日本被団協国際活動の50年

はじめに

核戦争の危機を越えて 
 「ヒロシマ・ナガサキ」から60年余、幾たびか全面核戦争=人類絶滅の危機があったといわれている。アメリカの著名な平和活動家で政治学者のジョゼフ・ガーソンは、その著『ヒロシマの目で』(1995年刊)の中でこの点に触れ、この50年間にアメリカが核兵器の使用をほのめかして威嚇したケースを25例あげている。朝鮮戦争、ベトナム戦争、キューバ危機、ベルリン封鎖危機、中東戦争、イラク戦争、…これらの危機のたびに被爆者は、地球と人類の終焉の予感に震え上がり、「ふたたび核兵器を使うな、使わせるな」「核戦争おこすな、核兵器なくせ!」と、力の限り訴えた。
 被爆者は、傷む身体に鞭打ち、なけなしの私財を投じ、無数の人々の寄付に支えられて世界をかけめぐり、ヒロシマ・ナガサキの体験を語り、力の限り核兵器の恐ろしさ、残酷さを語り広げた。「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」「ノー・ユーロシマ」が人類の共通語となった。2005年のNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議のなかでは「NIHON HIDANKYO」の名が翻訳でなく、日本語のまま国連総会議場に繰り返し語られた。

日本被団協と国際活動
 日本被団協の国際活動は、結成と同時に始まる。被団協結成宣言(「世界への挨拶」1956年8月10日、長崎)が、その第一歩である。「宣言」は、タイトルが示すように「世界」の人々への呼びかけであり、全人類的な視野にたった核兵器廃絶の訴えである。そこには、みずからの痛苦の「体験をとおして人類の危機を救おう」という被爆者の決意、「核兵器のない世界」への悲願が込められている。
 日本被団協は、都道府県の被爆者組織をもって構成する国内団体であるが、その目標は、「世界のどこにも二度と被爆者をつくるな」「核兵器のない世界をつくろう」という世界的=人類史的課題である。したがってその運動は結成の当初から、国際的性格を本質的にもっていた。国際活動は、単に諸活動の一つというにとどまらず、日本被団協運動の核心部分をなしている。

国際活動50年の流れ 
 結成から50年、日本被団協は世界各地へ被爆者代表を送り、核兵器の使用がもたらす残酷きわまる人間被害の実相を語り広げること、被爆者の証言を外国語に翻訳し被害の映像とともに広く世界に頒布すること、に力をつくした。
 草創期から60年代初めの被団協は、組織も弱体で人力も財力も乏しく、海外への代表派遣はさまざまな平和運動・市民運動に支えられてはじめて可能だった。60年代半ばから始まった原水爆禁止運動の混乱は、被団協の国際活動にも大きな影を落とし、日本被団協は組織の統一を守ることに多くのエネルギーを費やすこととなり、被爆者は口を閉ざしがちになった。
 困難を克服するきっかけとなったのは、被団協が積極的にかかわった77年の国連NGO主催「被爆問題国際シンポジウム」(通称「77シンポ」)だった。日本被団協は組織をあげてこれに取り組み、困難を乗り越えて成功させ、同時に被爆者組織の団結強化と活性化をなしとげた。「77シンポ」とそれにつづくSSDT(初の国連軍縮特別総会、78年)、SSDU(82年)は、被団協の国際活動50年のちょうど中間点にあって、活動の質と量において特筆すべきものとなった。
 その後、被爆者の高齢化にともなって活動は量的に次第に縮小する傾向にあるが、それでもSSDV(88年)、被爆45年(90年)、同50年(95年)国際司法裁判所での各国意見陳述の傍聴、ハーグ世界市民平和会議(96年)、NPT再検討会議とミレニアム・フォーラム(2000年)、被爆60年・NPT再検討会議(05年)という節目の年には、日本被団協は大規模な国際遊説団の派遣をはじめ、国際会議や国連原爆展など、自他ともにおどろくほど精力的な活動を展開して、核兵器廃絶の世界世論を広めるため活躍した。
 高齢化、病弱化に抗してのたゆまぬ活動は、世界の平和運動の注目するところとなり、四度にわたり(85、95、01、05年)ノーベル平和賞の候補にノミネートされる光栄に浴した。とりわけ、05年の同賞授与式にあたっては、ノーベル委員会委員長ウーレ・ダンボルト・ミエスが授賞演説の中で特別に日本被団協の名をあげ、その活動に敬意を表するとの異例のコメントを行なった。被団協の不屈の平和活動が十分受賞に比肩しうるものとして、権威ある国際的評価を与えたものだった。

第一章 草創期の国際活動

「世界への挨拶」からはじまる海外遊説、代表派遣と国際交流
 被団協の国際活動の歴史は、1956年8月10日、結成の日までさかのぼることができる。日本被団協結成総会の表題は「世界への挨拶」となっており、この文章の起草と発表そのものが、最初の国際活動だった。それから半世紀、私たちはこの宣言のとおり、国の内外に被爆の体験と原爆被害の実相を語り広げることに力をつくしてきた。

日本被団協結成以前[胎動期]
 1954年のアメリカによるビキニ水爆実験とマグロ漁船第五福竜丸の被災を契機に、一挙に噴き上げた原水爆禁止の国民的な運動の中で、それまでごく少数の先駆者を例外として、固く口を閉ざしていた被爆者がいっせいに体験を語り始めた。
 日本被団協結成(56年8月)に先立つ55年3月、広島の日詰忍と長崎の居原貴久江の二人がイギリスを訪問し、一瞬にして数十万の市民を「地獄」の劫火に投げ込んでなぶり殺した原爆の恐ろしさとみずからの被爆体験を語り、原水爆禁止を訴えた。その年7月、スイスのローザンヌで開かれた世界母親大会には、長崎の山口美代子が参加し、苦しさのあまり鉄道自殺を試みた体験と、原爆がもたらした地獄のすさまじさについて、証言した。
 55年8月、広島で開かれた初の原水爆禁止世界大会に参集した14カ国52人の海外代表の前で、広島の被爆者・高橋昭博、長崎の山口美佐子、辻幸江が、被爆の体験と原爆地獄の恐怖を語った。聞くほうも初めて、語るほうも初めて、会場は涙と怒り、共感と感動の渦に湧き上がった。
 世界は、ヒロシマ・ナガサキの大虐殺のすさまじさを生き証人の口から聞き、核兵器の恐ろしさを初めて身にしみて知った。こうして始まった被爆者の証言活動は、つねに聴衆を興奮と感動の渦に巻き込み、「核戦争おこすな、核兵器なくせ」の世論をつくり上げるうえに大きく貢献した。

