第11回核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議が4月27日~5月22日ニューヨークの国連本部で開かれました。日本被団協代表団8人は4月24日~5月1日ニューヨークに滞在し、会議傍聴、国連原爆展オープン、NGOセッションでの発言のほか、日本生協連代表37人と共に集会・パレード・国際会議に参加。国連と各国代表への要請・懇談や市民との交流・証言活動を行ないました(日程別項、2~3面に参加者感想)。
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| 4月26日朝、ニューヨーク公立図書館前での集会のあと国連前まで行進 日本とアメリカのNGOが共に歩きました |
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| 原爆展オープン(4月27日) | NGOセッションで発言する濱住治郎事務局長 (5月1日) 〈写真提供:共同通信社〉 |
原爆展
2005年の再検討会議から5回目となる、国連本部での原爆展は、会議初日の4月27日にオープンしました。午後2時、共催の広島・長崎両市長と主催の日本被団協代表がタイトルパネルの前で挨拶。この展示が会議成功の後押しとなる期待を語りました。
この日の午前10時から始まった会議の冒頭演説で、グテーレス国連事務総長が「勇敢な被爆者たちが、指導者たちにその責任を自覚させるべく、心を揺さぶる展示会を開催している。これは、核戦争がもたらす代償を私たちに思い起こさせる警鐘」であると、原爆展を紹介。ノーベル平和賞受賞にも触れて「彼らが世界に向けて発信するメッセージは、今ほど時宜にかなった、切実なもの」と語りました。
国連側から、ガイドツアーのコースに原爆展を組み込みたいとの申し出があり、ガイドに向けた被爆者の証言と原爆展の説明も行ないました。
会議で発言
会議5日目の5月1日にNGOセッションがあり、32組のNGO代表が発言しました。日本被団協の濱住治郎事務局長がトップを切って発言。発言者が多いため3分と限られた時間を少しオーバーしながら、核兵器は悪魔の兵器で人間とは共存できないこと、核兵器が使われないためにも戦争をやめよ、と力強く訴えました(2面に全文)。
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日本被団協代表団の行動と感想は今号2面のほか次号でも掲載します。
| 4月 | |
| 24日 | ニューヨーク到着、事務局打ち合わせ |
| 25日 | ブルックリン日本語学園で証言 ユースサミットで証言 日本宗平協代表団と懇談 |
| 26日 | NGOパレードに参加 NGO国際シンポジウムに参加、発言 聖ヨハネ大聖堂で証言 |
| 27日 | 再検討会議1日目 国連原爆展開会(6月1日まで)オープニングセレモニー オーストリアのニコラウス・マルシック外務 副大臣と面会 |
| 28日 | 東京大学渡辺研究室イベントに参加 アルバニアの市民活動家リノール・ヤニさんと懇談 ニューヨーク市立大学ラガーディア校で証言 |
| 29日 | 4団体共催サイドイベント「核兵器のない平和な世界へ転換を・国際連帯」に参加・発言 中満泉国連事務次長・軍縮問題担当上級代表の懇談 日本政府代表梅津茂大使と面談 |
| 30日 | スウェーデン反核団体、社会民主党モーガン・ヨハンソン報道官と懇談 国連見学ツアーのガイドのみなさんに証言 サイドイベント「希望の選択:非人道的な影響の視点から考える『拡大抑止』で発言 ロシア政府アンドレイ・ベロウソフ代表団長と面談 再検討会議議長ド・フン・ビエットベトナム大使と懇談 フランス政府代表アン・ラザール・スリー軍縮大使と面談 日本政府代表部・国連共催のレセプションに参加 |
| 5月 | |
| 1日 | 濱住事務局長、NGOセッションで発言 日本キャンペーン生中継配信に出演 6人がニューヨーク出発(2日帰国) |
| 2日 | 2人(濱住、工藤)がニューヨーク出発(3日帰国) |
