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原爆被害者の訴え

この文書(88文書)は、日本被団協がSSDIII(第3回国連軍縮特別総会)を前にして、'85年から'86年の調査が明らかにした原爆被害の実相と被爆者の願いを広く海外に知らせるために'88年に作成したものです。

核戦争起こすな、核兵器なくせ!
核戦争被害に対する国家補償制度をつくれ!

(日本被団協海外向け報告・88文書)

はじめに

 広島・長崎の原爆被害は、1945年(昭和20年)8月15日までは、当時の日本政府の戦争遂行政策のために、またその後は米軍の占領政策によって、厳重な秘密のもとにおかれ、その真相はおおい隠されてきました。

 1952年(昭和27年)、日本が主権を回復したあとも、原爆被害者は長い間アメリカからも、日本政府からも、何らの援助も受けませんでした。

 被爆に起因する病弱と貧困と、核兵器の被害についての無知からくる差別・偏見のなかで心身の苦しみにさいなまされ続けた被爆者は、被爆から11年後の1956(昭31)年8月、折りからの原水爆禁止運動の高揚の中で原爆被害者の全国組織「日本被団協」を結成して社会運動を始めました。

 会は結成の当初から、「ノーモア・ヒバクシャ」を唱え、「国による原爆被害者援護法(国家補償法)の制定」と「核兵器完全禁止・廃絶」を中心要求として掲げました。

 この時以来日本被団協は、証言活動によって国の内外に<ヒロシマ・ナガサキ>の実相を広めながら、「ふたたび被爆者をつくらない」ための運動を粘り強く続けています。

 この文書は、37万被爆者を結集する日本被団協からの最近の調査による新しいデータにもとづく報告です。

[I] 被爆者は何を語ろうとするか

 INF条約がもたらした希望については、いろいろ語られています。私たちも同じ意見です。そしてこの成果の基礎には、「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」「ノー・ユーロシマ」を叫びつづけた世界世論の大きな力があったことも明らかです。

 しかし、これで核兵器による脅威が取り除かれたとか、核戦争の危機が遠ざかったと考える人があるならば、私たちははっきり否!というでしょう。

 いまこそ私たちは、過去のいかなる時にも増して、核兵器の廃絶へむかって世界世論を大動員しなければなりません。

 「核戦争おこすな、核兵器なくせ!」世界世論はいまこそいっそう大きな声でこれを叫ばなければなりません。

 人類が体験した唯一の「核戦争地獄」をくぐりぬけた私たち被爆者は核兵器の恐ろしさについて、機会あるごとに訴え続けてきました。しかし、その本当の恐ろしさについて果たしてどれほどのことが知られているでしょうか。

 「核兵器の恐ろしさ」については、何千回、何万回となく語られています。核戦争が起これば人類は滅亡するであろうということも、いまや常識となっています。しかし、実際に核兵器が使われたならば、人間はどのようになるのか、核戦争がもたらすものは人間にとって何なのか−そのことは十分に知られているとはいえません。

 なぜなら、もしもそれが知られているなら、核兵器で戦争を防ごうとか、核兵器で国を守ろうという発想が生まれうる余地はなく、大国がこのような主張をするとき、世論の総反撃が起こるはずです。しかし、現実にはそのようになっていません。最近も(1988年3月)NATO(北大西洋条約機構)が「戦術核兵器の最新の水準での整備」を決定しました。これは大変危険な事態です。

 私たちは、原爆の恐ろしさの真の姿を知ってほしいのです。

 原爆はどのように、どんな意味でおそろしいのでしょうか。

 「熱線、爆風、放射能による巨大な破壊力」「通常火薬の100万倍の威力」「一発で一つの都市を壊滅させる」「何万、何十万の被爆者をつくりだす」− これは、人間の想像を絶する<地獄>をつくりだします。しかし、原爆の恐ろしさは、このような「物理的威力」のすさまじさだけで量りきれるものではありません。

 原爆が使われたとき、人間はどうなるのか、あの人、この人は、あなたは、わたしは、あなたの、わたしの子供たちはどうなるのか、どのような死を死なされ、どのような生を強いられるのでしょうか。あなたはそれを知っていると断言できますか。

 チェルノブイリの原発事故は、核戦争被害の恐ろしさを思い知らせたといわれます。両者はたしかに放射能の底知れぬ恐ろしさの点で共通するものを持っています。しかし、チェルノブイリと<ヒロシマ・ナガサキ>の間には天と地の開きがあるのです。

