エゾシカの  2001/05/01〜2001/05/31

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2001/05/31

胃の初体験

 幾つか抱いているささやかな夢の一つに、「胃カメラを飲む事になれば普段観る機会の無い消化器官をモニターで覗いてみたい」というものがあったのだが、先日遂に其れを実現する機会が訪れる事になった。

 深夜の丑の刻に15時間遅れの昼食を摂った直後の事、余程胃が吃驚したのか食物を受け容れる事能わぬばかりか胃液を只管吐瀉する始末であり、翌朝病院にて検査を受ける事にした。一頻り触診等を受けた後、胃カメラを含めた検査を受ける事になったのだが、胃カメラが初めてだというと医者は頻りに「大変ですが頑張って下さい」と宣う。確かに大変な検査だという事は噂で耳にしていたのだが、此の時点では此程に事前覚悟が求められる検査だとは思っていなかった。

 採血・採尿後に超音波による内臓検査が行われる事となった。偶々此の日は医学部生が見学に立ち会っており、医師がモニターに映る私の内臓を教材に学生に講義を行っていたのだが、モニターに映る臓器の輪郭を見て其れが何か問われても正解出来ぬ学生を目にしては、医学界の将来に不安を感じる事となった次第。

 さて其の次が愈々此の日のメインイヴェントたる胃カメラ。先ず最初に胃を奇麗にする為との事で透明の液体を一気飲みさせられたのだが、さあ口に運ぼうとするタイミングを図ったかの如く「非常に不味いですよ」などと言わなくても良いでは無いか。次いで喉用の麻酔として喉飴状の薬品を喉の奥に溜めさせられる。そして寝床に横たわり、更に麻酔として肩から注射を打たれ、胃カメラが口から挿入される。此処迄念入りな事前準備を経たにも拘わらず、いざ胃カメラが喉の奥に入ると耐え難き圧迫感で何度もえづきそうになる。圧迫感による呼吸困難を感じ、益々えづきそうになった処医師が「口からでは無く鼻から息をして下さい」と叫ぶが最早私は言われるが儘肉体を制御する事も能わぬ位肉体的精神的苦痛で混乱していた。更に胃を拡張させる為に空気が胃に注入されるが其の度にえづきが激しくなる。目は次から次へと湧き出る涙で一杯になり、とてもじゃないがモニターを観る余裕など無かったのだ。

 やっと胃カメラが抜かれた後、寝床には涙と涎と冷や汗が大量に残っていた。こんな苦しい体験中に「夢を果たしたい」などと考えていた私が大いに間違っていたと痛感した次第。


2001/05/30

鹿情報

 先日久し振りの後輩と話をしていた処驚愕すべき情報を得たのだ。どうやら彼の勤める会社の或る支店に於いては「鹿情報」なるものが重要文書として随時提供されており、全社員が目を通せる様になっているとの事。確か彼の勤める会社は鹿はおろか特定の獣と緊密な関係を結んでいる訳では無い筈。訝りながら改めて当該文書を確認させて貰った処、驚愕も最高潮を迎えるに至った。

 表計算シートで構成されたファイルを開くと先ず(簡易)なるシートが現われ、此処では支店近辺で鹿が発見された件数が非常にカラフル且つグラフィカルに表示されている。一体此のシートのどこら辺が(簡易)やねんと思いつつ別のシートに目を移せば、鹿発見の一覧表が此亦極めてカラフル且つグラフィカルに表示されている。発見時刻により丁寧に色を塗り分けられているばかりか、鹿の体長、性別、群れの頭数等、此を一体どう分析に用いるのかと思われる様な情報まで網羅されている。そして極めつけはニホンジカ豆知識。体長、尾長、肩高、体重や、発情期、妊娠期間、角の生える時期、捕獲方法、等々、マニア垂涎の情報満載。

 斯様なマニアをも唸らせる情報がほぼリアルタイムで全社員に公開されているとは、全く以て愉快な限り。しかし其の一方で、其の飽く無きマニア性及び全社員への公開の必要性という観点からは、甚だ疑問を抱かずには居れぬ。何れにせよ鹿が人をマニア道に走らせるオーラの様な何かを有している事は、私の経験からも首肯されて然るべきものである。


2001/05/29

風俗ファイル

 先日職場で共用のパソコンをふと覗いて愕然とした。デスクトップ上に散らばるファイルやフォルダに紛れて風俗なる名のフォルダが作成されていたのだ。斯様なフォルダには一体どれ程迄に猥褻なファイルが放り込まれているのか、又斯様なファイルを家庭ならいざ知らず職場で蒐集してにんまりしているのは一体何処の誰なのだ、様々な疑惑と憶測が私の胸を駆け巡るや否や、一も二も無く私の右手は其のフォルダの内部を漁らんとマウスに伸びていたのであった。

 フォルダの中には怪しげな名前のファイルが並ぶ。其の内一つを開いてみた処、或る会社の附属明細書なるものである事が判明したのだ。フォルダ名の「fuzoku」を躊躇いも無く「風俗」と解したのが全ての敗因であった。


2001/05/28

好みのタイプ

 「好みのタイプ」というのは其の相手との関わり方に伴いそれぞれ異なるものが存在して然るべきである。具体的に言えば、「付き合いたい人」「友達でいたい人」「結婚したい人」「肉体関係を持ちたい人」等がそれぞれ違って当然なのである。更に言えば同じ「肉体関係を持ちたい人」の中でも「一晩だけ後腐れ無く肉を貪り合いたい人」「永続的にセックスフレンドでいたい人」とで己の理想像が異なる場合すら少なからず存在しよう。此等を引っくるめて同一直線上に並べ徒に上下関係のみに着目して「好みのタイプは○○である」と言い切るのは暴挙に近いのでは無かろうか。