第11回NPT再検討会議は5月22日閉幕、前回一致による成果文書は採択されませんでした。2015年、2022年につづき3回目の不採択です。中満泉国連事務次長・軍縮担当上級代表は会議3日目の日本被団協との懇談の際「22年も厳しかったが、今回はその10倍厳しい」としながらも「NPTの空洞化を防ぐため何としても成果文書合意をと努力している」と話していました。
日本被団協は23日、核兵器をなくす日本キャンペーンとともに記者会見を開き、濱住治郎事務局長が「非常に残念。核に頼る安全保障を絶対に変えなけれはダメだ」「核兵器は人間と共存できないことをさらに世界に広げたい」と述べました。
4月27日からニューヨークの国連本部で開かれていた第11回NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議が最終日の5月22日、成果文書を採択できないまま閉会しました。当初から、過去2回に続いて最終合意は難しいのではないかとの懸念はありましたが、一縷の望みを託して、戦争のない世界を願う共通理解は表明してほしいと願っていました。
4週間の会期中、ビエット議長(ベトナム大使)は各国と協議を重ね4回も草案を修正しました。にもかかわらず、米国がイランの核開発を非難し、イランは平和利用のためと反発、歩み寄ることはありませんでした。議長は全会一致は不可能だと判断。‘残念’の一言に尽きます。
日本はどのような貢献ができたのでしょうか。かねてから、NPT体制の維持が大事として、核保有国と非核保有国の「橋渡し役」としての外交や、世界中の若者を広島・長崎に招くなど平和教育の実施などを挙げています。しかし、「唯一の戦争被爆国」を自称しながらアメリカの核の傘に依存しているという矛盾を抱えた状態では、何の説得力もありません。
戦争で核兵器を落とされた国、原爆被爆者が存在する国として、多くの語るべき「言葉」を持っているはずなのに、日本はこのままどこへ向かおうとしているのでしょうか。
それでも、日本被団協70年の運動の歴史を水泡に帰すことのないよう、被爆者は決して諦めない。
議長、ならびに各国代表のみなさん、被爆者を代表して発言の機会をいただき感謝します。
私は、広島の胎内被爆者です。1945年8月6日、広島に原爆が投下された時、私は母のお腹の中で3カ月の胎児でした。父は爆心地近くの会社にでかけていました。爆心地から4㎞の我が家には市内にいた親族が避難してきて、その日から30人が一緒に暮らす生活が始まりました。しかし、父親だけが帰ってきませんでした。母と姉たちが捜しに出かけましたが、持ち帰ったのは父のベルトのバックル、鍵束、財布の金具の3つでした。
我が家では避難者が次々に亡くなりました。町は避難者でいっぱいになり、死体が学校の校庭で毎日4~5体ずつ1カ月半も焼かれました。被爆者は人間として死ぬことも生きることもできませんでした。
父の死と引き換えに生かされた私は、父のことを思わない日はありません。戦争は終わっていません。いまだに世界に1万2千発もの核兵器が存在しているからです。ゼロにならなければ安心できないのです。
80年前の原爆投下は、いまも被爆者のからだ、くらし、こころに影響を与えています。原爆は人間と共存できない、悪魔の兵器です。
しかし被爆者は、人間として生きるために原爆に抗って生きてきました。今、国連のロビーで開催している原爆展をぜひご覧ください。
1956年8月10日に結成した日本被団協は、結成宣言「世界への挨拶」で「自らを救うととともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」と誓いました。それから70年、誓いを貫き、「ふたたび被爆者をつくるな」と国の内外で訴えつづけてきました。
NPTは、発効から56年。2000年の再検討会議で皆さんが約束し、2010年に再確認した「保有核兵器の完全な廃棄を達成するとの核兵器国による明確な約束」をすみやかに実行してください。
1982年第2回国連軍縮特別総会。総会議場で長崎の被爆者山口仙二さんが壇上で訴えました。
ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ!
