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「被団協」新聞2024年5月号(544号)

2024年5月号 主な内容
1面 署名累計114万1282人分提出 日本被団協
核兵器をなくす日本キャンペーン発足記念シンポジウム開催 日本被団協も参加
資料を分散して保管 場所の確保にご協力を
2面 座標 世界に誇れる日本国憲法 岸田首相は憲法を遵守せよ
「平和の重さを認識」 アメリカンスクールで講演と交流
映画「オッペンハイマー」をみて
訃報 永島三歳さん
非核水夫の海上通信(237)
3面 95歳被爆者も参加 ピースアクション in TOKYO
若者も、外国人も被爆者の訴えに署名 広島被爆者7団体
スタンディング 震災支援・原発再稼働は× 日野
医療・介護について学ぶ しらさぎ会
被爆者運動に学ぶ ― ブックレット「被爆者からあなたに」を読んで
 若い世代も関心を

「原爆被害者の基本要求」策定40年 連載(2)
4面 相談のまど
 保健手当受給の被爆者は、健康管理手当に切り替えを

日本被団協のパンフレット

 

署名累計114万1282人分提出
日本被団協

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(左から)濵中さん、児玉さん、齋藤事務官、家島さん、濱住さん

 日本被団協は4月12日、「日本政府に核兵器禁止条約への署名、批准を求める署名」累計114万1282人の目録と署名の一部を、外務省の担当者に提出しました。

 署名提出は今回で4回目。署名の宛先は内閣総理大臣ですが、担当部署として外務省への提出を指定されています。日本被団協から児玉三智子事務局次長、濱住治郎事務局次長、濵中紀子事務局次長と家島昌志代表理事が参加。外務省軍備管理軍縮課の齋藤翼首席事務官が受け取りました。
 提出後の懇談で齋藤翼首席事務官は、「来年は戦後80年。その間核兵器が使われなかったのはあたり前のことではない。世界中の人が核兵器は使ってはいけないという認識を持てたのは、みなさまの被爆の実相を伝える取り組みがあったため。日本政府としても世界の若者を広島、長崎に招くなど、世界に発信していきたい」などと述べました。核兵器禁止条約については、「核兵器国をいかに巻き込んでいくか、取り組みを進めていきたい。FMCT(兵器用核分裂性物質生産禁止条約)制定に向けた交渉に入るための取り組みについても日々模索している」などと述べました。
 濱住事務局次長は「核兵器禁止条約を日本政府は出口というが、私たちは入り口と考える。核のない世界への取り組みは今すぐ始めてほしい。核抑止でなく核のない世界を目指す動きが始まっている。日本は取り残されていくのではないか。条約への関わりを持ち、ぜひ日本がリードしてほしい」と要請しました。


核兵器をなくす日本キャンペーン発足記念シンポジウム開催
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日本被団協も参加

 核兵器をなくす日本キャンペーン(以下、日本キャンペーン)発足記念シンポジウムを4月20日、明治学院大学白金キャンパスで開催。会場に約140人、オンラインで約70人が参加しました。
 日本キャンペーンは、日本被団協も参加している核兵器廃絶日本NGO連絡会を母体とし、日本の核兵器禁止条約参加を目指すキャンペーンで、4月に一般社団法人として発足しました。

代表に田中熙巳さん

 シンポジウムではまず日本被団協代表委員で日本キャンペーン代表理事の田中煕巳さんがビデオメッセージで、「日本が早く核兵器禁止条約に批准をして、核兵器をなくすための先頭に立ってほしい」と語りました。

講演とトーク

 前半の基調講演は、ジャーナリストの安田菜津紀さん。ウクライナやガザでの取材の経験や、そこでの核の脅しといった国際情勢に触れながら、「私が当事者としてできることは何か--皆さんと一緒に考え続けていきたい」と語りました。
 後半は、哲学者の永井玲衣さんが進行役を務め、日本キャンペーン理事の渡部朋子さん、広島コーディネーターの田中美穂さん、長崎コーディネーターの林田光弘さん、事務局スタッフの浅野英男の5人で「日本キャンペーンのこれから」をテーマに語り合いました(写真)。シンポジウムの様子はユーチューブで配信中。核兵器廃絶日本NGO連絡会のホームページからご覧ください。
 日本キャンペーンがスタートできたのは、昨年のクラウドファンディングをはじめ多くの方々のご支援のおかげです。誠にありがとうございました。これからも応援よろしくお願いします。
(浅野英男)


