被団協新聞

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「被団協」新聞2024年7月号(546号)

2024年7月号 主な内容
1面 国家補償の原爆被害者援護法と核兵器廃絶の実現を国民とともに
 日本被団協第69回定期総会

「基本要求」巡回展とシンポ
2面 厚労省、各政党に要請 日本被団協が中央行動
被爆者運動と日本国憲法 NH9が全国交流会
50人参加で定期総会 広島県被団協
総会決議
特別決議 ~日本国憲法の精神で国際紛争の解決を~
非核水夫の海上通信(239)
3面 『ノーモア・ヒバクシャの願い』DVD完成 北海道
平和の願いを後世へ 長崎原爆青年乙女の会
核禁条約の必要性訴え 広島被爆者7団体
『被爆者からあなたに』を集団証言 兵庫二世の会
被爆者運動に学ぶ ― ブックレット「被爆者からあなたに」を読んで
 「被爆者から私に」向けられているもの

「原爆被害者の基本要求」策定40年 連載(4)
4面 相談のまど
 医療特別手当の更新手続きが遅れた時
 手当はさかのぼって支給されますか?

東京都生協会館に展示コーナー ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
投稿 父の戦争体験から…
投稿 ビキニデーin高知

 

国家補償の原爆被害者援護法と核兵器廃絶の実現を国民とともに
日本被団協第69回定期総会

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 日本被団協は6月19~20日、東京のTKPガーデンシティお茶の水で第69回定期総会を開きました。30都道府県から約90人が参加。基調報告、活動報告、会計報告、運動方針、予算、役員選出(3面に役員名)、総会決議と特別決議(2面に全文)を承認・決定しました。

 箕牧智之代表委員があいさつで「原爆投下から79年。被爆者は11万4千人になり、平均年齢は86歳。一貫して核兵器なくせと訴えてきたが、世界では戦争が続き子どもたちの命が奪われ食べ物もない様子に胸が痛む」などと述べました。

国民と肩を組んで

 木戸季市事務局長が基調報告を提案。次のように述べました。「核兵器の廃絶と、国家補償にもとづく原爆被害者援護法を求めます。核兵器禁止条約に日本政府は参加しよう、と呼びかけます。敵地攻撃能力=先制攻撃力の保有などでなく、反戦平和を、多くの市民団体や反核平和を望む国民のみなさんと肩を組んで訴えます。少数化する原爆被爆者の実情を踏まえて、日本被団協と各県被爆者団体の将来像の方向性を、被爆80年には確定しましょう。より良き未来のために」。

支援者との協働と被爆者運動の継承

 初日の2023年度活動報告の提案、2日目の今年度運動方針の提案を受け、会場から活発に発言がありました。
 ◆「黒い雨」被害者の新たな手帳交付者が増えている。まだ知らない人もいる。全国に呼びかけてほしい。
 ◆首都圏に二世の拠点を設けてほしい。
 ◆二世も高齢化して病気をいくつも抱えている。早く二世委員会でとりくんでほしい。
 ◆証言をする時、「原爆と人間」パネルを収録した冊子を使っている。市の全部の学校で購入してもらうことができた。しかし、核兵器禁止条約の記述が入っていない。改訂版を作成してほしい。英語版も。今後もこの冊子を広げていきたい。
 ◆愛知では、被爆80年に向けての活動方針を決めた。広島長崎への被爆者と二世・三世の慰霊訪問、100人のビデオ録画証言集の作成。慰霊祭・原爆展などふくめ2000人規模の県民のついどいの開催など。被爆者運動の継承については、支援ネットワークとの協働で、解散した地域の会の再建に取り組む、被爆者、二世、支援者(非被爆者)が協働して、記憶の共有化、証言活動に関わっていく。語り部チームでは証言の原稿を一緒に作る、など。国民世論に訴え、世界に発信していくように統一した観点ですすめていきたい。
 ◆北海道では、北海道被爆者協会の在り方とノーモア・ヒバクシャ会館の施設をどうするか、2018年の秋ごろから諸団体とともに検討してきた。2022年から具体的な折衝を始め、今年5月19日の総会で、来春をもって協会は解散することに決めた。被爆者が高齢化し活動が困難となりやむを得ないが、被爆者が背負ってきた活動は続くため、被爆者連絡センター(仮称)をつくり、被爆者、二世、非被爆者が個人で参加し、相談、語り部、追悼会など被爆者の活動を受け止め仕事をしていく。ノーモア・ヒバクシャ会館は、学校法人北星学園に建物、土地、収蔵品など無償で譲渡することが決まった。同学園はこれまでも協会の結成、会館の建設、追悼会など支援してきており、今後も平和教育、研究に力を入れてくれる。

