※「モテない問題を考える会通信」は、2000年2月創刊。隔月刊で発行していましたが、現在不定期発行です。
通常価格は200円(6、10、13号は250円)です。
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きれいになりたい(ですか?) ひぐちようこ![]() 一応は一通りの化粧品を持っていて、でもほとんどしません。化粧しないならしないで、そのことに開き直るなり自信や主義のうしろだてがあればいいのだろうけれど、すべきことをしていない後ろ暗さを実はいつもひきずっています。周りの、特に同性には「はたち過ぎて化粧しないのはかえって不気味だよ」「ファンデーションくらいつければいいのに」「お化粧したら気分も変わるよ」等々、忠告されたりもするし、自分でも“言われなくても分かってる”と言いたい気持ちもあるけれど、その一方で疑問や痛みがあって、化粧したい気持ちとしたくない気持ちの間で綱引きしている感じです。 こういうややこしいことになった一因は、生まれつきの軽い病気のせいかと思います。医者や親の意向で何度か手術で外見を直していたり片方明きめくらだったりすることもあって(今は目立つものではないけれど)、人並みの身体とか外見てなんだろう、どこまで普通だったらいいのかな、と昔から思っていました。 それで(まああまり被害者意識にこりかたまるのも見苦しいのだけど)、今までにかなりいじめられました、男の人たち、通りすがりの人たちに。実際のゆがみのせいもあったろうし、自信のなさや視線恐怖・醜貌恐怖が呼びよせた、ということもあっただろうけれど、すげえぶすとかちょうぶさいくとかいわれたり、何というか、暇つぶしの雑談のネタにされたり、というか。一度は電車の中で、酔っぱらった浮浪者の男の人がつかつかと私のところにやってきて「きれいな女だ、美しい女だ」とからんできたこともありました。(電車の中で怪しげな人に目をつけられたときにありがちなことかもしれませんが、誰も助けてくれませんでした。以前カウンセラーの人にこの話をしたら、そういうときに何も出来ないのはあなたもそうなのでは、といわれました。まあ頭では分かるのだけど。) そういう嫌な思いの繰返しの中で──私自身の弱さや甘え体質のせいでもあると思うけれど──社会的な自立がずっとうまくいきませんでした。主体的・自立的であったり、「男も女もない」かのようにふるまおうとすると、世の中、というか「見る男」の視点から嘲笑されてしまう気がしたり、同性間での劣等感を感じたりしてしまうのです。 世の中の、女性誌に溢れているような情報を参考にして、整形や化粧や服装で外見に気をつかって少しはきれいになったら自信を得ることができるのかもしれないし、現実的な居場所を持てたと実感できるかもしれません。実際、思いきって化粧したとき、自分が「変わる」感じがしました。でも同時に、それに慣れてしまうことに不安をおぼえました。確かにそうやってよそおうこと・化粧することでイキイキできるかもしれない、でもそれでは、自分を傷つけた価値観におもねったところで自己実現することになるんじゃないか、侮蔑の目をむけられてきた自分をないがしろにすることにならないのかな、と。過去を思いだして気持ちがしんどくなるところがあって、「世間」を参考にしてきれいになることにはためらってしまうのです。 自分を傷つけた価値観=女の人の容姿についての品評会的な視点というのは男の人の集団が結束するためのものかもしれないし、男の人をも息苦しくさせる間違った男らしさなのか、あるいはもっと男らしさそのものの中にあるものなのか、そのあたりはよく分かりません。きれいなものをきれいと思うこと、それを話の種にすることは悪いことではないだろうけど、でも、女がきれいじゃなかったら、男の人に嫌悪されたりせせら笑われたりしても仕方ないのかな。そのあたりが、かたわの劣等感もあってずっと分かりませんでした。(女の中にもそういう異性を品定めするような視点はあるのかもしれないけれど、わざわざマイナスを声高に言うかなあ、と思います。私の偏見かもしれませんが)。一部の男の人たちが下してくる評価を私がうのみにしてしまったのがいけなかったのだろうけれど、女だということを受け入れるのは長いこと、自分への理不尽に否定的な評価を受け入れるのに等しかったのです。男の人が敵で女の人が味方、「我々」ということではなくて、女らしさとか、俗な言い方だけど綺麗になりたい女心、みたいなものへの違和感をずっと感じていました。……でも、女らしさを拒否したまま自分に自信を持つのは難しい。そして「女らしさ」は美しさということと結びついているのではないでしょうか。