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積み上げられたもんじょ箱ほか資料(浦和)

資料を分散して保管
場所の確保にご協力を

ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会

 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は、都市再開発によるビル取り壊しのため、3月31日、港区愛宕の事務所を引き払いました。
 日本被団協事務所に歩いて15分ほどのここでは2013年8月から10年余にわたり、被団協が残してきた膨大な運動史料の活用をめざす整理作業をしてきました。
 昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科の松田忍教授(当初は専任講師)の指導のもと、作業に携わった学生は、学部や大学の枠を超えた125人。春夏の休みを中心に実施された史料整理会は118回。整理された史料は7千6百点、中性紙のもんじょ箱で210箱にも及んでいます。
 この作業から、18年に継承する会も協力団体となって「戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト-被団協文書-」が発足。史料を読み込みながら被爆者運動についての歴史的研究が重ねられてきました。毎年の学園祭(秋桜祭)での展示に加え、21年には特別展「被爆者の足跡」を開催し、大きな反響が寄せられました。会主催の企画や学内外での研究発表、巡回展も積極的に行なわれています。
 今回の引越しでは、愛宕事務所にあった120箱のうち半分弱を中野の東京都生協連事務所で一時保管していただき、残りはコーププラザ浦和に借用している資料庫に搬入しました(写真)。
 この2カ所はどちらも史料整理や閲覧時には会議室を借りることになります。このほか倉庫業者に保管を委託している史料も多数あります。

情報提供を

 史料の整理や利活用の拠点ともなる本格的な継承センターの場の確保が何より急がれています。情報提供などみなさまのいっそうのご支援をお願いします。
電話/FAX=03-5216-7757
Eメール=info-kiokuisan@nomore-hibakusha.org
(継承する会事務局)


座標
世界に誇れる日本国憲法
岸田首相は憲法を遵守せよ

 岸田首相は4月の訪米で「米国は独りではない、日本は米国と共にある」と日米の一体感を述べ、「防衛費の国内総生産(GDP)比2%への大幅増額や敵基地攻撃能力保有をアピール。「日本はかって米国の地域パートナーだったが、今やグロバルなパートナーとなった」と強調しました。
 この発言は平和憲法を持つ国の首相発言として許されるものではありません。
 近代的な憲法は国王などの権力者から国民の権利を守るものとして、1668年のイギリス名誉革命、1775年に始まるアメリカの独立戦争、1789年のフランス革命などの革命を経て生まれました。
 一方、1889年に制定された大日本帝国憲法は、国民を臣民(天皇の臣下)とする特異な憲法でした。臣民は教育勅語で「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」、つまり「重大事態があれば天皇のために命を投げ出せ」と定められていました。この天皇制のもと戦争が繰り返され朝鮮半島、中国、アジア諸国と日本の多くの命が奪われました。
 1947年5月3日に施行された日本国憲法は、戦争への深い反省を込め、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三つを基本原理とした、世界に誇れる憲法です。
 岸田首相の発言は、憲法で公務員に求められている「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」(第99条)に反し、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文)にも反しています。
 岸田首相に、憲法違反の行為をやめ、憲法を遵守し日本国の首相としての責任を果たすことを求めます。


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©The American School in Japan
「平和の重さを認識」
アメリカンスクールで講演と交流

 東京・調布市にあるアメリカン・スクールイン・ジャパン(ASIJ)の7年生(13歳)138人と高校生40人に4月2日、日本被団協事務局次長の濱住治郎さんと和田征子さんが広島と長崎の被爆体験を語りました。
 ASIJは、50カ国以上、1700人余の小・中・高校生が在籍。120年の歴史を持ち、多くの文化の架け橋となっている学校です。第二次世界大戦の出来事が、人文科学カリキュラムの中核に置かれ、戦争の歴史、被爆者の体験と平和へのメッセージ、3日間の広島への旅がカリキュラムとして組まれています。
 講演のあと、2つのグループに分かれ昼食をとりながら質問や懇談が行なわれました。体験を聞いた生徒さんは、「平和の重さを改めて認識し、二度とこのような悲劇を繰り返さないよう、自分にできることはなんだろうと考えされられた」「焼き場の少年の話は涙が出そうだった」など感想を話しました。7年生は4月10日から3日間、広島平和記念資料館など体験の旅に出かけました。


