ノーベル平和賞に日本被団協が選ばれてから1年となる10月11日、被爆者や若い世代の団体などが「核兵器も戦争もない世界を求めて~記憶を受け継ぎ未来へ」と題した集会を開きました。
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広島空港に巨大な「核のない世界へ-広島メキシコ友好壁画」が完成しました。日本被団協の協力を得て、メキシコ人アーティストが、核廃絶運動を牽引された森滝市郎氏と山口仙二氏を、また中南米で世界初の核禁条約を主導しノーベル平和賞を受賞したメキシコ人外交官ガルシア・ロブレス氏も描かれ共通の願いを世界に示しています。
広島県とメキシコ・グアナファト州の友好提携という縁もあり、10月15日の完成披露式典にはプリーア駐日メキシコ大使も臨席。森滝さんと山口さんのご遺族から喜びの言葉もいただきました。
日本被団協代表委員の箕牧智之さんから「被爆者がいなくなった後もこの壁画は生き続ける、核のない世界を訴え続ける」と、大変光栄な言葉を頂戴しました。
みな様のご支援で実現したこの壁画は、核廃絶の切なるメッセージを世界中の旅行者に向け、永続的に発信し続けます。(壁画企画者・グティエレス一郎)
日本被団協全国都道府県代表者会議が10月8日と9日、東京・千代田区のTKPガーデンシティ御茶ノ水で開催され、オブザーバーを含む26都道府県から70人が参加しました。
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会議冒頭、田中煕巳代表委員が、ノルウェー・ノーベル委員会から寄せられた期待に応えて、核兵器廃絶めざしてがんばりましょうと挨拶しました。日本原水協の安井正和事務局長から100万円の募金が田中重光代表委員に手渡されました。
初日に、朝日・中国・長崎新聞から被爆80年アンケート結果についての報告、日本被団協としての運動提起を受けた討論。2日目には全国からの報告が行なわれ、「アピール」(2面に全文)を採択して終了しました。
新聞3社によるアンケートは、43都道府県3564人から回答が寄せられたこと、被爆者手帳の所持に関わらず黒い雨などによる被爆者にも配布して回答が寄せられたと報告されました。記述欄には、本人の震える文字、代筆での回答も少なからずあり、強い思いが感じられた一方で、被爆体験をだれにも伝えていないという人が28・3%あった、はっきりと記憶にある方は、話したくないという方も少なからずあったことが特徴だと報告されました。
参加者からは、アンケート結果のまとめを冊子にして継承の貴重な資料として発行してほしいとの要望が数人から出されました。
濱住治郎事務局長が、当面する日本被団協の行動を提起しました。特に11月21日に、署名共同提出と議員会館前集会を軸とした行動を広く呼び掛けて成功させようと訴えました。
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事前に29都道府県の組織から報告用紙が提出され、参加した組織から特徴的な活動が報告されました。
この中で、証言・講演活動の件数や聴衆の数について、事前に報告書が出されたものについて濵中紀子事務局次長がまとめを報告。2024年4月から2025年3月では、証言・講演が1483件、担当した人が274人、聴衆の数が10万255人でした。2025年4月から2025年8月では、それぞれ794件、204人、6万2052人でした。ノーベル平和賞を契機に、全国で証言・講演活動が旺盛に行なわれたことが報告されました。
日本被団協は全国都道府県代表者会議2日目の10月9日午後と翌10日に全国の被爆者、被爆二世など約60人が参加し参議院議員会館会議室で中央行動を行ないました。
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| 政党代表に要請書手交 |
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| 厚労省要請 |
