※「モテない問題を考える会通信」は、2000年2月創刊。隔月刊で発行していましたが、現在不定期発行です。
通常価格は200円(6、10、13号は250円)です。
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「痩せたらモテるか?」途中(結果?)報告 もりや![]() で、「痩せたらモテるか?」である。しかしその前に「モテる」とはどういうことか、そして果たして人は外見で「モテるモテない」が決まるのかという問題がある。 まず、「モテる」とはどういうことか。今まで「モテ問」においていろいろ語られてきた問題である。「モテ問」を読んで納得したり、驚いたり、とにかくいろいろ考えさせられたが、結局のところ、一般的で漠然としたイメージで、「(常に)(複数の)異性(恋愛対象が異性の場合)から(積極的に)好意を寄せられている状態」を「モテている」状態と私は考える。()の中は必ずしもそうではなくとも、そうである方が望ましく、より「モテている」と思わせる、という意味である。わかっていただけますかな? そして次に、「モテるモテない」は外見によって決まるのかという問題。これは、確かに外見だけでは決まらない、けれども外見の良し悪しの影響は非常に大きい、というのが悲しいけれど現実ではないだろうか。今私は結論を急ぎすぎているのかもしれないが、ここでは「なぜあいつはモテるのか?」等ということについて考えているのではなく、私という人間が太っているか、痩せているかで「モテる」度合いが変わってくるのかについて考えているのでご理解いただきたい。 そしたら今度は痩せているのが良しで、太っていることが悪しなのか?という問題が出てきた。そんなのは好みの問題ではあるが、現在世間一般に「痩せ=美」の法則が成り立っていることは否めないであろう。私自身、そう思っているし、痩せたいと思ったから痩せたのである。 前置きが非常に長くなってしまったが、同じ私という人間、太っていた時と痩せた今とで、モテる度合いが変わってくるのであろうか? 痩せた途端に周りの男が言い寄ってきて大変!なんてことは初めから思っていなかったが、果たして本当に言い寄って来ない。何も起こらない。悲しいから言い訳しよう。まず、顔がそのまんま。かわいくないから。中身も変わってないどころか、禁欲のしすぎですさんだ?かもしれない。 そして人間関係に発展がない。いつも同じ人と顔を合わせている。そしてその中に異性は極端に少なく、既に私という人間を知り尽くしている人ばかりであるから、今更ちょっと痩せた位でホレたりするものか、という感じである。そんな人をホレさせる程私は見違えていないのだ。 要は、私は外見しか変わっていないのだから、外見が大きく影響する初対面においての第一印象が問題なのではないだろうか。もう、こじつけとでも何とでも言ってくれ。そして、そこで降って涌いたのが友人の結婚式である。いや、前々から決まっていたから降って涌いてはいないが、タイミングが良かった。結婚式といえば、新郎新婦の同僚、友人等、適齢期の若人が集う出会いのチャンスの場であるらしい。出会い…それこそ私の求めていたもの! 職場のオバチャん達に「ちゃんと相手見付けて来るんだよ!」と熱いエールを送られ、私は旅立った。 結果…、出会いも何も、友人達から「痩せたね」の「や」の字もなかった。着物を着ていたから? みんな酔ってたから? 久々の再会で「何かコイツ変わったな」なんてちょっとときめく…なんてことが起こりやしないかと期待した私がバカだった。第一痩せたことに気付かないんだからさ。 そんなこんなで全く収穫のなかった結婚式だったが、これは一つの通過点であり、途中報告なのである。 とりあえず、私は今の体重をキープ(本当は更に落としたい)するという課題がある。次号までもキープしつつ、考察を続けたい。 ←全目次に戻る ↑先頭に戻る |
