エゾシカの  2001/04/01〜2001/04/30

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2001/04/30

ヤブイヌで感じる

 GWに入り漸く晴間が見えた為、2001/04/27でも触れた通り東山動物園(名古屋)に足を運んでみた。お目当ては言う迄も無くヤブイヌ。2001/04/28で述べた通り彼女との獣愛を確認せねばならぬ。

 今回ばかりは私が強い関心を抱いているシカ舎やカンガルー舎に脇目も呉れず、一目散にヤブイヌ舎に向かう。果たして彼女は隠れる事も無く、GW疲れで惰眠を貪る事も無く、元気に邸宅内をぐるぐると周回していた。途中ヤブイヌ舎の前のベンチに腰を掛けたり、先日の重吉の死去(2001/04/17参照)により主の居なくなった河馬舎で追悼文を目にしたりしたものの、基本的に此の日は彼女と共に過ごし彼女にだけ心を許す事を心掛け、1年以上振りに手にする銀塩写真用カメラを構えて彼女と対峙する事2時間。逆立ち放尿や後ろ向き疾走は目にする事が出来なかったものの、時折甘美な鳴き声を聞かせつつ、悩ましい姿態や表情を存分に私に提供してくれ、獣愛の一端を感じさせて貰えた気分に浸る事が出来たのだ。

 其れにしても今回楽しかったのは此等彼女の言動だけでは無い。彼女の許を訪れる来訪者の反応にも目や耳を向けると此がなかなか面白い。先ず、全員が全員「ヤブイヌ…」「ヤブイヌ!」「ヤブイヌ?」などと名前を口にする。次いで「なんちゅう名前やねん」「そんな犬聞いた事無いよ」「藪医者なら聞いた事があるが」などという疑念や不信の発言が続く。そして姿を再確認しては「此って本当に犬?」「豚」「熊」「狸」「鼬」などという感想が次々と皆の口をついて出るのだ。人間界をも含め、他の獣界に於いても、名前や容姿という外見的アイデンティティを以てしても此処迄自己を信じて貰えないケースは極めて稀であろう。

 ヤブイヌは疑念や不信を抱かれた儘、引き続きキャラクター評価に晒される。「何か不細工な顔してるなぁ」「えらい胴が長いな」「何で同じ処を回ってるの」「こんな狭いトンネルをわざわざ潜らなくても、もっと広い処を歩けば良いのに」。そしてここら辺でヤブイヌが新たな一面を見せる。「うわっ!鳴いた!」「何此の鳴き声!犬と違う!」「此の姿でこんな声出すの!」。獣にしても人間にしても、此処まで一々言動にツッコミを入れずには居れない存在も珍しい。こんな状況で逆立ち放尿や後ろ向き疾走なんぞを披露しようものなら、周囲のツッコミも阿鼻叫喚のレヴェル迄昇華しても何等不思議では無い。

 そして最後には総合評価。「ヤブイヌってめっちゃイケてる」「これって他の動物園にも居ないのかな」「中途半端な犬」「もっと普通の動物を観よう」。一度目前で、ヤブイヌ派の男性と反ヤブイヌ派の女性との若いアヴェクがヤブイヌの評価を巡り口論を始めたのには閉口した。此程迄に実力を推し量る事が困難であり周囲から極端な評価を受ける点も他の動物や人間にはなかなか見られぬ。

 2時間という僅かな時間ではあったが、彼女及び彼女を取り巻く人達に存分に楽しませて頂き、此だけで充実したGWを過ごせたかの如き気分になった次第。


2001/04/29

絵本

 先日薬局に行き、薬剤を調合して頂いている間に待合室にあった絵本を読み耽った。嘗て一部のマニアに熱狂的に支持されていた、決して幼児向けでは無い幼児番組「ウゴウゴルーガ」の一コーナーで登場していたノンタンなる猫が主人公の一連の絵本、テレヴィ同様に彼が周囲を騒がせては、自分自身に降り掛かる災難や周囲からの批判により深く反省するといったストーリーで綴られている。

 絵本を読んでみて、斯様な書物から「ああ、ちゅうしゃはいたいけど、がまんしなきゃいけないんだな」とか「よふかしはよくないんだな」とか「みんなのものをひとりじめするのはやめよう」とかといった事を学び取る(であろう)幼児の純粋さを再認識したと共に、「こういうストーリーにすれば、我慢の大切さや夜更かしのいけなさや仲良く物を分け与える事による楽しさを幼児達にも伝える事が出来るのでは無かろうか」などと試行錯誤の上ストーリーを考えている(であろう)執筆者側の直向きさを垣間見る事が出来、此等を感じ取った際に、此の歳になって改めて絵本(大人向けの物ではなくあくまで幼児向けの物)を読んでみるのも実は面白いのでは無いかと思えた次第。


2001/04/28

夢判断

 普段目にしているサイトの記事の中で非常に愉快な物があった。サイトの管理人である男性が昨夜見た夢が秀逸。ホテルの一室のベッドで全裸になって黒人男性と添い寝しており、其の黒人が彼の肉体を執拗に触ってきた処、彼は「異国の地から来た人に冷たくしたくない」との一心で、黒人の為すが儘に肉体を委ねては押し寄せる快楽に身を任せ法悦の境地に至っていたとの事。本人は記事の中で否定していたものの、此は誰がどう見ても彼の深層心理の内に黒人男性に犯され滅茶苦茶にされる事により心赴く儘に快楽を貪りたいという極めて強度の被強姦願望(世間では「強姦願望」と呼ぶのだが、ここら辺の用語の定義については2001/02/20参照)を抱いている証左である。

 そう思ったのも束の間、私自身つい先日、程度の違いこそあれ同種の夢を見たばかりでは無いか(2001/04/25参照)。此は先程のケースと何処がどう異なるのか。考えてみるに私の場合、性感帯を責めてきたヤブイヌ似の後輩は、正にヤブイヌの象徴であったと解されよう。そうなると話は簡単、此はヤブイヌとの獣愛が実るという事を暗示していると言えるでは無いか。

