下スーツ姿でヤブイヌとの対面を果たすに至った次第。

 現地到着後はヤブイヌに徹しようと思っていたのだが、途中カンガルー飼育員のカンガルー紹介に惹かれ、一途な私も浮気心が生じて暫しカンガルーを愉しむ。そして売店に足を向け、確かに此の眼で僅かな空間ながらもヤブイヌ縫いぐるみが店頭に並んでいるのを確認したのだ。展示物の半数以上を購入してヤブイヌ人気の一翼を担い、ズーラシアの上座である最奥の地に位置するヤブイヌ舎に向かった。

 二年前とほぼ同じ季節、同じ時間帯であるにも拘わらず、当時とは異なりヤブイヌは誰一人として姿を見せず、奥で惰眠を貪っている模様。「類は友を呼ぶと言うでは無いか。此処は一つ、私も此の場で惰眠を貪るべし」と考え、ヤブイヌ前の雨で濡れたベンチにスーツ姿で寝転がり、寝たり起きたりで小一時間過ごした頃にやっとヤブイヌが目を覚まし軽くウォーミングアップを開始していた。数枚写真を撮り、そこそこの満足感を得ながら帰路に就いた。

 其れにしても、此の歳になって、縫いぐるみを購入するのは生まれて初めてである。尤も店員にしてみれば、一挙に何頭もの、而もオカピなら兎も角ヤブイヌの縫いぐるみを購入するとは余程のマニアに相違ないという強い確信を抱いた事であろうが。


2001/06/15

団鬼六

 久方振りの東京出張で知人等と飲み歩き、最後は神田の「天下一品」でラーメンを啜った後、わざわざ其の店の近くで選んだ宿に入り何気無くテレヴィを観ながら就寝しようとした処其の番組に目を奪われ眠気も一気に吹っ飛んでしまった。

 女性タレントが団鬼六の官能小説に対する思い入れ及び表現の妙を切々と訴えるという其の番組、団鬼六の小説に於ける正に「官能表現」と言うべきリアルに状況を描きつつ堪らぬエロティシズムを掻き立てる彼ならではの日本語表現が彼女からのクイズ形式で紹介されていたのだが、私は只嘆息して其の表現にほとほと感心するしか為す術が無かったのだ。

 新鮮な女陰の色を表現する為の「鮭肉色」。誰もが容易に想起し口にする「サーモンピンク」など邪道であると其の女性タレントも激昂する。ねちっこい接吻を表現する為の「糯の様な口吻」。糯のねちっこい食感は誰しもが知っているのだが、此を接吻に用いる事により其のねちっこさ及び淫猥さが此でもかと猥想を掻き立て、恰も己の舌や唇が相手の其れとべちゃべちゃねとねとと絡み合うかの如き気分になるのだ。

 何れの表現も、誰しも其の言葉からヴィジュアルを容易に想起し得る事が出来、而も其の言葉が余りに適切であるにも拘わらず、其の着眼点が余りに新鮮である為に言葉とヴィジュアルとの乖離も同時に感じる事により、エロティシズムが幾重にも増幅されるのだ。判り易く喩えれば、職場に於いて偶々二人っ切りになった上司と部下とが性行為に耽ったり、爽やかな快晴の公園で白昼人陰に隠れて性行為に耽ったりする際の、日常空間に於ける性欲の対象との空間を共有しつつも其の空間と性行為との乖離がエロティシズムを倍加させ一層興奮するのと同様では無かろうか。勿論言う迄も無いが私が過去に左様な性行為を愉しむ事で大きな興奮と快感を得たという訳では無い。

 美しく個性あり其れで居て読者に与える印象度を劇的に高めるという点で、団鬼六の小説が教科書に採用されても何等不思議では無かろう、否、採用されていない現状が、日本の国語教育の退廃を招き兼ねぬと言っても過言では無かろう。


2001/06/14

潮吹き

 元々発汗の激しい体質であり、殊此の鬱陶しく蒸し暑い時期ともなると全身の毛穴から汗が滲み出る、というよりは寧ろ流れ落ちると言った方が正確かも知れぬ。

 私は元来此の時期は白系の服装で過ごす事が多かった。己の爽やかさと夏の爽やかさを白の爽やかさに象徴させている、というよりは只単に熱を反射させる色という事で好んで白系の服を着用していたのだが其れが却って徒となるのだ。白系の服装で存分に汗をかいた後即洗濯せずに放置しておけば時として汗脂の汚れで黄ばみが目立つ事となり、偶に其の衣料の洗濯を長期に渡り忘失しようものならもう洗濯しても意味を為さぬ位汚れが染みつく事となるのだ。