 此処暫くの「エゾシカの嘶き」の作風から、「一体貴様が最も好きな獣は何なのだ」「カンガルーの話題など出て来ないが其れでもカンガルーが好きなのか」「最近はヤブイヌに浮気しているのか」などという不躾な質問を受ける機会が少なく無いのだが、私の中ではそれぞれの獣との関わり方に伴いそれぞれの「好き」を抱いている為、「付き合うなら」「友達になるなら」「結婚するなら」「肉体関係を持つなら」などという前提条件付きならまだしも、単に「好き」のヴェクトルの絶対値のみを以て「好き」の程度を推し量られる事により私の意中の獣達を比較される事に抵抗を感じずには居れぬのだ。


2001/05/27

くるり

 何気無くCD屋に立ち寄り、何気無くくるりのCDを購入した。以前聴いた曲の一フレーズが矢鱈印象に残っていた事、度々訪れるサイトの掲示板で時折話題になっていた事から、「此が欲しい」という強固な意思に基づくものでは無く「まあ買ってもええかな」といった気分で購入した次第。

 旅先で好きな人の事を想ったり、自分自身の事を考えたりした様な歌詞。旅先でふとした切っ掛けで親しくなった人と、何気無く交わされる言葉の様な歌い口。歌詞の意味や曲を咀嚼して味わう以前に、嘗て自分自身が旅の道中で想いを馳せたり体験したりした様々な情景が引き出され、旅行している時の良い気分を味わう事が出来たのだ。

 此のCDとの出会い、CDを聴いた時の気分、そして自分が旅行している時の気分。此等が見事な迄に同調し、曲の味わいも一層深まったのだ。旅先で此のCDを味わえば喜びも一入であろうと、予定も立たぬ次回の旅行を今から心待ちにして居る次第。


2001/05/26

獣と寝る

 動物園に足を運んだ処お目当ての獣が睡眠中だった場合、誰しも幾ばくかの落胆の念を抱かずには居れぬ。無論私とて例外では無いのだが、まあ冷静に考えてみれば我々が休日の昼間に惰眠を貪るのと同様彼等が寝ていても何等不思議では無いのだ。

 更に、視点を変えてみれば、眠りに就いている獣達の姿を目前で観るというのは或る意味双方にとって幸せな事では無いか。例えば自分が心を寄せている相手と添い寝を愉しむ際、相手が自分に完全に心を許し安心感に充ち満ちて何もせずに眠っている姿は、自分にも「相手に安心感を与えている」という安心感を抱かせるに充分である。此ぞ心通じ合う者同士の愛では無かろうか。

 数年前、八木山動物公園(仙台)を訪れた際、サル舎の前のベンチに横たわって惰眠を貪り、「寝る獣に観る人間」という一般的図式とは正反対の立場を味わった事があるのだが、麗らかな日射しの中或る種の獣愛を感じさせる至福の一時であったのだ。いっその事、睡眠時間の長い獣の前に人間の惰眠用ベンチを設置するというのも動物園の新たな愉しみ方の一手段として好評を博するのでは無かろうか。


2001/05/25

監獄風居酒屋

 先日来立て続けに監獄風居酒屋に足を運んで居る。暗い店内に足を踏み入れると大きなキリスト磔の像。二階は教会風、三階は監獄風で、何れも罪を贖うという点で共通するコンセプトに基づき其れなりの工夫が凝らされて居る。

 二階は良く知らぬ為論述せぬが、三階については薄暗い照明の下個室が鉄格子で囲まれているという点に於いて「監獄風」と称しているように思えるのだが、実際に監獄体験を期待して足を運ぶ人間にとっては若干物足りなさを感じずには居れぬのでは無かろうか。

 先ず席に案内する際に客に手錠を掛けるのは必須であろう(江戸の同種の店では、客への手錠掛けが基本である)。店員が腰に手錠をぶら下げているだけでは満足出来ぬ。席に着いたら着いたで「監獄にぶち込まれた感」を味わいたいのが人情。単なる薄暗い鉄格子部屋にコンクリート打ちっ放しの壁に低音の音楽という「暗い雰囲気」だけでは無く、例えば部屋の内からは開錠出来ない構造にし、放尿等で席を外す際には店員を呼んで「済みません、開けて頂けないでしょうか?」「外に出て何をする積もり?」「…トイレです」「放尿?其れとも脱糞?若しくは吐瀉?」「…」「黙ってては開ける事が出来ないわよ」「…放尿です」「解ったわ、其れでは一分だけ開けてあげるわ。其の間に放尿を終えなさい」などという会話を交わすのも亦一興。若しくは鉄格子部屋の片隅にオープンエアの便器なんぞ設置してあれば完璧では無いか。

 飲食物を零したり食器を落としたり携帯電話の着メロを響かせたりしようものなら直ちに店員が駆けつけ鞭の一発二発が飛んできて然るべき。其の場で皿洗い等の労役に就かせるのも良かろう。

 「監獄風」を標榜するので有れば此処迄の工夫が無いと本物志向の人々を満足させる事は不可能では無いか。因みに私は此程に本物志向を貫く店には行きたくないが。


2001/05/24

きもい

 近年用いられている若者言葉の一つに「きもい」なる語が有る。どうやら「気持ち悪い」の短縮形らしいのだが、此を「きもい」と略してしまうと「気持ち良い」と区別が付かないでは無いか。

 若者の毒牙に掛かり誤用や混乱を招き兼ねぬ日本語を本来の姿に取り戻すには、1.「きもい」なる語の使用を禁じる、2.「気持ち良い」にも別の略称を付与する、3.実際に「きもい」なる語が「気持ち悪い」と「気持ち良い」との誤用を招き混乱するものである事を立証する、等の方法が考えられる。先ず1については「きもい」に係る罰則規定の整備が必要であり、憲法上の表現の自由との兼ね合いを検討する必要が生じる上左様な検討の時間が勿体無い。2については日本語の誤用や混乱を避ける事が出来ても更なる日本語への凌辱となってしまい此も些か拙い。3の方法に因れば「きもい」なる語自体の消滅が期待され、此が最良と考えられよう。