童貞の不安について 黒保と金![]() もてない問題を考える上で童貞であるということは避けて通ることができないだろう。そして童貞の人は童貞であることについて漠然とした不安を持たされていると思う。 漠然とした不安がどこから生まれるのかを確かめるために国語辞書で「童貞」という言葉を調べてみた。そうしたら新潮社の『新潮現代国語辞典』のように「異性と性的交渉の経験がないこと」といった状況をさす価値中立性の定義の国語辞書もあった。でも大部分の国語辞書は状況のほかに悪いイメージを示す言葉を入れていた。その中で童貞に対する偏見が強く感じられる(まったくもって犯罪的である)三省堂の『新明解国語辞典』の定義は「成年に達した男性が、まだ性的経験を持たないこと。また、その男性。」となっている。成年の意味を同じ『新明解国語辞典』で調べてみると「物の考え方やからだが十分に発達し、一人前の社会人としての能力が備わるものとして認められる年齢。(民法では満二十歳に達することを指す)」と出てくる。これを先ほどの童貞の定義に当てはめると、物の考え方やからだが十分に発達し、一人前の社会人としての能力が備わる満二十歳に達している(にもかかわらず)、まだ性的経験を持たないこと。また、その男性。ということになる。このことから成年に達した男性は性的経験を持つ事が当たり前であり、性的経験を持たないのは変なことであり、変わった人だと思いこまされてしまう。 そこから成年になっていながら性的経験を持っていないということは恥ずかしいことである。だから童貞であることは人には言えない(人に知られたらどういう風に思われるか分からない)。また一刻も早く童貞から抜け出さなくてはとあせってしまう。こういったことが童貞の不安を生み出している。 そして童貞の不安は童貞の人が一人でかかえている不安と相手がいることによっておこる不安と2つに分けて考えることができるだろう。 童貞の人が一人でかかえている不安は童貞から抜け出したいのに相手がいないのでどうしようと思うことである。相手がいないという場合には2種類ある。 ひとつめは好きな人ができなかったり好きな人がいなかったりという場合である。好きな人ができなかったり好きな人がいなかったりということ自体は個人の自由である。でもそこに童貞の不安が加わると問題が発生する。好きな人と性的経験をもちたいと考えることは好きな人がいなければ性的経験をもてないという事につながる。つまり好きな人ができなかったり、いなかったりする期間が長いだけ童貞の期間が増えることになる。性的経験をいつ持つかということで馬鹿にしないという社会的合意があるなら童貞の期間が長くなろうが何の問題でもない。しかし現実は『新明解国語辞典』の童貞の定義から予想できるように童貞の期間が長ければ長いほど変なことであり変わった人だと思わされてしまう。そのことに耐えられない場合には相手を無理してでもつくらなければと思ったり、性的経験を持たないのは変なことだという思い込みから逃れるために恋愛はともかく買春による性的経験だけはしておくかと考えてしまうかもしれない。 ふたつめは好きな人ができてもふられたり、性的経験に至る前に別れたりして相手がいないという場合である。日常的に良くあることでとくに珍しくもない。だが異性がいないだけで魅力がない人と思われがちなうえに(好きな人ができてもふられたり別れたりが続くと本人も自分に対して自信がもてなくなってしまう傾向があるのではないか)童貞の不安が加わると厄介である。性的経験はしたいが相手がいない。こうなったら買春しかないという選択に結び付きかねない。このように童貞の人が童貞の不安をかかえていると余裕がなくなり気があせってしまいがちである。それが問題を大きくしている。 成年に達した男性は性的経験を持つ事が当たり前であるという風潮は私にとって息苦しい。またこういう風潮が続く限り童貞の人が持っている不安が強まることはあっても弱まることはないに違いない。 つぎに相手がいることによっておこる不安である。ここでいう相手には付き合っている人がいる場合と友人の場合の二つが考えられる。 まずは付き合っている人がいる場合である。ここでの不安は性的経験がないことが付き合っている人に分かったらどうしようと思うことと性的経験がないことからくる性に対する不安という二つから構成されている。 性的経験をする前に「実は童貞なんだ」と告白して2人でその事について考えられる関係を作ることが望ましいと個人的には考えている。でも童貞が恥ずかしいことだと思っていると「実は童貞なんだ」と付き合っている人に言い出すことができない。