日本被団協結成から60年代初頭
 56年8月、被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成された。日本被団協は当初から、国民的な平和・原水爆禁止運動に支えられて、国際会議などへの代表派遣と海外遊説活動に大きな力を注いだ。
 結成翌年の57年には、代表委員・杉本亀吉が日本原水協の国民使節団に参加、ソ連、中国、モンゴルを訪問した。また同年8月、代表委員・森瀧市郎がイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア遊説を行なうなどの国際活動を展開した。
 58年3月、日本被団協は、村戸由子をストックホルムでの第7回世界青年学生平和友好祭)へ送り出し、11月、ジュネーブで開かれた米・英・ソ核実験反対国際会議へ河本佐知子(広島)を派遣した。河本は会議のあとスイス、ドイツで遊説活動を行なった。
 61年には、2月から3月にかけて、山口仙二(長崎)がデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、イタリア、オーストリア、ドイツの9カ国を歴訪し、各地で精力的に証言した。山口は体調不良の中で強行したこの遊説の途上で下痢、高熱を発し急きょ帰国、入院した。3月には吉川清(広島)が日本原水協の国際遊説団東南アジア班としてインドネシア・バンドンでの第2回アジア・アフリカ平和会議に参加したあと、インド、スリランカを訪ねて証言、遊説活動を行なった。
 これらの活動で被爆者の訴えは、10年余にわたって隠されてきた核兵器の恐ろしさ、その被害の残虐さを世界に知らせるうえで、大きな力となった。
 60年代半ばから70年代初めまで、日本の平和運動の内部に生じた複雑な事情のために、日本被団協としての代表派遣は困難となったが、被爆者はそうした困難を克服して各種の平和組織に加わって海外遊説、実相普及活動に力をつくした。

  
第二章 77年「NGO被爆問題国際シンポジウム」(1974〜77年)

 1977年「被爆問題国際シンポジウム」は、日本被団協の国際活動に飛躍的発展をもたらす決定的な契機となった。

1 小佐々代表委員にメッセージ託す

国連にイニシアチブ要請
 1974年11月、原水爆禁止日本協議会は国連へ代表団を派遣、原爆の被害と被爆者の実情についての報告書を提出。核兵器廃絶の国際条約締結の努力を求め、被爆の実相について国連のイニシアチブで調査研究を行なうよう訴えた。この代表団に、日本被団協の代表委員・小佐々八郎も加わっていた。日本被団協は小佐々に国連へのメッセージを託し、国連当局に原爆被害の実相解明のための調査・研究の作業を求めた。
 翌75年11月には、「核兵器全面禁止国際条約締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団」第一次代表団が派遣されることになり、日本被団協を代表して代表委員・行宗一が参加、つづいて76年10月には第二次代表団が派遣され、日本被団協事務局長・伊東壮が、それぞれ団の代表委員の一人として参加、国連を訪問した。これらの代表団には全国から被爆者が参加した。代表団は、「広島・長崎の原爆被害とその後遺―国連事務総長への報告」などを提出、原爆被爆の実相と被爆者の実情について専門家の手による国際シンポジウムを日本で開くことなどを要請した。
 当時アメリカは、広島・長崎の原爆投下の被害規模を、ドレスデンや東京大空襲と比較して、意図的に小さいもののように宣伝し、放射線による後障害に苦しんでいる被爆者の存在を無視したり否定したりしていた。国連も、国連加盟の諸国も、原爆による死傷者数など原爆被害の実態について、67年のウ・タント事務総長報告以上のことを把握していなかった。
 また、米、ソ、英、仏、中の核保有国は、自国の核実験による被害もふくめて、核兵器による被害を故意に隠蔽して核軍拡競争に狂奔していた。多くの被爆者が参加した国民代表団はこの状況を打開し、核兵器廃絶の国際世論をつくりあげるために、広島・長崎の真実の姿を世界に明らかにする必要を痛感し、国連に原爆被害の調査研究を訴えたのである。

2 「77シンポ」開く

国連がNGOに委嘱して
国連は、日本代表団の要請に応えて、ECOSOC(国連経済社会理事会)の諮問を受ける国連NGO(非政府組織)に原爆被害の調査研究を委嘱した。NGOの一つ、ジュネーブのNGO軍縮特別委員会がこの問題を引き受け、77年夏に日本で「原爆被害とその後遺および被爆者の実情に関する国際シンポジウム」を開くことを決定した。

準備委員会が発足
 76年10月2日、日本被団協、日本科学者会議、全日本民医連、国連派遣実行委員会の四団体が世話団体となり「日本準備委員会」の組織化をすすめ、12月被爆問題国際シンポジウム日本準備委員会がつくられた。77年1月、ジュネーブの国際平和ビューロー(IPB)の全面協力のもとに国際準備委員会が発足、急ピッチで作業が始まった。
 被爆問題国際シンポジウム開催が決まると、77年2月、上代たの、中野好夫、藤井日達、三宅泰夫、吉野源三郎の五氏による、原水爆禁止運動の統一を求める「アピール」が発表され、4月には「被爆問題国際シンポジウム推進団体連絡会議」が結成された。連絡会議には、日本被団協をはじめ、日本生協連、日青協、全地婦連、主婦連などの労組、宗教者、研究者の団体が広範に参加、国際シンポジウムを共同で開催・推進しようとの動きが進んだ。

グループごとに準備作業
 医師、自然科学者、社会科学者、調査員らの協同によるグループごとの作業が開始され、日本被団協は組織をあげて被爆者の実態調査に取り組み、国際シンポジウム成功のために尽力した。
 77年調査は、資料の収集・検討、アンケートおよび聞きとりによって行なわれた。専門家と被爆者を、多数の平和運動家と市民が支え、三者の協力で作業書の作成がすすめられた。

国際シンポジウム第二ステージ
 国際シンポジウムは、三つのステージ(段階)にわたって開催された。
 日本被団協の調査研究の成果は、第一ステージで海外研究者を交えてまとめられ、第二ステージに持ち込まれた。
 第二ステージは77年7月31日〜8月2日、広島市医師会館で開催された。ノーベル平和賞受賞者フィリップ・ノエル=ベーカー、同ショーン・マクブライド(国際平和ビューロー)をはじめとして、アーサー・ブース(国際平和ビューロー)、フランク・バーナビー(英・ストックホルム国際平和研究所)、ジョセフ・ロートブラット(英・セントバーソロミュー医大病院)、ジョージ・ウォールド(米・ハーバード大学)、ペギー・ダフ(軍縮と平和のための国際連合)、飯島宗一、草野信男ら、内外の著名な科学者、医師、平和研究家が一堂に会した。
 第二ステージは、第一ステージの成果をふまえて、原爆の残虐性、反人間性を暴き、被爆の瞬間から生涯の終わりまで絶えることのない被爆者の苦しみを明らかにすると同時に、核兵器完全禁止・廃絶をめざしてたたかう被爆者の姿を世界に示した。  伊東壮(社会学、日本被団協事務局長)は、原爆の残虐さ、被害の重大さ、深刻さについて報告を行ない、聴衆に大きな感銘を与えた。下江武介(広島)、伊藤サカエ(広島)、小林ヒロ(長崎)ら多くの被爆者が会場からみずからの生々しい体験を報告し、シンポジウムをいっそう充実させた。
 8月2日、第二ステージの閉会総会で、NGO国際シンポジウム宣言「生か忘却か ヒロシマ・ナガサキのヒバクシャから全世界のヒバクシャに訴える」がノエル=ベーカー卿によって読み上げられた。
 シンポジウムを通して「ヒバクシャ」という言葉が多く語られたが、「宣言」にはヒバクシャがHIBAKUSHAと記され、これ以後「ヒバクシャ」は世界共通語として使われるようになる。

第三ステージ 大衆集会
 8月5日、シンポジウムの締めくくりとして、広島ラリー(大衆集会)が開催された。集会には13年ぶりに統一して開かれた原水爆禁止世界大会参加の日本各地からの代表および広島市民をふくめ、約7000人が参加した。国際側を代表してA・ブース、M・ドブロシェルスキ、S・マックブライドが、日本側からは庄野直美らが、第二ステージの成果を報告した。8日、長崎ラリーが約3000人の参加で開催され、宣言がA・ブースによって発表された。