 しかし実際には此の夢を見た数日後に東山動物園(名古屋)に足を運んだものの、ヤブイヌとの対面は能わず(2001/04/14参照)。となると矢張り上記の仮定は誤っていたのであろうか。近々早々に東山動物園に足を運びヤブイヌとの獣愛を確認する事により、私の夢が決して被強姦願望等の類の物から来たものでは無かった事を証明したい。


2001/04/27

GWの過ごし方

 2001/04/26で触れた通り、今回のGWは当初より高野山(和歌山県)に滞在する積もりでいたのだが、精々ゆっくり休めるのも1〜2日程度になりそうという事で、日帰りでも楽しめる別の過ごし方をあれこれ考えていた。

 先ず手頃に思い浮かぶのが東山動物園(名古屋市)見学。2001/04/14で述べた通りつい先日足を運んだのだが肝心のヤブイヌには会えぬばかりか触れ合いコーナーでポニーを撫で回したりもしていない為、此のGWにでも再度足を運ぶべきでは無かろうか。

 旅気分を味わうので在れば、2001/04/18で触れた郡上八幡。隣県という事で日帰りが全く困難という訳でも無かろう。他にも、先日獣顔の後輩との会話の中で、「GWは家族と近場の温泉にでも」という発言があった事を想い出し、一日ゆっくりと温泉に浸かるのも悪く無かろうとも思ったり、本場・京都の天下一品本店を訪れて2〜3食程度嗜むのも此一興。

 あれこれ考える内に此等を全てGW中に行いたいという気がむらむらと湧いてきたのだが、天気予報を見て愕然。比較的私がゆっくりする余裕のあるGW前半は天候に恵まれぬとの事。左様か、とどのつまりGWは何もせぬ方が良いという事か。


2001/04/26

プチ

 近年若者達の間で「プチ家出」だの「プチ自殺」だのが流行している事もあり、此のGWには「プチ出家」を試みようとし、高野山(和歌山県)の宿坊辺りに暫し籠もろうと画策していた。結局GWには満足に休日すら取ることすら困難という事もあり、此の計画は頓挫してしまったのだが。

 其れにしても、2001/04/24で述べた「プチ同情」もそうだが、2,3日家を出て外泊し、親が心配する様子を見て手軽に「親子の愛情」を確認したり、絶対に死にはしない程度に手首等を刃物で傷つけ、友人達が心配する様子を見て手軽に「友情」を確認したりだの、何故斯様に他人の感情を欺罔により得ては安易に利用し、左様な形で得られた感情で満足出来るのだろうか。「最近の若者は感情が希薄だと言われるが、実際には希薄なのでは無く本当の感情に飢えているだけなのだ」なる論調を目にする度に、何が「本当の感情」だ、だったら最初から斯様な糞詰まらぬ薄っぺらい感情を求めようとするなよ、大体此の程度の偽物の感情で満たされた気分になれる輩なんぞ、求める感情のレヴェルが途轍も無く低いだけではないか、と強い憤りを感じずには居れぬ。

 言う迄も無いが、冒頭の「プチ出家」については決して生半可かつ薄っぺらい気持ちでは無く、日程の制約の都合上程度こそ大きく異なれど、志すヴェクトルは通常の出家とそう大きく変わらぬものであった。


2001/04/25

正夢

 実は先日珍妙な夢を見たのだ。ヤブイヌ似の後輩(2001/04/03参照)が登場し、事も在ろうに私の重要な性感帯の一つである耳を舐め回したり熱い息を吹き掛けたりしては私を身悶えさせていたのだ。今から振り返れば私も後輩からの性感帯攻撃に抵抗の一つ位すれば良かったのだが、どういう訳か夢の中では暫く為されるが儘であり、其の内漸く事の重大性に気付いて、冷や汗混じりの寝汗をかきまくっていたのであった。

 そして翌日の事、其の後輩からいきなり昼食の誘いを受ける事となり、「げげっ、昨夜の夢が一歩正夢に近づきつつあるのか」と非常に心乱れる事となったのだ。結局昼食時は他の後輩達も居た所為か、幸い夢が正夢に転じる事も無く食事が済んだ。

 そして昨晩、本格的鋤焼屋に知人と赴いて思いっ切り鋤焼を食らいながら談笑するという夢を見た。因みに2000/08/30等で述べている通り、私は肉欲が極めて薄いばかりか生卵も非常に苦手な食物の一つであり、斯様なシーンは現実には想像すら出来ないのだ。そして今日の事、夕食の際、先輩に本格的しゃぶしゃぶ屋に連れて行かれ、後輩達を交えて思いっ切りしゃぶしゃぶを食らいながら談笑していたのだ。好物ならまだしも苦手な食物を口にする光景が正夢になってしまったという悲しい偶然を味わうと共に、同性の後輩から性感帯を責められて身を捩らせる光景が正夢になってしまうよりはまだましであろうと感じた次第。


2001/04/24

掲示板と同情

 個人サイトの掲示板を巡っていて気付いたのだが、「お腹空いた」という、掲示板に書くには極めて無意味な台詞のみが遺される事が案外多いようである。大抵の場合、其のサイトの常連若しくはサイトオーナーと極めて親しい間柄の人間が左様な書き込みを行うケースでは無いかと思われる。未だ嘗て「EZOSHIKA BBS」に於いては左様な書き込みを目にした事が無いのだが、若し此の一言が遺されていたとしたら私は反応に只管困惑してしまうであろう。