戦争をしたから核兵器が使われたのです。戦争はしてはいけないのです。核兵器も戦争もない世界の人間社会にむけ、ともに力を尽くしましょう。
ありがとうございました。
第11回NPT再検討会議に合わせ4月27日から国連総会議場来訪者ロビーで開かれていた原爆展は、同会議閉幕後も展示を継続し、6月1日に終了しました。
会議参加の各国代表のほか、今回は国連のガイドツアーのコースにも組み込まれ、多くの人に見てもらうことができました。今後の日本国内での展示については、貸し出し方法など決まり次第お知らせします。
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| ニューヨーク市立大学で質問に答える松浦さん(中央) |
忘れ得ぬ出会いが、三つもあった。まず、4月25日のユース・サミットへの案内人のKさんは、「以前に松浦さんにお目にかかった」と言われる。聞いてみると2024年ノーベル平和賞授賞式の時のオスロ大学での私の被爆証言を通訳したとのことで(当時は高校生平和大使の引率者、今はカルフォルニア大学生)、お互い奇遇に驚いた。
26日の集会とデモの日、図書館前で見知らぬ外国人女性に声をかけられた。近くにいる方の説明では、「久しぶりにお会いできて嬉しい」と彼女が言っているとのこと。思い当たるフシがなく、「貴女にはお会いしていない」とその方の通訳で伝えた。すると急にスマホを取り出した。指で操作して出て来た写真を見ると、彼女と私が並んで写っている。驚いたが、背景を見て分かった。昨年11月の南仏での被爆証言ツアーの一コマで、彼女はフランスの平和団体の役員だった。お詫びして再会を喜び合った。
30日のイベントでは、2017年の核兵器禁止条約採択時の議長であったホワイトさんに出遭った。青年期から原水禁運動に関わって来たが、自分の生きている間にあれほど優れた核兵器禁止の条約が成立することは想定していなかったので、私にとって驚天動地の嬉しい出来事だった。
イベント終了後に通訳を伴って近づき、名刺交換の上で条約採択への感謝を通訳から伝えて貰った後に短時間だが歓談し、その挙句に熱烈なハグをしあった。
このように今回は一個人としても歴史的な会合となった。
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| 証言する杉野さん(中央) |
私たち8人の一行は、2026年NPT再検討会議日本被団協代表団として、4月24日羽田を出発しました。
13時間の長いフライトに疲れ切ってJFK空港に到着。ホテルに着き、部屋に入るなり、窓からのあまりにすばらしい景色!! 目の前に国連が飛び込んでその下にはイーストリバーがあり疲れも吹っ飛びました。これから毎日この景色を見てがんばらなくては、と…。
26日はパレードです。横断幕を持ってノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモアウォー、と声を出して行進しました。
27日、国連にて再検討会議傍聴。ベトナムのビエット議長さんの進行で26人の副議長の一人にイランが選ばれると、アメリカとイランの非難の応酬を目のあたりにしました。アメリカ代表がすぐに反対、つづいてフランス、ドイツ、イギリスも反対、この応酬を生で耳にし、目にし、テレビで観るよりはるかに心にズシーンと響きました。
中満上級代表と懇談の機会があり、その中で彼女はビエット議長さんはすばらしい、彼はきっといい結果をもたらすことでしょう、とのことでした。そして被爆者の証言がいかに大切かを言われ、心強く感じました。
議長のビエット・ベトナム国連大使とも面談があり、彼は自国が30年も枯葉剤の影響があり、ずっと目にしてきたと。そして20年前と昨年の2度広島を訪れ、放射能の影響の深刻さにふれ核兵器のない世界に向かってこの会議を成功裡に終わらせたいとのこと。このような若い方が各国の代表となり会議に参加し若い意見を出し合ったらいいなーと思いました。