シンポジウム後の経過と影響
 シンポジウムで配布された報告資料は、ただちに各国政府、研究機関、平和組織などに送られ、英『ニュー・サイエンティスト』誌、米『ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ』誌など多くが取り上げた。
 翌78年2月からジュネーブの欧州国連本部で開かれた「NGO軍縮国際会議」には、シンポジウムの英文サマリー(A4判、28ページ)1000部を全出席者に配った。こうしてシンポジウムの成果は世界の平和勢力の共通財産になった。
 シンポジウムの英文報告書『“A Call from Hibakusha of Hiroshima and Nagasaki,” Proceedings : International Symposium on the Damage and Aftereffects of the Atomic Bombing of Hiroshima and Nagasaki』(日本準備委員会・編)は78年5月に完成し、SSDT(国連軍縮特別総会)日本代表団を通じて国連の主な役員、各国代表部に届けられ、討議に反映されることとなった。日本語版の『被爆の実相と被爆者の実情 1977NGO被爆問題シンポジウム報告書』(日本準備委員会編集、朝日イブニングニュース社)は、78年9月に発行された。

第三章 ジュネーブ会議とSSDT(1978〜79年)

1 国際活動の新たな広がり

日本被団協に国際部門
 NGO被爆問題国際シンポジウム(77シンポ)は、広島・長崎の被爆の実態と被爆者の実情をはじめて科学的な根拠にもとづいて世界に知らせる画期となった。日本被団協と被爆者の存在、その役割を世界の人々に示す契機ともなった。第1回国連軍縮特別総会(SSDT)をひかえて、とくにヨーロッパ各国から被爆者派遣の要請が増え、被団協の国際活動の舞台は大きく広がった。この年、日本被団協にはじめて国際担当部門がおかれ、専門委員・小西悟が担当者となった。

2 ジュネーブNGO軍縮会議

渡辺千恵子・車いすの訴え
 1978年2月28日〜3月3日に開かれたジュネーブNGO軍縮国際会議には、被爆者9人(日本被団協から代表理事・前田敏夫ら7人、他団体から2人)が参加し、被爆の実相と被爆者のたたかいについて、報告した。
 とくに、車いすで参加した渡辺千恵子(長崎)は開会総会に登壇、その切々とした訴えは世界各地から集まった平和活動家たちの胸を強くうち、会議の討論を核兵器廃絶へ方向づけるうえに大きな力となった。会議のあと、被爆者らは他の代表といっしょに6つのコースに分かれ、1週間にわたってスイス、ドイツ、スウェーデン、ノルウェー、ユーゴスラビア、ルーマニア、イギリスの諸都市を遊説した。

3 SSDT

41人の代表団
 78年5月23日〜6月30日、初の国連軍縮特別総会(SSDT)が開かれることとなり、ようやく「軍縮」へ希望の光がさし始めた。NGO被爆問題国際シンポジウムの成功のうえに、原水爆禁止世界大会を主催した原水爆禁止統一実行委員会は、77年11月7日、SSDTへの国民代表団の派遣、国連の核兵器完全禁止を要請する署名運動推進を決め、11月15日には署名運動推進連絡会議を結成した。
 日本被団協は、代表委員・桧垣益人を団長に、41人の代表団を国連へ送った。一行は、SSDT開催中の日本代表団のすべての行動に参加し、原爆被害の実相を証言し核兵器廃絶を要請した。

大通りを埋めた行進
 日本代表団の行動日程以外にも、自発的に学校訪問や街頭での被爆者の絵の展示などを企画して、アメリカ市民に直接訴えた。国連事務総長への要請、各国の国連代表部要請、街頭署名、各種集会参加など、多彩な行動を展開し、至るところで被爆の実相を語り、核兵器廃絶を訴えた。
 5月26日にニューヨークで行なわれたデモの先頭を行く老いた被爆者たちの姿、英語のできない被爆者が通行中の市民相手に身ぶり手ぶりで必死に伝えようとする姿は、日本から参加した他団体の代表をふくめて、人々に衝撃と感銘をあたえた。  ニューヨーク行動を終えた代表団は、6班に分かれ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど、米国内諸都市を遊説し、市民への訴えを行なった。

第四章 SSDUから被爆40年行動へ(1980〜85年)
 

1 ヨーロッパに反核の大波

SSDTの影響
 77年被爆問題国際シンポジウムとSSDTは、世界の反核平和運動に大きなはずみをあたえ、1980年代に入ると、ヨーロッパ、アメリカの至るところで大規模な反核、反基地行動がくり広げられた。

ヨーロッパに戦域核配備
 81年4月、NATO国防相会議(核計画グループ)は、アメリカの中距離ミサイル=パーシングUと巡航ミサイルを83年にヨーロッパに中距離ミサイル=SS20配備を進めた。突如ヨーロッパ諸国民の間に、核兵器による戦争、ヨーロッパ全土壊滅の危険が間近に迫っているという危機感が生まれた。82年6月に開かれることになっていた第2回国連軍縮特別総会(SSDU)が近づいたことも、ヨーロッパ、アメリカの反核運動に火をつけるきっかけとなった。「ノー・ユーロシマ」(ヨーロッパ全土をヒロシマにするな!)が合言葉になった。

被爆者派遣要請が殺到
 これらの地域では、「広島・長崎の生き証人の口から直接原爆の恐ろしさを聞こう」という要求がたかまり、代表派遣の要請が殺到するようになった。日本被団協は、要請に応えて精力的に代表団、語り部を送り出した。
 80年代の初めから半ばにかけて、被団協の国際活動は、主なものだけでも枚挙にいとまがない。なかでも、中央相談所理事長・肥田舜太郎の東奔西走、八面六臂の活躍は国際的に注目をあびた。
 肥田、山口仙二(長崎)、小西悟、土田康(神奈川)ら多くの被爆者とともに、池田眞規(弁護士)ら多数の支援者、後援者が海外遊説に参加した。

2 『HIBAKUSHA』写真パンフの大量発行・普及

SSDUに向けて発行
 大規模な海外遊説活動とならんで、SSDU(第2回国連軍縮特別総会)にあたって日本被団協が発行した写真パンフ『HIBAKUSHA』の大量普及が、被爆の実相普及に重要な役割を果たし、この時期のヨーロッパ、アメリカの草の根の反核平和運動のめざましい高揚に大きく貢献した。

「核軍縮」を乗り越えて
 この時期、ヨーロッパ・アメリカの平和運動の中では、東西両陣営の核兵器の均衡、せいぜい「核軍縮」が当面の課題であるとし、「核兵器完全禁止」や「廃絶」を空論とみなす風潮が支配的だった。これにたいし日本被団協は、核兵器が人類と共存できないこと、緊急に「廃絶」しなければならないものであることを、ヒロシマ・ナガサキの実相と生の体験を通して訴え、理論的にも実践的にも世界の平和運動に大きな影響をあたえた。