国際活動

 このほか総会では、今年度の国際活動について木戸事務局長が報告しました。7~8月にジュネーブで開催のNPT再検討会議第2回準備委員会に児玉三智子事務局次長が参加。8月にカザフスタンで開催の核被害者フォーラムに木戸事務局長が参加。また2025年3月にニューヨーク国連本部で開催の第3回核兵器禁止条約締約国会議については、日本被団協からも参加予定(人数等はこれから検討)です。


「基本要求」巡回展とシンポ

明治学院大3年 室田素良
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 昭和女子大学戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトは5月25~26日に巡回展「被爆者たちが望む未来 あなたが望む未来-原爆被害者の基本要求を読む-」を、明治学院大学横浜キャンパスの戸塚まつりで開催。会場には170人が来場しました(写真左)。
 26日には展示会場で約30人が参加してミニシンポジウム”「原爆被害者の基本要求」を読み解く”を開催しました(写真右)。「基本要求」の「歴史的位置づけ」を福元彩文が、「策定プロセス」を大塚美莉亜が、「込められた被爆者の想い」を室田素良が それぞれ報告。「基本要求」が全国の被爆者からの訴えを丁寧に聞き取りながら、きわめて民主的なプロセスを経て策定されるに至ったことが確認されました。また被爆者の多様な声は、①とにかく原爆が憎いという感情②アメリカや日本に求める謝罪③原爆被害に対する償い、に整理され、「基本要求」の軸が作りあげられたことを確認。そしてコメンテーターの長谷野新奈さん(立教大学卒業生)からは「基本要求」の具体的な見どころ、高原孝生先生(明治学院大学国際学部名誉教授)からは「基本要求」の現代的意義について、丁寧なコメントでシンポの議論を深めていただきました。
 参加者からは「「受忍論」や「基本要求」自体を初めて知った」「戦後の被爆者がなにを感じ、行動したのかを分析することの意義を感じた」などの声が寄せられ、シンポ後も多くの人が会場に残り、熱のこもった意見交換ができました。
 ご来場下さったみなさま、史料提供してくだったノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会のみなさまに深く感謝申し上げます。


厚労省、各政党に要請
日本被団協が中央行動

 日本被団協は定期総会翌日の6月21日、約60人が参加し中央行動を行ないました。
 午前11時から1時間厚生労働省交渉、午後は政党への要請行動でした。
 厚労省交渉では、原子爆弾被爆者援護対策室の岡野和薫室長ほかが出席。要請事項について口頭で回答しました。これまで同様積極的回答はありませんでしたが、質疑の中で二世検診の県内の結果をまとめて公表してほしいとの要望に、「県が活用することは差支えない」と回答しました。
 午後の政党要請は、自民、公明、立憲、国民、維新、れいわ、社民の各党にグループに分かれて要請。党首宛要請書を手渡し懇談しました。共産党は別日となりました(次号で報告)。

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厚労省要請 自民党
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立憲民主党 公明党
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社民党 国民民主党
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日本維新の会 れいわ新選組