 何故言うに事欠いて「お腹空いた」なのか、少し考察を加える事にする。書込者の心理としては「何でも良いから構って欲しい」というのが最大の目的。となると下手なギャグや笑い話をかまして思いっ切り外して顰蹙を買うなどといったリスクを冒したり、抑も左様なネタを捻ったりする労力を掛ける迄も無く、己の窮状を申し立てるのが最も手っ取り早い。更に、窮状とは雖も下手にシリアスになって単なる掲示板の書き込みに留まらぬ反応を受けても困るし、抑も書き込みを行う己自身が惨めな気持ちになっては元も子も無い。従って、誰でも手軽に其の心境を味わう事の出来る「苦痛」の一つである空腹感を訴える事により、手軽な同情(言う迄も無いが「共感」とは異なる)、近年の若者言葉を借りれば「プチ同情」を得る為の一手法なのであろう。

 同情を手軽に得ようとすると共に、左様な手軽な同情なんぞを受ける事で満たされる精神。其の精神の哀れさに対してこそ、正に私は「ああ可哀相」と同情せざるを得ないのだ。


2001/04/23

服装

 名古屋に来て早10ヶ月、ちゃきちゃきの江戸っ子時代とは大きく変わった生活習慣の一つに、外出時の服装が挙げられる。基本的に寓居に於いては冬場を除きTシャツにトランクスという格好をしているのだが、ちゃきちゃきの江戸っ子時代は其の格好の儘寓居の部屋を出る機会が屡々あったのだ。当時の寓居は、一旦建物内に入り屋内通路を経て住処に辿り着くという構造であったため、郵便受けを覗いたりゴミを捨てたりする程度で在れば、あくまで屋内通路の範疇にあり、さほど服装を気にする必要も無かったのだ。尤も深夜等で在れば其の格好の儘外出して近くの自動販売機辺りに足を運ぶ程度の事は行っていたのだが。尚念の為に断っておくが、断じて私に露出症の気が在るわけでは無い。左様な趣味を有しているので在ればもっと過激な場所若しくは格好でないと容易に興奮出来まい。

 一方、現在の名古屋の寓居は一歩出ると即屋外通路という構造になっており、ちゃきちゃきの江戸っ子時代には当たり前の行為であった、Tシャツにトランクスで建物の郵便受迄出向いたり、ゴミ捨て場にゴミを持って行ったりなどという事すら容易では無いのだ。高々一分足らずの外出の為にわざわざ下半身に衣服を着用せねばならぬ不合理さと、人一倍強い私の羞恥心とが相克しつつ、衣服の着用が一層鬱陶しくなる季節を徐々に迎えるのであった。


2001/04/22

ラーメン

 私の知っている限りに於いて、私の舌を満足させるに足りるラーメンが名古屋には存在しない。市内で一番と目されているラーメン店に足を運んでも何が美味いのか私には理解出来ぬ。「エゾシカの嘶き」で何度と無く採り上げた私のお気に入りの天下一品ですら、どういう訳か名古屋市内に於いては2000/07/14で触れた店舗をはじめとして惨憺たる味付けとなっているのだ(蛇足であるが惨憺たるは味付けのみならずサーヴィスレヴェルも然り)。

 そんな訳で先日、久し振りに美味いラーメンを食しようと名古屋市外の天下一品にでも足を運ぼうかと思いつつも、生憎の胃炎の為に天下一品の過激な味付けを受け付けられるかどうか疑わしい。其処で私は次善の策として、ちゃきちゃきの江戸っ子時代、残業の合間等に比較的足繁く通っていた博多ラーメン店に向かう事とした。

 雨の降る中、朝から東京に向かい、目的のラーメン店に足を運んで体調を気遣いつつ二玉を食す。体調不良の所為か今一つ味が分かりにくかったのが非常に残念だったのだが、当座のラーメン欲を鎮めるには十分であった。

 其れにしてもラーメン一杯に如何程の交通費を掛けてしまったのか。勿論ラーメン以外の所用も此の機会に東京で纏めて済ませてきたのだが、動機がラーメンとは余りに情けなくは無かろうか。


2001/04/21

広辞苑と獣

 2001/04/20で触れた騾馬について、父母のうち何れが馬で何れが驢馬なのかが一瞬思い出せなくなり、獣の相違等については此の書物の右に出る物は無いのでは無いかと私が信じて止まぬ「動物ウォッチング図鑑」を繙こうとしつつ、面倒臭くなりパソコン上で手近に済ませようと何時もの如く広辞苑で調べる事とした。

 広辞苑の解説に目を通し、父が驢馬で母が馬だという事は直ぐに判ったのだが、此に加えて驚愕すべき一文が私の目に入ったのだ。「雌ロバと雄馬との雑種をけってい(本文では漢字表記)というが、ラバほど役に立たない」。此は初耳である。父が馬で母が驢馬だと、有益性の点で騾馬に劣る事になるのか。

 慌てて「動物ウォッチング図鑑」を繙くが、驢馬、馬、縞馬それぞれが父母である場合の動物名や特徴について記載されているものの、ケッティの有益性が騾馬に劣ると迄は一言も記載されていない。最後に「学研の図鑑 動物」も繙こうとしてみるが、抑も騾馬やケッティは索引にすら記載されていない。

 「獣の道は獣」なる格言があるのだが、獣の道に於いて、数ある有力な獣図鑑を蹴散らして広辞苑が新たな知識を私に提供してくれるとは、広辞苑の奥深さに畏れすら抱かずには居れぬ。


2001/04/20

獣言葉

 恋愛の場や人生の節目を祝う場に於いて、適時適切なタイミングに花言葉を持ち出したり其れを理解したりする紳士淑女の姿を目にして、此と同様に獣言葉が存在しても良かろうと思うのが人の常と云うものである。という事で、少し獣言葉を考えてみた。

 鹿=誠実、馬=友情、カンガルー=情熱、イボイノシシ=苦悩、ゴリラ=思慮、子守熊=権謀術数、大熊猫=寵愛、縞馬=戸惑い、ハムスター=哀しみ、啼兎=神秘、川獺=妖艶、ヤブイヌ=人知れぬ恋、騾馬=禁断の恋、膃肭臍=移ろいの恋、海豹=何時も心に太陽を