ジュネーブから欧州各地へ
 SSDUに国際NGOの意見を反映させるため、1982年ジュネーブでNGO軍縮特別委員会のシンポジウムが開かれた(3月31日〜4月2日)。
 このシンポジウムに事務局次長・斉藤義雄と国際部長・小西悟が参加し、二つの分科会で被団協からの報告を行ない、注目をあびた。会議の進行に大きな影響力をもっていた世界平和評議会の関係者らは、ややもすればソ連の核武装を擁護する立場をとっていた。これにたいして2人は、核兵器の恐ろしさ、非人道性を事実と体験にもとづいて語り、すべての核兵器の廃絶が緊急の課題であることを訴えて、ソ連擁護派の主張を真っ向から批判した。
 会議のあと2人は、スイス、北イタリア、ドイツ各地を遊説し、ドイツでは「イースター平和行進」に参加した。この遊説活動は、新型核兵器パーシングU、クルーズ(巡航)ミサイルの配備問題で敏感に立ち上がったヨーロッパ各国の市民たちから、熱狂的な歓迎をうけた。

3 SSDU

41人の代表を送る
 82年6月7日〜7月10日、第2回国連軍縮特別総会がニューヨークで開かれた。日本被団協は、多くの市民団体、平和団体など広範な各界各層を網羅した1200人を超える日本代表団の一翼を担って、代表委員・伊東壮、同・山口仙二、相談所理事長・肥田舜太郎、専門委員・岩佐幹三をふくむ41人の代表団を送った。
 日本出発を前に、日本代表団の入国申請にたいしてアメリカ政府の強力な妨害が入り、入国ビザが発行されない代表が続出した。日本被団協の代表は全員ビザを取得できたが、入国審査もきびしく、一人ひとり別室でさまざまな質問を含む審査を受けた。全員が持参した『HIBAKUSHA』写真パンフも関税の対象になるとして、きびしく説明を求められた。入国できなかった代表はカナダやドイツなどに行き先を変更し、これらの国の反核行動に参加した。

感動呼んだ被団協代表団
 ニューヨーク入りした日本被団協代表は、前回のSSDTの時にもまして、寝食を忘れて縦横に活躍し、世界中から集まった人々の感動と共感を呼んだ。
 6月12日、国連前を通り、セントラルパークに向かった100万人の平和行進は、マンハッタンの主な通りを埋めつくし、沿道から支援のエールが送られた。先頭を歩く子ども代表団につづく日本被団協代表団と日本代表団が市民の目を引いた。

山口が歴史的演説
 山口仙二は、6月24日のSSDU・NGOデーで日本代表団を代表して演説した。みずからのケロイドの顔写真をかかげながら、「ふたたび被爆者をつくるな」「ノーモア・ウオー!」を叫んだ痛切な訴えは、各国政府代表をふくむ総会議場に出席した人たちに感銘を与えた。
 肥田は、ニューヨークからドイツへ渡り平和集会で演説したあと、ふたたびニューヨーク行動に合流することになった。このドイツ行動には、米国入国を拒否された日本原水協の一団が参加しており、その中に複数の被爆者もふくまれていた。

ローマ法王に謁見
 82年8月には、日本被団協のヨーロッパ遊説団が派遣された。伊藤サカエ、肥田舜太郎ほか支援者をふくむ27人(うち1人は東ドイツから合流)の被爆者代表団が、東独、西独、イタリア、オランダ、フランスを歴訪し、各地の平和団体と交流した。このとき伊藤、肥田、副島まち(兵庫)、白石照子(長崎)、西崎文子(通訳)はバチカンを訪れ、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世に謁見し、核兵器廃絶へ努力を要請した。
 8月、パンフ『HIBAKUSHA』フランス語版が発行された。

4 欧米の草の根運動と連帯

「核軍縮から核廃絶へ」
 SSDUそのものは、米・ソ・英・仏・中の核保有5カ国のかたくなな抵抗のため期待された成果をもたらさなかった。加えて、パーシングUなどの中距離ミサイルのヨーロッパ配備を再確認するなどの動きのなかで、欧米の反核運動はいよいよ燃え上がり、「核軍縮から核兵器廃絶へ」の国際世論の流れをつくりあげた。オランダ、イギリス、イタリア、ドイツなどで数十万人から100万人のデモや多くの「人間の鎖」が生まれた。これらの行動の多くに被団協は積極的に代表を送り、現地の運動に強い刺激を与えた。

ボンの50万人集会で
 83年10月22日、国際反戦デーにあわせて国際反核統一行動が行なわれ、ドイツ全土で空前の壮大な反核行動が組織された。首都ボンの中央集会には第二、第三会場を合わせて50万人が結集した。壇上に小西悟、加陽正雄(岡山)、下平作江(長崎)が立ち、小西が峠三吉の「八月六日」「にんげんをかえせ」をドイツ語で朗読し、正午開会を宣言した。50万の熱気が沸き返るなか、シュツットガルトからノイウルムまで108`の国道を、23万人が手をつなぎ「人間の鎖」が結ばれたことが主催者から報告され、小西の合図で始まった3分間の黙とうの間、すべての教会の鐘が鳴り響いた。

5 被爆40年 核保有5カ国首脳へ要請

ゴルバチョフから返書
 被爆40年にあたる85年、日本被団協は、これまでになく精力的に海外へ代表派遣に取り組んだ。
 1月3日〜6日、核戦争を裁くロンドン国際法廷が開かれ、専門委員の岩佐幹三を派遣した。
 この年の特徴は、日本被団協が自主的に核保有5カ国(米、ソ、英、仏、中)の首脳への訴えを企画し、成功させたことである。
 国家元首に直接面談することはできなかったが、政府を代表する地位にある人々と会い、要請書を手渡すことができた。
 核保有5カ国の国家元首に核兵器廃絶の努力を要請する行動には、のべ45人が参加し、それぞれ各地で活発な遊説活動を行なった。ソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフからの返書が、日本被団協の広島の集会の席上、駐日のソ連大使館書記官を通して伊藤サカエ代表委員に手渡された。

米・ソ首脳会談で要請
 85年11月、スイスのジュネーブで開かれた米ソ首脳会談(ロナルド・レーガン、ミハイル・ゴルバチョフ)にあたって被団協は、山口仙二、小西悟を派遣した。各国メディアが両国代表団へ面会とりつけに苦労しているなか、2人は日本被団協の名で直接面会を申し入れ、それぞれ30分の面会を許され、文書と口頭で要請することに成功した。日本から同様な代表団を送った組織は他になく、被団協の行動は特筆に価する快挙だった。米ソ両国ともトップに次ぐ人たちが丁重に2人に応対し、真剣に耳を傾けてくれた。

ノーベル賞に推薦
 こうした多面的な活動が国際的に高い評価を受け、IPB(国際平和ビューロー)から85年度ノーベル平和賞候補に推薦されるまでにいたった。海外での遊説活動をはじめとする諸行動に、多くの被爆者が積極的に遊説活動に参加したことで、世界の人々の注目を引くに至ったのである。

「草の根は燃ゆ」
 80年代はじめから半ばまでのヨーロッパと世界での反核平和運動の高揚を、肥田舜太郎は「草の根は燃ゆ」と表現している。この時期、東西両陣営の新型核兵器配備競争を目の当たりにしたヨーロッパには一触即発の危機感がみなぎっていたから、原爆の生き証人としての被爆者の生々しい体験が、聴衆に切実な緊迫感をもって受け止められた。

第五章 SSDV、湾岸戦争の危機のなかで(1987〜91年)