原爆展会場では、パネルの前でずっと見ている人に、自分の短くした英語での被爆証言(2分くらい)を行ないたく、必死で覚えたつたない英語力でどきどきしながら声をかけトライしました。最初の人にはあがってしまい、3人目くらいから少しずつ上手に(私なりに)なり、私の証言で目に涙をうかべられました。なんとその人は、ICANのスタッフの方でした。次の人も目に涙をためられて、私もうるるとしました。その女性は国連でツアーガイドをされている方でした。とても感動しました。
このような再検討会議に参加でき、すばらしい経験を得たことは私の一生の宝になりました。
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| 原爆展での柚木さん(右) |
2020年4月のNPT派遣が、コロナで3月になってからのドタキャンで中止になり残念な思いで過ごしていました。今回の派遣にも再度推薦していただけありがたく喜んでいましたが、今回はトランプ大統領の破天荒な発言や行動で世界中が不安定な状況になり、アメリカ全土で反対のデモ等が起こっていましたので再度延期になるのではないかと気が休まりませんでした。
今回のニューヨーク行動は、無事にとどこおりなく終了しました。
4月25日ブルックリン日本語学園高等部の25人に証言する杉野さん、前田さんに同行参加させていただきました。土曜日だけの学校で、生徒たちは体も気持ちもアメリカンですが、生徒の皆さんはとても熱心に聞いていましたし杉野さん、前田さんに沢山質問をしていました。
26日、午前中はNGOパレードで、ニューヨーク公立図書館から42番通りを国連に向かって行進をしました。
濱中さんと私は、午後3時から聖ヨハネ大聖堂の会議室で証言をさせていただきました。参加された30名程のシニアの方々の前で、被団協事務局次長の濱中さんと私の証言が終わった後で、聞きたいことや、言いたいことなどを書くメモ用紙を配り回収しましたらたくさんの反応があり、二人で答えましたが、こんな会話ができたことに感謝し、私としては身のある証言活動だったと思っています。
27日はNPT再検討会議1日目、10時からの開会に合わせて代表団全員で傍聴席で見守り、発言を聞きました。
29日の中満泉国連事務次長との懇談では、中満さまが大変な重責を負って活躍されていることに感動いたしました。
会議の傍聴、証言、原爆展の案内や各国の団体との懇談を経験し、濱住さん、松浦さん、濱中さん、杉野さん、前田さんの証言を聞き大変有意義な経験になりました。
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| 原爆展での前田さん(右) |
ニューヨークに到着した夜、被爆2世の私は、国連本部の灯りを見つめながら、翌日から始まるNPT再検討会議の傍聴や原爆展、日本語学園での講話に強い使命感を抱き、世界の人々に被爆2世として生きてきた苦しみや悲しみを伝え、「2度と再び戦争被爆者をつくらないでほしい」と訴えたいと思いました。
原爆展では、日本から持参した私の英訳エッセーを配り、通訳を通して被爆2世としての思いを語り、来場者からは「核兵器廃絶と平和が大事ですね」と声をかけられ、最終日までに100枚すべて配り終え100人の方々と話しました。
ブルックリン日本語学園では、中高生や保護者らに原爆放射能の影響が妹や子や孫にまで及ぶことを語り、核兵器廃絶と戦争反対を訴えました。また、「私は、これまで被爆2世であることを隠して生きてきました。アメリカで初めて公の場で被爆の苦しみを語りました」と言うと、真剣に耳を傾ける学生や涙ぐむ保護者の姿がありました。
国連軍縮担当上級代表の中満泉事務次長との対話では、「今回も合意できなければ条約が名ばかりになってしまう」と危機感を語られ、日本被団協も、合意文書をまとめる重要性を語りました。
ベトナムのド・フン・ビエット国連大使・今会議の議長との対話では、「事実上、軍備管理協定が存在しないという事態で、今、NPT会議こそが我々に残された唯一の希望だ。各国の思い思いの考えを一堂に会し、同じ着地点を見出して、今回こそは会議を終わらせたい」と語られ、私が2世としての話をすると「ベトナムでは枯葉剤の問題で2世、3世にも影響が出ている。がんばってください」と励まされました。