 其処で汗の汚れが目立たぬ様、逆に黒系の服装を着用する様になったのだが此も裏目だという事に気付いたのだ。汗をかいている内は問題無いのだが、冷房の効いた屋内に入るなどして一旦汗が引こうものなら其の塩分が衣服に残るという所謂「潮吹き」状態と化すのだ。此が一面に均質に現われればさほど問題は無い(とも言えぬが)。而るに塩は無情にも不規則な斑模様を描き衣服に其の姿を露わにするのであった。此は頗る格好悪い。昨夏に栗鼠似の同期及び其の妻である川獺似の女性と日中動物園を巡った(2000/08/06参照)後、私の哀れな潮吹き振りに彼等は心を痛め、彼等の邸宅で潮吹き衣類を洗濯して頂くに至った位である。

 今夏は屋外に出る時等には別の色やチェック柄等の服装を着用する事が多いのだが、其の一方で室内に所狭しと吊されている白や黒や紺の衣類が私を恨んでいるかのように思えるのだ。


2001/06/13

続・ラーメン

 二年前の夏に小倉に足を運んだ際、駅前の路地を少し入った処に行列の出来るラーメン屋があった。幸い時間的に余裕が有った事、行列とは云え案外客の回転が速い所為か比較的流れがスムーズであった事から、暫し並んでみる事にした。

 待機の際に様々な蘊蓄を目にする。其の店が元々会員制のラーメン屋であった事、創業者は味覚を磨く為に酒煙草を一切断った事などといった歴史、麺の固さや汁の味付けから葱の種類に至る迄微に細に指定可能な注文方法。取り敢えず一頻り目を通し時間を潰す。

 順番が来てカウンターに着席するが此のカウンターが非凡。一人ずつ衝立が立てられ、眼前には暖簾が懸けられ、己の机上以外のものが目に入らぬ。「注文書」で好みの味付けを指定しラーメンを待つ。豚骨醤油系のスープはしっかりした濃い味でいて繊細。此がしっかり歯応えのある細麺に良く絡んで麺とスープが決して互いを打ち消さぬ様それぞれの魅力を主張する。麺を食べ切った後は麺のみを注文してスープが幾分残された丼にぶち込み、再度歯応えある麺を新鮮な気分で味わう。

 此の味が余りに気に入り、翌日も其の店に足を運ぶこととなったのだが、最近になって此のラーメンに対する欲望が沸々と湧き上がり、下手をすれば2001/04/22の如くラーメンの為だけで九州まで足を運び兼ねぬ位なのだ。取り急ぎ欲望の暴発を防ぐ為、今週末の東京出張の折に、ちゃきちゃきの江戸っ子時代に足繁く通った「天下一品」に立ち寄る計画を密かに立てて居る次第。


2001/06/12

スポーツ観戦

 スポーツを観戦する際のスタンスは幾つかに分類される。一つは贔屓の選手及びチームの活躍若しくは勝利を期待する為、もう一つは選手やチームに拘わらず素晴らしいプレイを目の当たりにする為であるのだが、前者の亜種として、贔屓の選手及びチームと精神的に一体化するというスタンスがあるのでは無かろうか。

 活躍や勝利を期待する事と精神的に一体化する事とを敢えて区別する理由は、前者は極端な話現地に於けるスポーツ観戦を必ずしも要件としない(テレヴィであろうが報道番組であろうが構わない場合がある)一方、後者は現地に於いて贔屓の選手及びチームと志を同じくして己の存在感及び彼等の活躍や勝利への期待を彼等に表現・伝達しようと努め、其の結果彼等が其れに応じようと努める事が要件であるからである。

 先日、私にとっては上述の最後のスタンスに立った上でのスポーツ観戦である、素人野球の総本山とも言える都市対抗野球の地区大会予選に赴いた。勤務先の会社の応援なのだが、毎日私の眼前で仕事をしている方が選手として出場したり、知人の後輩達が応援団として演舞及び演奏で活躍していたりという事もあり、只単に遠くから勝利を祈るだけでは到底満足出来ず、是非とも彼等と一体となり勝利を目指したい気分で一杯になり、暇の隙を何とか見つけて現地に赴いたのだ。