 という訳で、日常会話に於いて「気持ち良い」の代わりに「きもい」を用いてみる事にする。「あっ…其処に息を吹き掛けられるときもいの」「おお、裏筋に這ってる舌がめっちゃきもいぜ!」「ああ…太いのが入ってく…きもいわ」「お前のは締まりが良くてきもいな」一言一言が桃色遊戯に水を差すかの如く作用し、「きもい」なる語自体がきもいと感じられる事必定。


2001/05/23

女性用便所

 此処だけの話なのだが、物心付いて以来女性用便所に立ち入った事が一度存在した。学生時代、丑の刻辺りに夜遊び帰りで自転車を飛ばしていた処急激に腹痛を覚えた。出来るだけ近くの公衆便所を探し用を足そうとしたのだが生憎大便所の個室は故障中。深夜という事もあり周囲に人が居ないのを確認した上で、併設の女性用便所に入り事無きを得た。其の便所の百米程先には私と相性の悪い交番(2000/07/12参照)があるにも拘わらず「縦令咎められようと緊急事態である事を説明すれば何とかなるであろう」という緊急時ならではの都合良い思考回路が働き一生に一度のリスクを冒すに至った次第。

 さて此も此処だけの話なのだが、今日が一生に二度目の女性用便所突入と相成ったのだ。乳の谷間露出系飲食店に於いて、完全に酔っ払った後輩が便所に向かう際、其の足許が覚束ぬ様を目にして介添の為に同行したのだが、彼は便所に入る際、私を見てにやりとした直後にいきなり女性用便所に突入しようとした。私は大いに慌て、「先程迄猥談や猥褻行為で大いに盛り上がっていた此奴を独りで女性用便所に入れれば何をしでかすか判らぬ、其れだけは制止せねば」と判断した結果、彼の監視の為に私も女性用便所に同行するに至った次第。

 後から冷静に考えれば抑も女性用便所に入る行為自体を制止すれば済んだ筈。どうやら酔っ払って居たのは彼だけでは無かったようである。


2001/05/22

新幹線占い

 先日職場で「新幹線占い」なるウェブ占いが話題になっていた為早速試してみた処、誕生日と名前だけで判断された私の恋の行き先は「豊橋」であった。「豊橋行きは心と心をつなぐ恋」「外見や立場をあまり重視せず、心のフィーリングで選ぶ傾向がある」「最初はまわりに反対されますが、一緒にいるところを見てもらうとみんな安心してしまう」など、一体何がどう豊橋と繋がるのか、それぞれの文章がどうリンクするのか、全く以て意味不明な分析結果が延々と述べられている。 因みに他の診断結果にはどういうものがあるのか覗いてみると、小田原=板についた恋(蒲鉾からの連想か)、三原=コアラみたいな恋(三原じゅん子からの連想か)、新下関=関門の多い恋など、まあ一応考えて造ってみたのであろうと思われるものから、三島=雑な恋、米原=普通の恋、西明石=軽い恋など、幾ら頭を捻ってもとんと見当が付かぬもの迄存在する。

 只単に占いの拠り所が珍奇なだけの斯様な占いが何故人気を博するのか。百歩譲って此の手の占いが人気を博するのは良いとして、此等占いよりはユニークさ、愉快さ、独創振り、ヴァラエティ、何れも勝っていると信じて止まぬ「Lucky animal !」が此のウェブ占い百花繚乱時代に全く話題にならぬのは何故なのか。


2001/05/21

兎耳

 医師の診断に拠れば別段難聴等の類では無いのだが、生活雑音程度の環境下に於いてすら会話が聴き取り難くなる時が少なからず存在する。尤も此は寄る年波の所為という訳でも無く若い頃からの性質であり、今に始まった話では無いのだが。

 補聴器の装着も検討したりしたのだが、結局周囲の雑音をも増幅させるだけになりそうでそう意味があるとも思えぬ。高価な割には効果が期待出来そうにも無い為、実生活に於いては会話の最中に両耳に手を添え、掌を発言者に向けるという所謂「兎さんポーズ」をとる機会が多い。逆に生活雑音の中から微かな音を聴き取る際には掌を後ろに向けるという所謂「怒った馬さんポーズ」をとっている。此等は単純な様で案外効果覿面。兎の耳が伊達に長い訳では無いという事を身を以て証明出来るのだ。

 しかし実際問題会話中にメモをとるなどで手が塞がっているケースも存在し(斯様な場合に限って会話内容が非常に重要だったりする)、いっその事着脱可能なハンズフリー兎耳があれば非常に便利だと常日頃から思っており、着脱用兎耳の商品化を切に願っていた。荒んだ会議や打ち合わせ等の場に於ける兎耳の効用は、只単に聴力の向上という点だけで無く、荒んだ人達の獣心を擽り、各人の獣心のヴェクトルを一致させる事に因り人心が纏まるという「精神的紙縒」的な機能も期待されるのだ。

 処が悲しい事に獣の被り物がたった一つの事件、否事件を起こした人物の為に、世間に於いて迫害されるに至った。当分着脱用兎耳が世に現われる機会もあるまい。極めて残念であると共に、先日の事件を起こした人物に再三怒りを感じずには居れない。


2001/05/20

日経と月経

 以前は「エゾシカの嘶き」とのライヴァル関係を此でもか此でもかと作品上で紹介していたにも拘わらず最近ではめっきり話題にする機会が無くなってしまった日本経済新聞を久方振りに話題の俎上に載せてみる。

 日本経済新聞の略称たる「日経」に少し足を付けただけで「月経」になるという事実に気付いたのは恥ずかしながら最近の事である。嘗ては女性の周期的排卵を指す言葉として日常会話に於いて頻繁に用いられていた此の言葉、何時しか時代の移ろいと共に徐々に姿を消し、気がつけば「生理」なる如何にも無味乾燥な一般的用語、「メンス」なる何が言いたいのかとんと見当が付かぬ外来語に其の座を奪われてしまったのだ。更に時代が進むにつれ、「アレ」などという味噌も糞も一緒くたにせんが如き無茶苦茶な代名詞が罷り通るに至り、最近では「来ちゃった」「始まっちゃった」など動詞自体に其の意味が含められてしまい、其れ自体を示す言葉すら駆逐されているようである。自分の勤める企業が吸収合併され、其の企業名が消滅するだけならまだしも相手企業の名前が堂々と残された時の屈辱感に近いものを月経は只管感じているのである。斯様な台詞を吐かれた際には「何が来たんや分からんやろが」「何が始まったんや、ちゃんと言うてみい」などと詰問するのが月経へのせめてもの供養というものであろう。