映画「オッペンハイマー」をみて

地球の破壊を警告
  田中 煕巳


 始まりから大きな音…これは全編を通じて体に響き、圧倒されました。時系列がバラバラに、モノクロとカラーの映像が交互に出てくるので少し混乱しましたが、見終わってしばらくして、原作にはない物語の展開を観客に迫り、画面に観客を引き付ける監督の計らいを強く感じました。
 私自身が大学で物理学を専攻していたこともあり、またこの映画の原作となった、カイ・バード著のピュリッツァー賞受賞伝記『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』を部分的に読んでいたこともあって、登場する著名な科学者の描き方に関心が向いてしまうことがありました。
 原爆開発に関する動機や過程、アメリカのマッカーシズム(赤狩り)の嵐など時代背景を知らない人は、この映画をみてもわかりにくいのではないか、と思いました。
 映画では、研究施設や実験用の爆弾の組み立ての様子も描かれており、「ああ、こうやって作られたのか」とリアリティーを感じました。ロスアラモスの研究所から原子爆弾が運び出されるシーンもあり、「このうちの一つが私たちの上に落とされたのだ」との思いも湧きました。
 プルトニウム爆弾の実験成功の場面は、科学者の喜びは理解できます。優秀な科学者でヨーロッパからアメリカに亡命していたユダヤ人研究者たちは、ナチスドイツが先に原爆をもつことを恐れて、心ならずも原爆の開発研究をすすめたことはよく知られているとおりですし。
 しかし、原爆が完成したときは、すでにナチスドイツが降伏し、原爆を落とす先を失っていました。映画に、ドイツには使えないが「日本がある」との言葉が出てきます。科学者たちの、原爆の使用に反対する署名活動も描かれています。
 日本への投下を決めたのは政治家で、開発・完成させた科学者の意思は無視されることがよくわかります。
 原爆投下後の広島・長崎も、アメリカ国内の原爆製造・実験による被害者のことも、直接的には描かれていませんが、この映画の中にそれを入れ込むのは無理があるのでは、と思いました。この映画を観た人には、広島・長崎への原爆投下や核実験に目を向け、学んでもらいたいと思います。
 この映画は、監督クリストファー・ノーランの強いメッセージだと思います。監督が言いたかったのは、「核兵器、核戦争による人類の破滅はありうる」ということでしょう。この映画には、政治家と科学者がからんで原爆をつくっていく過程と、どうやって核兵器が使われるに至ったか、が描かれています。監督は「こういうことがこれから起こりうる」と言っているのではないでしょうか。この過程と同じような状況が今もあって、その帰結として地球の破壊がありうるのだ、と警告を発しているのではないでしょうか。(談)


核廃絶への道を期待
  箕牧 智之


 原爆開発を指揮した人物を描いた映画「オッペンハイマー」。試写会の案内をいただき3月7日に鑑賞しました。
 最初の方がなかなか理解できませんでしたが、ソ連の動き、ドイツの動きなども見すえて80年~90年前のアメリカが戦争への絶対的武器としての原爆を開発していたことがわかりました。
 日本は米国の戦力も知らずに1941年12月、パールハーバーを奇襲攻撃して戦争が始まったのだと思いました。勝てない戦争、旧日本軍は何を考えて米国と戦闘状態に入ったのでしょうか。
 3時間の映画に広島に投下された原爆の様子がいつ映し出されるか待っていましたが最後までそれはありませんでした。
 しかし、オッペンハイマーはその様子を知ってこんなものを作るのではなかったと反省。ウラン、プルトニウムに続いて水素を使った爆弾の開発に反対し周囲からソ連寄りと誤解され、葛藤の人生で62歳の生涯を終えたということでしょうか。
 映画の中でオッペンハイマーが葛藤するシーンが沢山あり、その中で「明るい未来のために、世界の指導者たちは核兵器を過去の歴史にするよう、私たちは要求すべき」と訴えていました。
 この映画がアカデミー賞を7つも受賞したことで、核兵器の廃絶が映画界でも訴えられることになると、私たちにとっては大きな追い風になるでしょう。ハリウッドには核兵器廃絶の看板が掲げられたとテレビで見ました。この映画を機に核兵器廃絶への道が開かれることに期待し、大きな力になることを願っています。
 時あたかも米国から11人の巡礼団が広島に来られて、原爆投下についての謝罪の声明をいただき私たちに大きな追い風をいただきました。
 これらのことが世界の核保有国の政治家を動かすことを願っています。
 戦後、2000回を超える核実験が行なわれました。今や核の傘はボロボロに破れてそこから地球全体に放射能は降り注いでいると思われませんか。人間は知らず知らずの間に放射能を体内に取り込んでいます。日本とアメリカほか核保有国と核の傘の下にいると言われている国々が、一緒に核兵器禁止条約に署名批准したら世界は変わると思います。
 世界をより安全にするため、政治家、指導者たちには大きな責任があります。この映画は21世紀の人類の歩むべき姿として核軍縮、核不拡散に取り組む必要を訴えているのではないでしょうか。