9日は政党要請で、自民党の寺田稔衆院議員、公明党の斉藤鉄夫代表、立憲民主党の野田佳彦党首、国民民主党の玉木雄一郎代表、共産党の田村智子委員長、社民党のラサール石井副党首(福島みずほ党首は開始前に会場に立ち寄り挨拶)、れいわ新選組の櫛淵万里共同代表、日本維新の会の空本誠喜衆院議員、他各党国会議員が複数出席。
核兵器廃絶と被爆者援護に関する超党派の議員懇談会の立ち上げを、という要請に、出席した各党代表全員が賛同し参加すると表明しました。
10日午前の厚生労働省交渉では、被爆者援護対策室の堀仁美室長ほかが出席。積極的回答はありませんでしたが、介護手当の受給に関する問題では自治体の状況を確認する、と答えました。
10日午後3時からの外務省要請には、中村仁威軍縮不拡散・科学部長ほかが出席。非核三原則は我々の大事な政策で一丁目一番地である、核兵器禁止条約は第1条で核抑止を明確に否定しており、国民を守るためには条約に入ることはできないと述べました。
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国連の「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」(9月26日)に派遣され、ハイレベル会合で訴える機会をいただきました。この国際デーで日本被団協が発言したのは初めてです。
終末時計は「人類最後の日」まであと89秒。この人類の瀬戸際に、わずか3分の演説で何をどう訴えるべきか-私は「会場の皆さん方、人類がみんなヒバクシャになるのでは」と冒頭に投げかけました。今、立ち上がらなければ間に合わない認識を共有したいとの思いを込めて。
そして、会場にはいない核保有国のリーダーたちに「私たち被爆者と面談する機会を、ぜひ設けてください」と訴えました。「こちらを振り向いてください」と重ねて訴え、降壇しました。アフリカの代表らしき人から握手を求められ、胸が熱くなって、参加できてよかったと思いました。
この日アフリカのガーナが核兵器禁止条約の74番目の批准国に、キルギスが95番目の署名国に。ICANのメリッサ・パーク事務局長の案内でそれぞれの記念式を訪ねる機会に恵まれました。「日本被団協としてとてもうれしい」と伝えると「ヒダンキョーから来ていただいた」と大変、喜んでもらいました。
滞在中、昨春広島を訪れた米国のカトリック平和団体代表と交流できました(写真)。来年、トランプ政権への要請行動を日本被団協と協働で、との要望も受けました。
厳重な警備と交通規制の数日間、歩く時間も多く、老体にはきつい旅でもありましたが、随行の方々のおかげで乗り切れました。私たちの運動はますます、支援なくして成り立たないことを、改めて実感しています。
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10月5日に「被爆・終戦80年を迎えて」をテーマに第75回近畿ろうあ者大会(近畿ろうあ連盟主催、一般社団法人京都府聴覚障害者協会主管)が京都テルサで行なわれ、近畿から約650人の聴覚障害当事者、関係者が集いました。第2部企画で京都府原爆被災者の会の榎郷子氏、愛媛県原爆被害者の会の松浦秀人事務局長による講演を行ないました。
当会は旧優生保護法問題について、優生保護法問題の全面解決と被害者の救済支援などを行政に働きかけています。
日本被団協のノーベル平和賞授賞までの道程の中で、結成宣言の「自らを救うとともに人類の危機を救う」という内容はまさに優生保護法問題が単なる障害者問題ではなく人権問題であるという本質と共通しています。
人権や福祉は平和によって保障されるものだということを再認識し、核兵器による被爆者を二度と出さないことを、社会そして次世代に届けるために運動の継承を呼びかけます。(京都府聴覚障害者協会・田中勇吾)
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10月17日、きょうされん(旧称・共同作業所全国連絡会)と奈良県生協連・ピースアクションをすすめる会の共同企画「きょうされん第48回全国大会in奈良/ピースアクションinなら2025」を奈良県コンベンションセンターで開催し、全国から障害者とその支援者1500人、生協組合員・役職員150人が参加しました。
「被爆・戦後80年、障害のある人と戦争を考える」と題して、日本被団協の濱住治郎事務局長が基調講演。きょうされんの藤井克徳専務理事とのトークセッションで課題を深めました。