1 SSDV

なおつづく東西緊張
 レーガン、ゴルバチョフのジュネーブ会談(1985年11月)、レイキャビク会談(86年10月)で、米ソ核軍拡競争に歯止めがかかるかに見えた。にもかかわらず、東西両陣営の緊張は80年代後半になってもつづき、87年には、米ソ両国とも、世論を尻目に核実験の再開にふみきった。
 ヨーロッパ、アメリカをはじめ、世界の反核平和運動は、第三回国連軍縮特別総会(SSDV)開催を要求し、88年開催にむけて二度目の高揚期をむかえていた。日本被団協は、各地からの要請に応えて積極的に代表を派遣し、パンフレット『HIBAKUSHA』の普及につとめた。
 86年から87年にかけて、日本被団協は米ソ核実験再開にたいする抗議行動をたびたび組織するとともに、ギリシア、イタリア、ドイツなど6カ国へのべ12回、29人の代表を送り、被爆の実相普及につとめた。
 日本被団協は三度目の国連軍縮特別総会(SSDV)を迎えるにあたって、エネルギーの多くをその成功にそそいだ。

「88文書」を力に
 「85年被団協調査」の石田忠によるまとめ報告をもとに編集したパンフレット『原爆被爆者の訴え』(「88文書」)が力を発揮した。
  88年3月、核保有5大国大使館へ核兵器廃絶国際協定締結を迫る要請行動を行ない、4月には山口仙二、小西悟が、ジュネーブNGO軍縮特別委員会主催の「軍縮フォーラム」に参加した。両人は「88文書」を提出し、核兵器被害の恐ろしさと廃絶の緊急性を強調した。この主張は、最終文書(SSDVへの提言)の中に、「核兵器問題を重視してほしい」という文言として書き加えられた。
 4月、「88文書」の日本語版と英語版が発行され、核兵器の恐ろしさ、反人間性をあらためて世界に知らせるうえに大きな力となった。5月には、パンフレット『HIBAKUSHA』スペイン語/ポルトガル語版を発行して、発行部数の合計はこの時点で12万部に達し、約120カ国へ頒布・普及した。

SSDV
 SSDVは88年5月31日〜6月25日に開催された。伊東壮ら24人の代表団が、「核戦争おこすな、核兵器なくせ」の悲願を胸に、活発な国連行動を展開した。
 SSDVのNGOデーには、伊東が日本代表団と日本被団協を代表して演説した。原水禁国民会議代表として参加した代表委員・伊藤サカエも、同じ会場で核兵器の廃絶を訴えた。代表団は、数班に分かれて39カ国の国連代表部を訪問して、核兵器廃絶を訴えた。10万人のラリー(大衆集会・6月11日)に参加し、国連への要請行動を終えた代表は、その後もニューヨーク、サンフランシスコ、ボストン、ワシントンで市民への遊説活動を行なった。
 88年4月、国際反核法律家協会が結成された。オランダ・ハーグで開かれた結成総会には、核兵器廃絶運動に取り組んできた弁護士、法律家とともに、山口仙二と横山照子(長崎)が参加した。このとき、核兵器の犯罪性を国際司法裁判所に問う「世界法廷運動」が提起された。

英訳「あの日の証言」の普及
 89年10月、「85年被団協調査」にもとづく報告『あの日の証言』(その1、その2)を英訳出版し、各方面へ普及した。
 同じ10月、田中煕巳ら被団協代表5人は日本青年団協議会、日本生活協同組合連合会の若者とともに、国連やアメリカ国務省を訪問して『あの日の証言』を届け、核兵器廃絶を訴えた。彼らはさらにニューヨーク、ワシントン、ボストンでさまざまな平和団体に『あの日の証言』を届け、交流した。ボストンでは平和行進に参加して、出発集会で全員が体験を証言した。ワシントンでは、日本原水協代表団とともに国務省軍備管理軍縮局を訪問、アメリカの核政策転換と核兵器全廃を要請した。要請にたいし国務省は、アメリカの政策を説明するにとどまった。

 

2 湾岸戦争に反対する運動

被爆45周年と湾岸戦争の危機
 被爆45周年にあたる90年、日本被団協は、原爆被害への国家補償を求める対政府要求運動にエネルギーをそそいだ。
 90年8月、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が高まった。日本被団協はただちに核戦争の危険を警告し、イラク政府にクウェートからの即時撤退を要求した。同時に、日米をふくむ関係諸国と国連、世界世論に向けて、「核戦争おこすな、核兵器なくせ、中東に被爆者をつくるな」「紛争を平和的な手段によって解決するためにあらゆる努力をつくせ」と訴えて、たびたび街頭行動や署名集めを行なった。

 10月、11月にはイラク、米国と核保有国政府に湾岸戦争の平和的解決へ努力を要請するため、首脳あて書簡を携えた代表団が在日大使館を訪ねて懇談した。

湾岸戦争
 91年1月、アメリカが主導する多国籍軍のイラク攻撃、いわゆる湾岸戦争が始まった。ミサイルによるいっせい攻撃のすさまじい映像がテレビ画面に流れた。被爆者は、今にも核兵器が使われるのではないかと心臓の凍る思いを味わった。
 日本被団協は湾岸戦争開始にさいし、「湾岸戦争を即時停止せよ、生物・化学兵器、核兵器を使うな、使わせるな」と街頭行動を精力的に展開し、国連、核保有国、湾岸諸国、日本政府と世界の平和組織へ、同趣旨の文書を送った。

チェイニー発言
 2月、米国防長官リチャード・チェイニーが「トルーマン大統領の原爆投下決定は正しかった」と発言した。原爆の残虐性、非人道性を否定するとともに、イラクでの核兵器使用の可能性も選択肢に入れ使用の正当化をねらったものとして、チェイニー発言は被爆者の激しい憤激をかった。被団協は、全国でいっせいに湾岸戦争の即時停止を訴えて、さまざまな形の宣伝・抗議行動を展開した。

「あるべき慰霊施設」の調査
 901年10月、日本に死没者への補償を求める日本被団協の要求をはぐらかす意図で、国は原爆死没者追悼平和祈念館を建設する計画を打ち出した。そこで、「あるべき慰霊施設」の調査を行なう目的で、事務局長・斉藤義雄ら51人がヨーロッパの関連施設を訪問した。まずポーランドのアウシュビッツを訪問し、ポーランド、オランダ、フランスのナチス犠牲者、戦争被害者と交流した。現地での見学、生存犠牲者との交流のあと、フランス・パリのレジスタンス博物館、オランダ・アムステルダムのアンネ・フランクの家(博物館)を訪問し、各地で平和愛好者たちと親しく交わった。

第六章 世界法廷運動と被爆50年シンポジウム(1992〜95年)

1 WCP(世界法廷運動)発足

世界法廷運動発足会議
 被爆50周年(1995年)が近づくにつれて、核兵器廃絶条約を求める動きが国際的にも強まった。
 92年5月、IPB(国際平和ビューロー)、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)、IALANA(国際反核法律家協会)の主催するWCP(世界法廷運動)発足会議がスイスのジュネーブで開かれ、肥田舜太郎、小西悟の2人が参加して、それぞれ30分を超える特別報告を行なった。
 WCPは、国連の一つの機関であるICJ(国際司法裁判所)にたいし、「核兵器の使用と威嚇が国際法にてらして違法かどうか」の判断を求め、核兵器廃絶の世論形成の足がかりにしようとするNGOの運動である。原爆投下から50年近い間、これが国連規模で問題にされることがなかったこと自体、被爆者にとって不満のもとだった。

