1955年4月、広島の下田隆一ら3人が岡本尚一弁護士を代理人として、国を相手に束京地裁に損害賠償とアメリカの原爆投下を国際法違反とすることを求めて訴訟を提起した。
被爆者に対して国が何らの援護も行なわずに放置していた時期のことである。
束京地裁は、1963年12月に判決を言い波した。
判決は、原告の請求を棄却したが、「アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する」とし、「被爆者個人は損害賠償請求権を持たない」が、「国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。それは立法府および内閻の責務である。本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」と述べている。
この裁判は、その後、被爆者援護施策や原水爆禁止連動が前進するための大きな役割を担った。訴訟提起後の1957年に原子爆弾被爆者の医療等に関する法律が制定され、判決後の世論の高まりもあり、1968年9月には原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律が施行されたのである。
1969年3月、広島の被爆者桑原忠男さんが、原爆症認定却下処分の取り消しを求めて提訴(広島地裁)した裁判。1.3キロで被爆した桑原さんは脊椎円錐上部症候群で認定申請をしたが、1973年、広島地裁、1979年には広島高裁は、疾病と被爆との因果関係を認めず敗訴。
1973年5月、広島の被爆者石田明さんが、原爆白内障の認定却下処分の取消を求めて、広島地裁に提訴した裁判。
国は、爆心地から0.7キロで被爆した石田さんが原爆による白内障であることは認めたが、原爆白内障の治療法は水晶体摘出手術しかないと主張。1976年7月の判決では、「白内障の治療は手術だけでなく、点眼薬治療でも有効」とし、石田さんの勝訴となる。この訴訟は「要医療性」が争われた裁判であった。
1988年9月、長崎の爆心地から2.45キロで被爆した松谷英子さんが、「右半身不随麻痺」の認定却下処分の取消を求めて、長崎地裁に提訴した裁判。
1993年5月、長崎地裁は、「原告の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けている」、また「DS86と閾値理論だけで、放射能の影響を否定することは科学的でない」として、原告勝訴の判決。福岡高裁も、1987年11月国の控訴を棄却した。国は上告したが、2000年7月最高裁は上告を棄却して松谷さんは認定された。
1987年10月、広島の爆心地から1.8キロで被爆した小西建夫さんが、京都地裁に提訴した裁判。
小西さんは、被爆直後から原爆ぶらぶら病に苦しみ、白血球減少症と肝機能陳害で認定申請をしたが、却下となる。
1998年12月の京都地裁判決は、「原爆放射能起因性の証明は他の可能性より相対的に高ければよく、却下する場合には明確に他の可能性を示さなければならない」として、二つの疾病とも認定すべきだとした。しかし国は控訴。2000年十一月大阪高裁は、白血球減少症のみを認定すべき、との判決を言渡す。国は控訴を断念して判決が確定した。
一九九九年六月、長崎の爆心地一.三キロで被爆した東京在住の東数男さんが、東京地裁に提訴した裁判。
東さんは一九九四年二月肝臓機能障害で原爆症の認定を申請。当時の厚生省は「C型肝炎である」ことを理由に一九九五年十一月申請を却下。二〇〇四年三月東京地裁で勝訴。国は控訴したが二〇〇五年三月東京高裁は、「肝機能障害が放射線起因性を有するか否かを判断するに当って、原爆放射線被爆したことによって上記疾病が発症するに至った医学的、病理学的機序の証明の有無を直接検討するのではなく、放射線被曝による人体への影響に関する統計的、疫学的な知見を踏まえつつ,被爆状況、被爆後の行動やその後の生活状況、具体的症状や発症に至る経緯、健康診断や検診の結果等を全体的、総合的に考慮した上で、原爆放射線被曝の事実が上記疾病の発生を招来した関係を是認できる高度の蓋然性が認められるか否かを検討することが相当である」と、機械的判断を批判して、勝訴判決を言渡した。国は「最高裁で争うことは困難」として、上告を断念した。しかし、東さんは高裁判決を聞くことなく同年一月死亡。