被爆者運動と日本国憲法
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NH9が全国交流会

 6月20日の総会終了後、ノーモア・ヒバクシャ9条の会(NH9)全国交流会が開かれました。
 政府の行為による戦争を否定した日本国憲法の土台を掘り崩す基本懇の原爆・戦争被害「受忍」論。「原爆被害者の基本要求」はこれをのりこえようと作られました。
 戦争準備が国民に受忍させられつつある今、「基本要求」に結晶した被爆者運動の日本国憲法との深いかかわりを顧みながら、20数名の参加者はそれぞれの日本国憲法との出会いや今の情勢への危機感を語りました。
 「戦争が終わって、校舎はボロボロだったが、民主主義、主権在民の憲法を学び、日本はもう戦争しないんだと本当にうれしかった」「日本があの戦争をしていなければ、原爆投下はなかった」。「戦争と原爆を一体として反対したい」は皆に共通する思いです。
 県内全議会の決議を何度も実現してきた秋田からは「地方議会に戦争を知る議員がいなくなり、今までの手法では賛同が得られない」と、新しい工夫の必要も語られました。
 9条をはじめ前文や25条、主権在民、基本的人権の尊重など、日本国憲法の精神を生きてきた被爆者運動。その豊かな経験を学び合い、今こそ活かしたいと実感した交流会でした。


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50人参加で定期総会
広島県被団協

 広島県被団協は6月3日、地域の会から50人が出席し、大手町平和ビルで定期総会を開催しました(写真)。「命ある限り核兵器廃絶の声を上げ続けるが、二世などに運動を託していくことも考えながら取り組みを展開する」との基本的考えのもと、核兵器廃絶、被爆者援護とともに、二世への援護施策要望などの議案を承認しました。
 また、総会でも発言のあった8月6日広島市主催の平和記念式典への海外政府代表の招待を巡って、6月10日、市に申し入れを行ないました。式典にはあらゆる国を招待すべきとの基本的考えを踏まえた上で、ロシアとベラルーシを呼ばない状況の下では、将来ある子どもたちの人権を無視し虐殺を続けるイスラエルの招待は撤回するよう求めました。
(広島県被団協)


総会決議

 日本被団協の結成時の1956年に、私たちは「世界への挨拶」の中で、「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」と高らかに表明しました。
 原爆投下後から、日米両政府により何の援護もなく捨ておかれた原爆被害者たちが、ビキニ事件(1954年)を契機に、他の支援団体と共に、国民運動と言える大きなうねりとなって、やっと声を発することが出来ました。
 「自らを救う」とは国が起こした戦争によって、愛するものをなくし、自らも心身ともに傷ついた身が、手をつないで決然と立ち上がることで生きる力を得、さらに国家に補償を求めること。そして、この非人道的な結末をもたらした兵器を廃絶することで、人類の危機を救おうという決意を表すものでした。
 被団協運動の二本の柱としての「国家補償」と「核兵器廃絶」の要求は、1984年に策定された「原爆被害者の基本要求」に明確に記され、運動は引き継がれてきました。しかし原爆投下80年を来年迎える今なお、成就しないままです。すべての原爆被害者に対する国の償い(国家補償)を実現し、核戦争を拒否する証しとなる「原爆被害者援護法」の制定を求めます。
 被爆者は平均年齢が86歳になり、その二世も高齢化しています。この2つの柱は、表裏一体である要求です。国が責任をとることの先には、再び戦争をしない、との国の立場を表明することであり、核兵器の廃絶の入口は、あらゆる意味において、戦争に加担しない平和憲法を活かす道なのです。
 被爆者は自分たちが経験した広島・長崎の惨禍は、決して繰り返されてはならないと強く願っています。国家補償を否定する「受忍論」も、核兵器禁止条約を否定する「核抑止論」も、ともに核戦争の可能性を肯定するもので、国のこれらの主張を容認することはできません。
 被爆者に残された時間は、多くはありません。「原爆被害への国家補償」と「核兵器廃絶」の要求とともに、被爆者が語る被爆の実相の普及、高齢化した被爆者の相談活動の充実、原爆被害者としての二世・三世への支援など、私たちは運動の原点に立ち返り、厚生労働省、外務省との交渉で、多くの支援者、団体と共に、課題の解決を求め続けていきます。