美しさに拘束されない女らしさというのももしかしたらあるのかもしれないけれど、さしあたり今の私にはうまくイメージできません。 男が男を、女が女を演じる、ということでいえば、恋愛関係が最たるものかもしれません。私が問題をこじらせてしまった原因のひとつは、私が女らしさを拒もうとする一方で、男の人との恋愛関係への幻想を捨てきれなかったところにもある気がします。男の人から見られることで嫌な思いをしてきたにもかかわらず、恋愛めいた関係の中で男が見る存在、女が受動的な見られる存在であることには私は全く抵抗を感じません。それどころか、誰の基準・視点だか分からない「人間としての美しさ」よりも、男の人に「なり」(というか、外見?)を気に入られること、きれいだと言われることのほうが正直言ってずっと現実的なことのように思えます。男尊女卑的であってもそういう恋愛関係への幻想を捨てきれないし、わずかながら、そういう「幸福な」関係の中では自分が女だということを肯定的に受け入れることができたのです。相手が私に投げかける女性のイメージを感じとることで、“私も「女」をやってもいいんだ”と思わせてくれた人もいました。でも、現実的に恋愛の場面でだけ男だったり女だったりする訳ではないし(そういう幸福な関係がめったにないということもあるけれど)、それに、自立的・主体的でなければならないような社会的な場面で中性(無性)でいられる訳でもない。女が美しさと無縁でいられないとしたら、誰から見た「きれい」なのか? 社会的に、普段の暮らしの中で女性である、ということに惑ってしまうのです。美しさ、とは特定の人(例えば「彼氏」であるとか)の視点を意識してのものなのか、漠然と異性の目を気にしてなのか、あるいは結局のところ自分で自分に言い聞かせるものなのだろうか。地に足のついた自信をどうやって持てばいいんだろう、と。 自分が女だということを否定せずに、つまらない男の人たちのつまらない視点以外のところで「きれい」になりたい。いま少し思っているのは、他人の視点を気にする前に、自分にとっての女らしさや美しさ(かわいいでも、かっこいいでもいいけれど)の中身を豊かにすることで、自分にもできるような具体的なあり方が見えてこないかな、それを目指して努力できないだろうか、ということです。世の中に支配的な(マスコミ等でこうあるべきだと思わされているような)イメージだけじゃないところにも、女らしさ(/男らしさ)はある、そんなところに少しは希望があるのかもしれません。 ←全目次に戻る ↑先頭に戻る |
[モテ**仲間の日常 4]突然ヴィデオから女の子が現れたりはしない日々 たけだぺてろ 「朝起きたら、まず勃ち具合をチェックします」というのは人気AV男優のチョコボール向井氏ですが、僕はAV男優ではないのでそんなものは朝起きてもチェックしません。それに、仕事が午後から深夜にかけてという半分ドラキュラのようなものなので朝には起きません。昼1時から1時半の間に起きてすぐ仕事に行きます。僕は古本チェーンの一つの支店の店長をやらせてもらってます。本部へ寄ってから自分の店に行きます。途中のコンビニで夕飯(僕の感覚では昼飯)の弁当を買い、ついでに、おにぎりか肉まんかなんかかって、朝飯にします。だいたい3時過ぎにお店につきます。お店ではパートのおば様方やアルバイトの人が働いています。仕事が始まる前はなんとなく緊張してしまうのでろくにあいさつもしないで、ちらっと彼らを見るだけの挨拶をします。お店に活気がないのは俺のせいだなあと思いながら、古本屋に活気なんかいらねえじゃねえかと心の中でつぶやきます。 ![]() で、だいたい深夜1時からが僕のアフター5になります。ときには同僚である、他店の店長さんとラーメンを食べに行ったり、友人に会ったりもしますが、そのまま、本部に寄って売上を置いてアパートに戻ります。 独り暮らしを始めたら自分の部屋にヌードポスターを貼ろうと思っていたので、マリア茉莉という昔の日活ポルノ女優のピンナップを貼ってます。この人がどういう人か知らないのですが、知ってる人がいたら教えて下さい。現在の、「普通っぽい子が脱いでる感じ」じゃなくて、「脱いでる人が脱いでる」ようでとても気に入ってます。ポルノの是非はさておき。で、マリア茉莉のおっぱいにただいまといいます。これは嘘です。 夜食は食べたり食べなかったりで、帰ったら風呂入って、そのまま、寝床の上でストレッチ、腕立て、腹筋、背筋などの簡単なトレーニングをします。疲れてる時でもストレッチだけはするようにしてます。以前は音楽をかけながらしていましたが、最近はヴィデオで映画を見ながら、股裂きやってます。