スウェーデン社会民主党の国会議員のモーガン・ヨハンソンさんとの対話では、「私が日本の田舎から来ている被爆2世です」と伝えると「日本の田舎から世界を変えてください」と言葉をいただきました。
私は世界の人々に被爆2世としての悲しみや悩みを話して、核兵器と放射能被害の恐ろしさを訴えることができたことを喜び帰国しました。
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日本被団協結成70年にあたって、私は日本一少ない被爆者組織のひとりとして忘れられない「一場面」を経験したことを思い出します。
それは1960年代、米ソ冷戦が深刻化、国民運動として発展してきた原水爆禁止運動がさまざまな困難をかかえた時期です。ソ連の核実験、63年部分的核実験禁止条約の評価などで内部対立。日本被団協も全国の被爆者組織も分裂の危機にありました。原水協・原水禁の分裂です。運動は大きな試練にさらされました。その中で、66年6月26日、日本被団協第10回総会は広島平和記念会館で開催され、運動のあり方、役員選挙でも対立しました。投票が行なわれ森滝市郎氏が理事長に再選され、この結果で分裂は必至と思われました。私は秋田県被団協代表として参加していて、内心どうなるか、日本被団協はどうなるのかと、頭は混乱していました。
しかし、参加した全国の被爆者の「知恵」はすばらしかった。総会の終わりに、あの「地獄」と悪魔の兵器を被爆者は許すことができるか、私たちは「広島・長崎の同級生」ではないのか、との声があがり全員団結して核兵器廃絶のために闘いましょう、との結論に。分裂は杞憂に終わりました。そして、闘う組織・日本被団協の事務局を、広島市から首都東京に移すことにしました。
今日日本被団協が存在するのも、あの10回総会の意思決定が大きいと思っています。ノーベル平和賞授賞理由も、被爆者のこれまでの声が生きている。被爆者の声が世界の平和運動を励まし国際政治に影響を与えているのも、日本被団協の存在が大きいと思うにつけ、私はあの6月26日の広島を思い出します。
なお、10回総会後、7月17日には「専門委員会」を設置し、10月15日に「つるパンフ」を発行して国家補償の正当性を理論化しました。
日本被団協の団結で70年間、核廃絶の運動を世界に広げてきました。引き続き被爆の実相を世界に訴え継続していきたい。日本被団協運動の平和の理念は永遠である。
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4月19日に新横浜公園で開催されたマラソン大会「よこはまビビチッタ」会場で、日本被団協の「原爆と人間」パネル展示を行ないました。
「ビビチッタ」はイタリア語で「生き生きとした街」という意味です。イタリアスポーツ連盟(UISP)が主催する世界同時マラソンで、横浜では2009年から開催し、東京、大阪、大津市でも開催されています。「平和・すべての人のためのスポーツ活動・都市の住みやすさ・環境・連帯」をテーマに、毎年4月に開催。イタリアでは4月12日に開催され、40都市で3万5千人のランナーが参加しました。
よこはまビビチッタの参加者は34人と少人数ながら、原爆パネル展を中心に平和について語り合い、同時開催のよこはま月例マラソン参加者約千人に「スポーツは平和とともに」というアピールができました。(新日本スポーツ連盟神奈川県ランニングセンター事務局長・佐藤好行)
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認定NPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は、5月9日、東京杉並の同会事務所でこれからの継承を考えるワークショップを開催。昨年のメディア関係者、研究者等に続いて3回目となる今回は、教育関係を焦点に「被爆者たちのたたかいと子どもたちの未来」をテーマに行ないました。