 尤も此の手の言語の変容は何も月経に限った事では無いのだが、斯様な変容が続いていくと其の内全ての言葉が代名詞のみとなり、延いては言語自体消滅するのでは無いかという危惧すら覚えてしまうのである。


2001/05/19

事件の余波

 休日出勤を早々に切り上げオフ会に参加した。今回のオフ会は2000/11/04及び2000/09/02で触れたものと同様の集団に属する人達が、先日名古屋に転勤した方に対する歓迎会という趣旨で行われたものであり、過去のオフ会同様楽しい一時を過ごす事が出来た。

 さて名古屋駅界隈に於いて1次会から2次会に場所を移る最中、始終主賓の方が見事なアフロヘアの鬘を装着して居たのだが、擦れ違う一般人の反応が頗る愉快。驚く者、顔を顰める者、視線を一生懸命外そうとする者、堂々と笑い転げる者、それぞれ彼の姿を視界に入れては必ず其れ迄と明らかに異なる態度や表情を見せるのだ。

 其の様子を見てふと思ったのだが、此処でアフロヘアの鬘の代わりに2001/05/12で触れたレッサーパンダの帽子を着用してはどうだったか。本来ならばアフロヘア以上に笑いが取れ愛され親しまれる可能性を有する格好の筈なのだが、着用する側も擦れ違う一般人の側も、恐怖だの居た堪らぬ気分だのに襲われ、とても愉快という心境にはなれぬ事必定。先日の辛い事件、否事件という包括的な概念に責任を押し付けて曖昧化する事無く言い換えれば、先日の辛い事件を引き起こした人物の所為で左様な愉快さが一つ世間から失われる事となったのだと考えたのが、オフ会中唯一悲しく悔しい思いをした瞬間であった。


2001/05/18

ヤブイヌアンケート

 偶々ヤブイヌ関連のサイトを検索エンジンで調べていた処、ズーラシアに関するアンケートのサイトに到着した。「楽しい動物のしぐさ」に読者が投票するというものなのだが、30個程度の選択肢を眺めてにんまりせずには居れなかった。

 1位は予想されていた事ながら「とってもかわいいオカピの赤ちゃんというか子ども」。其の他選択肢を覗いてもオカピ関連のものが次から次へと現われる。しかし其の中にヤブイヌに纏わる選択肢も負けず劣らず存在したのだ。「ヤブイヌの鳴き声」を筆頭に、「なにも考えてないヤブイヌのおかしな行動」「なにもかも中途半端な感じがイケてるヤブイヌ」「ためにためて出現するヤブイヌ」等の項目が登場するのだ。鳴き声は兎も角何れもヤブイヌを一見したり図鑑等で読んだりするだけでは捉え切れず愛を込めて暫くの間ヤブイヌと対峙する事によってのみ把握可能となる仕草では無いか。

 此等選択肢を設けた方々のヤブイヌに対する深い愛、そして此等選択肢に投票した方々のヤブイヌ愛に対する深い理解、何れも誠に微笑ましい限りである。


2001/05/17

続・エレヴェータ

 最近密かに、エレヴェータの扉を閉める際に可能な限り然りげ無く「閉」ボタンを押す、という技を磨こうとしている。普段よりエレヴェータの「閉」ボタンを狂ったように連打するオッサン共に対して不愉快さを抱いていた(1999/09/13参照)のだが、どうも最近其の不愉快さに耐え兼ねそうになる程非道い事例に遭遇する機会が屡々あり、其れを強固な反面教師として冒頭の技を磨くに至った次第。

 「閉」ボタンがタッチパネル的なもので、触れれば即反応するというものであればさほど苦労はせぬ。徐に手をボタンに近づけ、極自然かつ最小の動作でボタンに最も近い手の部位を接触させれば先ず大丈夫であろう。「閉」ボタンが押しボタン的になっている場合、然りげ無くボタンを押すのは案外困難である。否正確には「押したボタンから指を離す」のが困難なのだ。

 ボタンを押す際にはタッチパネル式ボタンと同様の手順で指をボタン上に置き、其の儘力を加えれば済むのだが、其れで安心して指を離せば、ボタンの復元力の根元となるバネの軋みが聞こえてしまう。従ってバネを軋ませぬ為にはゆっくりと指を離さねばならぬのだが、余りにゆっくり過ぎれば其の動作自体が然りげ無いものでは無くなってしまう。即ち軋み防止と自然な動作との兼ね合いが此処で求められるのだ。更に事態をややこしくするのが、ボタンのバネの強さがエレヴェータによって微妙に異なる点。一度最適な感触を身体で覚えたからといって他のエレヴェータで同程度の力を発揮出来るとは限らぬ。

 先祖に忍者だとか探偵だとかが居ないと思われる私にとっては非常に困難を極める技ではあるのだが、偶に見事に嵌ると此が結構快感なのだ。最近ではエレヴェータに乗る際に好んでボタンの前に位置するように努めている。


2001/05/16

輪廻の必然

 思春期の頃数年に亘り毎日の様に息を吹き掛けたり唾液を注ぎ込んだりで長時間熱い口吻を交わしたり、時には共に入浴して肉体を外から内から清めてあげたり添い寝をしたりと、私と極めて親密な間柄にあったトランペットとの関係を振り返っていた処重大な事実に気付いた。現在の無精さからは自分でも想像が付かぬ位に当時はトランペットの手入れを入念に行っており、毎日演奏後には恰も入念な愛撫を施すかの如く、外面の水分拭きの為に鹿革を用いていたのだ。