この2〜3ヶ月でかなり映画を観たのではないでしょうか。あんまりお手ごろに映画が見れてしまうのもありがたみがないかもしれないですね。ハリウッド映画ならまだしも、ミニシアターでしか観られなくて、本当に観たい人が遠くからでも出かけて観ていたカルト映画などまで簡単に借りて観てしまうと、なんだか映画製作者や、映画ファンに悪い気がしますね。 ま、とにかく、映画を見ながらストレッチをすると、2時間近く体をほぐしているわけでかなり気持ちいいです。そのわりには肩こりなんですけどね。でも、毎日2時間かけてるわけではなくストレッチが終り次第ヴィデオをとめてしまうこともあります。一つの映画を二日にわけてしまうという罰当たりな見方をしてしまうんですね。そういう映画はさほど頭を使わない映画のときです。 そうこうするうちに4時が過ぎ5時になり、寝なくちゃなあっていう時間になります。寝る前には半ば習慣でオナニーします。最近はお尻フェチな自分を楽しんでいますが、ちょっと前まで友人の影響でおっぱい好きでした。ネタは主にAVです。AVもちゃんと観れば良い出来のものとそうでないのがあるような気がします。AVマニアではないので偉そうなことは言えませんが、女優さんが演技にしろ本気にしろ、AVという虚構の内部でスタッフや出演者が充実してるかしてないかっていうのはなんとなくわかるのではないでしょうか。多分に偶然が作用しているようですけど。なんてことを思ったころには射精します。 そして寝ます。夢見は悪いです。 〈後記〉 これを書いた時から半年くらいたってしまって、今ではピンナップはマリア茉莉からホリー・ウィットというプレイメイトの人に代わっています。威風堂々って感じに仁王立ちしてます。映画『ショーシャンクの空に』のように、ピンナップの裏側を通り抜けて脱獄したいです。 ←全目次に戻る ↑先頭に戻る |
[界隈見聞録(モテ問町医者構想) 1]摂食障害と優等生問題 名木太 ■一言に「モテない問題」と言っても、それぞれが抱える悩みの深さや種類は様々です。 容姿で悩んでいる人もいれば、コミュニケーション下手で悩んでいる人もいる。友達がいなくて孤独でキビしくなっている人もいれば、孤独は平気だが金がなく先の生活が不安という人もいる。彼氏・彼女が出来てもいつも上手くいかないという人もいれば、一度でいいから彼氏・彼女が出来てほしいものだという人もたくさんいる。 当然ながら、モテ問だけではそれら個々の問題について深く掘り下げるには至りません。しかし、世の中にはありがたいことに、特定のテーマごとに個別取り組んでらっしゃる市民団体、医療機関などが存在するし、自助グループもあれば、個人誌で自身のリアルな体験を記述し共有させてくれる人も存在します。 モテ問では「町医者構想」(専門外のことには全く疎い専門医ばかりの世の中だが、およその診断の後に専門医を紹介する町医者のような存在でありたいという意味)ということで、関連の団体やムーブメントなどを「こういうのに参加してみるのもいいかもよ」と紹介してゆければと思い、新シリーズを開設しました。 第1回目は、「摂食障害」の集会報告です。 先日「摂食障害」の集会に参加しました。「摂食障害、引きこもり家族の集い」というタイトル通り、当事者と家族の人たち中心の集いで、摂食障害から「回復」した人たちの体験談を聞くことができました。モテ問と何の関係があるのかと思われるかもしれません。私も関係があると思っていたわけではなく、たまたま機会があり参加してみただけなのですが、講演者さんのお話を伺ってみて、「こころ系」の自分としてはとても興味深かったので紹介してみます。特にAC系読者の方へ。 「摂食障害」というと皆さん一度くらい耳にしたことがあるんじゃないかと思いますが、内容的にはあまり知られていないのではないでしょうか? 『分析おことわり!』(NABA編)によると摂食障害は症状としては、「食べ物や食べる行為を拒む「拒食」、食べることをやめたいと思っても食べ続けてしまう「過食」、食べた物を意識的に吐きだしてしまう「自己誘発嘔吐」」などで、内面的には「社会でも家庭でも「自分の居場所」があるという実感をもてず、孤独感と疎外感で一杯という点が共通」していて、自己肯定感や自尊心の欠如が背景にあるそうです。 ま、神経症の一種で嗜癖が「食べ物」や「ダイエット」に向かったというところでしょうか。「太っている者は怠け者、劣っている」といった強迫観念もあるみたいです。初期の段階では症状を自覚するのが難しく、また自覚してくると「自分はオカシイ、このこと(食べ吐き)は絶対に他人には言えない」という罪悪感みたいのが出てくるようですが、「摂食障害」は実際には特に女性の中では隠れた主流派というか、サイレント・マジョリティーと言っていいくらい(?)