原爆犯罪告発を求める
 WCP発足総会の会場には、各国の平和運動家とともに、法律家、科学者、医師など150人ほどが参加していた。主として法律家たちから「核兵器の使用は違法だが、保有することまで違法とはいえない」という論調がかなり強く流れていて、報告を翌日にまわされた2人はいらだっていた。
 翌日、肥田と小西は、被爆の体験と実相にもとづいて、核兵器がいかに反人間的な兵器であるか、それを保有し他国を威嚇することがいかに重大な反人間的な行為であるかを語り、原爆投下を人類史上例を見ない重大な戦争犯罪として告発するよう求めた。

ヒバクシャの国際連帯も
 この時期の国際活動はWCPをめぐり多岐にわたった。
 93年5月、カザフスタン・セミパラチンスク訪問・調査。
 7月、ネバダ風下地区訪問調査、実験被害者との交流。
 8月、長崎で旧ソ連(セミパラチンスク、アルタイ)、米国(ネバダ、退役軍人)、マーシャル、ポリネシアの核実験被害者と国際交流懇談会を開催し、共同アピール「核兵器被害者から世界へ」を採択した。
 これらはICJを視野においた行動だったが、同時に、WCP(世界法廷運動)発足を契機として、国際的な被爆者・ヒバクシャの連帯強化をめざす、重要な動きでもあった。国際交流懇談会の共同アピールはその後英訳され、10月から11月にかけて国連加盟182カ国政府と平和団体へ送られた。
 10月には、山口仙二が米国ニューヨークでWCP主催の国連行動、ボストンで討論集会に参加した。12月には、国連加盟182カ国元首に核兵器廃絶国際条約の締結をもとめる要請文を送った。

WCP日本センターを設立
 94年、日本被団協は世界法廷運動の成功のために大きな力を注いだ。4月、日本国際法律家協会、核兵器廃絶をめざす関東法律家協会と共同で「世界法廷運動日本センター」を設立した。日本センターは、核兵器の使用と威嚇の違法性についての民間陳述書を発表し、各国大使館へ核兵器廃絶を要請するとともに、日本政府には民間陳述書を国際司法裁判所に提出するよう要請した。
 5月、日本センターは「民間陳述書」を、ICJ、国連加盟182カ国、WHO(世界保健機関)と世界の平和組織へ送った。

幅広い国民運動へ
 日本生活協同組合連合会は運動を全面的に支持し、国際反核法律家協会の提唱した「世界法廷プロジェクトを支持する公的良心の宣言」署名(ICJに提出)を強力に推進、組合員に運動への参加を呼びかける大量のパンフレットを発行するなど、日本センターと行動を共にした。この動きに多くの団体、個人が加わり、世界法廷運動は幅広い国民運動に発展した。

日本政府文書に抗議
 6月、ICJへ提出する日本政府陳述書に「原爆投下は必ずしも国際法違反とはいえない」という主張のあることが報道機関によって明らかにされ、世論の大きな反撃を受け、国会でも問題となった。日本被団協は独自に、また日本センターも、外務省、首相官邸へ強力に抗議し、世論を動かして、政府に問題部分を削除させることに成功した。首相・羽田孜が国会答弁で削除を言明した。

2 被爆50年国際シンポジウム

国際シンポジウムを提唱
 94年5月、日本被団協はジュネーブNGO軍縮特別委員会ビューロー会議に小西悟を派遣し、被爆50年国際共同行動の一環として、「広島・長崎の原爆被害と核軍拡競争による被害の実態および被爆者・被害者の補償・救済と核兵器廃絶」をテーマに、95年7、8月に日本で国際シンポジウムを開くことを提唱した。日本側で準備委員会をつくることを前提に、NGO軍縮特別委員会(会長=フランス退役軍人会代表ウルガフト)が共同主催者として全面的協力を約束した。
 95年初め、日本被団協はIPB(国際平和ビューロー)から二度目のノーベル平和賞候補推薦の栄誉を受けた。

日本準備委員会発足と国際共同行動
 95年2月、日本被団協が重要な一翼を担った被爆50年国際シンポジウム日本準備委員会が結成された。世界各地の平和団体はいっせいに「ヒロシマ記念」行事を企画し、被団協に被爆者派遣を要請してきた。
 4月、国連でNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議が開かれた。あわせて国際共同行動「世界法廷運動セミナー」、「国際市民集会」(ニューヨーク)が展開された。

エノラ・ゲイ展示問題
 同じころ、6月開館予定のスミソニアン航空宇宙博物館(ワシントン)が計画した原爆展に、退役軍人会と上院が介入していた。館長マーティン・ハーウィットは更迭され、原爆展は内容を大幅に変更されて、「被害」の部分を抹殺した「エノラ・ゲイ展示」に変えられた。
 米国内でもガー・アルペロビッツら8人の歴史家が、「原爆展を開くなら原爆投下の歴史的意義について客観的評価をふくむものにすべきであり、米国の『栄光』賛美に終始するような展示に反対である」という趣旨の共同声明を発するなど、世論は騒然としていた。
 エノラ・ゲイ展示にたいしては、米国最大の反核平和団体、ピース・アクションを中心に、AFSC(アメリカフレンズ奉仕委員会)、FOR(宥和会)など大小さまざまな組織が名を連ねた「95年連合」がいっせいに異議を唱え、反対運動を組織した。SANE/FREEZE(93年「ピース・アクション」に改名)も、これまで基本姿勢としてきた「核兵器の凍結」を捨て、「核兵器廃絶」を方針に掲げるに至っていた。

感動の安井演説
 航空宇宙博物館は、エノラ・ゲイ展示の開会を当初予定の6月14日から1週間延期すると発表した。
 ニューヨーク行動に派遣されていた日本被団協代表団は、予定通り19日帰国せざるをえなかった。開会までなんとしても日本被団協代表が1人残ってほしいという「95年連合」のたっての要請があり、小西に代わって代表理事・安井晃一が急きょワシントンを訪問し、エノラ・ゲイ展示開会に当たっての抗議行動に参加した。
 開会当日、アルペロビッツと並んで演説した安井は、原爆がもたらした惨劇のすさまじさと原爆投下の犯罪性を鋭く告発し、全米のマスコミ、ミニコミの注目を集めた。ちょうど米国滞在中で通訳をつとめた西崎文子(現成蹊大教授)は、安井演説に「しびれるような感動を覚えた」と語った。

 

95年国際シンポ広島で開催
 7月31日から8月1日、日本被団協が共同提唱者となった被爆50年国際シンポジウムが広島で開かれた。シンポジウムは、世界法廷運動を視野に入れて、原爆投下の犯罪性=「核兵器は人間に何をしたか」を具体的な被害の実態に即してえぐり出し、77年シンポジウムの成果をさらに大きく推しすすめるものとなった。日本準備委員会はその成果を日、英2カ国語の冊子にまとめた。

第七章 国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見からハーグ・アピール平和集会へ(1996〜99年)