 即ち当時の私にとっての鹿というのは親密な間柄の相手といちゃつく為の媒介であったという事になるのだ。何時しか時は過ぎ行き、鹿自体が親密な間柄の相手としていちゃつく対象に成り代わった事に輪廻の必然を感じ取った次第。。


2001/05/15

続・○○プレイ

 可成り昔の話題で、思い付く名詞に「プレイ」という英単語を付けてみた(1999/05/31参照)のだが、今度は地名に「プレイ」なる語を付けて想像力を働かせてみる事にする。

 「名古屋プレイ」。金鯱の気分を味わう為、片方が海老反りになり股間を上部に晒し、其の晒された股間をもう片方が立位で存分に賞味する。本格プレイを目指すには全身に金粉を塗すのも亦一興。「京都プレイ」。裃姿の男性に舞妓さん姿の女性。所謂昆布巻きを愉しむも良し、2001/01/02で紹介した、各家庭に於いて正月に繰り広げられる独楽回しプレイを愉しむも良し。「仙台プレイ」。前から後ろから小芥子を抜き差ししては相手の身悶えする様を愉しむ。「北海道プレイ」。獣達との交わり、野外での交わりが相応しい。「佐渡プレイ」。最早説明不要であろう。

 飲食物を用いれば比較的想像が容易である。「高知プレイ」と称して皿鉢料理を女体盛りで食したり、「甲府プレイ」と称してワインで若布酒と洒落込んだり、「水戸プレイ」と称して全身納豆でヌルヌルネバネバになりつつ交わったり等、誰しも一度位は試してみた事がある筈。

 此の調子だと其の地域の特産物を用いればそこそこプレイのネタになろうと思いきや、「前橋プレイ」だの「佐賀プレイ」だの「山形プレイ」だのと言われても何をすれば良いのかさっぱり見当が付かぬ。「此の地区には斯様なプレイが相応しい」というものがあれば是非とも御教示頂きたい。


2001/05/14

又の機会に

 挨拶の結句に用いられる機会が多い表現の一つに「又の機会に(宜しくお願いいたします)」なるものがある。私自身此の句は良く用いる方であり、「又こういう機会があればええなぁ」という気持ちを抱きつつ文章をしたためれば必然的に結句が此以外に存在しなくなるのだ。

 其れはさておき、ワープロで上記の表現を用いる時、私の様に頻繁に用いているという訳で無ければ此は通常「股の機械に」と変換されるのでは無かろうか。

 股の機械。通常ヴァイブレーターを指すのであろうが、斯様な物に宜しくお願いしてもされても只管当惑するだけである。


2001/05/13

生物学的オタク考

 昨日の作品(2001/05/12参照)をしたためつつ思ったのだが、所謂オタクなる生物は何故痩せこけているか太っているかの両極端の体型に分化しているのであろうか。

 痩せ型オタクにせよ太り型オタクにせよ、何れにしてもオタクなる生物に相応しい体型だとは思うのだが、例えば同じヴェクトルに進化したにも拘わらず北半球と南半球とで全く異なる形態となった鹿とカンガルーとの相異だとか、熱帯から寒帯に移る程体躯が大きくなるという所謂「ベルクマンの法則」に基づくマレー熊と羆との相異だとかの様に、其の生息地に因る違いだとも思えぬ。秋葉原という定点に於いては両者のオタクが混在しているし、九州のオタク=痩せ型、北海道のオタク=太り型という公式が成立する訳でも無い。しかしながら此処で「オタクなる属性と体型とは因果関係が無い」と結論付けるのも納得が行かぬ。もしそうだとしたら何故此の両者の体型がオタクの二大属性として人々の間に遍く認知されているのか。

 抑も高等生物が子孫を遺す手段として、何故己の細胞を分裂させるのでは無く番になって双方の細胞を用いるというややこしい手段を用いるのかと言えば、生息環境が大きく変動した際に己の種が全滅する事無き様、第一世代のコピーでは無くあらゆる環境に耐え得る為に多様な子孫を遺す必要があるからである。とすれば、オタクは其の第一世代の段階から両極端に属する二種類の体型を持つ事により、第二世代を遺す迄の間に生じるかも知れぬ生息環境の激変にも耐え得る事が可能なのだ。斯様な結論に辿り着き、オタクが種の保存に懸ける執念を垣間見て愕然とし恐怖すら感じた次第。


2001/05/12

獣界への試練

 当初は連日連夜の報道番組や新聞の三面記事に於いてレッサーパンダのみが全国の熱い眼差しを一手に集めていたのだが、結果的に獣界全体に此程迄に強い試練が与えられる事になろうとは思わなかった。

 先日発生した殺人事件の被疑者が逮捕されたのだが、彼は犯行時にレッサーパンダの顔をあしらった帽子を被っており、其れが目撃情報を増幅させ逮捕に至った模様。近年宴会の場等に於いて必ず用いられる覆面だの馬のお面であれば話は判らないでも無いのだが、単なる帽子である。顔隠しには全く用を為さぬでは無いか。而も其れだけでは無い。被疑者は殺人以前から此のレッサーパンダの帽子を被って近辺で生活を送っていた事が判明した。「今度事件が発生したら私が犯人と思え」と宣言せんばかりの行動。

 逮捕後には事件の真相以上に、「何故レッサーパンダか」という点の解明が彼方此方から強く求められたのだが、此処で被疑者が無類の動物好きだった事が判明し、「動物好き」=「レッサーパンダ帽」=「殺人事件」という連想から、動物好きは危険人物なる短絡的思考が世に蔓延しつつあるようである。

 数年前、パソコン関連のイヴェントで幕張メッセ(千葉県)に行った時の事。超満員の会場の中で一名程非常に目立つ出立の人物が居た。痩せて貧相な顔でありながら眼光だけは異常に鋭い其の人物、頭の上にピカチュウを被っていたのだ。最初は任天堂のブースのイヴェント担当者かと思ったのだが、抑も任天堂の出展など無く、会場を闊歩している様を観て、単なる一般人(其の出立を「一般人」という事には抵抗があるのだが、此処ではあくまで「イヴェント担当者」と対峙する概念として用いている)である事が判明し、其の人物を撮影しては彼に対して得体の知れぬ危険を感じつつ会場を後にしたのだ。