 例えば心を寄せながらも何時までも告白出来ない儘の相手に、そっとヤブイヌの写真を渡してみる。「ああ、ヤブイヌの獣言葉は『人知れぬ恋』。あの人、屹度私の事をずっと好きだったのに違いないわ」と感じ入り、逆に相手の方から告白を持ち掛けられ、其の儘一挙に交際へと発展する可能性が極めて高まるでは無いか。

 引越や転勤などといった、仲間との別れの場に獣言葉を暗示させるのも一法。餞別として馬の縫いぐるみを贈り、「俺達はいつまでも友達で居ような」と一言添えれば其の獣言葉と相俟って仲間は其の場で感涙に咽び、馬の縫いぐるみと共に友情を決して忘れぬ事であろう。此処では間違ってもイボイノシシや縞馬の縫いぐるみを贈ってはならぬ。

 此等は実生活の場のみならず、文学や映画等に於いても象徴的に用いる事により作品の奥深さが一層深まる事であろう。女教師と生徒とが登場する小説に於いて、要所要所で其れと無く騾馬を採り上げれば、此の二人の禁断の恋が一層味わい深いものとして読者に受け容れられる事必定であろう。

 尤も獣言葉を解せぬ情趣の無い人間に対しては、此等の趣深い表現手法は全く意味を為さぬのであろうが。


2001/04/19

同好の士

 普段関わり合いの在る法人が此の度組織変更を行い、其れに伴う人事異動及び役職の変更等についての連絡が先日私の処に届いた。先ずは書面で其の連絡が届いた後に架電があり、書面の概要について説明を受けたのだが、電話の相手方はやけに声が弾んでいた。「今回の書面に於いて注目すべき点が一点在ります」其れは何処かと尋ねた処、先方は更に声を弾ませ「○○担当の方の名前をご覧下さい。玉羆さんです!羆なんですよ!」との事。因みに此の電話の相手とはプライヴェートの付き合いは一切無く、私が獣を嗜む事など知らぬ筈。此はひょっとして電話の相手も同好の士なのでは無いかと思い「○○さんはひょっとして羆を嗜まれるご趣味をお持ちなのでしょうか」と問うた処、「そうです、結構好きなんです。羆よりは犬の方が好きなのですが」との回答。左様であったか。獣を嗜む人間は数居れど、意外な処から獣話が展開し、深い驚きと感動を覚えた次第。


2001/04/18

旅欲の行方・断腸の思い

 再来週に迫った所謂黄金週間を前に、其の一週間前の今週末が実は旅行の穴場ではないかと思い、密かに旅行を画策していた。

 先ず思いついたのが一泊二日の北海道旅行。昨秋以来高まる北海道欲をなかなか解消する事能わぬ儘現在に至っている為、縦令短期間でも良い、一日あれば函館〜小樽〜札幌辺りをドライヴする事により、かねてより着々と進めていた自動車による北海道西岸完全踏破が達成出来ぬものかと思索していた。

 他に思いついたのが名古屋から一泊二日としては手頃な淡路島。時間が許せば、嘗てまともに観光を楽しんだ印象が非常に希薄な徳島県当たりにも足を踏み入れてみたい。何をするのかと言われれば困り果てて、結局またまともな観光をせぬ儘徳島県を後にする事になるのは明白なのだが。

 後は兵庫西部〜岡山東部の瀬戸内地方。2001/01/18で述べた通り、旅欲の矛先として挙げた牛窓(岡山県)が余りにも現在の私に似つかわしくない地である為、其の手前辺りで何か楽しもうと思った次第。

 そして先日の映画(2001/04/15参照)の舞台であった郡上八幡。映画の内容を敷衍しつつ、己が此処に居る意味を考え直すのにも最適な地と言えよう。

 とまああれこれ考えていたにも拘わらず、此処連日慣れぬ酒肉に溺れまくった結果胃炎に罹患し、昨日点滴を打ち本日欠勤する羽目に陥った事により、今週末は旅行どころか自宅療養に努めねばならぬ危険性が非常に高いのだ。昨年末に体調を崩しつつも旅行を強行した挙げ句更に体調を崩してしまったのと同じ過ちを犯すのは御免である。


2001/04/17

出会いと不幸

 日本の河馬の血統の6割を占めるという、競馬界に於けるノーザンダンサーやサンデーサイレンスをも遙かに凌駕する実力を有していた重吉の訃報に接したのは今朝の報道番組であった。偶々先日東山動物園に足を運び(2001/04/14参照)、園内の一部しか訪れる事能わぬ中河馬舎も訪れていただけに、其の翌日に重吉が死去するとは、其の偶然に戦く事となった次第。

 そう言えば三年前の秋、北海道旅行で牧場巡りをしていた時の事。後世になって競馬ファンにより「20世紀の名馬」なる第一位に挙げられる事となったナリタブライアンなる名馬の居る牧場を訪れた。其の年の春に彼は体調を崩して居り一般の前に姿を現わしていなかったのだが、放牧地を前に早期の恢復を願いつつ其処を後にした。

 其の二日後に旅先から帰宅して競馬番組を観て腰を抜かさずには居れない報道に接した。前日にナリタブライアンの体調が急変し、此の日の昼に急死したとの事。正に私が牧場を訪れた其の翌日に彼は生死の瀬戸際に立ち、翌々日に落命したのであった。

 動物だけでは無い。10年程前の正月だったか、あても無く電車に乗っており、偶々下車した終着駅で線路の車止めを撮影した処、其の二日後に電車が其の車止めに衝突するという事故が発生したのだ。

 何れにせよろくな偶然では無い。一度でも良いから、私が目にした動物が数日後に番になっただの、私が撮影した風景が数日後に観光名所になっただの、私が腹を撫でてあげた女性が数日後に突然妊娠しただの、左様な偶然が一つ位存在しても良いでは無いか。


2001/04/16

(爆)