1 ICJの勧告的意見

ハーグ国際法廷開かれる
 核兵器の違法性を裁く世界法廷は1995年10月〜11月、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)で開かれた。
 世界法廷では、日本をはじめ、各国政府の代表が陳述した。日本政府が証人として同道した広島市長・平岡敬、長崎市長・伊藤一長は、政府の思惑とは逆に、原爆被害の残酷さ、非人道性を実例と写真で示し、法廷に強烈な印象を与えた。インドネシア代表は「被爆50年国際シンポジウム報告書」を裁判所に提出、全裁判官に手渡した。
 日本被団協は伊東壮、山口仙二ら7人を派遣した。代表団はハーグでの法廷傍聴や平和行動のほか、フランスのパリで核実験に抗議する街頭行動にも参加し、街頭で「原爆と人間展」などを展示し反響を呼んだ。

高まる世論
 長年にわたって議論されてきたCTBT(包括的核実験禁止条約)がようやく日の目を見ようとしていた96年、核保有国は「条約ができないうちに」競って地下核実験を強行し始めた。日本被団協と世界世論は「かけこみ実験」に抗議し、核兵器廃絶国際条約の締結こそ人類生存のための緊急課題であることを訴えた。
 3月、日本被団協は、「被爆50年国際シンポジウム報告書」を各国大使館へ届け、核兵器のすみやかな廃絶を求めた。

ICJの結論
 核兵器廃絶国際条約を求める世論が急速に高まるなかで、ICJは96年7月8日、「原爆の使用と威嚇は一般的には人道法、国際法にてらして違法」と断定した。ヒロシマ・ナガサキから半世紀、ここに初めて、核兵器の法的違法性が公的国際機関によって宣告された。
 半面、この勧告的意見には「国家の存続が危ぶまれるような危急な事態のもとで、核兵器の使用と威嚇が国際法に違反するかどうかについては判断しない」という但し書きがついており、被爆者にとっては釈然とせず、不満の残るものであった。
 クリストファ・ウィラマントリー(スリランカ出身、ICJ副所長)など3人の判事は「いかなる状況・理由があろうとも違法である」という絶対的違法説に立って判断に反対した。日本政府を代表する判事・小田滋は「原爆投下は国際法違反とはいえない」として反対した。結局、判事の意見は7対7の賛否同数となり、議長決済によって採択された。
 広島・長崎への原爆投下が国際法違反の違法行為であったことが事実上確認され、これらの判断が、諮問をした国連総会に勧告的意見として提出された。

アメリカ被爆証言ツアー始まる
 96年8月、アメリカのワシントンDCで反核運動に取り組んでいる首都圏ヒロシマ・ナガサキ平和委員会は、アメリカン大学の日本人留学生の協力をえて、ヒバクシャを招請して米国内で証言させる運動を始めた。
 このとき、田中煕巳(埼玉)ら8人が訪米し、4班に分かれて証言を行なった。田中はニューイングランド4州(メーン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチユーセッツ)を遊説し、バーモント州では1時間のラジオ・トーク番組に出演、聴取者に感動を与えた。この証言は、多くのタウンミーティングで核兵器廃絶が決議されることにつながり、さらに、アメリカではじめての州議会上院、下院での核兵器廃絶決議に大きく発展した。
 ヒロシマ・ナガサキ平和委員会の招きによるこのアメリカ被爆証言ツアーは、在米日本人の協力をえながら、今日まで継続して行なわれている。

2 「原爆と人間展」パネルと実相普及

「原爆と人間展」
 97年、日本被団協は新しい宣伝資料として「原爆と人間展」パネル40枚を日・英両国語で作成し、内外に普及することに力をつくした。日本生活協同組合連合会はこれをさまざまな外国語に翻訳、各県の単位生協が送り主となり、国際的生協運動拠点を通して世界各地に送り届ける運動を、精力的に推しすすめ、大きな反響をえた。

インドへの実相普及
 CTBT(包括的核実験禁止条約)は96年9月国連総会で締結されたが、批准を拒否したアメリカとロシアが97年7月、地下核実験を強行した。98年5月には、インド、パキスタンが地下核実験を行ない核兵器保有国となった。
 このことは、核兵器の恐ろしさが世界の人々、大国の指導者にさえ知られていないことを改めて思い知らせ、日本被団協はアジアへの実相普及にいっそう力をそそぐ必要性を痛感することになった。
 99年1月、小西悟が原水爆禁止世界大会実行委員会の代表団の一員としてインドを訪問した。大統領ナラヤナンをはじめ、前首相グジュラール、国民会議派党首ソニア・ガンジーなど主要な野党要人たちに核兵器廃絶を要請したあと、15市町村を遊説し、熱狂的な歓迎を受けた。

ハーグ・アピール平和集会
 第1回ハーグ平和会議(ハーグ条約締結)100年を記念して、99年5月12日〜15日に、世界市民平和集会=ハーグ世界市民平和会議(HAP)がオランダのデン・ハーグで開かれた。日本からもさまざまなNGOが独自企画を持って参加した。
 日本被団協からは代表委員・坪井直ら18人(被爆二世、事務局を含む)が、「つたえようヒロシマ・ナガサキ」の共同代表団に加わって参加、「原爆と人間展」の展示を企画した。「グローバル被爆者集会」(AFSC 企画)、平和行進など多彩なハーグ行動のあと、ウィーン、ロンドン、アウシュビッツの3コースに分かれて遊説活動を行なった。

第八章 NPT再検討会議、NGOミレニアム・フォーラム、2005年の運動へ(2000〜05年)

1 核廃絶へ「明確な約束」

アボリション2000
 2000年の国際的な核廃絶運動は、NGOの「核兵器廃絶2000年運動」(アボリション2000)の結節点として展開され、NAC(新アジェンダ連合 加盟国=スウェーデン、メキシコ、ニュージーランド、エジプト、ブラジル、南アフリカ、アイルランドで構成)や非同盟諸国と連携し、2000年NPT再検討会議で保有国から核兵器廃絶の約束を取りつけることをめざして展開された。

 2000年NPT再検討会議
 日本被団協は2000年4月〜5月に開かれた、国連本部でのNPT再検討会議に小西悟を派遣して、米国代表ほか各国政府代表たちに核兵器の緊急廃絶を強く訴えた。
 NPT再検討会議は、NACの奮闘で、「自国の核兵器の完全な廃絶を達成するという明確な約束」をふくむ、NPT第6条(核軍縮義務)履行のための実際的措置13項目からなる最終文書をつくりあげた。核兵器廃絶を求める世界世論の歴史的な勝利だった。世界中の核兵器廃絶運動に大きな希望を与えた。

ミレニアム・フォーラム
 またこの年5月22日〜26日、国連事務総長コフィ・アナンの提案による「NGOミレニアム・フォーラム」が国連本部で開かれた。日本被団協は田中煕巳ら10人が「つたえようヒロシマ・ナガサキ共同代表団」に加わって渡米し、核兵器の緊急廃絶を訴えた。フォーラム終了後、つたえよう代表団はボストン、ワシントンDCで実相普及活動をおこなった。
 2001年2月、IPB(国際平和ビューロー)により、日本被団協がノーベル平和賞候補に推薦された。21世紀の幕開きをかざる三度目の光栄であった。

「21世紀被爆者宣言」
 6月、日本被団協第46回定期総会は「21世紀被爆者宣言」を発表して「核兵器も戦争もない」21世紀をめざしてたたかいつづけることを誓った。