話題提供で、糀谷陽子さん(本会理事、元中学校社会科教員)が「子どもたちに伝えたいこと-中学校の歴史教科書と、日本被団協ノーベル平和賞受賞をうけた文科省『学習指導案』を読む」として、日本被団協の平和賞受賞をうけて作られた文科省の「学習指導案」の参考資料に日本被団協資料が何もないなど、文科省の平和教育に後ろ向きの姿勢、さらに歴史教科書の中の原爆の書かれ方などの報告を通して「ノーモア・ヒバクシャのたたかいに学ぶ」ことを強調しました。
さらに、佐々木孝夫さん(しらさぎ会理事、元中学校社会科教員)から「田中熙巳さんに学ぶ-継承のための学習会」開催の経験から、被爆者たちの原爆とのたたかいから学ぶことの大切さが報告され、会場とオンライン参加合わせて40人以上の討論が続きました。
【問】膝の手術をした際に装具を作り、装具代を支払いました。医師の指示で装具を作った時に医療保険や被爆者手帳が使えないのでしょうか。
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【答】食料品をはじめすべての物価が高騰する中で、負担は大きいと思います。
主治医の指示で装具(コルセット、サポーター、義足など)を作成した場合、一度全額の支払いが必要ですが、申請によって後期高齢者医療と被爆者手帳で償還払いされます。
まず、主治医から装具が必要だという証明書または意見書をもらい、装具を作ったら医療機関や装具業者に全額立て替えて支払いをします。支払い時に業者から領収書と明細書を、必ずもらってください。それらを、お住まいの自治体の担当課に申請書(振込を依頼する口座番号等を忘れずに記入)とともに提出します。申請書類はそれぞれ1通コピーを取っておきましょう。後日、後期高齢者医療から9割(被保険者の負担割合により8割・7割)が償還払いされます。残りの1割(保険の負担割合で2割・3割)については、被爆者健康手帳で請求します。
手続きは、保健所または県の担当課に償還払いの申請書を送ってもらい、記入した申請書に主治医の装具が必要という証明書(または意見書)と領収書等を添付して保健所または県の担当課に提出します。提出後3カ月くらいで指定した口座に振り込まれます。
償還払いの手続きは5年で時効になりますので気を付けてください。地元の被爆者の会の相談員に、手続きの援助をお願いしてみても良いと思います。
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このたび、写真パンフ「HIBAKUSHA」を増刷しました。
日本被団協が海外への実相普及のために作成したパンフレットで、1982年に「日・英・独」3カ国語を1冊にまとめたものを10万部発行。その後それぞれ3カ国語で「日・英・仏」「英・伊・エスペラント」「英・スペイン・ポルトガル」「英・タイ・インドネシア」の版を発行し、全5種類で総発行部数は12万部を超え、約120カ国に普及しています。
ここ数年在庫切れになっていた版がありましたが、このたび増刷しすべての版がそろいました。日本語が入ったものは2種類ですが、英語はすべてに入っています。国内外での実相普及に役立ててください。
B5判、20ページ、モノクロ、厚さ約1・5ミリ。頒価1冊300円(送料別)。お申込みは日本被団協まで。
日本被団協の各種会議や行動の報告です。
| 5月 | |
| 1日 | NPT再検討会議NGOセッション発言 |
| 2・3日 | NPT再検討会議NY行動代表団帰国 |
| 8日 | 署名提出行動(3者(被団協、原水協、原水禁)打ち合わせ・機関紙編集委員会 |
| 11日 | 事務局会議 |
| 13日 | 結成70周年日青協とのコラボ企画打ち合わせ |
| 14日 | 組織情宣部会 |
| 18日 | 70周年式典祝賀会打ち合わせ・NPT行動4団体会議 |
| 19日 | 二世委員会・70周年長崎祝賀会打ち合わせ |
| 23日 | NPT再検討会議終了を受けオンライン記者会見 |
| 25日 | 事務局会議 |
| 27日 | 70周年声明検討会議・超党派核軍縮勉強会 |