 ネット上での会話特有の表現として(爆)なるものが存在する。此について論述しようとした処急に「爆乳」なる熟語を想起した為、此方について論述することにする。

 此処暫く、乳を巡る情勢に大きな変化が生じた感がある。従来は精々「巨乳」「貧乳」程度しか無かった乳熟語(言う迄も無いが此処で言う「乳」とは所謂乳房を表し、「哺乳」「練乳」「豆乳」等は此処では触れぬ。広辞苑第五版をお持ちの向きは「乳」の二番目の意味を味読して頂きたい)に、「爆乳」「美乳」「微乳」「ロケット乳」等々といったヴァリエーションが充実してきているのだ。

 所謂IT文化の発達により一挙にIT関係の新語が増殖した例を持ち出す迄も無く、ヴォキャブラリーの進化の方向は当該言語圏に於ける文化の方向を示すと言えよう。とすれば、近年の乳熟語の趨勢を鑑みるに、世間のトレンドが一挙に乳方向に向かって急激に加速してきたと言っても過言では無かろう。そういったトレンドの中にあって、乳輪が過度に大きく無い限り乳には拘泥せぬという私の如き存在が途轍もなく時代遅れに感じられてしまい、単なる個人的趣味に過ぎないと思っていた事が現代の文化から取り残された思想だという烙印を押されたようで、些か悲しい気分になってしまうのだ。


2001/04/15

此処に居る意味

 2000/03/26で触れた「ケイゾク/映画」以来、約一年振りに映画を観に行った。映画のタイトルを書いてしまうと今回の作品が所謂「ネタばらし」なる禁忌に該当する虞がある為、敢えてタイトルは書くまい。

 其の映画のテーマであり、私が鑑賞前に最も期待していた「本人の全く知らぬ内に、自らが心に思った事が周囲に筒抜けになってしまう」という特殊能力のもたらす悲劇については、正直な処私の期待を超えるものでは無かったのだが、其のテーマとは異なる場所に於いて、私はいたく心を揺さぶられる事となった。

 20代半ばの医者である主人公は幼少の頃に飛行機事故に遭遇し、両親を含め多数の犠牲者が発生する中唯一人生還した。此の経験から己の「此処に居る意味」を考え、自分は他人様の命と引き替えに助けてもらったという意識から、今度は他人様の役に立つ為に医者を志したという挿話が映画の中に盛り込まれていた。

 此処に居る意味。私にとっても思い入れのあるテーマである。太宰治の小説の主人公の如く、己の存在価値を家族を含む周囲からも自分自身でも見出せぬ、生きている事自体が罪悪だと考え、考えさせられていた時、中学末期の頃だったか、「此の儘では己は此の世に存在してはならぬという事では無いか。自分は何の為に此の世の中に居るのか」を考えた結果、「他人様の役に立つ」目的で医者を志す事により、己の存在価値を見出す事が出来たのだ。

 処が実際には志の方向が二転三転し変化した結果現在に至る。しかし果たして変化したのは志の方向だけなのか。今回の映画を反芻しつつ、己が此処に居る意味を今一度本腰を入れて真摯に考える事としたい。私の場合、此処に居る意味が失われれば即ち己の存在価値すら失い兼ねないのだ。


2001/04/14

動物園の愉しみ方

 2000/08/06で述べて以来、久方振りに東山動物園(名古屋)に足を運ぶ事となった。寓居で競馬観戦を行いながら洗濯に興じていた処、動物園に向かおうとしていた後輩からの連絡を受け、急遽動物園案内係として馳せ参じる事になった次第。

 駆けつけた際には閉館迄一時間余りしか無かったにも拘わらず、後輩達は未だ入口から少し入った程度の処に居り、到底全てを巡る事は不可能であった為、適宜彼等の本能の赴く儘に任せる事としたのだが、余程獣心溢れる人物が揃っていたと思われ、一種類の動物に十分程度かけては嬌声を挙げて楽しんでいたのだ。

 結局出会えた動物はと言えば、カンガルー、ビーバー、各種熊、加州海驢、河馬、ゴリラ、阿弗利加象程度。気が付けば東山動物園の売り物である金絲猴だのヤブイヌだのには閉園間際という事で対面能わず、子守熊に至っては舎に近づきすらせずに退園したのだ。確かに此は此で通好みの動物園の愉しみ方であるとは雖も、堅気の人間達に対して斯様な動物園の愉しみ方を味わわせるのもどうかという疑問を抱かずには居れぬ。


2001/04/13

疲労と睡眠

 最近、歳をとったというか基礎体力が一定のレヴェルを割ったというか、寓居で書斎(兼食卓兼ソファ兼ベッド)に居ると何時の間にか横になって眠りに落ちてしまうのだ。其れが縦令私生活にとって重要な時間に於いてもである。

 此の日は偶々私が好んで観ていたテレヴィ番組が深夜に固まって放送されていた。先ずは日付の替わる直前に放送される「探偵!ナイトスクープ」。此の時間には得てして別局の報道番組を観がちである為、間違い無き様予め「探偵!ナイトスクープ」の放送局にチャンネルを合わせたまま、観たくも無い名古屋ローカルの前番組を嫌々ながらも観る事とした。此が却って拙かったのであろうか、気が付けば「探偵!ナイトスクープ」のエンディングシーン。テレヴィを付けたまま、而も画面には観たい番組が流れている状態で、一時間眠りについていた事になる。

 此ではいかんと思い、他局の「痛快!明石家電視台」を観ようとチャンネルを捻ったのだが、別に内容が殊更詰まらなかったという訳でも無いのに眠りに就いており、気付けば既に丑の刻。何と其の次に観ようとしていた「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」すら見逃してしまったのだ。何たる失態。