訃報 永島三歳さん

 3月26日死去。82歳、広島被爆。大分県原爆被害者団体協議会で2015年から現在まで会長をつとめました。
 4歳のとき爆心から2キロで被爆し、左手と両足に熱傷を負いました。
 2012年ピースボートの「第5回ヒバクシャ地球一周証言の航海」に参加し、船内や寄港地など世界中で証言活動を行ないました。また日本被団協結成60周年事業の1つとして行なった「沖縄交流ツアー」(2016年12月)に参加し、沖縄の被爆者や沖縄戦被害者と交流しました。


95歳被爆者も参加
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ピースアクション in TOKYO

 4月15日、ピースアクションinTOKYO&ピースパレードが開かれ、104人が参加しました。これは被爆60年から19年間、東友会と東京都生協連、東京地婦連が共催しています。
 ピースアクションのメイン企画は、広島の被爆者・久保田朋子さんの証言。日本の中国侵略から真珠湾攻撃にいたる世相から、8歳の少女が広島2・5㌔地点で見た被害の実相、その後の家族の死の様相を、画像を使いながら、やさしい語り口で証言し、感動を呼びました。さらに、広島・長崎両市長のビデオメッセージ、日本生協連、地域生協、医療生協、大学生協、地婦連と東友会が1年間の平和活動の様子を映像で紹介しました。
 その後、参加者は、横断幕を掲げて表参道から渋谷駅までピースパレードを行ない、核兵器廃絶への思いを訴えました。
 参加した被爆者の最高齢は95歳。「集会だけでもと思い、タクシーで来ました。片道7000円かかったけど、ここに来ると元気が出るから」とにこやかに話していました。(村田未知子)


若者も、外国人も被爆者の訴えに署名
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署名活動 広島
広島被爆者7団体

 核兵器禁止条約の署名・批准を日本政府に求めて、広島被爆者7団体が3月22日、広島市の平和記念公園で署名活動をしました。
 広島県被団協の箕牧智之理事長(日本被団協代表委員)らが、被爆二世や支援者らの力を借りながら横断幕を持ち、マイクで「あなたの一筆を」と呼びかけました。
 3月中旬、日本は国連安全保障理事会の議長国として核軍縮をテーマに会議を招集したが核保有国と非核国の議論を促す役割を果たせず、肝心な条約には一言も触れませんでした。
 条約を批准した国・地域は70に達したが「日本はいったい、何番目に参加するのか」と被爆者にたずね、不満をぶつける若者も。署名する外国人グループもあり、被爆国への期待の一面をのぞかせました。参加者は「今こそ、日本国民の真価が問われている」などと、繰り返し訴えました。
(田中聰司)


スタンディング
震災支援・原発再稼働は×

ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 日野

 毎月22日に東京・日野市の高幡不動駅でスタンディングを行なっています。3月は、「復興支援、東日本大震災~能登半島地震支援」そして「原発再稼働は×」をテーマにしました。
 これに先立つ3月20日に、多摩市で第43回せいせき桜まつりプレ企画として、東日本大震災・能登半島地震復興支援トークセッション&コンサートが行なわれ、浪江中学校生徒作詞の歌「未来の光へ」が、多摩第一小6年生と多摩中の有志による「福島しあわせ運べるように合唱団」の大合唱で披露されました。
 22日のスタンディングでは合唱曲を紹介して携帯から流しつつ、原発再稼働はやめよう、福島の復興は終わっていない、日本政府は核兵器禁止条約に批准を、とアピールしました。
(井上葉末)


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医療・介護について学ぶ

しらさぎ会講習会

 埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)は4月21日、さいたま市でしらさぎ会相談所の講習会を開催しました。被爆者、二世、賛助会員など20人が参加しました。
 午前の部は、中央相談所の原玲子さんが「平均年齢85歳を超えた被爆者の援護・医療と介護問題について」のテーマで講演。「憲法25条に掲げられている健康で文化的な生活が保障されているのか」の問いかけから始まり、40年間納めた国民年金の受給月額が6万8千円と低いこと、厚生老齢基礎年金の平均受給額は男性16万3380円、女性10万4686円と男女で大きな格差があること。医療の現場では入院期間が短くなり在宅への誘導が進んでいること。介護では、要介護認定の介護度が低く出る傾向になっていること。在宅の被爆者の介護には、被爆者施策による「介護手当」「家族介護手当」の制度があり、配布した被爆者相談事業講習会教材に従って詳しく説明し「積極的に利用してください」と締めくくりました。
 午後の部は質疑応答で、4月の介護保険制度の変更、自治体による介護費用の助成、原爆症認定申請、特別養護老人ホーム費用負担の増加、生活保護、東京都の二世援護施策、などが話題になりました。(佐伯博行)