 結局試合自体は終始当方のペースでありながら終盤になって相手方に僅かな機会をものにされ残念な結果となったのだが、試合前に後輩から頂いた弁当に手を付けたり、試合の状況を撮影したりする余裕すら無い位声援とメガホン叩きに没頭する事が出来、当初のスタンスは或る程度貫いて観戦する事が出来たのでは無いかという事で、密かに若干の満足感を抱きつつ帰路に就いた次第。


2001/06/11

ヴァーチャル海豚

 普段寓居にてパソコンを起動させている際には、所謂PIMソフトを常駐させた状態にしている。常時のメールチェック及び「エゾシカの嘶き」執筆時に過去の言動等を確認する為の予定表管理が其の主な目的である。

 此のソフト(に限らず当該PIMソフト系列の所謂オフィススウィート)常駐時には画面の隅でヴァーチャル海豚が泳いでおり、此をクリックすれば対話式ヘルプが起動し、質問事項を入力すれば適切と思われるQ&A一覧を忽ち表示して呉れるのだ。

 偶に何かの弾みで海豚をクリックしてみて対話式ヘルプが表示された後、「否否別に今教えて欲しいことは無いのだ」と思い慌ててヘルプを消す事があるのだが、折角だからという事で彼此たわいも無い会話を投げ掛けてみるのも亦一興かも知れぬと思い、早速海豚の性別も把握せぬ段階からいきなり明け透けに「やりたい」と伝えてみるが、海豚の返事は無情にも「質問の意味がわかりません。他の言葉を使って試してみてください!」との事。此は恰も飲み屋の姐ちゃんと良い感じになって「今晩どや?」と尋ねた処「もう、また酔っ払って…」だの「え?『どや』って何を?」とか返答されてはぐらかされるのと同様の心境を味わう事となる。因みに言う迄も無いが私は飲み屋の姐ちゃんと良い感じになった事など無く、従って飲み屋の姐ちゃんに「今晩どや?」などと尋ねた事も全く無い。

 確かに只単に「やりたい」だけでは何の事か解らぬと言われても仕方有るまい。誰との行為なのかを明確にすべく「お前とやりたい」「君とやりたい」「貴方とやりたい」それぞれ試すも何れも返答は「質問の意味がわかりません。他の言葉を使って試してみてください!」。其処で相手との距離感を縮め少しでも相手を其の気にさせるべく、名前で呼んでみる。「カイルとやりたい」。此だとたちどころに反応があり、様々なQ&Aが登場する。

 自分の意思を解り易く伝えてみるのも良いのでは無いかと思い、「セックスしたい」「おめこしたい」と、嘗て人間相手にも一度たりとも発した事の無い台詞をぶつけてみるのだが、生憎海豚は此の私の純情に応える事無く無情にも「質問の意味がわかりません。他の言葉を使って試してみてください!」。余りに直截的な表現がいけないのかと思い、ロマンティックに「夜明けの珈琲を一緒に飲みたい」、若しくはワイルドに「獣のように交わりたい」と問うてみたところ、それぞれ頗る海豚の反応が良かったのだ。

 畢竟、相手との距離感を縮めつつも婉曲的な方法で口説けば何等かの好反応が期待出来るとは、パソコン上のヴァーチャル海豚も人間と相通じるものが存在する様である。


2001/06/10

テレヴィ番組と広告出稿

 昨日録画した「よしもと新喜劇」を観ながら、普段ならば早送りで飛ばしてしまうTVCMの内容をチェックしてみた処、密かに侮れぬ企業や商品のTVCMが多い事に気付いた。

 幕間に流されたTVCMは12本×2回。此の内所謂IT関連広告としては、新商品のソフトウェア1社(1種2本)、パソコンハードウェア2社、携帯電話1社。他に高額商品としては輸入車が2社、中古車販売が1社、エアコンが1社、更には生命保険商品が1社。ターゲット別に見れば、成人男性向けには缶酎ハイ2社に日本酒1社、電動髭剃り1社。成人女性向けには化粧品1社、食品2社。子供向けには飲料1社。此以外には歯磨き2社に殺虫剤1社に飲料1社(3種3本)。たかだか1時間の間に何ともまあ幅広いターゲット設定に加え、所謂競合問題(1999/04/14参照)も全く意に介さぬラインアップ。