 前者は過失によるものであるのに対し、後者は明確に意図された殺りく、しかも根絶的な殺りくでした。前者の場合は、不十分ながら消化や救助の手段がとられましたが、後者には全くありませんでした。

 1945(昭和20)年8月、広島と長崎で突発し、43年後の今にいたるまで人間被害を生み続けているあの出来事はどういうものだったのでしょうか。それは人間世界では絶対にあってはならない悪魔の世界の出来事でした。

 人間の尊厳は、あらゆる意味で奪い取られ、人間はもはや殺りくのための対象でしかありませんでした。

 何万という人間が「もの」の次元にまで引き下ろされ、ぼろぼろに打ち砕かれ、なぶりころされ、棄てられました。呼んでも叫んでも、救助の手はさしのべられませんでした。これらの人々は、もだえ苦しみながら焼き殺され、おしつぶされました。そこには、この殺りくを納得させるいかなる大義名分もありませんでした。もっとも屈辱的な死<原爆死>を死なされたこの人たちは、弔ってさえもらえなかったのです。

 その地獄をくぐりぬけて、かろうじて助かった者はどうなったのでしょうか。最初の衝撃はこの人たちに身体的、精神的に大きな傷を負わせ、一生逃れられない苦痛を植えつけました。そのような生のありようとはどんなものなのか。この人たちの見た<地獄>はどんなものであったか。それを語るのが<被爆者>、すなわちヒロシマ・ナガサキの生き残りなのです。

 世界中のいく10億の人々が、ヒロシマ・ナガサキの原爆の実相を知ったなら、世論はかならず核兵器を一発残らず地球上から追放する大きな力となる、そう被爆者は信じています。

[II] 被爆者の死と生

−<原爆>の反人間性−

 日本被団協は、1985(昭和60)年秋から86年春にかけて「原爆被害者調査」を実施しました。調査の対象は被爆者総数 365,925人(’86.3.31 政府登録による)のうち、13,169人と、この人々によって報告された原爆死没者12,726人です。  この調査は、1977年のNGO被爆問題国際シンポジウムの時の調査をしのぐ規模と内容をもつものとなりました。 以下、この調査(85/86調査)にあらわれた原爆の反人間性について、そのあらましを報告します。

1.<むごい死>

   (1)「あの日」の死

  • 「あの日」(1945年8月6日広島、9日長崎)の死者の65%は、9才以下のこども(18%)、10〜59才の女(39%)と60才以上の年寄り(8%)でした。 これらの人たちの大半(60%以上)は、逃げるいとまもなく倒壊家屋の下敷きとなり、助け出されるすべもなく、火に焼かれました。
    原爆は、都市の機能のすべてを完全に破壊しました。組織的な防災・救助活動はまったく不可能でした。
  • 原爆の破壊と殺りくの姿は、まさに「絶滅主義」を具現したものというべきで、それは、人間にとっての極限状況をもたらしました。その状況の中では、人々は、肉親さえも火の中に残して逃げるよりほかはありませんでした。
    「その時私は、もう人間ではなくなっていた」という思いを今に残し、心の傷に苦しむ被爆者は決して少なくありません。全体の23%が心の傷を訴えています。
  • 家族に看取られながら死ぬことのできた死者は全体の4%にすぎず、42%は今日にいたるまで行方不明のままです。遺族にはその死を確かめるすべもなく、彼らの死を受け入れることができません。
    遺族は、その最期のときをさまざまに想像して苦しんでいます。
  • 「あの日」の死のむごかったこと、それは、もはや、人間としての死と呼ぶことができないものでした。それは人間の想像と表現を越えたものでした。
    「ちぎれたような、半分首だけあるような死体だの、手足のもげたような死体だの」(証言A)「自転車にかけたままの真っ黒いかたまり。まさか人間だとは思いませんでした」(証言B)。
    それらは、生存者に<モノとしての死>のイメージを残したのでした。
  •    (2)それからの死