 斯様な挿話を紹介することによって、「危険なのは動物好きでは無く動物帽好きである」という認識が(正しいか否かは別にして)世に広まり、獣界に再び安泰が訪れる事を期待する次第。


2001/05/11

奢り

 社会人の場合、自己の懐が痛まぬ、早い話例えば会社の経費に於いて飲食等を奢ったり奢られたりする場合、奢られた側は奢った人間に只管平身低頭の感謝を行うのであろうが、奢った側が如何にも奢ってやった的な態度を得意気に示す様に違和感を覚えずには居れぬ。

 此が異なる会社の人間であれば左様な違和感は感じないのだが、同じ会社の場合、所詮は誰が誰に対して奢ろうが、奢った側も奢られた側も共にいわば「会社から奢られている」状態に変わり無く、只単に「誰が費用を一時的に立て替えレジで領収書を書いて貰うか」の一点に於いて「誰が腹を痛めるか」が擬制された主従関係が生じているに過ぎまい。

 実際には此等の主従関係の裏には、「貴方のお陰で(本来自腹で行うべき)私の飲食が会社の経費で負担される様になった」という奢られる側の感謝及び「私のお陰で(本来自腹で行うべき)君達の飲食が会社の経費で負担されるようになった」という奢る側の奉仕感が存在しているのであろうが、実際に懐を痛める会社の立場で此等双方の感情を捉えると「(本来自腹で行うべき)飲食を会社の経費で負担した」という事になるのでは無いか。奢られた側が会社に対して感謝する代用として奢った側に感謝するのであれば理解出来ようが、本来奢られた側と同様会社に対して感謝すべき奢った側が、逆に感謝を一手に受けて己の「奢ってやった感」を満足させるというのは恥ずかしい位矛盾しているように思われるのだ。

 此では学生の方が余程しっかりしていないか。私が大学生活一年目に所属していた応援団に於いては、「飲食の場に於いて上回生は一回生に一銭も負担させてはならぬ」という不文律が存在しており、仕送りやアルバイト等の収入のみで己の生活にも困窮していた筈の先輩達が、後輩の為にさも当然の如く己の懐を痛めて飲食の面倒をみていたのだ。会社の経費で飲食を奢って得意気になる様な人物にお礼を言う事は、私にとってはいわば彼等と学生時代の先輩達とを同列に置く事になり、学生時代の先輩達を冒涜しているかのような許し難い気分にすらなるのだ。


2001/05/10

悲喜交々

 「合格発表掲示板を前にして受験生は悲喜交々の様子であった」「レースは大波乱になり競馬場は悲喜交々の表情で包まれた」などという言い回しは日常会話のみならずマスコミ等に於いても頻繁に用いられるのだが、私が日本語の慣用表現を用いる際に大学入学時よりしょっちゅうお世話になっている愛読書「朝日新聞用語の手びき」にも紹介されている通り、「悲喜交々」とは「一人の人物が味わう悲しみと喜び」なのであり、斯様な事例に於いて用いるのは誤用なのである。而るに世間では正しい目的で此の言葉が用いられる機会は殆ど無く、私としては「悲喜交々」の所為で脳溢血を起こすのでは無かろうかと思われる位、受験シーズン等に巷に溢れ返る誤用表現に一々腹を立てているのである。

 さて、私の以前の職場の方と電話で話していた時の事。其の方が、結婚発表と家族の御不幸とが重なった人を評して「彼も悲喜交々であろう」と評したのを聞いて、「ああ久し振りに清く正しい日本語として『悲喜交々』を耳にする事が出来た。此で『悲喜交々』も草場の陰から微笑んでいよう」といたく感心した次第。


2001/05/09

小屋犬

 小便臭い若者向け深夜番組を観ていた処、「小屋犬」なる獣が今密かなブームである事が判明した。犬小屋の形をした其の犬の背にはご丁寧にも屋根が付着しており、正に犬小屋に犬の顔四肢尾を付けただけという出立なのだが、此の小屋犬の風貌、何処かで観たことがある筈と思えば、其の胴長短足振りや犬にしては中途半端な顔の造り、褐色の体毛、何れをとってもヤブイヌと共通のものでは無いか!キャラクター考案者は屹度ヤブイヌを観ずしては小屋犬の発想が浮かばなかったであろう。

 とすると小屋犬がブレイクするすればプロトタイプたるヤブイヌのブレイクは保証された様なものである。小屋犬のキャラクター版元はあの退廃的大熊猫を世に問いブレイクさせた所では無いか。益々ヤブイヌのブレイクが期待出来るというものである。


2001/05/08

獣王

 最近娯楽界及び獣界の双方で沸騰している話題の一つに「獣王」なるパチンコ遊戯が挙げられる。具体的な遊戯内容は良く知らぬ為此処では触れぬが、個人的には「獣王」が具体的に誰の事を指すのかが非常に気になっていた。

 通常に考えれば肉食獣たるヤブイヌ辺りが「獣王」の称号を得るに相応しいのかも知れぬが、どうやらパチンコ店の店頭ポスターを見るに、「獣王」とは獅子を指すようである。確かにヤブイヌの認知度を鑑みて冷静に考えてみれば、「獣王」=ヤブイヌと考える人間が一割も居ればまだ良い方では無かろうか。

 まあ獣王が獅子の代名詞である事は世間の合意として良かろう。其処で私が問題にしたいのは阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」。二番の歌詞中「獣王の意気高らかに 無敵の我等ぞ 阪神タイガース」なるフレーズが登場するのだがあんたら獅子やなくて虎やんけ。タイガースファンは一体どういった心境で昨今の「獣王」ブームを捉えているのであろうか。