特別決議
 ~日本国憲法の精神で国際紛争の解決を~

 第2次世界大戦終結から間もなく79年、破壊力と残虐性において質的な変化となった非人道的な核兵器が広島と長崎に使用されてからも79年を迎えます。核兵器の使用禁止と廃絶を求めてきた原爆被害者と平和を求める世界の運動の成果が、3度目の核兵器の使用を押しとどめてきました。しかし、世界はいま最大の新たな核戦争の危機を迎えようとしています。
 アメリカと並ぶ核超大国ロシアのプーチン大統領はウクライナ侵攻を開始しました。ウクライナはNATO諸国などの支援を得ながら抵抗を続け、戦争は泥沼化しています。プーチン政権は核使用の威嚇をくり返し、戦術核兵器の演習まで開始しました。
 中東では、パレスチナのハマスのイスラエル市民への奇襲による殺傷と拉致に対抗し、ネタニヤフ首相の下でイスラエル政府はガザ地区に対し非人道的で、国際条約(国連人権宣言)にも反する居住地と学校、病院などへの攻撃を重ね、ジェノサイドの様相を呈しています。国連事務総長の発言や国際司法裁判所(ICJ)の勧告にも耳を貸さず、病人や子どもを無差別に殺傷しています。
 岸田内閣は、アメリカ・バイデン政権に追随し、中国の覇権主義に対抗してアジア危機を作り出しています。北東アジアの安全、台湾の危機を煽り、矢継ぎ早に戦争法を制定し、わが国の憲法を踏みにじる戦争への道を突き進もうとしています。
 被爆後一貫して核戦争に反対し、核兵器も戦争もない世界の実現を求めてきた原爆被害者は、今日の世界の状況を憂慮し、岸田政権の国際政治の中での姿勢に強く抗議し、これを直ちに改めることを求めます。
 岸田政権に重ねて求めます。直ちに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」日本国憲法を遵守すること。すべての国々の信頼の醸成に努め、すべての国々に直ちに戦闘の停止を求め、対話による解決を追求し実現することを強く要請します。


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『ノーモア・ヒバクシャの願い』DVD完成

北海道

 次代を生きる子どもたちに届けたいと、1年かけて制作を進めていたDVDが完成しました。24分36秒の中に、考えるためのテーマがたくさん込められています。
 原爆のすさまじさと非人道性、本郷弦さん(本郷新さんのお孫さん)による絵本『北の里から平和の祈り-ノーモア・ヒバクシャ会館物語-』の味わい深い朗読、そして作者の思いと被爆者から若者へのメッセージ。
 「よくできているね」と各方面で評判です。札幌市の全小中高校に寄贈しました。今後全道に活用を呼びかけていきたいと思います。貸し出しは送料込みで1000円、販売は送料別で2500円です。(北明邦雄)


平和の願いを後世へ
長崎原爆青年乙女の会

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 長崎原爆青年乙女の会記念碑のつどいが5月19日、約100人の参加で開催されました。
 長崎市長のメッセージを長崎原爆資料館の井上琢治館長が代読し、長崎平和推進協会の調漸理事長が挨拶しました。
 司会はMICHISHIRUBEの大学生、大澤新之介さん。歌は山里中学校コーラス部。そして、1982年にニューヨークの国連本部で開かれた第2回国連軍縮特別総会で日本被団協の代表委員だった故山口仙二さんが演説した原稿を、長崎南山高校の原田晋之介さん(二重被爆の山口彊さんのひ孫)が力強く読み上げました。また、語り継ぐ会の城臺美彌子さんの孫の中学生と小学生が花束と千羽鶴を奉納。
 大学生から小学生までそれぞれが被爆者の思いをつなぐ、平和を守る決意を述べ、若い力を感じるつどいとなりました。
(長崎被災協)


核禁条約の必要性訴え
広島被爆者7団体

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 核兵器禁止条約の署名・批准を日本政府に求めて、広島被爆者7団体が5月22日、広島市の平和記念公園で署名活動をしました。被爆者たち10人が横断幕を掲げ、観光客などに「あなたの一筆を」と呼びかけました。
 米国が未臨界核実験をして、抗議行動をしたばかり。今度はロシアが戦術核兵器の使用を想定した演習を始めたとの発表に、参加者は演習中止、核不使用、停戦などを怒りを込めて訴えました。
 このような核依存の悪循環、危機から脱するため、核兵器禁止条約の必要性を呼びかけ、61筆が集まりました。
(田中聰司)