2 9・11同時多発テロ後の世界

9・11同時多発テロ
 2001年、ジョージ・W・ブッシュが第43代大統領となって共和党政権が誕生し、前政権からの課題だった「核態勢見直し」が発表されて、「使いやすい小型核兵器」の研究開発が明らかにされた。また、02年に発表した「国家安全保障戦略」(ブッシュ・ドクトリン)は、核兵器の先制使用も選択肢に入れた戦略構想だった。
 核をめぐる情勢が急激に変化するなかで、南アジアではカシミール地方の占有権をめぐるインド、パキスタンの紛争がくすぶりつづけ、またも核兵器の使用があやぶまれた。そんな時期にアメリカで、世界を震撼させる事件がもちあがった。
 2001年9月11日、ニューヨーク、ワシントンDCで突発した「同時多発テロ」である。米大統領ブッシュは「テロにたいする報復戦争」を宣言、首謀者オサマ・ビン・ラディン率いる国際武装テロリストのネットワーク「アルカイダ」をかくまっているとして、アフガニスタンのタリバン政権壊滅をめざして、大規模な軍事攻撃にとりかかった。

アフガン侵攻とイラク戦争
 日本被団協は「アフガン戦争反対」と「核兵器廃絶」の緊急性を訴えた。
 01年10月7日の空爆から始まったアフガン侵攻は、圧倒的な軍事力により約2カ月で終わったが、市民に多大の犠牲を負わせた。アメリカはタリバン政権を崩壊させた後も居すわっただけでなく、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んで自己を正当化した。ブッシュはまた、イラクの大統領サダム・フセインが大量破壊兵器を隠しもっていると主張、しばしば核兵器の使用をほのめかして被爆者と世界の人々を不安に陥れた。
03年3月、世界世論の厳しい批判を受けながら、国連憲章と国際法を無視し、ついにイラクにたいする本格的な戦争へと突き進んだ。イラク戦争は、いつ終わるとも知れぬ泥沼戦争の様相を見せている。

3 2005年の大運動

05年NPT再検討会議
 このような核兵器と戦争をめぐる情勢の急変は、高齢化した被爆者を落胆させるどころか、ますます熱く核兵器廃絶へとかり立てた。
 05年のNPT再検討会議(5月2日〜27日)は、2000年の会議での「明確な約束」をどう発展させられるかに注目が集まった。日本被団協も世界の反核・平和勢力も、関係諸国への働きかけに全力をつくした。02年、03年、04年の3回の準備委員会では、核保有国と非核保有国、とくに新アジェンダ連合、非同盟諸国との間で激論がかわされた。しかし、思わしい進展が見られないまま、05年NPT再検討会議を迎えた。

国連原爆展とニューヨーク行動
 05年は被爆60周年でもあった。日本被団協は01年いらい、国連本部での原爆展開催を計画しており、さまざまな困難を克服して05年、NPT再検討会議期間中の開催にこぎつけることができた。国連原爆展は5月2日から27日まで、国連本部一般訪問者ロビーと地下通路わきの2カ所で開いた。
 日本被団協はこのNPT再検討会議に36人の代表を派遣、日本生活協同組合連合会、日本反核法律家協会と共同代表団を構成して諸行動を行なった。国連代表部には原爆被害の実相を訴え、ニューヨークのNGOや市民と交流を深めた。
 代表団は国連原爆展での証言、NPT会議参加の国連代表部への働きかけのほか、いくつもの班に分かれて市内、近郊で市民へ向けて証言活動、ワークショップで発言など、のべ50回を超すめまぐるしい活動は、さながら「ヒバクシャ・ハリケーン」ともいうべく、各国NGOをはじめ、アメリカの市民の注目を集めた。
 5月11日のNGOセッションでは、事務局次長・小西悟が峠三吉「にんげんをかえせ」を引用しながら各国代表多数を前に5分間の報告を行ない、多くの喝采、称賛をえた。会議の公式日程と別に緊急に総会場で開催された4日のNGOセッションでは、原水爆禁止日本協議会、連合(日本労働組合総連合会)などが署名を提出、広島・長崎両市長が平和市長会議を代表して訴え、オノヨーコが発言。事務局長・田中煕巳が被爆者の訴えを行った。

国際市民会議
 ニューヨークの熱気は7月末東京での国際市民会議へと大きく燃え上がった。日本被団協は多くの団体・個人の支持のもとに、原爆投下から今日に至る核犯罪を裁く国際市民法廷を開催することを数年来模索していた。広範な団体と個人による実行委員会によって提案が受け入れられ、名称は「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ国際市民会議」とすることになったが、「原爆投下の犯罪性を裁く」という趣旨は貫かれた。
 7月29日〜31日、ノーモア ヒロシマ・ナガサキ国際市民会議が東京で開催され、のべ2500人の参加で大きな成功をおさめた。
 会議は、広島・長崎への原爆投下が人類史上最も凶悪な戦争犯罪であったことを、最近の研究成果をふまえて明らかにした。同時に、アジア諸国から見た原爆と日本の戦争責任、加害の問題が日本、中国、韓国の専門家を交えて討議され、原爆犯罪を追及するうえで、日本の加害責任を明確に確認することが、アジアをふくむ国際世論の形成にとって避けて通れない重要課題であることが確認された。
 元ICJ副所長クリストファ・ウィラマントリーは、最終文書(宣言)の起草委員長役をつとめるなど、重要な役割を果たした。「宣言」は「広島、長崎の被害と苦痛は人類史上空前かつ比類なきものであった」とし、原爆投下の違法性と犯罪性を鋭く追及した。

被爆者運動の新しい高まり
 国連原爆展、国際市民会議、米国各地、ヨーロッパ遊説、そして国内の被爆者大集会(10月18日、九段会館)と、被爆60年の大運動では被爆者の力が遺憾なく発揮された。2000年NPT再検討会議からここまで、原爆症認定集団訴訟など国内の運動とあわせ、日本被団協にとってかつてなく多様で壮大な課題に立ち向かった5年間であった。05年日本被団協総会の活動報告は、この間の活動をまとめて「被爆者運動はいま新しい高まりを迎えている」とした。

ノーベル賞委員長が名指しで評価
 こうした日本被団協のねばり強く精力的な活動は、国際的にも高い評価を受けた。ノーベル平和賞受賞団体であるアメリカフレンズ奉仕委員会ほか多くの団体、個人によって、とくに実相普及・体験証言の取り組みが評価され四度目になる推薦を受け、05年秋には、有力候補としてノーベル平和賞にノミネートされた。「今年こそ授賞か」と最終段階までマスコミを賑わした。受賞は逸したが、12月オスロで開かれた授賞式でノーベル委員会委員長ウーレ・ダンボルト・ミエスは被爆者と被団協を名指しして称賛する異例の演説をした。「NIHON HIDANKYO」は日本語のまま世界に通用する名称となった。

さらに新しい地平を
 06年は、被団協結成50周年の節目だった。記念すべき年にあたり、2006年日本被団協運動方針は、「被団協運動のさらに新しい地平を開く行動」の一つとして、在日大使館総当りの要請行動をうちだし、計画をすすめた。
 06年6月には、イラクのクルド人居住地区(かつてフセイン政権のもとで毒ガス攻撃を受け、多数の被害者がいまも苦しんでいる地域)でフリージャーナリスト玉本英子の手で「原爆と人間展」が開かれ、大きな感動と共感を呼んだ。8月、ヒロシマ・ナガサキ祈念行事に際してアメリカ東部(首都圏、ニュージャージー)への遊説に2班4人、カリフォルニアの核兵器開発施設リバモア研究所への抗議行動に1人を派遣するなど、実相普及活動はつづいている。