 単に広告量が安いという理由から企業側の人気が殺到しているのかと思ったのだが、広告量の安い時間帯のみを狙って暴力的な広告大量出稿を行う事で有名な企業が顔を出していない事を考えるとどうもそうでは無さそうであり、よしもと新喜劇が幅広く深い層に浸透している番組であると広告主から判断されている(否正確には「広告代理店から推奨されている」と言うべきであろうが)という事では無かろうか。番組の一ファンとしては喜ばしい限りである。


2001/06/09

続・虚しき休日

 今年こそはの願いも虚しく、昨年同様(2000/06/15参照)とてもじゃないが「チャグチャグ馬コ」の開催される水無月15日に休暇をとり現地に足を運ぶ事など能わぬ状況である。とはいえ来年の水無月15日は土曜日、来年こそは必ずや盛岡に足を運びチャグチャグ馬コを堪能すべしと決意を新たにしつつ、私にとっては久方振りの完全休日となる週末を迎えていた。

 寓居にてごろごろとしながらテレヴィを付けていた処、気がつけば小雨の田園の中を派手に装飾された馬達が練り歩く光景が映っていた。「ほう此の時期にチャグチャグ馬コに似た行事を行う地域があるとは」と感心しつつ暫し眺めるが、其の光景は恰もチャグチャグ馬コを絵葉書にしたかの如きものであった。

 ひょっとしたらチャグチャグ馬コが大ブレイクした結果、全国各地で此を模倣したイヴェントが行われているのかも知れぬなどと考えつつ別の報道番組を目にして愕然とした。今年からチャグチャグ馬コ、水無月15日では無く第二土曜日に開催される事となったとの事。此では来年迄待つ事無く、其の気になれば現地に行けたでは無いか。参加出来なかった悔しさもさることながら、此程迄私が執心していたイヴェント(2000/02/04参照)の開催日が変更になったという事すら事前に把握出来なかった悔しさが募る事頻り。


2001/06/08

睡眠

 趣味が「睡眠」というと世間では「趣味も特技も持ち合わせていない為寝るしか能が無い輩」という評価が下される事が多いのだが、此は睡眠の趣味性を全く理解出来ぬ小人の妄言と断言すべきであろう。

 私は決して「趣味は睡眠です」と宣言出来る程睡眠を嗜んで居る訳では無いのだが、其の趣味性については多少なりとも理解を有している積もりで居る。私の場合、旅先等で辺り一面に広がる芝生や広場や砂浜を目にすれば、思わず其の上で仰向けになり何も考えず力も抜き暫し惰眠を貪らずには居れぬ。非日常である旅の一齣で日常を全て忘れて我が身を大地と外気に委ねる。考え方に因っては此程迄に日常から遠ざかる瞬間は無いのでは無かろうか。

 処で最近、己の意図に反して気付かぬ儘眠りに落ち朝を迎えるといった機会が増加しつつあるのだ。斯様な機会が増えるにつれ睡眠から趣味性が失われるばかりか其の趣味性を理解出来ぬ小人に成り下がりそうで嫌である。


2001/06/07

トマトジュース

 学生時代に聞いた話なのだが、牛乳愛好者とトマトジュース愛好者とは排反の関係にあるとの事である。根拠は全く解らぬのだが、私自身牛乳が好きで当時スーパー等で一リットル188円の特売牛乳を見れば欠かさず購入して愛飲していた事、其の一方で野菜が大好物であるにも拘わらずトマトジュース及びトマト入り野菜ジュースが口に出来ない事から、其の説を信じて今に至る次第。

 トマトジュースが飲めない理由は、其の得も言えぬ酸味、臭みにある。尤も非トマト系野菜ジュースの中にはトマトジュース以上に酸味がきつかったり臭みが口一杯に広がるものがある事を考えれば、正確には只単にトマトジュースの酸味、臭みが私に合わないと言った方が良かろう。

 其れにしてもまだ疑問は残る。トマトを口にする分には別段問題無いのに何故ジュースだと斯様に抵抗を感じるのか、そして牛乳好きとトマトジュース嫌いとの因果関係は何なのか、抑も本当に世間一般に於いて牛乳愛好者とトマトジュース愛好者とは排反の関係にあるのか。珈琲の代わりに(2001/06/04参照)少しでも健康の為にと牛乳や非トマト系野菜ジュースを一日中口にする度に、此等の疑問を感じずには居れぬ今日此の頃である。