被爆者運動に学ぶ ― ブックレット「被爆者からあなたに」を読んで
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若い世代も関心を
渡邉 静枝 原爆胎内被爆者全国連絡会

 原爆被害者たちが自らの体験に基づいて、自分たちのような原爆被害者を新たに作ってはいけないと願い、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を1956年に結成して、65年目の2021年1月22日核兵器禁止条約が発効しました。
 この功績は被爆者の痛み、憎しみ、怒り、絶望感すべて超越した行動の結果だと思います。この先人達の貴重なエネルギーを引きついで、次世代にバトンを渡す役目もまた、新たな課題に直面している今日です。
 原爆犠牲者を国が「受忍せよ」という考えが根底に置かれていたためか、政府の援護に関する法律制定までに随分時間がかかりました。そして政府は今なお、核による被害者を出さないようにとの核兵器禁止条約に前向きにはならないで、アメリカの核の傘をすっぽりかぶっている状態です。アメリカ合衆国への忖度が続く限り、国民は将来にわたって「受忍」という文言が死語にならないでしょう。
 現実、戦争状態になっているイスラエル、ロシアは核を保有しているから、核の脅しともとれる発言で、世界中震撼とした時期がありました。だから日本政府は、国民の安全保障のため核の傘に頼っていると豪語しているのでしょう。
 しかし、核の被害は今では地球の存続にまで拡大しています。広島、長崎の原爆被害者たちの次元では済まされません。国連の力も今では限界にきています。若い世代が核の問題を他人ごとの様に無関心とならないように、日々の教育から広げてほしいものです。
 最後に私は1945年9月に誕生した胎内被爆者の一人です。


「原爆被害者の基本要求」策定40年

連載(2)

 連載の第2回からは、1984年の日本被団協全国代表者会議で報告された、「基本要求」作成の経過と内容を分割して掲載します。実際の報告では最初に討論の経過が詳しく述べられていますが、本連載では順番を変えて今回は「基本要求」の趣旨と性格、次回から内容の解説に入ります。

*    *    *

「原爆被害者の基本要求」についての報告 ――作成の経過と内容――
 (報告者=「要求骨子」検討委員会副委員長 吉田一人)


◆「基本要求」の趣旨
 「基本要求」をつくる、という話がそもそも出てきたのは、1980年に原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)が「意見」を出して、戦争犠牲は、原爆被害も含めてすべて「受忍」すべきものである、という考え方を打ち出し、政府はこれに基づいていまだに被爆者援護法をつくらないという、この「意見」に対して、私たちが掲げてきている「要求骨子」をさらに発展させる必要があるのではないか、そして、被爆者援護法とは何なのか、国家補償の被爆者援護法というが「国家補償」とは何なのか、その点をもっと分かりやすく、簡潔に、しぼりあげておく必要があるのではないか、という議論が基本懇以後、出てきました。それが出発点でした。具体的には、昨年の被団協総会で「要求骨子検討委員会」が設けられ、1年半にわたって検討し、議論してきたわけです。この議論の中で、「ふたたび被爆者をつくらない」ための援護法だというからには、もっと被爆者の要求全体を、みんなに分かるように提起する必要があるのではないか、という議論になってきて、来年の被爆40周年に向けて、被爆者がいま何を考えているのか、何を求めているのか、それを根本から提起し直してみようということで、「基本要求」という形でまとめあげようというふうになっていったのでした。これが、「核戦争起こすな、核兵器なくせ」という第一の項目の要求と「原爆被害者援護法の即時制定」という第二項目の要求、この二大要求にまとめあげられてきたのです。