  • 「あの日」以後も死者はばたばたとつづき、8月末までには、急性原爆症が死因の60%を占めるにいたりました。
    この間、人々は自分の周りの人がつぎつぎに死んでいくのを見つめながら、今度は自分の番ではないかという<死の恐怖>に襲われました。そして、その恐怖に苛まれながら死んでいったのでした。
  • 1946年(昭21)以降の被爆者の死の90%について、遺族はそれが原爆と関係があるのではないか、すなわち<遅れた原爆死>であるという疑いを抱いています。
    1955年(昭30)以降急増した「白血病、癌」が原爆と関係があることは、疫学的に証明されていますが、そうだとすれば、その他の病気も原爆と無関係であるとは言い切れないからです。ましてその症状が被爆当時に見られたものと共通する場合、原爆症ではないかという疑いは容易に確信となるのです。
  • 死者の90%以上は、亡くなるまでに苦しみに苦しみぬいたあげく、<遅れた原爆死>をとげました。
    「病気との闘いの日々であった」もの 29%。「被爆を境に身体が弱くなった」とするもの 23%。「原爆症の不安・恐怖におびえて」いたというもの 9%、などが報告されています。

2.<むごい生>

  • 死者の亡くなるまでの苦しみは、そのまま、生存被爆者の苦しみを示すものにほかなりません。
    生存被爆者にとっての苦しみの最大のものは、「具合が悪くなると、被爆のせいでは−と気になる」(62%)、「いつ発病するかわからないので不安」(52%)など、健康にかかわる不安です。その他には、生活の不安、子や孫の健康、将来にかかわる不安があり、被爆者の74%が、このような不安に苛まれています。
  • 被爆者であるための<不安>は、急性症状のあった被爆者の場合は87%にみられます。
    急性症状のなかった被爆者の場合でも、不安の大きさに差はありますが、58%にそれがみとめられます。いずれの場合も、放射線を浴びた可能性、ないし蓋然性を否定することができないからです。
    ここからして、被爆者の<不安>には客観的な根拠があることが分かります。つまり、<不安>そのものが原爆被害なのです。
  • 自分が目撃した原爆死没者の死が<遅れた原爆死>であったという疑いから、生存者が、<遅れてくる原爆死>の不安におびやかされるということが容易に起こります。癌が原爆症の象徴となった今日では、それは<死の恐怖>を伴っています。
    戦争が終わって40年も経った今なお、被爆者は<遅れてくる原爆死>の恐怖におののきながら生きているのです。
  • 上にみたような生を強いられた被爆者の中に、ついには<生きようとする意志>を打ち砕かれ、<生きる意欲>を喪失するにいたるものが出てきたとしても、不思議ではありません。この喪失体験をもつもの(自殺を考えたり、死にたいと思ったことのあるもの)は、生存被爆者の25%、4人に1人にのぼっています。
    事実、13000余の回答者が報告する身内の原爆死没者12700余例のなかには、自殺したもの47人がふくまれています。
    病気とのたたかいの日々が長く続き(38%)、それが死の恐怖を伴い(11%)、直る見込みがないという絶望(29%)に陥る場合、<生きる意欲>を失うとしても、当然でしょう。

3.被爆者のたたかい

  • 以上のべたように、<原爆>は、「絶滅」「根絶」を目的とした、もっとも残忍な兵器であり、人を逃れようのない「地獄」に陥れて否人間化し、生き残ったものからは<生きる意欲>を失わせます。     それは、人間の限界を超えた犠牲を強い、人間としていきることも、人間として死ぬことも許しません。その意味で<原爆>は、もっとも反人間的な兵器であると言わざるをえません。
  • 被爆者にとって、「生きる」道はただ一つしかありません。それは、<生きようとする意志>を打ち砕こうとする力とたたかうことであり、<抵抗>することです。
    そのたたかいを支えるもの(生きる支え)として被爆者が挙げているものの一つは、「家族に囲まれ、安定した生活を営むこと」(43%)であり、いま一つは、「援護法(補償法)制定と核兵器廃絶のために努力すること」(35%)です。
    被爆者が身をもって体験した「地獄」の苦しみを二度と誰も味わわせない、そのための運動こそ、原爆がもたらした<むごい死>と<むごい生>に意味をあたえる唯一の道なのです。

[III] 被爆者は何を要求するのか

 原爆は、どんな理由によっても、人間として決して許すことのできない絶対悪の兵器であり、一日たりとも人間と共存できません。人間であろうとするものはこれと戦わなければなりません。

