原爆被爆から10年近く、病苦と貧困と差別に耐えてひっそりと生きていた被爆者が本格的な運動に起ち上がったのは、1954(昭和29)年のビキニ水爆実験による第五福竜丸の被災をきっかけとした原水爆禁止運動の燃え上がりに勇気づけられたからでした。
1956(昭和31)年8月10日、長崎で開かれた第2回原水爆禁止世界大会の中で被爆者の全国組織=日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されました。その結成宣言「世界への挨拶」では、「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります」と「原水爆の禁止」をつよく訴え、「犠牲者に国家補償と健康管理制度」「遺家族に生活保障」「根治療法の研究」を要求しました。「核兵器廃絶」と「原爆被害への国家補償」の要求は、このときに確立したものでした。
原水爆の禁止とならんで、医療保障と生活の安定が、被爆者にとっていちばん切実な要求でした。国民的な高揚を見た原水爆禁止運動の中で被爆者援護法制定の要求が叫ばれ、1957(昭和32)年、「原爆医療法」が制定されました。この法律は、被爆者の健康診断の費用、「認定被爆者」の治療費を国が負担するというだけで、被爆者の実情と要求に応えるものではありませんでした。
1960年代半ば、原水爆禁止運動に混乱が生じたとき、被団協はねばりづよく討議をかさね、一致する要求のもとに団結をまもりぬきました。
1966(昭和41)年には、原爆被害の実態と特殊性を明らかにし、国家補償の立場にもとづく被爆者援護法の制定をせまる「原爆被害の特質と被爆者援護法の要求」(通称「つるパンフ」)を発表し、座り込み、デモ、請願大会、全国行脚など、多彩な運動を展開しました。「つるパンフ」は、その後の援護法制定運動を大きく前進させる力となりました。1968(昭和43)年、2つ目の法律「原爆特別措置法」が制定され、健康管理手当など各種手当が支給されるようになりましたが、この法律は国の責任も認めず、死没者、遺族への補償もなく、国家補償を回避するものでした。
日本被団協は、あくまでも「国家補償の援護法」を求めて運動をつづけ、「原爆医療法」「特別措置法」の内容を徐々に充実させました。
1974(昭和49)年、日本被団協は「原爆被爆者援護法案のための要求骨子」を発表して援護法案の作成を要請し、与党をのぞく全党派の支持を得ました。日本被団協は「要求骨子」をもとに野党4党(社会、公明、民社、共産)と協議を重ね、国家補償の精神に基づく被爆者援護法案の4党共同案の作成に積極的にかかわりました。
この4野党(のちに新自由クラブを加えて5党)共同援護法案は、たびたび国会に提出されますが、与党自民党と政府の抵抗にあって実現できませんでした。
1977(昭和52)年、国連NGOによる「被爆問題国際シンポジウム」が開かれ、原爆被害の実態があきらかにされました。
日本被団協は1978(昭和53)年6月、国連軍縮特別総会(SSDT)へ代表委員桧垣益人以下38人の代表を送って核兵器廃絶を訴え、つづいて8月、「原水爆禁止・被爆者援護世界大会」を、日青協、地婦連、生協連、宗教NGOといっしょに提唱し成功させるなど、一方で核兵器廃絶の運動に力を注ぎながら、多くの市民団体、平和団体や著名人とともに被爆者援護法の即時制定を政府につよくせまりました。
こうした中で原水爆禁止運動に統一の流れが生まれ、核兵器廃絶と国家補償の被爆者援護法制定が不可分の関係にあることが強調されるようになり、「ふたたび被爆者をつくらないために、国家補償の被爆者援護法の制定を」が国民的な世論になりました。
また、78年3月30日には、韓国人被爆者・孫振斗さんが起こした外国人被爆者の手帳取得に関する裁判で、最高裁が「『原爆医療法』は……国家補償の趣旨をあわせもつもの」という孫さんの全面勝利判決を出しました。(11ページ資料参照)
1979(昭和54)年、政府は、核兵器廃絶と国家補償の被爆者援護法制定を求める世論や、孫振斗裁判の最高裁判決に対応するため、厚生大臣のもとに「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)をつくり、被爆者対策の基本理念と制度の基本的あり方を検討。しかし1980(昭和55)年12月、基本懇は、「戦争の被害はすべての国民がひとしく受忍しなければならない」として、原爆被害への国家補償を拒否する答申をおこないました。
「基本懇」意見にたいし日本被団協は直ちに「声明」と「見解」を発表。全国討論をへて1984(昭和59)年、「原爆被害者の基本要求」を発表しました。「基本要求」は、原爆被害が絶対に「受忍」できないこと、核兵器が、「絶滅」だけを目的とした絶対悪の兵器であり、核兵器の廃絶が一刻の猶予もできない課題であることをのべたうえで、国が「ふたたび被爆者をつくらない決意をこめ」原爆被害への国家補償をおこなうことを求めています。
この立場から日本被団協は、国の内外での原爆被害の実相の普及、原爆展、語り部活動、語り継ぎ運動などと結合して、「国家補償の援護法」制定の賛同をもとめる(1)国民署名、(2)国会議員の賛同署名、(3)地方自治体議会の促進決議と首長・議長の賛同署名を求める3点セットの運動を大規模に展開し、大きな国民的な世論をつくりあげました。
「国家補償の援護法」制定を求める「援護法賛同署名」は圧倒的な支持を得て、全野党共同の国家補償の被爆者援護法案となって実を結び、1989(昭和64)年と1992(平成4)年の2度にわたり、参議院本会議で可決されました。