◆「基本要求」の性格、構成
 では、これまで出てきた意見にも触れながら、説明します。
 まず、「基本要求」というのはいったい、だれに読ませるものなのか、どういう性格のものなのか、という点です。これは「基本要求」という題なのですから、基本的には要求書といっていいと思います。被爆者はこういうことを要求している、それを二つの根本になるものを明らかにする文書です。それと同時に、「基本要求」という文書自体を広く国民の中に広げ、被爆者がいま何を願い、何をもとめているのかということを分かっていただく文章として使う、そういうものだと考えています。そういう説明をしたら、ある県の役員の方に「つまり、これは多目的文書ですね」といわれましたが、なるほどそういうことなのかと思いました。
 「基本要求」の構成はご覧いただけば分かりますように、前文と本文、本文が「核戦争起こすな、核兵器なくせ」と「原爆被害者援護法をいますぐに」の二つの章という簡潔な組み立てになっています。


相談のまど
保健手当受給の被爆者は、健康管理手当に切り替えを

 【問】私は年金生活をしていますが年金額が少なく、これまでアルバイトをしながら何とか生活してきました。しかし、膝や腰の痛みが強くなり歩くことは何とかできますが、重い物を持ったり中腰の姿勢を取ることは医者から止められ、アルバイトもやめてしまいました。この物価の値上がりの中ではどう工夫しても生活が苦しくなるばかりです。もともと元気だったものですから、被爆者の手当は保健手当(一般)を受けています。友人に「足腰の具合が悪いのなら健康管理手当が受けられるのではないか」と言われました。保健手当を受けていても健康管理手当は受けられるものでしょうか。

*  *  *

 【答】最近の異常な物価高騰は生活を脅かしてきています。年金を受給しながらアルバイトしなければ厳しいとのこと、本当に大変でしたね。
 保健手当と健康管理手当の併給は無理ですが、切り替えはできます。
 保健手当(月額1万8500円)は、2キロ以内で直接被爆していれば病気がなくても受給できますが、健康管理手当(月額3万6900円)は対象となる11の障害が決められています。①造血機能障害、②肝臓機能障害、③細胞増殖性機能障害、④内分泌線機能障害、⑤脳血管障害後遺症、⑥循環器機能障害、⑦腎臓機能障害、⑧呼吸器機能障害、⑨運動器機能障害、⑩潰瘍による消化器機能障害、⑪水晶体混濁による視機能障害です。
 このうち⑩⑪と①~⑨の一部の疾病は、3年あるいは5年で更新が必要ですが、それ以外は更新不要でずっと受給することができます。
 あなたは膝や腰の痛みがひどいとのことなので変形性膝関節症、変形性腰椎症などの運動器機能障害で健康管理手当を受けられると思います。お住まい地域の保健所で健康管理手当の申請書類をもらい、主治医に診断書を作成してもらってください。健康管理手当に切り替えると、手当はほぼ倍額になります。
 保健手当(一般)を受けている被爆者は、2023年度末に全国で2417人いました。平均年齢85歳を超えた今、健康管理手当に該当する11障害のいずれかで治療を受けていると思われます。ほぼ倍額といってもわずかの額かもしれませんが、当然受けられる手当です。切り替えをぜひ。


日本被団協のパンフレット

『原爆被害者の基本要求-ふたたび被爆者をつくらないためにー』
 1980年に原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)が出した、戦争被害受忍論をのりこえるため、日本被団協は全国的討議を経て84年に「原爆被害者の基本要求」をつくりました。被団協運動の基本的文献です。
 「基本要求」本文のほか、84年の全国代表者会議で報告された「作成の経過と内容」、資料として「基本懇意見」とそれに対する日本被団協の「見解」、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(現行法)」前文、現同法案の国会審議における政府答弁抜粋、現行法制定にあたっての日本被団協の「声明」を収録。
 56ページ、200円。

『ふたたび被爆者をつくらない決意を世界に!-なぜ被爆者は現行法の改正を求めるのか』
 現行の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が、基本懇意見の受忍論に基づく法律であることを明らかにし、改めて国家補償を求める日本被団協の決意を示したパンフレット。後半では「被爆者はなぜ国の償いを求めるのですか」など疑問に答える形で解説しています。
 32ページ、200円。

『日本被団協60年の歩み』
 結成以来60年にわたる運動の歩みを、結成60周年記念式典で紹介したスライドをもとにカラーを含む写真を多用して制作。巻末に略年表も。
 60ページ、400円。

『証言活動のしおり<改訂版>』
 2003年発行の『証言活動のしおり』20年ぶりの改訂版。証言をしたときによく出される質問への対応例、証言活動の実例や証言のための参考文献、資料と用語集、などを収録。証言活動の参考資料として、また若い人の学習資料にも。
 92ページ、700円。