多いみたいです。 絵本作家で元摂食障害のわだことみさんのお話によると、摂食障害の人に共通する性格は「感受性が強い(表現者・アート系の人にとっては大切な性質でもある)、何かにハマりやすい、自己嫌悪が強い(家庭が能力主義なので、何もない自分はダメという感覚が強烈)、頑張り屋さん、何でも人と比較する」。これらは、神経症な自分としては近いものを感じました。というか、聞いているとほとんど同じなので、自分が女だったら「摂食」嗜癖だったのかもなと思いました。 その共通する内面的葛藤を一言で言うとすれば、「優等生問題」でしょうか? 「良い子・悪い子・普通の子」で言うところの「良い子」問題。そのまんまで良い子というよりは、中身は普通の子なんだけれども、どこか無理をして「良い子」を演じているという良い子。 夫婦や嫁姑間の不仲や、貧乏問題などから、自分が「良い子」してないと家庭は崩壊するという危機感をもって子供時代を過ごしている。本来親に甘えるべき存在の子供が、逆に愚痴を聞かされたりなど親から甘えられる中で、自分の感情を押し殺し、大人(良い子)の役割を担って生きてきた中での行動習慣がある。 (自分にとって「優等生問題」は、書きたいと言いつつまだ書いてない「メンズフェミ」問題の核心でもあるのですが、今回はパスします。) わださんは、自身の 年間の長きにわたる摂食障害から「回復」(楽になる)に至る過程で目標としていたことを話されましたが、それがとても為になりました。 メモからそのまま書いてみますと、 (1)(嗜癖に対して)罪悪感を持たない。自分を責めない(やりたければやる)。 (2) 嫌なことはやらない(やらなくても死にはしない)&やらなかったことを後悔しない。 (3) みんなに好かれなくてもOK。 (4) 人と自分を絶対に比較しない。 (5) 今の自分が一番!(「違う自分じゃなきゃ」とか、「回復さえすれば…」ではなくて。) (6) 計画を立てない。 (7) とにかく「まぁ、いいや」くらいが自分にとっては適度(それでちょうど普通の人の「一生懸命」くらいになる)。 補足説明がないと分かりづらいかもしれませんが、ご参考まで。 わださんの捉え方で面白いと思ったのは、過食嘔吐が感情の処理として必要なことだったということ。家庭の緊張感による不安の中で、過食嘔吐は「生きるための手段」としてあったということです。過食嘔吐という症状(嗜癖)を忌み嫌うのではなくて、過食嘔吐をしていなかったら自分は死ぬしかなかったんだという捉え方です。一般的な嗜癖ということで言うと、「嗜癖はストレスの処理のために必要であった」ということです。 また、「回復」ということに囚われないところが自然体で良いなと思いました。何でも他人と比較しがちな私たちは、そこからの「回復」においてさえ、「自分は他人よりも「回復」している」と主張しがちだと思います(そのことによって自分を認めてもらいたい)。もちろん、誰しもその苦しい状態から「回復」したいに決まっているのですが、これは人生の妙というのか、「モテ問題」で「モテなくてもいいや」と自然に思えた時が「モテ」の前兆であったりするのと同様に、「回復しなくてもいんだ」と思えた時こそ、すなわち「回復」ということなのかもしれません。 ところで、主催のあらたまクリニック(名古屋)の加藤正先生のお話によると、日本で摂食障害が出始めたのは1985年あたりからだそうです。それは何故かというと、少子化が原因であろうとのことです。昔は子供が5人くらいいて(自分の両親考えても、母方3人、父方5人兄弟ですね)その中に1人くらい「変な子」がいても全然問題なかったのが、1人っ子が多くなってくると、とにかくその子が100%なわけで、ちゃんとしてくれなくちゃならない、変であっては困るという縛りができ、各家庭で「ちゃんとした子供」だけが生産され、子供の画一化が起こったということだそうです。だから、先進国に特有の「病気」だそうで、次は韓国あたりで増えるであろうとのことでした。 講演の後に交流会があり、その時お二方が、自身が楽になる課程で付き合っている相手のタイプが大きかったという話をされていたのも興味深かったです。自分の神経症的な部分をパートナー(彼氏)が何とも思っていないというのに救われたそうです。例えば付き合い始めにほぼストーカーっぽい電話を掛けまくっていたが、それに対し相手の男性は「あれ、また? 何かよく電話掛かってくるな、この人」くらいに思っていて(笑)、その「しつこさ」を全く気にしていなかったそうです。