「まだ戦争は終わっていない、再び被爆者をつくらせない、命をかけて訴えていく」との濱住事務局長からのメッセージを受けとめ、一人一人が主体者となること、次世代に継承し忘れないことが私たちの義務であると、学び考える機会になりました。(奈良県生協連専務理事・奥西武史)
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気象学者の増田善信先生が6月9日、101歳で亡くなりました。
厚生労働省が2020年11月から始めた「黒い雨」検討会に、日本被団協は増田先生を推薦。検討会で先生は、被爆者の残した手記を解析して被ばく実態を解明するように意見を述べました。数回開かれた検討会で、会議直前に配布された多くの資料に先生はすべて目を通され、会議では一番に発言。真摯に穏やかに話される増田先生には、委員のみなさんも一目置き、尊敬を集めていたように思います。
先生が90歳の時に、私の住む稲城市で増田雨域について講演をいただいたことがありますが、立ったままで1時間を超える講演をしてくださいました。その後も元気に活躍されており、先生のように生きることができたらいいなと密かに思っていました。
先生の長年にわたるご活躍に感謝を申し上げますとともにご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。
(写真=山田尚弘)
昨年の10月、被爆80年を前にして、ノーベル平和賞の授賞の発表を受け、全国の各県被団協は、大きな喜びと共に、多忙な日々を送ることになりました。各団体で開催される集会、メディアへの対応、海外からも多くの依頼がありそれは現在もなお続いています。あの日から一年が経とうとしています。
ノーベル平和賞受賞によって日本被団協という団体が、また被爆者の存在とその活動が国内外に知られることになりました。しかしまだ十分とはいえません。被団協が伝えたいことは核兵器の廃絶と、原爆被害への国家補償の二本の要求です。自分たちが経験したことを証言として語ることによって、核兵器は使ってはならない絶対悪の兵器である事を示してきました。国が始めた戦争の責任を国がとれば、国家の財政は成り立たなくなり、過去だけでなく将来の戦争をも阻止する抑止力になる、と考えます。核による抑止力は、根拠がないものです。相手を威嚇し、自分の意のままに従わせようとすることで、世界の平和は保つことはできません。
1956年の被団協結成時のような署名活動の広がり、一人一人の市民が共感して草の根の力を示す行動が必要です。日本国民の70%が核兵器禁止条約への参加を希望しています。全国では734地方自治体議会(1788自治体の41%)が政府に核兵器禁止条約に署名、批准を求める意見書の採択を決議しました。そして世界では95カ国が署名、74カ国が批准・加入をしました(10月2現在)。
これら個人から世界へとつながる行動を広げましょう。証言活動の普及、一人でも多くの被爆者が語る事によって、署名を集め議員が行動を起こすことを求めましょう。超党派で懇談することを求めましょう。今年の総会の議論の中ででた「目に見える運動」への行動を、多くの市民団体・個人に呼びかけます。唯一の戦争被爆国の国民として核兵器使用が及ぼす結末を知るものとして共に行動しましょう。
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東北ブロックの中央相談所講習会が9月27~28日、青森県八戸市で開催され、山形を除く東北5県から24名の被爆者・支援者が参加しました。
初日の、日本被団協田中熙巳代表委員の講演は準備を重ねて一般市民に公開したところ、青森市からバスで参加の50人程の支援者の皆さんや岩手県からの参加等で、会場の250席はいっぱい、立ち見の方も出てしまいました。オンラインでも6カ所で69人が視聴、合わせて320人を超える参集となりました。「70年間の活動に励まされました」など多くの感想が寄せられました。
また、講演後に田中さんとの懇談の場を設けたところ30人程が参加。中には、八戸に帰省中の国連アンルワ(パレスチナ難民救済事業機関)職員の方からの切実な報告や質問もありました。