 平日に蓄積した疲労の僅かなりともを解消させる為に観ようとしたテレヴィ番組が疲労の為にどれ一つ観られぬ状態で週末を迎えるとは何とも皮肉な事よ。


2001/04/12

切手収集

 先日、高校時代以来久方振りに釣りを楽しみつつ思ったのだが、釣りにせよ卓球にせよボウリングにせよ娯楽のトレンドを顧みるに、一時は世代を超えたブームになりつつも一挙に下火になり、ひょんな事から再びブレイクするといった流れが繰り返されている中、切手収集なる趣味は唯一此の流れに抗うかの如く、長期低迷傾向が続いている、否「趣味」という範疇からも外れてしまっているのでは無かろうか。

 幼少の頃は右も左も老若を問わず切手収集を行っており、当時の小学生については、スポーツに於いては野球、文化面に於いては切手収集というのがトレンドであった。尤も我々の場合、マニアックな切手を収集する訳でも無く、消印のレアさや定形外料金の切手を自慢し合うといった程度が基本であり、此に加えて興味深い記念切手の発売日を狙って購入するといった楽しみ方をしていた。

 切手収集を始めて暫くした時の事、趣味など持っていないと思われた母が実は私が足下にも及ばぬ位切手収集を行っている事が判明し、驚きや感心、そして「何でもっと早く言わんねん」という気持ちを深く味わうに至った。そして或る日、「お前が本当に大事にしてくれるのなら」という条件付きで、其の膨大なコレクションをそっくり其の儘頂く事となったのだが、どうした事だろうか其の日を境に急激に切手欲が失われてしまったのだ。切手を此だけ収集するに至ったという達成感もあるかも知れぬ。しかし其れ以上に、今迄苦労して収集してきたものが全く労せずして一挙に増えてしまった事への虚脱感が大きかったのであろう。母の好意及び己の財産を手放すという重大な決意を無にしてしまったばかりか、其の数年後に発生した店舗の火災(1999/12/18参照)により全て消失して結局大事にする事能わなかった事は、未だに私の中に引け目として残っているのだ。

 それはさておき、当時切手収集を行っていた者達が細々と切手収集を続けているとは思えぬ。一体どういった理由で切手収集を止めてしまったのだろうか。また、ブームが復活する気配が全く無いのは何故なのだろうか。他の趣味が世代を超えてリヴァイヴァルブームを沸き起こす一因として、当時のノスタルジアが後々になって語り継がれるといったものが挙げられると思うのだが、切手については誰も左様な語り継ぎを行わないのだろうか。


2001/04/11

シャカシャカポテト

 最近のマクドナルドのメニウの一つに「シャカシャカポテト」なるものが存在する。通常のマックフライポテトにスパイスを塗した物なのだが、最初から完成品が提供される訳では無く、客側が食する前に一つの袋にポテトとスパイスを併せ入れ、口をしっかり閉じた儘袋毎気も狂わんばかりに激しく振る事によりスパイスを塗すという過程を経る事となる。

 さて、此の過程に於いて解せぬ点が二つ程存在する。一つは、何故此の過程を客側に任せているのかという点。店側としては、フライヤーからポテトを供する際にスパイスを塗せば済むだけの話では無いのであろうか。其れで無くとも只でさえ客側は注文の際に「シャカシャカポテト」なる恥ずかしい商品名を口にせねばならぬという精神的負担を味わっているのである。せめて客側の肉体的苦痛位は軽減しても良いのではと思ったりもするのだが。

 尤も此に対しては、「シャカシャカ行為自体を楽しんで頂く」「スパイスの量をお客様の好みで調整して頂く」などといった思惑があるのかも知れぬ為、余り拘泥しないでおくのだが、此以上に気になるのがもう一点。どういう訳か此のシャカシャカポテト、購入時にはポテトが通常のポテトケースに収められた状態で供され、スパイス及びシャカシャカ用の紙袋が別に添えられるのだが、通常のポテトケースが何故必要なのか。最初からシャカシャカ用の紙袋にポテトを入れて頂いた方が、客側がシャカシャカするにも便利である上、ポテトケースの無駄が生じずに済むでは無いか。商品の軽量包装化を推進するなどの施策が目立つ企業であるだけに、斯様な点が一層気になる次第。


2001/04/10

花粉症と獣愛

 2001/03/15で述べた花粉症に関する血液検査の結果を、花粉症が一段落した後も受け取りに行っていない事に気付き、先日慌てて病院に足を運んだ。尤も幾ら慌てた処で今シーズンの治療には最早全く役に立たないのでは無いかと思われたのだが。

 結果は大方の予想通りスギに対するアレルギーが突出して強かった他、オオアワガエリ、ハルガヤについてもアレルギー反応が見られた。とまあ植物名だけ見ても一体何時頃予防を心掛ければ良いのか解らぬ為、別刷の解説に目を通した。スギのピークが如月〜卯月なのは良いとして、ハルガヤは卯月〜文月、オオアワガエリは皐月〜葉月。即ち1年の半分以上を花粉で苦しむ事になるのだ。而も初夏はオオアワガエリとハルガヤとのダブル攻撃。

 そして其れ以上に衝撃的だった事。オオアワガエリ及びハルガヤなる植物が何なのか判らなかった為に調べてみた処、オオアワガエリとは即ちチモシーの事では無いか。多くの馬好きの方々なら先刻御承知の通り、チモシーとは馬用の牧草。私が馬の食物にアレルギー反応を起こすという事は此即ち獣愛の道が一つ閉ざされてしまったという事である。極めて残念無念哉。


2001/04/09

自転車通勤

 気候も急に春めいてきた為、戸外に爽やかな風が吹くのを確認した上で、社会人になって以来初めての自転車通勤を楽しんでみる。2000/09/11でも触れた通り、寓居から職場にかけてはなだらかな登り坂となっているため自転車通勤は若干不向きでは無いかと思っていたのだが、案外そうでも無い。ゆっくり目に走り途中寄り道も楽しんだ挙げ句、30分程度で職場近辺に駐輪し、出社する事が出来た。想像以上に爽快な気分。