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『被爆者からあなたに』を集団証言
兵庫二世の会

 兵庫県被爆二世の会は6月1日、神戸市の東灘区文化センターで、定期総会と「ピアノと声で伝える原爆」を開催、39人が集まりました。
 「ピアノと声で伝える原爆」では、紙芝居「ふるいしさんのはなし」を上演。会員による「父の証言」の後、岩波ブックレット『被爆者からあなたに』を8人のメンバーで朗読しました。
 参加者から、悲惨な原爆の体験の朗読も、ピアノの音色も心に響いた、との感想がありました。高校生平和大使メンバーからは、「唯一の被爆国である日本に住んでいる私たちだからこそ、戦争によって起きてしまった残酷な歴史を、私達の次の世代に受け継いでいかなければならないのだと感じました」「被爆二世の方達のお話を聞いて、戦争の悲惨さや、核や原爆は反人間的な兵器だということを改めて実感させられました」「兵庫県でこのような会を行なっていることに驚きました。『被爆者からあなたに』では、被爆した後に苦しめられるような話が多く、心が痛くなりました。原爆で色々なものを失っているにもかかわらず差別などを受けた話にはショックを受けました」などの感想が寄せられ、若い方々に原爆体験は伝わっていることを実感しました。(中村典子)


被爆者運動に学ぶ ― ブックレット「被爆者からあなたに」を読んで
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「被爆者から私に」向けられているもの
長谷野新奈 立教大学卒業生

 被爆者運動の歴史は、現代を生きる私たちに、「人間として生きる」ための知恵と勇気をもたらしてくれるものだと考えています。
 学生時代に原爆体験の継承をテーマに研究をしていました。研究を始めた当初の私は、「原爆被害の苦しみは私には到底わかりえないものであり、その苦しみを理解しきれない者が核廃絶などを声高々に叫んでもよいのだろうか」と思っていました。
 しかし被爆者たちが積み重ねてきた運動の歴史そのものに接近していくと、その認識は改められていきます。被爆者たちが求める核兵器廃絶と原爆被害への国家補償は、被爆者が「自らを救う」ための要求であったと同時に、日本という国を超え、時代を超えたどんな人にも、原爆被害の苦しみを二度と味わわせないための要求だったのです。被爆者による運動がまさに「被爆者から私に」向けられていたものだったということ。そしてその運動を共に続けていこうと、私たちは常に呼びかけられているのだということ。
 同じ研究仲間が言っておりました。「このブックレットのタイトルは『被爆者からあなたに』なんだよね」。運動の歴史を私たちが受けとり、それを今にどう生かしていけるのか。それを問いかけてくれる一冊であると思います。


「原爆被害者の基本要求」策定40年

連載(4)

 「原爆被害者の基本要求」についての報告 ――作成の経過と内容――
 1984年11月17日日本被団協全国代表者会議(報告者=「要求骨子」検討委員会副委員長 吉田一人)から