2日目は、原玲子中央相談所相談員から制度の変更点や注意点についての講義がありました。その中で、先達の皆さんが勝ち取って来た制度をきちんと使うことの大切さが強調されました。東北各県からの報告では、それぞれが状況に応じて懸命に取り組んでいることがらについて交流し合いました。来年は岩手での開催を確認して散会しました。(佐藤孝雄)
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高知市の自由民権記念館で10月19日、「原爆80年目の証言」が開催されました。高知県原爆被爆者の会主催、原水禁、原水協などの団体が支援し81人が参加しました。
斎藤喜美子さん(写真)は、被爆当時女学校2年生。家が崩壊しトンネルの中での避難生活などの様子を語り、「戦争は絶対にいかん。これからも起きないことを祈っている」と結びました。
中学1年生の時被爆した植野克彦さんは、80歳まで原爆の事は語ってこなかったと話し、「生き残り(死に損ない)として負い目を感じて来たが、生きている限り語り継いでいきたい」と決意を語りました。
この催しに高知県から来賓の挨拶があり、連携して県庁で「原爆と人間展」を開催することが紹介されました。
日本被団協代表理事の松浦秀人さんは、閉会あいさつで、核兵器禁止条約に日本政府が参加する署名への協力を呼びかけました。(松繁美和)
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今年3月、北海道被爆者協会は高齢化のためやむなく解散し、4月から被爆者と被爆二世と非被爆者(支援者)で北海道被爆者連絡センターを発足させました。被爆者が背負ってきた課題をみんなで担っていこうという趣旨です。
毎年道庁ロビーで行なってきた「被爆の証言と原爆展」や原爆死没者北海道追悼会、そして学校や諸団体への被爆者の語り部活動を実施。
8月6日には『平和継承-核兵器も戦争もない世界を-被爆者の証言第5集』を発刊しました。被爆者の証言と継承を意識し、「被爆80年に伝えたいこと」「いま語る、あの日の出来事」「明日の語り手をめざして」「北海道被爆者協会の歩んできた道」「被爆二世プラスの会北海道の活動」の5章だてです。
北海道ではほぼ10年ごとに被爆者の証言集を発行してきました。札幌市のある高校生有志は、証言集から被爆者の言葉を選び、朗読劇「あの日あの時ヒロシマで(ナガサキで)」を制作、上演し感動を呼んでいます。ふたたび被爆者をつくらないために、被爆者が語ったこと、記録やモノを生かしていくことが、いちだんと大事になってくるのではないでしょうか。
(北明邦雄)
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核兵器廃絶ネットワーク主催の「核廃絶ピースウェーブinみやぎ」を9月22日、仙台市元鍛冶丁公園で行ないました。
約30人参加のミニ集会では事務局の佐々木ゆきえさんが開会あいさつ。署名呼びかけ人の佐藤郁子さんが、今、仙台空港や仙台塩釜港が平時でも軍事訓練ができるように特定利用空港・港湾にされようとしていることを紹介し、平和を守るために力を合わせましょうと呼びかけました。また、今年の原水禁世界大会に参加した渡部歩さんが大会の報告と核兵器廃絶への決意を述べました。
続くピースパレードでは、にぎわう一番町を「核兵器を無くしましょう!」とコールしながら歩きました(写真)。手を振って応援してくれる方もいました。最後の署名行動では高校生も応じてくれ、28筆を集めることができました。
(核廃絶ネットみやぎ)
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| 兵庫コンサート |
兵庫県原爆被害者団体協議会は10月11日、神戸市で慰霊祭・追悼コンサートを行ない、約170人が参加しました。
岸本吉弘副理事長の式辞、芦屋市長、淡路市長、高校生平和大使ほか来賓からの追悼の辞、多くのメッセージ紹介の後、全員で献花しました。