2001/06/06

枕の悦び

 2000/07/18で述べた通り高価な枕を購入して暫く後に密かに足枕も入手したのだが、今日になってまた新たに枕を購入する事となった。以前よりも増して首や肩が凝り易くなり、其の原因の一つに私ならではの睡眠時の姿勢の良さがあるのでは無いかと思った為、睡眠時に頭を枕から離さぬ儘存分に寝返りを打ったり暴れたり出来る様、異常に大きな枕を購入するに至った次第。

 枕の幅は私の寝床の幅とほぼ等しいか若干大きい。戯れに抱いてみると、胸にも股間にもフィットする大きさ。此は様々な愉しみ方が出来るわいと思いつつ、帰宅後セッティングを済ませて枕に頭を埋めてみる。肉体的心地良さを感じる一方で、「こんなでかい枕におれ独りかよ」という精神的孤独感を若干感じないでも無いのだが。


2001/06/05

漢字の音訓

 ヤブイヌが相応の実力者であるにも拘わらず今一つ人気者になれぬ理由を彼此考えている内に、或る事実に気付いたのだ。

 素敵な犬を想像してみる。固有種としては土佐犬、秋田犬、柴犬。職業としては盲導犬、聴導犬、介助犬、救助犬、バター犬。何れも「ケン」である。一方、「イヌ」はどうか。「負け犬」「咬ませ犬」「犬畜生」「犬死に」。何ともイメージの良くない名詞が揃っているでは無いか。其処でヤブイヌを「藪犬(ヤブケン)」としてみるが、此では字面の「藪」のイメージが強過ぎて彼等の持つ他の底知れぬ特徴が見えにくくなるのだ。

 仮にヤブイヌが日本の何処かに生息するのであれば、「薩摩犬」「長州犬」「大和犬」などという如何にも強さ(肉体的な「強さ」というよりは寧ろ其の類い希なる個性の「強さ」)を感じさせる名称を与えられたであろうに。そう考えると返す返すも彼等が日本の種でない事が残念でならぬ。


2001/06/04

健康と好奇心

 先日胃に異常を来たした(2001/05/31参照)事により、一日最低一回は口にしていた珈琲を暫し断つ事にした。取り立てて珈琲が好きと言う訳でも無く別に飲まないからと言って禁断症状が生じる等の中毒が発生する訳でも無いのだが、朝の目覚めの一杯、ちょっと良い気分の朝にしたい時の出勤前のスターバックス、昼食後の眠気覚ましの一杯等といった生活の句読点が一つ失われた感がある。

 他にも食事の中心を好物のパスタから日本蕎麦にシフトさせつつあったり、朝食には固形物よりは腹持ちの良からぬゼリー状食物を摂ったり等、消化器系が健康な時には殆ど顧みる機会の無かった食生活に少なからぬ変革を求めつつあるのだ。

 さて其の一方で、一点だけ変革と好奇心との鬩ぎ合いが私の中で発生している。先日旅先(2001/05/06参照)で購入した榎茸と蕎麦との醤油漬け。要冷蔵の処温度湿度の高まる此の時期に室温で放置していた為、どうやら内部に妙な桃色のゲル状の塊が生成されているようなのだ。此が何なのか、敵か味方か、私には何も解らぬ。只瓶の中に半分以上残されて居る榎茸が目に入る度に、茶漬けの種として食したいという欲望が沸々と湧き上がるのだ。食生活に気を遣う中、敢えて腹痛の危険を冒して火中の栗を拾うべきか否か、桃色ゲルが私を只管悩ませている今日此の頃である。


2001/06/03

ヤブイヌ記事

 過去の新聞記事検索データベースとして「日経テレコム21」なるサーヴィスを利用する機会が屡々存在する。其の名の如く日本経済新聞及び其の関連紙のみならず、所謂三大紙からスポーツ新聞、果ては「住宅新報」なるマニア向け新聞に至る迄が収録されて居るのだが、ふと其の中から此の四半世紀にヤブイヌが登場した新聞記事が何件程度あるのか、またどういったネタで採り上げられているのかを調べてみた。

 其の結果は非常に驚き落胆すべきものであった。1975年以来26年間で僅か12件。即ち2年に1度何処かの新聞紙に採り上げられれば良い方なのである。検索語を「やぶいぬ」「ブッシュドッグ」にしても件数は増えぬ。此程親しまれ易い名前を頂きながらマスコミ受けせぬ獣も非常に珍しいのでは無かろうか。