◆「基本要求」の内容
「核戦争起こすな、核兵器なくせ」
 それでは、「ふたたび被爆者をつくらない」という願いはどうすれば実現できるのか。それが、本文の二つの項目です。「ふたたび被爆者をつくらない」ためには、核兵器をなくしてしまう以外に具体的な方法はありません。このことが、第一にあげた「核戦争起こすな、核兵器なくせ」です。被爆者は、たとえ「抑止」のためであろうが、「均衡」のためであろうが、また「必要悪」といおうが、どんな理由であれ、核兵器を認めることは絶対にできません。「基本要求」はその立場に立って、アメリカを始めとした核兵器保有国と日本政府への要求をまとめているのです。被団協として、核兵器廃絶の要求をこういうかたちでまとめたことは、これまでありませんでした。
 アメリカに対する、原爆投下への謝罪要求は、<広島・長崎への原爆投下が人道に反し、国際法に違反することを認め、被爆者に謝罪すること>と書かれています。アメリカが核戦争政策をとり続ける国から非核国に変わっていくためには、どうしても広島・長崎への原爆投下、あの行為は間違いであった、ということを認める段階がなければならないはずだ。広島・長崎に知らん顔をしたまま、核兵器を捨てます、というようなことは、人間の良識として考えられない。また。被爆者の気持ちとしても、アメリカへの謝罪要求はどうしても入れておく必要がある、と思います。しかし、だからといって、カネをよこせと言っているわけではありません。<その証しとして、まず自国の核兵器を捨て、核兵器廃絶へ主導的な役割を果たすこと>と書いてあります。それが、アメリカが謝罪する方法、償いの道なのだ、ということです。
 これは余談になりますが、きのうの新聞の夕刊(朝日、毎日)に、アメリカはさらにたくさんの原爆を日本に落とすはずだった、という記事が出ていました。あの時点でアメリカが持っていた原爆は3発--実験に1発と広島・長崎に1発ずつ--だけだったのですが、9月になると7発つくれる、さらに1カ月に十何発ずつつくれる、それで日本には50発ぐらい落とすはずだった、というのです。50発もの原爆が落とされたら、日本はどうなっていたでしょうか。この記事によると、原爆開発計画(マンハッタン計画)に加わっていた人たちは、原爆が巨大な爆発を引き起こすことは知っていても、投下後、長年にわたりガンや白血病など放射能による被害が続くことはまったく知らなかった。広島・長崎から、原爆投下後こうした放射能被害の報告が入ってきても、軍当局は日本への同情を目的にしたデマ宣伝だと言っていた、というのです。こうしたことをアメリカのあるジャーナリストが調べて本を書いた、という記事です。
 いまでは、広島型原爆にして百万発分の核兵器があるといわれています。これを実際に使用させないためには、核兵器の完全な禁止、それは1日も待てない緊急要求です。
 日本政府に対する要求の項では、原案にはなかった<ふたたび被爆者をつくらないために「国家補償の原爆被害者援護法」をすぐ制定すること>を〔5〕として入れました。「ふたたび被爆者をつくらない」ための援護法というからにはここに入れておくべきだ、という意見がたくさんありました。もっともだと思います。〔1〕から〔4〕までの、非核政策要求の裏付けとしても、援護法が必要だということです。


相談のまど
医療特別手当の更新手続きが遅れた時
手当はさかのぼって支給されますか?

 【問】95歳になる父(被爆者)は、お金の管理も含め身の回りのことはすべて自分で行なってきました。しかし、2年前くらいから認知症の症状がでて、これまでできていた預金からの引き落としなどが出来なくなってきていました。
 先日、やっとの思いで預金通帳を預かり見てみると、昨年5月まで毎月入金されていた14万円余りが、それ以降入金されていません。父は10年前に胃がんで原爆症の認定がされたと聞いていましたが、これはその手当金でしょうか。役所に問い合わせると、書類を送ったのに手続きがされていないためだといわれ、これから書類が提出されればその月から支給する、といわれました。どういうことでしょうか。

*  *  *

 【答】父親がお金の管理をすべて自分でしていたが認知症などで難しくなった、にもかかわらず「自分は大丈夫」と言って抱え込んで離さず、気がついたら大変な事態になっていた-という話をよく聞きます。
 昨年5月には医療特別手当の更新手続きの書類が届いたけれど、お父さんはどうしたらいいかわからなくてそのままになったのでしょう。
 原爆症認定を受けた人に支給される特別医療手当は、「現に治療を要する状態」が続く間は支給され、「医療を要しない状態」になった、つまり治癒した場合には特別手当が支給されます。お父さんの場合、胃がんで原爆症の認定を受け9年経っており、治癒状態になっていれば「特別手当」に切り替わります。いきなり「打ち切り」というのも、昨年5月にさかのぼらず書類提出した時から支給というのも納得できません。改めて役所の担当者に伝えてさかのぼって支給するように強く言ってください。
 原爆症認定を受けている被爆者の多くが高齢になり、認知症や施設入所などで医療特別手当の更新手続きが困難な状況に置かれています。家族や周りの人が気を付けることが必要です。
 日本被団協は厚労省に対して、手当受給者が高齢であることを考慮し、書類を一度郵送して返事がない場合は再度連絡をとるなど、実態に合った対応をしてほしいと申し入れています。