続いて被爆80年追悼コンサート。被爆ピアノの演奏では矢川光則さんが「被爆し修復したピアノは12台。47都道府県をまわりニューヨークへも遠征したピアノを運んできました」と語り、広島出身のピアニスト長谷川香織さんが演奏。子どもたちの「カノンムジークジュニアアンサンブル」30人の弦楽大合奏。昭和座のアンサンブル演奏の後、「原爆を許すまじ」を全員で合唱しました。
(空ゆかり)
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9月27日、「戦後・被爆80年あいち平和のつどい」が名古屋市公会堂で開催されました。愛知県原水爆被災者の会(愛友会)をはじめ、多くの労働組合・市民団体でつくる実行委員会主催。
午前には大ホールで「被爆80周年原爆犠牲者を偲ぶつどい」。被爆者や遺族、来賓、支援者など400人余が参列。「平和の誓い」を椙山女学園高校2年の吉田小桜さんが行ないました。
午後からは3部構成で文化企画が行なわれ、朗読・合唱・舞踏を織り交ぜて構成された「広島第二県女二年西組」(写真)、被爆者と高校生、科学者のパネルディスカッション、みんなでつくる平和のステージ。フィナーレは、2025年あいち平和行進の行進団が壇上に上がり、合唱団とともに「折り鶴」を参加者全員で歌いました。
大ホール以外でも様々な展示などが行なわれ、2千人を超える集いとなりました。(大村義則)
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被爆者の方々の声が、苦しみが、涙が、魂が、いま確かに伝わりました。広島、長崎に行ったこともあります。被爆した友人もいます。それにもかかわらず、知っているつもりでいたことは、なんと浅く、なんと狭かったことでしょう。
読み終わるまでに長い時間がかかりました。読みながら何度も何度も「はじめに」に戻ったからです。この見開きページに、「ノーモア・ヒバクシャ」の思い、過去から現在に生きて、未来を守ろうとしている強い姿勢が感じられます。
「原水協」「原水禁」という団体名は子どもの頃から耳にしていましたが、お恥ずかしいながら「被団協」は長い間知りませんでした。被害を受けた当事者の団体があること、そして地道に闘われてきたことをはっきり知ったのは、核兵器禁止条約発効のニュースより後、被団協がノーベル平和賞を受賞されたときです。さらには8月の地元の平和展で濱住治郎氏の講演を聞き、『被爆者からあなたに』を読む機会をいただいてからです。
核兵器禁止条約は国連で採択され、多くの国の署名、批准を経て発効した国際的な合意ですよね。「唯一の戦争被爆国」だから率先してすべきことを、「唯一の戦争被爆国」なのに不参加…理解に苦しみます。
多くのことを考えさせていただいた本でした。
私は、ロサンゼルスに住む日系アメリカ人の高校生です。母方の家族が広島と長崎に住んでいます。自分のルーツに関係する歴史に強い関心を持っており、アメリカの公立の学校のカリキュラムで第二次世界大戦がどのように教えられているかをリサーチしています。
このリサーチを始めるきっかけとなったのは、大学レベルの歴史のコースを取った際、第二次世界大戦の章に日本の情報がかなり欠如していることに疑問を持ったことでした。それでまず、自分の学校や他校の高校生30人にインタビューし、日本との戦争についての意識調査をしてみました。
結果、30人のうち28人が、アメリカでの日本人の強制収容について少しは知っているが日本側の受けた影響についてほとんど知識がない、ということが分かりました。逆に「どれくらいの人が原爆で被害を受けたのか」「どうやって広島は復興できたのか」「日本はアメリカのことをどう思っているのか」など、多くの質問を返されました。
正直なところ、初め私も彼らと全く同じ疑問を持っていました。なぜなら、小学校から高校を通して、学校の歴史のクラスでは戦争の影響についてはほとんど習わず、平和学習というものもなかったからです。
(次号につづく)
【問】夫(被爆者)の介護をしています。入院中、病院で介護保険の申請をするようにいわれ申請したところ、「要介護2」となりました。退院後は私が介護を担っていますので、「家族介護手当」が受けられるのではないかと申請しました。ところが該当しない、との結果でした。私が介護をしているのですから「なぜ却下になったのか」納得できません。県にきいても私が納得のいく回答はもらえません。