 核兵器の廃絶と核戦争犠牲者への国家補償制度の確立は、原爆犠牲者が自らの苦しみの体験から引きだした結論であり、被爆者の人間回復の道なのです。この道はこれまでも決して平坦な道ではありませんでしたが、これからも長くつづく苦難の道でありましょう。

 私たちの、日本政府、アメリカ政府、およびすべての核保有国に対する要求はつぎの通りです。

日本政府に対する要求

1)ふたたび被爆者をつくらないために「国家補償の原爆被害者援護法」をすぐ制定すること。
2)核戦争被害国として、広島・長崎の原爆被害の実相を究明し、広く国の内外に伝えること。
3)非核三原則を法制化するとともに、非核国家宣言をおこない、トマホーク、SS20など、日本および日本の周辺に配備された核兵器と書く基地・核戦争関連施設を直ちに撤去 させること。どの国の「核の傘」にも入らぬこと。
4)すべての核兵器保有国に対して、直ちに核兵器完全禁止条約を結ぶよう働きかけること。
5)アジア・太平洋非核地帯の実現に努力すること。

アメリカ政府に対する要求

1)広島・長崎への原爆投下が人道に反し、国際法に違反することを認め、被爆者に謝罪すること。
 その証しとして、まず自国の核兵器をすて、核兵器廃絶へ主導的な役割を果たすこと。
2)トマホークなど、一切の核兵器を日本に配備しないこと。核基地・核戦争関連施設を直ちに撤去すること。
3)核軍拡競争を宇宙空間まで拡大するスターウオーズ計画(SDI)を放棄すること。

米・ソおよびすべての核保有国に対する要求

1)ヒロシマ・ナガサキに目をそそぎ、被爆者の声に耳を傾け、核戦争被害の実相を自国民に知らせること。
2)核兵器完全禁止条約を直ちに結ぶこと。
3)自国および他国に配備された核兵器と核戦争関連施設を直ちに撤去すること。
4)核軍拡競争の土台となっているすべての軍事同盟を解消すること。
 (詳細は、「原爆被害者の基本要求」を参照してください。)

この要求をかかげての30年をこえる努力によって被爆者は日本政府から若干の福祉措置を引き出しましたが、国はいまだに被爆者の要求する補償法(原爆被害者援護法)の制定を拒んでいます。

 日本政府は、被爆者の願いに耳を貸さず、アメリカの核軍備政策に加担しているだけでなく、1980年(昭55)、「戦争という−−非常事態のもとにおいては、国民が−−何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、−−すべての国民がひとしく受忍しなければならない」として、原爆の被害も<受忍>すべきであるという見解を表明しました。(いわゆる「基本懇」(原爆被爆者対策基本問題懇談会)意見書によるものです。)

 アメリカもまた原爆投下行為について、謝罪さえしていません。

 生き証人としての証言活動は、核兵器廃絶の世論形成に大きくあずかったとはいえ、世界中の核兵器は増え続け、あらたな核保有国も生まれようとしています。このことは被爆者の苦痛をいっそう耐えがたいものにしています。

 私たちの要求はすべて、「ふたたび被爆者をつくるな」そのための確実な保証体制と制度をつくれ、という願望に収れんされるものであり、単に原爆犠牲者の救済のためだけでなく、世界諸国民を核戦争から守るためにも、普遍的立法原理とならなければならないものであると信じます。

 核戦争の危険が存在する限り、世界に核兵器が一発でもあるかぎり、被爆者は叫びつづけるでしょう。

 「核戦争おこすな、核兵器なくせ」「原爆被害者援護法をいますぐに」

 このような立場から私たちは、国連と加盟諸国に対して要求します。

1)核戦争阻止、核兵器完全禁止・廃絶が、今日もっとも差し迫った最重要の課題であることを確認し、これを一日も早く達成すること。
 直ちに核兵器完全禁止・廃絶の国際協定を締結すること。
2)広島・長崎の原爆被害について、被爆者らの証言や記録に基づいて、今日の視点に立った正確な情報をまとめ、これを世界のすみずみに普及すること。
3)国連はSSDVに際し被爆者の訴えを直接聴く機会をつくること。とくに日本被団協の代表に、全体会議で発言させること。
4)各国政府は、被爆者を招待し、ひろく国民に彼らの話を聞かせる機会を作ること。
5)政府組織、非政府組織を通じて、この文書をひろく普及すること。

1988年4月
日本原水爆被害者団体協議会