2001/05/07

続・郡上八幡

 旅先の郡上八幡で訪れた美術館。観音開きの扉を一生懸命押したり引っ張ったりしている内に館長と思しき小母さんが慌てて内から開けて下さり事無きを得た。其れはさておき此の小母さん、展示物一つ一つに丁寧に解説を加えて下さったのだが此の解説が他の美術館には先ず見られない形態のものであったのだ。

 通り一辺倒の美術解説では無い。個人所有と思しきそれらの作品を己の先祖の想い出と結びつけて語ったり、「此の文字は何て書いてあるのかいろいろと勉強したり来館される方に尋ねたりしているのですが、なかなか決定的な解釈にはまだ出会えてないんです」などと、専門家の講釈や蘊蓄とは一線を画し我々と同じ視点から作品に接する様を正直に語ったりなど、作品に接した時の気持ちを共有せんばかりの解説を行って下さったのだ。

 さて、其の解説を通じて身を以て感じ取った事がある。能面を近くから観た場合と遠くから観た場合とでは表情が全く異なったり、水平線の日の出を描いた掛け軸を近くから観た際には今一つ判りにくい良さが、離れて観る事により今正に水面が波打つかの如く躍動的に見えたりなど、一つの作品を異なる視点から鑑賞することでもう一つの作品や更に良い作品を味わう事が出来るのだ。凡そ美術を嗜む人間にとっては当然の事かも知れぬのだが、私は実際に左様な違いを味わうことにより多大な衝撃と感動を覚えたのだ。此を体感させて下さっただけでも、此の美術館を訪れた価値があるというものである。

 更には展示されていた熊谷守一(2000/03/30参照)の作品で小母さんと話が弾み、非常に幸福な気分で美術鑑賞を行う事が出来た次第。


2001/05/06

郡上八幡

 今年のGW、殆どGWらしさに浸る事無く過ごしてきた為此ではいかんと思い、昨日強引に時間を作り郡上八幡(岐阜県)に出掛けた。

 此程迄見事に連なる蓮華畑を目にするのは如何程振りであろうかと思いつつ、典型的な春のローカル線を進んで夕刻に郡上八幡に到着。駅から国道を川沿いに只管歩く事20分。長良川と支流の吉田川の交わる処に民宿があった。

 屋根裏の趣溢れる六畳間が私の部屋であった。夕食を摂り入浴を終えると絶えず聞こえる川の流れを枕に何時しか眠りに就いてしまい、気がつけば布団も被らず朝を迎えていたのだ。

 そして朝から街を散策。私には極めて珍しく天候が味方に就いた。春の光と風と陽気(こういう文章を書いている時に限って「風邪と容器」などと変換されるのは如何なものか)に加え川のせせらぎと、感覚をそこはかとなく擽られる中、先日観た映画「サトラレ」(2001/04/15参照)の舞台である吉田川の河原を歩いては、映画の主人公である新米外科医・里見健一の純真さに近付こうという意識が高まるのだ。其れにしても、普段はスキー場に行く為の基幹道路である国道を少し外れただけで、一気に時代が四半世紀程遡り、其れで居て決して古ぼけた感じの無い田舎の風景が展開されるのには驚きである。

 川から少し離れれば、町並みが広がる。町並みも亦四半世紀前のもの。而も生活の息吹が感じられる。決して衰退した訳でも無ければ妙に観光用に整えられた訳でも無い。街中に流れる水路は今尚生活用水として用いられ、古ぼけた建物の中では人々が通常の生活を送っている。遊び場であり、洗濯用水源であり、襁褓の洗い場でもあった、幼少の頃の実家周辺の「用水のある風景」が、自分の年齢のみが更新された形で眼前に現われるのだ。

 小高い山上にある郡上八幡城から街を臨む。山で仕切られた空間に川を配置し、田舎の町並みを再現した箱庭の如きこぢんまりとした集落。「こんな街で生きていくのも良かろう」という思いを抱いて街を造れば屹度斯様な街が完成しよう。

 旅をしているようで旅を感じさせぬ位、旅人に媚びず卑屈にもならず等身大の旧き生活を魅せる居心地の良い街。「また訪れたい」というよりは「此処に居たい」と思わせる街。其の不思議な感覚が気に入り、翌日からの仕事に備え早々に帰宅する予定など何処かに吹っ飛び、結局夕刻迄長居をする事になった次第。

 尤も斯様な程の感覚を抱きつつ、昼食で喫茶店に入ってピザを食するあたり、まだ私の心が完璧に郡上八幡に染まり切っていないようである。


2001/05/05

四つん這い

 先日の昼食の際にバルコニープレイの話題となり、「女性にバルコニーの手摺を掴ませた四つん這いの状況で背後から挿入する際の、屋内とも屋外ともつかぬ空間で途轍も無く猥褻な性交を行うという開放感が堪らぬ」という発言が登場したのだが、私をはじめ数人は此の「四つん這い」という表現に異を唱えた。確かにバルコニープレイは、先ず女性にバルコニーの手摺を掴ませる事から始まるのだが、此の体勢を「四つん這い」と言うのだろうか。少なくとも私の定義する「四つん這い」とは、単に両手両足が低い位置に固定されているだけでは無く、四肢がそれぞれ地平に接している姿なのだ。

 此のテーマは其の儘午後の打ち合わせの際にも議論が為され、反四つん這い派同士で大いに同調する事で双方の志を確認し合ったのだが、其の後私の中で気になったのが、「では何処迄が四つん這いで、何処からがそうで無いのか」という点である。

 日常生活に於ける光景を考えてみる。平らなベッド上で後背位で交わる際の女性の格好は、四肢がそれぞれ地平に接しているという事で問題無く「四つん這い」と言って良かろう。では此の儘女性が興に乗りベッドのヘッドボードに両手をついた場合「四つん這い」と言って良いのだろうか。もう此処等辺から己の「四つん這い」の定義が怪しくなってくる。行為の流れ及び気分的には「四つん這い」と呼んで良さそうなものなのだが、此では四肢が地平に接しているとは言えぬ。因みに困った時の広辞苑頼りという事で調べてみれば「両手両足を地や床につけて這うこと。匍匐」との事であり、私の定義と変わらぬ。暫く此のテーマが脳裏から去らぬ儘、日々の生活を送る事になりそうである。


