第7号

※「モテない問題を考える会通信」は、2000年2月創刊。隔月刊で発行していましたが、現在不定期発行です。
 通常価格は200円(6、10、13号は250円)です。


全目次| 01| 02| 03| 04| 05| 06| 07| 08| 09| 10| 11| 12| 13| 14

モテ問通信表紙 ▼07号(2001年2月)=クリスマス&年越し報告(2000-2001年)/ひだまん 2 ひだまりん/「モテない」とは他者との没交渉性である たけだぺてろ/痴漢とわたし ひぐち/ロバになる前に 三宅航太/[ストーカー列伝 3]ストーカーとバレンタイン もりや/モテ・マーフィーの法則/編集後記


 
「モテない」とは他者との没交渉性である  たけだぺてろ

イラスト モテない=恋されない
 モテナイというのがどういうことか、っていうのも人それぞれみたいですね。『もてない男』の小谷野氏の定義は特殊なものだと思います。実際、モテないことで悩んでいる人は小谷野氏のモテナイより、彼がケダモノと呼んだ人の方じゃないでしょうか。セックスを含めた恋愛の相手がいないことが問題なわけです。こちらが惚れていようがいまいが、とりあえず誰か恋愛しようよと、ついでにセックスもしたいなあ、と。もっと言えば、それこそケダモノなのかもしれないけど、恋愛はいいからセックスだけでもしようよ、というかしてくれ、誰かあああ!というのが普通のモテナイ人だと思います(多くは男性の場合かもしれませんが)。この『モテ問』ではもっと広い意味でモテナイを考えているみたいですね。
 僕は、その「普通のモテない」(と僕が考えているもの)を踏まえつつ、「モテない」というのは、「誰からも恋されない」ということだと考えていました。本人は何も意識していないのに、向うから言い寄られてしまう人がモテル人で、口説くのが上手いというのはモテナイということが問題にならないだけで、モテているというわけではないと。

「モテない」を解決しない「モテ問」
 「モテない問題」っていうのは、何故モテないか?っていう問いではないんですよね。こういう問い方をするなら、身なりを清潔にしたり、逆に無精髭なんか生やして野性味をだしたり、社交性が足りないと思ったら、なにかサークルに参加したり、ナンパ術を研究したり、そういうモテルための努力をしなさい、で終ってしまう問題になってしまいます。それでだめだったら、そこでまた、なぜ駄目だったのか、とモテるための傾向と対策を再考して、モテるまでそれを続けるわけですよね。モテたら終わり。
 でもそれはモテ問ではない。モテ問は「モテない」ということが問題になってしまうということの方を問題にしているわけですよね。モテるための努力をするなら、そういう努力が出来るなら、モテないことは問題にはならないですよね。それで、悩んでいるとすれば、それは努力が実らないことにたいする悩みであって、純粋にモテないことに対しての悩みではないわけです。
 だから、問題が問題として意識されなくなるということも問題解決の一つであるとするならば、モテるようにならなくても、モテないという問題は解決出来るわけです。例えば、先のように、口説き上手になるとか、恋人が一人でも出来ればモテる必要もなくなるわけだから、別にモテるわけではないけど、解決になりますよね。片想いするというのも、そうです。シラノ・ド・ベルジュラックみたいに一途な恋をしていればモテる、モテないなどは関係ないですよね。それはそれでもっと辛いのかもしれませんが。一途な恋が辛いならば、他のことに熱中できれば一番いいのかもしれません。スポーツとか。僕は軟弱な理由から、極真空手をはじめてみましたが、とりあえず、身体を動かしていれば、モテるもモテないもどうでもよくなります。少なくとも、稽古中だけは片恋のことも忘れられます。押忍。オタク化云々のことも『モテ問』の何号かにちょっと書いてあったと思いますが、それもモテないを問題でなくする一つの方法ですね。
 でも、こういう解決っていうのは「モテ問」が問題にしている「モテない」の解決ではない。問題のすり替えに過ぎないですよね。「モテ問」がモテるモテないが問題になってしまうこと、の方を問題にしているとすれば、モテるようになる努力も、自分がモテていないことを意識しないようにする努力も、「モテなければいけない」という社会というか、制度というかの内での努力でしかないわけです。

モテない=恋愛関係至上主義の圧力
 モテたい!と思うことも、モテなくたっていいじゃん!と居直ることも、「モテる/モテない」のプレッシャーにさらされているのだと思います。それは、今の日本で対人関係において、恋愛関係至上主義みたいなものがあるからだと思うのです。恋愛関係に一番の価値を置くというような。
 小谷野氏の『もてない男』は副題が──恋愛論を超えて──でした。小谷野氏のモテないの定義なら、恋愛論を超えられるのかもしれないけど、普通のモテない人の場合、恋愛論を超えられないんです。だって、恋愛関係を誰かに望んでいるわけだから。しかもモテない。そもそも、誰からも恋されない=「モテない人」は恋愛を語ることが出来るのか。出来ないです。「モテない問題」は恋愛論を超えるどころか、恋愛論を語る段階にすら達していないのだから。
 恋愛関係至上主義社会では、友達が多くいるとしても、本当の関係を作っていることにはならないんです(本当はそんなことはないんだろうけど、そういうプレッシャーを与えられてしまう)。
 「モテない」というのは誰かと関係を「持てない」ということですよね。だとすれば、恋愛関係至上主義の中では関係について何も語れないのは当然ですよね。

恋愛至上主義は「モテタイ」を強要する
 モテタイ。誰にモテたいのか。誰でもいいんですね。誰でもいい人なんかいないのに。自分が求めている人が誰かもわからない。では、とりあえず異性からモテたい。自分の性嗜好の対象からモテたい。モテたいという欲求は誰か特定の人に向かうものではないんですね。誰も志向していない。誰も志向しないけれども、誰に対してでも向かう欲求。それが正しいかどうかは分からない。けれど、そういうふうにしか他者を求められない。なぜなら、モテないというのは関係の前段階だから。恋愛について、性について、対であるということについて何も言えない。それらについて語るための舞台の上にさえ上がっていない状態がモテないということだと思うんです。モテないとは、自分が何にも「参加」していないということだ、と。
 だから、恋をしても、それが正しいのかどうかもわからない。セックスしたいだけなのか、好きなのか。「その人」が好きなのか、自分の性嗜好を「その人」に代表させているだけなのか。そもそも、自分に「その人」を恋する資格があるのか。だって誰からもモテたことがないのに。ひょっとしたら、自分は誰かから、恋愛対象として見られるような資質すら持っていないのかもしれない。そんな自分に「その人」を恋する資格があるだろうか。「いや、そんな資格はないのだろう。生きている資格もないのかもしれない。だって、誰も、僕を必要としてはくれないのだから」と思ってしまうのですね。

 「モテない問題」のモテないとは恋愛至上主義の産む、こういう他者との完全な没交渉性だと思うんです。
 他者を求めて良いのかどうかもわからない、というような。だから、恋愛論は超えられない。でも、「モテ問」ではその没交渉性を問題に出来るのではないかと思うのです。恋愛関係として没交渉でも、誰かと関わりは持てると思うし、恋愛関係でなくても、誰か─異性でも同性でも─を大切にしたいと思うことはあると思うのです。たとえば、非恋愛というか、脱恋愛というような関わり方が出来るかもしれません。異性とも同性とも関わりたいしセックスもしたい。出来ればそれが僕の側からだけの一方的な欲求、要求ではなくて、相手から、求められたいと思う。

←全目次に戻る ↑先頭に戻る


ホーム バックナンバー 取扱い書店 ご注文 レビュー データ 掲示板 リンク 更新履歴