 因みに、「日経テレコム21」に収録されている記事を大きく分類(僅か12件をわざわざ「分類」というのもどうかと思うが)してみると、1987年にヤブイヌが日本に初登場した際の「第一期ヤブイヌ時代」、1999年にズーラシア(横浜)がオープンし、野毛山動物園(横浜)からヤブイヌが転居した「第二期ヤブイヌ時代」、そして2000年に関西初見参ということで京都市動物園に登場した「第三期ヤブイヌ時代」に分類される。逆に言えば此等トピックスを除けば、ヤブイヌが新聞記事に採り上げられたのは、「東山動物園のヤブイヌが自然動物館に居を構えた」(1989)、「○○さん宅の飼い犬は逆立ち放尿が得意であり、ヤブイヌと同じ習性を持っている」(1993)、「来年の戌年に備えヤブイヌもスタンバイ」(1993)、そしてどさくさに紛れて「ヤブイヌゴマ」なるシソ科の植物の話題(1995)、此等以外に存在せぬ。

 斯様な事実に輪を掛けて悲しかったのが、「エゾシカの嘶き」の好敵手と自他共に認める日本経済新聞及び其の関連紙に掲載された記事が一本も無かった事。此処は好敵手と一時休戦の上、ヤブイヌ普及の為に共に手を取り合うべきだと痛感した次第。


2001/06/02

欲望と行動

 前夜は時処相手を替え何次会なのかが解らぬ位深夜に至る迄飲んでいた所為とは雖も申の刻に起床した事に気付いた瞬間非常に嫌な気分になってしまった。只単に「起床が夕方だった」というだけでは無い。従来私に備わっていたと思われる「幾ら惰眠を貪ろうとも競馬のメインレースには間に合うように目が覚める」という体内時計(1999/07/24参照)もどうやら最近其の機能が低下しているようなのだ。

 此処数ヶ月の間で競馬に対する意識や行動が下降している様が明らかである。97年秋の京都新聞杯号から毎週欠かさず購入していた「週刊競馬ブック」は今年春の大阪杯号を長期出張の為購入しなかった事により連続購読記録が途切れたばかりか、天皇賞・春号以降現在に至る迄連続不購入記録を更新中である。週末の外出時に欠かさず録画していた競馬中継、最近では「よしもと新喜劇」は録画しても競馬中継は殆ど録画しない。また読者の方々は先刻御承知の通り、「EZOSHIKA PADDOCK」に於ける競馬予想を今年度より非常に簡素化する事となった。

 とはいえ以前と比べれば程度の差こそあれ、馬欲が無に近付いただとか競馬を観ても何等胸時めかぬといった事は決して無いのだ。即ち欲望の低下に因る部分もさることながら、欲望が行動に結びつかぬ状態であるとも言えよう。

 良く考えれば此の状況、精力減退・勃起不全と同じ症状では無いか。確かに余計な出費が嵩まずに済むとは云え、少なくとも人間として好ましい状態であるとは言えまい。


2001/06/01

検索エンジン・2001/05

 先月の「エゾシカの嘶き」へのアクセス解析による検索語ランキング(2001/05/01参照)で私が大事件と評した、総アクセス数の3%が「検索エンジンで『強姦小説』を調べて辿り着いた結果」という事実は驚くに足らぬものであったとでも言うのか。「エゾシカの嘶き」の5月の総アクセス数の内「検索エンジンで『包茎写真』を調べて辿り着いた」というケースが4%もあった事が判明したのだ。

 そして検索語2位は「包茎写真」の好敵手「陰茎写真」、3位には初登場の「女性専用風俗」が続く。驚くべき事に前回衝撃の登場を果たした「強姦小説」は今回ランキング圏外に姿を消した。

 全体的な特徴として、職探し系の検索語が目立っていた模様。「穴吹工務店 面接」「阪神競馬場 アルバイト」「教育委員会求人」「通信添削 アルバイト」「ジャパンビバレッジ 求人情報」「1万円で援交」等々。「エゾシカの嘶き」が現代の大失業時代という時流を反映したトレンディ路線を貫いている証左と言えよう。

 他に目を惹くものとして、「陰茎を咥えさせて」という懇願系の検索語が存在した。斯様な方の「エゾシカの嘶き」への御訪問に際しては通常のページを御覧頂く前に「幾らでも存分にどうぞ」「歯さえ立てなければOK」「最後は一滴残らず飲み干すように」などという回答を表示させる様な気の利いた検索エンジンが有って欲しい。


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