 明日からも暫くは自転車通勤を続けようかと思いつつ気が変わったのは職場を出る直前。深夜迄及んだ作業の後、今から己の足を用いて帰宅せねばならぬ事が堪らなく思えたのだ。帰りは下り坂とはいえ肉体的精神的疲労に因りペダルを踏む足取りの重い事重い事。加えて、翌日に備える意味でも一瞬でも早く帰宅して床に就かねばならぬというのに、電車では僅か3分で到達する道程の中、幾らペダルを踏んでもさほど変化の無い風景を見ては「えっ、まだ此処迄しか来てないんかいな」と気が滅入る。自転車通勤の辛さは斯様な処に存在する事が判明した次第。


2001/04/08

合歓

 合歓の里(三重県)に足を運びつつふと思う。「合歓」を「ねむ」なる植物であるという事を知らぬ人が此の施設名を目にすれば「ごうかんのさと」以外に読めまい。となると想起されるのは「強姦の里」以外に考えられまい。彼方此方で衣服を剥ぎ取られては叫び声を挙げ顔面を涙でぐちゃぐちゃにしながら勃ちもせぬ乳首や愛液も湧かぬ女陰を好き放題に弄くり回される女性達が溢れ返る事になるではないか。此ではいかんと思い、「合歓」が「ねむ」なる植物である事を知らぬ人達が「合歓」から「強姦」を連想せぬ様、「合歓」に別の意味が存在しないかどうか調べてみる。

 広辞苑を繙いて驚いたのだが、広辞苑に於いては「合歓」は「ねむ」よりも寧ろ「ごうかん」の項目に豊富な解説が為されている。そして其の解説を見て更に驚いた。「ネムノキの別称」は3番目に掲載されており、広辞苑ルール(2000/09/20参照)に基づけば此の単語、古来よりネムノキ以外の意味を有していたのだ。「1.歓楽を共にすること。2.夫婦が同衾すること」との事。注目すべきは2。要は番で一つの布団にベッドインするという事なのだが、此は強姦とは正反対の性行為形態。同じ読みで斯くも異なる意味を有するとは。此なら「ごうかんのさと」と読んでも仲睦まじい夫婦間の性行為が連想され、私としても一安心である。


2001/04/07

酒の失敗

 酒の飲めぬ私が過去に犯した酒の失敗といえば精々、在らぬ所で吐瀉しまくっただの、意識を保たねばならぬ処で眠りに落ちただの意識を失っただのといった類のものであり、世間一般に於いて皆が経験する「上司に悪口雑言罵詈讒謗を吐いた」だの「飲み屋の女性店員に己の陰茎を晒した挙げ句彼女の乳を有無を言わさず背後から思いっ切り揉みしだいた」だの「麦酒瓶を割るだけでは物足りずに他人の前歯及び肋骨を数本折った」だの「朦朧とした儘車を運転して車ごと民家に突撃した」だのといった類のものは未だに犯さぬ儘現在に至る。

 処が今日の事、2000/07/04で触れて以来の深酒を嗜んでしまった直後、近々予想される遠距離恋愛を心配していた後輩に対し、何等悪意を抱いていないばかりか後輩として好意すら抱いているにも拘わらず、何を血迷ったか己の遠距離恋愛に纏わる失敗談を只管しゃべりまくった挙げ句其の後輩に遠距離恋愛に対する多大な心配や不安感を与えるに至ったのだ。此なら吐瀉や睡眠の方が余程ましであると深く反省する事頻り。


2001/04/06

切なさ

 「雪花菜」だの「オカマ」だの「犯す」だのといった単語から文章をしたためようと思いつつ、そろそろ飽きてきた事、文章をしたためようとした処「雪花菜を食するオカマを犯す」といった光景が浮かんできて困った事から、マジカルバナナ的な遊戯は此の辺で止める事にする。

 夕陽の沈みゆく様、就中水平線などの様に周囲に其の妨げとなる物が可能な限り排除されている場所に於ける其れに対して、非常に心惹かれるものを感じる。周囲を燃やさんかの如く大きく美しく輝いて居る光景もさることながら、其れだけ美しい物が眼前で為す術もなく消えてしまうのだ。而も一瞬で消えるのであればまだしも、「まだ完全に消える迄時間は残されているのだ。何とかならないのか」という念すら抱かせるかの如く、徐々に、只管徐々に消えていく光景は、最終的には「此だけの美しい物を目の前で数十分も指を咥えて消えゆくのを見守る事しか私には出来なかった」といった類の切なさを私の中に遺してしまうのである(1999/10/30参照)。

 尤も夕陽の場合には、翌日であろうが10年後であろうが適切な場所や天候次第で同様の光景を目の当たりにする事が出来るのがせめてもの救いである。人間の場合には決してそうは行かぬ。其の切なさは殆ど一生と言っても過言でない位遺される事になるのだ。


2001/04/05

尾髪

 折角「おかず」「オカピ」と来たので、「おか○」という単語に纏わる話題を採り上げようとして広辞苑を弄っていた処、「おかみ」の項目で意外な解説を目にした。「尾髪」なる単語について解説を読むと、「馬の尾と鬣」との事。一体どういう根拠で此の字義の指すものが馬に限定されるのであろうか。

 人体の器官について「人髪」「人爪」「人膣」などと一々称する機会など有り得まい。それぞれ「髪」「爪」「膣」と称するであろう。であれば馬の器官について「馬尾髪」では無く「尾髪」と称する事は此即ち人と馬とが等価の関係にあると言えよう。いみじくも私が2001/01/15で指摘した通り、古来より人と馬とが特別な関係にあり、両者の間に愛や肉体関係が当然の如く存在していた事の証左なのである。

 どうでも良いことだが、「女将」が「おかみ」として広辞苑に掲載されていないのは何故か。


2001/04/04

オカピ

 上野動物園のジャイアントパンダ以来の珍獣人気を博していると言われているズーラシア(横浜市)のオカピ。昨年園内で産まれた子供がつい先日一般公開されるに至り、オカピブームも此処に来て尚一層の盛り上がりを見せているようである。