こうした運動に押されて自民・社会・さきがけ3党の村山連立内閣は、1994(平成6)年12月、現行の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を制定しました。けれども、国家補償はここでも実現されませんでした。
日本被団協は声明を発表し、原爆被害を原爆投下時にまでさかのぼって被爆者の遺族に、原爆死没者の死因を問わずに特別葬祭給付金の支給を決めたこと、所得制限を全廃したこと、福祉事業を法制化したことなどは評価するが、「国家補償」を拒んで「国の責任」をあいまいにしたことは許せない、あくまで国家補償を要求してたたかう態度を表明しました。
日本被団協は2001年、「21世紀被爆者宣言」を発表し、「核兵器も戦争もない21世紀」をめざして生き、語り、たたかう決意を表明しました。被爆60年の2005年には、国連での原爆展、NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議への代表派遣、東京での「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ国際市民会議」の開催、九段会館での「被爆60年10・18大集会―核兵器も戦争もない世界をめざして―」の大集会と中央行動を成功させました。2003年に提訴した「原爆症認定集団訴訟」は、全国12地裁で168人の原告がたたかいを継続し、さらに大きく発展させ、完全勝利をめざしています。 こうした国内外での活動が評価され、日本被団協はこれまでに何度もノーベル平和賞の候補に挙げられ、2005年には最終段階まで同賞の有力候補として残りました。
1957年「原爆医療法」が制定されたとき、医療費を全額国庫負担する「国家補償的配慮」の制度として設けられた原爆症認定制度は、核兵器の容認政策、戦争被害の受忍政策の下で、核兵器の被害を軽いもの、小さいものと見せようとする原爆被爆者対策の中で、放射線の起因性を厳しく求め、極力認定を抑えてきました。原爆症と認定された被爆者は被爆者健康手帳保持者の1%にも達していません。
これまで、長崎原爆松谷裁判、京都小西裁判、東京東原爆裁判など、原爆症認定申請却下処分の取り消しを求める裁判で、全ての原告勝利の判決を勝ち取ってきたのもかかわらず、国・厚生労働省は認定制度を改善するどころか、松谷裁判の最高裁での敗訴にもこりず、最高裁が「高度の蓋然性」があればよいとした判断を捻じ曲げ、いっそう厳しい「原因確率」という基準をもうけて、被爆者切捨てを行ってきました。
この冷酷な国の施策に対して、認定制度の抜本的改善を求めて集団訴訟が提起され、これまでに、23都道府県の306人の被爆者が17の地裁に提訴し、国を相手にたたかってきました。
2006年5月12日、先陣を切って出された大阪地裁の判決は、入市被爆者、遠距離被爆者を含む9人の原告全員の却下処分の取り消しを被告・国に求める、全面勝訴の判決でした。引きつづき、原爆の日を目前にした8月4日には広島地裁が同様に41名の原告全員の勝訴判決を言い渡しました。これらの判決で、原因確率だけを機械的に適用するのは間違いで、「原因確率」が低い場合でも、申請者の被爆前の健康状態、被爆の状況、健康の被害、その後の生活や健康の変化などを総合的に見て判断しなければならないと指摘しました。最高裁が言った「高度な蓋然性」はこうして求められるということを示したといえる画期的な判決でした。
その後、名古屋、仙台、東京、熊本、長崎、大阪2陣の各地裁で、一部敗訴者がでた地裁があったにもかかわらず、全てが国の審査のやり方を厳しく指弾する勝訴判決が続きました。国はこれらの地裁判決を不服とし全て控訴しました。このような国の姿勢に対して与党の自由民主党を含めすべての政党と多くの議員が原告側を全面的に支持、支援しました。このような情勢の中で、2007年8月5日安倍総理(当時)が突然、「認定の在り方の見直し」を厚生労働大臣に指示、半年あまりの見直し検討の結果、2008年3月に与党プロジェクトチーム案をもとにした「新しい審査の方針」が策定され、4月から原告を含む申請者の認定が開始されました。新しい審査の方針は、3.5キロメートル以内での直接被爆者、100時間以内に2キロ以内に入市した被爆者など、残留放射線の影響を認め、がんなど5つの疾病を積極的に認定するという改善を行いました。
その後、仙台高裁(08.5.28)と大阪高裁(08.5.30)は地裁判決同様原告全員の勝訴判決を言い渡し、国は上告をあきらめたため、「新しい認定の方針」でも認定されなかった原告の認定が確定しました。つづく、札幌地裁(08.9.22)、千葉地裁(08.10.14)でも新基準で認定されない原告全員が勝訴しました。集団訴訟は12連勝を重ねています。しかし、政府はあいも変わらず地裁の判決には控訴をつづけています。
2008年11月17日現在、「新しい認定の方針」により1615件が認定され、この中には高裁判決で確定認定された原告7人も含め170人の原告が認定されています。しかし、集団提訴した原告293人のうち120人余りがまだ認定されないで総合審査を待っています。集団訴訟の一括解決を求める原告側は、すでに認定された原告も含め、国家賠償を求める訴えを残して、現在15地裁、8高裁で293人が戦っています。しかし、5年半にわたるたたかいの中で、60人の原告がなくなりました。早期の解決が求められています。
(2008年11月30日)