2001/05/04

ユニバーサル・スタジオ・ジャパン

 昨日偶々ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの近辺を通り、其のテーマパーク界隈の空気だとか気分造りだとかが東京ディズニーランドと正反対であるという事に気付いた。

 東京ディズニーランド(幾ら略称を用いる事を余り好まぬ私ですら流石に此の長きに及ぶ名称を一々記すのは辛い為、以下TDLなる略称を用いる事にする。同様の理由でもっと長い名称であるユニバーサル・スタジオ・ジャパンは以下USJと記す)の場合、其の空間が如何に特殊であるか、如何に俗世間と離れた存在なのかを、訪問前から強く意識させられる。最寄りの公共交通機関であるJR京葉線の、此以上に無機質な存在が世の中にあるのかと思わざるを得ない様な車両、駅ホーム、車窓風景。処がTDL自体は外から見ても明らかに別次元の夢空間。勿論園内に一歩足を踏み入れれば其処で外界を意識させるものは一切と言って良い程視界に入らぬ。

 一方USJ。乗車すべき列車自体が既に特殊な物である。USJの出し物やキャラクターが壁面に隙間無く描かれた車両。沿線の駅はUSJの宣伝物が目に付く様装飾が為されている。ユニバーサルシティ駅近辺では列車内からUSJの姿を観る事が出来るのだが、園内のアトラクション設備類の張りぼてだの配管だのが外に剥き出しになっており、夢なんぞとは無縁である。大阪駅辺りからUSJに至る迄の間、何処までが俗で何処からが夢なのかが良く解らぬ儘なのだ。

 片や「園内の非日常性を強調して来園欲を向上させる」、片や「日常性と非日常性を混在させる事に拠り、日常生活から自然な流れで来園欲を擦り込む」。成功失敗の議論はさておき、少なくとも、TDLが後者の手法を採れば成功が覚束無い様に感じられるのだ。京葉線の車両に鼠の番や家鴨や羆などのキャラクターがあしらわれたりTDLから近所の工場群が見えたりシンデレラ城の片面がコンクリートの打ちっ放しであったりすれば、殊個人的には可成り嫌なのだが。


2001/05/03

ユニバーサルシティ駅

 今年弥生の事、大阪に開業するテーマパークの最寄り駅として、ユニバーサルシティ駅が開業した。偶々此の駅を通りかかった処、駅のホームで記念写真を撮影する人達の予想外の多さに戦く事となった。

 何故人は斯様に、御本尊のテーマパークでは飽き足りずにユニバーサルシティ駅の撮影を行うのか。一見鉄道マニアらしき輩も存在するのだが、必ずしも其れ等ばかりでは無い。理由をあれこれ思索する内に、はたと或る衝撃的な事実に気付いたのだ。

 此の「ユニバーサルシティ」という駅名、よくよく見ればJR初の片仮名獣名入りの駅名では無いか。其の点が鉄道マニアのみならず、獣好きの心を刺激した、或いは人々の内に眠っている獣心を覚醒したのであろう。此にて疑問も忽ち見事に氷解。

※追記(5/27):重大な事実誤認が発覚。片仮名獣名入りのJR駅名としては既に「ハウステンボス」(長崎)「池の浦シーサイド」(三重)が存在。確認は行ってみるものである。


2001/05/02

複数プレイ

 俗に「3P」「4P」「7P」「12P」等の形態で呼ばれる性行為を一般に「複数プレイ」と称する機会が多い。しかし冷静に考えれば此の言葉は相当な矛盾を内包していないか。

 広辞苑で「性行為」を繙けば「性欲に基づく行為。特に、性交」とある。前者の解釈(学問的には「広義の性行為」とされる)によれば自慰及び性交を指すのだが、後者の解釈(同じく「狭義の性行為」とされる)によれば此処から自慰が除かれ、性交のみを指すことになる。

 さて、今度は「性交」を繙く。「男女の性的な交わり。交接。媾合。房事」とあり、男女に拘泥する是非は兎も角、複数人に於ける行為である事が明記されている。而るに何故二人での性交を「複数プレイ」と呼ぶ事無く三人以上から初めて「複数プレイ」と称するのだ。

 とはいえ、3以上の数字の総称が日本語に存在しないからには他に手段を考えるのは困難である。強いて言えば「複数(3以上)プレイ」と表記すべき処か。性行為を通じて日本語の欠陥及び限界が如実に現われた一例と言えよう。


2001/05/01

検索エンジン・2001/04

 毎月恒例の「エゾシカの嘶き」へのアクセス解析による検索語ランキング、4月に大事件が勃発しようとは予想だにしなかった。

 今回トップに輝いたのは、初登場の「強姦小説」。前回初登場にしてダントツのトップであった「包茎写真」、初登場2位の「強制女装」が、それぞれ2位、3位と順位を下げた。此だけでは特段事件性を有するものでは無いのだが、「強姦小説」から「エゾシカの嘶き」に訪れた人の数が生半可な数字では無かったのだ。僅か1ヶ月間であるにも拘わらず、昨年6月から通算した検索語ランキングに於いても堂々の1位に輝くのだ。更に言えば、4月の「エゾシカの嘶き」総アクセス数の3%が、検索エンジンで「強姦小説」を調べた結果辿り着いたというケースなのだ。

 人は何故此の時期に突然に強姦小説を求めるのか。春の声を聴き、皆挙って読書欲や性欲が高じた結果強姦小説を求めたくなったのか。其の結果強姦小説とは縁もゆかりも無き「エゾシカの嘶き」に辿り着いて如何様な心境になったのだろうか。

 そんな事より気になったのは、Yahoo!は当然の事、gooでもLYCOSでもExciteでも、「強姦小説」で「エゾシカの嘶き」はヒットしないのだ。一体何処の検索エンジンで「エゾシカの嘶き」が「強姦小説」でヒットするような不自然な細工が為されているのだ。


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