 以前居た職場に於いて一部の間でオカピと呼ばれていた事もありオカピには親近感すら抱いているのだが、冷静に考えてみれば此の動物が斯程に人々の人気を博している理由が今一つ判らぬ。馬の身体に麒麟の角、耳はハイエナ。顔は白いのだが身体は鹿毛、而も驚いた事に四肢が白黒の大きな縞々。見た目には可愛いどころか寧ろグロテスクでは無いのか。

 可愛さという点に於いては同じ園内に居るヤブイヌに一歩遅れを取っていると言わざるを得まい。動物の寄せ集め的な部分が人々の関心を惹くのであれば、多摩動物公園の四不像(シカ科の動物なのだが、「頭は馬に似て馬に非ず、蹄は牛に似て牛に非ず、体は驢馬に似て驢馬に非ず、角は鹿に似て鹿に非ず」と称されている位寄せ集め的な容姿を誇る)あたりにもっと人々の注目が集まっても良さそうなものである。而るにオカピの魅力は「日本初公開」という点を超え、容姿による魅力を以て語られる事になるのである。

 所詮魅力付けなど如何様にでも操作出来るという事なのであろうか。ヤブイヌとパートナーシップを組む事が可能なマーケターなり広告代理店なりの出現が切望されよう。


2001/04/03

おかず

 ヤブイヌ似の後輩から猥褻画像をメールにて受け取り、お礼のメールの中で「今夜のおかずにしときますわ」と書いてふと思ったのだが、何故自慰の際に欲望強化の目的で用いられる材料を「おかず」と称するのか。何時もの如く疑問を感ずれば即広辞苑を紐解く。「(もと、女房詞。数を取りあわせる意から) 飯の菜。副食物」との事。我々がもう一つの意味として日常用いる「おかず」以外の意味は記されていない。

 自慰の際に眼前にあるのはあくまで猥褻画像。主食として女性が傍に侍っていたりなどという事は決してあるまい。というか抑も左様な主食が存在する状況にて自慰を行う事自体甚だ疑問であると言えよう。となれば眼前にある猥褻画像の他にある主食とは何か。他に己の猥想以外に食物が存在しない以上、主食は猥想であると結論付けられる事になろう。実際に自慰行為の最中には己の意識は猥褻画像の方に向いており、己の猥想がどの程度高まっているか等について意識する機会はそうそうあるまい。しかし此が正に主食が主食たる所以。普段の食事に於いては、主食の味に意識を向ける機会よりは副食物の味に意識を向ける機会の方が多かろう。また、優れた副食物は普段意識せぬ主食の味を引き立てるものである。そう考えると欲望強化の材料を「おかず」と呼ぶのは優れた比喩と言えるのでは無かろうか。


2001/04/02

検索エンジン・2001/03

 毎月恒例の「エゾシカの嘶き」へのアクセス解析による検索語ランキング、3月にダントツの1位に輝いたのは初登場の「包茎写真」。従来血で血を争うかの如く繰り広げられてきた「陰茎写真」と「肛門写真」とのデッドヒートに終止符を打つかの如く新星が現われ天下を統一した感がある。しかし何故「包茎」に拘らざるを得ないのだ。

 2位にも同じく初登場の「強制女装」。此も何故「強制」に拘らざるを得ないのか今一つ良く解らぬ。女装なる行為はあくまで自発的なものであり、強制してやったりやられたりしても愉しいものであるまい。おやこう書けば過去に何度と無く宴会の余技で女装していた私が恰も嬉々として行っていた様に誤解されるではないか。次いで先月初登場にして上位に顔を出した「Hアニメ小説」。「hアニメ小説」と合算すれば2位に浮上する事となる。

 他に目を惹いた言葉としては、「犬との性交」「くじらの生殖器」などといった獣愛関連語、「鹿児島 ピンサロ」「名古屋 アナル ヘルス」「ピンサロ 倉敷」などといった旅行関連語が挙げられよう。何れにせよ獣に旅行に、当サイトならではの語がヒットしていると言えよう。

 一つだけ未だに私を悩ます検索語。「松本孝弘 殺人未遂 逮捕」。何かしでかしたのか、B'zのギタリスト。


2001/04/01

2年

 実際に此の文章を書いているのは2001/04/20、本来の予定を約3週間過ぎて「エゾシカの嘶き」が無事3年目のシーズンを迎える事が出来た。満2歳の誕生日、おめでとう私、ありがとう皆様。

 本当によく「無事」で此処迄来たものである。実は此処半年近く、実際の執筆日と作品の日付とが一致する事無く、就中1月から2月にかけて都合2週間程、3月末に1週間程、それぞれ業務の都合でパソコンを使用出来ぬ時期が存在し、其の分がほぼ丸々執筆の遅れとなった儘現在に至る。一日や二日の遅れですら容易に取り戻せぬ中、一週間遅れている状況が恒常化するに連れ、遅れている分を書き溜めて通常のペースに追いつく事を想像するだけで執筆欲が萎えるといった状況が続いていたのだ。左様な気分の時には2000/04/01の作品を読むに限る。己が一日一話文章を物す意義を改めて思い起こす事により、通常のペースに追いつく事以上に、継続的に文章を書く事が重要であるという認識の下、或る意味大きな開き直りを見せつつ遅れを取り戻さずに文章を書き続ける次第。

 2年目のシーズンは365話、29万字。1年目と合わせると731話、50万字。400字詰め原稿用紙に換算すれば1250枚分。私の半生の中で数少ない、自ら褒め称える事の出来る経験の一つとして、此の成果は十分に加えられる資格を有するのでは無かろうか。今度執筆欲が萎えた時には今回の作品を読み直し、来年の此の日に再び己を褒め称える事が出来る様、3年目のシーズンを過ごしていきたい。


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