一々敏感にイライラされる相手だと難しかったかもとのお話。ストーカー気質の人には吉報ですね(笑)。1日に電話 回掛けても気にしないような心地よく鈍感な人も世の中にはいるみたいです。そういう人見つけてアタックしてみるのも良いかもよ! ところで、会場で売っていたAC関係のミニコミに「苦悩嗜癖」という言葉がありました。ナイスですよね(笑)。苦悩もあれは、「嗜癖」だったんだ(笑)。あんまり何でもかんでも「嗜癖」にするのもいかがかと思いますが、「モテない問題」も苦悩嗜癖の一種なのか、と考えてみるのもいいかもしれませんね。 最後に本集会関連の摂食障害自助グループと映画を紹介しておきます(次ページカコミ)。関心のある方は是非チェックしてみてみ! ■講演者や団体に対する捉え方は、執筆者個人の感覚によるものですが、何かお気付きの点などありましたらお知らせ下さい。 ■編集部では、みなさんが特定の団体に参加したり、医療機関に掛かったりした報告を募集します。同じ団体に接しても感じ方は人それぞれであることを前提として、(批判も含め)率直に書いて頂ければ幸いです。この欄が情報交換として機能すればよいかなと思っています。モテ問自体もそうですが、率直な誌上交流が、読者各人のこの先の選択の一助になればよいなと思っています。 界隈関連情報、お待ちしています! ←全目次に戻る ↑先頭に戻る |
編集後記(12号) ▼12月発行の前号から半年が過ぎてしまいました。「あけましておめでとう」とも言えず、「もう春ですね」とも言えず…。ということで、お久しぶりです!(と言ってみる…) 今回は言い訳もできないくらい遅れてしまいました。原稿もお預かりしておきつつ申し訳ありませんでした。たけださん、ひぐちさんの原稿、古賀さんのご感想は、年末年始に頂いていたものです。本当にすみませんでした。 ずっと調子の悪かったパソコンを年始に買い替えました。WinかMacかから始まり色々と悩んだ末、結局Macのノートにしました。場所とらないし、旅行にも持って出られるし、電源切れてもバッテリーあるから大丈夫(?)だし、思った以上に使いやすくて気に入ってます。ノート最高! 今じゃ性能あんまし変わらないみたいだけどMac最高! やっぱデザインいいです。マシンっぽくなくて。でさ、Winのデスクトップとカラーパレットは何故に…? 最後の決め手はそれでした(笑)。 あと、ADSL引いて、やっと自宅でインターネット見られるようになりました。繋ぎっぱなしなのでネット・サーフィンも気軽にでき、なるほどパソコン一台あれば引きこもれるなと思いつつプチハマリ。 自分の性格かもしれないけど、パソコンやプロバイダ選んだり、ハードやソフト買いに行ったり、契約したり、設定したり、使い方分かんなくて勉強したりと、ずっとこもってやってて本当疲れました。パソコンは近場に詳しい友達でもいないとツライわ。 以降、半年引きこもり気味。彼女とは会うけど、それ以外の他人とはほとんど会ってなし。電話でもしゃべってなし。メールをたまにくらいか。何かそんな感じです。調子が良いのか悪いのか分かりません。まぁ大抵そんな時は調子悪いんですけどね(笑)。 最近「三年寝太郎」のことをよく思い浮かべます。こうして自分、こもった後に何か活躍することがあるといいななんて(笑)。でも、調べてみると三年寝太郎って活躍と言っても、詐欺みたいなことして大金稼いでるんですよね…。ま、アイデアは良いし、その後は村のために金使ったからいんですけどね。 「金八先生」第6シリーズ、ビデオで見ました。前シリーズにも増してテーマ重かったですね。性同一性障害の生徒と、教え子を殺してしまい服役中の元教師の息子。今回は2テーマだったし、重すぎてちょっと無理あったように思いますが、毎回その時代のテーマを真剣に扱っててすごいなと思います。 「拒食」と「過食」が何故つながるのか? それは神経症の本質とは「バランス感覚の欠如」だからでしょう。ふと思ったけど、10号「モテ問的記事紹介」で書いた童貞こだわり問題は「拒セックス」とでも言えるのか? で、ヤリまくりは「過セックス」? 「モテ問通信」が書評されました! 市民運動系の新聞「ACT(アクト)」168・169合併号(2002年5月6日付)。あと文芸系ミニコミ「別腹」さんの創刊号にも紹介して頂きました。ありがとしゃーん!! モテ問のメールアドレス変更しました。裏表紙にある通りです。 スペシャル・サンクスは一応、坂本金八先生! いつもお疲れさまです。(名木太) ←全目次に戻る ↑先頭に戻る |
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