東京都生協会館に展示コーナー
ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会

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 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会の資料を保管し、また整理・分類・研究の重要な拠点であった愛宕山資料室が、都市再開発による取り壊しのため3月末日に閉室となりました。幸い、東京都生協連のご厚意により、所蔵資料の多くを東京都生協連会館(東京・中野)の倉庫や会議室の一部に暫時お預かり頂き、整理作業等も同所で行なうことができるようになりました。
 さらに、同会館3階ロビーに、被爆者運動の歴史や当会の活動等を紹介する資料展示コーナーも開設しました。ブックレット『被爆者からあなたに』、『原爆被害者の基本要求』、写真パンフ『HIBAKUSHA』、『被爆者援護法のはなし 6問6答』等を閲覧できるほか、国連原爆展のオンライン版のポスターやリーフレットなどから、被爆者運動史料を収集保存する当会の活動とその成果を知る場となっています。ロビーはどなたでも入れますので、ぜひごらんください。
(継承する会事務局)


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父の戦争体験から…

熊本 原田俊二

 5月19日、私の故郷・熊本県宇城市で「語りつごう戦争」展の中で「平和を祈るつどい」が開催され、私に報告をとの依頼があり、思いを語らせていただきました。責任者は同じ小学校の一年先輩、新日本婦人の会で一生懸命平和活動をしておられる方で、約60年ぶりの再会に懐かしく、尊敬の念が湧いてきました。
 私の父は1908(明治41)年生まれ。29歳の正月に熊本六師団第十三連隊の一員として上海から派遣されて陥落した南京に駐屯しました。南京大虐殺の2週間後でおそらく多数の死体を見たであろうという時です。私たち兄妹は南京の事は一言もきいていませんが、父のメモを頼りに調べて大虐殺が事実であったと確信しました。
 その8年後に広島の暁6140部隊に派遣され広島の金輪島にて被爆。軍命により爆心地近くの船入町、南観音町に入り小型の舟で死体収容と瓦礫処理にあたりました。広島の惨状を、自ら見て、におい、触れたのです。
 広島の経験も、兄妹そしておそらく母もまったく聞かされていません。話せる状態ではなかった事は、後になって理解できました。
 このことから私は、日本は加害者でもあり被害者でもあることに確信を持つようになりました。
 今の世界の状況は非常に危険な所に来ていると思います。今一番大事な事は戦争を早くやめさせる事だと思います。平和学習の場では、それを出来るだけ強調していきたいと思っています。


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ビキニデーin高知

高知 米津優喜子

 昨年5月下旬、50数年ぶり、亡き父母の残した高知・黒潮町の家に転居しました。海抜5メートルあまり、太平洋に面した「南海トラフ」の町です。地図で見ると、海原の水平線のはるか向こうにはビキニ環礁、マーシャル諸島があります。
 かつて東京の被爆者の会に勤めていた時の知友より、5月11~12日の「ビキニデー?高知2024~核被災フォーラム」に誘われました。
 70年前の3月1日、ビキニ環礁で行なったアメリカの水爆実験。第五福竜丸その他船員たちの被ばく。私の記憶に強く残っているのは、ガイガー計測器とか、マグロを放棄する記事の載った新聞、「雨にぬれたらいかんぞね」と言われたこと…。この町には漁師の人たちもいて、中には遠洋漁業の仕事に就いた人たちもいたのではなかったか。
 分科会は3つで、私は第1分科会「核被災と救済を求めるたたかい」に参加。第五福竜丸のことは知っていたけれど、その他のマグロ漁船などが被ばくしながら、被ばくした漁船員には未だ何の補償もないこと、現在ビキニ被ばく船員訴訟が高知地裁、東京地裁で行なわれていることを知りました。
 ビキニ被ばく船員の遺族で訴訟原告団長の下本節子さんが3月1日、マーシャルの首都マジュロで開かれた「核被害者追悼デー」に行かれたことを報告。マーシャルが核兵器禁止条約に参加していないので、大統領や閣僚に「参加を」と呼びかけた、と。聞いていて強く印象に残りました。
 今、核兵器を保有する大国は、核兵器禁止条約に入っていない。先の戦争で唯一の被爆国である日本の被爆者と共に歩んできた者、私たちは、核兵器禁止条約に参加することを、強く求めます。