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【答】日本被団協中央相談所では「介護が必要な場合、介護手当の受給を」と、介護手当の普及に努めています。
「介護手当」には、①費用を出してヘルパーや知人、別居の家族に介護を受けている場合の「費用介護手当」と②同居家族が介護している場合の「家族介護手当」の2種類があります。
あなたの場合は同居されているお連れ合いを介護されているので②の家族介護手当に該当しますが、これは介護を受ける被爆者の障害の状態が重度の場合にしか支給されません。介護保険での「要介護4」か「要介護5」に該当するといわれていて、介護を受ける被爆者がこの状態に該当するかどうかが問われます。
却下理由はおそらくお連れ合いの状況が重度障害に該当していないということだと思われます。
日本被団協は厚労省に、家族介護手当も費用介護と同等に「中度」障害を対象にすること、また手当額も月額「6万円」に(現在2万4190円)と要請を続けていますが「財政困難な折、難しい」との回答しかもらえていません。
老々介護や、仕事を止めてなど、家族が介護に専念するためには様々な苦労を抱えながらというのが実情だと思います。引き続き厚労省には被爆者や家族の思いを訴え続けていきます。
日本被団協原爆被爆者中央相談所では、3冊のガイドブックを発行しています。家族やケアマネジャーにも見せるなどしてご活用ください。
現行法による被爆者施策(医療費の公費助成や手当の給付など)のうち、介護に関することを除き、詳しく解説しています。「介護編」と合わせての活用を。
60ページ、400円。
被爆者独自の介護手当の内容や介護保険サービスについて、条件や申請方法など詳しく解説しています。
85ページ、400円。
「被団協」新聞に連載中の「相談のまど」に掲載されたものを中心に、具体的事例にもとづく相談内容をまとめました。
現行法にもとづく被爆者施策をまとめた「被爆者相談のための問答集No.30<改訂版>」、介護に関する内容に特化した「被爆者相談のための問答集No.31<介護編>」と併せてご活用ください。
90ページ、400円。
<以上、すべてA5判、送料別>
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| 上・表書き 下・はがきの文面 |
「あなたたちの心、頭脳、そして勇気は私に深く感動を与えます。心から敬意を表します。イギリスの農民ペニーより」。
今年初め、日本被団協事務所に英国からのはがきが届きました。表書きは「To Hibakusha Japan」と書かれただけですが郵便局の判断で、ノーベル平和賞で話題になった日本被団協に届けられたものと思われます。
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昭和18年10月16日、戦争が激化する中で行なわれた野球の早慶戦。試合終了後、早慶の学生が一緒になって「若き血」「都の西北」を、涙を流しながら歌った。やがて沸きおこった「海ゆかば」のメロディー、スタンド全員の大合唱となって早稲田の杜にこだました。この感動を記録した書籍『学徒出陣最後の早慶戦』が1980年に出版され、現在絶版となっています。戦後80年の節目の今年、この史実の上に今の平和があることを伝えようと、著者松尾俊治の遺族で保存会を立ち上げ、復刊プロジェクトを開始しました。詳しくはホームページ https://saigo-soukeisen.com をご覧下さい。(『最後の早慶戦』保存会会長 中野雄三郎)
「被団協」新聞では、読者の皆さんからの原稿を募集しています。
「『基本要求』を読んで」、「『被爆者からあなたに』を読んで」などのほか、地元被爆者の会その他グループでの、各種イベントや証言活動、署名や街頭行動などの報告を、写真と共にお送りください。開催予定のイベントの告知もお待ちしています。
また、身のまわりで起こったことや、日ごろ思っていること、「被団協」新聞の感想なども、気軽にお送りください。
氏名、年齢、住所、電話番号を明記して、郵送かEメールまたはFAXで。写真はEメールに添付か、プリントして郵送してください。