そのためにただでさえ不安になる初体験がますます難しいものになる。そこに女性に性的経験がないという弱みなんか見せられないという見栄が加わるともうどうにもならなくなる。 付き合っている人との間の童貞の不安を軽くするには、男性の側は世間体にとらわれないで率直に性的経験がないことを付き合っている人に言える人間関係を作る努力が必要だと思う。女性の側は勇気を出して「実は童貞なんだ」と発言した男性に対して「この年まで童貞だったなんて馬鹿じゃない」とか「あなたの性的経験なんて知らない」といった反応をするのではなくて、「性的経験なんてなくても大丈夫」とか「一緒にいるだけで十分」など性的経験のなさを引け目に感じているであろう童貞の不安を減らす方向に配慮してほしい。 次に友人の場合である。ここでの不安は性的経験がないことが友人に分かったらどうしようと思うことである。この不安は男性の中での階層構造と結び付いている。俗に百人斬りという言葉があるように性的経験が早ければ早いほど偉く、性的経験が多ければ多いほど偉い(淫乱や尻軽という言葉は普通女性にしか使わない)という男性の性文化の中で童貞ということは致命的なほど良くないこと(女性にもてない奴ということと買春する度胸もない奴ということが含まれている)であろう。だからこそ童貞であることを隠そうとする。それにもかかわらず友人にばれるとどうなるであろうか。 童貞と分かっても友人関係が変わらなければ何の問題もない。しかし実際はそういった例は多くはないだろう。実際におこる反応を考えてみたい。 ひとつめは童貞であることはかわいそうなことであり、その状況を解消するためにと買春を勧める場合である。そのとき童貞の人が買春に同意すれば友人との関係は壊れなくてすむ。ただし断わると「せっかくあいつのことを思って勧めてやったのになんだ」ということになって関係は悪化する。 ふたつめは童貞の理由を勝手に憶測したあげく「マザコンではないか」とか「性的不能ではないか」など事実と違うことを信じこむ場合である。この場合は友人関係どころか挨拶などの必要最小限の人間関係さえ無くなることがある。あげくのはてには童貞であることを知らないはずの人に「マザコンだって聞いたんですけど」などと言われてしまう。被害は大きく訂正には時間がかかる。 友人との間の童貞の不安を解消するには、前もって「私は童貞である」と明かしておいて(なぜ童貞なのか。性のこと全般についてどう考えているのかといったことを説明して変な憶測を作られるすきを無くさなければならないだろう)態度を変えるような友人は切り捨てるか、童貞であるということをかくし続けて付き合うか(性の話が出そうな場所にはいかない、飲み会で男性だけにならないように気をつけるなどの自衛策を取る必要性がある)のどちらかしかないのではないか。 結論として童貞の不安を解消するには性的経験を持とうが持たなかろうがその人の自由であり、年齢が若いうちから性的経験があるから偉いわけでも、性的経験が遅いから劣っているわけでもないと言う当たり前のことを(特に男性の間で)常識にしなければならない。 そして性的経験を通して「男になった」とかこのまま女を知らないで死にたくないなど性的経験を過大視している限り童貞の不安はなくならないと思う。 注…この文章の中で買春についてふれている部分があるので買春についての私の考えを書いておきたい。私は買春について絶対反対である。成年に達した男性は性的経験を持つ事が当たり前であり、性的経験を持たないのは変なことであり、変わった人だという考えを支えるものとして恋愛幻想(思春期をむかえた人は誰でも好きな異性ができ、また恋愛もできるという考え。恋愛至上主義者〈恋愛を人生において最高のものとする考え方を信じている人〉は恋愛幻想が重くなる気がする)や買春があるからである。 また買春があるかぎり性の画一化(誰にでも性欲がある→でも相手がいない→そういう人のために買春による性的経験→成年に達した男性は性的経験を持つ事が当たり前)の方向が強化されることはあっても性の多様化を認める方向に進む事はないからである。 ←全目次に戻る ↑先頭に戻る |
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